序言 本書におさめられた20編の論考によって、私がささやかな貢献をしたいと思っているのは、現在、非常な関心をかき立てている主題----すなわち、聖書的聖潔という問題についてである。これは、キリストを愛し、その御国の進展を願う者であればみな、世に広めるよう努めるべき目的であろう。だれにでも多少の手助けはできるはずであり、ここに私も微力ながら力を添えたいと思う。
読者はこれらの論考に、正面切って論争めいた部分がほとんど見あたらないことに気づくであろう。私はわざと、現代の教師たちの名や現代の著書名をあげないように注意したからである。私は、自分で聖書を学び、自分で黙想を重ね、自分で光を求めて祈り、自分で古い時代の神学書を読むことで得た成果を世に問えればそれでよい。もし何らかの点で私がまだ誤っているとしたら、世を去る前にその点を示してもらいたいと思う。私たちはみな、一部分しかものが見えず、土の器の中に宝を入れているのである。私はいつまでも学び続ける者でありたいと願っている。
これは私の積年の確信だが、現代、わが国のキリスト者の間では、実際的聖潔と、神に対する全き自己聖別ということに十分な関心が寄せられていない。あまりにも多くの者が、政治や、論争や、党派心や、世俗的精神によって、生き生きとした敬神の心を食い荒らされてしまっている。個人的敬虔という主題は、悲しいほど片隅に追いやられている。どこを見ても、生活の基準が痛ましいほど低俗化している。私たちの日々の生活態度や心根によって、「私たちの救い主である神の教えを飾る」こと(テト2:10)、またそれを気高く麗しく見せることが、どれほど途方もなく重要なことであるかは、あまりにもしばしば見過ごしにされている。いわゆる「宗教的」な人々よりも宗教など全く信じていない人々の方が、ずっと立派で、非利己的で、気立てがいいではないか、というような、世の人々が時たま口にする苦情も、あながち無理なことではない。それでも聖化は、正しい認識をもってしかるべく扱われるなら、義認に劣らぬほど重要なものである。健全なプロテスタントの福音主義的教理は、聖い生活が伴わない限り何の役にも立たない。役に立たないどころか、明白に有害である。それは、理非曲直を鋭く見抜く世の人々から非現実的で中身のないものとして軽蔑されており、キリスト教信仰に恥辱を招いている。私の堅く信ずるところ、私たちには聖書的聖潔の徹底的なリバイバルが必要であり、この点に注意が向けられつつあることに私は深く感謝するものである。
しかしながら、ここで非常に重大なことは、この主題全体を正しい土台の上に据えること、またこの運動が一部の人々の粗雑で、均整を欠いた、偏った発言によって損なわれないようにすることである。むろんそうした発言が世に満ちているとしても、全く驚くことはない。サタンは真の聖潔の力を知悉しており、そうした聖潔に注意を払う人々が増加していくとき自分の王国にどれほど多大な損害がもたらされるかよくわかっている。それでサタンは、自分が損をしないように、神の真理のこの部分についての争いや論争を助長するのである。過去の時代、義認に関して人々の思いをまんまと撹乱し、混乱させたのと全く同じように、今の時代サタンは、人々が聖化について「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くする」ようにさせようと躍起になっているのである。願わくは主が彼を戒めてくださるように! しかしながら私は、悪から善がもたらされるであろうとの希望を決して捨てない。論議を尽くすことによって真理が引き出され、意見の多様さによって私たちがみなさらに聖書を探らされ、さらに祈らされ、さらに勤勉に「御霊の思い」が何かわきまえようとさせられるのではないかと思う。
本書を世に送るにあたって、私が今なすべきであると感じているのは、今日、聖潔という主題に特に関心を持つ人々に対して、前置きとなるような示唆を二三述べておくことである。それは、はた目には、とんでもない増上慢のように見えるかもしれない。事によると怒りを覚える人もいるであろう。そうした危険は承知の上である。しかし神の真理のためとあらば、どこかで危険を冒さなくてはならない。それゆえ私は、そうした示唆を問いかけの形で述べていくことにする。読者の方々には、ぜひそれを、「聖潔という主題に関する、時代の警告」として受け取っていただきたい。
1. 私が第一のこととして問いたいのは、果たして最近、聖化という教理を扱う際に多くの人々がしているように、必要なのは信仰だけであって、信仰さえあれば他に何も要らない、と語るのは賢明であろうか、ということである。果たして回心した人々の聖潔は、多くの人々があれほど大胆に、何の裏づけもないまま、絶対的な真理として云い立てているような、信仰のみによって得られ、個人的な努力を全く必要としないものであろうか? 私は疑わしいと思う。
キリストを信ずる信仰があらゆる聖潔の根幹であること、聖い生活に向かう第一歩がキリストへの信仰にあること、信ずるまで私たちにはこれっぽっちも聖潔がないこと、信仰によるキリストとの結合こそ聖くなる道を歩き出し、また歩き続けるための秘訣であること、私たちがこの世に生きているのは神の御子を信ずる信仰によってでなくてはならないこと、信仰によって心がきよめられること、信仰こそ世に打ち勝った勝利であること----これらは、よく教えを受けたキリスト者ならばだれも否定しようなどとは考えないであろう。しかし、聖書が確かに私たちに教えるところによれば、聖潔を追求する真のキリスト者には、信仰だけでなく個人的努力が、行ないが必要である。ある箇所で、「私が、この世に生きているのは……神の御子を信じる信仰によっているのです」、と云っている当の使徒が、別の箇所では、「私は……拳闘をして」いる*、「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」、と云っており、他の箇所でも、「私たちは……自分をきよめ……ようではありませんか」、「私たちは……力を尽くして努め……ようではありませんか」、「私たちも、いっさいの重荷……を捨て……ようではありませんか」、と云っているのである(ガラ2:20; Iコリ9:26、27; IIコリ7:1; ヘブ4:11; 12:1)。さらに、聖書のどこを探しても、信仰が私たちを義と認めさせるのと同じような意味、同じようなしかたで、信仰が私たちを聖化するなどとは教えられていない。義と認めさせる信仰は、「何の働きもない」恵みであって、それはただキリストに頼り、キリストに希望をかけ、キリストにすがるしかない(ロマ4:5)。他方、聖化する信仰は、行動をその真髄とする恵みである。それは、「愛によって働く」もの、時計の主ぜんまいのように内なる人の全体を作動させるものである(ガラ5:6)。また結局のところ、「信仰によって聖なるものとされ」、という云い回しは、新約聖書の中に一箇所しか出てこない。主イエスはサウロに云われた。「わたしは……あなたを……遣わす。それは……わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである」。しかしこの箇所ですら、私はオールフォードの意見に賛成して、「信仰によって」という言葉は文章全体にかかっており、「聖なるものとされ」という言葉だけに結びつけられてはならないという立場をとる。この文章の真意は、「わたしを信じる信仰によって、彼らは罪の赦しを得るし、聖なるものとされた人々の中で御国を受け継ぐことになる」、ということである(使26:18を使20:32と比較されたい)。
「信仰による聖め」という云い回しは、新約聖書のどこにも見あたらない。神の前における私たちの義認という件では、キリストを信ずる信仰こそ唯一必要なものである。そこに異論の余地はない。単純に信ずる者はみな義と認められる。義は、「何の働きもない者……信じる」者に転嫁される(ロマ4:5)。「信仰だけが義と認める」という言葉は、完全に聖書的であり、まぎれもなく正しい。しかし、「信仰だけが聖くする」という言葉は、それと同等に聖書的ではなく、それと同等に正しくはない。このように云うためには、非常に多くの限定を設けなくてはならない。1つの事実だけで十分としよう。人が「律法の行ないによってではなく信仰によって義と認められる」、とは聖パウロからしばしば聞かされるところである。しかし私たちは一度たりとも、「律法の行ないによってではなく信仰によって聖とされる」、などとは語られていない。逆に、聖ヤコブのあからさまな言葉によると、私たちを人前で、目に見える形で、明確に義と認めさせるような信仰とは、「行ないがなかったなら、それだけでは、死んだもの」なのである(ヤコ2:17)*1。ここで、「行ない」は聖い生活の本質的部分なのだから、それを軽視しようとする者などいるはずないではないか、と反問する人もあろう。しかし、最近は多くの人がこのことをあいまいにしているように見受けられるので、これをより明白にしておくに越したことはないであろう。
2. 私が第二のこととして問いたいのは、果たして山上の説教や、大多数の聖パウロ書簡の後半部分に見いだされるような、日常生活での聖潔を促す多くの実際的勧告を、ある人々がしているように、どちらかといえば等閑に付すというようなことが賢明であろうか、ということである。それは、神のみことばの釣り合いにかなっているだろうか? 私は疑わしいと思う。
日々自分を神に聖別し、日々神と交わる生活が信仰者と名乗るあらゆる者の目当てたるべきこと、また重荷と感じられるあらゆることを、事の大小を問わずキリストのもとに携えて行き、それをキリストにゆだねる習慣を身につけるよう努めなくてはならないこと、----これらすべては、もう一度云うが、よく教えを受けた神の子らならだれひとり夢にも異論を唱えようなどとは思わないであろう。しかし新約聖書が確かに教えているところによれば、私たちが必要としているのは、聖い生活に関する一般論以上の何かである。良心をほとんど刺さないような、当たり障りのない言明を越えた何かである。この主題を扱うと公言する者であればみな、日常生活において聖く生きるとはどういうことか、具体的な事項を逐一つまびらかにし、その実行を信仰者に迫ることを務めとしなくてはならない。真の聖潔は、単に信じたり感じたりすることばかりでなく、行なうことと耐えること、能動的な恵みと受動的な恵みとを、実際的な形で示すことにあるのである。私たちの舌、私たちの気分、私たちの生来の好みと傾向、また私たちの親として子としてのふるまい、主人としてしもべとして、夫として妻として、支配者として被支配者としてのふるまい、また私たちの衣服、時間の使い方、職場における行動、病んだとき健やかなとき富めるとき貧しきときの態度、----すべてが、これらすべてが、霊感を受けた記者たちによって、まんべんなく扱われている。彼らは決して、私たちが何を信ずべきか、どう感じるべきか、いかに聖潔の根幹を心に植えつけられるべきか、などという一般論を云々することで事足れりとしてはいない。もっと深く掘り下げている。具体的事例まで突っ込んでいる。もし聖い人がキリストにとどまっているなら、その人が家庭内で、また自宅の炉端にいるときに、何を行ない、どのような人でなくてはならないかを詳しく記述している。果たして現代の聖潔運動では、この種の教えに十分な注意が払われているであろうか。私は疑わしいと思う。どこかの説教者が「信仰と自己聖別による聖潔」について熱烈に訴えるのを聞いた人々が口々に、「素晴らしい祝福」を受けたとか、「より高い生活」を見いだしたとか語っているそのかげで、その人々の家族や友人たちの見るところ、実は彼らの日常の気分や行動が何も改善されておらず、何の気高さも増し加わっていないとしたら、途方もなくキリストのためにならない悪影響が及ぼされているのである。決して忘れてはならないことだが、真の聖潔とは、単に内的な感覚や印象だけで終始する問題ではない。それは、涙や、吐息や、肉体的興奮や、鼓動の高まりや、自分の愛好する説教者や所属団体への愛着や、異を唱える者があればただちに食ってかかるような血の気の多さなどをはるかに越えたものである。それは、「キリストのかたち」にかかわることであって、他の人々が私たちの個人的な生活、習慣、性格、行ないにおいて目にとめ、観察することができるものなのである(ロマ8:29)。
3. 私が第三のこととして問いたいのは、果たして「完全」という言葉をあいまいに用いて、聖書からも経験からも全く保証が得られないないような聖潔の基準をキリスト者に押しつけることが賢明なことであろうか、ということである。私は疑わしいと思う。
信仰者が「神を恐れかしこんで聖きを全う」し、「完成を目ざして進」み、「完全な者に」なるよう勧告されていることは、自分の聖書を注意深く読んでいる人であれば決して否定しようとは思わないであろう(IIコリ7:1; ヘブ6:1 <欄外訳>; IIコリ13:11)。しかし、聖書に一箇所でも、文字通りの完全さ、すなわち、思いと言葉と行為において全く完璧に罪から解放されるというような境地が、この世でアダムの子らに到達可能であるとか、そこに到達した者がいるとか教えている箇所が果たしてあるであろうか? 寡聞にして私は全く知らない。比較的な完全さ、すなわち、知識における完成とか、生活上のあらゆる人間関係で首尾一貫した態度をとり続けることとか、教理のあらゆる点において全般的な健全さを保つこととか----こうしたことなら、神を信ずる人々の中に時たま見受けられもしよう。しかし、絶対的な文字通りの完全さということでは、いかなる時代のどれほど傑出した神の聖徒も、決してそのような主張をしようとはしなかった! 逆に、彼らが常に心中深く感じていたのは、自分の全き無価値さと不完全さであった。霊的光を享受すればするほど、彼らは自分の無数の欠陥と短所が見えてきたのである。恵みを受ければ受けるほど、彼らは「謙遜を身に着け」たのである(Iペテ5:5)。
その人生の詳細が神のみことばに記されているような聖徒たちのうち、文字通りの意味で絶対的に完全であったような者がだれかいるだろうか? 自分のことを書き残している聖徒らのうち、不完全さから解放されるとはこれこれこういう気分だ、などと語っているような者がいるだろうか? 逆に、ダビデや聖パウロや聖ヨハネのような人々は、口を極めて、自分の心に弱さと罪があるのを感じると断言している。近代における最も聖い人々は、常に深いへりくだりを顕著な特徴としていた。一体、あの殉教者ジョン・ブラッドフォードや、フッカーや、アッシャーや、バクスターや、ラザフォードや、マクチェーンよりも聖い人々がいまだかつてあっただろうか? にもかかわらず、こうした人々の著作や書簡集を読むとき、いかなる人も気づかずにはいられないのは、彼らが日々自分を、「恵みとあわれみの負債者」と感じ続け、自分が完全であるなどとは絶対に云おうとしなかった、ということである!
こうした事実をもとに私が抗議しなくてはならないのは、この終わりの時代に、至る所で用いられている「完全」という言葉である。思うに、この言葉を使う人々は、罪の性質か、神のご属性か、自分自身の心か、聖書の内容か、言葉の意味について、ほとんど知らないのであろうと考えざるをえない。信仰を告白するキリスト者が私に向かって、自分はもはや、「ありのままの我にて」のような賛美歌よりも上の境地に達しています。そうした賛美歌は、入信したばかりのころの自分にはふさわしかったとしても、現在の自分の経験はそれを上回っています、などと平然と告げるような場合、どう考えても、そうした人の魂の状態は非常に不健康である! ある人が、肉体にあるうちから「罪なく生きる」可能性について語ったり、現実に自分は「この三箇月というもの、何1つ悪い思いをいだいたことがありません」、などと平然とうそぶくような場合、私の意見として云えることは1つしかない。そういう人は極度に無知なキリスト者である! 私はこうした教えに対して抗議する。それは何の善も行なわないだけでなく、すさまじい害をもたらす。それは、見る目のある世の人々をげんなりさせ、キリスト教信仰に対して冷ややかにしてしまう。彼らには、そのような教えが不正確であり、真実ではないとわかるからである。また、そうした教えは神の最良の子どもたちの一部を落胆させてしまう。彼らには、自分が決してそのような種類の「完全さ」に到達できないと感じられるからである。また、そうした教えは、多くの弱い兄弟たちを高ぶらせる。中身のまるでない者にすぎないのに、ひとかどの者であるかのように夢想させるからである。一言で云えば、この教えは危険きわまりない妄想にほかならない。
4. 私が第四のこととして問いたいのは、果たして多くの人々がしているように、ローマ人への手紙7章を、老練な聖徒の経験を叙述したものではなく、未回心の人間、あるいは弱く不安定な信仰者の経験を記したものであると、あれほどきっぱりと、反問を許さない口調で云い切るのは賢明なことであろうか、ということである。私は疑わしいと思う。
私も、この問題が18世紀もの間、否、事実、聖パウロそのひとの生前から論議されてきた点であることは十分に認める。私たちと同時代の有能な著述家たちはさておき、今から百年前のジョン・ウェスレーや、チャールズ・ウェスレーや、フレッチャーのごとき傑出したキリスト者が、聖パウロが述べているのはこの7章を書いた時点におけるパウロ自身の経験ではない、と確言していることは十分に認める。多くの人々が、私や他の多数の人々とは同じような見方をできないでいることは承知している。私としては、この章でパウロは、あらゆる時代の最も傑出した聖徒の記録された経験と符合しないようなことは何1つ云っておらず、未回心の人や弱い信仰者なら夢にも思わず、口にすることもできないようなことをいくつか云っているように思える。しかし、いずれにせよ、この章の詳細な議論には立ち入るまい*2。
ここで私が強調したい明白な事実は、教会のあらゆる時代の最良の注解者たちは、必ずと云っていいほど、ロマ書7章の叙述を老練な聖徒にあてはめてきた、ということである。この見解を採らない注解者たちは、二三の輝かしい例外を除くと、ほぼ全員がローマカトリック教徒か、ソッツィーニ主義者か、アルミニウス主義者であった。彼らに対抗して立ち並ぶのは、ほとんどすべての宗教改革者たち、ほとんどすべてのピューリタンと現代における最良の福音主義的神学者たちである。もちろん反対者たちは、私に向かって云うであろう。だれも無謬ではありません。あなたが典拠とするような宗教改革者やピューリタンや現代の神学者たちは完全に思い誤りをしていたこともありえます。ローマカトリック教徒とソッツィーニ主義者とアルミニウス主義者たちの方が完全に正しいこともありえます、と! 疑いもなく私たちの主は、「だれかを先生と呼んではならない」、と教えられた。しかし私が人々に願いたいのは、宗教改革者やピューリタンたちを「先生」と呼べとは決して云わないが、彼らがこの主題について何と述べているか読んでほしい、そしてもしできるものなら、彼らの議論に答えてほしい、ということである。それができた者は、いまだかつて一人もいないのである! ある人々のように、自分には人間の「教義」や「教理」など必要ない、などと云っても何の答えにもならない。問題の根源を一言で云えばこうなる。「ある聖書箇所が何を意味しているのか? ローマ人への手紙7章はどう解釈されるべきなのか? その言葉の真の意味は何なのか?」 いずれにせよ忘れないようにしたいのは、ここには決して打ち消せない厳然たる事実がある、ということである。すなわち、一方には宗教改革者やピューリタンたちの意見と解釈が立っており、もう一方にはローマカトリック教徒やソッツィーニ主義者やアルミニウス主義者たちの意見と解釈が立っているということである。それを明確に理解しておこう。
このような事実のもとで私が抗議の声をあげざるをえないのは、最近の、ロマ書7章のアルミニウス主義的見解と呼ばざるをえない立場を主唱する人々の一部が、自分に反対する者たちの意見について語る際にしばしば用いる、人を嘲るような、鼻で笑うような、侮蔑的な言葉遣いである。よほど控え目に云っても、そのような言葉遣いは見苦しいものであり、彼らの意図にとっても逆効果である。このような言葉遣いで擁護されるような運動が、疑惑の目で見られても自業自得であろう。真理にそのような武器は必要ない。もしも自分がある人々に同意できないとしても、だからといって相手の見解を無作法に、侮蔑をこめて語る必要はない。むろん最良の宗教改革者やピューリタンのような人々が支持し、主張している意見といえども、19世紀に生きるあらゆる人を心から納得させることができるわけではない。しかし、たとえそうであっても、それは敬意をもって語られてしかるべきであろう。
5. 私が第五のこととして問いたいのは、果たして、「私たちのうちにあるキリスト」という教理について、今日しばしば用いられているような言葉遣いを用いるのは、賢明なことであろうか、ということである。私は疑わしいと思う。この教理は、聖書の中で占めていないような地位にしばしば押し上げられてはいないだろうか? そうされているのではないかと私は恐れるものである。
真の信仰者がキリストと1つであり、キリストが彼のうちにおられることは、注意深く新約聖書を読む人であれば一瞬たりとも否定しようとは思わないであろう。疑いもなく、キリストと信仰者の間には神秘的な結合がある。彼とともに私たちは死んだ。彼とともに私たちは葬られた。彼とともに私たちはよみがえった。彼とともに私たちは天の所にすわっている。5つの平明な聖句が、キリストは「私たちのうちに」おられると明確に教えている(ロマ8:9、10; ガラ2:20; 4:19; エペ3:17; コロ3:11)。しかし私たちは注意して、自分がその表現によって何を意味しているかわきまえていなくてはならない。「キリストが信仰によって私たちの心の中に住んでおられる」こと、またその御霊によって内側でそのお働きを進めておられることは明白で、はっきりしている。しかしもし私たちが、それ以外に、それ以上に、それを越えて、信仰者には、ある神秘的なキリストの内住があるのだと云おうとするなら、私たちは自分が何をしようとしているか注意しなくてはならない。用心していないと、私たちは、知らず知らずのうちに聖霊のみわざを無視することになる。人間の救いというみわざの聖なる経綸において、選びは父なる神の特別なみわざであり、贖いと仲介ととりなしは子なる神の特別なみわざであり、聖化は聖霊なる神の特別なみわざであることを忘れてしまうことになる。私たちの主イエスは、ご自分が世を去ったならばもうひとりの助け主を遣わしてくださると云われ、その方は永遠に「あなたがたとともにおられ」、いわばご自分と同じ立場を占めることになる、と云われたことを忘れてしまうことになる(ヨハ14:16)。つまり、キリストを尊んでいると考えるそばから私たちは、キリストの特別で独特の賜物----聖霊----を軽んずることになるのである。疑いもなくキリストは神としてどこにでもおられる----私たちの心に、天国に、また、ふたりでも三人でも主の御名において集まる所ならどこにでもおられる。しかし私たちが決して忘れてならないのは、キリストはよみがえられた私たちのかしら、また大祭司として、特に神の右の座についておられ、再臨のときまで、私たちのためとりなしをしていてくださる、ということである。また、ご自分の民の心のうちにおけるそのお働きを、その御霊の特別なみわざによってお進めになっておられる、ということである。その方を遣わされることは、世を去るときにキリストが約束なされた(ヨハ15:26)。ロマ書8章の9節と10節を比較してみると、このことははっきり示されていると思われる。そこで私が確信させられるのは、「私たちのうちにおられるキリスト」とは、「その御霊によって」私たちのうちにおられるキリストを意味しているのだ、ということである。何よりも明々白々なのは、聖ヨハネの言葉である。「神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです」(Iヨハ3:24)。
このように云うからといって、だれも誤解しないでいただきたい。私は何も、「私たちのうちにおられるキリスト」という表現が非聖書的だと云っているのではない。しかし私は、この表現にふくまれている概念には、途方もない、非聖書的な重要性が付与されかねない大きな危険が見てとれる、と云っているのである。また、最近の多くの人々は、自分が何を意味しているかも知らずにこの表現を用いているのではないか、そして、意図せずして聖霊の偉大なみわざの栄誉を奪っているのではないか、と恐れているのである。もしも私がこの点について取り越し苦労をしているのではないかと考える向きがあるなら、その方々にはぜひ、サミュエル・ラザフォード(有名な書簡集の著者)の入念な著作『霊的反キリスト』(The Spiritual Antichrist)の一読をお勧めしたい。そこには、二世紀前、まさにこの信仰者における「キリストの内住」という教理の法外な教説から、気違いじみた異端が生起したと書かれているであろう。そこには、ソールトマーシュや、デルや、タウンだのといった、善良なサミュエル・ラザフォードの対立した偽教師たちが、「私たちのうちにおられるキリスト」について異様な概念を主張し始め、ついでその教理に基づいて、最悪の種類の、また極度に下劣な傾向の無律法主義と熱狂主義を打ち立てた次第が述べられているであろう。彼らの主張によれば、信仰者の個別の、個人的ないのちは完全になくなっており、彼のうちに生きているキリストだけが悔い改め、信じ、行動しているのである! この途方もない過誤の根にあるのは、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラ2:20)、というような聖句を無理矢理こじつけた非聖書的な解釈であった。そして当然の結果として、この教説のあわれな追従者たちの多くは、極めて安易に、信仰者がもはや何をしようとその責任はないのだ、と結論しだした! むろん信仰者は死んで葬られたのだ。だからキリストだけが自分のうちで生きているのであって、自分のことは何もかも引き受けてくれるのだ! あげくの果てにある者らは、個人的な責任などどこ吹く風と、肉的な安逸の中で惰眠をむさぼるようになり、何の恐れもなくどんな罪でも犯すようになった! 私たちは決して忘れないようにしよう。どんな真理でも、それをゆがめたり誇張したりすれば、極度に危険な異端の温床になるということを。「キリストは私たちのうちにおられる」、と云うときには、それが何を意味しているのか注意深く説明するようにしよう。私は今日、ある人々はこのことをないがしろにしているのではないかと恐れるものである。
6. 私が第六のこととして問いたいのは、果たして多くの人々が今日しているように、回心ときよめ、または、回心といわゆる「高い生活」との間を、すっぱり明確に区別して考えることは、賢明なことであろうか、ということである。それは神のみことばの釣り合いにかなっているだろうか? 私は疑わしいと思う。
云うまでもなく、この教えに何も新しいものはない。周知のようにローマカトリック教の著述家たちはしばしば、教会は3つの階級に分かれると主張する。----罪人と、悔悟者と、聖徒である。私の見るところ、現今の、信仰を告白するキリスト者には3種類ある----未回心の者と、回心した者と、「高い生活」あるいは完全なきよめにあずかった者とがある----と告げる教師たちは、まるでローマカトリック教徒と同然である! しかし、その考えが古かろうと新しかろうと、ローマ教会的であろうと英国教会的であろうと、私はそれに聖書的な根拠があるとは全く思えない。神のみことばは常に、人類は大きく2つに区分できると、また2つにしか区分できないと語っている。それは、生きた者か罪に死んだ者か、信仰者か不信者か、回心者か未回心者か、狭い道を旅する者か広い道を旅する者か、賢い者か愚かな者か、神の子どもか悪魔の子どもか、ということである。この二大区分のそれぞれの側では、疑いもなく、罪および恵みにおける様々な程度の差がある。しかし、それは一斜面の高い方にいるか低い方にいるかの違いでしかない。この2つの大きな区分の間には、越えられない深淵がぽっかりと開いている。この2つの違いは、生と死、光と暗闇、天国と地獄と同じくらい明確なものである。しかし、3つに区分することについて神のみことばは何1つ語っていない! 私は、果たして聖書がつけてもいないような新奇な区別を持ち込むことが賢明なことであろうか、と問うものである。また、心底から、第二の回心などという概念を忌み嫌うものである。
ある恵みの段階と、それとは別の段階との間に大きな違いがあること、また霊的いのちには成長していく余地があること、また信仰者は絶えずあらゆる点で恵みにおいて成長するよう促されるべきであること----これらすべてを私は完全に認める。しかし、ある信仰者が突如として、一挙に祝福と完全なきよめの状態へと神秘的な変異を遂げるなどという理論を、私は受け入れることができない。それは、私には人の手になる発明のように思える。私は、それを証明するような平明な聖句をただの1つたりとも聖書の中に見いだすことができない。しだいに恵みにおいて成長すること、知識において成長すること、信仰において成長すること、愛において成長すること、聖潔において成長すること、へりくだりにおいて成長すること、霊的な思いにおいて成長すること----これらすべては、私の見るところ聖書の中で明確に教えられており、促されており、多くの神の聖徒らの生涯の中で明確に例示されている。しかし、人が瞬間的に、一躍、回心からきよめへと急激に変化するなどということは、聖書のどこにも見られない。実際、私の考えるところ、人が回心するそのときに、神に対してきよめられないでいられる保証があるかどうかすら怪しい! 疑いもなく、回心した人が、その後もさらにきよめられることはありえるし、恵みが増せば実際にそうなるであろう。しかしもし彼が、回心して新しく生まれたその日に神に対してきよめられていなかったとしたら、回心とは何であるのか私には見当もつかない。人々は、回心の途方もない祝福を見下し、過小評価する危険を冒しているのではなかろうか? 彼らが信仰者に向かって、第二の回心たる「高い生活」に到達せよと促すとき、それは、聖書が新生、新しい創造、霊的復活と呼んでいる偉大な最初の節目の長さと広さと深さと高さを過小評価しているのではなかろうか? 私は誤っているかもしれない。しかし、この数年来、「きよめ」について多くの人々が用いている過激な言葉遣いを読むたびに、私はふと思うのである。そうした言葉を用いる人々は、それまで「回心」について異常に低く不適切な見解をいだいていたに違いない。へたをすると、回心について何も知らなかったこともありえる、と。つまり、私はほとんど疑っているのである。人々が「きよめられた」と云うとき、それは実は、彼らが初めて回心の体験をしたにすぎないのではないか、と!
率直に告白するが、私は昔からの通り道を好んでいる。その方が、より賢明で、より安全であると考える。すなわち、回心した人々全員に向かって、恵みにおいては継続的に成長する可能性があることを強調し、前進し続けること、日々増進し続けることが絶対に必要であると告げ、一年たつごとに精神において、魂において、肉体において、キリストに自分をいやまさってささげ、いやまさってきよめられるよう促すことである。ほとんどの信仰者が今到達している以上の聖潔に到達することができ、今体験している以上の天国を地上でも享受できるということは、ぜひとも教えていこう。しかし私は、いかなる回心者に対しても、あなたには第二の回心が必要であるとか、あなたはやがて一回限りの巨大な進歩を遂げ、完全なきよめの状態へと移れるであろう、などと告げることはお断りである。なぜなら、そうした教えの保証が聖書のどこにも書いていないからである。また、その教理には徹底的に有害な傾向があって、へりくだった柔和な思いの人々を落胆させたり、底の浅い者や無知な者やうぬぼれきった者を極めて危険なほど高ぶらせたりするからである。
7. 私が第七の、また最後のこととして問いたいのは、果たして信仰者に、罪と戦い苦闘することなどあまり考えてはならない、むしろ「神に自分をゆだねる」ことを考えなくてはならない、キリストの御手の中で受け身でいなくてはならない、と教えるのは賢明なことであろうか、ということである。これは神のみことばの釣り合いにかなっているだろうか? 私は疑わしいと思う。
「あなたがた自身をささげなさい」という表現が、信仰者のなすべき義務として見いだされる箇所が新約聖書中に一箇所だけあることは、純然たる事実である。それはロマ書6章中にあり、そこでは6つの節の間でこの表現が5回現われている(ロマ6:13-19参照)。しかし、そこにおいてすら、「私たち自身を受動的に他者の手にゆだねる」という意味をその言葉に負わせることには無理がある。ギリシャ語学徒であればだれでもわかるように、その意味はむしろ能動的に自分自身を、用いられるために、また務めと奉仕のために「差し出す」ことである(ロマ12:1参照)。したがってこの表現はここにしか出てきていない。しかし、その一方、新約書簡の中で、信仰者に向かって、自分から個人的な努力を尽くすよう明白に教えている箇所、キリストが彼らになさせたいと思っておられることを精力的に行なう責任のある者として語りかけている箇所、受け身的に「自分自身をささげ」て、じっとしていよ、というのではなく、立ち上がって働くがいい、と語っている箇所なら、少なく数えても軽く25や30は指摘できるであろう。聖なる激しさ、争闘、戦い、戦闘、兵士の生活、格闘こそ、真のキリスト者の特徴として語られている。人によっては、エペソ書6章の「神の武具」の記述だけで事は決すると考えるであろう*3。また、個人的努力なしに、ただ「私たち自身を神にささげる」だけで聖化はなされるという教理こそ、17世紀の無律法主義を奉ずる狂信者たち(ラザフォードの『霊的反キリスト』で述べられていると先に言及した者たち)が主張した教理そのものであり、そこに極度に邪悪な傾向があると示すことはたやすいであろう。また、そうした教理が、『天路歴程』のような歳月に耐え、万人に認められてきた著作の教えをことごとく覆すものであることも簡単に示すことができよう。それを受け入れるというなら、バニヤンの古典は火中に投ずるに越したことはない! もしも『天路歴程』の基督者が、神に自分自身をささげることだけしかしておらず、戦いや苦闘や格闘など全くしていないというのであれば、私はかの高名な寓話の内容を全く理解していなかったのであろう。しかし、あからさまな真実を云うと、人々はいつまでたっても2つの異なるもの----義認と聖化----を混同することをやめようとしないということである。義認において人に呼びかけるべき言葉は、「信じなさい」、であり、ただ信ずることである。だが聖化においてその言葉は、「油断しないようにしなさい。祈りなさい。戦いなさい」、となる。私たちは、神が分けておられるものを混ぜ合わせたり、取り違えたりしないようにしようではないか。
私は、この序言の主題はここまでとしておき、急いで結論を述べたいと思う。今、私は悲しみと悩みを感じつつペンを置くことを告白したい。信仰を告白するキリスト者たちの態度には、今日、私を懸念で満たし、将来に対する恐れとで満たすものが多々ある。
多くの人々の間には、聖書に関する驚くばかりの無知があり、その結果、確立した堅固な信仰が欠けている。そうとでも考えなければ、人々があれほどたやすく、子どものように「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりする」理由の説明はつかない(エペ4:14)。巷には耳新しいことに対するアテネ的な愛好心があふれ、古いもの、規則的なもの、先祖たちが踏みしめてきた道に伴うものに対する病的な嫌悪がある。何万という人々が新しい声や新しい教理を聞くために群がりながら、一瞬たりとも、自分の聞いていることが真理だろうかと考えることはない。扇情的で、興奮をもたらし、感情を昂揚させるような教えに対する渇仰はやむことがない。そこには一種の発作的で、病的興奮を伴うキリスト教に対する不健康な欲望がある。多くの人々の信仰生活は、霊的な酒類常飲と何ら変わることなく、聖ペテロが勧めているような「柔和で穏やかな霊」のことはきれいに忘れ去られている(Iペテ3:4)。大群衆と、嗚咽と、熱気渦巻く室内と、大仰な歌声と、絶え間ない感情的昂揚こそ、多くの人々にとって唯一大切なものなのである。教理と教理の違いを区別できない人々が至る所に蔓延しており、おびただしい数の人々が、「才気」にあふれ「熱心」な説教者の云うことであれば、ことごとく正しいに違いないと考えているように見える。その説教者を不健全だとほのめかしでもすれば、すさまじいばかりの勢いで、「何と偏狭な、愛のない人だ!」、と呼ばれる。ムーディもホーウィスも、スタンリ聖堂参事会長もリドン主教座聖堂参事会員も、マコノキーもピアソル・スミスも、全員こうした人々の目には大同小異であるらしい。これらすべては悲しいこと、非常に悲しいことである。しかし、これに加えて、真実な心をもって聖潔の増進を説く人々が、もしも今後、道の途中で脱落し、互いに誤解しあうようになるとしたら、いやまして悲しいこととなろう。そのような事態は、全く悲惨な状況と云うべきである。
私としては、自分がもはや教職者としては若くないことを承知している。ことによると私の頭は固くなっており、新しい教えを簡単には受けつけなくなっているのであろう。「古い物は良い」。私は自分では福音主義神学の古い学派に属していると思う。それゆえ聖化に関する教えとして私が満足を覚えるのは、シブスの、またマントンの『信仰の生活』にあるような教え、またウィリアム・ロウメインの『信仰の生活と歩みと勝利』のうちにあるような教えである。しかし、私が今はっきり願うことは、若い世代に属する兄弟たち、聖潔に関して新しい見解を採っている兄弟たちが、わけもなく分裂を増幅させないよう用心してほしい、ということである。彼らは、今日必要とされているのはキリスト者生活のより高い基準であると考えているだろうか? 私もそうである。彼らは、聖潔に関するより明確で、より力強く、より十分な教えが必要であると考えているだろうか? 私もそうである。彼らは、キリストを義認ばかりでなく、聖化の根幹および創始者としても、より称揚されなくてはならないと考えているだろうか? 私もそうである。彼らは、信仰者がいやまして信仰によって生きるよう促されるべきであると考えているだろうか? 私もそうである。彼らは、信仰者がより幸福になり、より用いられる秘訣として、今よりずっと神と親密に歩むことを強調しなくてはならないと考えているだろうか? 私もそうである。これらの事柄すべてにおいて、私たちは一致している。しかしもし彼らがそれ以上のことを云いたいのであれば、私は彼らに願いたい。自分がどこに足を踏み降ろそうとしているのか用心してほしい、と。また自分が何を意味しているのかあいまいにせず、明瞭に説明するよう用心してほしい、と。
最後に、1つ非難しなくてはならないことがある。愛によって云わせてほしい。それは、聖化を説く人々が用いている異様で新奇な用語や語句である。私が訴えたいのは、聖潔のための運動は決して、新しく造り出した語法や、釣り合いに欠け一方に偏している言明や、特定の聖句いくつかを無理に、また文脈を無視して解釈することや、1つの真理を別の真理を犠牲にしてまで称揚することや、聖句を寓意的に解釈したり適応したりすることで、聖霊が全く意図しなかったような意味をひねり出すことや、自分と完全に同じ見方をしない人々や、自分と同じやり方で働かない人々について侮蔑的に、あるいはとげとげしい口調で語ったりすることによっては進展されえない、ということである。こうした事柄は平和のためにはならず、むしろ多くの人々を反発させ、遠ざけるものである。こうした武器によっては、真の聖潔を押し進める働きは助長されず、阻害される。聖潔を支援しようという運動が、神の子どもたちの間に争いや論争を生み出しているとしたら、そこには何か疑わしいものがある。キリストのため、また真理と愛の名において、私たちは努めて、聖潔ばかりでなく平和をも追い求めようではないか。「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」。
私が心から願い、また日々神に祈り求めているのは、個人的聖潔が英国において信仰を告白するキリスト者の間で大いに増進することである。しかし私の堅い信念は、それを押し進めようと努力するすべての人が、聖書と厳密に同じ釣り合いを保って離れないように心がけること、また、そうした人々が異なるものの区別を注意深くつけ、「卑しいことではなく、尊いことを言う」ようになることである(エレ15:19)。
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*1 「神による義認には、二重の義認がある。1つは権威的なもの、もう1つは明示的あるいは立証的なものである。第一のものは、聖パウロが律法の行ないによらない、信仰による義認について語る際に意図しているものである。第二のものは、聖ヤコブが行ないによる義認について語る際に意図しているものである」。(T・グッドウィン、「福音の聖潔」、全集第五巻、p.181)[本文に戻る]
*2 この主題について詳しく知りたいと願う人は、この点を詳細に論じたウィレットや、エルトン、チャーマズ、ホールデインらの注解書、またオーウェンの「内住の罪」、およびスタッフォードの「ロマ書7章」に関する著作を参照されたい。[本文に戻る]
*3 老シブスの「勝利する激しさ」という説教は、彼の著作を蔵書として持つすべての人の注意に値するものである(リチャード・シブス:全集第七巻、p.30[Banner of Truth Trust版では、全集第六巻、p.293-314])。[本文に戻る]
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