目次 | BACK | NEXT

3. 聖 潔


「聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブ12:14)

 この聖句は、1つの非常に重大な問題を明らかにしている。それは、実際的な聖潔ということである。これは、信仰を告白するキリスト者ならみな注目せざるをえない問いを投げかける。すなわち、私たちは聖くなっているだろうか? 私たちは主を見ることができるだろうか?

 この問いは決して見当違いなものではない。賢者の言葉によれば、「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。……黙っているのに時があり、話をするのに時がある」。しかし、聖くなくてもよいような時は決してない。一日たりともない。私たちは聖くなっているだろうか?

 この問いは、あらゆる地位、立場の人々に関係がある。ある人は富み、ある人は貧しい。ある人は博識だが、ある人は学がない。ある人は主人、ある人は従僕である。しかし、聖くなるべきでないような地位や立場にある者はない。私たちは聖くなっているだろうか?

 きょうはこの問いについて聞いていただこうと思う。私たちの魂は、神の前にどのような状態だろうか。このあわただしい喧噪の世の中で、しばし立ちどまり、聖潔について考えてみたい。もちろん、もっと耳当たりの良い題目を選ぶこともできたであろう。また、もっと手頃でやさしい題目を選ぶこともできたであろう。しかし、これ以上時にかなった、またこれ以上魂にとって有益な主題はありえないはずである。神のみことばは私たちに厳粛に語っている。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」、と(ヘブ12:14)

 ここで私は、神の助けをかりて、真の聖潔がいかなるものか、またなぜそのように必要とされているかを吟味していこうと思う。そして結びとして、聖潔に達しうる唯一の道を示してみたい。すでに私は前回の学びで、教理的な側面からこの主題に取り組んだ。今回は、もっと平易に、もっと実践的な見地から語っていこう。

1. 真の実際的聖潔とは何か

 まず第一に、真の実際的聖潔がいかなるものか明らかにしよう。神に聖いと呼ばれるのはどういう人々だろうか。

 人は相当のことをしても、決して真の聖潔に達することがないことがある。聖潔とは知識ではない----それはバラムにもあった。偉大な信仰告白でもない----それはイスカリオテのユダにもあった。多くのことを行なうことでもない----それはヘロデもしていた。特定の宗教的行動に情熱を傾けることでもない----それはエフーにもあった。道徳的な生き方でも外的な義務を果たすことでもない----それはあの若い役人にもあった。説教者の言葉に喜んで耳を傾けることでもない----それはエゼキエルの時代のユダヤ人たちもしていた。敬虔な人々と親しく交わることでもない----それはヨアブやゲハジやデマスもしていた。しかし、彼らのうち一人として聖い者はいなかった! こうした事柄だけでは聖潔とはいえない。こうしたものを備えていても、確実に主を見ることができるとは限らない。

 それでは真の実際的聖潔とはどういうことか。これは難しい質問である。この件について聖書が少ししか語っていないというのではない。私が恐れるのは、聖潔について誤った観念を与えはしないか、云うべきことを云い落としはしないか、また、云うべきでないことを云って害を与えはしないか、ということである。しかし、キリスト者の聖潔がどういうものか、はっきり思い浮かべることができるように、大まかな描写だけさせていただきたい。ただし、決して忘れてほしくないのは、これから述べることが、せいぜい貧しく不完全な概略にすぎないということである。

 a. 聖潔とは、聖書に記された神のみこころをわきまえ知り、神と同じ思いを持つ習慣である。神の判断する通りに判断し、神の憎むものを憎み、神の愛されるものを愛し、神のみことばという基準を通して、世界のすべてのものを評価することである。最も徹底的に神と一致している人こそ、最も聖い人である。

 b. 聖い人は、自分の知る罪をすべて避け、自分の知る戒めをすべて守ろうと努力する。彼は、心をきっぱり神の方に向けている。みこころを行ないたいと心から願い、世の不興を買うよりは神の不興を買う方を恐れ、摂理による道をすべて愛する。彼は、パウロの「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいる」(ロマ7:22)という気持ち、またダビデの「私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます」(詩119:128)という気持ちを自分のものとするのである。

 c. 聖い人は、主イエス・キリストに似た者になろうと懸命に努力する。日々主への信仰に生き、日ごとに主から平安と力を引き出すだけではない。主と同じ心を持とうとし、主のかたちと同じ姿になろうと努力するのである。彼の目標は、キリストが私たちを赦されたように、他人を忍び赦すこと。キリストがご自分を喜ばせなかったように、利己的な態度を捨てて生きること。キリストが私たちを愛されたように、愛のうちを歩むこと。キリストがご自分を無にして卑しくなられたように、へりくだって慎み深くあることである。彼は、キリストが真理の忠実な証し人であられたことを決して忘れない。キリストは自分の望むことを行なうため来られたのではない。御父の意志を行なうことが、主の食物であった。主は、他人に仕えるため絶えず自分を否まれた。無体な侮辱にも柔和で忍耐深くあられた。王族よりも敬虔な人々の方を高く評価された。罪人に対して愛と同情には満ちておられた。罪を非難するときは大胆で妥協がなかった。人々の賞賛が得られるときも、それを求めなかった。巡り歩いて良いわざをなされた。世的な人々から離れておられた。絶えず祈っておられた。神のわざは、血を分けた家族にも邪魔させなかった。こうした事柄を、聖い人は常に忘れない。こうした態度を自分の生きる姿勢としようとする。彼はあの「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」、というヨハネの言葉(Iヨハ2:6)、「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました」、というペテロの言葉(Iペテ2:21)を胸に刻みつけている。幸いなのは、キリストを自分の救いのためにも模範のためにも、「すべて」、とする人である。もし私たちがもっと頻繁に、「キリストであったなら、何と云われただろう、何をなされたであろう」、と自問するなら、自分の時間をより節約し、より罪を防ぐことができよう。

 d. 聖い人は、柔和、寛容、親切、忍耐、また温和な気立てを追い求め、舌を制する。彼は多くを忍び、多くを耐え、多くを大目に見る。何かあるとすぐ自分の権利を主張するようなことはない。この点で、シムイに呪われたときのダビデ、アロンとミリアムに非難されたときのモーセは、素晴らしい模範である(IIサム16:10; 民12:3)。

 e. 聖い人は、自制と克己の道を追い求める。彼は肉体の欲望を殺し、自分の肉をさまざまな情欲や欲望とともに十字架につけ、自分の情動を矯め、肉的な性向を抑制するために、歯を食いしばって努力する。こうしたものがいつ堰を切って溢れ出すか知れないからである。あの、使徒たちに対する主の御言葉、またパウロの言葉は何と奥深いことか。「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために、沈み込んでい……ないように、よく気をつけていなさい」(ルカ21:34)。「私は自分の体を打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです」(Iコリ9:27)。

 f. 聖い人は、愛と兄弟愛を追い求める。彼は黄金律の遵守をこころがけ、自分がしてほしいように他人に対してふるまい、自分に云ってほしいような言葉を他人に語ろうと懸命に努力する。彼は満ち溢れる愛をもって兄弟を、またその肉体を、持ち物を、性格を、感情を、魂を愛する。「他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」、とパウロは云う(ローマ13:8)。聖い人は、いかに小さなことであれ、どんな嘘も、陰口も、悪口も、ごまかしも、不正直も、不公平も忌み嫌う。聖所のシェケル、聖所のキュビトは、商用のものより重く、大きかったのである。彼は、自分のあらゆる行動によってキリスト教信仰を飾ろうとする。周囲のすべての人の目に、キリスト教が美しく、立派なものだと映るようにする[テト2:10]。しかし、おゝ、第一コリント13章や、山上の説教の言葉は、信仰を告白する多くのキリスト者の行為の脇に置いたとき、何と人を断罪してやまないことか。

 g. 聖い人は、慈善と博愛の精神を追い求める。彼は、一日中何もせずに安逸をむさぼりながら生きようとはしない。他人に迷惑をかけないだけの生き方では満足せず、他者のために善を行なおうとする。この時代の中で自分の人生を有益なものとしよう、自分の力のおよぶ限り、周囲の人々の霊的必要と窮乏を補おうと、ぎりぎりまで努力する。ドルカスはそのような女性であった。彼女は「多くの良いわざと施しをしていた」。単に善行の計画を立てたり、口にしたりしていただけでなく、実際に「していた」。パウロもそのような人物であった。「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう」。たとえ「あなたがたを愛すれば愛するほど、私はいよいよ愛されなくなる」、としても、彼の態度はかわらなかった(使徒9:36; IIコリ12:15)。

 h. 聖い人は、心のきよさを追い求める。彼は、魂を汚すいかなる不潔も、いかなる不道徳もいとわしく思い、自分の魂を汚す恐れのあるものはすべて避ける。自分の心が火薬庫のようなものであると知っているので、どんな誘惑の火花も寄せつけないよう細心の注意を払う。あのダビデが罪に陥ったのに、誰が自分は強いなどと云えるだろう。旧約の儀式律法には振り返って見るべきものが多い。旧約の下にあった人は、動物の骨や死体、また墓や死人にふれただけでも、神の目には汚れた者とされた。こうしたことは象徴であり、比喩である。この点に関してキリスト者は、どれほど注意し、どれほど用心しても十分ということはない。

 i. 聖い人は、絶えず神を恐れつつ生きる。これは奴隷的な恐れのことではない。見つかる心配さえなければ怠けたいのだが、ただ罰がこわいから働くというような恐れは、奴隷の恐れと変わらない。ここで云う恐れとは、父親を慕う子供が、常に父親の前にいるかのように生き、行動したいと願うときに抱くような恐れのことである。ネヘミヤは私たちに立派な模範を残している。彼はエルサレムで総督となったとき、ユダヤ人に税金を課すことができた。自分の手当を要求することができた。前任の総督たちはそうしていたから、彼がそれにならっても咎める者はなかった。「しかし私は神を恐れて、そのようなことはしなかった」(ネヘ5:15)。

 j. 聖い人は、へりくだった心を追い求める。彼の願いは、つつましい思いを抱き、他の人をみな自分よりもすぐれた人とみなすことである。彼には、自分の心が、世の中の誰よりも邪悪なものに見える。彼は、「私はちりや灰にすぎません」、と云ったアブラハムの気持ちがわかる。「私はあなたが……賜ったすべての恵み……を受けるに足りない者です」、と云ったヤコブに共感できる。「私はつまらない者です」、と云ったヨブ、「私は罪人のかしらです」、と云ったパウロと同じ思いを持つ。あのキリストの忠信なる殉教者、聖徒ブラッドフォードは、ときどき手紙の結びに、「いとも惨めなる罪人、ジョン・ブラッドフォード」、と署名することがあった。またあの懐かしき老グリムショー氏が残した、いまわの言葉は、「いま、役立たずのしもべがまいります」、というものであった。

 k. 聖い人は、すべての義務、すべての人間関係を誠実に果たそうと努力する。彼は、魂のことなど気にもかけない他の人々と同じ程度では満足しない。人並みでよいとは思わない。人以上に忠実に生きようとする。彼には、彼らよりも高い動機、強い助けがあるからである。ここにあげるパウロの言葉は、常に肝に銘じておかなくてはならない。「何をするにも、……主に対してするように、心からしなさい」。「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい」(コロ3:23; ロマ12:11)。聖い人々は、すべてのことを立派にこなすよう心がけるべきである。やればできるのに、怠慢のためにみっともない仕事をしたときには、自分の恥としなくてはならない。ダニエルのように、神の律法についてでなければ、いかなることにおいても、批判される「口実」を与えないようにするべきである(ダニ 6:5)。良き妻、良き夫になることを心がけ、良き親、良き子、良き主人、良きしもべ、良き隣人、良き友、良き臣下になることをめざすべきである。公私を問わず、職場でも、茶の間でも、良い人となることをめざすべきである。こうした種類の実を伴わないような聖潔は、一文の得にもならない。主イエスは、ご自分の民に対して心探る問いを発しておられる。「他の人より何のすぐれた事をしているのか」、と(マタ5:47 <英欽定訳>)。

 l. 最後になったが重要なこととして、聖い人は霊的なものの見方、感じ方を追い求める。彼は上にあるものを熱心に求め、地上のものにあまり執着せず、距離をおいて接するようにする。もちろん、この世での務めをおろそかにはしない。しかし、彼の思いと心を第一に占めているのは、来たるべき世の事柄である。彼は自分の宝を天に置いているかのようにして生き、わが家をめざす旅人のように、また寄留者のように、この世を通り抜けていく。祈りのうちに、聖書のうちに、また神の民との交わりのうちに神と親しく交わることこそ、聖い人が最も大きな喜びとすることである。彼が何かの物事や、場所や、人々とのつきあいを評価する基準は、それがどれだけ自分を神に近づかせてくれるかということだけである。彼には、あのダビデの言葉が理解できる。「私のたましいは、あなたにすがり……ます」。「主は私の受ける分です」(詩63:8; 119:57)。

 こうしたところが、私がざっと描こうと試みた聖潔の大まかな描写である。しかし私にはいささか不安がある。ここまで述べたことは誤解されはしないか、感じやすい良心を持った人々をがっかりさせてはいないかと心配なのである。私は正しい心の持ち主を誰も悲しませたくはないし、どんな信者の前にもつまづきの石を置いたりしたくない。

 私は決して、聖潔を得た人の内側には罪がない、などとは云っていない。決してそのようなことは云っていない。むしろ逆である。聖い人につきまとう最大の苦悩は、自分が「死のからだ」をかかえて生きているということである。善をしたいと願っても、彼は自分に「悪が宿っている」ことをしばしば見いだす。古い人が、自分のあらゆる行動を邪魔し、自分の一歩一歩の歩みを、いわば絶えず引きずりもどそうと試みている(ロマ7:21)。しかし聖い人のすぐれた点は、他の人々とは違って、内側の罪に対して平静ではいられないことにある。彼は、自分のうちなる罪を憎み、悲しみ、これと決別したいと切望する。彼の内側で行なわれている聖化のわざは、あのエルサレムの城壁の建造に似ている----それは、「苦しみの時代に」進められるのである(ダニ9:25)。

 また私は、聖潔が一足飛びに成熟したり、一朝一夕に完成したりするものだとは云っていない。ここまで述べてきたような数々の恵みが、最大限に開花し、力強く脈動している人でなければ聖いとはいえない、などとは云っていない。決してそのようなことは云っていない。むしろ逆である。聖化は常に漸進的に行なわれる。人によって、恵みは苗の状態であったり、穂の状態であったり、穂の中に実がはいった状態であったりする[マコ4:28]。誰でもみな初めは未熟なところを通っていくのである。私たちは決して「その日を小さな事としてさげす」んではならない[ゼカ4:10]。しかも聖化は、結局どこまで行っても不完全なわざである。たとえどれほど素晴らしい聖徒の生涯であっても、最後まで、数多くの「しかし」や、「とはいえ」や、「それにもかかわらず」がふくまれているものである。私たちが天のエルサレムに行き着くそのときまで、まじりけのない純粋な黄金や、雲ひとつない晴れわたった光の輝きを得ることはできない。太陽でさえ表面には黒点がある。この世で最も聖い人であっても、聖所の秤にかけてみれば多くの汚点や欠点をかかえている。聖徒の生涯は、罪と世と悪魔との絶えざる戦いであり、時にはこれらに打ち勝つどころか、逆に打ち負かされてしまうことがある。肉は絶えず御霊に逆らい、御霊は絶えず肉に逆らい、私たちはみな多くの点で失敗を犯すものである(ガラ5:17; ヤコ3:2)。

 しかし、こうしたすべてのことにもかかわらず、私が先程おぼろげに描き出したような性格を身につけることは、真のキリスト者すべての切望する願いであり、祈りであるはずである。キリスト者ならばみな、たとえ完全に達することはなくとも、そうしたものをめざして進みつづける。到達することはないかもしれないが、常にこの目標をめざす。たとえ現在の自分の姿は似ても似つかなくとも、このような者になろうとして必死に努力するのである。

 そして私はあえて声を大にして云いたい。真の聖潔は、まぎれもなく現実に存するものである。聖潔とは、もしある人のうちに存在していれば、まわりのすべての者の目にとまり、知られ、認められ、感じとれるものである。聖潔は光である。そこに光があるなら、光を放つであろう。聖潔は塩である。塩があれば、塩気がするであろう。聖潔は高価な香油である。香油があれば、自然とわかるのである。

 もちろん私たちはみな、信仰を告白する多くのキリスト者が、しばしば古い道に後戻りしたり、時おり死んだような状態になったりすることは見越しておくべきである。道は、ある場所からある場所へと続いていても、その間には多くの曲がり道、くねり道がありうる。それと同じように、人は真に聖い人であっても、多くの弱さによって脇へ引きずられていくことがありうる。金は、いくら不純物が混じっていても金でなくなるわけではない。光は、いくらかすかでぼやけていたとしても光でなくなるわけではない、同様に恵みは、いくら未熟で弱々しくても恵みでなくなるわけではない。しかし、あらゆる譲歩をした上でも私は、自ら進んで罪の生活に埋没し、自分の罪を悲しみも恥じもしないような者が「聖い」と呼ばれるに値するとはどうしても思えない。私は、義務とわかっていることを故意に怠り、神がしないように命じられたことを、知っていながら行なうことにしているような者を「聖い」と呼ぶ気には絶対にならない。オーウェンの言葉は至言である。「罪を自分の最大の重荷、悲しみ、悩みとしないような者が、どうして真の信者といえるのか、私にはわからない」。

 さてこういったところが、実際的な聖潔の目立った特徴である。私たちは自分自身を吟味し、自分にこの実際的聖潔が伴っているかどうか調べてみよう。自分自身をためしてみよう[IIコリ13:5]。

2. 実際的聖潔の重要性

 次に、なぜ実際的聖潔がそれほど重要なのか、いくつか理由を挙げさせていただきたい。

 聖潔は私たちを救うことができるだろうか。罪を拭い去り、不義を覆い、そむきの罪を帳消しにし、神への負い目を償うことができるだろうか。否、断じて否である。私は決してそんなことは云っていない。そうしたことには聖潔は全く無力である。地上で最もすぐれた聖徒もみな「役に立たないしもべ」であり[ルカ17:10]、私たちの最も清らかな行ないも、神の聖なる律法の光のもとでは、不潔な着物と何らかわるところがない[イザ64:6]。イエスが差し出し、信仰が着せてくれる白い衣こそ、私たちの唯一の義である。キリストの御名こそ私たちの唯一の拠り所、子羊のいのちの書こそ天国へ入るための唯一の通行手形である。私たちは、自分のありったけの聖潔をかきあつめてみても、やはり罪人以外の何者でもない。私たちの持つ最良のものでさえ、欠点のしみにまみれ、汚れている。私たちの行ないは、みな多かれ少なかれ不完全であって、動機が悪いか、結果が欠けだらけなのである。律法の行ないによっては、アダムの子孫は誰ひとり義と認められることはない。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペ2:8、9)。

 ではなぜ聖潔がそれほど重要なのか。なぜ使徒は、「聖くなければ、だれも主を見ることができません」、と云うのだろうか。その理由をいくつか述べさせていただきたい。

 a. 1つには、私たちが聖くなければならないのは、聖書の中で神の声がそれを明白に命じているからである。主イエスは御民に仰っておとられる。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい」(マタ5:48)。パウロはテサロニケ人に云う。「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」(Iテサ4:3)。またペテロも云っている。「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです」(Iペテ1:15、16)。レイトンの言葉によれば、「ここにおいて、律法と福音は一致するのである」。

 b. 私たちが聖くなければならないのは、それがキリストが世に来られた大目的の1つだからである。パウロはコリント人に、「キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです」、と書き(IIコリ5:15)、エペソ人には、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた……のは、……教会をきよめて聖なるものとするためです」、と書き(エペ5:25、 26)、テトスには、「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした」(テト2:14)と書いている。すなわち、人が罪の咎から救われてはしても、心の罪の支配からはまだ救われていないなどというのは、聖書の全証言を否定することに他ならない。信者は選ばれたというが、それは「御霊の聖めによって」なのである。あらかじめ定められていたというが、それは「御子のかたちと同じ姿に」するためなのである。選ばれていたというが、それは「聖く」するためなのである。召されたというが、それは「聖なる招きによって」なのである。懲らしめられるというが、それは神の「聖さにあずからせようとして」のことなのである。イエスは完全な救い主である。単に信者の罪過を取り除くだけではない。それどころではない----罪の力を打ち破るのである(Iペテ1:2; ロマ8:29; エペ1:4; IIテモ1:9; ヘブ12:10)。

 c. 私たちが聖くならなければならないのは、それが、主イエス・キリストに対する信仰によって、私たちが救われているという唯一の確かな証拠だからである。英国教会信条の第12条は正しくもこう述べている。「善行は、我々の罪を取り除いたり、神の厳格な審きを満足させることができないとはいえ、神にとっては、キリストにおいて喜ばしく、また御心にかなうものであって、真の生きた信仰から必然的に涌き上がるものである。木が実によって知られるように、生きた信仰は、良い行ないによって知られる」。この世には死んだ信仰というものがあるとヤコブは警告している。それは口先の告白だけで、人格には何の影響も及ぼさない(ヤコ2:17)。真の救いの信仰はこれとは全く違う。真の信仰は、その実によって常に自らを証しする。真の信仰は人を聖め、愛によって働き、世に打ち勝ち、心を清くする[使徒26:18; ガラ5:6; Iヨハ5:4; 使徒15:9]。確かに人はよく、死ぬまぎわに信仰の告白をしたという誰かれの話を好んでしたがる。死の恐怖と、痛みと、衰弱の中で口にされたような言葉をたよりに、これで亡き人も安心だと自分を慰めようとするのである。しかし残念だが、この種の告白は九分九厘あてにできないと思う。まれな例外を除いて、人はそれまで生きてきたままの状態で死んでいく。私たちがキリストと1つにされており、キリストが私たちのうちにおられるという唯一確かな証拠は、聖い生活である。通常は、主のために生きる者でなければ、主にあって死ぬことはできない。義人として死にたければ、実行の伴わない、ばくぜんとした希望だけにたよるのはよそうではないか。キリストのものとされた人生を送ろうではないか。トレールの言葉は至言である。「栄光への望みを抱きながら、心も生き方もきよめられていないような人の霊性はむなしく、その信仰は不健全である」。

 d. 私たちが聖くならなければならないのは、それが主イエス・キリストを心から愛しているという唯一の証明だからである。これこそ、主がヨハネの14章と15章であれほどはっきり述べられた点である。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」。「だれでもわたしを愛する人は、わたしをことばを守ります」。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハ14:15、21、23; 15:14)。これ以上に明々白々な言葉は、まず見つけがたいであろう。この言葉を無視する者は災いである! イエスの受けたすべての苦しみを思いながら、その苦しみの原因たる罪にしがみついていられるような者は、魂が不健康な状態にあるに違いない。あのいばらの冠を編んだのは、罪であった。主のみ手とみ足とわきばらを刺し貫いたのは、罪であった。主をゲッセマネとカルバリ、十字架と墓場へ至らせたのは、罪であった。それでも罪を憎まず、罪を除き去ろうと努力しないとは、何と冷たい心であろう。たとえ右手を切り落とし、右目をえぐり取らなくてはならないとしても、私たちは罪を除く努力をすべきである。

 e. 私たちが聖くならなければならないのは、それが私たちが真に神の子であるという唯一の確かな証拠だからである。世間では、ふつう子供は親に似るものである。もちろん親とそっくりな子もあれば、あまり似ない子もあるが、家族の誰とも似ていないような子供は、ごくごくまれにしかいない。これは神の子らも同様である。主イエスは云われた。「あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい」。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです」(ヨハ8:39、42)。天の御父と似ても似つかないような者を、神の「子ども」であるなどと云っても無意味である。聖潔について何も知らない者は、勝手に自己満足していられるかもしれない。しかし、そういう者は内住の聖霊を持っていないのである。そのような者は死んでいるのである。死んでいる者は、新しいいのちに生き返らされなくてはならない。失われている者は、見いだされなくてはならない。「神の御霊に導かれる人」、そしてそのような人だけが「神の子ども」なのである(ロマ8:14)。私たちは自分の生活によって、自分が所属する家族を示さなくてはならない。良い生き方によって、自分が本当に聖なる方の子であることを見せなくてはならない。さもなければ、自分が神の子どもであるなどというのは有名無実の虚言となるだろう。ガーナルは云う。「人は、自分には王家の血が流れている、自分は神から生まれた者だ、などと云う前に、まず聖くなろうという果敢な努力によって、自分の血統を証明することが必要である」。

 f. 私たちが聖くならなければならないのは、それが最も他の人の益となりうるからである。この世には、ひとりぼっちで生きることのできる者はない。私たちの生活は、まわりで見守る人々の益となるか、害となるか、2つに1つである。生活は、万人に開かれた無言の説教である。もしそれが神を喜ばせる説教でなく、悪魔を喜ばすような説教であったとしたら悲しいことではないか。信者の聖い生き方は、私たちの想像をはるかに超えて、キリストの御国の益となると思う。そういう生き方には、人々が何かを感じ、思わず考えさせられるような現実の重みがある。他の何物も及ばない実質と影響力がある。それは遠く輝く灯台のようにキリスト教を美しく見せ、キリスト教のことを人に考えさせる。最後の審判の日には、夫たち以外にも大勢の人々が、「無言の」(Iペテ3:1)聖い生き方によって勝ち取られたことが明らかになるだろう。例えば、だれかに福音の教理を話してみたとする。耳を傾けてくれる人はほとんどいないであろう。理解してくれる人はさらに少ないはずである。しかし、目に見える生き方という論法から逃れることのできる人はいない。聖潔について意義深い1つのことは、それがどれほど無学な人にも自然にわかるということである。人は義認を理解することはできないかもしれないが、愛を理解することはできるのである。

 逆に、世俗的で、口と行動がばらばらのキリスト者は、私たちの想像以上に大きな害をもたらすと思う。そういう者はサタンの強力な味方である。彼らは、牧師たちが唇によって建て上げたものを自分の生活によって破壊し、福音という戦車の車輪の回転を鈍らせる。こういう者がいるために、この世の子らは、自分の生き方を変えずにすむ口実を数限りなく手にすることができるのである。私はつい先頃、ある不信心な行商人が次のように云ったの聞いた。「宗教なんかに入れこんで、どんないい事があるんだい。わしのお顧客の中にも、年がら年中、福音だの、信仰だの、選びだの、尊い約束だのと喋くってる人たちがいるが、その当のご本人が、すきをうかがっちゃ勘定を2、3ペンスごまかすくれえ何とも思ってねえんだ。信心深いって人がそんなことするんなら、宗教なんか何にもならねえってことじゃねえか」。このようなことを書くのは非常に悲しいことである。しかしキリストの御名は、あまりにもしばしばキリスト者の生活によって汚されることが多いのではないか。私たちは、人々の血の責任を問われたりしないよう警戒しよう[エゼ3:18]。願わくは主よ、首尾一貫しない、たるんだ歩みによって人々を殺す罪から、私たちを救い出したまえ。たとえ他に何の理由もなく、他の人々のためだけであったとしても、私たちは聖くなるため必死に努力しようではないか!

 g. 私たちが聖くならなければならないのは、私たちの現在の慰めが、聖潔によって大きく左右されるからである。これは常に思い出さなくてはならないことである。私たちが不幸にも忘れがちなのは、罪と悲しみ、聖さと幸福、聖潔と慰めが、緊密に結びつけられているということである。神は賢くも、私たちの幸福と行動が対になるよう定められた。恵み深い神は、この世においても、私たちの徳が、私たちの得となるようにしてくださったのである。もちろん私たちの義認は行ないにはよらず、私たちの召しと選びは行ないを土台にするものではない。しかし、善行をないがしろにし、聖い生活を送ろうという懸命な努力をしもしない者が、義と認められているという真の実感や、召しの確信を得られるなどと考えては大間違いである。「もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります」。「それによって、私たちは自分が真理に属するものであることを知り、そして……心を安らかにされるのです」(Iヨハ 2:3; 3:19)。中途半端にしかイエスに従っていないくせに、キリストにある慰めを豊かに感じたいなどという信徒は、どんより曇った日に、燦々とふりそそぐ陽光を期待するような者にひとしい。あの弟子たちは、主を見捨てて逃げたとき、身の危険からはのがれたが、惨めな思いで悲しみに沈んだ。しかし、まもなく、彼らが公衆の面前で主を大胆に宣べ伝え、そのため牢に投げ込まれ、むち打たれたときはどうであったろう。「使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜」んだのである(使5:41)。おゝ、たとえ他に何の理由もなく、私たち自身のためだけであったとしても、私たちは聖くなるため必死に努力しようではないか! 最も完全にイエスに従う者たちこそ、最も大きな慰めを常に味わいながら従うことができるのである。

 h. 私たちが聖くならなければならない最後の理由はこうである。地上で聖くなかった者には、二度と天国を楽しむための準備をする機会がない。天国は聖い場所であり、天の主は聖いお方であり、天使たちは聖い被造物である。聖潔の印は天国のあらゆるところに刻み込まれている。黙示録ははっきり記している。「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行なう者は、決して都にはいれない」(黙21:27)。

 私は、今このページを読んでいるすべての人に向かって厳粛な問いを発したい。もしあなたが聖くないまま死んだとしたら、一体天国でくつろいだり、幸福になったりできるであろうか。死は何も変えない。墓は何も一新しない。人はみな、それぞれ最後の息を引き取ったときのままの性格でよみがえる。もしも私たちが今、まるで聖潔と無縁に生きているとしたら、復活のときどこに居場所があるだろうか。

 万が一、聖潔を持たずに天国へはいることが許されたとしよう。だが、そこで何をするのか。何の楽しみがあるのか。どの聖徒たちの仲間となるのか。誰のそばに座ろうというのか。彼らとは何の共通の楽しみも、何の共通の好みも、何の共通の性格もないではないか。地上で聖くなかった人が、一体そのようなところで幸せになれるだろうか。

 今は、おそらくあなたは、軽い人、考えなしの人、世的な人、貪欲な人、遊び好きな人、快楽を追い求める人と一緒にいるのが好きかもしれない。ところが天国にそのような人々はいないのだ。

 今は、おそらくあなたは、神の聖徒たちのことを堅苦しくて、気難しくて、気真面目すぎる人達だと思っているかもしれない。どちらかというと避けたい。一緒にいても全然楽しくない。ところが天国にはこの人達しかいないのだ。

 今は、おそらくあなたは、祈りや聖書や賛美が退屈で、鬱陶しくて、馬鹿くさいと思っているかもしれない。時々はがまんしてもいいが、何の喜びも感じない。日曜は教会があるので気が重い。疲れる。礼拝くらいは顔を出そう、だがそれ以上は真っ平だ、と。しかし覚えておいていただきたい。天国は永遠につづく日曜なのである。天国の住人は、昼夜をおかず「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。神であられる主、万物の支配者」[黙4:8]と叫び、子羊への賛美を歌いつづけている。一体どうやって聖くない人がこのような務めに喜びを見出せるというのか。

 一体そのような人が、ダビデや、パウロや、ヨハネと会うのを嬉しく思うだろうか? それまで、まさに彼らが非難したようなことをさんざん行なってきたというのに。そのような人が、彼らと親密に語らって、気が合うなどということがあるだろうか? そして何よりも、そのような人が十字架にかかった主イエスに面と向かって会うことを喜ぶだろうか? それまで、主が死なれた当の原因である罪にさんざんしがみつき、さんざん主の敵を愛し、さんざん主の友を蔑んできたというのに。一体そのような人が、確信をもって主の前に立てるだろうか? 聖徒たちと声を合わせて、「この方こそ……私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。その御救いを楽しみ喜ぼう」(イザ25:9)と叫べるだろうか? むしろ聖くない人は、羞恥の余り言葉を失い、ただひたすら外へ放り出されることしか願わないのではなかろうか? そのような人は、まるで自分の知らない国に来た外国人のように感じるであろう。キリストの聖い羊にまぎれこんだ黒い羊のように感じるであろう。ケルビムとセラフィムの声、天使や大天使や天の全住人の歌声は、彼にとって何の意味もなさない外国語であろう。大気そのものが呼吸にたえないであろう。

 他の人はどう考えるか知らないが、私にとってこれは自明のことと思われる。聖くない者にとって天国は惨めな場所である。そうでないはずがない。人はよく、ぼんやりと「天国に行きたいなあ」などとぼやくが、自分の云っていることをよく考えていないのである。人には何かしら、「光の中にある、聖徒たちの相続分にふさわしい」ものがなくてはならない[コロ1:12]。私たちは、ある程度心が整えられていなければならない。もし私たちが、今の世で天国にふさわしい考え方、天国にふさわしい性格をしていなければ、決して後の世で天国に入ることはないであろう。

 さてここで先に進む前に、適用というかたちで少し話させていただきたい。

 1. まず第一に、私はこのページを読むすべての人に問いたい。あなたは聖くなっているだろうか? どうか今日、いま私が発する問いに耳を傾けていただきたい。あなたは、私がここまで語ってきたような聖潔について少しでも知っているであろうか?

 私が訊きたいのは、あなたがちゃんと教会に出席しているかどうかではない。バプテスマを受けたかとか、主の晩餐を受けたかとか、人からキリスト者と呼ばれているか、などということではない。それ以上のことである。あなたは聖いか、それとも聖くないか。

 私が訊きたいのは、あなたが、他の人が聖潔を持つことに賛成するかどうかではない。聖人伝を読むのが好きかとか、教会の話をするのが好きかとか、机に信仰書が載っているか、聖くなりたいと思っているか、いつかは聖くなりたいと願っているか、などということではない。もっと深いことである。あなたは今現在、聖いのか、聖くないのか。

 さて、なぜ私はこのように厳しい問いを、これほど押しつけがましく口にしているのだろう。聖書がこう語っているからである。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」。これははっきりと書かれている。私の空想ではない。聖書である。私の個人的見解ではない。神の言葉である。人の言葉ではない。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」(ヘブ12:14)。

 おゝ、これは何と心を探り、魂をゆさぶる言葉であろう! この言葉を書きつけている間、何という思いが私の脳裏に浮かんだことであろう! この世を見ると、その大部分が邪悪の中に横たわっているではないか。キリスト者だと公言する人々を見ると、その大部分が単に名ばかりの信者ではないか。ところが聖書を見ると、御霊がこう語っているのが聞こえるのである。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」。

 確かに私たちは、この聖句に照らして自分の生き方、自分の心を再検討してみるべきである。厳粛な思いになって、祈りへ向かうべきである。

 あなたは私を黙らせようとして云うであろう。自分は、多くの人が思うよりもずっとそうしたことを感じているし、考えているぞ、と。私は答えたい。「そういうことが問題なのではない。そんなことは、地獄に落ちた哀れな人々でさえ行なっている。問題はあなたが何を考え、何を感じているかではない。何を行なっているかなのだ」、と。

 あなたは云うであろう。キリスト者の全員が聖くならなくてはならないなんてことは絶対にない。仰せのような聖潔を身につけることができるのは、大聖人か、ちょっと特別な賜物を持つ人だけだ、と。私は答えたい。「そのようなことは聖書に書いていない。聖書に書いてあるのは、キリストに望みを抱く者はみな自分を清くするということなのだ」(Iヨハ3:3)。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」。

 あなたは云うであろう。聖く生き、なおかつ実社会の義務を果たすなどということは不可能だ、できっこない、と。私は答えたい。「それは違う」。これは可能である。キリストがともにおられるなら何事も不可能ではない。これは多くの人に行なえたことである。ダビデやオバデヤ、ダニエル、ネロの家の奴隷たちは、みなこれを実証した人々である。

 あなたは云うであろう。そんなに聖い生き方をすると、周りから目立ってしまうではないか、と。私は答えたい。「まさしくその通りである。それこそ、あなたがしなくてはならないことだ。キリストの真のしもべは、常にまわりの世とは違った様子をしている----彼らは選び別たれた国民、神の所有とされた民なのだ[Iペテ2:9]。もし救われたいと思うのなら、あなたもそのようでなくてはならない」。

 あなたは云うであろう。そんなことを云ったら、救われる人などほとんどいないではないか、と。私は答えたい。「その通り。まさにそれこそ山上の説教で云われていることである」。そう主イエスは1800年前に語られた。「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです」(マタ7:14)。救われる者はまれである。救いを求めて努力する者がまれだからである。人は、ほんの一瞬も、罪の楽しみや好き勝手な生き方を放棄しようとはしない。彼らは「朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産」に背を向ける。イエスは云われる。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(ヨハ5:40)。

 あなたは云うであろう。これはひどいことばだ、何と偏狭な道ではないか、と。私は答えたい。「その通り。それが山上の説教の教えである」。主イエスはそう1800年前に語られた。主は常に云われた。私の弟子になりたい者は、日々十字架を負い、手や足を切り落とす覚悟でなければならない、と[マタ16:24; 5:29、30]。労苦なくして報いなし、という原則は、信仰の世界においても変わらない。何の犠牲もなしに手に入るものには何の価値もない。

 ひどい言葉であろうとなかろうと、主を見たいと願う者は聖くならなければならない。もし聖くないとしたら、私たちのキリスト教は一体どこにあるのか? 私たちは、単にキリスト者としてふさわしい名前やキリスト者としてふさわしい知識があるだけでなく、キリスト者としてふさわしい人格を持っていなくてはならない。天国で聖徒になりたければ、地上で聖徒でなくてはならない。神は確かに語られた。神は前に云った言葉を取り消すような方ではない。「聖くなければ、だれも主を見ることができません」。ジェンキンは云う。「カトリックの聖人暦は死人を聖人にするだけだが、聖書は生きている人に聖さを要求する」。「だまされてはいけない」、とオーウェンも云う。「キリストに導かれて救いへ進もうという者にとって、聖化は欠かせない資格である。主が天国へ導くのは、御自分が地上でお聖めになる者たちだけである。この生きたかしらは、死んだ肢体などお認めにならない」。

 確かに、「あなたがたは新しく生まれなければならない」、と聖書が語るのも道理である(ヨハ3:7)。確かに、自分はキリスト者だと自称する多くの人々の姿を見るとき、まず完全に変えられて、新しい心、新しい性質を持つのでない限り、彼らに救われる道はないということは、誰の目にも明らかであろう。古いものは過ぎ去らなくてはならない。人は新しく創造されなくてはならない[IIコリ5:17]。「聖くなければ、だれも」、たとえそれがどのような人であっても、「主を見ることができません」。

 2. 次に信者の方々に少しお話ししたい。私が尋ねたいのは、「あなたがたは聖潔が重要だということを十分に正しく実感しているだろうか」、ということである。

 正直に云って、この点で現代には残念な風潮があると思う。本当にすべての信者が、このことについてしかるべき注意を払っているだろうか。非常に疑わしいと思う。私もまた誤り多い者のひとりとして指摘したい。私たちは、恵みにおいて成長しなければならない、という教理をあまりにも軽く見てはいないだろうか。また、はた目にはどんなに確かそうな信仰告白をしていたとしても、実は恵みを持たないことがありうるし、神から見て死んだ者でありうる、ということを忘れがちではないだろうか。イスカリオテのユダは、他の使徒たちとそっくり同じ様子をしていただろうと思う。お前たちのひとりがわたしを裏切ろうとしている、と主が警告されたとき、誰も「それはユダですか?」、とは云わなかった。私たちは、もっとサルデスやラオデキヤの教会のことを思うべきである[黙3:1-6; 14-22]。

 私は聖潔を偶像視するつもりは毛頭ない。信者の心の王座からキリストを追い出して、聖潔を王座につけたいなどとは願っていない。ただ率直に云って、現代のキリスト者はもっと聖潔のことを考えるべきだと思うのである。だからこそ私は口を酸っぱくして、このページを読むであろうすべての信者に向かって、聖潔ということを強調しているのである。時々、神が義認と聖化を1つに結び合わせておられることを忘れているような人がいる。もちろん、これらが全く異なった別のものだということは間違いない。しかし、これは決して切り離せないものなのである。義とされた人はみな聖められ、聖められた人はみな義とされている。神が1つに合わせたものは決して切り離してはならない。だから、自分は義と認められているのだ、などと語る人には、少しは聖さのしるしも見せてほしいと思う。キリストがあなたの救いのために何をしてくださったか誇るのもいいが、まず御霊があなたの内側でどんなみわざをなさっておられるか見せていただきたい。キリストと御霊は決して切り離して考えてはならない。確かに信者であるあなたがたはこうしたことをよく御存知だと思う。しかし、このことは常に忘れないようにする方がいい。私たちは、自分がこうしたことを知っているということを、生活によって証明しようではないか。今よりもっと真剣になり、絶えずこの聖句に思いを留めようではないか。「聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」。

 率直に云って、信者の中には聖潔というとやたら神経質になる人がいるが、あまり過敏になるのはほめられたことではない。あれでは本当の所、聖潔とは何と危険な教えなのか、と誤解する人が出るであろう。もしキリストを「道であり、真理であり、いのち」であるとあがめているなら、私たちは堂々とキリストの民が持つべき性質を主張してよいはずである。ラザフォードは至当にもこう云っている。「キリスト者の義務と聖化をけなすような行き方は恵みの道ではない。信仰と行ないは血肉を分けた兄弟なのである」。

 敬虔な思いで云うが、ここで云わなくてはならないことがある。もしいま地上にキリストがおられたとしたら、多くの人はその説教を律法的と考えるのではないだろうか。もしパウロが今その書簡を書いているとしたら、多くの人が、ほとんどの書簡の後半にある部分は書かないでおいた方がよいと思うのではないだろうか。しかし忘れないようにしよう。主イエスは、山上の説教を事実語られたのだ。エペソ人への手紙は、4章までではなく6章まで続いているのだ。実際このようなことを語らなくてはならないとは悲しいことである。しかし、それには理由がある。

 今から200年以上も前にクライスト・チャーチの学長であった偉大な神学者ジョン・オーウェンは、常々云ったものである。世の中には、自分の心の腐敗について愚痴をこぼし、自分の無力さをまわりの人に云い歩くだけで信仰生活を終わる人がいる、と。残念だが、それから2世紀たった今でも、同じことが一部のキリスト者には云えるように思える。確かに聖書には、その種のつぶやきを正当化するように見える聖句がある。もしそれが、それなりの人から出たのなら、つまり使徒パウロのように日々罪と悪魔と世に対して勇敢に戦っている人の口から出たのなら、私も文句を云うつもりはない。しかし許せないのは、こういう愚痴を隠れみのにして、霊的怠惰や霊的怠慢をずるずる続けていると思われる人である。こういう人をよく見かける。もしパウロとともに「私は、ほんとうにみじめな人間です」、と云うのなら、やはりパウロと同じように、「私は……目標を目ざして一心に走っているのです」、とも云おうではないか。パウロの一面だけを模範にし、もう1つの面には従わないなどということがあってはならない(ロマ7:24; ピリ3:14)。

 私は、自分が他の人々よりも聖いなどと主張するつもりはない。もし誰かが、「お前は何様のつもりでそんなふうに云うのか」、と尋ねるなら、「私は本当に貧しい者です」、と答えるしかない。しかし、これだけは云わせていただきたい。私は聖書を読むたびに、現在よりももっと多くの人々が、もっと霊的に、もっと聖く、もっとひたむきに、もっと一心に、もっと真剣になってほしいと願わないではいられないのである。私は、もっと信徒の中に巡礼者の精神を見たい。もっとはっきりとした天的な生活を見たい。もっと神に近く歩んでいる姿を見たい。だから、私はこのように書いてきたのである。

 今日の私たちが、個人の聖潔について、より高い標準を必要としていることは明らかではなかろうか。私たちの忍耐はどこにあるのか。熱心はどこにあるのか。愛はどこにあるのか。わざはどこにあるのか。過去の時代あれほど強かった、目に見えるキリスト教の力はどこにあるのか。古の聖徒たちを際立たせ、世界を揺り動かした、あの、取り違えようもないしるしは、どこにあるのか。まことに、私たちの銀は金滓となり、私たちの葡萄酒は水割りとなり、私たちの塩は塩気を失ってしまった。私たちはみな、半分眠ったような状態にある。だが、夜は更けて昼が近づいている[ロマ13:12]。起きて、目を醒まそうではないか。もっとはっきり目を開こう。「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨て……ようではありませんか」。「私たちは……いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか」(ヘブ12:1; IIコリ7:1)。オーウェンは云う。「キリストが死なれて、罪が生き残るなどということがあっていいであろうか。主が世で十字架についてくださったというのに、世に対する私たちの愛が生き生きと脈打っているなどということがあっていいであろうか。おゝ、キリストの十字架によって、世界は自分に対して十字架につけられ、自分も世界に対して自分につけられたというような人の精神は今どこにあるのだろうか?」[ガラ6:14]

3. 勧めのことば

 最後に、聖くなりたいと願うすべての人に対して、ひとつ忠告の言葉を述べさせていただきたい。

 あなたは聖くなりたいか。新しく造られた者となりたいか。もしそうなら、キリストから始めなくてはならない。自分の罪と弱さを感じてキリストのもとへ逃れていかない限り、あなたは何もできないし、何の進歩もしないであろう。キリストこそ、あらゆる聖潔の根幹であり、源泉である。聖くなるための道は、信仰によってキリストのもとへ行き、キリストと結び合わされることである。御民にとってキリストは、知恵であり義であるばかりでなく、聖さであられる[Iコリ1:30]。世の中には、まず自分で自分を聖くしようとして痛ましい努力をする人がいる。克己奮励し、何度も何度も心を入れかえて色々なことをしてみるが、あの長血をわずらう女のように、キリストのもとへ行くまでは、「何のかいもなく、かえって悪くなる一方」でしかない(マコ5:26)。歯を食いしばって努力しても全く無駄である。何の不思議もない。出発点が誤っているのである。砂で壁を造ろうとしても、造るそばから崩れていくであろう。穴だらけの船から水を掻い出そうとしても、浸水する方が早いであろう。誰も、聖潔の土台としてパウロが据えた土台以外のものを据えることはできない。その土台とはキリスト・イエスである。キリストを離れて私たちは何もすることができない(ヨハ15:5)。トレイルは正しくも力強く述べている。「キリスト抜きの知恵は痴愚、キリスト抜きの義は不義と咎、キリスト抜きの聖さは汚猥と罪、キリスト抜きの救いは束縛と奴隷の道である」。

 あなたは聖潔に達したいと願うか。今日、本当に聖くなりたいと心から願うか。神の性質にあずかりたいと思うか。もしそうなら、キリストのもとへ行くことである。何も待ってはいけない。誰をも待ってはならない。ぐずぐずしていてはならない。少しましになってからにしようなどと思ってはいけない。すぐ行って彼に告げることである。あの美しい賛美歌の言葉で告げることである。

手に持つものは 他に何もなし
ただ我れすがらん 汝が十字架に
裸のままでみもとに逃れ 無力なままで御顔を仰がん
ころもを求め 恵みを求めて [賛美歌260番 原詩]

 キリストのもとへ行くまで、聖化という大普請は煉瓦一個、石材一本すら積まれはしない。聖潔は、主がご自分を信ずる民に与える特別の賜物である。主が心に御霊を授けた者らの中で、御霊によって行なわれるみわざである。主が「君とし、救い主として」任じられたのは、罪の赦しだけでなく「悔い改め」を与えるためである。主は、受け入れた者に神の子となる特権を与えられる(使徒5:31; ヨハ1:12、13)。聖潔は血筋ではない。親は子に聖潔を授けられない。肉の欲求でもない。人は自分の内側に聖潔を造り出せない。人の意欲でもない。牧師は洗礼で聖潔を造り出せない。聖潔はキリストから生ずる。これは主との生きた結合の成果である。まことの葡萄の木の生きた枝が結ぶ果実である。だからキリストのみもとに行って云うがいい。「主よ。罪の咎からだけでなく罪の力からも、約束の御霊によってお救いください。聖めてください。みこころを行なう者としてください」、と。

 あなたは聖くあり続けたいか。ではキリストにとどまることである。「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。……人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハ15:4、5)。御父は、御旨により、御子のうちに全ての満ちみちた徳を宿らせ、信者の全ての欠けを満たしておられる。主こそ、健康でいたい者が日々通わなくてはならない医者である。主こそ日々食すべきマナ、日々飲むべき岩である。主の腕こそ、この世の荒野を歩む者が日々よりかかるべき腕である。人はキリストのうちに根ざすだけでなく、建て上げられなくてはならない。パウロは、まさに神の人、聖徒、躍進し続けるキリスト者であったが、その秘訣はどこにあったか。彼はキリストをすべてとする人物であった。彼は常にイエスを見上げていた。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が……生きているのは……神の御子を信じる信仰によっているのです」。私たちも行って同じようにしようではないか(ヘブ12:2; ピリ4:13; ガラ2:20)。

 願わくはこのページを読む人がみな、又聞きでなく実際にこうしたことを体験できるように。これからはみな、聖潔をはるかに重要なものとして実感できるように。私たちの人生が魂にとって聖い、幸福なものとなるように。生きるなら主にあって生き、死ぬなら主にあって死に、主来ますなら汚点も傷もない者として平安に御前へ出られるように!

聖潔[了]

 
 

HOME | TOP | 目次 | NEXT