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4. 戦 い


「信仰の戦いを勇敢に戦い……なさい」(Iテモ6:12)

 何かと何かが戦うことほど、多くの人に深い興味を抱かせるものはない。これは奇妙な事実である。老若男女を問わず、身分の上下、学問のあるなしにかかわらず、だれもが戦争や、戦闘や、戦いに深い関心を示す。

 どう説明をつけるにせよ、これは否定できない事実である。実際、ワーテルローの決戦や、クリミヤ戦役時のインケルマンの戦い、バラクラーヴァの軽騎兵突撃、セポイの反乱の時のラックナウの包囲戦の成行きなどに全く無関心な英国人がいたなら、何と鈍感な人だろうと云われたに違いない。また普仏戦争のセダンやストラスブルグ、メッツ、パリなどの戦いに何の興味も持たず、まるで興奮しない者がいたとしたら、何と興ざめな、面白みのない人かと思われたであろう。

 しかし、かつて人間同士の間で戦われたどんな戦争よりもずっと重大な、もう1つの戦いがある。それは単に一国家や数カ国にかかわる戦いではなく、この世に生を受けたすべてのキリスト者の男女にかかわるものである。私の云うのは霊的な戦いである。救われたいと願う者がみな、自分の魂をかけて戦わなくてはならない戦いのことである。

 もちろん多くの人は、この戦いについて全く知らない。この戦いのことを話してみるがいい。気違いか、狂信者か、馬鹿扱いされるであろう。にもかかわらず、この戦いは、世界がかつて目撃したどの戦争にも劣らず現実に存在している。この戦いにも白兵戦があり、死傷者がある。この戦いにも警戒態勢があり、疲弊がある。この戦いにも包囲攻撃があり、強襲作戦がある。この戦いにも勝利があり、敗北がある。何にもましてこの戦いには、独特の、恐るべき重大な結果が伴っている。地上の戦いが国々にもたらす結果は、一時的なものであることが多く、癒されうるものである。霊的戦いは全く違う。この戦いの終戦がもたらす結果は、取り返しがつかない永遠のものである。

 聖パウロがこの壮烈な言葉でテモテに語っているのは、その戦いのことである。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」。私が今から語ろうとしているのは、この戦いについてである。この問題は、聖化と聖潔の問題と密接に関連していると信ずる。真の聖潔がどういうものであるか理解したいと願う者は、キリスト者が「戦士」であることを肝に銘じなくてはならない。聖くなりたければ、戦わなくてはならない。

1.真のキリスト教は戦いである

 まず第一に云わなくてはならないのは、真のキリスト教は戦いだということである。

 真のキリスト教! 「真の」という言葉に注意していただきたい。今日世の中には、真の純粋なキリスト教でない信仰が蔓延しており、それで十分通用している。ぼんやりとした良心の持ち主には、それで十分なのである。しかし、それは本物ではない。それは、1800年前キリスト教と呼ばれていたものとは似て非なるまがいものである。この国では、おびただしい数の男女が毎日曜日、教会や礼拝堂に通い、自らキリスト者であると公言している。そうした人々は、名前が教会の受洗者名簿に載っており、まわりの人からキリスト者だと思われている。結婚式はキリスト教式で挙げ、葬式もキリスト教で行なってもらうつもりでいる。しかしその信仰生活には、「戦い」のしるしが全く見られない! 霊的な争闘や苦闘、奮闘、克己、警戒、戦闘などのしるしは、文字通り皆無である。そうしたキリスト教は人を喜ばせるかもしれない。それに反することを云うと、厳しすぎるとか、愛がないとか思われるかもしれない。しかし、それは確かに聖書の説くキリスト教ではない。それは主イエスが創始され、使徒たちが広めた宗教ではない。そのようなものは、真の聖潔を生み出す信仰ではない。真のキリスト教は「戦い」なのである。

 真のキリスト者は「兵士」と呼ばれており、救われた日から死ぬときまで、兵士としてふるまわなくてはならない。私たちは、宗教的な雰囲気の中で、ぬくぬくと怠けて暮らすためにキリスト者になるのではない。天国への道を、快適な客車におさまって旅行する人のように、うとうとと惰眠をむさぼりながら行けるものだなどと一瞬たりとも考えてはならない。もしこの世の子らの基準で自分のキリスト教を規定するなら、そうした考えで満足していてもよかろう。しかし神のみことばは、決してそのような考え方を許しも勧めもしていない。聖書を信仰と行為の基準とするなら、この点に関して聖書はきわめてはっきりと規定していることがわかる。キリスト者は「戦わなくてはならない」のである。

 ではキリスト者は何と戦うべきか。それは他のキリスト者ではない。キリスト教を、年がら年中論争にあけくれる宗教だなどと思う者は、非常に嘆かわしい状態にある。教会と教会、会堂と会堂、教派と教派、派閥と派閥、党派と党派の争いに加わっていなければ、決して満足できないなどという者は、まだ知らなければならないほどのことも知ってはいない。もちろん教会の信条箇条や慣行指示書や儀式書の正しい解釈を確立するためには、時として法廷に訴えることが絶対に必要なこともある。しかし、概してキリスト者が互いに争い、ささいな口論に時間と力を空費しているときほど、罪の力が増強されるときはないのである。

 否、そうではない。キリスト者の最大の戦いは、世と肉と悪魔に対するものである。この三者こそ、キリスト者に生涯つきまとう宿敵である。これこそ、キリスト者が戦うべき三つの大敵である。もしこの三者に勝利をおさめなければ、他でどんな勝利を得てもむなしく、意味がない。確かにキリスト者が天使のごとき性質を持っており、堕落した被造物でなかったとしたら、この戦いもさほど重要ではないであろう。しかし、腐敗した心と、悪魔と世の誘惑に絶えずさらされる状況にあっては、「戦う」か失われるか2つに1つである。

 キリスト者はと戦わなくてはならない。救われたあとでも、私たちは悪に傾きがちな性質を内側にかかえている。私たちの心は、水のようにたよりなく、弱く、この世では決して不完全さから逃れることができない。完全な心を持とうなどと望むのは、あわれな妄想にすぎない。心が迷い出ないようにと、主イエスは私たちに命じておられるではないか。「目をさまして、祈り続けなさい」。心は燃えていても、肉体は弱いのである。私たちは、日々祈りにおいて戦い、格闘しなくてはならない。また聖パウロも叫んで云う。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」。「私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を……とりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」。「地上のからだの諸部分……を殺してしまいなさい」(マコ14:38; Iコリ9:27; ロマ7:23、24; ガラ5:24; コロ3:5)。

 キリスト者はと戦わなくてはならない。この強大な敵が繰り出す巧妙な影響力は、日ごとに撃退しなくてはならない。私たちは、日々戦うことなくして決してこれに打ち勝つことはできない。世にある良きものへの愛、世の嘲笑や非難への恐れ、世とうまく折り合っていきたいというひそかな願望、世の他の人々と同じようにしていたい、極端なことに走りたくないというひそかな願い----こうしたものはみな、天国への途上にあるキリスト者を絶えず襲撃する霊的な外敵であり、私たちはこれを撃ち破らなくてはならない。「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです」。「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」。「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」。「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです」。「この世と調子を合わせてはいけません」(ヤコ4:4; Iヨハ2:15; ガラ6:14; Iヨハ5:4; ロマ12:2)。

 キリスト者は悪魔と戦わなくてはならない。かの人類の古き敵は死んではいない。アダムとエバの堕落以来、絶えず「地を行き巡り、そこを歩き回って」、1つの大目的----人間の魂の破滅----を成就させようと常に画策している。まどろむことも眠ることもなく、常に、獅子のように食い尽くすべきものを探し求めて歩き回っている。目に見えない敵である悪魔は、常に私たちの近くにひそんでおり、私たちの行く道や枕元のまわりで、私たちの生活のすべてをうかがっている。悪魔は初めから人殺し、偽り者であり、昼も夜も私たちを地獄へ放り込もうと術数を巡らしている。あるときは迷信を信じさせ、あるときは不信仰な思いをそそのかし、ある手口を使ったかと思うと別の策略を巡らし、不断に私たちの魂に戦いをいどんでいる。サタンは、「あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って」いる。私たちが救われたいと思うなら、この強大な敵に日ごとに抵抗しなくてはならない。しかし「この種のものは」、目をさまして、絶えず祈り、戦い、神のすべての武具を身に着けることによらなければ、「何によっても追い出せるものでは」ない。十分に武装している強い人を心の外に追い払い、よせつけないためには、日々戦い続けるほかないのである(ヨブ1:7; Iペテ5:8; ヨハ8:44; ルカ22:31; エペ6:11)。

 ある人々は、こうしたことをあまりに厳しすぎると思うかもしれない。そこまで云うと行き過ぎではないか。少し深刻に考え過ぎてはいないかと思うかもしれない。ある人はひそかにつぶやいているであろう。何もそんな苦労までしなくても、そんな戦いだの苦闘だのしなくても、キリスト教国の英国ではみな天国に行けるはずだ、と。しかし、もう少し私の話に耳を傾けていただきたい。神にかわって云わなくてはならないことがある。英国史上、最も賢明な将軍の有名な格言をご存じだろうか。「戦争における最大の愚行は、敵を過小評価し、これを手軽に片づけようとすることである」。このキリスト者の戦いは、軽く考えてよい問題ではない。注意して私の云うことを考えていただきたい。聖書は何と語っているか。「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい」。「キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください」。「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものでなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい」。「努力して狭い門からはいりなさい」。「いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」。「わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです」。「剣のない者は着物を売って剣を買いなさい」。「目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい」。「それは、あなたが……信仰と正しい良心を保ち、勇敢に戦い抜くためです」(Iテモ6:12; IIテモ2:3; エペ6:11-13; ルカ13:24; ヨハ6:27; マタ10:34; ルカ22:36; Iコリ16:13; Iテモ1:18; 19)。こうした言葉の述べるところは、取り違えようもないほど明白で、はっきりしていると思う。これらはいずれもみな、私たちの側に受け入れる用意さえあれば、1つの重大な教訓を教えているのである。それは、真のキリスト教が戦いであり、格闘であり、戦場だということである。「戦い」など不必要だ、といい気になって説き聞かせ、私たちはただ黙って「自分自身を神にゆだね」ればいいのだなどと教える人々がいるが、そういう人は自分の聖書を理解しておらず、とんでもない間違いを犯しているように思える。

 英国国教会の洗礼式は何と語っているか。疑いもなく、その式文は聖書のことばではないし、霊感を受けていない他のすべての条文と同じく欠けがある。しかし、自他ともに英国国教徒であると認められている、世界中の何百万もの人々にとっては、多少の重みを持って語られてよいはずである。その語るところによると、英国国教会の会員として新たに受け入れられるすべての者の上では、次の言葉が語られなくてはならないのである。「われはここに、父、子、聖霊の名によりて汝に洗礼を授ける」。「われは十字架のしるしによりてこの子を祝す。そは、これよりこの子が、十字架につけられしキリストへの信仰告白を恥じず、その御旗のもとで罪、世、悪魔に対して男らしく戦い、かつキリストの忠実な兵士またしもべとして、生涯生き抜かんがためのしるしである」。もちろん誰もが知っているように、おびただしい数の場合、幼児への洗礼は単なる形式にすぎず、多くの親たちは、信仰も祈りも考えもなしに祭壇の前にわが子を連れてきて、その結果何の祝福も受けられない。だから、それでも洗礼は胃薬のように機械的に働くものであるとか、両親が敬虔であろうと不敬虔であろうと、祈りをこめていようと祈りなしであろうと、子どもにはみな同じように恵みが与えられるはずだとか考えるのは、非常にばかげている。しかし少なくとも1つのことだけは確かである。洗礼を受けたすべての英国国教徒は、自分の告白によって「イエス・キリストの兵士」なのであって、「その御旗のもとで罪、世、悪魔に対して男らしく戦う」と誓約されているのである。疑う者は、自分の祈祷書を取り、中を読み、注意深く学んでみるがいい。多くの非常に熱心な英国国教徒に見られる最大の欠点は、自分の祈祷書の中身について完全に無知なことである。

 英国国教会に属していようといまいと、1つのことだけは確かである。このキリスト者の戦いは、まぎれもない現実であり、非常に重要だということである。これは教会政治や儀式の方法といった問題とは違う。それらにおいては、さまざまな異論があっても、最後には天国へ行くことができる。しかし、この戦いは私たちの義務として課されている。私たちは戦わなくてはならない。かの7つの教会にあてた手紙の中で、主イエス・キリストの約束は、ことごとく「勝利を得る者」に対して与えられている。恵みのあるところには必ず葛藤がある。信仰者は兵士である。戦いなしに聖潔はありえない。天国には自分の戦いを戦い抜いた魂だけがはいるはずである。

 これは絶対に必要な戦いである。この戦争においては、傍観者的に中立の立場を取り続けることは不可能であるとわきまえよう。国家と国家の戦争においては、そうした方針を取ることも可能であろうが、魂にかかわる争闘にあっては絶対に不可能である。議場の政治家たちが盛んにほめそやしている不干渉主義や、待ちの構え、静観主義といった、事態の推移をただ待とうという姿勢は、このキリスト者の戦いにおいては全く通用しない。少なくともここでは、どのような人も「平和主義者」だからといって兵役を逃れることはできない。世や肉や悪魔と平和を保つことは、神に敵対し、滅びへ至る広い道を歩くことである。選択の余地はない。私たちは、戦うか失われるか2つに1つしかない。

 これは万人にとって必要な戦いである。いかなる階級の人も、いかなる年齢の人も、免除を申し立てたり、戦闘を忌避することはできない。牧師であれ信徒であれ、説教者であれ聴衆であれ、老人であれ若者であれ、上流階級であれ下層階級であれ、富者であれ貧者であれ、貴族であれ平民であれ、王侯であれ臣下であれ、地主であれ小作人であれ、学者であれ文盲であれ、すべての人が同じように武器を取り、戦場へ赴かなくてはならない。人はみな生まれながらに高慢、不信仰、怠惰、世俗性、そして罪に満ちた心を持っている。人はみな罠や落とし穴や陥穽のつきまとう世に生きている。人はみな悪意に満ちて絶えず暗躍を続ける悪魔につきまとわれている。人はみな、宮殿に住む女王から懲治監獄の中の乞食に至るまで、救われるためには戦わなくてはならない。

 これは不断に必要な戦いである。この戦いには何の休息もない。休戦協定も停戦協定もない。平日であれ日曜であれ、私事であれ公事であれ、暖炉の燃える家内であれ戸外であれ、舌や短気を抑えるなどといった小事であれ、王国を統治するというような大事であれ、キリスト者の戦いは絶え間なく続けられなければならない。私たちが相手にしている敵は、何の祝日も休暇もとらず、まどろむことも眠ることもしない。この肉体にいのちの息がある限り、私たちは武装を解かず、自分が敵地にあることを常に覚えていなくてはならない。ある聖徒は死に臨んで云ったという。「ヨルダンの水際まで来ても、まだサタンは私のかかとにかじりついているよ」、と。私たちは、死ぬまで戦わなくてはならないのである。

 このようなことを肝に銘じようではないか。自分の個人的信仰が、純粋で真実なものであるよう気をつけようではないか。大多数の、いわゆる自称キリスト者たちの最も嘆かわしい特徴は、そのキリスト教に戦いや葛藤がまるで見られないということである。彼らは食べたり、飲んだり、着飾ったり、仕事をしたり、娯楽に興じたり、金をかせいだり、金を使ったりしながら、週に一、二度、キリスト教の集会に形式的に参列するという日常を、くる週もくる週もつづける。しかし彼らは、この壮大な霊的戦い----その警戒と苦闘、その苦悶と苦悩、その戦闘と格闘のすべて----については、全く無知であるように見える。そういう状態にならないよう気をつけようではないか。魂にとって最悪の状態は、強い人が十分に武装して家を守っており、その持ち物を安全に保っているという状態である。彼が人々を思うままにとりこにし、それでいながら人々はそれに気づかないという状態である。この世で最悪の鎖は、囚人が感じることも見ることもできないという鎖である(ルカ11:21; IIテモ2:26)。

 もし自分の内側に少しでも戦いや葛藤があるのを自覚できるなら、私たちは自分の魂について安心してよい。もちろんそれだけあれば良いというものではない。それはわかる。しかし、あるとないでは大違いである。私たちは、自分の心の奥底で、霊的な争闘が行なわれているのを知っているだろうか。肉の願うことが御霊に逆らい、御霊が肉に逆らい、そのため自分で自分のしたいことをできないという状態を少しでも感じているだろうか(ガラ5:17)。自分の内側に2つの原理があり、それが支配権を求めてせめぎあっているのがわかるだろうか。自分の内なる人の中で、何か戦いが行なわれているのを感じているだろうか。もしそうなら、神に感謝しようではないか。それは良い徴候である。聖化の大いなるわざがなされつつあるという、非常に強力な証拠である。真の聖徒はみな兵士である。無感動、無気力、冷淡ほどひどいものはない。私たちは、多くの人たちよりましな状態にある。いわゆる自称キリスト者の大部分は、何も感じない。私たちは明らかにサタンの友ではない。この世の王たちと同様、サタンは自分の家来に戦いを挑んだりしない。彼が私たちを襲撃するということ自体、私たちを希望で満たすべき事実である。もう一度云う。安心しようではないか。神の子どもには、2つの著しい特質がある。その1つを私たちは持っているのだ。そのしるしとは、うちなる平安とうちなる戦いである。

2.真のキリスト教は信仰の戦いである

 そこで、この戦いということに関して述べなくてはならない第二の点に移ることにする。すなわち、真のキリスト教は信仰の戦いだということである。

 この点においてキリスト者の戦いは、この世の戦いと全く異なっている。それは鍛えあげた腕力や、俊敏な目くばりや、機敏な足さばきをたよりとするものではない。それは肉の武器で戦われるのではなく、霊の武器で戦われる。信仰こそ勝利の扉をひらくかなめである。勝ちを得るには、完全に信じることが必要である。

 書かれた神のみことばを疑わずに信じることこそ、キリスト者の兵士の大きな特質である。キリスト者の人生観、行動、考え、態度、希望、ふるまいには、ただ1つの単純な理由がある。すなわち彼は、聖書に啓示され、記されている、いくつかの命題を信じているのである。「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(ヘブ11:6)。

 今日、多くの人々が好んで語りたがるのは、教理や教義抜きのキリスト教なるものである。これは、初めは、たいへん結構に聞こえる。ちょっと目には、素晴らしい考えのように見える。しかし、少し立ち止まって、その意味するところをよく考えてみると、それが全くありえないものだということがわかる。骨格と筋肉を抜きにした肉体のようなものである。人は何かを信じていない限り、何者でもありえないし、何事も行なえない。あの悲惨で不快な理神論的な見解に立つ人々でさえ、何も信じていないなどと云うことはできない。どれほど教義神学をあざけり、どれほどキリスト者を盲目的信者となじろうとも、そこには一種の信仰がある。

 真のキリスト者にとって、信仰は自らの霊的存在を支える基盤そのものである。いやしくも世と肉と悪魔に対して熱心に戦う者はみな、自分の信ずる数々の偉大な真理を心に刻みこんでいるはずである。その真理が何々であるかはわからないかもしれない。それを定義したり、書き出したりすることは、さらに難しいであろう。しかしそれを信じていることは確かである。それが、意識的に無意識的に、彼らの信仰の根幹をかたちづくっているのである。富んでいようと貧しかろうと、知識があろうと無学であろうと、人が男らしく罪と格闘をつづけ、罪に打ち勝とうとしているなら、その人は、必ずやいくつかの偉大な真理を信じているにちがいない。

  信仰の象(かたち)につきては 恵まれぬ徒輩が互いに争うがよい

  生活の義しき人に誤りの あるべきはずも故もなければ

という有名な一節を書いた詩人は、才気はあったかもしれないが、神学的には無知にひとしい。正しい対象を信ずる信仰がなければ、正しい生活などありえない。

 私たちの主イエス・キリストの人格、みわざ、職務に対する特別な信仰こそ、キリスト者の兵士の性格の中心であり原動力である。

 彼は信仰によってまだ見ぬ救い主を見ている。それは彼を愛し、彼のために自分を捨て、彼のために彼の負債を支払い、彼の罪を負い、彼のそむきの罪をにない、彼のためによみがえり、彼のためにとりなし手として天の神の右の座につかれた方である。彼はイエスを見、イエスに忠実をつくす。この救い主を見、この方に信頼しているので、平安と希望を感じ、喜んで魂の敵どもに対して戦いをいどむ。

 彼は自分のおびただしい数の罪を、弱い心を、誘惑の世を、暗躍をつづける悪魔を知っている。それだけを見つめるなら絶望しかない。しかし彼は、それとともに、力強い救い主、とりなしをつづける救い主、同情にあふれる救い主----その血潮、その義、その永遠の祭司としての働き----を見、それが自分のものであることを信じている。彼はイエスを見、自分のすべてを彼にゆだねる。イエスを見つつ、喜びいさんで戦う。自分を愛してくださったこの方によって、自分が圧倒的な勝利者となることを確信して戦う(ロマ8:37)。

 キリストが自分とともにおり、常に助けてくださることを、はっきりと、不断に信じることこそ、キリスト者の兵士が勇敢に戦いつづけるための秘訣である。

 もちろん信仰に程度があることは、決して忘れてはならない。みながみな同じように信じているわけでなく、また同じ人の信仰でさえ浮き沈みがあり、非常に信仰に燃えているときもあれば、そうでないときもある。そうした信仰の程度に従って、キリスト者の戦いは激しくなったり楽になったり、勝ちを得たり退却を余儀なくされたり、勝利したり敗北したりする。最も信仰にあふれた人は、常に最も幸福で、最も慰めに満ちた兵士である。キリストの愛と不断の守りを確信することほど、戦いの不安を軽くするものはない。キリストが自分のそばに立っておられ、勝利は確実だという内なる確信ほど、罪を警戒し、罪と戦い、罪と格闘しつづける疲れをいやすものはない。悪い者が放つ火矢を、みな消すことができるもの、それは「信仰の大盾」である。苦難のときに「私はそれを恥とは思っていません」と云うことのできる人、それは「私は、自分の信じて来た方をよく知って……いる」と云うことのできる人である。「私たちは勇気を失いません」。「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです」という、照り輝くような言葉を書いた人物は、同じペンで「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と書いた人である。「世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」と述べた人、それは同じ手紙の中で「私が……生きているのは……神の御子を信じる信仰によっているのです」と述べた人である。「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」。「私は、キリストによって、どんなことでもできるのです」と述べた人、それは同じ手紙の中で「私にとっては、生きることはキリスト……です」と述べた人である。信仰が大きければ大きいほど、得られる勝利も大きい! 信仰が大きければ大きいほど、内なる平安も大きい!(エペ6:16; IIテモ1:12; IIコリ4:16、17; ガラ6:14; 2:20; ピリ4:11、13<英欽定訳>; 1:21)

 信仰の価値と重要性は、どれほど高く評価しても足りないと思う。使徒ペテロが「尊い」信仰と呼ぶのも当然である(IIペテ1:1)。キリスト者の兵士が 信仰によって勝ち取った数々の勝利のうち、百分の一でも詳しく話そうとするなら、時間がなくなるであろう。

 私たちの聖書を手に取り、ヘブル人への手紙11章を注意深く読んでみよう。ここに記された人名の長い一覧表に目を留めよう。アベルからモーセへ至り、キリストが処女マリヤから生まれ、福音によっていのちと不滅を明らかに示した時まで続く信仰の勇士たちに目を留めよう。彼らが世と肉と悪魔に対して、いかなる勝利を勝ち取ったか、よく見てみよう。そして、それらすべてを信仰の力がなしとげたことを忘れないようにしよう。これらの人々は約束のメシヤを待ち望んでいた。彼らは見えない方を見ていた。「昔の人々はこの信仰によって称賛されました」(ヘブ11:2-27)。

 初代教会史を語るページに目を転じよう。初代のキリスト者らが、いかに死に至るまでキリスト教を棄てず、異教の皇帝らによる激しい迫害にもひるまなかったか見てみよう。ポリュカルポスやイグナチウスのように、キリストを否むよりは喜んで死を選ぼうという人々が、何世紀にも渡って輩出した。罰金も、投獄も、拷問も、火刑も、剣も、この高貴な殉教者の大群の心をくじくことはできなかった。全世界の女王、帝政ローマの全権力をもってしても、僅かな漁師や取税人とともにパレスチナの片田舎で始まった宗教を撲滅することはできなかった! そして、その教会の力となっていたのが、目に見えないイエスに対する信仰であったことを忘れないようにしよう。彼らは信仰によって勝利を得たのである。

 またプロテスタント宗教改革の物語を調べてみよう。ウィクリフやフス、ルター、リドリ、ラティマー、フーパーなどの、主立った闘士たちの生涯を研究してみよう。これらの勇敢なキリストの兵士らが、いかに押し寄せる敵の軍勢を前に堅く立ち、自らの信条のため死を賭して立ち向かったかに目を留めよう。彼らはいかなる戦いを戦ったことか! いかなる論陣を張り続けたことか! いかなる論駁に耐えたことか! 武器を手にした世に対し、いかなる不屈の意志を示し続けたことか! そして私たちは彼らの力の秘密が、見えないイエスに対する信仰であったことを忘れないようにしよう。彼らは信仰によって勝利したのである。

 過去百年の間、教会史の上に偉大な足跡を残した巨人たちのことを考えてみよう。ウェスレー兄弟、ホイットフィールド、ヴェン、ロウメインが、いかにその時代世代の中に孤り立ち、英国のキリスト教信仰を復活させたか、いかに彼らが高位の人々からの反対をものともせず、祖国で信仰を告白するキリスト者のうちの九割から浴びせかけられた誹謗、中傷、嘲笑、迫害をものともせず進み続けたか見てみよう。ウィリアム・ウィルバフォースやハブロック、ヘドリー教区司教らが、いかに困難な場所でキリストの証しを続けたか、いかに陸軍連隊の食堂や、下院の議事堂でキリストの御旗をひるがえし続けたか見てみよう。この高貴な証し人たちが、いかに最後までひるむことなく、ついには不倶戴天の仇敵からさえ尊敬をかちとったか注目しよう。そして私たちは、彼らの性格を解く鍵が、彼らの見えないイエスに対する信仰であったことを忘れないようにしよう。信仰によって彼らは生き、歩み、立ち、勝利したのである。

 いまキリスト者の兵士として生涯を送りたいと願う者があるだろうか。それは神からの賜物である。この賜物を願って受けられない者はいない。人は行なう前に信じなくてはならない。キリスト者生活で何もできない理由は、信じていないためである。信仰は天国へ至るための第一歩である。

 いまキリスト者の戦いを力強く戦い、勝利を得たいと願う者があるだろうか。その人は、信仰が絶えず増し加えられるよう祈りなさい。キリストにとどまり、キリストに一層近づき、いのちの日の限り、キリストに堅くしがみつきなさい。日々、あの弟子たちと同じように、「主よ。私の信仰を増してください」と祈りなさい(ルカ17:5)。少しでも信仰があるなら、細心の注意を払って自分の信仰を見守りなさい。信仰はキリスト者性格の砦である。全要塞の安全がこの砦にかかっている。ここがサタンの好んで攻撃する地点である。信仰がくつがえされたなら、サタンの意のままになるしかない。いのちを大切と思うなら、私たちは特にここで警戒しなくてはならない。

3.真のキリスト教は良い戦いである

 最後に述べなくてはならないのは、真のキリスト教は良い戦いだということである。

 「良い」戦争とは、奇妙な形容である。この世の戦争はみな多少とも邪悪なものである。確かに多くの場合、戦争は絶対に必要である----民族の自由を勝ち取り、弱者が強者から虐げられるのを防ぐために。しかし、それでもなお戦争は有害である。戦争には、すさまじい流血と苦痛が必然的に伴う。戦争は、無数の人々を、何の用意もさせないままたちまち永遠の世界へ押しやる。戦争は、人間の最も醜い情動を呼び起こす。膨大な量の物資を浪費し破壊する。平和な家庭を、嘆き悲しむ寡婦と孤児で満たす。貧困と重税と国家的困窮を蔓延させる。社会の秩序をめちゃくちゃに破壊する。福音の働きを妨げ、宣教の拡大を妨害する。つまり戦争は、すさまじいばかりの、測り知りがたい悪である。祈る者はみな、夜となく昼となく「われらの時代に平和を賜え」と叫ぶべきである。それにもかかわらず、1つの戦いだけは、はっきり「良い」ものであり、その戦いを戦うことには何の悪も伴わない。その戦いとは、キリスト者の戦いである。その戦いとは、魂の戦いである。

 ではなぜキリスト者の戦いが「良い」戦いなのか。キリスト者の戦いのどこが世の戦いにまさっているのか。この件に関して詳しく吟味し、順を追って述べさせていただきたい。この問題について全くふれず、見過ごしにするわけにはいかない。もちろん、支払うべき代価を数えもせずにキリストの兵士として生涯を始めるようなことは、決してあってほしくない。聖い生涯を歩んで主を目にしたいと願う者はみな戦わなくてはならない。そしてキリスト者の戦いは、霊の戦いではあっても、現実のものであり、熾烈な戦いである。不屈の闘志と勇気と大胆さが求められる。そのことを隠すつもりはない。しかし、もう1つのことも読者に知っていただきたい。私たちは、この戦いを始めさえするなら、豊かな慰めと励ましが与えられる。聖書がキリスト者の戦いを「良い戦い」<英欽定訳>と呼ぶのには、理由がある。それがどういうことか、これから示してみよう。

 a. キリスト者の戦いが良い戦いだというのは、それが最高の将軍の指揮下で戦われるからである。全信者の指導者であり司令官であるお方は、神である救い主、主イエス・キリスト----完璧な知恵と、無限の愛と、全能の力を持つ救い主にほかならない。私たちの救いの指揮官は、ご自分の将兵を確実に勝利へ導かれる。決して無駄な作戦を立てず、決して判断を誤らず、決して過ちを犯すことがない。彼の目は、大きい者も小さい者もわけへだてなく、部下全員の上に注がれている。彼の軍隊では、最下級の兵卒も忘れられてはいない。最も弱く、最も病弱な者でさえ覚えられ、心にとめられ、救いに至るまで守られる。ご自身の血潮をもって買い取り、贖われたほどの魂は、1つたりとも、いたずらに投げ捨てられたり、見放したりできないほど尊い存在なのである。確かにこれは良い戦いである!

 b. キリスト者の戦いが良い戦いであるというのは、それが最高の助けによって戦われるからである。それぞれの信者は自分ひとりでは弱くとも、聖霊が彼のうちに住んでおられ、からだは聖霊の宮とされている。父なる神に選ばれ、御子の血によって洗われ、御霊によって新たにされた彼は、自分自身の費用で戦いに行くわけではなく、決して孤立無援になることはない。聖霊なる神が日々彼を教え、導き、指導し、行く道を示してくださる。父なる神がその全能の力によって彼を守られる。御子なる神が、さながら山上のモーセのように、谷間で戦う彼のため、一瞬一瞬とりなしをしておられる。このような三つ撚りの糸は、決して切れない! 彼の日ごとの装備と補給は決して途切れることがない。糧食は決して欠けることがない。パンと水は確実に支給される。自分だけでは虫けらのように弱く見えても、主のうちにあっては偉大な手柄を立てることができる。確かにこれは良い戦いである!

 c. キリスト者の戦いが良い戦いだというのは、これが最高の約束のもとに戦われるからである。どの信者にも、途方もなく偉大で高貴な約束が与えられている。キリストにあって、その約束のすべては「しかり」であり「アーメン」であり、確実に成就される。「罪はあなたがたを支配することがない」。「平和の神は、すみやかに、あなたがたの足でサタンを踏み砕いてくださいます」。「良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」。「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない」。「わたしの羊は……決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません」。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」。「私はこう確信しています。死も、いのちも……今あるものも、後に来るものも……私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」(ロマ6:14; 16:20; ピリ1:6; イザ43:2; ヨハ10:28; 6:37; ヘブ13:5; ロマ8:38、39)。このような言葉は、その重さと同じだけの黄金に値する! 援軍が来るとの知らせが、どれほど包囲された城市の籠城軍を力づけるものか----例えばラックナウのように----、どれほど本来の力以上に力を発揮させるものか知らぬ者があろうか。「夜までに援軍が来る」との約束が、ワーテルローの戦いでどれだけ大きな役割を果たしたか聞いたことのない者があろうか。しかしそうした数々の約束もみな、信者に与えられたこの豊かな宝、神の永遠の約束にくらべれば無にひとしい。確かにこれは良い戦いである!

 d. キリスト者の戦いが良い戦いだというのは、それが最高の結果をもたらすからである。確かにこの戦いには、激しい苦闘、辛い争闘、負傷、戦傷、警戒、断食、疲労が伴う。それにもかかわらず、すべての信者は例外なく、「[彼を]愛してくださった方によって……圧倒的な勝利者となる」のである(ロマ8:37)。キリストの兵士の中に、戦闘中行方不明になる者、姿を消す者、戦場に屍をさらす者は一人もいない。キリストの軍隊では、兵卒のためにも士官のためにも、何の喪服を着る必要もなく、何の涙を流す必要もない。最後の夜がおとずれるとき、総員名簿は朝と寸分も変わらないであろう。クリミヤ戦役では、英国近衛連隊が、輝くように壮麗な一団としてロンドンから行進して行ったが、その勇壮な兵士のうち多くは異国の野に骨を埋め、再びロンドンを見ることがなかった。しかし、キリストの軍隊が、神の設計し建設された「堅い基礎の上に建てられた都」(ヘブ11:10)へ帰還するときは、これとは全く違い、失われた者は誰一人ないであろう。私たちの偉大な君の言葉は、真実であることがわかるであろう。「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」(ヨハ18:9)。確かにこれは良い戦いである!

 e. キリスト者の戦いがなぜ良い戦いかというと、それはこれが戦う人自身の魂に善をもたらすからである。他の戦争はみな、魂を悪い方向へ向け、低劣で卑しいものとする傾向がある。世の戦争は人間のもっとも醜い情動を呼び起こす。良心をかたくなにし、信仰や道徳性の土台を摩滅させる。キリスト者の戦いだけが、人間のうちに残された最良の部分を呼び起こす傾向を持っている。この戦いは、人をへりくだらせ、愛を増させ、利己心と世俗心を減じ、人をして上にあるものを愛し求めさせようとする。老い、病み、死の床についた者のうち、罪と世と悪魔に対してキリストの戦いを戦って来たことを少しでも悔やんだ者はいない。彼らの唯一の後悔は、もっと早くからキリストに仕えなかったということである。あの傑出した聖徒、フィリップ・ヘンリーの経験は、決して独特なものではない。最期を迎えようとしていたころ、彼は家人に云った。「覚えておきなさい。キリストに奉仕するため費やした人生こそ、地上で最も幸福な人生なのだよ」。確かにこれは良い戦いである!

 f. キリスト者の戦いが良い戦いだというのは、それが世に善をもたらすからである。他の戦争はみな、荒廃と惨禍をもたらす有害なものである。ある土地を軍隊が行軍するとき、それは住民にとって途方もない災厄となる。そこには貧困と、破壊と、害悪が満ちる。人々にも財産にも、雰囲気と道徳性にも、必ずや損害がもたらされる。キリスト者の兵士によってもたらされる影響は、これとは全く違う。キリスト者がどこで暮らそうと、それは祝福である。彼らは宗教心と道徳心の基準を引き上げる。キリスト者のいるところ、決まって酩酊や礼拝欠席や遊蕩や不正には歯止めがかかる。彼らの敵でさえ、彼らを尊敬せざるをえない。兵営や駐屯地が近隣に害を及ぼしていない土地はめったにない。しかし、どこであろうと数人でも真のキリスト者がいるならば、それは祝福であることがわかる。確かにこれは良い戦いである!

 g. 最後に、キリスト者の戦いが良い戦いだというのは、その戦いを戦う者すべてに輝かしい報いが待っているからである。キリストがご自分の忠実な民にどのような報酬を支払ってくださるか、測りうる者があろうか。私たちの神なる君が、人々の前でご自分を告白した者らにどのような良い物を貯えておられるか、見積もることのできる者があろうか。国家は、勇敢に戦った兵士らに、感謝としてメダルやヴィクトリア十字勲章や、年金、爵位、勲位、称号などを与えることができる。しかし、永遠に残り永遠に続くもの、墓の彼方まで持っていくことのできるものは何1つ与えることができない。ブレナムやストラスフィールゼーの居城を楽しむことができるのも、ほんの数年に過ぎない。どれほど勇猛果敢な将軍や兵士も、いつかは恐怖の王の前に屈服する日が来る。しかしキリストの御旗のもとに、罪と世と悪魔に対して戦う者は、それよりはるかにまさっている。生きている間、人々から受ける称賛はほとんどないかもしれない。何の栄誉もなく墓場に下っていくかもしれない。しかし彼は、はるかにすぐれたものを受けることができる。彼は、はるかに永続するもの、「しぼむことのない栄光の冠」(Iペテ5:4)を受けるからである。確かにこれは良い戦いである!

 キリスト者の戦いは良い戦いである。まことに、真実に、確実に、良い戦いである。このことをはっきり心に思い定めておこう。私たちは、まだその一部分しか見ていない。私たちは苦闘は見ても、結末は見ていない。戦役は見ても、報酬は見ていない。十字架は見ても、栄冠は見ていない。ひとにぎりの、貧しく心悔い砕けた、祈り深い人々が艱難や辛苦に耐え、世から蔑まれているところは見ても、神の御手が彼らの上にあり、神の御顔が彼らに微笑みかけ、栄光の王国が彼らのため備えられているところは見ていない。こうしたことは、いまだ明らかにされていない。見た目で判断しないようにしようではないか。キリスト者の戦いには、見えるものをはるかに超えた素晴らしいものがあるのである。

 さてこの主題の結論として、実際的な適用を少し述べて終わりにしたい。私たちの生まれ合わせた時代は、世界中に戦争や紛争の絶えない時代である。多くの国が非常な苦悩をなめ、人々の笑い声のさんざめく美しい場所のいくつかは、完全に消滅してしまった。確かにこのような時代、牧師が人々に霊の戦いについて思い出すよう求めても、はなはだしく場違いではないであろう。しめくくりとして、この大いなる魂の争闘についてもう二言三言語らせていただきたい。

 1. あなたは今、この世の報いを求めて激しく戦っているかもしれない。そうだとするなら、用心した方がいい。あなたはおびただしい数の失望の種を蒔いているのだ。自分のしていることに気をつけていないと、あなたの終わりの日は悲しみのうちに沈むことになるであろう。

 あなたがたどっている道は、何千何万という人々がすでに歩んできた道である。彼らは、富や栄誉や役職や昇進のために激しく戦ってきた。神やキリストや天国や来たるべき世には背を向けた。では最後にどうなったか? 多くの場合、否、あまりにも多くの場合、彼らは自分の全生涯が途方もない失敗であったことに気づいた。彼らは、苦い経験から、ある一人の死にゆく政治家と同じ思いを味わった。その政治家は、死の床の中で、「戦えども、戦えども、わが手に勝利は来たらなかった」、と叫んだのであった。

 幸せになりたいと思うなら、今日ここで、主の側に加わることである。これまでの不注意、不信仰は振り払うがいい。無思慮、無分別な世にならうのはやめるのだ。十字架を取りあげ、キリストの忠実な兵士となりなさい。信仰の戦いを勇敢に戦い……なさい」。それはあなたの安全のため、またあなたの幸福のためである。

 この世の子らが、信仰を抜きにして、自由のためにしばしば何をするか考えてみるがいい。思い出してもみよ。ギリシャ人やローマ人、スイス人やチロル人は、異国のくびきの下に屈服するくらいなら、いかなるものも捨て、命すら捨てて闘ったのである。そうした人々の模範に負けないようにしなさい。朽ちる冠のため、これほどのことができるなら、朽ちない冠のためには、どれほど大きなことをすべきであろうか。奴隷として生きることがどれほど惨めであるか、目覚めるがいい。いのちと幸福と自由のために、立ち上がり闘うがいい。

 キリストの御旗の下で兵籍に入ることを恐れてはならない。あなたの偉大な救いの君は、ご自分のもとに来る者を誰一人拒まれない。アドラムの洞穴にいたときのダビデのように彼は、申し出る者はみな、本人がどれほど取るに足りない者と感じていようと、喜んで受け入れてくださる。悔い改めて信ずるなら、どれほど罪深くとも、キリストの軍隊に入隊できないような者はない。信仰によってキリストのもとに来る者はみな入隊を許可され、軍服を着せられ、武装され、訓練され、ついに完全な勝利へと導かれる。今日のこの日から始めることを恐れてはならない。あなたの入る余地は十分ある。

 そして一度兵籍に入ったなら、戦い続けることを恐れてはならない。兵士として一心に専心すればするほど、あなたはこの戦いを戦うのが快くなる。疑いもなく、戦いが終了するまでは、しばしば困難や疲労や激戦に出会うであろう。しかし、決して心くじけてはならない。あなたの味方をされる方は、あなたのどんな敵よりもはるかに偉大である。永遠に続く自由か、永遠に続く隷属か、それがあなたの前にある選択肢である。自由を選びとって、最後まで戦い抜きなさい。

 2. あなたは今、すでにキリスト者の戦いのいくばくかを知っており、兵士として年期と経験を積んでいるかもしれない。もしそうだとするなら、同じ戦友からの忠告と激励を最後の言葉として受けていただきたい。私は、これを自分に対しても語ろうと思う。私たちは、心をわき立たせるために忘れていることを思い出すことにしよう。世の中には、どれほど肝に銘じても十分ではないことがある。

 私たちは忘れないようにしよう。勇敢に戦って勝利を得ようというなら、私たちは神のすべての武具を身に着け、それを死ぬまで片時も手放してはならない。その武具の1つたりとも、なしで済ますことはできない。真理の帯、正義の胸当て、信仰の大盾、御霊の剣、望みのかぶと----それぞれみな必要である。私たちは一日たりとも、この武具の1つでも抜きに済ますことはできない。200年前に死んだ、キリストの軍隊の老巧な兵士は至当な言葉を述べたものである。「私たちは天国では武具ではなく、栄光の衣を身にまとっているであろう。しかしこの地上では、昼も夜も武具を着ているべきである。私たちは歩むにも、働くにも、眠るにも、その武具を身に着けていなくてはならない。そうでなければ、キリストの真の兵士とはいえない」。*1

 私たちは、1800年前に眠りについたひとりの戦士が述べた、御霊の霊感による厳粛な言葉を忘れないようにしよう。「兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです」(IIテモ2:4)。願わくは私たちが、この言葉を絶対に忘れないように!

 私たちは忘れないようにしよう。ある者らは、しばらくは立派な兵士のように見え、様々に大言壮語していながら、いざ戦いの日には尻尾を巻いてこそこそと逃げ出していった。

 バラムやユダやデマスやロトの妻のことを決して忘れないようにしよう。私たちは自分がどのような境遇にあろうと、またどのように弱かろうと、偽りのない者、真実な者、純粋な者、裏表のない者であるようにしよう。

 私たちは忘れないようにしよう。私たちの愛する救い主のまなざしは、朝も昼も夜も私たちの上に注がれている。彼は決して私たちを、耐えきれないような試練に会わせることはなさらない。彼は私たちの弱さに同情できない方ではない。なぜなら、彼もまた誘みに会われたからである。彼は戦いや争闘がどのようなものか知っておられる。なぜなら、彼もまたこの世の君の攻撃に会われたからである。私たちは、このような大祭司、神の御子イエスをいただいているのだから、自分の信仰の告白を堅く保とうではないか(ヘブ4:14)。

 私たちは忘れないようにしよう。私たちの前にも、幾多の兵士たちが私たちと同じ戦いを戦い、彼らを愛してくださった方によって、圧倒的な勝利者となったのである。彼らは、子羊の血によって打ち勝った。私たちも同じことができる。キリストの御腕は常に変わらず強く、キリストの心は常に変わらずいつくしみ深い。私たちの前に人々をお救いになった方は、決して変わることがない。彼は、「ご自分によって神に近づく」すべての人々を「完全に救うことがおできに」なる。では疑いや恐れは投げ捨てようではないか。あの「信仰と忍耐によって約束のものを相続する」人々、そして私たちが加わるのを待っている人々にならおうではないか(ヘブ7:25; 6:12)。

 最後に私たちは、忘れないようにしよう。時は短くなっている。キリストの再臨は近づいている。今しばし戦い抜けば、最後のラッパが鳴り渡り、平和の君が新しい地を支配するためやって来られる。もうしばし争いと苦闘を経れば、私たちは、戦いや罪、悲しみや死と永遠の別れを告げることになる。では、最後まで戦い抜き、決して降参しないようにしようではないか。そのように、私たちの救いの君も云っておられる。「勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる」(黙21:7)。

 最後の最後に、ジョン・バンヤンの言葉でしめくくらせていただきたい。これは「天路歴程」の最も美しい箇所の1つである。「この後真勇者が他の人々と同じ使者からお召状で迎えられたという評判が伝わった。そのお召状が本当である印としてこう言われた、『水がめは泉のかたわらで破れた』(伝12:6)。それが分かったときは彼は友だちを呼んでその話をした。彼は言った、『私は父のみもとに参ります。非常な難儀をしてここへ参りましたが、今いる所に着くために経験したすべての苦労も今は後悔しておりません。私の剣は私についで巡礼の旅をする者に与えましょう。また私の勇気と手並はそれを得ることのできる者に与えましょう。私の傷痕は一緒に持って行って、これから私に報いて下さる方のために私が闘った証拠といたします』。彼がこの世から出かけるべき日が来たとき、多くの人々が川岸まで送って行った。川の中に入ると彼は言った、『死よ、おまえのとげはどこにあるのか』。そしていよいよ深く入って言ったとき彼は言った、『墓よ、おまえの勝利はどこにあるのか』。かくて彼は渡り、向こう岸ではあらゆるラッパが彼のために鳴り響いた」。*2

 願わくは、私たちの最後もこのようであるように! 戦わなければ、生きている間決して聖潔を得られず、死んでも決して栄冠を得られない。願わくはそのことを私たちが決して忘れないように!


戦い[了]

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*1 Willam Gurnal: The Christian in Complete Armour. Banner of Truth Trust, 1979[本文に戻る]

*2 ジョン・バニヤン、「天路歴程 続編」 p.245-246(池谷敏雄訳)、新教出版社、1985. [本文に戻る]

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