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2. 聖 化


「真理によって彼らを聖め別ってください」(ヨハ17:17)
「神のみこころは、あなたがたが聖くなることです」(Iテサ4:3)

 聖化という問題は、多くの人が毛嫌いする話題ではないかと思う。この話になると、馬鹿にしたような顔をして鼻で笑い、そっぽを向く者さえいる。この世で何がいやかといって、「清く正しい生き方」だの「聖人君子」ほどいやなものはないというのだ。しかしそういう受け取りかたは正しくない。聖化は私たちの敵ではなく友なのである。

 この問題は私たちの魂にとって最高に重要である。なぜなら聖書が間違っていない限り、私たちは「聖くなければ」決して救われないからである。聖書によれば、キリスト教国に住むいかなる人も、救われるために絶対必要なことが3つある。それは、義と認められること、新しく生まれること、聖くされることである。この3つは、すべての神の子に兼ね備わっている。神の子とは新しく生まれ、義と認められ、聖められた者にほかならない。これらの1つでも欠けた者は、神の目から見れば、にせのキリスト者である。もしそうした者がその状態のまま死ぬなら、終わりの日に天国へ入ることも栄光のからだに変えられることもない。

 またこの問題は、今の時代にとって特にふさわしいものである。近年、この聖化という問題全般にわたって異様な教えがあいついで出現した。ある者は、聖化を義認と混同しているように見える。ある者は、価なしの恵みを熱心に擁護するように見せかけては聖化という考えを粉砕し、事実上これを全く無視する。またある者は、義認の条件に「行ない」が混入するのを恐れるあまり、信仰生活に「行ない」の余地をほとんど見つけようとしない。さらにある者は、誤った聖化の基準をこしらえてはその基準に達することができないので、求めるものを手に入れようとむなしい期待を抱きながら教会から教会へ、聖会から聖会へ、教派から教派へ渡り歩いている。このような時代に、キリスト教の主要教理の1つとしてこの聖化という問題を取り上げ、冷静に吟味することは、私たちの魂に益するところ非常に大であろう。

 1. そこでまず真の聖化の本質について考えてみたい。
 2. 次に、目で見える聖化のしるしについて考える。
 3. 最後に、義認と聖化がどこで一致し何が共通点なのか、またどこが相違し何が異なるのかを考えたい。

 もし今このページを読んでいる人が、不幸にもこの世のことしか頭になく、キリスト教にまるで無関心な人種なら、この問題にたいした興味を持たないとしても仕方ないと思う。その人にとって、こんなことは「空理空論」に過ぎず、気のきいた問答だと思いはしても自分の人生観や信条には全く無縁のものであろう。しかし、もし読者が、ものをよく考える思慮深いキリスト者であるなら、聖化について明確な認識を得ておくことは決して無駄にならないはずである。

1. 聖化とはなにか

 まず第一に、聖化というものの本質を考えなくてはならない。聖書が「聖なるものとされた」人と云うとき、それはどういうことを意味しているのだろうか。

 聖化とは、主イエス・キリストが聖霊を通して行なわれる霊的なみわざであって、主が人を真の信仰者に召されるとき、その人の内側で起こるものである。主は御自身の血によって人を罪から洗うばかりか、その人が生まれながらに持つ罪と世に対する愛から切り離し、心に新しい原理を注ぎ込まれる。そして現実に敬虔な生き方をする人へと変えてくださるのである。このわざをなすために御霊が用いられる手段は普通、神のみことばである。もちろん時には「無言の」うちに(Iペテ3:1)、苦しみや摂理の訪れを用いられることもあるが。キリストが御霊によってこのみわざを行なってくださった人のことを、聖書は「聖なるものとされた」人、「聖徒」と呼んでいるのである。*1

 イエス・キリストの生涯と死と復活が、単に御民に義認と罪の赦しを与えるためだけのものだったと思っている人は、まだ理解が未熟である。そういう人は、知ってか知らずか私たちのほむべき主から栄誉を奪い取り、主を中途半端な救い主にしているのである。主イエスは、御民の魂に必要なことをすべて引き受けてくださった。単に贖いのために死んで、彼らを罪の罪責から解放するばかりでなく、彼らの心に聖霊を賜って、彼らの内側に巣くう罪の支配からも解放してくださる。彼らを義とするばかりでなく、聖めてくださる。こうして主は、彼らの「義」であるばかりでなく「聖め」でもあられる(Iコリ1:30)。聖書のことばに耳を傾けよう。「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も……聖め別たれるためです」。「キリストは教会を愛し、教会のためにご自身をささげられ……。キリストがそうされたのは……教会をきよめて聖なるものとするためで……す」。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした」。「キリストは……十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです」。キリストは「肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたを……和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした」(ヨハ17:19; エペ5:25、26; テト2:14; Iペテ2:24; コロ1:22)。この5つの聖句の意味を注意深く考えていただきたい。言葉の意味を全く無視するのでない限り、これらの教えは明白である。キリストは信者を義とするのと同様に、信者の聖化をも行なっておられる。義認と聖化は、両方とも、あの「萬具(よろず)備りて鞏固なる永久の契約」[IIサム23:5 <文語訳>]に備えられており、その契約の仲立ちをするのがキリストなのである。事実、キリストは、ある箇所では「聖とする方」と呼ばれており、キリストの民は「聖とされる者たち」と呼ばれている(ヘブ2:11)。

 この問題には非常に重要で奥深いものがある。従って、あらゆる誤解を取り除き、あらゆる面を明確にしておかねばならない。なぜなら救いに必要な教理をはっきり説き明かし、その詳細を明らかにすることは、どれほど念を入れても十分ということはないからである。今日、不幸にもキリスト者の間ではびこっているような教理と教理の混同を一掃し、真理と真理の関係を正しく位置づけること、これも神学的に間違いのない信仰に達する道である。したがってここでは、聖化について一連の言明または所説を聖書から引き出し、煩をいとわず列挙していくことにする。それが、聖潔の正しい本質を理解するのに役立つと信ずるものである。

 1. まず聖化とは、信者とキリストの生きた結合の結果、必ず生じるものである。「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(ヨハ15:5)。実を全く結ばないのは死んだ枝である。真の信仰者ならみなキリストと結合している。キリストにつらなっていると云いながら、心と生活が何も変わっていないとしたら、それは名目だけの結びつきである。そんなものは神の前では何の価値もない。人格を聖める力のない信仰など悪霊どもの信仰と変わらない。「信仰も……それだけでは、死んだものです」。そんな信仰は神の賜物でも、神の選びの民の信仰でもない。つまり聖い生き方の伴わない信仰は本物ではないということである。真の信仰は愛によって働く。贖い主への深い感謝から、何が何でも主のために生きるようかりたてるものである。自分のため死んでくださったお方には、どのように尽くしても尽くし足りないと思わせるものである。多く赦された者は多く愛する。血によってきよめられた者は光のうちを歩む。キリストを本当に待ち望んで生きる者は、キリストが清くあられるように自分を清くするのである(ヤコ2:17-20; テト1:1; ガラ5:6; Iヨハ1:7; 3:3)。

 2. また聖化は、新生の結果、必然的に生ずるものである。新生し、新しく創造された者は、新しい性質と新しい原理を受けて新しい歩みをせざるをえない。新生した人が、世的なまま罪の中を自堕落に歩んでいける、などという考えは霊感を受けていない神学者らの創作であり、聖書とは何の関係もない。逆に聖ヨハネは明言している。 「神から生まれた者は、罪のうちを歩みません」。「義を行な」い、「兄弟を愛し」、「偶像を警戒し」、「世に打ち勝ちます」(Iヨハ2:29; 3:9-14; 5:4-18)。つまり聖化なきところに新生なく、生活の聖くない人は新しく生まれていないということである。それはひどすぎる、と云う人もいよう。しかし、ひどすぎようとひどすぎまいと、これは純然たる聖書の真理である。聖書は明記している。神から生まれた者は「神の種がその人のうちにとどまっている……。その人は神から住まれたので、罪のうちを歩むことができない」、と(Iヨハ3:9)。

 3. また聖化は、聖霊が内住しておられるという唯一確実な証拠である。御霊の内住は救いに欠かせない。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ロマ8:9)。そして御霊は、決して魂の中で休眠したり遊んだりしてはおられない。信者の心と生活に実を結ばせ、常に御自分の存在を示される。パウロは云う。「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」(ガラ5:22)。こうしたものがあるなら、御霊はそこにおられる。しかしこれらのものが欠けた心は、神の前で死んだものである。風にたとえられる御霊は、風と同じく肉眼では見えない。しかし風が波や木立や煙に及ぼす影響によって知られるのと同じく、御霊は人の行動に及ぼす影響によって、その人のうちにおられることがわかる。「御霊に導かれて」(ガラ5:25)歩んでもいない人が、自分には御霊が宿っているなどと考えるのは馬鹿げている。確実に云えるのは、聖い生き方がされていないところに聖霊はおられないということである。御霊がキリストの民に押される証印は聖化である。現実に「神の御霊に導かれる人」、そしてそのような人だけが、「神の子ども」なのである(ロマ8:14)。

 4. また聖化は、神の選びの唯一の確実なしるしである。選びの民の名前や数は隠されている。これは疑いもなく神がその知恵によって御自分の権威のうちに秘めておられることであって、人間には明かされていない。地上の人間が、いのちの書のページをめくって自分の名前があるかどうか調べることは許されていない。しかし選びについて1つだけ明らかなことがあるとすれば、それは、救いに選ばれている人々は聖い生き方によって見分けがつくということである。聖書は明記している。彼らは、「聖めによって……選ばれ」、「(神が)聖め……によって……救いにお選びにな」り、「御子の姿に似た者にあらかじめ定められ」、「(神が)世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、……聖……い者にしようとされ」た者らである。だからこそパウロは、テサロニケの信者の間に、生きて働く「信仰」と、労苦する「愛」と、忍耐深い「希望」を見たとき、「私はあなたがたが神に選ばれた者であることを知っている」と云えた(Iペテ1:2; IIテサ2:13; ロマ8:29; エペ1:4; Iテサ1:3、4)。故意に、また常習的に罪のうちを歩んでいるような者が、自分は神の選民だ、などとうぬぼれているなら、それは自己欺瞞にすぎず、神への邪悪な冒涜にほかならない。もちろん人の内面を見分けるのは容易ではない。一見まことに立派な信仰生活を送っているように見える多くの者が、後になって実は、心の腐った偽善者だったとわかることになるかもしれない。しかし、少なくとも目に見える何らかの聖化のしるしを伴わない限り、そこには選びがないと考えて間違いない。教会の教理問答は正しくもこう教えている。聖霊は「神のすべての選びの民を聖められる」、と。

 5. また聖化は、常に目に見えるものである。教会の偉大なかしら、また教会の生ずる源であられるキリストと同様、それは「隠れる事ができない」[マタ5:14]。「木はどれでも、その実によってわかるものです」(ルカ6:44)。真に聖化された人はへりくだりの衣を固く身にまとっているので、自分の弱さと欠点以外なにも見えない。山から下りてきたときのモーセのように、自分の顔の輝きに気づかない。あの羊と山羊の壮大な譬えに出てくる義人たちのように、彼らは自分が主の目にとまり、何か主の称賛に値するほどのことをしたなどとは夢にも思っていない。「いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ……ましたか」(マタ25:37) 。しかし本人が気づいていようがいまいが、周囲の人には、彼がどこか他の人々とは違った様子をしていることがわかる。自分たちとは違った好み、違った人格、違った生き方をしていることがわかる。「聖化」されていて、しかも実生活に何の聖さも見られない人、などという馬鹿な話はない。言葉の矛盾である。光は翳ることがあるかもしれない。しかし真暗な部屋で火花ひとつが散ったとしても、目に見えないということはない。いのちは途絶えそうになることがあるかもしれない。しかし脈がわずかにでも打っていれば、感じ取れるものである。聖化された人もそれと全く同じで、たとえ自分ではよくわからないとしても、彼が聖化されていることは他の人から見て取れるもの、感じ取れるものなのである。全身くまなく世的な汚れにまみれ、罪深さのほか何も見られない「聖徒」などというものを聖書は認めていない。それは、ばけものとでもいうべき何かである!

 6. また聖化は、すべての信者が責任を負うべきものである。誤解しないでいただきたい。地上のあらゆる人は神に申し開きをしなくてはならない。私はそれを誰にも負けず固く信じている。最後の日には、滅びる人々はみな抗弁も云い逃れもできない。すべての人は、自分の「まことのいのちを損じ」ることができる(マタ16:26)。しかし私はそれと同時に、信者である人々には、聖なる生活を送るべき特別な義務と大きな責任があると信ずる。信者は他の人々とは違う。死んだ、盲目な、新生していない他の人々とは違う。彼らは神に対して生きており、自分のうちに光と知識と新しい原理がある。その彼らが聖くないとしたら誰が悪いのか。自分自身である。聖化されていないとしたら誰を非難すべきか。自分自身である。恵みと新しい心と新しい性質を神から授かった彼らが、神をほめたたえるために生きていないとしたなら、何の云いわけも立たない。このことは悲惨なほど忘れ去られている。自分は真のキリスト者だと告白しながら、聖化の非常に低い段階で満足し(実際こういう人間が少しでも聖化されているのかどうか非常に怪しいが)、ただぼやっとしている者、そして「そんなことは無理ですよ」などと平然とうそぶく者。こういう者は非常にみじめなしろもので、とんでもない間抜けである。私たちはそうした思い違いをしないよう用心しなければならない。神のことばは常に、信者を自分の行動に責任を負うべき者として戒めを与えている。罪人らの救い主は、私たちに新生の恵みを与え、御自分の御霊によって召してくださった。ならば当然主が望んでおられるのは、私たちが自分に与えられた恵みを用いることであって、私たちが再び眠り呆けることではないはずである。このことに無頓着であるがために、多くの信者らは「聖霊を悲しませ」る、役立たずの、見ていて不愉快なキリスト者なのである。

 7. また聖化は、段階を経て、徐々に成長しうるものである。聖化において、人は一歩一歩上へのぼっていくことができる。その生涯の一時期が、以前にまさって聖められているということがありうる。一方、人が最初に信じたころよりもずっと多く赦されるとか、ずっと多く義とされるとかいうことはない。神の赦しをより深く感じるということはあるかもしれないが、最初の回心のとき以上の赦しを受けるということはありえない。しかし、人がいやまさって聖化されうるということは確実に云える。キリスト者には新しい性質が与えられており、その性質の中の恵みはみな、初めのころよりもさらに強く、さらに高く、さらに深くなりうるものだからである。これこそ明らかに、私たちの主が弟子たちのため祈られた、「彼らを聖め別ってください」という祈りの意味であり、使徒パウロがテサロニケ人たちのために祈った、「平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように」という祈りの意味である(ヨハ17:17; Iテサ5:23)。この2つの祈りにおいて明らかに前提とされているのは、人が以前の自分よりもますます聖化されうるということである。ところが聖書の中で「彼らを義としてください」というような祈りが信者について云われている例は、ただの一箇所もない。ひとたび義と認められたなら、信者は二度とそれ以上に義とされることはないのである。「聖化の転嫁」などという教えを支持する聖句を私は1つも見出すことができない。思うにこの教えは、2つの異なるもの[義認と聖化]を混同しているのではないか。そのためこのように非常な害悪をもたらしているのではないかと思う。あまつさえこの教えは、あらゆる傑出したキリスト者たちの経験と全く反している。もしも、聖徒中の聖徒と呼べるような人たち全員に共通したことが何かあるとすれば、それはこのことである。すなわち、彼らの知識や理解、思いやり、徳行、悔い改め、信仰は、彼らが霊的生活を深めてゆくにつれ、また神とより近く歩むようになるにつれ、だんだんと、徐々に進歩していったものであった。つまり彼らは、聖ペテロが信者に命じているように「恵みにおいて成長し」ていった。聖パウロの言葉によるなら、「ますますそのように歩んで」いったのである(IIペテ3:18; Iテサ4:1)。

 8. また聖化は、その人が聖書的手段を勤勉に用いるかどうかによって大きく左右されるものである。ここで「手段」というのは、聖書を読むことや、規則的な祈りの生活、公の礼拝への忠実な出席、熱心に説教を聴き、欠かさず主の晩餐にあずかることなどをいう。これは当然すぎるほどの事実である。こうしたことをおろそかにしていながら大いに聖化に進めるなどと考える者は誰もいないに違いない。私の読んだ限り、過去の偉大な聖徒でこれらの事を軽視していた人は一人もいない。これらは聖霊が魂に新鮮な恵みを伝えるための定めの手段であって、これらを通して聖霊は、内なる人の中で始められたみわざを堅固にされるのである。「律法的な教理だ」と呼びたい者は呼ぶがいい。私のゆるがぬ信念は「労苦なくして霊的報いなし」である。聖書や祈りや日曜の過ごし方に不熱心な信者が偉大な聖徒になれるくらいなら、種を蒔いただけで満足し、刈り入れ時まで畑の手入れをしない農夫も裕福になれるであろう。私たちの神は手段を通して働かれる。こうした手段がなくてもやっていけるかのようにふるまう高慢ちきな霊的見栄坊の魂を祝福なさることは決してない。

 9. また聖化は、人の内側で激しい霊の葛藤が起こるのを妨げるものではない。この葛藤というのは、心の中で繰り広げられる、古い性質と新しい性質、肉と御霊の間の戦いのことである。この二者は、どんな信者のうちにも相伴って存在している(ガラ5:17)。心にこの戦いが重くのしかかり、非常な不快感を感じるとしても、聖化されていない証明にはならない。むしろ霊的に健康な徴候であり、その人の魂が死んでおらず生きている証拠であると思う。真のキリスト者は良心に平安があるだけでなく、内側に戦いを持つ者である。キリスト者のしるしは、内なる平安だけでなく、内なる戦いである。こうした言葉が、「罪なき完全」という教えを信じる、悪意のない一部のキリスト者の意見と真っ向から対立することは承知している。好んで異を立てているのではない。私の意見は、ロマ書7章の聖パウロの言葉によって裏づけられると思う。読者にはこの章を注意深く研究していただきたい。これは未信者や未熟な初信者の経験を述べたものではなく、神との親しい交わりに生きる老練な聖徒の経験である。そのような人でなくては、「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいる」と云えないはずである(ロマ7:22)。さらにこれは、過去の傑出したキリストのしもべたち全員の経験によって証明されると思う。彼らの日記、自伝、そしてその生涯そのものが完全な証明である。これらすべてを信じて私は断言する。人は内側に葛藤があろうと、決してそれは聖くない証拠ではない。内なる戦いから完全に解放されたような感じがしなくても、聖化されていないと考えてはならない。そうした完全な解放は、天国で与えられることは間違いないが、決して地上では手に入らない。この世で最もすぐれたキリスト者の心ですら、良くてせいぜい2つの軍隊の占領地のようなものであり、「2つの陣営の舞い」である(雅6:13)。すべての信者は英国国教会信条の第13条と第15条の言葉を熟考していただきたい。「天性の汚れは、新生した者のうちにも依然として残っている」。「キリストにあってバプテスマを受け、新しく生まれた者も、なお多くの点で失敗する。もし自分には罪がないと云うなら、われわれは自分を欺いており、真理はわれわれのうちにない」。*2

 10. また聖化は、人を義とすることはできないが、神を喜ばせるものである。信じがたいことだが本当のことである。もちろん地上で最も聖い聖徒の最も聖なる行ないも、多かれ少なかれ欠けと不完全さに満ちている。それは動機が間違っているか、実行の仕方が不完全で、どうころんでも神の怒りと断罪に値する「金ピカの罪」以上のものではない。自分の善行が神の厳しいさばきに耐え抜けると想像したり、罪を帳消しにして、天国へ入るための功徳となりうるなどと考えるのは全くばかげている。「律法を行なうことによっては、だれひとり……義と認められない」。「人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです」(ロマ3:20-28)。私たちが神の前に持って出られる唯一の義は、私たちの義ではなく他のかたの義----すなわち、私たちの偉大な身代わりであり代理人であられる、主なるイエス・キリストの完全な義にほかならない。私たちが天国へ入れる権利を保証してくれる唯一の証明書は、私たちの行ないではなく主の行ないである。これは、私たちのいのちをかけて守るべき真理である。それにもかかわらず、聖書がはっきり教えているのは、聖化された人の聖い行ないは、たとえ不完全なものであっても、神の目に喜ばしいものだということである。「神はこのようないけにえを喜ばれるからです」(ヘブ13:16)。「両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです」(コロ3:20)。「私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです」(Iヨハ3:22)。これは非常に慰めに満ちた教理であるから、決して忘れないでほしい。幼児が親を喜ばせようとして懸命に行なうことを喜ばない親はない。たとえそれがヒナギクをつんできたり、部屋を横切って歩いてきたりすることであってもである。そのように私たちの天の父も、御自分の子らのつたない行ないを見て喜ばれる。神は行ないの動機や、内心の思い、意図をごらんになる。単に行ないの量や質だけを見るのではない。神は、私たちを御自分の愛し子のからだの一器官としてごらんになるので、そこに純粋な意図がひとかけらでもあるなら、御子のゆえに、それだけで喜んでくださるのである。この点について異論のある信者は、英国国教会信条の第12条を学ぶとよい。

 11. また聖化は、あの大いなる最後の審判の日に、私たちの人格の証しとして絶対に必要なものである。たとえその日、私はキリストを信じていますと訴えても、その信仰に聖化の実が全く伴わず、実生活の中にまるで信仰が見られなければ、全くの無駄であろう。大いなる白き御座が据えられ、数々の書物が開かれ、墓場がその住人を吐き出し、死者が神の法廷で罪を問われるとき私たちに求められるもの、それは一に証拠、二に証拠、ただ証拠以外の何物でもない。キリストに対する私たちの信仰が真実純粋なものであるという証拠が全くないなら、死後の復活もたださばきにあうだけのものとなろう。その日、証拠として通用するものが聖化のほかにあるとは到底思えない。問題は、私たちが日ごろどのようなことを語り、何と告白していたかではなく、どのような生き方をし、何を行なっていたかである。決してこの点について空頼みをしてはならない。未来について確かなことが1つだけあるとすれば、それは、そこでは人の「行ない」と「行為」が検討され、調べられるということである(ヨハ5:29; IIコリ5:10; 黙20:13)。行ないなんてたいした問題じゃない、人は行ないで義とされるんじゃないんだ、などと考えているキリスト者は大馬鹿者である。そういう人が一生目を閉ざしたままでいると、やがて神のさばきの座に出たとき自分に何の証拠もないことに気づいて、いっそ生まれてこない方がましだったと泣きわめくことになるだろう。

 12. 最後に聖化は、私たちを天国のために訓練し、整えるために絶対に必要である。ほとんどの人は死んだら天国に行きたいと思っている。しかし天国での生活が自分にとって楽しいものかどうか考えてみる人が何人いるだろう。天国は本質的に聖なるところである。天の住人はみな聖く、天で行なわれるわざはみな聖い。天国で真に幸福に暮らすためには、地上にいるうちからある程度天国へ行く訓練と備えをしていなくてはならない。これは明らかなことである。死後罪人を聖徒にかえる練獄などという考えは、人間の創作であって聖書では一言も教えられていない。死んだ後で栄光に包まれて聖徒になりたいなら、死ぬ前から聖徒でなくてはならない。多くの人は、死ぬとき司祭による赦罪のことばと免罪がありさえすれば、死後聖徒に変えられるはずだと考えたがっている。これはたいへんな思い違いである。私たちに必要なのはキリストのみわざだけでなく、聖霊の働きかけである。贖いの血潮だけでなく、心の更新が必要である。義とされているだけでなく、聖められていなくてはならない。死の床にある人々はよく、「主よ、私の罪を赦し、安息を与えてください。それだけで結構です」と云う。しかし忘れていることが1つある。天の安息は、それを楽しいと思えなければ無意味である! ありえないことだが、聖化されていない人が天国に行けたとして、そこですることが何かあるだろうか。はぐらかさず、この問いにちゃんと答えてもらいたい。ありのままの自分を出して生きられないようなところで、人は幸福になれない。自分と好みや習慣や気心が合わない人々の間で幸福になれるはずがない。もしも鷲が鉄のおりの中で幸福になることができ、羊が海の中で、ふくろうが太陽の輝きの中で、魚が乾いた大地の上で幸福になることができた日には、聖化されていない人が天国で幸福になることもできるかもしれないが、そんなことはありえない。*3

 聖化に関するこれらの12の所説は、私の堅い確信に基づいて述べたものである。読者はこれらをみなよく考えていただきたい。1つ1つはさらに詳しく述べることができる。どれもみな静まって深く瞑想されるべきものである。いくつかのことについては、異議や反論があるかもしれない。しかし、全くの偽りだと証明されたり、くつがえされたりするものがあるとは思えない。ただ公正に偏見のない心で判断してほしい。私としては、これらは聖化に関する明確な理解を得させる助けになるはずだと確かに信じている。

2. 目に見える聖化のしるし

 ここで最初に決めた第2の点を取り上げることにしたい。すなわち、目に見える聖化のしるしという点である。聖められた人には、見てそれとわかるようなどんなしるしがあるのか。聖化された人の特徴だと確かに云えるものは何か。

 これは、聖潔というこの主題の中でも特にまとめにくく困難な部分である。まとめにくいというのは、このような紙数の中ではおさまりきれないほど多くの詳細について語らなくてはならないからであり、困難というのは、おそらくこれが一部の人々の感情を害さずにはすまないだろうからである。しかし、何があろうと真理は語られるべきであるし、今の時代には特に語られなくてはならない真理がある。

 1. まず真の聖化は、常日ごろキリスト教的な話題を口にしていればいいというものではない。この点は決して忘れてならない。この終わりの日、ちまたには安易な教会教育と説教があまりにはびこっている。警告の声が絶対に必要である。人々は福音の真理を聞かされすぎて、聖句や福音的な言葉づかいに対して不敬虔な馴れ親しみを覚えてしまった。ある人々が福音の教理についてすらすら話しているのを聞くと、時々これは本当のキリスト者ではないかと思ってしまうことさえあるほどである。しかし実のところ、そういう者らが軽薄に、また何の感動もなく、「回心」とか「救い主」とか「福音」とか「心の平安」とか「無償の恩寵」などについて話しているのを聞くと、胸が悪くなるような気がする。そういう話をしている当の本人が、罪に仕え、この世を神として歩んでいることは知らぬ者のない事実ではないか。疑いもなくこうした口のきき方は、神の御目にとって忌まわしいものであろう。一体これが悪態や、呪いや、御名をみだりに唱えることとくらべて、どれだけましなのか。われわれのからだの器官で、キリストが奉仕をせよと命じておられるのは、舌だけではない。神が御民に望んでおられるのは、うつろな樽や、やかましいどらや、うるさいシンバルになることではない。われわれは「ことばや口先だけ」でなく、「行ないと真実」でも聖められていなくてはならないのである(Iヨハ3:18)。

 2. 真の聖化は、一時的に宗教的気分が盛り上がればいいというものではない。これもまた、今日大いに警告が必要な点である。現在わが国では、至るところで開かれる伝道礼拝やリバイバル聖会に多くの人々が押し寄せ、非常な反響を呼んでいる。英国国教会は、あたかも息を吹き返し、胎動を始めたかのように見える。これは神に感謝しなくてはならない。しかし、こうした事態には良い点ばかりでなく危険も伴う。麦が蒔かれるときには、必ず悪魔が毒麦を蒔いていくものだ。多くの大衆は、福音が説き明かされるのを聴いて心を動かされ、霊的覚醒を覚えているかのように見えるが、その実、心はまるで変えられていないのではなかろうか。他の人が泣いたり、感動したり、喜びあふれているのを見て、自分まで影響されてしまい、ある種の動物的興奮に駆られているというのが真相である。受けた傷はほんのかすりきずであり、受けたと告白する平安も皮一枚の薄っぺらなものである。あの岩地にたとえられた心のように、彼らはみことばを聞くと喜んで受け入れるが(マタ13:20)、しばらくすると脱落してこの世へ舞い戻り、先の状態よりなお悪くかたくなになってしまう。ヨナのとうごまと同じく、一夜にして突如生え出ては、一夜にして枯れる。これを忘れてはならない。傷を手軽にいやし、平安もないのに「平安だ。平安だ」と云い騒ぐこの現代[エレ6:14]、われわれは十分警戒しなくてはならない。キリスト教に興味を持ちはじめた者すべてに云う。深い、内実の伴った、真に満ち足らわす聖霊のみわざ以下のもので満足してはならない。いつわりの信仰的昂揚のあとで来る反動、これは魂にとって最も恐るべき致命的な疾患である。たとえリバイバルの熱に浮かされた誰かの心から悪魔が追い出されたとしても、もしそれが単に一時的なものにすぎず、次第に悪魔がもとの家に戻っていけるとしたら、その人の後の状態は初めよりもさらに悪くなるだろう[ルカ11:23-26]。もっとゆっくりはじめて、確実に「みことばにとどまる」方が、代価も考えず性急に始めた後で、ロトの妻のように後ろをふりむき、だんだんこの世に戻っていくより何千倍もいい。ここに私は声を大にして云う。少しばかり宗教的な気分になったからといって、新生したとか聖霊によって聖められたとか想像することほど魂にとって危険な状態はないのだ、と。

 3. 真の聖化は、型にはまった信心深そうな行為や、外面の敬虔さにあるのではない。このとんでもない妄想は、不幸にも世にはびこっている。世間の考えでは、外面的な信心を飽きるほど行なえば、そこに真の聖潔があるということらしい。教会の礼拝式には欠かさず出席し、聖餐を受け、精進日や断食日を守り、聖人記念日を祝い、はては礼拝中お辞儀や首振りを繰り返し、十字を切り、膝まづき、風変わりな服を着、聖画や十字架を大事にするというようなことがそれにあたる。無論、こうしたことを純粋な気持ちから、本当に魂の助けと信じて行なっている人々もいよう。しかし多くの場合こういう外面の信心は、内面の聖さの代りにされているのではないか。うわべの行為は心の聖化の代わりには決してなりえないはずである。何よりも、こうした外的、感覚的、形式的な種類のキリスト教を信奉する者の多くが、恥ずかし気もなくこの世にのめりこみ、華美虚飾の暮らしを送っているのを見るにつけ、こうした問題について誰かがはっきり云わなければならないのだという気がする。どれだけ膨大な「外面の奉仕」を積み上げようと、そこに必ず真の聖化があるという保証はない。

 4. 聖化は、世を捨てて陰遁生活にはいることとは全く関係がない。過去のありとあらゆる時代にわたり、この方法で聖さを得ようとする罠に陥った者はおびただしい数にのぼる。何千何万という世捨人が荒野に屍をさらし、何千何万という男女が修道院の壁の内側に自分を閉じ込めたのは、こうすることで罪から逃れ、偉い聖人になれるだろうという空しい考えのためであった。彼らが忘れていたのは、どんな錠やかんぬきも悪魔を締め出すことはできないし、どこへ行こうとあらゆる罪の根源、自分の心を切り離すことはできないということである。修道僧や尼僧になって「慈善教団」に入会するのが聖化の大道ではない。真の聖潔を有するキリスト者は、困難を避けるのではなく、それに直面して打ち破る。キリストが御民に望んでおられるのは、御自分の恵みが虚弱な温室育ちの草花ではなく、人生のどんな状況でも強く逞しくあるものだと示すことである。腐敗の中の塩、暗闇の中の光のように、神に召された場所で自分の義務を全うする。それが聖化の第一要件である。洞穴の中に隠れ住む人ではなく、主人として、僕として、親として、子として、家庭で、町で、職場で、実社会で、神の栄光を現わす人こそ聖書の挙げる聖化の人である。主も最後の祈りで云われた。「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」と。

 5. 聖化は、正しい行動を時たま行なえばいいというものではない。聖化とは、常時人の内側で天来の新しい原理が働いていることを云うのであり、この原理は、大事小事を問わず人のあらゆる日常行為を支配する。この原理の住まいは心であり、肉体に対して心がそうであるように、人格のあらゆる部分に絶えず影響を及ぼす。聖化は、外力を加えなければ水を汲み上げないポンプのようなものではない。だれから云われたわけでもないのに、汲めどもつきぬ水の流れを自然にこんこんと涌き上がらせる泉のごときものである。あのヘロデもバプテスマのヨハネの言葉に耳を傾けていたときは「多くのことを行なって」いたが(マコ6:20 <英欽定訳>)、その心は全く神の前に邪悪なままだった。そのように、昨今はたくさんの人々が、病気や患難、家族の死、社会的不運、突然生じた良心の呵責などによって発作的に、いわゆる「善行」や、多くの正しい行ないをしているようである。しかし、ごまかしのきかない目を持つ者にとっては、彼らが回心したわけでも、「聖化」について何か感ずるところがあったわけでもないのは一目瞭然である。真の聖徒はヒゼキヤのように心を尽くして事を行なう。彼は神の命令をすべて正しいと思い、「偽りの道をことごとく憎む」(II歴31:21; 詩119:104)。

 6. まことの聖化は、神の律法を絶えず敬い、これを人生の指針として、常にこれに従いつつ生きようと努力するものである。「人は律法や十戒では義とされないのだから、キリスト者は律法とは無関係だ」。 こうした考えほど大きな誤りはない。御霊は律法によって信者に罪を確信させ、キリストにある義認へ導く。しかしその同じ御霊は、友なる導き手として、聖化を追い求める信者に律法を霊的に用いるよう指し示すのが常なのである。主イエス・キリストは決して十戒を軽んじなかった。逆に、その最初の公的説教である山上の説教で十戒を講解し、その要求にふくまれる奥深い性格を示された。聖パウロは決して十戒を軽んじなかった。逆に云う。「律法は……正しく用いるならば、良いものです」。「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいる」(Iテモ1:8; ロマ7:22)。聖徒のようなふりをしながら、十戒をあなどり、嘘、偽善、かんしゃく、悪口、泥酔、第七戒の違反[姦淫]などを全く気にかけない者は恐るべき妄想に陥っている。こういう人は、最後の日に、自分が「聖徒」であることを証明するのに四苦八苦するであろう!

 7. まことの聖化は、キリストのみこころを行ない、キリストの述べた実践的な戒めに従って生きようと絶えず努力するものである。こうした戒めは四福音書の至るところに散りばめられており、特に山上の説教の中に多く見られる。「別にこういう訓戒は人を聖潔に進ませようとして語られたものではない。キリスト者が日常生活でこれらに従わなければならない義理はない」、などと考える者は頭がどうかしているか、途方もなく無知な人間である。ある人々が話したり書いたりするものをみると、まるでキリストは地上では教理のほか何1つお教えにならず、実践的義務を教える方は他の者におまかせになったとでもいうかのようである。しかし少しでも四福音書に通じた人なら、これが真っ赤な嘘であることはわかるであろう。キリストの弟子がめざすべき姿、なすべき義務は、何度も何度も主の教えの中に示されている。真に聖化された人は決してこのことを忘れない。彼の仕える主人はこう云われた方なのである。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハ15:14)。

 8. まことの聖化は、聖パウロが諸教会に書き送った倫理的規範に恥じない生き方をしようと絶えず切望するものである。そうした規範は、大体パウロ書簡の後半に書かれている。一般に聖パウロの手紙は、教理的教えと論争の種----義認や選び、予定、預言など----のほか何もふくんでいないと考えられているが、これほど誤った考えはない。これは、後の日に蔓延するという聖書の無知を陰鬱に証明している。何でもよい、聖パウロの手紙を注意深く読んでほしい。人生のあらゆる領域におけるキリスト者としての義務、また日常の習慣、他の人々に対する思いや行ないについて、驚くほど多くの実践的な指示が平易に語られているではないか。こうした指示は、信仰に生きるキリスト者を日々導くものとして神の霊感によって書かれたのである。こうした戒めに注意を払わない者も、一応はどこかの教会員で通るかもしれない。しかし、そういう者は確かに聖書の語る「聖められた」人ではない。

 9. まことの聖化は、私たちの主があのように美しくお示しになった能動的な恵みを実践しようと常に心がけるものである。これは特に愛のわざを働かせる。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハ13:34、35)。聖化された人は、世において善を行ない、まわりの人すべての悲しみをやわらげ、すべての人の幸せを増そうとする。そうした人は、自分の師キリストに似たものとなり、あらゆる人に親切にし、あらゆる人を愛することをめざす----それも口先だけでなく、機会があり次第、行ないと実践と自己犠牲を払う。人より学のあることを鼻にかける利己的なキリスト者、毎週よそゆきを着て教会に通い、「模範的な教会員」と呼ばれていさえすれば、他人が立とうが転ぼうが、天国へ行こうが地獄へ落ちようがてんで気にしない----こういう人間は、聖化についてまるでわかっていない。自分では地上の聖徒気取りでいるかもしれないが、天で聖徒となることのない人である。キリストは、御自分の模範に全く従おうとしない者など決して救われない。救いの信仰、そして真の回心をもたらす恵みは、イエスのかたちに似たものを何かしら生み出さずにはおかないのである(コロ3:10)。*4

 10. 最後にまことの聖化は、キリスト教の受け身的な恵みを働かせようと常に心がけるものである。ここで受け身的な恵みとは、特に神のみこころに服従すること、互いに忍耐し、忍び合うことをいう。おそらくほとんどの人は、新約聖書でこうした恵みの働きがどれほど多く語られているか、またどれほど重要な位置を占めているか、一度調べてみるまでは考えもつかないであろう。これは主イエス・キリストの模範を仰ぎ見るよう語った聖ペテロが、特に強調している点である。「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました」(Iペテ2:21-23)。これは、私たちが主の祈りを唱えるとき口にしなければならない告白の1つであり、----「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました」----主の祈りのあとでも一言注釈されている点である[マタ6:12、14-15]。またこれは、聖パウロが列挙した御霊の実の三分の一を占めている。9つ挙げられているうちの3つ、すなわち寛容、親切、柔和は、疑いもなくこの受け身的な恵みにほかならない(ガラ5:22、23)。はっきり云わなくてはならないが、一般にキリスト者はこの問題を本当に十分よくは考えていないと思う。確かに受け身的な恵みを働かせるのは、積極的な恵みを行なうことより難しい。しかし、これほど世に対して大きな影響を与えるものはないのである。1つだけ確かなことは、聖書がこれほど柔和や親切、寛容、赦しなどを強調しているのに、それを何1つ実践しない者が、聖化されているかのようにふるまうのは愚の骨頂だということである。すぐにすねたり、短気を起こしたり、絶えず人の気持ちを逆なでするようなことを云い、誰とも仲良くやっていこうとしない者、意地悪な者、恨み深い者、人への仕返しばかり考えている者、いやがらせをする者----残念だが、こうした者らがあまりにも多い----こういう者らはみな、聖化について知らなければならないことをほとんど何も知っていない。

 以上が、聖化された人の特徴となる目に見えるしるしである。もちろん、神の民がみな等しくこれらのものを備えているというわけではない。どんなにすぐれた信者にもなお欠けがあり、不完全さがつきまとう。しかし、これだけは確かである。私がここまで述べてきたことは聖書の告げる聖化のしるしであって、こうしたものをまるで持っていない者は、自分が果たして本当にキリスト者なのかどうか疑った方がよい。だれが何と云おうと、まことの聖化は目に見えるものである。以上大まかに描いてきた特徴は、聖化された人が大体そなえているしるしである。

3. 義認と聖化の違い

 そこで最後に、義認と聖化の違いについて考えることにしよう。義認と聖化はどこが共通しているのか。またどこが異なっているのか。

 読者の中には、何だつまらないと思う人がいるかもしれないが、この問題は非常に重要である。手短に述べるつもりだが、全く触れずにすますわけにはいかない。大体、信仰の真理のうわっつらをなでるだけで事足れりとし、精密な神学的分類など三文の得にもならない「空理空論」だと決めつける、そうした人が多すぎる。しかし、自分の魂を大事に考える人に私は警告したい。キリスト教の教理で「違うものを違うと識別し」ないでいると、たいへんな厄介を背負いこむことになる。平安を得たい人に特に勧めたいのは、この問題をはっきりさせておけということである。義認と聖化が2つの異なるものであることを決して忘れてはならない。しかし、この2つには共通する部分と相異する部分がある。それを今からはっきりさせてみよう。

 まず、義認と聖化の共通する点は何か。

 a. これらは、どちらも神の無償の恩寵に源を発している。信者が義と認められるのも聖められるのも、ただ神の賜物以外の何物でもない。

 b. どちらも、あの永遠の契約でキリストが御自分の民のため引き受けてくださった救いの大業の一部である。キリストこそいのちの泉であり、そこから赦しと聖めがともに涌き出している。つまり、どちらもキリストに根差している。

 c. どちらも同じ一人の人のうちに見いだされる。義と認められた者は常に聖とされており、聖とされた者は常に義と認められている。神が2つを1つに結び合わされた。これを引き離すことはできない。

 d. どちらも同時に始まる。ある人が義と認められるき、同時に彼は聖とされる。人はこれを感じないかもしれないが、これは事実である。

 e. どちらも救われるため必要である。天国へ行くには、赦しだけでなく新しい心が必要である。キリストの血だけでなく御霊の恵みが、永遠の栄光に対する権利だけでなく、ふさわしさが必要である。このどちらが軽くてどちらが重いということはない。

 以上が義認と聖化の共通点である。では今度は逆に相違点の方を見てみよう。

 a. 義認はある人を、その人でない別の人、すなわち主イエス・キリストのゆえに義であるとみなし、義であると認めることである。ところが聖化は、ある人の内側を(ごく微弱な程度でしかないかもしれないが)、ともかく実際に義と変えることである。

 b. 私たちが義認によって持つ義は、自分自身のものではない。私たちの偉大な仲保者キリストの永遠の完全な義が、私たちに転嫁されたものである。これは信仰によって私たちのものとなる。ところが私たちが聖化によって持つ義は、自分自身の義であって、聖霊が私たちにわかち与え、受け継がせ、内側に造り出したものである。ただし、この義には多くの弱さと不完全さが入り混じっている。

 c. 義認において、私たちの行ないには何の価値もない。必要なのは、キリストへの信仰だけである。ところが聖化において、私たちの行ないは重要な意味を持つ。神は私たちに向かって、戦え、見張れ、祈れ、奮闘せよ、労苦せよと命じておられる。

 d. 義認は、すでに完成し、成し遂げられたわざである。人は信じた瞬間に完全に義と認められる。ところが聖化は、むしろ不完全なわざで、天国へ行くまで決して完成しない。

 e. 義認には成長も増加もない。人が義と認められている度合は、彼が信仰によって初めてキリストのもとへきたときから、永遠に全く変わることがない。ところが聖化はきわめて漸進的なわざである。聖化された人は、一生の間、絶えず成長し、進歩していくことができる。

 f. 義認は、私たちの人格、神の前における立場、また罪の咎からの解放と特に関係している。ところが聖化は、私たちの性格や、私たちの心の道徳的更新と特に関係している。

 g. 義認は、人に天国へ入るための権利と大胆さを与える。ところが聖化は、人を天国へ入るためにふさわしく変え、天国での生活を喜ぶことができるよう整える。

 h. 義認は、私たちを離れて行なわれる神のわざであって、他人には判別しにくい。ところが聖化は、私たちの内側における神のわざであって、その外側の現われが人の目から隠されたままであることはない。

 読者はこうした区別に注意し、よく考えていただきたい。私は確信している。多くの善良な人々が信仰上の迷いと不安に陥る大きな原因の1つは、義認と聖化を区別せずに混同することにある。何度でも云おう。この2つは異なるものである。確かにこれらは切り離せないし、このどちらかを有する人は、もう一方も持っている。しかし、決して決してこれらを混同してはならない。2つの間の区別を決して忘れてはならない。

 さてもう一言述べてこの項を終わることにしよう。私たちは、聖化の性質とその目に見えるしるしを学んだ。ここからどのような実際的適用を引き出せるだろうか。

 1. まず多くの自称キリスト者がいかに危険な状態にあるかを考えよう。聖くない者が主を見ることはできない。聖化なしに救いはない(ヘブ12:14)。とすれば、世には何と多くの空しい信仰がはびこっていることか。何と多くの教会出席者が滅びへの広い道を歩んでいることか! 身の毛もよだつ恐ろしい話である。牧師や説教者は目を開いて、周囲の人の魂の状態を考えてほしい。願わくは、「必ず来る御怒りから逃れ」ようとする人がより多く起こされるように。聖くない魂が救われて天国へ行けるようなら、聖書は偽りである。しかし、聖書は真実であって嘘がない。おゝ、彼らがいかなる終わりを迎えることであろう!

 2. また私たちは、自分自身がどんな状態にあるかはっきり確かめよう。そして自分が本当に「聖められている」と実感し、確信するまで、決して安心しないようにしよう。私たちは常日ごろ何を好んでいるか。何をしているか。何に心をひかれているか。どんな性格か。これは非常に心を探られるテストである。死の直前になってから何を望もうが、何を願おうが、何を誓おうが、もう遅い。今の私たちは何者なのか。何をしているのか。聖められているのか。いないのか。もし聖められていないとしたら、責めるべきは自分である。

 3. 今聖められたいと願う人にとって、向かうべき道は明らかである。キリストから始めなければならない。罪人としてキリストのもとへ行き、神との平和と和解を求めるのである。この良き癒し主の御手に自分を委ね、憐みと恵みを乞うことである。資格ができるまで待とうなどと考えてはならない。聖化も、第一歩は義認と同じで、信仰によってキリストのもとへゆくことである。私たちはまずいのちを受けてから働き出さなくてはならない。

 4. より聖潔に進み、聖められたいと願う者は、始めたときと同じように進み続け、常に新しくキリストに求め続けなければならない。キリストの肢体の全部分は、かしらなるキリストから養われねばならない(エペ4:16)。日々神の御子への信仰に生き、日々御子の豊かさの中から御民のために蓄えられた約束の恵みと力を引き出す----これが漸進的聖化の秘訣である。ある人の信仰に行き詰まりが見えるとき、それはしばしば、イエスとの親しき交わりを怠り、御霊を悲しませているためである。十字架にかかられる前夜に、「彼らを聖めてください」と祈られた方は、信仰によって助けと聖きを求める者なら誰でも、喜んで助けてくださる。

 5. また私たちは、この地上にある間は自分の心にあまり期待しないようにしよう。私たちは、最善を尽くしてもなお日々砕かれるであろう。自分は憐れみと恵みを一瞬ごとに必要とする破産者だ、と思い知るであろう。光を受ければ受けるほど、自分の不完全さが見えてくるものである。はじめ私たちは罪人だった。これからも罪人であり続けるであろう。私たちは更新され、赦され、義と認められた。それでも最後の最後まで罪人であり続けるであろう。私たちの究極的完成はまだ先である。そう期待すればこそ、天国が待たれるのである。

 6. 最後に私たちは、聖化を重んじ、聖潔の高い境地をめざして戦うことを決して恥じないようにしよう。世には何とも情けない徳性で満足する者、何の聖さも持たずに生きながら、それを恥としない者、惰性で教会に通うだけで満足し、決して歩みの度を速めようとしない、臼挽き馬のような者がいる。しかし私たちはこの古き道に堅く立ち、自ら卓越した聖潔をめざして戦い、人にもこれを大胆に勧めよう。これしか真に幸福になる道はない。

 この点に疑いを抱いてはならない。誰が何と云おうと、聖潔は幸福なことである。人生を最も快適に乗り切っていくのは、聖い人である。もちろん真のキリスト者にも、病や、家族の不幸や、秘密の事情のために、天国への道を何の慰めもなく、絶えず嘆きながら歩む者がいないわけではない。しかしそれは例外である。一般に、長い目で見たとき、「聖められた」人こそ地上で最も幸福な人々のはずである。彼らには、世が与えることも取り去ることもできない充実した慰めがある。「知恵の道は楽しい道である」。「あなたのみおしえを愛する者には、豊かな平和があります」。嘘をつくことのできない方が次のように語らっておられる。「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽い」。しかしこうも書いてある。「悪者どもには平安がない」(箴3:17; 詩119:165; マタ11:30; イザ48:22)。*5

聖化[了]

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*1 「聖書が述べる聖めには二種類あり、従って、2つの聖潔が記されている。まず、人にも物にもあてはまる聖めがある。それは、神ご自身の命令によって、何かを特別な用途のためにささげ、聖別し、神への奉仕のために取り分けることである。そのことによって、あるものは聖とされた。古代の祭司やレビ人、契約の箱、祭壇、幕屋、神殿は、そのようにして聖められ、聖とされた。実際いかなる聖潔であれ、神のために特別にささげられ、取り分けられるという要素は必ずふくまれている。しかし、この場合の聖潔は、それだけにとどまっており、それ以上の意味は何もない。聖なるものとして取り分けられるというだけで、その聖めによって起こる影響は他に何もない。しかし、第二に、もう1つ別な種類の聖め、聖潔がある。ここでは、上に述べたような神のための分離は、第一になされることでも、第一に意図されることでもなく、何か他のものの結果、影響である。この聖めは、私たちの性質の中に聖潔の原理を導入することによって、現実に、内側で起こる。そこには、実際の行動と義務において、神に聖なる従順をささげることが伴う。これが、いま私たちの尋ねようとしているものである」(ジョン・オーウェン、「聖霊」。全集第3巻、p.370, Banner of Truth Trust, 1977.)[本文に戻る]

*2 「悪魔との戦いの方が、悪魔との平和よりましである。物音1つしないような聖潔は疑わなくてはならない。戸の外へ追い出された犬は、中へいれてくれと吠えさわぐものだ」。「相反するもの、たとえば火と水のようなものが出会うとき、それらは互いに相争うはずである」。「サタンは、聖められた心を見出すと、躍起になってしつこく誘惑する。心が神とキリストに結びつけば結びつくほど、燃えさかる火矢やたいまつが窓めがけて投げつけられるのだ。それで、信仰に富む者のうちある者らは疑いへと誘惑されるのである」(サミュエル・ラザフォード、「試練と勝利」。p.403)[本文に戻る]

*3 「人々が勝手に思い描くたわごとの中でも、最も愚劣で、最も有害な思い込み、それは、生きている間にきよめられも、聖とされもしなかった者が、死んでから神の祝福を授けられるだろうなどという想像である。……そのような者らは、決して神に受け入れられることも、神からの報酬を受けることもない。……確かに聖潔が完成されるのは天国においてである。しかし、聖潔の糸口は、絶対にこの世で始まっていなくてはならない」(ジョン・オーウェン、「聖霊」。全集第3巻、p.574-575, Banner of Truth Trust, 1977.)[本文に戻る]

*4 「福音のキリストは、私たちの聖潔の模範として差し出されている。もちろん、それだけが----すなわち、ご自身で教えられた聖潔の教理を例証し、確証することだけが----主の御生涯の目的であったなどという考えが呪わしい想像であることは云うまでもないが、主が私たちの模範であられることを無視したり、信仰によって自分の目標として見上げることを怠ったり、主に似た者となる努力を怠ったりするのもまた忌まわしく有害なことである。従って私たちは、主イエスの完全な聖潔のかたちが私たちの心と思いの中に植えつけられ、私たちがかれに似た者と変えられいくそのときまで、主の御生涯とそのみわざ、また主がその義務と試練においてどのように身を処されたかを絶えず熟考し、瞑想しつづけよう」(ジョン・オーウェン、「聖霊」。全集第3巻、p.513, Banner of Truth Trust, 1977.)[本文に戻る]

*5 聖化の問題は非常に重要であり、この問題については大変な誤りが数多く生み出されている。私は聖化の教理について完全に通暁したいというすべての人に、オーウェンの「聖霊」(The Holy Spirit)(全集第3巻、p.513, Banner of Truth Trust, 1977.)を読むことを強く勧める。一巻の書物として、これほどすべてを余すところなく網羅しているものは他にない。
 もちろん私は、現代はオーウェンのような著作をうとんじる傾向にあることを承知している。多くの人はオーウェンをピューリタンだといって無視し、馬鹿にしさえしている! しかし共和政時代のオクスフォード大学で、クライスト・チャーチの学長をつとめたほどの大神学者をそのように扱うべきではない。オーウェンの小指の先一本には、彼をあざける者らがからだ中ふりしぼってもかなわぬほどの学殖と健全な聖書知識がつまっている。ここに私はためらうことなく主張しよう。キリスト者体験に裏打ちされた神学を学びたいと願う者にとって、オーウェンやその同時代人数人の著作に匹敵するようなものはない。彼らの論述ほど、この問題を完全に、聖書的に、徹底的に扱ったものはない。[本文に戻る]


 

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