1. 罪の本質
「罪とは律法に逆らうことなのです」(Iヨハ3:4)
キリスト者の聖潔について正しく理解したければ、まず罪という巨大で厳粛な問題を検討しなくてはならない。高い建物を建てるには、まず非常に深い穴を掘らなければならない。ここで考えを誤ると非常に困ったことになる。概して聖潔についての誤った見方は、そもそも人間性の腐敗についての誤った見方から来ていることが多い。そこで聖潔に関するこの本は、罪についていくつかの点を率直に述べることからはじめるが、これは必要なことなのである。罪に関する正しい知識が、福音的キリスト教の根幹をなす基礎中の基礎であることは明白な事実である。それがなければ、義認・回心・聖化といった教理は「空理空論」にすぎず、何の意味もなさない。それゆえ神が、人をキリストにあって新しく創造されるとき、まず第一になさるのは、その人の心に光を与え、その人に自分が咎ある罪人なのだと示すことである。創世記にある物質世界の創造が「光」からはじまったように、霊的な創造もまた「光」からはじまる。神が聖霊の働きによって「私たちの心を照らし」てくださると(IIコリ4:6)、霊的いのちがはじまるのである。罪についての、曖昧で、ぼんやりとした理解こそ、今日のほとんどすべての誤り・異端・にせ教理の源泉である。もし人が自分の魂の病の危険な性質をさとっていないとすれば、偽りの不完全な手当てで満足していても何の不思議もない。この19世紀の教会に欠けてきた、また今も欠けている欠陥の1つは、より明確で十分な、罪に関する教えである。
1. まず、いくつか罪の定義を挙げることからはじめよう。もちろん私たちはみな「罪」とか「罪人」という言葉には慣れ親しんでいる。世にある「罪」や、人々の犯す「罪」についてはさかんに語られている。しかし私たちは、この言葉で何を意味しているのか。その意味を本当に知っているのか。残念だが、この点で人の頭は混乱し、朦朧としているのではないかと思う。そこで、できるだけ手短に答えさせていただきたい。
一般的にいって、「罪」とは、英国教会の第9条が明記しているように、「アダムの子孫からひとりでに生ずる、すべての人の性質的欠陥かつ腐敗である。この罪あるがゆえに、あらゆる人間は原初の義からはるか遠く隔たり、自然によこしまな悪に傾くものとなっている。このため常に肉は御霊にさからう情欲を抱く。それゆえこの世に生を受けたすべての者は、自らの内なる罪のゆえ神の怒りと有罪宣告に値しているのである」。つまり罪とは、全人類にはびこった道徳的な病気であって、身分・階級・地位・国籍・民族・言語の別なく、女から生まれたすべての者のうちに存在している。人と生まれてこの病を持たなかった者は、唯一の例外をのぞいて誰一人いない(その例外が、主なるキリスト・イエスであることは云うまでもないであろう)。
さらに云う。より厳密に云って「罪」を犯すとは、神のみこころと律法から、毛先一本でも逸脱したような行動や、言葉・思い・想像を行ない、抱くことである。すなわち「罪」とは、聖書も云うように、「律法に逆らうこと」である(Iヨハ3:4)。外面的にも内面的にも、啓示された神の御意志と御性格に寸分の狂いもなく従って生きるのでなければ、それは罪であり、たちまち私たちを神の御前で咎ある者とするのである。
もちろん新約聖書を注意深く読んでいる人には説明不要であろうが、人は、表面的には何らあからさまな悪行を行なっていなくとも、心や思いの中で罪を犯すことがありうる。私たちの主は、山上の説教で、これを議論の余地なくはっきりと述べられた(マタ5:21-28)。わが国のある詩人[シェイクスピア]ですら、正しくもこう述べている。「人は唇に微笑みを浮かべていても、心は悪党かもしれぬ」。
また、やはり新約聖書を注意深く研究した人には説明不要であろうが、罪には行なう罪ばかりでなく、省略する罪もある。私たちの祈祷書が正しくも思い出させるように、私たちは「なすべきことをなさない」ことによっても罪を犯すのであり、それは「なすべからざることをなす」ことにも劣らない罪である。聖マタイの福音書の、私たちの師の厳粛な言葉は、やはりこのことを議論の余地なく明白に述べている。すなわち、「のろわれた者ども。わたしから離れて……永遠の火にはいれ。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べる物をくれず、渇いていたときにも飲ませ……てくれなかった」(マタ25:41,42)。かの聖徒アッシャー大主教は、死の直前に、深遠な言葉を述べている。「主よ。わが罪をすべて赦したまえ。殊に、わが不作為の罪を赦したまえ」。
しかし近年の傾向を見るに、ここでもう1つ読者に思い出させなくてはならないことがあると思う。すなわち人は、罪を犯してもそれに全く気がつかず、責めを負うべきであるにもかかわらず、自分を潔白だと思い込むことがありうるということである。私は、「罪は、知っていながら意識的に犯すのでない限り、罪とはならない」という現代の主張に、何の聖書的根拠も見出すことができない。逆に、あの不当にも無視されている書物、レビ記の4章、5章、および民数記15章において、知らずに犯す罪というものがあり、それが人を汚れたものとし、贖いを必要とするものだということを、イスラエルがはっきり教えられているのを見るのである(レビ4:1-35、5:14-19、民15:25-29)。また私は、私たちの主がはっきりと、「主人の心を……知らずにいたために、むち打たれるようなことをしたしもべは」、その無知のゆえに許されるのではなく、「打たれ」、罰されると教えておられるのを見るのである(ルカ12:48)。私たちは決して忘れてはならない。この嘆かわしいほど不完全な自分の知識や良心をもって、自分の罪深さを測ろうとするのは、非常に危険なことなのである。レビ記の深い学びは、私たちにとって非常に有益であろう。
2. 全人類に蔓延した「罪」という名の道徳的疾病については、その起源についても一言語らなくてはならない。残念ながら、信仰を告白する多くのキリスト者の考えは、この点で悲しいほど欠けの多い不健全なものではないかと思う。これを見過ごしにはできない。そこで、このことは頭の中に叩き込んでおこう。すなわち、人間の罪深さは、外から始まるものではなく、内側から出てくるのである。これは幼少時の悪いしつけの結果などではない。悪い友達や悪い模範から習い覚えたものではない。一部の未熟なキリスト者たちは好んでそういうことを云いたがるが、これは完全な誤りである。これは家伝の業病であり、全人類が最初の両親たるアダムとエバから遺伝されたもの、生まれ落ちたときから背負っていたものである。「神のかたちに」創造され、最初は潔白と義のうちにあった私たちの両親は、原初の義から堕落して、罪深く腐敗した者となり果ててしまった。そしてその日以来、この世に生まれ落ちたすべての者は、男女の別なく、堕落したアダムとエバのかたちを負って生まれ、悪に傾く心と性質を受け継いでいるのである。「ひとりの人によって罪が世界にはい……った」。「肉によって生まれた者は肉です」。「私たちも……生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。「肉の思いは神に対して反抗するもの……です」。「心から出て来るもの[水が泉から湧き出すように、自然に湧出するもの]は、悪い考え、不品行……などです」(ロマ5:12、ヨハ3:6、エペ2:3、ロマ8:7、マコ7:21)。今年誕生したばかりの、家庭の光たる愛くるしい赤ん坊も、おそらく母親が好んで呼ぶような「無邪気な」小さい「天使」などではない。それは、小さな「罪人」である。何と恐ろしいことであろう! ゆりかごの中に眠り、きゃっきゃと笑う、その小さな生き物の心には、ありとあらゆる邪悪な種子が埋め込まれているのだ! 注意深く見守るだけでいい。背がのび、物心がつくなり、その子のうちには、悪いことは喜んで行ない、良いことはしたがらないという絶えざる傾向があることに気づくであろう。そこには、狡猾さ・意地悪・利己心・わがまま・頑迷・貪欲・ねたみ・嫉妬・癇癪などの萌芽がすでに生じており、そのまま甘やかして放っておけば、絶望的な勢いで繁茂していく。こうしたことを一体誰がその子に教えたのか。一体どこからこうしたことを学んだのか。これらの問いに答えうるのは聖書しかない! 親がわが子について色々云う愚かなことの中でも、よく聞かれる次のような言葉ほど愚劣なものはない。「あの子は根は素直な子なんです。今は少しぐれてはいても、まわりが悪かったので。公立校が良くなかった。先生は生徒のことを放任ですから。しかし、あの子の根は素直な良い子なんですよ」。不幸にして、真実はまるで正反対である。あらゆる罪の第一原因は、その子自身の心にある生来の腐敗にあったのであり、学校にはなかったのである。
3. 人類全体に蔓延する、「罪」と呼ばれるこの道徳的疾病の広がりについては、何の誤解もないようにしよう。唯一の安全な立場は、聖書が私たちに告げてくれるものだけである。人は「その心に計ることがみな」、生まれながらに「いつも」「悪いことだけに傾く」。「人の心は何よりも陰険で、それは直らない」(創6:5、エレ17:9)。罪は、私たちの道徳的成り立ちのあらゆる部分に広がり、私たちの精神のあらゆる機能に浸透した業病である。知覚も、感情も、理性も、意志も、みな多かれ少なかれ感染している。良心でさえ、聖霊によって光を与えられない限り盲目であって、安全な導き手としてたよることはできず、正しいことをも誤りとして人を導きがちなものである。一言で云えば、私たちには「足の裏から頭まで、健全なところは……ない」(イザ1:6)。礼儀や、たしなみや、エチケットや、表面的な行儀作法などといった薄っぺらなヴェールで、この病は覆われているかもしれない。しかしこれは、私たちの存在そのものの根源に巣くっているのである。
私は、人間にも多くの偉大で高貴な能力が残っていると認めるのにやぶさかではない。芸術・科学・文学の分野において、人間は巨大な才能を示している。しかし、それでも彼が霊的なことにおいて全く「死んで」おり、生来、神に対する何の知識も、愛も、畏れも持っていないという事実に変わりはない。人間性の最高の部分は、腐敗と全く不可分に織り込まれ、混ぜ合わされており、それはまさに、堕落の現実と広がりを際立たせているだけである。同じ1つの存在が、ある事柄においてはかくも気高く、別の事柄ではかくも下劣でありうるということ。かくも高貴でありながら、かくも卑しく、物質面ではかくも壮大な構想と実行力を見せながら、感情面ではかくも下品で浅ましく、カルナックや、エジプトのルクソルや、アテネのパルテノンのようなものを設計、建造する力がありながら、蔑むべき神々や女神や鳥や獣や爬虫類を礼拝し、アエスキュロスやソフォクレスのごとき悲劇作者、トゥキディデスのごとき史家を輩出しながら、ローマ人への手紙1章に記されているような忌まわしい悪徳の奴隷であるということ---これらはみな、「書かれた神のことば」を蔑み、私たちを聖書崇拝者と嘲弄する人々にとって超絶的な難問である。しかし、この難問も聖書をもってすれば解くことができる。私たちは、人間には、かつて神が住まわれた壮麗な神殿のあらゆる痕跡が残っていると認めよう。しかし、今はその神殿も全くの廃墟であり、そこここに粉々になった窓だの、門扉だの、円柱だのが転がっていて、かつての美麗な姿のよすがを伝えてはいるが、どこを眺めても古の栄光は失われ、高い位置から転落した有り様しか見えない。人間の状態に関する複雑な問題は、原罪すなわち生まれながらの罪という教理および堕落の潰滅的な影響ということ以外では決して解決することができないのである。
これに加え、忘れてならないのが、世界中のどこでも、罪が全人類に蔓延する病であると証言される事実である。地球のどこを探してみようと、東半球から西半球、北極から南極へと巡り歩き、地の果てにあるあらゆる風土を渡り、またわが国のあらゆる身分を上流から下層まで渉猟し、あらゆる環境、あらゆる状況にある人々を探そうと、聞こえてくる答えは常に同じであろう。ヨーロッパやアジア、アフリカ、アメリカなどから完全に隔絶した、太平洋の真中の孤島を考えてみよう。東洋の奢侈も西洋の文芸も全く知らず、書物も貨幣も蒸気力も火薬も知らぬ原住民は、近代文明の悪徳から全く汚されていない、そんな孤島でさえ、最初に発見されるや、最低の肉欲と残虐と欺きと迷信の巣窟であることがわかるのである。その原住民たちは何を知らなかったにせよ、例外なく罪を犯すことだけは知っていた! どこに行こうと、人間の心は「何よりも陰険で、それは直らない」(エレ17:9)。私にとっては、罪の力と広がりと普遍性ほど、モーセが創世記に記した人類の起源が霊感されたものであるということを、如実に証明するものはない。全人類が一組の男女から起こったと認め、またその男女が(創世記3章の告げるように)堕落したと信ずるならば、全世界における人間性の状態は簡単に説明がつく。しかし多くの人々がするように、このことを否定するや、たちどころに解決のつきそうもない困難に巻き込まれることになる。一言で云うと、人間の腐敗が均質的に、また普遍的に行き渡っていることこそ、ありとあらゆる「信じないための困難」の中でも最も答えがたい実例の1つなのである。
そして結局のところ、罪の広がりと力の最大の証明は、罪が人間にこびりついている、その頑固さ・しつこさである。罪は、たとえ人が回心して、聖霊の働きを受ける者となってからでさえ人間性に固着している。第7条の言葉を借りれば、「この人間性の汚染は、新生した者たちのうちにすら残るものである」。罪による腐敗は人間性のうちに根深くはびこっており、私たちが新しく生まれ、更新され、洗われ、聖められ、義と認められ、キリストの生きた肢体となったあとでさえ、その根は心の奥底に生きつづけており、家の壁にできたらい病のように、私たちの地上の家たるこの幕屋が取り壊されるそのときまで、取り除くことができない。確かに罪は、信者の心の中ではもはや支配権を持っていない。罪は、恵みの新しい原理の駆逐力によって抑制され、制御され、殺され、十字架につけられている。信者の人生は、勝利の生活であって、失敗の生活ではない。しかし、胸のうちで続けられる葛藤そのものが、また日ごとに意識せざるをえない戦いが、また自分の内なる人を訓練せざるをえない油断なき熱心さが、肉と御霊の間で繰り広げられる格闘が、経験した者以外だれにもわからないあの内なる「うめき」が、こうしたものすべてが、同じ偉大な真理を証言している。これらすべてが、罪の底知れぬ力と活力を示している。実際この敵は、まことに強大な敵に違いない。十字架につけられても、なお生き続けているのである! 幸いなのは、このことを理解し、キリスト・イエスのうちにあって喜びつつも、自分の肉には何の信頼も置かず、「私たちに勝利を与えてくださる神に感謝します」と云いながらも、誘惑に陥らぬため油断せず祈りに励むことを決して忘れない信者である!
4. 神から見た罪の咎、卑しさ、忌まわしさについては、わずかしか語るまい。「わずか」というのは、意味あってのことである。事の性質上、いやしくも定命の人間が、あの聖く完全なるお方がご覧になる罪のはなはだしい悪性をさとりうるなどとは到底考えられないことである。一方において神は、「その御使いたちにさえ誤りを認められる」永遠のお方であって、その御目には「天も神の目にはきよくない」。神は行為だけでなく内なる思いや動機をも読み取られ、「心のうちの真実」を求められる(ヨブ4:18、15:15、詩51:6)。他方、私たちは---哀れな盲目の生物で、きょうあったかと思えば明日はなく、罪のうちに生まれ、罪人に囲まれ、絶えず弱さ、もろさ、不完全さの雰囲気のうちに生きる私たちは---、悪というもののおぞましさについて、全く不適切な概念しか思い描くことができない。私たちには、その深さを知るための何の測り綱も、その大きさを測るための何の物差しもない。盲人には、チチアンやラファエロの名画と街角の広告の区別が全くつかない。耳しいには、呼び子と大聖堂のオルガンの違いが聞き分けられない。私たちには鼻が曲がりそうな悪臭を放つ動物も、自分では自分が臭いなどと思うことなく、仲間を臭いなどとは思わない。同じように堕落した人間も、あの完全な神の目にとって罪がどれほど汚らしく見えるか、正しい考えを持つことはできないのである。神の御手のわざはことごとく完全である。望遠鏡をのぞこうと、顕微鏡をのぞこうと完全である。衛星を伴って、一秒も狂わず太陽の周りを回る木星のごとき巨大な天体の運行を見ても、それは完全である。地面をはいまわる最も小さな昆虫のからだの仕組みを見ても、それは完全である。その完全なお方にとって、罪がいかに汚らわしいものか、私たちは決して本当の意味では理解できない。しかし、これだけは頭に叩き込んでおこう。罪は、神が「憎む、忌みきらうべきこと」である。神の「目はあまりにもきよくて、悪を見ず、邪悪なことに目を留めることができない」。神の律法のほんの一点にでも違反するなら、私たちは「すべてを犯した者と」なる。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」。「罪から来る報酬は死」である。神は「人々の隠れたことをさばかれる」。ゲヘナのうじは尽きることがなく、火は消えることがない。「悪者どもは、よみに帰って行」き、「永遠の刑罰にはい」る。そして「すべて汚れた者……は、決して都に」、天国に「はいれない」(エレ44:4、ハバ1:13 <英欽定訳>、ヤコ2:10、エゼ18:4、ロマ6:23、ロマ2:16、マコ9:44、詩9:17、マタ25:46、黙21:27)。これらは実に戦慄すべき言葉である。しかも考えていただきたい。これが記されているのが、あのように慈愛に富む神の書なのである!
そして何よりも罪の重さを圧倒的に、また云い逃れようもなく証明するものは、私たちの主イエスの十字架と御苦しみ、またその身代わりの死および贖罪の教理である。神の御子の血をもってしなければ償えなかったほどの罪の咎とは、まさに暗黒そのものであるに違いない。御子イエスがゲツセマネでうめき、血の汗を流し、またゴルゴタで、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27:46)と叫ばざるをえなかったほどの罪の重さは、まさに測り知れないものであるに違いない。私は確信している。復活の日、死から目覚めた私たちを何よりも驚かすのは、そこで初めて気づく罪の姿であり、自分につきまとっていた無数の欠陥、欠点の思い出であろう。キリストが再臨されるその時まで、決して私たちは「罪の罪深さ」を十分わきまえることはない。ジョージ・ホイットフィールドの言葉は至言である。「天国において、われわれはこう賛美してやまないであろう。『何ということを神はなされたのか!』、と」。5. 罪という主題について、見過ごすことのできない点がもう1つだけ残っている。それは、罪の欺瞞性ということである。これは非常に重大な点でありながら、あえて云うが、受けてしかるべき注意を払われていないと思われる。この欺瞞性は、人々が罪を、神の目から見た場合より罪深くも危険でもないとみなす、驚くほどあっさりとした態度や、罪を簡単に許し、弁解し、その責任を小さなものとしようとする態度のうちに見てとれる。「大したことじゃない! 神は愛の神だ! 間違ってしたことを一々とがめだてするほど厳しくはないよ! 悪気でしたんじゃないんだ! 別に天地がひっくりかえるわけじゃない! 他の人だって同じことをしてるじゃないか!」 こういったせりふに慣れ親しんでいない人がいるだろうか? 罪の欺瞞性は、神が純然たる悪、また魂にとって全く破滅的なものと宣告されたものについて、こしらえ上げられた無数の耳ざわりのよい言葉や云い廻しのうちに見ることができる。一体、「自分に正直に生きる」だの「天衣無縫」だの「若気の至り」だの「軽はずみ」だの「一時の気の迷い」だの「よろめき」だのといった言葉は何を意味しているのか。これらはみな1つのことを明らかにしている。すなわち、人間は自分に嘘をつき、罪は神が云われたほどひどく罪深くはないと信じ込もうとしているのである。罪の本当の姿から目をそむけて、罪はそれほど悪くはないと思い込もうとしているのである。またこの罪の欺瞞性は、信者のうちにさえ見られる。彼らが子どもたちを疑わしい行為にふけらせて平気でおり、金銭を愛することから必然的に生ずる結果に目をふさぎ、誘惑をもてあそび、家庭礼拝や静思の時を不毛なままにしておくといった傾向のうちに、それは明らかである。恐ろしいことだが、私たちは自分の魂の疾患のはなはだしい狡猾さについて十分認識していないのではないか。私たちは、罪の誘惑がどのようにして来るか、あまりにも忘れがちである。罪が、はじめから正体を見せて近づいてくるようなことはまれである。のっけから、「俺はお前の宿敵だ。お前を地獄で永遠に滅ぼしてやるために来たのだ」などと云ってくることはない。とんでもない! 罪はユダのように口づけをもってやって来る。ヨアブのように両腕を広げ、快い言葉を口にしながらやって来る。禁断の木の実はエバにとって良くも慕わしくも見えたが、これによって彼女はエデンから放逐されることとなった。宮殿の屋上をぶらつくことは、ダビデにとって何も害があるようには見えなかったが、それは姦通と人殺しに終わったのである。罪は、最初のうちは罪には見えない。だから誘惑に陥らないよう、目をさまして祈っていようではないか。悪に聞こえのいい名をつけることはできても、神の御前におけるその性質や性格を変えることはできない。聖パウロの言葉を忘れないようにしよう。「日々、互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」(へブ3:13)。いみじくも連祷ではこう祈られている。「世と肉と悪魔の惑わしから、良き主よ、われらを救い出したまえ」。
さて、これ以上先へ進む前に、この主題から、抗しがたい力をもって浮かび上がるように思われる二つのことを短く述べさせていただきたい。
まず一方で、ここには、私たちすべてが自分を卑下し、へりくだるべき何と深い理由が並んでいるか、見ていただきたい。聖書の中に表わされている罪の姿を目の前に置き、深く自分の内面を見つめ、私たちすべてが、神の御目にとって何と悪逆で、何と卑しく、腐敗した生物であるか考えてみよう。私たちはみな、再生、または新生、または回心と呼ばれる、心の完全な更新を、何と必要としていることか! 私たちの最上の者たちの、最上の場合においてすら、何とおびただしい弱さと不完全さがこびりついていることか! 「聖くなければ、だれも主を見ることができない」(へブ12:14)とは、何という厳粛な事実であろう! 自分の犯した罪を思い、なすべき義務をはぶいた罪を思うとき、何と私たちは毎夜、あの取税人とともに(ルカ18:13)「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と泣かなくてはならない理由を持つことであろう! 一般の、また聖餐式における祈祷書の告白は、信仰を告白しているキリスト者たちの実際の経験に照らして、何と素晴らしくふさわしいものであろう。祈祷書が、聖餐を受けようとするあらゆる教会員の口に授ける言葉は、何と神の子らにかなったものであろう。「われらが過ちの記憶はいと重く、その重荷は耐えがたし。われらをあわれみたまえ。あわれみたまえ。いとあわれみ深き父よ。御子なるわれらの主イエス・キリストのゆえもて、過ぎ去りしすべてのことを赦したまえ」。確かに云えることは、この世で最も聖い聖徒も、自分のうちでは惨めな罪人であり、生涯最後の一瞬まで、あわれみと恵みによりたのまなくてはならないということである。私は、フッカーが「義認」について語った説教の、次のような一節に双手をあげて賛成する。「私たちが行なう最も聖く、最も高貴なことを考えてみよう。私たちは、祈るときにまさって神に専心するときはない。しかし祈る中で私たちは、何としばしば心を散漫にしてしまうことか! 自分が語りかけている神というお方の偉大な栄光について、何とわずかな敬意しか払わぬことか! 自分自身の惨めさを何とわずかしか嘆かぬことか! 神の優しきあわれみとその甘美な力に対して、何と乏しい味わいしか感じないことか! 祈り出すときの私たちの心はまことに渋りがちで、祈り終えるのが本当に喜ばしいということが何度もあるではないか。まるで『わたしを呼べ』と云われた神が[エレ33:3]、何か途方もない厄介事を云いつけたかのようではないか。私がこれから云うことは、あまりにも極端かもしれない。だから各自、心の命ずるままに判断していただきたい。それ以上のことはいらない。私はただ、こう尋ねたいのだ。もし神が、アブラハムにしたようにではなく、---つまり、ある町の中に、50人、40人、30人、20人、いや10人の義人が見つかるなら、その義人たちのために、その町は滅ぼすまいというのではなく、もし次のように寛大な申し出をされたらどうであろう。すなわち、『人類の先祖アダムが堕落して以来の、あらゆる世代の中で、完全に純粋で何の染みも傷もないような行為を、1つ行なった人を一人でも捜し出してみよ。もしそのような人がいたら、その一人の人のたった一度の行ないのために、わたしは人間も御使いも、彼らのため備えられた苦しみを味あわずにすむようにしてやろう』。このような申し出がされたとしたら、あなたはこのような、人間と御使いを救い出すための代価が人の子らの中に見つかると思うだろうか。否、私たちはどれほど気高い行為を行なったとしても、どこかしら赦しの必要な部分があるのである」*1。
この証しは真実である。少なくとも私はこう確信している。私たちは光を受ければ受けるほど、自分自身の罪深さを悟らされ、天国へ近づけば近づくほど、へりくだりを着るようになる。聖徒たちの伝記を調べれば、これが教会の全時代を通じて真実であったとわかるであろう。最も傑出した聖徒たち---ブラッドフォード、ラザフォード、マクチェーンらのような人々---は、常に最もへりくだった人々であった。
その一方で、神の恵みによる素晴らしい福音に対し、私たちがいかに深く感謝すべきであるか見ていただきたい。人間の欠けを満たす救済の計画は、すでに啓示されている。これは、人の病の高さも深さも広さも満たすことのできる救いの計画である。私たちは、罪を見つめ、罪の力や広がりや汚らわしさを学ぶのを恐れる必要は全くない。なぜならそれと同時に、イエス・キリストにある救いが差し出している万能の治療薬を見つめればいいからである。罪は増し加わったが、恵みもまた満ちあふれた。しかり。御父、御子、聖霊の間で結ばれた永遠の贖いの契約のうちに、この妙薬はある。その契約の仲保者たる義なるイエス・キリストのうちに、すなわち一個の人格として完全に神であり完全に人であられるお方のうちに、また彼が私たちの罪のために死に、私たちが義と認められるために復活されたこと、彼が私たちの祭司・身代わり・医師・羊飼い・弁護者として果たされる職務、彼が流された、すべての罪からきよめることができる血潮、彼がもたらした永遠の義、彼が私たちの代理人として神の右の座で行なっておられる絶えざるとりなし、罪人のかしらをも完全に救う彼の力、最も卑しむべき者をも受け入れ赦そうという彼のみこころ、最も弱い者をも喜んで忍ばれる彼の優しさ、彼が御自分のすべての民の心に植えつけてくださる聖霊の恵み、古きものを更新し、聖くし、過ぎ去らせ、すべてを新しくするその恵みの力、それらのすべてのうちに---そして、おゝ、これは何と大雑把な描写であろう!---それらすべてのうちに、罪というおぞましい病を根治せしめる、完全にして十分な薬効があるのである。疑いもなく、罪の真の姿をのぞきこむのはぞっとする恐ろしいことである。しかしそれと同時に、イエス・キリストの真の姿を正しく理解するならば、誰も恐れたり絶望したりするにはおよばない。かの老フレーベルが説教集『いのちの泉』で、しばしばこの感動すべき句を章の結びに用いたのも不思議はない。「イエス・キリストのゆえに、神がほめたたえられますように」。
この巨大な主題を終わるにあたり、私はほんの表面をなでたに過ぎないような気がしている。これは、このような一篇の論文では十分取り扱うことができない。この主題に関してより深く徹底的に学びたければ、オーウェンやバージェス、マントン、チャーノックその他のピューリタンの巨人たち、すなわちキリスト者経験を重視したあの大神学者たちのもとに赴くべきである。こうした主題を扱わせては、ピューリタンらの右に出る者はない。最後に私は、いくつかの実際的な適用を指摘することにしよう。罪の教理全体から、今日に対する有益な適用を引き出すことができる。
a. まず第一に述べたいのは、罪に対する聖書的な見方こそ、現代悲しいほどにはびこっている曖昧で、薄ぼんやりとした神学への最上の解毒剤の1つだということである。近年、至るところに、ある種のキリスト教があることは否定できない。はっきり不健全だと宣言することもできないが、何かが欠落した、水割りのキリスト教なのである。確かにそれは、「キリストについての何か、恵みについての何か、信仰についての何か、悔改めについての何か、聖潔についての何か」ではあるが、真の、聖書の中に「あるがままの姿」はしていない。あるべき場所に物事がなく、バランスが狂っている。老ラティマーなら云うであろう。これは一種の「ぐたまぜ」であって、屑の役にも立たない、と。日々の実生活に何の影響も及ぼさず、人生には何の慰めも、死には何の平安も与えない。そして、こういう種類のキリスト教を奉ずる人々が、自分にしっかりした土台が何もなかったことに気づくときには、もう遅いということがあまりにも多いのである。この欠陥キリスト教を治癒する見込みが最もありそうな方法は、あの古い聖書の真理、罪の罪深さをもっとはっきり全面に打ち出すことだと思う。人々は、地獄へ落ちるかもしれないと本当に感じるまでは、決して顔をきっぱり天に向けたり、巡礼のように歩もうとしたりしない。私たちはみな、罪に関する古い教えを子供部屋で、学校で、師範学校で、大学で、よみがえらせるよう努力しよう。「律法は、もし……正しく用いるならば、良いもので」あり、「律法によっては、罪の意識が生じる」ことを忘れないようにしよう(Iテモ1:8、ロマ3:20、7:7)。律法を全面に押し出し、これを強調して、人々が注意を払うようにしよう。十戒を講解し、その教えを鼓吹し、その要求の長さ・広さ・深さ・高さを示そう。これこそ主が山上の説教でなさったことである。私たちは主のご計画に従うに限る。請け合ってもいいが、人は、自分の欠けと必要を本当に認めるまでは、決してイエスのもとへ来たり、イエスのもとにとどまったり、イエスのために生きたりしはしない。御霊がイエスのもとへ導くのは、御霊が罪を確信させた人々である。人が自分の罪を徹底的に確信していなければ、たとえイエスのもとへ来て、しばらくはとどまるように見えても、やがてすぐ離れ去り、世に舞い戻るであろう。
b. 次に、罪に対する聖書的な見方は、現代を風靡している途方もなくずぼらで、リベラルな神学への最上の解毒剤の1つである。現代の風潮は、教義・信条・あらゆる宗教上の制約などをすべて排する傾向にある。いかなる意見をも非難しないのが崇高で賢明なこととされ、真面目で才気ある教師なら誰でも信頼に値するとみなされる。教師たち相互の意見がどれほど相容れず、どれほど相殺しあっていようとかまわない。実に、何もかも真理であり、偽りは何もないというのである! 誰もが正しく、間違っている者は誰もいないというのである! おそらくあらゆる人が救われ、滅びる者は誰もいないというのである! キリストの贖いと身代わりの死・悪魔の人格的実在・聖書中の奇跡的要素・来たるべき永遠の罰の真実性などといった盤石の土台石がみな、あたかもガラクタでもあるかのように、キリスト教という船を軽くし、現代の科学と歩調を合わせるために、冷淡に船外へ放り出されている。これらの偉大な真理を擁護しようと立ち上がれば、偏狭だの、因循姑息だの、時代遅れだの、神学的化石だなどと呼ばれる! 聖句を引用すれば、大昔のユダヤ人が書いた一冊の本にすべての真理がつまっているわけではない、その本が完結した後でも、独自の研究から多くの発見がなされたのだなどと云われる! さて私の見るところ、このような現代の疫病を退治するには、罪の性質と現実、その忌まわしさ・力・咎について明確に宣言すること以外にないと思う。私たちは、そういうリベラルな見解を持つ人々の良心に突き入り、いくつかの明確な問いを突きつけ、明確な答えを要求しなければならない。私たちは彼らに問わなくてはならない。胸に手をあてて、しかと考えてもらおう。そして答えてもらおう。諸君の愛好する意見は、諸君が病の日にあるとき、また死の床にある両親の傍らや、愛する妻や子の墓前に立ったとき、果たして慰めを与えてくれるのか。明確な教理を抜きにした、あいまいな真面目さだけで、そのようなとき平安を得ることができるのか。そう私たちは問いを突きつけなくてはならない。自分の心の中に、ありとあらゆる独自の研究や哲学や科学をもってしても満足させられない、心を悩ます「何か」がありはすまいか。その心を悩ます「何か」こそ、諸君が計算し忘れた、罪の感覚であり、咎と腐敗を覚えるということなのだ、と。そして、何よりも私たちは、彼らに告げなくてはならない。諸君が真の安息を感じるためには、人間の堕落、キリストの贖罪、そしてイエスに対する子供のように単純な信仰という昔の教えに従うしかないのである、と。
c. 次に、罪に対する正しい見方こそ、ここ25年ほどの間に英国を席巻し、多くの人の心を奪っているような審美的で、儀式的で、形式的なキリスト教への最上の解毒剤である。確かに、ある種の心の持ち主には、その良心が真に光を受けるまでは、このような礼拝形式が、えもいえず魅惑的なものであるにちがいない。しかし、いったん良心と呼ばれる私たちの精神の最もすぐれた部分が真に覚醒し、息づきはじめるや、とうてい美的儀式的なキリスト教が完全な満足を与え続けられるとは思えない。幼児はけばけばしい玩具や人形やガラガラで簡単におとなしくなり面白がって遊ぶだろう。だがそれは空腹でない場合に限る。いったんその子が自然の渇望を身の内に感ずるや、食べ物を与える以外何をもってしても決して満足しないはずである。人の魂に関しても、ちょうどそれと同じである。聖歌や花、ろうそく・薫香・旗・行進・麗々しい祭服・告解聴聞席、そして人工的なカトリックまがいの儀式は、ある状態においては人を満足させるかもしれない。しかし、ひとたび彼が「目をさまし、死人の中から起き上が」ると[エペ5:14]、そうしたもので心を安んじるわけにはいかなくなる。それらは彼にとって単なる厳粛めかしたたわごととなり、時間の浪費に見える。いったん自分の罪をさとった者は、救い主を見ずにはすまされない。彼は命取りの業病にかかったかのように感じ、あの偉大な名医以外のものでは満足できない。彼の飢え渇きは、いのちのパン以下のものでは満たされない。これは大胆な云い方かもしれないが、あえて云おう。もし英国の人々が、よりはっきり、より十分に、罪の性質と忌まわしさと罪深さについて教えられていたなら、過去四半世紀における半ローマ主義の八割方は、決して現われはしなかったであろう。d. 次に、罪に対する正しい見方は、近年しきりに耳にする、キリスト者の完全に関する極端な理論への最上の解毒剤の1つである。この点では僅かしかふれないことにしよう。これから述べることが、誰の感情も傷つけないといいと思う。もし私たちに対して完全を説いてやまない人々が、それは生活全般を首尾一貫したものとすることである、キリスト者性格を形成するすべての恵みに注意深く配慮をくばることであると云うのなら、私たちは彼らを容認するばかりか完全に同意するであろう。私たちはいかなる努力を払っても、恵みの山頂をめざそうではないか。しかしもし人々が、信者はこの世で罪からの完全な自由に到達できるとか、信者は決して乱されも破られもしない神との交わりのうちに何年も生きることができるとか、信者は何カ月にもわたって、悪い考えを1つも感じないでいられるとかいったことを本気で云っているのなら、私は正直に、私の見るところ、そうした意見は非常に非聖書的であると云わなくてはならない。いな、それ以上である。このような意見は、これを信じる人にとって非常に危険なものである。またこれは、救いを求める人々を落胆させ、失望させ、遠ざけるであろう。私たちが肉体にある間に、このような体験をすると期待できるような保証など、どれほどかすかなものも、神のことばの中には見いだすことができない。私は、英国教会の第15条の言葉は疑問の余地なく真実であると信ずる。すなわち、「キリストだけが罪なきお方である。その他の私たちはみな、キリストにおいてバプテスマを受け新生した後であっても、多くの事においてつまづく者である。そしてもし、自分には罪がないと云うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにない」。私たちの第一説教の言葉を借りると、「私たちの行ないには、たとえ最善のものであったとしても不完全な部分がある。私たちは、当然なすべきほどには神を愛していない。すなわち心と思いと力を尽くして神を愛してはいない。私たちは、当然なすべきほどには神を恐れていない。祈るときも、多くの大きな不完全さをもって祈っている。私たちが与え、赦し、信じ、生き、希望する、それらはみな不完全なものである。私たちが語る言葉、抱く思い、なす行ないはみな不完全である。悪魔、世、肉との戦いも不完全である。それゆえ私たちは、自分の不完全な状態を恥じずに、はっきり告白しようではないか」。先に述べたことを、もう一度云う。ある人々の心を惑わす、完全に関するこの迷妄---と、呼んでよいと思う---をくいとめる最上の方法は、罪の性質と罪深さと欺瞞性を明確に、十分に、はっきりと理解することである。
e. 最後に、罪に対する聖書的な見方は、個人的聖潔を軽視する見方への素晴らしい解毒剤となるであろう。この終わりの日、教会の中には、そうした見方が悲しいほど広まっている。これが非常に困難で、微妙な問題であることは承知しているが、あえて現実を見つめよう。わが国の信仰を告白するキリスト者たちが、日常生活の基準において衰退を続けていることは、長年にわたる私の悲しい確信であった。キリストのごとき愛・親切・気立ての良さ・無私の精神・柔和さ・優しさ・温和さ・自己否定・善への熱心さ・世との分離は、私たちがそうあるべき状態よりも、また私たちの先祖たちの時代そうであったよりも、はるかに低い状態にある。
こうした状態をもたらした種々の原因について、完全な答えが出せるふりはすまい。私にできるのは、他の人に考えてもらうため、いくつか推測を挙げることだけである。おそらく現代は、ある種の信仰告白をすることがあまりにも流行し、信者であると口にすることがあまりにも容易になってしまったがために、かつては狭く深かった流れが、だだっ広く、底の浅いものとなってしまったのかもしれない。そうして私たちは、外的には成長していながら、実質においては減退してしまったのである。また、過去二、三十年の間に私たちの経済状態が非常に向上したことによって、知らぬ間に世俗性や、放縦や、安逸をむさぼる心といった疫病が社会に忍び込んだのであろう。かつては贅沢品と呼ばれたものが今では必需品と呼ばれており、結果として、自己否定や、「克己」という言葉はほとんど死語と化してしまった。さらに、この時代をいろどる膨大な量の論争が、私たちの霊的生命を知らぬ間に枯らしてしまったのかもしれない。私たちは、あまりにもしばしば正統的信仰のための熱心だけで満足してしまい、日常の実践的な敬虔というまじめな現実を等閑視してきたのであろう。しかし原因が何であれ、結果は変わらない。現代は、信者の間における個人的聖潔の標準が、私たちの父たちの時代よりもずっと低くなっている。そのすべての結果、御霊を悲しませることとなり、非常なへりくだりと、心を探りきわめることが必要となっている。
こうした状態の解決策として、私はあえて1つの意見を述べたい。教会の中の他の考え方をする人々は、自分で判断していただきたい。英国教会内の福音主義的な信徒たちを癒す道は、私の確信するところ、罪の性質と罪深さについて、より明確な理解をさせることに求めるべきである。私たちは、自分たちの霊的生命を吹き返そうとしてエジプトへ帰る必要はない。半ローマ主義的な儀式を借りてくる必要はない。私たちは告解を復活させる必要はないし、修道院制や禁欲主義に戻る必要もない。とんでもない! 私たちは単純に悔い改め、初めのわざを行なわなくてはならない。私たちは、あの「昔からの通り道」へと帰らなくてはならない[エレ6:16]。私たちは、へりくだって神の御前に座し、この罪という問題のすべてを直視し、主イエスが罪と呼んでおられるもの、また主イエスがご自分のみこころであると仰せになっておられるものを、はっきり吟味しなくてはならない。そして私たちはこのことを悟るよう努力しなくてはならない。恐ろしいことだが、いい加減な心で、安易に、半分この世の者のような生き方をしていながら、福音的な信仰を保ち、福音的なキリスト者だと自称するということもありうるということを! まず何よりも、罪は私たちの思っているよりもずっと忌まわしく、ずっと身近にあり、ずっと頑強にこびりついているものであることをわきまえようではないか。そうするならば、私たちはよりキリストのみもと近く生きるよう導かれるであろう。これが私の確信であり、信念である。私たちはキリストの満ち満ちた豊かさをより深く飲み、パウロがそうであったように、「信仰のいのちを生きる」ことをより完全に学ぶであろう。ひとたびイエスにある信仰のいのちを生きること、また彼にとどまることを教えられたなら、私たちはより多くの実を結び、義務を果たす上で自分がより力強くなったこと、試練のときより忍耐強くなったこと、自分の貧しく弱い心に対してより油断なく、細々としたすべての日常の事柄においてより自分の師に似た者となっていることに気づくであろう。キリストが私たちのためになしてくださったことを悟れば悟るだけ、キリストのため大いに働くようになるであろう。多くを赦されたので、多く愛するようになるであろう。一言で云えば、使徒が云うように、「私たちは……顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら……、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(IIコリ3:18)。
だれが何と考え、何と云おうと、聖潔に関する関心の高まりが時代のしるしであることに疑問の余地はない。「霊的な生活」を高めるための集会は、もはや最近では珍しくなくなってきている。「霊的生活」という主題が、毎年のように教会会議の席上で取り上げられる。この主題が全国で関心を引き、また一般の注目を集めているのは感謝すべきである。健全な信条に基づいている限り、私たちの霊的生活を深め、個人的聖潔を増し加えるものは、どのような運動であれ英国教会に対する真の祝福となるであろう。それは大いにあずかって私たちを1つに結び合わせ、私たちの間の不幸な分裂を癒すであろう。それは、新たな御霊の恵みを上より引き出すかもしれない。そしてこの終わりの日にあたって、「死者の中からの復活」となるかもしれない。しかし、これだけは確かである。この論文の冒頭で述べたように、私たちは高く建て上げるためには、まず低きから始めなければならない。私は確信している。聖潔のより高い標準に達するための第一歩は、罪の驚くべき罪深さをより十分にさとることである。
罪の本質[了]
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*1 Hooker, Learned Discourse on Justification.[本文に戻る]
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