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6. 成 長


「私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい」(IIペテ3:18)

 この聖句の内容は、聖潔に関するこの本の中で、はぶくわけにいかない重要な問題である。これは、真のキリスト者ならみな非常に関心を覚えるはずの問題である。これを読む私たちは思わず自問させられる。「私たちは恵みにおいて成長しているだろうか?」「私たちの信仰生活は前進しているだろうか?」「私たちは進歩しているだろうか?」、と。

 もちろん、ただの形ばかりのキリスト者は、こんな問いはくだらないと思うであろう。それは仕方ないと思う。一種の日曜キリスト教しか信じていない人----つまり日曜日のよそゆきのように週に一度しか身につけず、平日は脱ぎ捨てるようなキリスト教しか信じていない人は、当然恵みにおける成長などにかかずらう義理はないであろう。そうした人は、このことについて何1つ知らない。それは彼には愚かなことなのである(Iコリ2:14)。しかし自分の魂について本当に真剣に考える人、霊的ないのちに飢え渇く人なら、誰一人として、この問いに心ゆさぶられない人はないはずである。私たちの信仰生活は進歩しているであろうか。成長しているであろうか。

 このように自問することは常に有益であるが、特にそれにふさわしい時がある。土曜の晩や、聖餐式のある聖日、毎年の誕生日、あるいは年末に、私たちは静まって思いをめぐらし、自分の生き方を反省すべきである。光陰矢のごとしという。人生の暮れいく足どりは早い。私たちの信仰の内実がためされる時が刻々と近づいている。そのとき、私たちが「岩」の上に建てていたか、「砂」の上に建てていたかが明らかにされるのである。ならば当然私たちは、時々は自分を吟味し、自分の魂の状態を考えてみるべきではないだろうか。自分は霊的な事柄において前進しているか。成長しているか、と。

 この問いは、最近特に重要な意味をもつようになった。現在はキリスト教教理のいくつかの点について、お粗末で異様な意見がやたらと流布しているが、その1つが、この恵みにおける成長という、真の聖潔にとって欠かせない点に関するものなのである。この教理を完全に否定する者もあれば、適当に云いつくろって骨抜きにする者もある。また、おびただしい数の人々はこれを誤解したあげく、結局は無視してしまう。こうした時代に、キリスト者の成長というこの問題全般をまっこうからとりあげるのは無駄ではないであろう。

 この問題について私は、これから3つの点を提示し、それを立証したいと思う。

1. 信仰生活が成長することは実際ありうるということ。恵みにおける成長は、現実の事実である。
2. 信仰生活の成長を示すしるし。恵みにおいて成長している人を見分けるためのしるしがある。
3. 信仰生活の成長のための手段。恵みにおいて成長したければ、いくつか手段を用いなくてはならない。

 私は、今だれがこの説教を読んでいるのか知らない。しかし私はためらうことなく云いたい。ぜひこの内容に最大限の注意を払っていただきたい。私を信じてほしい。この問題は単なる思弁や論争の種ではない。信仰生活にとって実際的な部分があるとすれば、これこそまさにそれである。これは聖化の全問題と密接にわかちがたく結びついている。真の聖徒のおもだった特徴は、彼らが成長する人々だということである。どんなキリスト者でも、真に誠実に聖く生きようとするなら、その霊的な健康と体力、霊的な幸福と慰めは、霊的成長というこの一点と密接に結びついているのである。

1.信仰生活の成長は現実の事実である

 私がまず第一に立証したい点は、恵みにおける成長は実際にありうるということである。

 いやしくもキリスト者と自称する者で、これを否定するような人々がいるということは、一見奇妙で、悲しいことのように思われる。しかし忘れてならないのは、人間は意志が堕落しているだけでなく理性もまた堕落しているということである。教理上の不一致は、単に用語の意味のくいちがいにすぎないことが多い。この場合もそうであってほしいと思う。恵みにおける成長という教理を述べ、主張するとき、私は1つのことを念頭においているのに、これを否定する私の兄弟は全く別のことを考えているのだと信じたいと思う。そこで私が何のことを云っているのか、ここではっきりさせておこう。

 私が恵みにおける成長というとき、私は決して、キリストにある信者の立場的な権利が成長しうるとは云っていない。信者の救いの確実さ、神による受け入れられ方の確かさが成長すると云っているのではない。私は決して、信者は成長するに従い、信じたばかりのときよりもはるかに義と認められるとか、より大きな罪の赦しを受けるとか、より多くの罪の赦しを受けるとか、より大きな神との平和を得るとか云っているのではない。信仰者の義認は完結した、つけ足すところのない完全なみわざである。このことを私は堅く主張する。この世で最も弱い聖徒ですら、(たとえそうとは知らず、そうとは感じられなくても)、地上最大の聖徒と同じように完全に義とされている。私は堅く主張する。私たちの選び、召し、キリストのうちにある立場には、何の程度の差もなく、何の増減もない。もし誰か「ライルの云う恵みにおける成長とは義認の成長にちがいない」などと夢想しているとしたら、とんでもない思いちがいであり、私の意図を全くとりちがえているのである。神の助けさえあれば、私は義認というこの輝かしい真理を守るため、火刑に処されることも辞さないつもりでいる。神の前における義認という一点では、いかなる信者もキリストにあって完全無欠である(コロ2:10)。信じて救われたそのときから、信者の義認には何もつけ加えるべきものはないし、何を取り去ることもできない。

 私が恵みにおける成長というとき、その意味は単に、聖霊が信者の心のうちに植えつけてくださるさまざまな徳の程度、大きさ、強さ、勢い、力が増し加わっていくということである。そうした徳は、どれをとってみても、成長、進歩、増加の余地があると私は主張する。悔い改め、信仰、希望、愛、へりくだり、熱心、勇気などは、小さいときもあれば大きいときもある。強いときもあれば弱いときもある。力にあふれているときもあれば、くずれおれそうなときもある。そして同じ一人の人にあってさえ、人生のさまざまな段階により非常に大きな違いがある。ある人が恵みにおいて成長しているというとき、私は単に次のようなことを云っているにすぎない。すなわち、その人の罪を察知する感覚がより深まり、その信仰がより強くなり、その希望がより輝かしいものとなり、その愛がより深く広くなり、その霊的な考え方がより明確なものとなったということである。その人は、自分を敬虔な方向に押し進める力を、心の中でより大きく感ずるようになる。その力を自分の生活の中でよりはっきりと表わすようになる。その人は力から力へ、信仰から信仰へ、恵みから恵みへと進んでいく。このような状態を何と云うかは、個人の好みにまかせたいが、私としては、そうした人を云い表わすのに最もふさわしい適切な云い方は、その人は恵みにおいて成長している、ということであろうと考える。

 私がこの、恵みにおける成長という教理の土台と考える主要な根拠の1つは、聖書の明白な云い回しである。聖書のことばが無意味なものでない限り、信者の成長は事実ありうることであり、信者は成長するように勧告されるべきである。聖パウロは何と述べているだろうか。「あなたがたの信仰は目に見えて成長し…ている」(IIテサ1:3)。「兄弟たち。あなたがたにお勧めします。どうか、さらにますますそうであってください」(Iテサ4:10)。「ただ、あなたがたの信仰が成長…することを望んでいます」(IIコリ10:15)。「主が…あなたがたの…愛を増させ…てくださいますように」(Iテサ3:12)。「あらゆる点において成長し、…キリストに達することができるためなのです」(エペ4:15)。「私は祈っています。あなたがたの愛が…いよいよ豊かになり…ますように」(ピリ1:9)。「勧告します。あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私たちから学んだように…ますますそのように歩んでください」(Iテサ4:1)。聖ペテロは何と云っているか。「純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長す…るためです」(Iペテ2:2)。こうした聖句を他の人々が何と考えるかは知らない。しかし私にとっては、今私が主張している教理を立証していると思われる。その他に説明のしようはないように見える。恵みにおける成長は聖書で教えられているのである。聖書の言葉という根拠については、このへんで切り上げておこう。

 しかし、私がこの恵みにおける成長という教理の土台と考えるもう1つの根拠は、事実と体験という根拠である。誠実に新約聖書を読むすべての人に私は問いたい。新約聖書に生涯がしるされた聖徒たちのうちには、真昼の光のように明らかに、恵みの大小の程度が見られないだろうか。同じ人であるにもかかわらず、信仰と知識があるときと他のときとで驚くほど違っているのを見てとれないだろうか。それは、ある人の幼年時代の力と成人してからの力が全く違っているのと同じほど違っていないだろうか。聖書は、その云い回しによってそのことをはっきりと認めていないだろうか。聖書には「弱い」信仰と「強い」信仰について語られている。「生まれたばかりの乳飲み子」のようなキリスト者、「小さい者たち」「子どもたち」「若い者たち」「父たち」といったキリスト者について語られている(Iペテ2:2; Iヨハ2:12-14)。何よりも私が問いたいのは、今日の信者たちを観察して、同じ結論に達さないかということである。真のキリスト者のうち、「自分の信仰と知識は、信じたばかりのころと今では苗木と大木ほどの違いがある」、と告白しないような者があろうか。現在のさまざまな徳は、本質としては同じだが、成長したのである。こうした事実になぜ驚く人々がいるのか私にはわからない。これらは、恵みにおける成長がまぎれもない事実であることを証明しているように私には思われる。

 読者をこれほど長々とこの主題のこの部分につきあわせていることを、私はほとんど恥ずかしいと感じている。実際もし誰か、「信じたばかりの人の信仰、希望、知識、聖潔は、老練な信仰者のそれと同じくらい強く、何1つつけ足すものはない」、と本気で云っている人がいるとしたら、これ以上議論を重ねても時間のむだであろう。確かに信じたばかりの人にも信仰、希望、知識、聖潔はあるが、それはまだまだ弱いものである。本質は同じでも、まだまだ力にあふれているというわけではない。御霊の植えつけた種に欠けはなくても、まだ豊かな実をみのらせているわけではない。ではどのようにしてそれが強くなっていくのかと問われるなら私は、それは生あるすべてのものと同じ過程をへる、----すなわち成長していく以外にない、と云いたい。これが、私の云う恵みにおける成長という意味である。*1

 そこで目を転じて、もっと実際的な観点からこの偉大な主題をながめてみよう。私がすべての人に知ってほしいのは、恵みにおける成長は、魂にとって無限に重要な意味をもっているということである。他の人が何と考えるかは知らないが、私は、私たちの恵みから最も益を受けるのは、「私たちは成長しているか」、という問いをどうみなすかにかかっていると信じる。

 a. まず知っていただきたいのは、恵みにおける成長は、その人が霊的に健康であり順調に歩んでいることを示す最良の証拠だということである。子供でも草花でも樹木でも、それが何の成長も示さないとしたらどこか悪いところがあるに決まっている。動物や植物のうちに健康な生命が息づいていることを示すのは、常に進歩と増進である。私たちの魂もそれとかわらない。順調に歩んでいる魂は成長するのである。*2

 b. さらに知っていただきたいのは、恵みにおける成長は、幸福な信仰生活を送る道の1つだということである。神はその深い知恵により、私たちの慰めと、私たちが聖潔に進むこととを結び合わせられた。神は恵み深くも、私たちがキリスト教において前進し、高きをめざすことが私たちの利益になるようにしてくださったのである。信者同士でも、信仰生活に実際どれだけの喜びを覚えているかは、人によって恐ろしいほど違う。しかし保証してもいいが、通常最も「信仰による喜びと平和」を感じ、最もはっきりとした御霊のあかしを心に感じているのは、成長している人である。

 c. さらに知っていただきたいのは、恵みにおける成長は、他の人々によい奉仕をするための1つの秘訣だということである。私たちが他の人々に良い影響を与えるかどうかは、私たちが相手からどのように見られているかに大きくかかっている。この世の子らは、耳ばかりでなく目でもキリスト教を判断する。いつも沈滞しているキリスト者、どこから見ても何の変化も感じられず、いつまでたっても同じ小さな欠点・弱さ・欠陥・罪につきまとわれているキリスト者は、めったに良い働きをなすことはない。人々の心を揺り動かし、この世を真剣に考え込ませるのは、絶えず進歩し、前進している信仰者である。人々は成長を見るとき、そこにいのちがあり、現実に力があると考えるのである。*3

 d. さらに知っていただきたいのは、恵みにおける成長は神を喜ばせるということである。私たちのようなものに神を喜ばせることができるなどというのは、疑いもなく信じがたいと思われるであろう。しかしそれは事実なのである。聖書は、神を喜ばせるような歩みについて語っている。「神の喜ばれる」いけにえがあると語っている(Iテサ4:1; ヘブ13:16)。農夫は、自分が精根こめて育ててきた作物が大きくなり、豊かに実を結ぶのを見たいと思う。それがいつまでたっても発育せず、小さいままであったら失望し悲しまざるをえないであろう。さて私たちの主ご自身は何と云われたであろうか。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」(ヨハ15:1、8)。主はご自分のすべての御民を喜ばれるが、中でも特に成長する者らを喜ばれるのである。

 e. 何よりも知っていただきたいのは、恵みにおける成長は、可能であるばかりか、信者の責任が問われるということである。罪のうちに死んでいる未信者に向かって「恵みにおいて成長しなさい」などと告げるのは確かにばかげている。しかし、いのちを与えられ、神に対して生きた者とされている信者に向かって成長せよと告げるのは、明白に聖書的な義務を果たせという要求以外のなにものでもない。彼のうちには新しい原理があり、その原理を消さないことは厳粛な義務である。成長をおこたれば彼は特権を失い、御霊を悲しませ、自分の魂の車輪の回転を鈍くすることになる。今私は問いたい。信者が成長しないとしたら、それは誰のせいか。神に非を帰しえないことは確実である。神はより多くの恵みを与えることを喜ばれる。神は「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる」(ヤコ4:6; 詩35:27)。疑いもなく、非は私たち自身にある。もし私たちが成長しないとしたら、とがめられるべきは私たち自身であり、他の何者でもない。

2.信仰生活における成長のしるし

 さきに立証しようと述べた第二の点は、恵みにおける成長にはいくつかのしるしがあるということである。

 恵みにおける成長が事実ありうるということ、またそれがきわめて重大なものであることは了解いただけたと思う。ここまでの所はよしとしよう。しかし、今こう問いたいという方がおられるであろう。ある人が恵みにおいて成長しているかどうかはどのようにして見分けることができるのか、と。その問いに答える前に、1つ述べておきたいことがある。それは、私たちが自分自身の状態を正しく判定するのは、なかなか難しいということである。私たちよりも周囲の人々の方が、私たちのことをよく知っているということも少なくない。しかし、恵みにおいて成長している人にいくつかの大きなしるしと特徴が伴っていることは疑いえない事実である。そうしたしるしを持っている人こそ魂の成長しつつある人である。そこで今、そうしたしるしのいくつかを順々にあげていこうと思う。

 a. 恵みにおける成長の1つのしるしは、へりくだりが増し加わることである。魂が成長しつつある人は、自分自身の罪深さと無価値さを年ごとにますます感ずるようになる。そうした人は、自らヨブとともに「私はつまらない者です」、と述べ、アブラハムとともに「私はちりと灰にすぎません」、と述べ、ヤコブとともに「私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です」、と述べ、ダビデとともに「私は虫けらです」、と述べ、イザヤとともに「私はくちびるの汚れた者」、と述べ、ペテロとともに「主よ。…私は罪深い人間です」、と云う(ヨブ40:4; 創18:27; 32:10; 詩22:6; イザ6:5; ルカ5:8)。その人は、神に近づけば近づくほど、神の聖さと気高さを認め、自分自身の無数の汚れをいたく感じるようになる。天国への旅を先へ進めば進むほど、彼は聖パウロが「私は…すでに完全にされているのでもありません」。「使徒と呼ばれる価値のない者です」。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私」、「私はその罪人のかしらです」、と語った思いを理解できるようになっていく(ピリ3:12; Iコリ15:9; エペ3:8; Iテモ1:15)。栄光へ向かって成熟すればするほど、実りきった小麦の穂のように、首をたれるようになる。より明るくより明確な光を得れば得るほど、自分自身の欠点と弱さが目につくようになる。信じたばかりのころには気づきもしなかったものが今は見えるようになった、と彼は云うであろう。自分が恵みにおいて成長しているかどうか知りたいと思う人は、自らのうちをさぐって、へりくだりの心が増し加わっているか確かめることである。*4

 b. 恵みにおける成長の別のしるしは、私たちの主イエス・キリストに対する信仰と愛が増し加わることである。魂が成長しつつある人は、年ごとにいやまさる安息をキリストのうちに見いだし、自分にこのような救い主をおられることをますます喜ぶようになる。確かに信じたばかりのときも、キリストは彼にとって大きな意味をもっていたに違いない。彼はキリストの贖いを信じ、希望を与えられた。しかし恵みにおいて成長するにつれて彼は、初めは夢にも思わなかったような幾千もの恵みをキリストのうちに見いだすようになっていく。キリストの愛と力、その御心と御目的、私たちの身代わり・とりなし手・祭司・弁護者・癒し主・羊飼い・友としてのキリストの職務が、魂の成長しつつある人の前に、云いようのない仕方で、しだいに明らかにされていく。つまり彼は、自分の魂の必要をキリストが完全に満たしてくださるということを、以前は半分もわかっていなかったことに気づくのである。自分が恵みにおいて成長しているかどうか知りたいと思う人は、自らのうちをさぐって、キリストに関する知識が増し加わっているか確かめることである。

 c. 恵みにおける成長の別のしるしは、生活における聖さが増し加わることである。魂が成長しつつある人は、年ごとに、より罪と世と悪魔に対抗する力を強めていく。彼は自分の気性、言葉、行動についてより注意深くなる。どんな人間関係においても自分の言動に気を配るようになる。ただキリストを救い主として信ずるだけではなく、すべてのことにおいてキリストのかたちに似た者となり、キリストを模範として従うよう努力していく。前に達成したことや、以前受けた恵みで満足しきってはしまわない。後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進んでいく。そのモットーは「より高く」、「上のものをめざし」、「より前へ」、「前進」である(ピリ3:13)。地上で求め、飢え渇き、切望するのは、自分の意志をより完全に神のみこころにかなったものにすることである。天においてキリストとともにいることの次に求めるのは、あらゆる罪と完全に決別することである。自分が恵みにおいて成長しているかどうか知りたいと思う人は、自らのうちをさぐって、聖さが増し加わっているか確かめることである。*5

 d. 恵みにおける成長の別のしるしは、霊的なことを好む心と霊的なものの考え方が増し加わることである。魂が成長しつつある人は、年ごとに霊的なことに対する興味が増していく。もちろん、この世における義務をおこたりはしない。人生においてなすべき義務は、家庭における務めでも社会的な義務でも、すべてを忠実に、勤勉に、良心的に果たす。しかし彼が愛してやまないのは、霊的な事柄である。この世のしきたりや、流行や、娯楽や、楽しみは、彼の心からどんどん離れていく。彼は、そうしたものをそれ自体罪深いものとして非難したり、そうしたものとかかわりあう人は地獄に行くなどと云ったりはしない。ただ単に、そうしたものに対する愛着がしだいに失われていき、日ましにちっぽけで、取るに足らなく思えてくるのを感じるだけである。彼にとっては、霊的な友人、霊的な仕事、霊的な会話の方が、日に日に重要に思えてくる。自分が恵みにおいて成長しているかどうか知りたいと思う人は、自らのうちをさぐって、霊的なことを好む心が増し加わっているか確かめることである。*6

 e. 恵みにおける成長の別のしるしは、が増し加わることである。魂が成長しつつある人は、年ごとに愛が増していく。どんな人をも愛するようになり、特に信仰の兄弟姉妹をますます愛するようになる。この愛は積極的にあらわされる。彼は以前にまして喜んで親切なことを行なうようになる。人のため骨惜しみせずに働き、どんな人にも優しくし、気前よく与え、同情深く、思慮深く、誰をも傷つけず、思いやり深くなっていく。この愛は消極的な形でもあらわされる。彼はますます人に対して柔和になり、忍耐深くなり、腹立たしいことがあっても不平を云わず、自分の権利を主張せず、他人と争うよりは静かに耐え忍ぶようになる。成長しつつある魂は、他の人々の行動をできるだけ善意で解釈するようにこころがけ、最後まですべてを信じ、すべてを期待する。もし他人のあらさがしや、欠点をあげつらうことが多くなり、批判がましくなっていくとしたら、それは信仰が後退し、恵みから落ちていきつつある最も確実なしるしである。自分が恵みにおいて成長しているかどうか知りたいと思う人は、自らのうちをさぐって、愛が増し加わっているか確かめることである。

 f. 恵みにおける成長のもう1つ別のしるしは、魂の救いのために努力する熱意と勤勉さが増し加わることである。魂が真に成長しつつある人は、年ごとに罪人の救いについての関心が深まっていく。国内伝道、海外伝道、あらゆる種類の宣教活動、そして真理の光を輝かせ、暗闇の力を弱めるための試みなら何にでも、年ごとに深い注意を払うようになる。彼は、自分の努力が実を結ばないからといって「善を行なうのに飽い」たりしない。年をかさねるに従って過大な期待はつつしむようになるだろうが、それでもキリスト教の働きが地上で進展していくことについて無関心になったりしない。結果はどうあれ、彼はただ働きつづける。与えられた立場に従って、財をささげ、祈り、説教し、語り、訪問する。そうした働きをすること自体を報いとみなすのである。もしも他の人々の魂とキリストの御国の発展について次第に無関心になっていくことに気づいたら、それは霊的なおとろえを示す最も確実なしるしの1つである。自分が恵みにおいて成長しているかどうか知りたいと思う人は、自らのうちをさぐって、魂の救いに対する関心が増し加わっているか確かめることである。

 こうしたことが、恵みにおける成長を示す最も信頼のおけるしるしである。これらを注意深く吟味してみようではないか。自分が本当によくわかっているのか考えてみようではないか。もちろんこういう意見が、今日キリスト者であると告白する一部の人々の気に入らないであろうことは容易に想像がつく。キリスト教といえば、たえざる喜びと陶酔の状態しかないと考え、自分はすでに魂の争闘や屈辱の段階を越えたところに到達したと浮き立つような口調で公言する例の宗教家たちは、疑いもなく私がここに述べたようなしるしを「律法的」であるとか「肉的」であるとか「奴隷的精神を生み出すもの」であるとみなすであろう。だがそれは仕方のないことである。こうした事柄において、私はどのような人間も師と呼ぶつもりはない。私が願うのはただ1つ、ここに述べたことを聖書のはかりで判断してもらうことである。私の述べたことは、単に聖書的であるばかりか、あらゆる時代の最も傑出した聖徒たちの経験とも一致しているはずである。ここにあげた六つのしるしを備えた人を見せていただきたい。その人こそ、「私たちは成長しているか」、との問いに満足な答えを出せる人である。

3.信仰生活を成長させる手段

 第三に、そして最後に考えたいと述べておいたのは、恵みにおいて成長したいと願う人が用いなくてはならない手段についてである。次の聖ヤコブの言葉は決して忘れてはならない。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです」(ヤコ1:17)。この言葉はあらゆることにあてはまるが、恵みにおける成長についてもあてはまる。恵みにおける成長は「神の賜物」である。しかし神は手段によって働くことをよしとされる、ということも常に覚えておくべきである。神は目的を定めると同様に、手段もお定めになった。恵みにおいて成長したければ、成長するための手段を用いなくてはならない。*7

 残念だが、この点を見落としている信者が余りにも多いと思う。多くの人は、他人が恵みにおいて成長している姿は素晴らしいと思い、自分もそのようになれたらいいのにと思う。しかしどうも彼らは、そういう人たちが何か特別な賜物とか恩恵を神から授かったがために、そのように成長しているのではないかと考えているようで、そうした賜物を与えられていない自分は、指をくわえて見ているだけで満足しなければならないのだ、とでも考えているようなのである。これは途方もない間違いである。こうした妄想に対して、私は力の限り反証をあげていこうと思う。今はっきりと理解してほしいのは、恵みにおける成長は、そのための手段をどう用いるかということと密接に関係しており、その手段はどんな信者の手の届くところにもあるのだということ、また一般的に云って、成長している信者の成長の秘訣は、そうした手段を用いたためだということである。

 これから私は、成長のための手段について順々に述べていこうと思う。どうか細心の注意を払っていただきたい。成長してもしなくても信者に責任はない、などという考えは未来永劫に葬り去っていただきたい。信者は、御霊によって生きた者とされており、ただの死んだ被造物ではない。大きな力と責任をもった存在なのだということを肝に銘じてほしい。「勤勉な者の心は満たされる」、とのソロモンの言葉を胸に刻みつけようではないか(箴13:4)。

 a. 成長するために欠かせない1つのことは、個人的な恵みの手段を勤勉に用いることである。個人的な恵みの手段とは、自分ひとりしか用いることができず、誰もその人のかわりに用いることのできないもののことである。ここには、個人的に祈ること、個人的に聖書を読むこと、そして個人的に瞑想し自己吟味することがふくまれる。これら3つのことに励まない者に、決して成長は期待できない。こうしたことこそ真のキリスト教の根本である。ここがまともでないと、あらゆる面がひずんでくる。これこそ、信仰を告白する多くのキリスト者が決して進歩しないように見える究極の原因である。彼らは、個人的な祈りをなまけ、おこたっている。聖書もほんの少しを、上の空で読むだけである。自分の魂の状態を探り、静まって考えてみることも全くしない。

 云うまでもなく私たちの生きている時代には独特の危険がある。現代は積極的な活動がもてはやされる時代である。信仰生活においても、外的な活動に忙しく駆けずり回る生き方が流行している。疑いもなく、「多くの者は知識を増そうと探り回」っている(ダニ12:4)。「燃やされる」ような聖会や説教と聞けば、何万もの人々が即座に飛びつく。見たところ、時間をさいて「自分の心に語り、静ま」るという絶対的な必要を忘れずにいる人はほとんどいないようである(詩4:4)。しかし、こうしたことなしに霊的な深みへと達することはまず不可能である。200年前の英国のキリスト者たちは、現代のキリスト者よりもずっと多く聖書を読んでいたと思う。ずっと多くの時間を神とともにすごすため費やしていたと思う。だからこの点を忘れないようにしよう。もし魂の成長を願うのであれば、密室で行なう信仰生活にこそ、最優先で注意を払わなくてはならない。

 b. 成長するため欠かせないもう1つのことは、公の恵みの手段を大切に用いることである。公の恵みの手段とは、目に見える教会の一員として、だれでも用いることのできるもののことである。ここには、日曜礼拝に定期的に出席すること、祈祷と賛美のための集会に集って神の民と交わること、みことばの説教に耳を傾けること、主の晩餐にあずかることがふくまれる。私は、こうした公の恵みの手段をどのように用いているかで、信者の魂の状態は大きく決定されると堅く信じている。こうした手段をおざなりに、無感動な仕方で用いることはたやすい。あまりにも慣れ親しんでいるというだけで、私たちはこれらをぞんざいに扱ってしまうことが多い。同じ声、同じような言葉づかい、そして同じ式次第のもとに毎回通ってくるというだけで、私たちは眠気をもよおし、無感動で鈍重な心になってしまう。数え切れないほど多くのキリスト者が、この罠に陥っている。成長したいと思うなら、この点を警戒しなくてはならない。ここには、御霊をしばしば悲しませ、聖徒に非常な害を与えるものがひそんでいる。だから私たちは力をつくして、最初に信じた年と同じような新鮮さと熱意をもって、昔ながらの祈りを用い、昔ながらの賛美歌を歌い、昔ながらの聖体拝領台の前でひざまずき、昔ながらの真理の説教を聞くよう努力しようではないか。食欲がないのは不健康のしるしである。恵みの手段に食欲を感じられなくなったら、霊的に下降しているしるしである。公の手段としてなすべきことはみな、「自分の力で」行なおうではないか(伝9:10)。それが成長するための道である!

 c. 成長するために欠かせない別のことは、日常生活のどれほど小さなことにおいても、自分の行動を油断なく見張ることである。魂が順調に歩んでいくことを願うなら、自分の気分、ことば、義務の実行、時間の使い方など1つ1つのことについて用心深くしていなくてはならない。人生は一日一日の集まりであり、一日は一時間一時間の集まりである。それゆえ一時間の中に起こることは、どれほど小さくとも、キリスト者の注意と配慮に値しないものはない。木の根や髄が腐り出すとき、最初にその悪影響が現われるのは、ほんの小さな小枝の先端である。聖書の記者ではないが、ある著述家がこう述べている。「小さな事柄を軽蔑する者は、少しずつ徐々に堕落していくものだ」。この証言は正しい。たとえ他の人々から馬鹿にされようと、好きに云わせておくがいい。四角四面だとか神経質だとか云う者があっても、放っておくがいい。私たちは、たゆむことなく自分の道を守ろうではないか。「私たちの仕える神は、小事にも目を配られる方である」ことを忘れてはならない。私たちは、大きなことばかりでなく小さなことにおいても、私たちの主を手本とするべきであることを覚えておこう。自分が「日々自分の十字架を負」わなくてはならないことを忘れないでいよう。私たちは日々、刻々、罪ではなく十字架を負わなくてはならない。私たちのめざすキリスト教は、さながら樹液のように、私たちの性格の小枝や葉の一本一本、一枚一枚に流れ込み、すべてを浄化するものでなくてはならない。それが成長するための道の1つである!

 d. 恵みにおける成長に欠かせないもう1つのことは、日頃どんな人々とつきあうか、どんな人々を友人に選ぶかについて警戒することである。人格の形成にとって、身近な友人ほど強い影響力を持つものはないであろう。私たちは自分の周囲の、日常ことばを交わす人々の生き方や考え方に染まるものであり、不幸にして良い影響を受けるよりも害を受けることの方がはるかにたやすいのである。伝染性の病気はあっても、伝染性の健康というものはない。もしも信仰を告白するキリスト者が、この世に執着する、神の友でない人々と意図的に親密になることを選ぶなら、そのキリスト者の魂は確実に害悪を受ける。今のような世の中でキリストに仕えることは、ただでさえ困難である。いわんや軽薄で不敬虔な人々を友とするなら、その困難は倍加すると思わなくてはならない。間違った友情、間違った結婚こそ、あるキリスト者たちが完全に成長をとめてしまった最大の原因である。「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます」。「世を愛することは神に敵することである」(Iコリ15:33; ヤコ4:4)。私たちは、自分を奮起させてくれるような友人を求めようではないか。日々の祈り、日々の聖書日課、時間の使い方について、また自分の魂、自分の救い、来たるべき世について、私たちの心を奮い立たせてくれるような友人を求めようではないか。一人の友人のおりにかなった一言が、どれほど良い影響をもたらし、どれほどの害悪を未然に防ぐか、だれが知ろう。これも成長するための1つの道である。*8

 e. 恵みにおいて成長するため絶対に欠かせないことがもう1つだけある。それは、日々、常に主イエスと交わる習慣をつけることである。思い違いをしてほしくないが、ここでいう主イエスとの交わり(communion)とは、主の晩餐(communion)のことではない。聖餐とは何の関係もない。私が云いたいのは、信者とその救い主との間で日ごとにかわされる交流のことである。信仰と祈りと瞑想によってのみ行なわれる、主との交わりのことである。残念だが、これは信者の間でほとんど知られていない習慣ではないだろうか。たとえ信者であっても、また岩の上に土台を置いた人であっても、自分の特権からはるかに下落した状態で生きることがありうる。キリストと「結合」(union)している人であっても、キリストとの「霊の交わり」(communion)は全く、あるいはほとんど行なっていないことがありうる。しかし、それでもなお、そのような交わりは現実に存在するのである。

 聖書が述べているキリストの呼び名と職務は、私の見るところ、聖徒とその救い主との間に流れるこの交わりが単なる空想でなく現実の事実であることを疑う余地なく示している。花婿とその花嫁、かしらとその体の器官、医者とその患者、弁護人とその依頼人、羊飼いとその羊、師とその弟子といった関係には、云うまでもなく親密な交流が日々行なわれるという含みがある。そこには明らかに、必要なものを日ごとに乞い求めるような関係、日ごとに心を明かし、秘密を打ち明け合う習慣があることが暗示されている。キリストとこのようなやりとりを交わす習慣は、明らかに、キリストが罪人のためになされたみわざにただ漫然と信頼する以上のことである。それは、愛情深い個人的な友としてのキリストに、より近づいていくこと、確信をもってすがることである。これが私のいう交わりである。

 この交わりの習慣を全く体験していないという者は、決して恵みにおいて成長することはできない。そう私は信じる。私たちは、決して通り一遍の知識で満足していてはならない。キリストが神と人との間の仲保者であられること、義認が行ないにはよらず信仰によるものであること、人がただキリストにより頼むしかないこと、これらはみな正統信仰に基づく知識である。しかし私たちは知識以上のものを求めなくてはならない。主イエスと個人的に親密になること、愛する友と友情を深めるように主イエスとの友情を深めることを求めなくてはならない。私たちは、どのような欠けがあるときもまず主イエスをふりあおぎ、どのような困難も主イエスに語り、どのような歩みもも主イエスに相談し、どのような悲しみも主イエスに打ち明け、どのような喜びも主イエスと分かち合い、すべてのことを主イエスが見ておられるものとして行ない、いかなる日も主イエスを支えとし、頼りとして過ごすこと、こうしたことを身をもって知らなくてはならない。それが聖パウロの生き方であった。「いま私が、この世に生きているのは、…神の御子を信じる信仰によっているのです」。「私にとっては、生きることはキリスト…です」(ガラ2:20; ピリ1:21)。多くの人が雅歌の素晴らしさを理解できないのは、このような人生について無知であるためである。しかし私は声を大にして云いたい。このように生きる人、このように常にキリストとの交わりのうちに生きる人こそ、魂の成長する人であると。

 恵みにおける成長という主題については、ここで終わりにしたい。時間さえ許せば、さらに多くのことが云えるとは思うが、ひとまずは十分であろう。ぜひこの主題の非常な重大さを確信していただきたい。最後にいくつか実際的な適用を述べてしめくくろうと思う。

 1. 今この説教を読んでいるのは、恵みにおける成長など全く知らないという人かもしれない。宗教などほとんど、あるいは全く興味がない人かもしれない。そういう人にとってキリスト教とは、毎日曜ほんのちょっぴり教会に顔を出すことだけでしかない。そうした人には霊的いのちがなく、そのままでは成長できない。あなたはそうした人種のひとりだろうか? もしそうなら、あなたは哀れむべき状態にある。

 いつしか年月は失せ去り、時は飛ぶように過ぎていく。墓地は死者を飲み込み続け、しだいに家族は少なくなっていく。死と審判は私たち全員近づきつつある。にもかかわらずあなたは、魂のことについては眠りこけたように生きている! 何という狂気! 何という愚かさ! これほどひどい自殺の方法があろうか。

 遅すぎないうちに目覚めることである。目を覚まして死者の中から起き上がり、神に向かって生きることである。神の右の御座についておられる方を振り仰ぎ、自分の救い主・自分の友となっていただくがいい。キリストに立ち帰り、彼に向かって自分の魂について大声で叫ぶがいい。まだ望みはある! ラザロを墓の中から呼び出された方は変わっておられない。ナインのやもめの息子に棺台の上から立ち上がるよう命じられた方は、今も魂のため奇蹟を行なうことがおできになる。今すぐ彼を求めることである。キリストを求めることである。永遠に滅びたくなければ。また次の機会にしよう、そのうち真面目になろう、もっと精進してからにしよう、できればそうしたいが、などと突っ立っていてはならない。キリストを求めていのちを受け、受けたいのちによって成長することである。

 2. 今この説教を読んでいるのは、恵みにおける成長について少しは知っているはずなのに、それがどういうことか、今のところとんと見当がつかないという人かもしれない。そういう人は、初めて信じたとき以来ほとんど、あるいは全く進歩していない。そうした人々は、さながら「ぶどう酒のかすの上によどんで」いる人々のようである(ゼパ1:12)。来る年も来る年も、かつて受けた恵み、かつて味わった経験、かつて受けた知識、かつて燃やした信仰、かつて達した素晴らしい境地に満足しているだけで、使い古しの決まり文句で同じようなことしか云わない。あのギブオン人たちのように、彼らのパンは常にぼろぼろで、靴はつぎはぎだらけである。彼らは決して前進するように見えない。あなたは、そうした人種のひとりだろうか。もしそうなら、あなたは自分の特権と責任をはるかに下回ったところで生きている。もう自分を吟味してしかるべきときである。

 自分は真の信者であると思えるにもかかわらず、恵みにおいて成長していないという人は、何かが間違っており、どこかに重大な欠陥をかかえているのである。神は、あなたの魂が伸び悩むことを望んではいない。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」。神は「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる」(ヤコ4:6; 詩35:27)。魂が伸び悩んでいては、幸福になることも、用いられる者となることもできない。成長しなくては決して主にあって喜ぶことはできない(ピリ4:4)。成長しなくては決して人の魂を救いに導くことはできない。確かに成長しないということは深刻な問題である! そういう人は自分の心をしらみつぶしに調べるべきである。何か「隠されたこと」があるはずである(ヨブ15:11 <英欽定訳>)。何か原因があるに違いない。

 今から述べる忠告に従っていただきたい。今日この日、あなたは自分の行き詰まり状態の原因を見つけだすと決心することである。ためらわず、何1つ見落とすことなく、自分の魂のあらゆるひだを探るがいい。陣営の中をすみからすみまで探し回り、あなたの働きを弱めているアカンを見つけだすがいい。まず魂の名医である主イエス・キリストに向かって願いをささげることから始めていただきたい。主に向かって、私の内部の隠された疾患を(それが何であれ)癒してくださいと願うのである。これまでささげたことのないほど熱心な願いをささげ、右の手を切り落とし、右の目をえぐることも辞さない恵みを願い求めるがいい。魂の成長が見られない間は、決して決して満足してはならない。自分の平安のため、用いられる者となるため、あなたの創造主の大義のために、根本的な原因を見つけだす決意をするがいい。

 3. 今この説教を読んでいるのは、現在恵みにおいて成長しつつある人かもしれない。そういう人は、自分が恵みにおいて成長していることに気づかず、他人からそう云われても認めないであろう。成長していればこそ、彼らには自分の成長が見えないのである! 常にへりくだりに進んでいる彼らは、自分が前進していることに気づかない*9。神と親しく語らった後で山から下りたモーセのように、彼らの顔は輝いている。しかし彼らはモーセと同じくそれに気づかないのである(出34:29)。率直に云って、このようなキリスト者は非常に少ない。しかし、ごくまれにではあるが、そうしたキリスト者に出会うことがある。彼らは、御使いの訪れのように珍しい存在である。そのような成長しているキリスト者の近所に住む人々は幸いである! そのようなキリスト者と出会い、その姿を目にし、彼らと交わりを持つのは、「地上の天国」を味わい、目にするようなものである。

 さて、そのような人々には何と云おうか。何が云えるだろうか。何と云うべきだろうか。あなたは成長しているのだ、自覚して喜びなさい、と云おうか。いや、そのようなことは何もすまい。自分の成長ぶりを誇らしく思いなさい、他人とくらべていかにすぐれているか見なさい、と云おうか。とんでもないことである。そのようなことは断じてすまい。そのようなことを告げても何の益にもならない。第一、それは時間の無駄である。成長しつつある魂のきわだった特徴を1つあげるとすれば、それは自分自身の無価値さに対する深い自覚という点である。そうした魂は、自分のうちに称賛されるべきものを何1つ見ない。ただ自分が役に立たないしもべであり、罪人のかしらであると感ずるだけである。最後の審判の日の描写の中で、「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ…ましたか」、と云うのは正しい人たちである(マタ25:37)。両極端にあるものは、時として奇妙に一致する。良心の麻痺した罪人と、傑出した聖徒は、ある一点では不思議なほど似かよっている。双方とも、自分自身の状態を十分さとっていない。一方は自分の罪に気づかず、他方は自分の恵みに気づかないのである!

 では成長しているキリスト者には何も云うことがないのだろうか。彼らに勧めるべき助言は何もないのだろうか。私の云えるすべては次の2つの文章に集約されるであろう。「前進せよ!」「ますます励め!」

 私たちは決してへりくだりすぎるということはない。キリストを信仰しすぎるということはない。聖くなりすぎるとか、霊的になりすぎるとか、愛に進みすぎるとかも、善行に熱心すぎるようになるとかいうことはない。ならば私たちは、常に後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進もうではないか(ピリ3:13)。どれほど練られたキリスト者といえど、主イエスという最高の模範の前では無限に無価値な者にすぎない。この世が何と云おうと、私たちには「良くなりすぎる」危険はない。それだけは確かである。

 信仰も「度を越す」ことや「のめりこみすぎる」ことがありうる、とよく云われるが、そうした駄弁は聞き捨ててしまおう。これは悪魔のお気に入りの嘘であり、かれがやっきになって広めようとしている偽りである。疑いもなく、いつの時代にも熱狂主義者や狂信者はいて、その節度のなさや愚かさによってキリスト教の評判を落としてきたものである。しかしもし、道徳的な人がへりくだりにおいて、愛において、聖さにおいて、善行への熱心さにおいて、度を越しうるなどと云う者がいたとしたら、それは不信者か馬鹿にほかならない。快楽や金銭に仕えることにおいて、度を越すのはよくあることである。しかし真のキリスト教の根本にある様々な徳を追及すること、キリストに仕えることにおいて、やりすぎだの、度を越すだのいうことはありえない。

 また私たちは決して自分の信仰を他人の量りで量らないようにしよう。隣の人よりもよくやっていれば十分だなどと思わないようにしよう。これは悪魔のもう1つの罠である。他人のことは他人にまかせておこう。「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい」、と私たちの師は云われたことがある(ヨハ21:22)。完全以下のものでは満足せず、キリストのご生涯とご人格を自分の唯一の手本とし模範として、従っていこう。自分が、最善を尽くしてもなおみじめな罪人であることを日々忘れず、従っていこう。他人よりすぐれていようがいまいが何の足しにもならないことを決して忘れず、従っていこう。どれほど高く上っても、私たちは自分のあるべき姿からはほど遠い存在である。私たちのうちには必ず何かしら改善の余地が残っている。私たちは最後の最後まで、キリストのあわれみと恵みにすがらなくてはならない者である。では、他人を見つめたり、他人と自分をくらべたりすることはやめにしようではないか。自分自身の心を見つめるなら、しなくてはならないことが十分見つかるはずである。

 最後になったが、これも重要なこととして、もし私たちが少しでも恵みにおいて成長することを体験しており、さらに成長しようと望んでいるのなら、この世で多くの試練と患難をくぐりぬけなくてはならないことがあっても驚かないようにしよう。私は、これが世に傑出した聖徒たちほとんど全員の経験であったと堅く信ずるものである。そのほむべき師と同じように、彼らは悲しみの人で、病を知っており、多くの苦しみを通して全うされた(イザ53:3; ヘブ2:10)。ここに私たちの主の印象的なことばがある。「わたしの枝で…実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、[父が]刈り込みをなさいます」(ヨハ15:2)。悲しい事実ではあるが、一般的に云って、長期間、物質的に豊かなくらしをすると、信者の魂には害がもたらされる。私たちは豊かさに耐えられない。私たちがへりくだりと、警戒心と、霊姓を保ち続けるためには、病気や喪失、苦難、心労、失望といったものが絶対必要であるらしい。それらは、ぶどうの木に刈込みナイフが、純金の精錬に炉が必要なように必要なのである。もちろん血肉にとっては快いものではない。私たちはこれを好まないし、どんな意味があるのかわからないこともしばしばある。「すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると…平安な義の実を結ばせます」(ヘブ12:11)。天国に着いたとき、私たちは、すべてが私たちのため益となったことを知るであろう。恵みにおいて成長することを切に求めるなら、こうしたことを頭に置いておこう。暗黒の日が訪れたとき、それを思いがけないことのように驚き怪しまないようにしよう。むしろ、そうした日には、順境にあっては決して学べない教訓が学べるのだということを忘れないでいよう。そして互いに云いかわそうではないか。「これもまた、神の聖さにあずかるため私の益になることである。これは愛によってもたらされたものだ。私は神の最高の学び舎に入学しているのだ。矯正は指導である。これは私を成長させるために意図されたものなのだ」、と。

 ここで、恵みにおける成長という主題についてはペンを置くことにしよう。一部の読者の思いを深く巡らせるだけのことは十分述べたと思う。万物は年古りていく。世界は古びていく。私たち自身もまた年老いていく。いくたびか夏が、冬が来るであろう。いくたびか病を、悲しみを迎えるであろう。人が嫁ぎ、めとり、葬られていく中で、いくつかの出会いと、いくつかの別れがあるであろう。そして、最後には? 私たちの墓場に、青々とした草が絶えることがないのはなぜであろうか。

 私たちは、自分の内面を見つめ、1つ魂に簡単な問いをしてみるべきではないだろうか。信仰において、私たちの平安にかかわる事柄において、個人的な聖潔という重要な問題において、私たちは前進しているだろうか? 成長しているだろうか?

成長[了]

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*1 「真の恵みは漸進的なものであり、しだいに大きくなり、育っていく性質がある。恵みは光のようなもので、まず夜明けがある。それから、しだいに輝きをまして、ついに真昼の明るさになるのである。聖徒たちは、その輝きゆえに星々にたとえられるだけでなく、その成長ゆえに木々にたとえられている(イザ61:3; ホセ14:5)。有望なキリスト者は、後戻りしたヒゼキヤの日時計のようではなく、静止したヨシュアの太陽のようでもなく、常に聖潔に前進し続け、神によって成長させられていくのである」(トマス・ワトソン、ウォルブルックの聖スティーヴンズ教会牧師、『神学要論』。Banner of Truth Trust社、1974年)[本文に戻る]

*2 「恵みの成長は、真の恵みの最上の証拠である。命を持たない事物は成長しない。絵は成長しない。垣根の棒杭は成長しない。しかし生長する活力のある植物は生長する。恵みが成長しつつあるということは、それが魂の中で生きていることを示すものである」(トマス・ワトソン、『神学要論』。Banner of Truth Trust社、1974年)。[本文に戻る]

*3 「キリスト者よ。もしもあなたが他者の心を奮い起こさせ、神の恵みを賞賛させたいと願うのなら、自分の種々の恵みを働かせ、改善するように心がけるがいい。もし、ある家庭に住み込みで働く貧しいしもべたちが、主人のうちに信仰、愛、知恵、忍耐、そして謙遜が天の星々のように輝いているのを見るなら、それは彼らの心を引きつけて、そのような家庭に来ることができたことで主をほめたたえさせるであろう。……人々の恵みがモーセの顔が輝いたように輝くとき、また彼らの生活が、ある人がヨセフの生涯を評して云ったように、天で輝く多くの星々のように美徳で燦々ときらめくとき、いかに他の人々の心ははるかに神の栄光へと奮い起こされ、こう叫ぶことであろう。『これぞまさにキリスト者だ! これぞ彼らの神にとっての栄誉、彼らのキリストにとっての栄冠、彼らの福音にとって誉れだ! おゝ、もし彼らがみなこのような人々ばかりであるなら、われわれもキリスト者となりたいものだ!』、と」(T・ブルックス、1661年。『測りがたい富』)[本文に戻る]

*4 「正しい成長のありかたとは、自分自身の目にはまますつまらぬ者となっていくように思われることである。『私は虫けらです。人間ではありません』(詩22:6)。自分の目にする腐敗と無知によってキリスト者は自分を嫌うようになっていく。彼は自分の目の前で無にひとしくなっていく。ヨブはちりの中で自分をさげすんだ(ヨブ42:6)。うぬぼれから脱するように成長すること、これは良いことである」(トマス・ワトソン、『神学要論』。Banner of Truth Trust社、1974年)。[本文に戻る]

*5 「恵みにおいて成長していないしるしは、私たちが罪に悩むことが少なくなっていくことである。かつては、ごく些細な罪でさえ(髪の毛一筋でも目に入れば涙が出るように)私たちを嘆かせたものなのに、今や私たちは何の良心の呵責もなしに罪を丸飲みにしてしまえる。かつては、密室の祈りをおこたったことでキリスト者が悩むこともあったのに、今やキリスト者は家庭礼拝をはぶいて平然としていられる。かつては、虚栄心になど全く悩まされないときがあったのに、今や自堕落な行動にも全く悩まなくなっている。現在のキリスト教の衰退は嘆かわしいほどである。恵みははなはだしく衰微しており、その脈拍すらほとんど感じられないほどである」(トマス・ワトソン、『神学要論』。Banner of Truth Trust社、1974年)。

 「もしも今、恵みに富む者となりたければ、あなたの歩みに気をつけるがいい。富んでいるのは、物知りの魂でも、口数の多い魂でもなく、周到に歩む魂であり、従順な魂なのである。他の人々は知性に富んでいるかも知れないが、霊的経験の豊富さ、あらゆる聖い天的な恵みの豊かさという点では、いかなる者も周到に歩むキリスト者に及びもつかない」(T・ブルックス、1661年)。[本文に戻る]

*6 「恵みにおいて成長していないしるしは、私たちがより世俗的になっていることである。かつては私たちも、高い階梯に足をかけ、天にあるものを思い、約束の地の言葉を語っていたことがあるかもしれない。しかし今や私たちは天から心が離れ、こうした地面の鉱坑から自分の慰めを掘り出しつつあり、サタンとともに地上を行き巡っている。これは私たちが急速に下り坂を転げ落ちつつあり、私たちの恵みが尽きかかっているという証拠である。人々が肉体的に衰え、死を間近にするときには、背中が丸まり屈んでいくようになる。同じように真に人の心が地に屈していき、天的な思いをほとんどかき立てることができなくなったとすれば、たとえ恵みは死に絶えていないとしても、まさに死の寸前なのである」(トマス・ワトソン、『神学要論』。Banner of Truth Trust社、1974年)。[本文に戻る]

*7 「経験があらゆるキリスト者に告げていることは、人はより厳格に、間近に、たゆみなく神とともに歩けば歩くほど、力強く義務を実行できるようになるということである。注入された習慣は実践することで助長される。祭壇上の犠牲を焼く薪は、最初は天からの炎で火をつけられたが、その後は祭司たちの配慮と労働によって火を絶やさないように守られるべきであった。そのように、霊的恵みの種々の習慣も実際は神によって注入され、日々神からの影響力によって保たれなくてはならないが、それはなおも神に仕え、敬虔によって自分を鍛錬するという、私たち自身の労苦との協同によってなされなくてはならない。そしてキリスト者は、そのように自分を鍛錬すればするほど、強く成長していくのである」(コリングズ、『摂理』。1678年)。[本文に戻る]

*8 「キリストをその最も大切な友としているような人々を、あなたの選りすぐりの友とするがいい。人々の見かけよりは内面の方に目をとめることである。相手の内面的な価値に最も意を配るがいい。多くの人々は信仰告白者の外側の衣装にしか目をとめない。しかし私が求めているのは、人の内的な価値を重んじ、神の豊かさに最も満ちた人々を自分のえり抜きの、また最も大切な友としているようなキリスト者である」(T・ブルックス。1661年)。[本文に戻る]

*9 「キリスト者は、自分では成長していないと考えるときにも成長していることがありえる。『貧しいように見せかけ、多くの財産を持つ者がいる』(箴13:7)。キリスト者は、恵みにおける自分の欠陥が目につき、いやまさる大きな恵みに飢えかわくあまりに、自分が成長していないと思い込む。多くの富を得たいと切望する者は、願い通りのものを持っていないがために、自分を貧しいと思うのである。」(T・ワトソン、『神学要論』。Banner of Truth Trust社、1974年)。

 「魂は恵みに富んでいても、そのことを知らず、感じとれないことがある。子どもは自分が王家の世継ぎであっても、莫大な財産の相続人であっても、それを知らない。モーセの顔は輝きを放ち、他の者らにはそれが見えたが、モーセにはそれがわからなかった。そのように多くの尊い魂は、恵みに富んでおり、他の人々もそれを見てとって、そのことのゆえに神をほめたたえているのに、自分ではそれに気づかない。時としてこれは、その魂の霊的富に対する強い欲求から生ずることがある。霊的富を求める魂の欲求が強すぎるために、しばしば彼らは、霊的に富んだ者に成長していると感じることができなくなっている。多くの貪欲な人々の欲望は地上の富に過大な執着をいだきすぎるため、たとえ自分がしだいに富んで行きつつあっても、それを感じとれず、信じることもできない。多くの尊いキリスト者たちもまさにそれと同じである。その霊的富に対する欲求が強すぎるため、霊的な事柄において自分が富んでいきつつあるという感覚そのものが失われているのである。多くのキリスト者たちは内側に価値あるものをたくさんもっているが、それに気づかない。『主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった』、と云ったのは善良な人であった。さらに、このことは自分の勘定計算を怠っている人々から起こることがある。多くの人々は商売が繁盛し、富み栄えつつあるのに、勘定書の合計を怠っているばかりに、自分が前進しているのか後退しているのか見当もつかない。さらにまた、このことは自分の勘定計算をあまりにも頻繁に行なう人にも起こることがある。もし人が勘定書の合計を週に一回、あるいは月に一回行なうならば、自分が富みつつあるとは気づかないかもしれない。しかし、ある年を別の年とくらべてみれば、自分が確実に富みつつあることがはっきりわかるであろう。そしてさらに、このことは魂の計算違いから起こることがある。魂は何度も間違いを犯すものである。性急なため、十の桁を百と、百の桁を千と取り違えてしまう。見よ。偽善者らがその偽造貨幣を金貨とみなし、そのペンスをポンドとみなし、常に自分たちを相場よりも高く値踏みするように、真摯な魂はしばしば自分のポンドをペンスとみなし、千の桁を百とみなし、なおも自分たちを相場よりも低く値踏みするのである」(T・ブルックス、『測りがたい富』、1661年。)[本文に戻る]

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