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5. 代 価


「塔を築こうとするとき、まずすわって、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しない者が、あなたがたのうちにひとりでもあるでしょうか」(ルカ14:28)

 上にあげた聖句は、非常に重大な意味を持っている。ほとんどの人は、みな毎日のように、「それにはいくらかかるか。それには、どれほどの代価が必要だろうか」、と云っているものである。

 大きな買い物をしたり、家を新築したり、家具を新調したり、何か計画を立てたり、新居へ引越したり、子供の教育費を考えたりするとき、あらかじめ先を読んで考えておくことは賢明であり、思慮深いことである。この質問----「それには、どれほどの代価が必要だろうか」----を覚えておきさえすれば、多くの人々は悲しみや悩みを味わうことが少なくてすむであろう。

 しかし、代価を計算することが特に重要な問題が1つある。それは、自分の魂の救いという問題である。真のキリスト者となるためには、どれほどの代価が必要だろうか。真に聖い人となるためには、どれほどの代価が必要だろうか。この点を考えないために、何千、何万という人々が、幸先良い出だしを切りながら、結局は天国への道から離れ、地獄で永遠の滅びを味わうのである。しばらくの時、この問題について詳しく語らせていただきたい。

 1. まず私は、真のキリスト者となるためには、どのような代価が必要かを示そうと思う。
 2. 第二に、その代価を計算することがなぜそれほど重要であるかを説明したい。
 3. 最後に、その代価を正しく計算するための指針をいくつか示そう。

 いま私たちは異常な時代に生きている。物事は信じがたいほど急速に進んでいく。「一日が何をもたらすか」、私たちには見当もつかない。いわんや一年のうちに何が起こるかを誰が知りえよう。現在私たちは、非常に宗教熱のさかんな時代に生きている。信仰を告白する多数のキリスト者が、全国の至る所で、より高い聖潔を得たい、より霊的な信仰生活を送りたいという願いを表明している。しかし、みことばを喜んで受け入れた人々が、二、三年のうちに信仰から離れ、罪の生活に逆戻りしてしまう結末ほど、よく見受けられることはない。そうした人々は、真に徹底した信仰者となり、真に聖いキリスト者となるために必要な代価のことを考えていなかったのである。私たちは、自分が何をしようとしているのか心しておかなくてはならない。もし真に聖くなりたいと願っているのなら、それは良い徴候である。そうした願いを心に生じさせてくださった神に感謝してよいであろう。しかし、それでもなお代価は計算すべきである。疑いもなく、永遠のいのちへと至るキリストの道は喜びの道である。しかし、キリストの道が狭い道であり、栄冠へ至る前には十字架を経なくてはならないという事実に目を閉ざすのは愚かである。

1. 真のキリスト者となるための代価

 まず第一に、真のキリスト者となるため必要な代価を示さなくてはならない。

 ここで決して誤解しないでいただきたい。私は、キリスト者の魂を救うために必要な代価について考察しようとしているのではない。人を贖い、地獄から救い出すためには、神の御子の血潮以下のどのような代価を払っても不可能である。それは重々承知している。私たちの救いのため支払われた代価は、あのカルバリの丘の上におけるイエス・キリストの死以下の何物でもなかった。私たちは「代価を払って買い取られたのです」。「キリストはすべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました」(Iコリ6:20; IIテモ2:6)。しかしこうしたことは、今考えようとしている問題とは全く違う。私が考えたいのは、これとは全く異なった点である。それは、救われたいと思う人が、何を手放す覚悟がなくてはならないか、ということである。キリストに仕えようという人が、どれほどの犠牲を差し出さなくてはならないか、ということである。その意味で私は、「それには、どれほどの代価が必要か」、と問うたのである。そして、これほど重要な問いかけはないと私は堅く信じている。

 もちろん単に見かけだけのキリスト者になるなら、ほとんど何の代価を払うこともないであろう。私もそれを認めるにやぶさかではない。単に日曜に二回だけ礼拝堂に出席し、週日はほどほどに道徳的な生活を送りさえすれば、周囲のだれにもひけを取らない宗教的な生き方をしていることになる。これはみな安上がりで手軽なことである。ここでは何の自己否定も自己犠牲も必要とされない。もしこれがキリスト教の救いで、これで死後私たちが天国へ行けるものなら、いのちの道のようすは次のように書きかえなくてはなるまい。「天へ至る門は大きく、その道は広い」、と!

 しかし聖書の基準によれば、真のキリスト者になるためには、支払うべき代価がある。打ち勝つべき敵があり、戦うべき戦いがあり、払うべき犠牲があり、捨てるべきエジプトがあり、通り抜けるべき荒野があり、負うべき十字架があり、走るべき競走がある。回心は、決して人を肘掛け椅子に腰かけさせ、安楽に天国まで連れていってくれるようなものではない。それは激しい戦闘の開始であり、そこで勝利をおさめるためには大きな代価を払わなくてはならない。だから、「代価を計算する」ことが云いようもなく重要なのである。

 ここで真のキリスト者になるため必要な代価を明確に、くわしく示させていただきたい。ある人がキリストのしもべになりたい、キリストの弟子になりたいという心を起こしたとしよう。何か災難が起こったか、身近な人が死んだか、心ゆさぶるような説教を聞いたかしたために良心が刺されて、自分の魂がどれほど貴重なものかを感じ、真のキリスト者となることを願い求めるようになったとしよう。疑いもなく、目の前には心励ますものがたくさんある。どれほど大きな罪をどれほどたくさん犯してきたとしても、無条件に赦されるのだ。どれほど冷たく、かたくなな心であっても、完全に変えられるのだ。キリストと聖霊、あわれみと恵みが、もろ手を広げて迎えようとしているのだ。しかし、それでもなおその人は代価を計算すべきである。信仰にはいるには、どのような代価が必要か。ここで1つ1つ、詳しく考えてみよう。

 1. まず第一に、自分の義しさを誇り、たよりにする思いを捨て去るという代価が必要である。その人は、あらゆる誇り、あらゆる自負心、あらゆるうぬぼれを打ち捨てなくてはならない。ただ単に無償の恩寵によってのみ救われ、他者の功績と義にすべてを負うべき、貧しい罪人として天国へ行くことで満足しなくてはならない。その人は、次の祈祷書の言葉を口にするだけでなく、真に心から実感できなくてはならない。「私は、さまよう羊のように過ちを犯し、道に迷い」、「なすべきことをなさずにすまし、身のうちに健全な部分は何1つありません」。その人は、自分の道徳性や、品行方正さや、祈りや、聖書日課や、礼拝出席や、聖餐を受けることに頼みをおくあらゆる思いを放棄し、ただイエス・キリスト以外の何者にもたよらない覚悟がなくてはならない。

 さてこれは、ある人々には厳しく聞こえるであろう。無理もあるまい。一人の敬虔な農夫が、あの有名なウェストン・ファヴェルのジェームズ・ハーヴェイに云ったという。「先生。高慢ちきな自分を抑えることは、罪深い自分を抑えることよりずっと骨が折れますな。ですが、これは何としても必要なことですわい」。私たちの計算書の中では、何よりもまずこれを第一の項目として計上しておこう。真のキリスト者となるためには、自己義認の思いを捨て去るという代価が必要なのである。

 2. 別のこととして、自分のもろもろの罪を捨て去るという代価が必要である。その人は、神の目にとって良くないすべての習慣、すべての行為を捨て去る覚悟がなくてはならない。そのようなものに対し断固として立ち向かい、抵抗し、すっぱり手を切り、十字架につけ、抑えつけておく努力をしなくてはならない。そしてこれは正直に、公正に行なわなくてはならない。自分の愛好する罪をひいきして、個別に休戦協定などを結んではならない。その人は、すべての罪を不具戴天の敵とみなし、あらゆる不正の道を憎まなくてはならない。小さな罪であれ大きな罪であれ、公然たる罪であれ隠れた罪であれ、すべての罪をすっぱり放棄しなくてはならない。そうした罪は毎日激しく抵抗するかもしれないし、時としてほとんど彼を支配してしまうことがあるかもしれない。しかし彼は決してそれらの罪に屈服してはならない。彼は自分のもろもろの罪と絶えず交戦状態になくてはならない。このように書いてある。「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ」。「あなたの罪を除き、……あなたの咎を除いてください」。「悪事を働くのをやめよ」(エゼ18:31; ダニ4:27; イザ1:16)。

 これまた厳しく聞こえることであろう。無理はない。私たちの罪はしばしば、わが子も同然に愛しいものである。私たちは自分の罪を愛し、抱きしめ、しがみつき、これを楽しむ。それらと別れるのは、右の手を切り捨て、右の目をえぐり出して捨ててしまうほどつらいことである。しかし、それは行なわなくてはならない。決別が必要である。「たとい悪が彼の口に甘く、彼がそれを舌の裏に隠しても、あるいは、彼がこれを惜しんで、捨てず」とも、なお捨て去らなくてはならない(ヨブ20:12、13)。神の友となりたければ、罪と仲たがいしなくてはならない。キリストはどのような罪人をも受け入れようとしておられる。しかし、もし自分の罪にしがみつきつづけるなら、キリストは彼らを受け入れはしない。私たちの計算書の中には、これを第二の項目として計上しておこう。キリスト者となるためには、自分のもろもろの罪を捨て去るという代価が必要なのである。

 3. また別のこととして、安逸を愛する思いを捨て去るという代価が必要である。天国への走路を首尾よく走り抜きたければ、困難を経験し、骨を折らなくてはならない。彼は日々油断せず、敵地にある兵士のように常に警戒を怠ってはならない。彼は、一日のうちどの時間も、誰とともにいようと、どんな場所にあろうと、公の場においても私の場においても、見知らぬ人々の間でも家庭の中でも、常に自分の行動に注意しなくてはならない。彼は自分の時間について注意深くあらなくてはならない。自分の舌について、自分の感情について、自分の考えについて、自分の想像力について、自分の動機について、あらゆる人間関係における身の処し方について、注意深くあらなくてはならない。彼は、すべての恵みの手段を用いて、勤勉に祈りに励み、勤勉に聖書を読み、敬虔に日曜を過ごさなくてはならない。どれほど努力しても完璧には程遠いかもしれない。しかし、これらのうち無視して無事ですむようなものは何1つない。「なまけ者は欲を起こしても心に何もない。しかし勤勉な者の心は満たされる」(箴13:4)。

 これまた厳しく聞こえるであろう。信仰生活における「骨折り」ほど、生来の私たちにとっていとわしいものはない。私たちは骨折りを憎む。私たちは心ひそかに、あなたまかせのキリスト教があればよいのに、と思う。だれか代理人を使って良くなれないものか、何もかも自分の代わりになってやってくれる者はいないか、と願う。努力や労力を要するものはみな、私たちの性に合わない。しかし、魂にとっても「労苦なくして報いなし」である。私たちの計算書には、これを第三の項目として計上しておこう。キリスト者となるためには、安逸を愛する心を捨て去るという代価が必要なのである。

 4. 最後に、世の愛顧を捨て去るという代価が必要である。神を喜ばせたければ、人から悪く思われることに満足しなくてはならない。からかわれても、嘲られても、中傷されても、迫害されても、憎まれさえしても、不思議に思ってはならない。キリスト教に関する自分の考えやふるまいが、軽蔑されたり、冷やかされたりしても、驚いてはならない。多くの人々から愚か者、宗教かぶれ、狂信者だとみなされても、それを受け入れなくてはならない。自分の発言がねじまげられ、自分の行動が色眼鏡をかけて見られても、受け入れなくてはならない。実際、人によっては気違い呼ばわりされることがあるかもしれない。それでも怪しんではならない。師は云っておられる。「しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります」(ヨハ15:20)。

 これまた厳しく響くことであろう。私たちは生来不当な仕打ちを受けたり、ぬれぎぬを着せられたりすることを好まない。わけもなく非難されれば耐え難く感じる。私たちは木石ではない。だれでも、自分の隣人から良く思われたいと願うものである。悪口を云われたり、仲間はずれにされたり、でたらめを云われたり、疎外されたり孤立したりするのは、いつでも不快なものである。しかし、これを避ける道はない。師の飲んだ杯は、弟子も飲まなくてはならない。彼らは、「さげすまれ、人々からのけ者にされ」なくてはならない(イザ53:3)。私たちの計算書に、これを最後の項目として計上しておこうではないか。キリスト者になるには、世の愛顧を捨て去るという代価が必要なのである。

 これらが、真のキリスト者となるため必要な代価の計算書である。このリストが重いものであることは認める。しかし、ここから除けるような項目があるだろうか。もし、私たちが自分の自己義認、罪、怠惰、世への愛を残したままで、救われることができるなどと云うような者がいたら、途方もない厚顔無恥の輩であると云わなくてはならない。

 確かに、真のキリスト者となるには大きな代償を払わなくてはならないであろう。しかし、正気のある者で、魂が救われるならどのような代価も惜しくないということを疑うような者があるだろうか。沈みかかった船の乗組員は、貴重な積み荷を船外へ放り出すことを何とも思わない。手足が壊疸にかかっているとき、人はどんな重い手術でも受けようとし、命を救うためには切断手術すらいとわない。確かにキリスト者は、自分と天国の間を邪魔するようなものは、すべて捨て去る覚悟ができているべきである。何の代価も必要としないような宗教は、文字通り無価値である。安あがりのキリスト教、十字架なきキリスト教は、究極的には無益なキリスト教、栄冠なきキリスト教であるとわかるであろう。

2. 代価を計算することの重要性

 さて第二に、なぜ代価を計算することが、魂にとってそれほど重要であるか説明しなくてはならない。

 この問いには、ある原則を述べることによって簡単に答えることができよう。すなわち、キリストに命ぜられた義務を無視するとき、必ず私たちは損害を受けるということである。いかに多くの人々が、一生の間救いの宗教の性質について目を閉ざし、キリスト者となるため本当に必要な代価を考えることを拒んでいることか。いかに彼らが、とうとう人生のたそがれを迎えるころになって目を覚まし、神に立ち返ろうと少しばかり発作的な努力をすることか。そしていかに彼らが、悔い改めと回心が思っていたような簡単なものではなく、真のキリスト者となるためには「莫大な」代価が必要であることをさとって驚くことか。彼らは高慢や、罪深い放縦の生活や、安逸を愛し世俗的に生きる習慣などを捨て去ることが、夢みていたよりも困難であることに気づく。そして、かすかにもがいたあとで絶望し、希望も恵みも神に会う備えもないままでこの世を去っていく! 彼らは、一生の間、本気になれば信仰の決心をすることなどたやすいことだ、とうぬぼれていた。しかし目を開いたときにはすでに遅かった。そこで初めて彼らは、かつて一度も代価を計算しなかったために、自分がもはや滅んでいることを見いだすのである。

 しかし、この主題のこの部分を扱うにあたっては、私が特に語りかけたい種類の人々がいる。その人々の数は多く、今も増大しつづけている。最近の世間の動きを見るとき、この人々は特有の危険のただ中にあるということができる。これがどういう種類の人々か、今から手短にはっきり述べさせていただきたい。それを知ることは非常に大切である。

 私の云う人々は、宗教に無関心な人々ではない。むしろ大いに宗教について考えている人々である。それはキリスト教について無知な人々ではない。むしろキリスト教の内容を、まんべんなく知っている人々である。しかしその最大の欠陥は、彼らが自分たちの信仰の中に根ざしても、建て上げられてもいないという点である。あまりにもしばしば彼らの知識は、他人からの受け売りか又聞きである。キリスト者の両親のもとで育てられ、あるいはキリスト教系の学校で教育を受けたために知識は持っている。しかし一度もその知識を、自分の個人的な経験によって自分のものとしたことがないのである。あまりにもしばしば彼らは、性急に信仰の決心をしてしまう。周囲の圧力によってか、感傷的な気分によってか、動物的な興奮によってか、まわりの人がしているのと同じことがしたいという、ばくぜんとした欲求によってか、はっきりとした恵みの働きかけを全く心に受けないまま、決心するのである。こうした人々は、非常に危険な状態にある。もし聖書が私たちへの戒めとしてあげている実例に少しでも意味があるなら、彼らこそは、代価を計算するよう勧められる必要のある人々である。

 代価を計算しなかったがために、無数のイスラエル人はエジプトとカナンの間に広がる荒野で悲惨な最後をとげた。エジプトを出発したときの彼らは、何ものも押しとどめることができないほどの情熱と意気込みにあふれていた。しかし、途上に危険と苦難が待ち構えていることに気づいたとき、彼らの勇気はたちまちしぼんでしまった。彼らは、困難のことを全く勘定に入れていなかったのである。彼らは、約束の地が二、三日も歩けば手の届くところにあると思っていた。だから敵や、窮乏や、飢えや、渇きが彼らを試みはじめたとき、彼らはモーセと神に向かってつぶやき、喜んでエジプトに戻ろうという気持ちになったのである。一言で云えば、彼らは代価を計算しておらず、そのためにすべてを失い、自分の罪の中で死んだのである。

 代価を計算していなかったがために、私たちの主イエス・キリストの教えを聞いていた者たちの多くは、しばらくすると後戻りし、「もはやイエスとともに歩かなかった」(ヨハ6:66)。初めて彼らがイエスの奇跡を目にし、イエスの説教を聞いたとき、彼らは「神の国がすぐにでも現われるように思っていた」。彼らは使徒たちと行動をともにし、後先考えずにイエスにつき従っていった。しかしそのうちに、受け入れがたいような教えを信じなくてはならず、困難なことを行なわなくてはならず、ひどい仕打ちを忍ばなくてはならないことに気づいたとき、彼らの信仰はあとかたもなく消え去り、はじめから何でもなかったことが明らかになった。一言で云えば、彼らは代価を計算しておらず、そのため信仰に挫折したのである。

 代価を計算していなかったがために、ヘロデ王は自分のもろもろの古い罪に戻っていき、魂を破滅させた。彼は、バプテスマのヨハネの説教を喜んで聞いていた。彼はヨハネを正しい聖なる人と認め、尊敬していた。彼は、正しく良いと思われる「多くのことを行ない」さえしていた。しかし、最愛のヘロデヤを手放さなくてはならないと知ったとき、彼の信仰は全く崩れさった。彼はこのことを勘定に入れていなかった。彼は代価を計算していなかったのである(マコ6:20 <英欽定訳>)。

 代価を計算していなかったがために、デマスはパウロに同行することをやめ、福音を捨て、キリストを捨て、天国を捨ててしまった。長い間彼はこの偉大な異邦人への使徒と行をともにし、まさに「同労者」にほかならなかった。しかし、神とこの世を同時に友とすることができないと気づいたとき、彼はキリスト教を捨て、この世にしがみついた。聖パウロは云う。「デマスは今の世を愛し、私を捨てて」しまった(IIテモ4:10)。彼は「代価を計算し」なかったのである。

 代価を計算していなかったがために、偉大な伝道説教者らの聴衆はしばしば痛ましい結末を迎える。彼らは心をゆさぶられ、興奮し、本当は自分で経験してもいない信仰の決心をしてしまう。彼らは、みことばを聞くと「喜んで」受け入れる。その「喜び」は、年期のいったキリスト者たちを驚かせるほど有頂天である。彼らはしばらくは、たいへんな熱情と意気ごみで走っており、すべての人を追い越すかのように見える。彼らが霊的な事柄を語り、行なうその熱の入れ方は、先輩の信者を恥じ入らせるほどである。しかし、その新鮮さが薄れ、マンネリ化してくるとき、彼らは変わりはじめる。彼らは、岩地の心を持つ聴衆でしかなかったことを露呈する。私たちの偉大な師が種まきのたとえで描き出された姿に生き写しである。「みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまづいてしまいます」(マタ13:21)。しだいに彼らの情熱は消えうせ、彼らの愛はさめていく。だんだん彼らは神の民の集会に欠席するようになり、ついにはキリスト者の間で何の噂も聞こえなくなる。なぜか。彼らは一度も代価を計算しなかったのである。

 代価を計算しなかったがために、リバイバル大会で信仰の決心をした何百もの回心者は、しばらくするとこの世へ戻っていき、キリスト教の名に泥を塗る。彼らは、そもそもの初めから真のキリスト教をひどく歪んだ姿でとらえている。彼らは、キリスト教とは、いわゆる「キリストのもとへ来たれ」という招きや、喜びと平安の感情を激しく感じること以外の何物でもないと夢想している。そして、しばらくしてから、自分に担わなくてはならない十字架があり、何よりも陰険な心があり、常に身の回りで忙しく働きかける悪魔がいることに気づくとき、彼らはあいそをつかして無関心になり、自分のもろもろの古い罪のもとへ帰っていく。なぜか。それは彼らが、聖書の伝えるキリスト教について実は全く無知であったからである。彼らは、代価を計算しなければならないということを一度も教えられなかったのである。*1

 代価を計算しなかったがために、キリスト者の両親から生まれた子供たちは、しばしば成人してから道をはずれ、キリスト教の名に泥を塗る。幼いころから福音のことばと教えに親しみ、幼児のうちから中心的な聖句を暗唱させられ、毎週、日曜学校で福音を教えられ、あるいは他人を教えるということに慣れ親しんでいる彼らは、しばしば、わけも知らずに、あるいは深くつきつめて考えもせずに、自分は信じていると云いながら成長していく。しかしやがて実社会の荒波にもまれるようになったとき、彼らはしばしば信仰をきれいさっぱり打ち捨てて、この世にどっぷりひたった生き方に埋没し、周囲の人々を仰天させるのである。なぜか。彼らは、キリスト教に伴う犠牲を決して完全には理解していなかったのである。彼らは一度も代価を計算するよう教えられたことがなかったのである。

 これらは厳粛な、そして痛ましい事実である。しかし事実であることにかわりはない。これらはみな、私が今考察しているこの主題のはかりしれない重要性を示している。これらはみな、聖さを求めているというすべての人々に向かって、この説教の主題を説き聞かせるべき絶対的な必要性を示唆している。すべての教会で、「代価を計算せよ」、と叫ぶべきである絶対的な必要性を指し示している。

 この点で私たちの主イエス・キリストはどうされていたか、という人があるだろうか。聖ルカが何と記しているか読んでいただきたい。あるとき、「大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らのほうに向いて言われた。『わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません』」(ルカ14:25-27)。あえて云おう。私は、現代の多くの教職者が行なっているやり方と、この箇所のみことばを調和させることができない。しかし私の目には、この箇所の教理は白日の光のように明らかである。私たちは、人々をキリストの弟子となるようせきたてる前に、必ずまず代価を計算するように、はっきり警告すべきなのである。

 過去の偉大な、傑出した説教者たちはどうしていたか、という人があるだろうか。私は声を大にして云いたい。彼らはみな異口同音に、今述べた箇所で主が群衆を取り扱われた仕方の知恵深さを証ししている。ルターや、ラティマー、バクスター、ウェスレー、ホイットフィールド、ベリッジ、ロウランド・ヒルらはみな、人の心の移りやすさを鋭敏に察知していた。彼らは、光るものがみな金ではないことを知っていた。罪の確信は回心ではなく、感情は信仰ではなく、感傷的な気分は恵みではなく、花開くものがみな実を結ぶわけではないことを知りぬいていた。「自分をあざむいてはなりません」、と彼らは絶えず叫んだ。「自分のしようとしていることをよく考えなさい。召されてもいないうちから走りだしてはいけません。代価を計算しなさい」。

 善を行なおうと思うなら、決して私たちの主イエス・キリストの歩みにならうことを恥じてはならない。人々の魂のため機会をのがさず労苦するのはよい。人々に向かって、人生の意味を考えるよう熱心に語るのはよい。聖い激しさをもって語り、神のもとへ来たれ、抵抗してはならない、神に自分をゆだねよ、と招くのはよい。キリストを受け入れよ、彼のあらゆる恵みを受け入れよと懇願するのはよい。しかし、そうした働きにおいては常に真実を語らなくてはならない。一部だけ隠しておいてはならない。新兵徴募係の軍曹のような俗悪な手管を使うことは恥じるべきである。単に軍服や給金や栄誉のことだけ語ってはならない。それとともに敵軍のことを語らなくてはならない。戦闘や、重装備や、夜哨や、行軍や、演習のことを語らなくてはならない。キリスト教の一面だけ提示するのであってはならない。キリストが私たちを救うために死んでくださった十字架のことを語るときには、私たちが背負うべき自己否定の十字架のことを隠しておいてはならない。キリスト教に入信することが何を意味するか、十分に説明するがいい。悔い改めて、キリストに来たれと懇願するのはよいが、それと同時に、代価を計算するよう命ずることを忘れてはならない。

3. いくつかの指針

 最初に語っておいた第三の、そして最後のことは、そうした代価を正しく計算する助けとなるいくつかの指針をあげることである。

 もし私がこの点について何も述べないとしたら、何の申し訳も立たないというべきであろう。私は誰をも落胆させようとは思わない。誰をもキリストに仕える道から遠ざけたいとは思わない。私はすべての人を励ましたい。前進し、十字架を取り上げよと励ましたい。それが私の心からの願いである。私たちは、あらゆる手段を用いて代価を計算しよう。そして注意深く計算しよう。しかし、このことは忘れないでいただきたい。もし正しく計算するなら、そしてあらゆる点を考慮するなら、私たちは決して恐れることはないのである。

 今から述べるのは、真のキリスト教の代価を計算しようとする人が常に念頭に置いておくべきことである。キリストの弟子となるために捨てなくてはならないもの、経験しなくてはならないことを正直に、また公正に数えあげてみよう。細大もらさず、すべてを記入しよう。しかしそのあとで、これからあげる計算式をそれぞれのわきに記入していただきたい。これを公平に、正しく行なうなら何の心配もない。

 a. まず第一に、あなたが真心から聖いキリスト者になる場合に受ける利益と損失を数えあげ、くらべてみることである。真のキリスト者になるなら、おそらくこの世では何かを失うであろう。しかし、あなたは自分の不滅の魂の救いを得るのである。こう書かれてある。「人は、たとい全世界を得ても、自分自身の魂を失ったら、何の得がありましょう」(マコ8:36<英欽定訳>)。

 b. 次に、あなたが真心から聖いキリスト者になる場合に受ける称賛と非難を数えあげ、くらべてみることである。真のキリスト者になるなら、おそらくあなたは人から非難されるであろう。しかし、あなたは父なる神、子なる神、聖霊なる神から称賛を受けるのである。受けるであろう非難は、単に幾人かの、誤りを犯し、盲目で、過ちがちな人間の口から出るものである。しかし称賛の方は、全世界をさばく王の王から出るものである。この方から祝福される者だけが、真に祝福された者なのである。こう書かれてある。「わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから」(マタ5:11、12)。

 c. 次に、あなたが真心から聖いキリスト者になる場合にできる友と敵を数えあげ、くらべてみることである。一方であなたは悪魔と邪悪な人々の敵意を買うことになる。しかし他方では、主イエス・キリストの慈愛と友愛を受けるのである。敵はせいぜいあなたのかかとにかみつくくらいしかできない。彼らは怒ってほえたけり、あなたを滅ぼすためには海を陸をかけめぐるであろう。しかし決してあなたを滅ぼすことはできない。あなたの友なるお方は、ご自分を通して神に来る者をみな最後まで守り、救うことがおできになる。だれも彼の手からその羊を奪い去るようなことはない。「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい」(ルカ12:5)。

 d. 次に、あなたが真心から聖いキリスト者になる場合に今の世で受けるものと来たるべき世で受けるものを数えあげ、くらべてみることである。現在は、疑いもなく安逸をむさぼるときではない。今は油断せず祈るべきとき、戦い、格闘すべきとき、信じて労すべきときである。しかしそれはほんの数年にすぎない。未来には、さわやかな安息のときが待っている。罪は追い払われ、サタンは縛られる。さらに何より素晴らしいことに、それは永遠につづく安息なのである。こう書かれてある。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(IIコリ4:17、18)。

 e. 次に、あなたが真心から聖いキリスト者になる場合には罪の楽しみと神に仕える幸いを数えあげ、くらべてみることである。世の人が自分の生き方から得る楽しみは、うつろで、空しく、不満足なものである。それは、いばらに燃えついた火のようで、パッと燃え上がり、パチパチはぜたかと思うと、あっというまに消えてしまう。しかしキリストがご自分の民に与える幸福は、確かで、永遠に残る、充実したものである。それは肉体的健康や、周囲の状況によって左右されない。決して離れることなく、死の床においてすら離れ去らず、最後には朽ちることのない栄光の冠へと至るのである。こう書かれてある。「悪者の喜びは短く」「愚か者の笑いは、なべの下のいばらがはじける音に似ている」(ヨブ20:5; 伝7:6)。しかし、「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(ヨハ14:27)。

 f. 次に、真のキリスト教に伴う苦難と、墓の向こう側で悪人のためたくわえられている苦しみを数えあげ、くらべてみることである。確かに聖書を読むことや、祈ること、悔い改めること、信ずること、聖い生き方をすることは、労苦や自己否定を要求するものである。しかしそれもみな、悔い改めずに死ぬ不信者のためたくわえられている御怒りに比べれば無きにひとしい。「尽きることのないうじ、消えることのない火」[マコ9:48]は、人の想像力をはるかに越えたものである。こう書かれてある。「子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです」(ルカ16:25)。

 g. 最後に、罪と世から離れキリストに仕えるようになる人々の数と、キリストを捨てて世に戻っていく人々の数を数えあげ、くらべてみることである。一方には、何千何万もの人々がいるのに、もう一方には一人もいないことに気づくであろう。毎年おびただしい数の人々が広い道から離れて狭い道へとはいっていく。そして本当にその狭い道にはいった者なら、だれもその道にあきて、広い道へ戻っていきはしない。下り道の上の足跡には、しばしば外へ向かって出て行った跡が見受けられるのに、天へ向かう道の上の足跡は、一方向へつづくばかりである。「悪者の道は暗やみ……だ」。「裏切り者の行ないは荒い」(箴4:19; 13:15)。

 こうした計算を正しく行なう人は、まず間違いなく、めったにいない。多くの人々は、常に「どっちつかずによろめいている」。彼らは、キリストに仕えることにどれほど価うちがあるのか決めかねている。その得失、利益不利益、悲しみ喜び、助け妨げがあまりにもつり合って見えて、神を選びとることができない。彼らはこの重大な計算を正確に行なえない。はっきり出さなくてはならない答えを、はっきり出すことができない。彼らは正しく計算しないのである。

 しかし、その原因は何だろうか。それは信仰の不足である。自分の魂について正しい結論に達するためには、聖パウロがヘブル人への手紙11章で語ったこの偉大な原理を少しでも持っていなくてはならない。その原理が、代価を計算するというこの重大な務めにおいて、どのように働くか、いくつか例を示させていただきたい。

 あのノアが屈することなく箱舟を造りつづけたのはなぜだろうか。罪人と不信者の世で、彼は孤立していた。彼は、冷やかしやあざけりや軽べつを耐え忍ばなくてはならなかった。何が彼の手を強め、静かに働かせつづけ、すべてに立ち向かわせたのだろうか。それは信仰であった。彼は、来たるべき御怒りを信じていた。彼は、自分の造っている箱舟の中にはいる以外に救いがないことを信じていた。信じていたからこそ、彼はこの世の意見を軽いものとみなした。彼は信仰によって代価を計算し、箱舟を造ることが自分の得になるということに何の疑いも持たなかったのである。

 モーセがパロの王宮の宝を捨て、パロの娘の子と呼ばれることを拒んだのはなぜだろうか。彼がヘブル人のように軽べつされていた民族と運命を共にし、この世のあらゆるものをかけて彼らを奴隷の身から解放するという大事業を遂行しようとしたのはなぜだろうか。まともに考えれば彼はすべてを失い、何も得なかったように思える。何が彼を動かしたのだろうか。それは信仰であった。彼は、「その報いとして与えられるもの」の方がエジプトのあらゆる栄誉より、はるかにまさると信じていた。彼は「目に見えない方を見るようにして」、信仰によって代価を計算した。エジプトを捨てて荒野へ出ていくことが自分の得になると確信していたのである。

 パリサイ人のサウロがキリスト者になることを決意したのはなぜだろうか。そのため支払わなくてはならない代価と犠牲は、恐ろしく大きなものであった。彼は、同国人の間における輝かしい将来をうち捨てた。彼は、人の愛顧を受けるかわりに、憎しみ、敵意、迫害、そして死すら身に招いた。これらすべてに彼を立ち向かわせたものは何だったのだろうか。それは信仰であった。彼は、ダマスコ途上で出会ったイエスが、自分の捨てる百倍ものものを与えることができ、来たるべき世では永遠のいのちを授けてくださると信じていた。信仰によって彼は代価を計算し、はかりがどちらに傾くかをはっきり見ていたのである。彼は、キリストの十字架をになうことは自分の得になると堅く信じていた。

 こうしたことに目をとめようではないか。ノアを、モーセを、聖パウロをあのように動かした信仰、その信仰こそ、私たちが自分の魂について正しい結論に達するための重要なカギである。その同じ信仰こそ、真のキリスト者となるため必要な代価を冷静に計算しようとするとき私たちを助け、計算を迅速に早めてくれるものでなくてはならない。この信仰は、ほしいと云えばただで与えられる。「神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます」(ヤコ4:6)。その信仰で身をよろうなら、私たちは物事をその真価でみつもることができる。その信仰に満たされるなら、私たちは十字架を過度に重くみなしたり、栄冠を過度に軽くみなしたりすることはないであろう。私たちの結論は全く正しく、その結果に誤りはないであろう。

 1. 最後に、今この説教を読んでいるすべての人に真剣に考えてほしいことがある。いま、あなたのキリスト教は何らかの犠牲を伴うものだろうか。おそらくそれは何の犠牲も伴わないものであろう。十中八九まで、そこには何の苦しみも、時間をさくことも、考えも、注意も、痛みもないであろう。聖書を読むことも、祈りも、自己否定も、戦いも、労苦も、試練もないであろう。だが注意していただきたい。そんなキリスト教は決してあなたの魂を救うことはできない。そんな宗教は、あなたが生きている間あなたに平安を与えず、死ぬときに何の希望も与えはしない。苦しみの日にも支えてくれず、死のときも慰めてくれない。何の代価もいらないような宗教は無価値である。手遅れになる前に目覚めることである。目覚めて悔い改めることである。目覚めて回心することである。目覚めて信じることである。目覚めて祈ることである。「それにはどれほどの代価がかかるだろうか」。この問いに満足な答えを出せるようになるまで、決して安心してはならない。

 2. もしあなたが、自分には心から奮起して神に仕えたくなるような動機がないと云うのなら、あなたの魂の救いのためにどれほどの代価が支払われたか考えていただきたい。神の御子がいかにして天をあとにし、人となられ、十字架の上で苦しみを受け、墓の中に横たえられ、神に対してあなたの負債を支払い、あなたのために完全な贖いを成し遂げてくださったか考えていただきたい。このすべてを思い、永遠の魂を手に入れるのは決して並大抵のことではないと考えていただきたい。自分の魂のためにある程度労苦するのは当然ではないか。

 おゝ、怠惰な人よ。手間をかけることが足りなかったため天国を取り逃がすなどということになってよかろうか。あなたは本当に、単に努力をいとったがために永遠の破船をしてもよいと思っているのか。そのように軟弱な、下らぬ考えは捨て去るがいい。立ち上がって男らしくふるまうことである。自分に云い聞かせることである。「たとえどんな代価を払おうと、死に物狂いで努力して狭い門にはいろう」、と。キリストの十字架を見つめ、新しく勇気を得るがいい。死と審判と永遠を待ち望み、真剣に生きるがいい。キリスト者になることは大きな代価を伴うが、決して損はないのである。

 3. もしこの説教を読んでいる人の中に、自分はすでに代価を計算して、十字架をになっている、そう本当に感じている人があるなら、そういう人に私は、屈することなく前進しつづけるよう命じたい。おそらくあなたはしばしば気弱になり、絶望のあまり何もかも捨てようという激しい誘惑にかられるであろう。あなたの敵はあまりにも多く、あなたにつきまとう罪はあまりにも力強く、あなたの友はあまりにも少なく、道はあまりにも急で狭く感じられ、途方にくれることがあるであろう。それでも私は云いたい。屈することなく前進しつづけよ。

 時は非常に縮まっている。もう数年だけ油断せず祈りつづけ、もう少し世の荒波や、死や、移り変わりや、冬や夏を経験すれば、すべては終わる。最後の戦闘を戦って、何の戦いもする必要がなくなるのである。

 キリストの臨在と交わりは、地上におけるすべての苦しみを埋め合わせてあまりあるものである。私たちが現在見られているように完全に見るようになり、自分の人生の旅路をふりかえって見るとき、私たちは自分の心の弱さに驚くであろう。私たちは、何と自分の十字架を過大にみなし、自分の栄冠を軽んじていたことであろうか。私たちは、自分が「代価を計算する」にあたって、なぜ損得のはかりがどちらに傾くか疑ってばかりいたのかと驚くに違いない。勇気を出そう。旅路の果ては遠くないのである。確かに真のキリスト者、裏おもてのない聖徒となるには大きな代価が伴う。しかし、決して損はない。

代価[了]

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*1 上で私がリバイバルについて用いた言葉づかいを誤解する方がいたとしたら、遺憾に思う。それを防ぐため、ここでは解説として多少の注記を施しておきたい。

 信仰の真のリバイバルについて深く感謝する点で、私は人後に落ちないものである。真のリバイバルであれば、それがどこで起ころうと、だれの手によってもたらされようと、私は心からそのことのゆえに神をほめたたえたいと思う。「キリストが宣べ伝えられているのであれば」、だれが宣べ伝えていようと、私は喜ぶ。魂が救われつつあるのであれば、何派の教会によっていのちのみことばが取りつがれていようと、私は喜ぶ。

 しかしながら、このような世界にあって、悪を受け取ることなしに善をいだくことはできない、ということは悲しい事実である。私が今ためらうことく云いたいのは、リバイバル運動の1つの結果として、ある神学体系が勃興したが、それは不完全で極度に有害なものと呼ばなくてはならないと感じられる、ということである。

 私の言及している神学体系の主要な特徴は、信仰における3つの点の法外な、また度はずれた誇張にある。その3つの点とは、----瞬間的な回心、未回心の罪人に対するキリストのもとへ来たれとの招き、内なる喜びと平安の所有を回心の試金石とすること、である。そしてこの3つの大いなる真理(というのも、これらが真理であることは間違いないからである)が、一部の方面であまりにも絶え間なく、排他的に提示されるため、非常な害がなされている。

 疑いもなく、瞬間的な回心は人々に向かって強調しなくてはならない。しかし、そうすることで人が、それ以外の種類の回心は何もありえず、突如として劇的な神への回心を体験しない限り回心したことにはならないのだ、などと考えるようになるとしたら、行き過ぎである。

 即座にキリストのもとに「あるがままのあなたで」行くべき義務は、あらゆる聴衆に向かって強調すべきである。それはまさに、福音説教の土台石である。しかし確かに人は、信ずることだけでなく、悔い改めることも告げられなくてはならない。彼らは、自分がなぜキリストのもとに行かなくてはならないのか、何のためにキリストのもとに行くのか、どこからそうした必要が生じているのかを教えられるべきである。

 キリストにある平安と慰めがすぐにも手に入るであろうことは、人々に向かってはっきりと説くべきである。しかし、それと同時に、強烈な内的喜びと高揚感は必ずしも義認に本質的なものではなく、そうした非常に喜びに満ちた感情がなくとも、真の信仰と真の平安を有することはありえる、と教えるべきことも確かである。喜びだけでは、恵みの何の確かな証拠にもならない。

 私が今念頭に置いている神学体系の欠陥は、以下のようなものと思われる。(1) 罪人を回心させる聖霊の働きが、ただ1つの方式だけに極端にせばめられ、限定されている。真の回心者全員が、サウロやピリピの看守のように瞬間的に回心するとは限らない。(2) 罪人たちが、神の律法の聖さや、自分たちの罪深さの底深さ、また罪の真の咎めについて十分な教えを受けていない。罪人に向かって絶え間なく、「キリストのもとへ来よ」、と告げ続けても、それと同時に、なぜ来なくてはならないのかということも伝え、相手のもろもろの罪を十分に示してやらない限り、ほとんど何の役にも立たない。(3) 信仰が適切に説明されていない。ある場合には、人々は単なる感情が信仰であると教えられている。別の場合には、キリストが罪人のために死んだと信じていさえすれば、信仰を持っているのだという! この段で行けば、悪霊どもすら信者である! (4) 内なる喜びと確信を有することが、信ずることに不可欠とされている。しかしながら、確信が救いに至る信仰の本質でないことは確かである。確信がなくとも、信仰を持っていることはありえる。あらゆる信仰者に向かって、信ずるやいなや、即座に「喜ぶ」ことを強要することほど危険なことはない。私の堅く信ずるところによれば、ある人々は信じてもいないのに喜ぶことがあるし、ある人々は即座には喜べなくとも信じている場合がある。(5) 最後に、しかし小さくないこととして、罪人をお救いになる神の主権と、御守りの恵みの絶対的な必要性が、あまりにはなはだしく見過ごしにされている。多くの人々は、あたかも回心が人間の思い通りに操作できるかのように語ったり、次のような聖句が存在しないかのような話しぶりをしている。「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです」(ロマ9:16)。

 私が言及している神学体系によってなされた害は、私の確信するところ、非常に大きい。一方では、へりくだった思いを持つ多くのキリスト者が全く落胆させられ、意気消沈させられている。彼らは、そこで強調される高揚した気分や感情に達せないがために、自分たちには何の恵みもないのだと思い込むのである。その一方で、恵みを持たぬ多くの人々が、自分は「回心した」と誤って思い込んでいる。彼らは、動物的興奮と一時的な感情の高ぶりのもとにあって、キリスト教信仰の告白へと導かれたからである。そして、こうした事態が繰り広げられている間中、無思慮で不敬虔な人々は軽蔑のまなざしで眺めており、キリスト教など全く注意に値しないものであるとの意をますます強くつつあるのである。

 こうした嘆かわしい事態に対する解毒剤ははっきりしており、そう多くはない。(1) 神のすべてのご計画が聖書的な釣り合いのもとで教えられるようにしよう。2つ3つの貴重な福音の教理が他のすべての教理を覆い隠してしまうようなことがないようにしよう。(2) 悔い改めを信仰と同じくらい十分に教えるようにし、目立たぬ所に押しこめたりしないようにしよう。私たちの主イエス・キリストや聖パウロは常にその両者を教えていた。(3) 聖霊のみわざの多種多様さを正直に語り、認めるようにしよう。そして人々に対しては瞬間的な回心を強調しつつも、それが絶対的な必要条件であるかのようには教えないようにしよう。(4) 即座に、心に感じとれる平安を見いだしたと告白するすべての人々に向かって、自分をよく吟味してみよ、と率直に警告を与えるようにしよう。そして、感情は信仰ではなく、「忍耐をもって善を行なう」こと[ロマ2:7]こそ、信仰が真実であるという偉大な証拠であることを思い起こさせよう(ヨハ8:31)。(5) 信仰の告白をしようとするすべての人々に向かって、「費用を計算する」という偉大な義務を絶えず力説されるようにしよう。そして彼らに向かって正直に、また公正に告げておくようにしよう。キリストに仕える道には平安だけでなく戦いがあり、栄冠だけでなく十字架もあるのだということを。

 私の確信するところ、信仰生活においては、不健全な興奮こそ何にもまして恐るべきものである。それがしばしば、致命的な、魂を滅ぼす反動と完全な無感覚さという結末を招くからである。そして多数の人々が突如として宗教的な印象に影響されるときには、不健全な興奮がほぼ必ず後に続くのである。

 大がかりに、また一斉になされたと伝えられる回心が健全なものであることを、私はほとんど信用していない。それは、現在の経綸における神の一般的なお取り扱いとは調和していないように私には思われる。私の見るところ、神の通常のご計画は、個々人をひとりずつ招き入れることである。それゆえ、大群衆が突如一斉に回心したと聞くとき、私は一部の人よりも悲観的な気持ちで受け取る。宣教地における、最も健全で最も長続きする成功は、確かに、最近ニュージーランドで見られた出来事のように、原住民が大挙してキリスト教に乗り換えるような場合ではない。国内においてなされた最も満足の行く堅固な働きは、必ずしもリバイバルによってなされたものではないと思う。

 私には心にかかる聖書箇所が2つある。今日のような状勢において私が願いとすることは、その聖書箇所が、福音を宣べ伝えるすべての人々、特にリバイバル運動に何らかの関わりを持つすべての人々によって、繰り返して幾度も、そして十分に解き明かされることである。その箇所の1つは、種蒔きのたとえである。このたとえが三度も繰り返し記されているのは、ゆえなきことではない。否、深い意味があってのことである。もう1つの箇所は、私たちの主の「費用を計算する」ようにとの教えであり、主がご自分についてくるのをごらんになった「大ぜいの群衆」に向けて語られたおことばである。ここで非常な注目に値する事実は、そのとき主が、こうした自発的な追随者たちをほめそやしたり、ご自分に従うよう励ましたりするようなことを一言もお語りにならなかったということである。実際、主は、彼らが何を必要とする状態にあるか見てとっておられた。主は彼らに向かって、いったん立ち止まり、「費用を計算する」ように告げられた(ルカ14:25以下)。これが現代の説教家であったなら、果たして聴衆をこのように扱ったかどうか、おぼつかないところである。[本文に戻る]

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