Chapter 7 | Chap.7 note 6 | BACK | NEXT

注記

(第7章脚注6で言及された件について)

信仰と確信には違いがあるとする、英国人神学者たちの著作からの抜粋。信仰者は義と認められ、神に受け入れられてはいても、自分が安全な状態にあるという心暖まる自覚や力強い確信を享受できないことがありえること、また、キリストに対する最も小さな信仰も、真実なものである限り、最も強い信仰に劣らないほど確実に人を救うであろうことが示される。

 1. 「神のあわれみは世のすべての罪よりも大きい。しかし私たちは時として、自分には全く信仰がないのではないか、あるいは、ないことはないにせよ非常に微弱な信仰しかないのではないかと考える場合がある。それゆえ、信仰を有するということと、信仰を感じとれるということは別物である。なぜなら、ある人々は信仰を感じとりたいと切望するのに、それがかなわないからである。しかし、彼らは絶望せず神に願い続けなくてはならない。最後にはそれがやってくる。神は彼らの心を開き、彼らにそのいつくしみ深さを感じさせてくださるであろう」。(ラティマー主教:『説教集』、1552)

 2. 「弱い信仰は、その人自身に対するキリストの恩恵を適用したり、それを把握して充当したりできないことがありえる。なぜなら多くの人は、へりくだった、悔悟した心を持ち、霊とまことによって神に仕えているにもかかわらず、非常な疑いとためらいを伴ってでなければ、『私は、自分の罪が赦されていることを知り、また完全に確信しています』、とは云えないからである。さて私たちは、このような人はだれも信仰を持っていないと云うだろうか? 断じてそのようなことはない。
 「この弱い信仰は、強い信仰と同じくらい真実に、罪の赦しを給う神のあわれみ深い約束を把握するであろう。強い信仰ほど健やかにではないが、それは、手の麻痺した人も、健康な手をした人ほどがっしりと、あぶなげないようすではないにせよ、麻痺した手を延ばし、王が差し出す贈り物をちゃんと受け取れるのと同じである」。(『信条の講解』、ウィリアム・パーキンズ、ケンブリッジ大学の聖書講師、1612)

 3. 「パウロが語り、ペテロが繰り返して述べ、ダビデが言及している(詩4:7)、私たちの救いのこの確かさは、信仰の特別の実であって、人のすべての考えにまさる霊的喜びと内なる平安を生み出すものである。確かに神の子ら全員がこれを有しているわけではない。一方は木であり、もう一方はその木の実である。一方は信仰であり、もう一方は信仰の実である。そして、この信仰の欠けを感ずる神の選民の残りの者は、それにもかかわらず信仰を持っているのである」。(『説教集』、リチャード・グリーナム、神のみことばの教役者また説教者、1612)

 4. 「完全な確信がないために、ある人々は自分に全く信仰がないのだと思っている。だがこの世で最も純粋な火といえども煙がないということはないのである」。(『いたんだ葦』、リチャード・シブス、ケンブリッジ大学キャサリンズホール学長、またグレイ法学院の説教者、ロンドン、1612。Banner of Truth Trust、1973)

 5. 「信仰の行為は魂にキリストを適用することである。そしてこのことは、最も弱い信仰にも、それが真実なものである限り、最も強い信仰に劣らず行なうことができる。子どもでも、大人ほどがっしりとではないにせよ、杖を掴むことはできる。囚人でも、大手を振って表を歩く人ほど完全にではないにせよ、ほんの一穴から太陽を見ることはできる。青銅の蛇を見た者は、たとえそれが非常に遠くからであっても、癒された。
 「最も小さな信仰も、信仰者の魂にとっては、ペテロやパウロの信仰が彼ら自身にとって尊いものであったのと同じくらい尊いものである。なぜなら、それはキリストをわがものとし、永遠の救いをもたらすからである」。(『ペテロ第二の公同書簡の講解』、トマス・アダムズ師、聖グレゴリー聖堂の教区牧師、ロンドン、1633)

 6. 「弱い信仰も真実の信仰であり、強い信仰ほど大きくはないにしても、それと同じくらい尊いものである。同じ聖霊が創始者であり、同じ福音がその手段となっているからである。
 「たとえ決して大きなものとならないとしても、弱い信仰は救うことができる。なぜなら、それは私たちをキリストの富にあずからせ、キリストとそのすべての恩恵を私たちのものとするからである。というのも、人を救うのは私たちの信仰の強さではなく、私たちの信仰の真実さであり、人を罪に定めるのは私たちの信仰の弱さではなく、信仰の欠けだからである。最も小さな信仰もキリストをつかんで、私たちを救うことはできる。私たちは自分の信仰の価値や量によって救われるのではなく、弱い信仰が、強い信仰に劣ることなくつかみとったキリストによって救われるのである。----それは、弱々しい手でよろよろと口に運ばれた食物も、たくましく筋肉のついた手で口に運んだ食物に劣らず肉体の栄養となるのと同じことである。肉体に栄養を与えるのは手の力ではなく、食物の健全さによるからである」。(『信仰の教理』、ジョン・ロジャーズ、神のみことばの説教者、エセックス州デダム、1634)。

 7. 「あるものを確実に持っていることと、自分がそれを確実に持っていると自覚することとは別のことである。私たちは、すでに手にしている多くのものを与えられようとし、自分が失ったと考えるものを手にしている。そのように、信仰を持っていることが確実な信仰者も、自分がそのように信じた者となっていることを常に知っているとは限らない。信仰は救いに必要である。しかし、自分が信じた者であるとの完全な確信は、それと同等に必要なものではない」。(ボール、『信仰について』、1637)

 8. 「世には弱くとも真実な信仰というものがある。確かにそれは弱い信仰だが、真実なものであるため、キリストから拒絶されることはない。
 「信仰は、アダムのように最初から成人として創造されるわけでなく、自然の通常の営みにおいて見られるように、最初は幼子であり、次に子どもとなり、次いで青年となり、それから成人になる。
 「ある人々は、いかなる弱い者らをも拒否し、信仰におけるいかなる弱さをも、偽善者のしるしであると云って非難する。確かにこうした人々は、高慢であるか、冷酷な人間に違いない。
 「ある人々は、弱い者らを慰め、こう云って立たせてやる。『落ちつきなさい。あなたには十分、信仰も恵みもあるし、あなたは十分に良い者となっています。あなたはそれ以上必要としていませんし、義しすぎてはなりません』、と(伝7:16)。こうした人々は、柔らかではあるが、安全ではないクッションである。彼らはへつらいを云う追従者であって、忠実な友ではない。
 「ある人々は、こう云って慰め、勧める。『元気を出しなさい。あなたのうちに良い働きを始められた方は、それを完成してくださいます。ですから、神の恵みがあなたのうちで満ちあふれるよう祈りなさい。じっとしていてはなりません。主の道において前進し、進歩していきなさい』、と(ヘブ6:1)。これこそ、最も安全で最良の道筋である」。(『聖マタイの福音書に関する問いと所見その他』、リチャード・ウォード、一時ケンブリッジで学び、後にロンドンで福音の説教者となった人物。1640)

 9. 「人は、神のいつくしみを受け、恵みの状態にあり、神の御前で義と認められているにもかかわらず、神の救いの確信を、またキリストにあって神にいつくしまれているという確信を感じとることができないことがありうる。
 「また人は、救いに至る恵みを自分のうちに有していながら、自分ではそれを感知できないことがありうる。また、真に義と認める信仰を自分のうちに有していながら、それを用いることも働かせることもできず、神と自分が和解しているという慰めに満ちた確信に達せないでいることがありうる。否、私はそれ以上のことを云おう。人は、恵みの状態にあり、真に義と認める信仰を自分のうちに有していながら、その確信を身のうちに感じとれないあまり、自分の感覚と感じ方においては、それとは全く逆のことを確信するかに思えることすらありうる。ヨブはこのような状態にあったために、神に向かって叫んだのに違いない。『なぜ、あなたは御顔を隠し、私をあなたの敵とみなされるのですか』(ヨブ13:24)。
 「最も弱い信仰も人を義と認めるものである。もしなあなたがキリストを受け入れ、キリストにより頼んで安らうことができるなら、どれほど弱い信仰しかなくとも、それはあなたの役に立つであろう。用心して、あなたを義と認めさせるのはあなたの信仰の強さだなどと思い違いしないようにするがいい。否、否。あなたの信仰が受け入れて安らうキリストとその完全な義こそ、それを行なうものなのである。どれほどか細く、どれほど弱い手をした者も、施しを受け取ったり、自分の傷口に特効のある膏薬を貼ることは、腕力自慢の者に負けずに行なうことができるし、同じくらいその恩恵にあずかることができるのである」。(『詩篇51篇についての説教集』、アッシュビー・ドゥ・ラ・ズーシュにて、イエス・キリストの仕え人アーサー・ヒルダーサムが説教したもの。1642)

 10. 「たとえあなたの恵みがどれほど弱まろうとも、もしあなたが真の恵みを持っているなら、あなたはあなたを義とするキリストの義の恵みに、強いキリスト者と同様にあずかることができる。あなたには、他のだれにも劣らぬほどキリストの義が転嫁されているのである」。(『説教集』、ウィリアム・ブリッジ、ケンブリッジ大エマニュエル学寮のフェロー、後にグレートヤーマスのキリスト教会牧師。1648)

 11. 「ある人々は真の信仰者でありながら、信仰が弱い。彼らはまぎれもなくキリストと無償の恵みを受け取ってはいるが、震える手によってである。彼らは、神学者たちが云うところの固着の信仰は持っている。彼らは自分のものとしてのキリストにしがみついている。しかし彼らには、証拠の信仰がない。彼らは自分をキリストのものとして見ることができない。彼らは信仰者ではあるが、小さな信仰の信仰者である。彼らには、キリストが彼らをお捨てにならないという希望はあるが、キリストが彼らを取り上げてくださるということには確信を持てないのである」。(『甘露の滴り、あるいは弱い信仰者への慰め』、ジョン・デューラント、カンタベリ聖堂の説教者。1649)

 12. 「『私は知っています』、とあなたは云う。『イエス・キリストがこの世に来られたのは罪人を救うためであり、「信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つ」ためであることを(ヨハ3:15)。また私は確かに知っています。私が自分の罪深い状態を感じて、私の救い主にいくらかは身を投げかけ、彼のすべてを満ち足らわす贖いのいくばくかをつかんだことを。しかし、あゝ、私が彼をつかんでいる力はあまりにも弱く、それでは私の魂のうちにまともな慰めを何も生み出してくれません!』、と。
 「息子よ、勇気を出すがいい。確かに人が、信仰の行為そのものの力によって義と認められたように見えたり、救われたりするのだとしたら、信仰の弱さを感じる者が落胆する理由もあろう。しかし、この幸いなみわざの功徳や効力が、あなたによってつかみとられる対象、すなわち、あなたの神であり救い主であられるお方の無限の功績とあわれみのうちにある以上、またそれらがあなたの虚弱さによって減じられることがありえない以上、あなたは勇気づいて、彼の救いを朗らかに待てる理由があることになる。
 「自分の立場を正しく理解するがいい。ここには、私たちを天国へと引き上げる二本の手がある。私たちの信仰の手は私たちの救い主をつかむ。私たちの救い主のあわれみと豊穣な贖いとの手は私たちをつかむ。私たちが彼をつかむ力は、か弱く。すぐに手放してしまう。しかし彼が私たちをつかむ力は強く、何者も抵抗できない。
 「もし行ないに固執するとしたら、手の力が必要であろう。しかし今や、尊い賜物を受け取ることだけが求められている以上、弱々しい手であれ、力強い手と同じようにそれができないことがあろうか? 力強い手のようにがっちりとではなくとも、ともかく受け取ることはできるのである」。(ホール主教:『ギルアデの香油』、1650)

 13. 「私の見いだしたところ、救いは信仰の強さにではなく、信仰の真実さにかかっている。信仰が最高に輝かなくては救われないのではなく、いかなる程度であれ信仰があれば救われるのである。『もしあなたにこれこれの程度の信仰があるなら、あなたは義と認められ救われる』、とは云われていない。最低程度の信仰でも、救われることはできる。ロマ10:9もそう述べている。『もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです』。あの十字架の上の強盗は、それほど程度の高い信仰に到達したわけではなかった。しかし彼は、ただ1つの行為によって、しかも弱い信仰の行為によって、義と認められ救われたのである(ルカ23:42)」。(『預言者エゼキエル書講解』、ウィリアム・グリーンヒル、ロンドンのステップニ教区牧師、かつヨーク公およびグロスター公の家庭牧師。1650)

 14. 「人は、真の恵みを持っていても、神の愛といつくしみを確信できないことがありうる。あるいは、自分の罪が赦されたこと、自分の魂が救われたことを確信できないことがありうる。人は神のものとなっていても、それを知らないであることがありうる。彼は良い状態にあるのに、それがわからないことがありうる。安全な状態にあるのに、安楽さを感ずる立場にないことがありうる。栄光の法廷において彼には何も問題がないのに、彼の良心の法廷においては、問題をなくすためなら世界の何も惜しくないという心境にあることがありうる。
 「確信はキリスト者の幸福にとって欠くべからざるものであるが、それがなければキリスト者でないわけではない。キリストの慰めにとって欠くべからざるものであるが、それがなければ救われないわけではない。恵みが生き生きと働くためには欠くべからざるものであるが、それがなければ恵みが存在しえないわけではない。確かに人は信仰がなければ救われることはできないが、確信がなくとも救われることはできる。神が聖書の多くの箇所において宣言しておられるのは、信仰がなければ救いはないということである。しかし聖書のどこを見ても神は、確信がなければ救いはない、などとは宣言しておられない」。(『地上の天国』、トマス・ブルックス、ロンドンのフィッシュストリートヒルの聖マーガレット教会の福音説教者。1654)

 15. 「あなたがた、自分の心に対して自分には、たとえ弱くとも信仰があることを明らかにできる者たちは、落胆してはならない。思い乱れてはならない。最も小さな程度の信仰も、最も大きな信仰と同じく真実であり、救いに至る信仰であることを考えるがいい。ほんの火花1つも、火の元素のいかなる部分にも負けず劣らず本物の火である。一滴の水といえども、大海にあるいかなる水にも負けず劣らず本物の水である。そのように、ごく微量の信仰といえども、世界一大きな信仰に負けず劣らず本物の信仰、救いに至る信仰なのである。
 「最も小さな芽といえども、最も大ぶりの枝と同じように根から樹液を吸い上げている。そのように、どれほど弱い程度の信仰も、最も強い信仰と同じようにあなたをキリストのうちに接ぎ木し、そのことによってキリストからいのちを引き出す。どれほど弱い信仰も、最も強い信仰と同じくらい、キリストの功績と血とにあずかっている。
 「最も小さな信仰も、魂をキリストに堅く結び合わせる。最も弱い信仰も、最も強い信仰と同等に神の愛の分け前を与えられている。私たちはキリストにあって愛されており、最も小さな程度の信仰も私たちをキリストの肢体としている。最も小さな信仰も、最も強い信仰と同等に約束にあずかる権利がある。こういうわけで私たちは、弱さのため落胆しないようにしようではないか」。(『信仰の性質と特権』、神学博士サミュエル・ボルトン、ケンブリッジ大学クライスツ学寮。1657)

 16. 「ある人々は自分に全く信仰がないのではないかと恐れる。最高の程度の信仰、すなわち、完全な確信がないためである。あるいは他の人々が到達しているような慰め、すなわち、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びに欠けているためである。しかしこの石を転がしてどけるために私たちが思い出さなくてはならないのは、信仰にはいくつかの段階があるということである。最高の程度の信仰でなくとも、信仰を持つことは可能であり、御霊の喜びについても同じである。それは信仰そのものではなく、信仰の一段階というべきである。私たちが絶えざる強壮剤によって元気づけられているとしたら、それは実は、信仰によって生きているというよりも、感覚によって生きているということである。慰めもなく神にだけ頼って生きるには、神が私たちの霊の中であふれる喜びをもって輝いておられるときに必要な信仰よりも、はるかに強い信仰が必要である」。(マシュー・ローレンス、イプスウィッチの説教者。『信仰について』、1657)

 17. 「もし英国外のだれかが、自分の罪が赦されたとの特別で完全な確信こそ信仰の本質であると考えるなら、彼らには答えていただきたい。私たちの国内の神学者たちは通常それとは違う判断をしている。ダヴナント主教とプリドウ主教、そしてその他の人々は、依拠することと確信することは大違いであると示しており、彼らはみな、確信を信仰の娘、実、結果として説明し、呼んでいる。そして学識の誉れ高い故アロウスミスが私たちに告げているように、神は信仰者が恵みにおいて成長するまでは、めったに確信をお授けにならない。なぜなら、彼によると、依拠の信仰と確信の信仰との間には、理性と学識との間にあるのと同じ違いがあるからである。理性は学識の源泉であり、そのようにして理性がないところには(たとえば動物の場合のように)何の学識もありえない。それと同じく、固着の信仰が全くないところには何の確信もない。また、学芸や科学の研究においてよく行使された理性が学識へと発達するように、その適正な対象において、またその適正な結実によってよく行使された信仰は、確信へと発達していくのである。さらに、怠惰や、不熱心や、激しい病によって学識が失われることがあっても理性はなくならないように、誘惑や、霊的怠慢によって確信は失われることがあっても、救いに至る信仰がなくならないことはありえる。最後に、どんな人にも理性はあるがすべての人に学識があるわけではないように、新生したすべての人には、福音が示す救いの方法に従って救いに至るだけの信仰があるが、真の信仰者すべてに確信があるわけではない」。(R・フェアクラフによる『モーニング・エクササイズ』中の説教。ケンブリッジ大学イマニュエル学寮フェロー。サザクで説教されたもの。1660)

 18. 「私たちは信仰の弱さと欠如とを区別しなくてはならない。弱い信仰は本物である。いたんだ葦は確かに弱いが、それはキリストが折らないものなのである。たとえあなたの信仰が確かに弱いとしても、心くじけてはならない。弱い信仰も強いキリストを受け取ることができる。弱い手も強い手と同じくらい結婚の縁を結ぶことができる。弱い目も青銅の蛇を見ることはできた。約束は強い信仰に対してではなく真実な信仰に対してなされている。『山を動かし、ししの口をふさぐほど大きな信仰を持つ者は救われる』、などとは約束されておらず、『信ずる者はだれでも』、その信仰がどれほど小さなものであろうと、救われると云うのである。
 「あなたは、たとえ確信という喜びの油を注いでもらうことがなくとも、聖くする御霊の水を注がれることができる。そこに証拠の信仰はなくとも、固着の信仰はありえる。枝には何の実もなっていなくとも、根は生きていることがありえる。そして確信という果実が全くない信仰も生きていることがありえる」。(『神学要論』、トマス・ワトソン、ロンドンのウォルブルックの聖スティーブンズ教会の前牧師。1660。Banner of Truth Trust、1974)

 19. 「神の愛しい子らの多くは長い間、自分の現在と永遠の状態について非常に深い疑いをいだき続け、自分が罪に定められるのか、救われるのか、全く見当がつかなくなることがありえる。神の教会には様々な成長段階の信仰者たちがいる。----父たち、若い者たち、子どもたち、幼子がある。そしてほとんどの家庭では子どもたちや幼子の方が成人の数よりも多いように、神の教会の中でも強い者や完全な確信へと成長した者らよりも弱く疑いを持つキリスト者たちの方が多いのである。生まれたばかりの赤子は、自分が生まれたことを自覚していない。そのように人は新しく生まれても、そのことに確信が持てないことがありうる。
 「私たちは、いわゆる救いに至る信仰と心の完全な確信とを区別する。救われる者たちの一部は、自分が救われることに確信が持てないことがありうる。なぜなら約束は信仰の恵みに対してなされているのであって、信仰の証拠に対してなされているのではない----真実な信仰に対してであって、強い信仰に対してなされているのではないからである。彼らは天国のことは確信できるかもしれれないが、自分の感覚としては天国について確信できないことがありえる」。(トマス・ドゥーリトル師による『モーニングエクササイズ』中の説教。師はケンブリッジ大学ペンブロークホール、一時ロンドンの聖アルフィージ教区牧師、1661)

 20. 「私の罪が赦され、私が義と認められたと確信することは、義認にとって必要であろうか? 否、それは義と認められるため必要な信仰の行為ではなく、義認に続いて生ずる効果であり成果である。
 「人が自分の救いを確かにすることと、それが確かであることを確かに知ることとは別のことである。
 「さながら、ある人が川に落ちて溺れそうになり、奔流に押し流されていく途中で川面に張り出した木の枝を見つけ、必死でそれにつかまり、これ以外に助かる方法はないと、命がけでその枝にぶらさがったとする。この人はこの枝にしがみついた瞬間に危地を脱したのだが、その惑乱と恐怖と恐慌はすぐには消え去らず、しばらくして我に返ったとき初めて自分が全く危険から逃れたことを自覚する。そこで彼はわが身の無事を確信するのだが、そのように確信する前から彼は無事だったのである。信仰者もそれと全く同じである。信仰とは、キリストによる以外に救われる道はないと見てとり、心から彼にしがみつこうとすることにほかならない。神がそのことばをお語りになり、御子に約束なされたのだ。私は彼が唯一の救い主であると信じ、自分の魂を彼にゆだね、彼の仲介によって救っていただきたい。魂がこのようにするや否や、神はご自分の御子の義をその魂に転嫁し、それは天の法廷においては現実に義と認められるが、良心の法廷においては、その魂はすぐには静められることも安んじられることもない。それは後になされる。ある者は比較的早く、他の者は多少遅くなってから、義認の成果また効果としてなされるのである」。(アッシャー大主教:『神学要論』、1670)

 21. 「ある人々は、自分が疑うからといって疑い、不信に不信を重ねて、自分には信仰がないのだと結論する。なぜなら自分たちのうちに多大な疑いがしきりにわき起こるのを感ずるからである。しかし、これは大きな間違いである。大きな信仰があるところにも多少の疑いは起こるものであり、信仰が小さなうちは大きな疑いが起こるものである。
 「私たちの救い主が求めておられ、お喜びになるのはご自分を強く、また堅く信ずることだが、彼は、最も小さく、最も弱い者らをも拒絶なさることはない」。(レイトン大主教の『聖マタイの福音書の最初の九章についての説教集』、1670)

 22. 「古の多くの人々、まただれよりも高貴で尊崇な人々は、真の信仰とは確信を上回るものであるとした。すなわち、自分の罪の赦しと、自分個人が神に受け入れられることと、未来において救われることとを堅く確信することが信仰だとした。
 「しかし、確信がない者には恵みも欠けているのだとする、このような立場は、疑いにとりつかれて、すさんだ魂をした幾千もの人々にとって、非常に悲しく、苦痛なものであるとともに、ローマカトリック教徒にあまりにも大きな優位を与えているものである。
 「信仰は確信ではない。しかし、これは時おり、強く活発で英雄的な信仰に、報いと報酬を与えることがある。神の御霊が、証拠となる光をもって魂に押し入り、すべての暗闇と、それまで魂に重くのしかかっていた恐れと疑いを追い散らすのである」。(ホプキンズ主教、『契約について』、1680)

 23. 「確信の欠けは不信仰ではない。うなだれた霊も信仰者でありうる。キリストを信ずる信仰と、その信仰の慰めとの間、また永遠のいのちを信ずることと、自分に永遠のいのちがあると知ることとの間には、明確な区別がなされている。ある地所に対する子どもの相続権と、その子がその権利を完全に自覚することとの間には違いがある。
 「信仰の性格は心に記されているかもしれない。印章に刻まれた文字のように。ただ、埃が詰まりすぎていてそれと見分けがつかないのである。その埃は文字を判読不能にしているが、削り取ってしまったわけではない」。(『論集』、スティーヴン・チャーノック、ケンブリッジ大学エマニュエル学寮、1680)

 24. 「ある人々は、救いに至る信仰を完全な確信にかかっているものとすることによって、自分の慰めを取り逃している。信仰と、信仰の感覚とは、2つの明確に区別されたあわれみである。あなたは真にキリストを受け入れたとしても、それを確信する知識を受けていないかもしれない。ある者らは、『あなたは私たちの神です』、と云うが、神から決して、『これらはわたしの民である』、と云ってもらえない。こうした者らは神の子どもたちと呼ばれる権威が何1つないのである。別の者らを神は、『これらはわたしの民である』、と云っておられるが、彼らの方では神を『自分たちの神』などと呼ぶことができない。こうした者らは、神の子どもたちと呼ばれる権威があるのに、それがわからないのである。彼らがキリストを受け入れたこと、それは彼らの安全である。しかし彼らはその知識と確信を受けておらず、それが彼らの悩みである。……父親はゆりかごの中のわが子を自分の子だと云うが、その子は父親のことを自分の父だとはまだわからないのである」。(『恵みの方法』、ジョン・フラヴェル、デヴォン州ダートマスの福音の教役者、1680、Baker Book House、1977)

 25. 「明らかに、弱い信仰しかない人々も、強い信仰を持つ人々と同じく、キリストによって、神との平和を持つことができる。ただ、それほど大きな平安を内心に感じないだけである。
 「弱い信仰も、強い信仰と同じくらい確実に、キリスト者を天国に上陸させるであろう。なぜなら、ごく微量の真の恵みも、朽ちない種であるからには、消滅することはありえないからである。しかし、弱く疑いに満ちたキリスト者は、強い信仰を持ったキリスト者よりも愉快な航海をしてそこに行き着くことはあるまい。船に乗り込んだ者全員が無事に海岸に到達したとしても、船上でずっと船酔いに苦しんでいた者たちは、ずっと強く健康でいた者たちほど快適な航海をしてこれないものである」(『すべての武具をまとったキリスト者』、ウィリアム・ガーナル、一時サフォーク州ラヴェナムの教区牧師、1680、Banner of Truth Trust、1979)

 26. 「自分が御父から御子に与えられた者のように思えなくとも心くじけてはならない。自分でそう思えないとしても、実はそうした者であるかもしれない。与えられた者の多くは長い間それを自覚することがない。しかり。これはさほどの語弊なく云えることだと思うが、御子に与えられた者のうち少なからぬ数の者たちは暗闇と疑いの中にあり、自分の状態について疑い続けた後に初めて、決定的な輝かしい夜明けを迎え、自分がそうした者であると宣言する決定的な宣告を受けられるのである。
 「それゆえもしあなたがたのうちのだれかが自分の選ばれたことについて暗闇の中にあるとしても、心くじけてはならない。自分でそれがわからないとしても、あなたはそうした者であるかもしれない」。(『主の祈りについての説教集』、ロバート・トレイル、ロンドンおよび一時ケント州クランブルックでの福音の教役者、Banner of Truth Trust、1979)

 27. 「確信は信仰の存立にとって必須のものではない。それは強い信仰である。しかし聖書には弱い信仰や、小さな信仰、からし種一粒ほどの信仰のことも書かれている。イエス・キリストを信じ、真に救いに至る信仰には、どうしても多様な程度の差が生ずるものである。しかし、いかなる人のうちに宿る、いかなる程度の信仰も、その質という点ではみな同一なのである」。(『説教集』、ジョン・ニュートン師、一時オルニーの教区牧師、後にロンドンの聖メアリーウルノース教会の教区牧師、1767)

 28. 「弱い信仰者が自分に不利な結論をすべき理由は何1つありません。弱い信仰も強い信仰と同じくらい真実にキリストに結びつくものです。葡萄の木の一番小さな芽も、一番大きな枝に劣らず、根からの樹液と生命力を吸い上げているのと同じです。ですから弱い信仰者たちにも感謝すべき理由は多々あります。そして恵みにおける成長に努めている間も、自分たちがすでに受けたものを見落とすべきではありません」。(ヘンリー・ヴェンの手紙、1784)

 29. 「私たちの救いに必要にして十分な信仰は確信ではない。疑いもなく真の信仰はその傾向として、神のいつくしみに対する生き生きとした期待を作り出すものであり、そうした期待は完全な確信を生み出すものである。しかしその確信は、それ自体では私たちが今語っている信仰ではなく、それにふくまれている必要物でもない。否、それは完全に別の物なのである。
 「確信は一般に高い程度の信仰を伴うものである。しかし、どれほど真摯な人々の中にも、ほんの小さな恵みしか授けられていない人々、あるいは、その恵みの行使が大いに妨げられている人々がいる。そうした欠陥や妨げが優勢を占めているときには、多くの恐れや嘆きが当然わき起こることであろう」。(『キリスト教の体系』、トマス・ロビンスン師、レスターの聖メアリー教会の教区牧師、1795)

 30. 「救い、そして救いの喜びは、必ずしも同時に発生するものではない。後者は必ずしも即座に経験することとして前者に伴うとは限らない。
 「病人は回復の途上にあるかもしれないが、自分では元通りの健康体になれるかどうか疑い惑っているかもしれない。痛みと衰弱によって彼はためらいを感ずるかもしれない。ある子どもが大きな地所や王国の相続人であるとする。しかし当の本人は、自分の血統をたどることも、不動産の権利証書を読むことも、父親の遺書を読むこともできないかもしれない。または、たとえそれらを読む力があったとしても、その重要性を理解できず、彼の後見人は、しばらくの間彼には何も知らせずにおくに越したことはないと考えるかもしれない。しかし、彼が何も知らないからといって、彼の権利の正当性が少しでも減るわけではない。
 「救いの個人的確信は必ずしも信仰に直結したものではない。2つは本質的に同じものではない。あらゆる信仰者は、実際、自分の心に生じている効果から、自分の安全と特権を推論できるはずである。しかし、真に信じている多くの人々は、義のみことばの用い方に通じておらず、聖書的な諸前提から当然引き出してよい結論を引き出すことができない」。(『詩篇51篇についての説教集』、トマス・ビダルフ師、ブリストルの聖ジェームズ教会牧師、1890)

Chapter 7 | Chap.7 note 6 | BACK | NEXT