Author's Preface             目次 | NEXT

著者まえがき

 今読者が手にとっておられる本は、二年前[1877年]に出版され、キリスト教界で好意的に迎えられた小冊子の改訂版である。今回は前の版に大幅に手を入れたため、初版に倍する分量となった。実際、本書の半分は全く新たに書き加えられたものである。

 本書におさめられている論考はどれもみな、聖書的な聖潔という主題に関心をいだくすべての人々の助けとなると思う。私がよほど大きな思い違いをしていない限り、これらの論考は聖潔の真の性質について、また聖潔を追い求める人々が出会わざるをえない種々の誘惑や困難について、理解を大きく深めてくれるはずである。特に私は、何にもまして1つの重大な真理を提示したいと願ってやまない。すなわち、信者とキリストとの結合こそ聖潔の根源であり、聖くなろうと苦闘する者すべてに対して、イエス・キリストが測り知れない励ましを差し出しておられる、ということである。

 聖潔という主題が、英国のキリスト者たちの中で現在いかなる状況にあるかという点に関しては、初版におさめられていた序言にほぼ何もつけ足すことがなかったため、このまえがきの直後にそのまま再録してある。私には、年を重ねるにつれて確信を増していることがある。それは、真に実際的な聖潔には受けてしかるべき関心が払われておらず、この国でキリスト教徒と自称する多くの人々の間ではまさに痛ましいほど低い基準の生き方しかなされていないということである。しかし、それと同時に日ごとに確信させられつつあること、それは霊的生活の高い基準を促進しようという、一部の人々による善意から出た熱心な努力が、しばしば「知識に基づく」ものでなく[ロマ10:2]、実際には益よりも害をなしているように思われるということである。どういうことか説明させていただきたい。

 「高き生活」の集会とか「きよめ」の集会と呼ばれるものに大群衆を集めるのはたやすい。比較的長きにわたって人間性を観察してきた人で、アメリカにおける野外集会の模様について読んだり、「宗教感情」*1から生ずる奇異な現象について研究したりしたことのある人なら、だれにでもそれは分かる。エキセントリックな説教者または婦人説教者たちによる扇情的で気分を高揚させる講義の数々、耳を聾する賛美の声、熱気渦巻く室内、人で混み合う天幕、神がかりめいた強烈な印象を浮かべた顔ばかり何日間も眺めて過ごす生活、深夜まで延々と続く集会、自らの体験を公言してやまない人々---こうした類のすべては、その時には非常に興味深く、有益なものであるように見える。しかしその益とは、本物の、深く根ざした、堅固な、長続きするものであろうか。それが問題である。そして私はその点について、いくつか問いを発したいと思う。

 こうした集会に出席する人々は、自宅に帰ってからより聖く、より柔和になるだろうか。より利他的で、より親切で、より気立てがよく、より自分を律し、よりキリストに似た者となっているだろうか。彼らは、自分の人生における立場により満足する者となっているだろうか。神から与えられたのとは違う何か別のものを熱望してやまない落ちつかなさから、より解放されただろうか。彼らの父親・母親・夫・その他の親戚・友人たちは、彼らが以前よりも人好きがよくなり、一緒にいて気持ちがやすらぐようになったことに気づくだろうか。彼らは静かな日曜日を楽しむことができるだろうか。喧噪も、熱気も、興奮もない所で、静かな説教、静かな聖書朗読、静かな聖餐式を楽しむことができるだろうか。何にもまして、彼らは愛において成長しているだろうか。特に自分たちの信条といささかでも意見を異にする人々に対する愛において成長しているだろうか。

 これらは重大な、また心探られる問いであり、真剣な考慮を払うに値する問いである。私もまた、この国で真の実際的な聖潔を促進したいという熱望を、だれにも負けずにいだいていると思いたい。たとえ協力して働くことはできなくとも、そうした聖潔を促進しようとしている人々の情熱と熱心さを高く評価し、喜んで認めることにやぶさかではない。しかし私は、日増しに強まる疑惑の念を抑えることができない。今日の大がかりな「大会」は、霊的生活の促進という非の打ち所ない目標にもかかわらず、ひとりひとりの個人的な信仰生活を高めるものとは思えないのではないか。その人個人の聖書通読や、その人個人の祈り、その人個人の奉仕や、その人個人の神との歩みを前進させるものとは思えないのではないか。もしそうした大集会に何か真の価値があるとするなら、それは人をより良い夫、より良い妻、より良い父親、より良い母親、より良い息子、より良い娘、より良い兄弟、より良い姉妹、より良い主人、より良い女主人、より良いしもべにするはずである。しかし私はそれがなされているという明確な証拠をつかみたいと思う。私にわかっているのはただ、賛美があり、祈りがあり、自分と同意見のキリスト者たちが一堂に会した場所でキリスト者であることの方が、だれからも知られず認められない社会の片隅の、気の合わない家庭の中で一貫したキリスト者であることよりも、はるかにたやすいということである。前者の立場であれば天性の力によって大いに助けられるであろうが、後者の立場は、恵みがなくては到底果たすことができない。しかし悲しいことに現在多くの人々は、「きよめ」に関してはかまびすしく口にしながら、「回心」という「神のことばの初歩」[へブ5:12]については無知なように見受けられるのである。

 このまえがきを閉じるにあたり、私は一抹の悲しい思いをいだいている。本書を読む人々の中には私に同意しない人々がいるであろう。いわゆる「霊的生活」運動の大集会が、特に若い人々にとっては、間違いなく魅惑的なものであることはわかる。青年は生来、熱心・高揚感・興奮を好みがちであり、「何がいけないのか」と云うものである。それはそれで仕方がない。私たちは違う意見をいだく権利を認めなくてはならない。私も青年だった頃には、おそらく彼らと同じような考え方をしていたはずである。青年たちも私と同じくらい年老いれば、私に同意する見込みは大いにあるであろう。

 結論として、私は読者のひとりひとりに云いたい。人を判断する際には互いに愛を働かせようではないか。現代の、いわゆる「霊的生活」運動によってこそ聖潔を鼓舞すべきだと考える人々に対して、私は愛以外の何もいだいていない。もし彼らが善をなすなら、私は感謝の意を表したいと思う。逆にそういう人々に願いたいのは、私自身と私に同意する人々に対しても、愛をいだいてほしいということである。終わりの日には、だれが正しく、だれが誤っていたのかが明らかになるであろう。それまでの間は、私はこう堅く確信している。もし私たちが、良心のゆえに協力できないという人々に対して、苦々しさと冷淡さしか表わせないというなら、私たち自身が、真の聖潔について何も知らないに等しいのだ、と。

J・C・ライル
ストラッドブロークにて
1879年10月

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*1 この主題については、エドワーズ学長の論考[ジョナサン・エドワーズ著、『宗教感情論』]を参照されたい。[本文に戻る
 

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