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第13章

《第九の》指針:心が罪によって平静を奪われるときは、神が平安を語るまで、決して心に平安を語らないこと――平安は罪への嫌悪なしには不健全であり、そのように私たちに分け与えられる――自分で自分に平安を分け与えているとき、それをいかにして知るか――その省察のための指針――軽々しく平安を語ることと、全般的な理由によらず単一の理由によってそう行なうことのむなしさ

 《第九に》、もし神が、心にその霊的疾病の咎を思い知らせて平静を奪いなさるとしたら、それが心に根深く巣くっているという咎についてであれ、それが何らかの形で吹き出したという咎についてであれ、用心して、神が平安をお語りになる前から、自分で自分に平安を語らないようにするがいい。これが私たちの次の指針である。このことを守らない限り、心は罪のはなはだしい惑わしに陥る危険がある。

 これは、非常に重要な務めである。悲しいことに、人はこの点で自分の魂を欺くことがある。神が私たちの魂を気遣って、私たちに与えてくださった、自分をためし、吟味せよ、といった警告はみな、この大悪を妨げる助けとなるものである。根拠もなしに自分に平安を語ること、それは結局のところ、神に逆らって自分を祝福することにほかならない。私の務めは、その危険を詳細に述べることではなく、信仰者たちを助けてそれを妨げさせ、自分がいかなるときに、それを行なっているかわからせることである。

 この指針を正しく扱うために、以下のことに注目するがいい。――

 1. 神は、その大いなる大権かつ主権により、みこころのままに人に恵みをお与えになる(「神は、人をみこころのままにあわれみ」(ロマ9:18)、また、すべての人の子らの間から、みこころのままに人々を召し、みこころのままに聖なるものとなさる)が、それと同じく、そのように召され、義と認められた人々、また、ご自分がお救いになる人々の間でも、この特権をご自分のものとして保っておられる。すなわち、神は、みこころのままに人に平安を語り、その度合もみこころのままにお決めになる。それは、神がすでに恵みをお授けになった人々に対してすら変わらない。神は、「すべての慰めの神」[IIコリ1:3]であり、信仰者に対するお取り扱いにおいては、格別にそのようなお方である。すなわち、神は数々の良いものを、ご自分の家の中にしまいこんでおき、そこからそれを、ご自分のすべての子らに対して、みこころのままにお与えになるのである。これを主は、イザ57:16-18で詳しく述べておられる。そこで詳述されていることこそ、いま考察している問題にほかならない。神は、彼らの荒廃した、すさんだ状態を癒すとお語りになるとき、この特権を格別のしかたで、ご自分のものとしておられる。「わたしは……[平安]を創造した者」(19節)。――「このあわれな傷ついた手合についてすら、わたしはそれを創造する。わたしの主権に従って、わたしのこころのままに、それを造り出す」、と。

 こういうわけで、生まれながらの状態にある者たちへの恵みの授与の場合と同じく、――神はそれを、非常に測り知りがたいしかたで行なわれる。その際の神が、ある者を選び、別の者を残しておくなさりかたは、外面的なようすだけに限って見れば、いかにありうべき期待もしばしば裏切り、全く逆をつくようなものである。そのように神は、恵みの状態にある者たちに、平安と喜びを伝達する際も、同じことをなさる。――神は、しばしば、私たちが神の配剤の土台であると期待するものとは、全く裏腹なしかたで、それらを与えてくださる。

 2. 平安は、神がみこころのままに人々のため創造するものであるのと同じく、それを人の良心にしみいるように語りかけるのは、キリストの大権である。ラオデキヤにある教会に対して語りかける際にキリストは、自分の傷を手軽にいやし、平安を語るべきでないときに自分に平安を語っているこの教会に向かって、このような称号をご自分に添えられた。「わたしはアーメンであり、忠実な証人である」*(黙3:14)。主は私たちの状態について、真実あるがままに証言をなさる。私たちは間違うことがあり、ゆえもなく自分を悩ませたり、偽りの根拠に基づいて自分にへつらったりするが、主は、「アーメンであり、忠実な証人である」。そして、主が私たちの状態や状況についてお語りになることは、真実その通りである。主は、「その目の見るところによってさばかない」*、と云われる(イザ11:3)。――主は、私たちがよくするように、うわべの見かけによっても、思い違いの入る余地があるいかなるものによってもさばかない。あらゆることを真実あるがままに判断し、識別なさる。

 この2つの所見を受け入れるがいい。その上で私は、いくつかの規則を述べたいと思う。それによって人々は、果たして神が自分に平安を語っておられるのか、それとも自分で自分に平安を語っているにすぎないのかを知ることができるであろう。

 1. 人々が自分で自分に平安を語っている場合、間違いなしに彼らは、そうする際に、自分に平安を語っている当の罪に対して、想像しうる限りの最大の嫌悪をいだくことがなく、その罪ゆえに自分自身を憎悪することもないはずである。人々が罪によって傷つけられ、平安を奪われ、困惑させられ、かつ、自分たちには、キリストの血を通して神のあわれみを受けるほか何の治療法もないことを悟り、かつ、それゆえキリストに頼り、キリストにある契約の約束の数々に頼り、かつ、そうすることによって自分たちの心を静めて、安らかな気持ちをいだこう、神があがめられるようにしよう、神が彼らに恵み深くあられるようにしようとしてはいるが、だがしかし、彼らの魂が、自分の心の平静を奪っているような、ある特定の罪に対して、あるいは複数の罪に対して、これ以上ないほどの嫌悪に至らされないという場合、――これは自分で自分を癒しているのであって、神によって癒されているのではない。これは、主が近くにおられる際の激しい大風にほかならないが、その風の中に主はおられない。人々は、「自分たちが突き刺した者を見」、その方によるほか、何の癒しも平安もないことがわかるとき、「嘆く」ものである(ゼカ12:10)。彼らは、自分が突き刺したという理由で、そのお方のために嘆き、そのお方を突き刺した罪を嫌悪する。私たちが癒しを求めてキリストのもとに行くとき、信仰はキリストを、特に、突き刺されたお方として仰ぎ見る。むろん信仰は、それがキリストに向き合う、あるいは、キリストと交わりを持つ種々の機会に応じて、様々な見方でキリストを眺める。キリストの聖さを眺めることもあれば、その御力を眺めることもあり、その愛を眺めることもあれば、その御父から受けておられるいつくしみを眺めることもある。だが信仰は、癒しと平安を求めて行くときには、特に、その契約の血潮を眺め、その苦しみを眺める。というのも、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」からである(イザ53:5)。私たちは、癒しを切望するときには、主の打ち傷を仰ぎ見るべきであり――それも、ローマカトリック教の信心家が常とするように、そうした傷の外面的な話においてではなく、十字架の愛と、いつくしみと、神秘と、目的とにおいて仰ぎ見るべきであり――、平安を切望するときには、主の懲らしめを仰ぎ見なくてはならない。さて、もしこれが神のみこころに沿って行なわれ、信仰者に注がれている御霊の力によって行なわれているとしたら、その癒しや平安を求める原因となった特定の罪、あるいは、複数の罪に対する嫌悪が生み出されるものである。エゼ16:60、61にはそう記されている。「だが、わたしは、あなたの若かった時にあなたと結んだわたしの契約を覚え、あなたととこしえの契約を立てる」。では、その後でどうなるだろうか? 「そのとき、あなたは自分の行ないを思い出し、恥じることになろう」<英欽定訳>。神が、確かな平安の契約によって、心に直接平安をお語りになるとき、魂は、自らを神と疎遠にさせた、あらゆる生き方を恥じる気持ちで一杯になる。それで使徒は、救いに至る悔い改めにつきものの、神のみこころに沿った悲しみに伴う事がらに言及する際、決して悔いるべきでないものとして、処罰をあげているのである。「どれほどの……処罰を断行させたことでしょう」!(IIコリ7:11) 彼らは、自分たちの不行跡について、憤りと処罰をもって、自らの愚劣さを思い巡らした。ヨブは、完全な癒しに至ったとき、こう叫んでいる。「それで私は自分をさげすみ……ます」(ヨブ42:6)。そして彼は、 そのようにするまで、決して永続的な平安を持てなかった。ことによると彼も、エリフが雄弁に説いた無代価の恵みの教理によって、心を取り直していたかもしれない(ヨブ33:14-30)。だがそれは、自分の傷に薄皮を張っただけにすぎない。癒されたければ、自分をさげすむようにならなくてはならなかった。詩78:33-35に記されている人々もそうである。彼らは、罪ゆえの、また、罪から出た、大いなる恐慌と混乱の中にいた。疑いもなく彼らは、キリストによって神に向かって語りかけ(というのも、彼らがそうしたことは、彼らが神に帰している称号から明らかだからである。彼らは神を、自分たちの《岩》と呼び、自分たちを《贖う方》であると呼んでいるが、この2つの言葉はいかなる箇所でも主キリストを指し示している)、自分たちに平安を語っている。だが、それは健全な、永続的なものだっただろうか? 否。それは早朝の露のように消え去った。神は、彼らの魂に対して、一言も平安を語ってはおられないであろう。しかし、なぜ彼らは平安を持てなかったのだろうか? 彼らが神に向かって語りかけた際、神にへつらったからである。しかし、そのしるしは何だったのだろうか? 「彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった」(37節)。彼らは、自分に平安を語りかけるきっかけとなった当の罪を、嫌悪しても、放棄してもいなかった。癒しと平安をいかに願い求めるにせよ、それは真の《医者》なるお方に求めるがいい。正しいしかたで求めるがいい。契約の約束の数々によって心を安んじるがいい。だが、平安の語りかけを受けたとしても、もしそこに、自分を傷つけ、自分の心を乱す原因となった罪に対する嫌悪と憎悪とが伴っていないとしたら、それは神の創造による平安ではなく、私たちが自分でひねりだしたものでしかない。それは傷に薄皮が張っただけで、奥深くの芯は残っており、それが腐敗し、腐り、ただれていくと、ついには再び悪臭とともに吹き出して、苦悩と危険を招くのである。このような通り道を歩んでいるあわれな者ら――罪による厄介の方が、罪に伴う汚濁や汚れよりも気になり、あわれみを受けられるように努力し、しかり、キリストにあるあわれみを受けられるように主に求めながら、だがしかし、その言葉の裏では、自分の罪の甘美な小片を保ち続けようとする者ら――は、決して真の、堅固な平安を得られると考えてはならない。たとえばあなたは、自分の心がこの世を慕っていることに気づき、それが、あなたの神との交わりを乱しているとする。御霊はあなたに明確に語っておられる。――「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」[Iヨハ2:15]。そのためあなたは、キリストにある神のお取扱いを通して、自分の魂が癒され、良心が安んじられることを求めるようになる。だがしかし、それにもかかわらず、その悪そのものに対する徹底的な嫌悪は、あなたの内側にない。しかり。ことによると、そうした嫌悪も、それなりに好まれているかもしれない。だが、それは、悪の結果に関してのみである。ことによると、あなたが救われることもあるかもしれないが、それは火の中をくぐるようにしてであり、そうされる前に神は何らかのお働きをあなたになさるであろう。だがあなたは、この世でほとんど平安を持てないであろう。――あなたは、一生の間、病み、息も絶え絶えに過ごすであろう(イザ57:17)。これこそ多くの信仰告白者のいだく平安の根幹にあって、それを衰えさせている欺きである。彼らは、その全力を傾けて、あわれみと赦しに取り組み、そうすることにおいて、神との大いなる交わりを有しているように見受けられる。彼らは神の前にひれ伏し、自分のもろもろの罪と愚かさを嘆き悲しみ、それを見ればだれでも、しかり、彼ら自身でさえも、彼らと彼らの罪は縁が切れたに違いないと考えるほどである。そして、そのようにして受けたあわれみにより、彼らの心はしばらくは満足する。しかし、徹底的に探り出してみれば、そこには、治療されたはずの愚かさの一部がこっそり残されている。――少なくとも、それを徹底的に憎悪しなくてはならなかったはずなのに、そうしていなかったことがわかる。そして、たちまちわかるのは、彼らの平安はそのすべてが弱く腐ったもの、懇願の言葉が口にあるうちから消え失せていくものだということである。

 2. 人々が、自分に平安を分け与えるとき、それが、彼らの様々な確信や合理的原理から導き出されるような結論に基づくものでしかない場合、これは偽りの平安であり、長続きしない。どういうことか、少し説明しよう。ある人が罪によって傷を受けたとする。その人は、自分の良心にのしかかる何らかの罪を確信する。自分は、福音にふさわしい高潔な歩みをしてこなかった。神と自分の魂との間は、決して万事問題なく、順調というわけではない。そこでその人は、いま何をすべきかを考える。その人には光があり、自分がいかなる道を取らなくてはならないかを知っており、かつ、自分の魂が以前いかにして癒されたかも知っている。その人は、神の種々の約束こそ自分のただれた傷を癒し、心を安んじるために適用すべき外的な手段であると考え、そうした約束に向かい、それらを探し出し、それらの中に、いくつか自分の状態に直接あてはまるような文句を見つけ出す。その人は自分に向かってこう云う。「神はこの約束で語りかけておられる。ここにある膏薬を受け取ろう。これは私の傷をぴったり覆うほどに長く、幅広い」、と。そしてその人は、このようにしてその約束の言葉を自分の状態にあてはめ、平安を得て落ちつく。これもまた、あの山の上における情景と同じである。主は近くにおられるが、その中にはおられない。そこに御霊が働いていたわけではない。御霊は、ただおひとり、「罪について、義について、さばきについて、私たちに誤りを認めさせる」*ことのできるお方である[ヨハ16:8]。だがこれは、ただの知的で、理性的な魂の活動にすぎない。生命には三種類あるといわれる――生長する生命、感覚を有する生命、理性を有する生命である。あるものには、生長する生命しかない。別のものには、感覚を有する生命もあり、それは前者の生命も含んでいる。さらに別のものには、理性を有する生命があり、前二者の生命を2つとも兼ね備えている。さて、理性を有しているものは、その原理にかなう行動しか行なわないわけではなく、それ以外の2つの原理にかなう行動も行なう。神のことに関する人々の行動も、それを同じである。ある者らは、単に生まれながらの理性的な人間でしかない。ある者らは、照明を伴った、さらに付加された確信も有している。そしてさらにある者らは、真に新生した人である。さて、最後のものを有する人は、前二者の原理を2つとも有している。そして、それゆえその人は、時には理性の原理に立って行動し、時には心に悟りを得た人の原理に立って行動する。その人の真の霊的生命は、必ずしも、その人の行なうあらゆる行為のもととなっているわけではない。その人は、必ずしも霊的生命の力によって行動しているわけではなく、その人の結ぶ実のすべてが霊的生命の根から出て来るわけではない。いま私が語っているような場合、その人は、単に罪の確信と照明という原理に立って行動しているにすぎず、それによって生まれながらの性質が活性化させられているのである。だが、御霊は決してこうした流れのすべてに風を吹きつけているわけではない。こんな例を考えてみるがいい。ある人の魂が傷つき、心の平静が奪われている原因が、信仰生活における種々の退歩にあったとする。――その悪あるいは愚かさがいかなるものであるにせよ、また、それ自体としてはごく些細なことであるにせよ、それが魂にもたらす傷の深さや、心から平静を奪う度合としては、これほど大きなものはないとする。――心乱れる中で、その人は次のような約束を見つけ出す。「主はあわれんでくださる。私たちの神は豊かに赦してくださる」*(イザ55:7)。――その人は、赦しを増し加え、付け足し、それを何度も何度も行なうであろう。あるいは、次のような約束を見つけ出す。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する」(ホセ14:4)。この約束をその人は考え、それに基づいて、自分には平安があると結論する。果たして神の御霊がそれを適用しておられるのかどうか、御霊が文字にいのちと力を与えておられるのかどうかを、その人は考えようともしない。果たして主なる神が平安を語っておられるのかどうか、耳を傾けようとしない。その人は、神を待つことをしない。だが神は、ことによるとまだ御顔を隠しておられ、このあわれな手合が平安を盗み出しては、それをかかえて逃げ出して行くのを見ておられるのかもしれない。ことによると神は、やがてご自分がその人をもう一度お取扱いになる時が来ること、その人を新たに罰するため召し出す時が来ること[ホセ9:9]、その人が神の御手に導かれずに踏み出す一歩は全くむなしいものであると思い知る時がくることを、ご存知なのかもしれない。

 私の見るところ、ここでは、その他にも、この件に関わる問題が実に多く生じ、ひしめいているが、それらすべてを語るわけにはいかない。その1つについてだけ、多少語ることにしよう。

 ある人は云うかもしれない。「通常私たちは、聖霊の導きによって傷を癒され、心を安んじられると思われるのですが、どうすれば私たちは、自分が勝手につき進んでいるのか、それとも御霊も伴っておられるのかがわかるでしょうか?」

 答え(1.) もしあなたがたの中のだれかが、こうした件で道をさまよい出ているとしたら、神はたちどころにそれをあなたに知らせてくださるであろう。というのも、あなたがたは、「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる」(詩25:9)、という神の約束を受けているだけでなく、神は、あなたがのべつまくなしに過ちを犯すようなことがないようにしてくださるからである。神は、あなたの裸をいちじくの葉でおおわれたままにはしておかず、それをはぎ取り、それによって、あなたが得ていた平安をすべて取り去り、そのようなものであなたが安閑としていられないようになさる。あなたはすぐに、自分の傷が癒されていないことを知るであろう。すなわち、あなたはたちまち、それが癒されたかどうかを、その成り行きによって知るであろう。そのようなしかたであなたが獲得し、手に入れた平安は、長続きしない。精神が自らの確信内容で圧倒されている間も、心の平静が乱されるのを防ぐことはできない。しばらく待っていれば、そうした理屈のすべては冷たくなり、次に出会う最初の誘惑の面前で消え失せてしまうであろう。しかし、――

 (2.) こうした行動をとる人は、普通、待つことをしない。だが、待つことは、このような状況下で、特に発揮することを神がお求めになる恵みであり、信仰の行為なのである。むろん私も、時として神が、たちまち魂のもとにやって来られ、いわば一瞬のうちに傷つけ、かつ癒しなさることを知ってはいる。――私の確信するところ、それがサウルの外套のすそを切り取った際のダビデに起こったことであった。だが、通常そのような場合に神は、待たせることと、労させること、奴隷の目が主人の手に向けられるように主を待ち望ませることとを求められる[詩130:6; 123:2]。預言者イザヤはこう云っている。「私は主を待つ。ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を」(イザ8:17)。神は、ご自分の子らが、ご自分の家から逃げ出した際には、しばらくの間、ご自分の門前でひれ伏させておき、すぐにはご自分のもとに飛び込んで来られないようにするであろう。その後で神は、おめおめ神のもとに行けないほど恥じ入った彼らの手をつかんで、かきいだきなさるのである。さて、自分を癒す者、すなわち、自分で自分に平安を語る者らは、通常は性急に行動する。ぐずぐずすることをしない。神がお語りになるのを聞こうとせず、自分が癒されること求めて突き進むものである[イザ28:16]。

 (3.) このような行動は、良心と精神――魂の理性的な結論を下す部分――を静めはしても、心を安息と恵みによる満足感で甘やかにすることはない。それが受け取る答えは、エリシャがナアマンに与えたようなものに似ている。「安心して行きなさい」[II列5:19]。それは彼の精神を安んじたが、果たして彼の心を甘やかにしたかどうか、彼に信じることの喜びを少しでも与えたかどうか、病の癒しによってわき起こった自然な喜び以上の喜びを与えたかどうか、はなはだ疑問に思う。「私のことばは……益とならないだろうか」、と主は云っておられる(ミカ2:7)。神がお語りになるとき、そのことばには、単に私たちが理解し確信するところに合致する真理があるだけではない。そのことばが益となるのである。甘やかで、良いもの、意志にとっても感情にとっても慕わしいものをもたらすのである。それらによって、「たましいは、いこいに戻る」*のである(詩116:7)。

 (4.) 何よりも悪いことに、こうしたことには、生き方を改めることが伴わない。悪を癒さず、霊的疾病を治さない。神が平安をお語りになるとき、それは魂を導き、支え、「彼らを再び愚かさには戻さない」*[詩85:8]。だが、私たちが自分で自分に平安を語るとき、心は悪をふり落とせない。否。それは、魂を信仰後退に陥らせる、この世で最も簡単な道筋である。もしあなたが、自分に膏薬を貼ったことによって、戦いに全く嫌気がさすのでなく、もう一戦を交えようと活気づくようなことに気づくとしたら、あなたが自分で自分の魂に働きかけていたこと、イエス・キリストとその御霊がそこにおられなかったことは、あまりにも明白である。しかり。そしてしばしば天性は、こうした働きを行なった後で、ほんの数日もしないうちに、その報酬を求めて姿を現わすものである。そして、これまではさんざん癒しに励んできたのだから、また勇んで新しい傷を求めようではないか、と説きつけようとするものである。神が平安をお語りになる場合、そこには大きな甘やかさと、その愛を深く悟ることとが伴うため、魂は、もはやよこしまなふるまいに及んではならない、と強く感ずるようになる[ルカ22:32]。

 3. 私たちが自分で自分に平安を語っている場合、私たちは、それを手軽に行なうはずである。これこそ、預言者が、ある種の教師らについて文句を云ったことにほかならない。「彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし……ている」(エレ6:14)。そして、今もそのようにしている人々がいる。彼らは自分の傷の癒しを手軽に行なう。信仰によって、種々の約束をちらりと眺めれば、それで一件落着なのである。使徒が私たちに告げるところ、ある人々にとっては、「みことばも……益になりませんでした」。なぜなら、「みことばが……信仰によって、結びつけられなかったからです」(ヘブ4:2)。――それは信仰と mh sugkekramenos、すなわち、「よく調合されず」、混ぜ合わされることがなかったのである。約束の中にある、あわれみの言葉を一目眺めるだけでは十分ではない。信仰と混ぜ合わされ、信仰がその本質そのものとなるまで混合されなくてはならない。そうなって初めて、それは魂にとって益となるのである。もしも、かつてあなたが良心に傷を受け、それに弱さと心の乱れが伴っていたとして、今のあなたは解放されているとしたら、あなたはいかにして今の状態に至ったのだろうか? 「私は赦しと癒しのみことばを仰ぎ見て、平安を見いだしました」。しかり。だが、ことによると、あなたはあまりにも事を急ぎすぎたかもしれない。あなたが行なったのは表面的なことにすぎなかったかもしれない。あなたは、約束によって養われておらず、それが信仰と混ぜ合わされていないかもしれない。そのあらゆる効力が、魂全体に行き渡っていないかもしれない。単にあなたは、それを手軽に行なったのである。あなたは、自分の傷が、さほどたたないうちに再び吹き出すのに気づくであろう。そして、自分が治っていなかったのを知るであろう。

 4. だれでも、何か1つの悪のことで自分に対して平安を語りながら、それと同時に、それといささかも劣らぬほど重い別の悪を、自分の霊の中にとどめておき、それについて何も神とのやりとりをしていないような者は、平安もないのに、「平安だ」、と叫んでいるのである。どういうことか、もう少し説明しよう。ある人が、ある1つの義務を何度も何度もないがしろにしてきたとする。それは、ごく当然にその人がなすべき義務であるため、その人の良心は困惑し、その人の魂は傷つき、その罪のためにその人の骨には安らかなところがなくなるとする。その人は自分に癒しを求めて、平安を見いだしたとする。だが、その間中、ことによると、その人の胸の奥には世俗性や、高慢その他の、神の御霊がひときわ悲しまれる愚かさがとどまっていて、それらがその人を悩ますことも、その人がそれらを悩ますこともなかったとする。そのような人は、自分の平安のいかなる部分も神から出たものだと考えてはならない。つまり、人々が、神の戒めのすべてに対して等しい敬意を有しているなら、それは良いしるしということなのである。神は、私たちのもろもろの罪から私たちを義と認めてくださるであろうが、私たちにあるいかに小さな罪をも義と認めはしない。「神の目はあまりにきよくて、悪を見ることができない」*。

 5. 人々が自分で自分の良心に平安を語りかけている場合、神が彼らの魂にへりくだりをお語りになることはめったにない。神の平安は、人をへりくだらせる平安、心を溶かす平安である。ダビデがそうであった[詩51:1]。ナタンがダビデにその赦しの知らせをもたらしたときほどの深いへりくだりはない。

 しかし、あなたは云うであろう。「いつ私たちは、何か特定の傷について、心を安んずるような約束の慰めを自分のものとして受け取ってよいのでしょうか?」

 第一に、概して、神が語っておられるときには、遅かれ早かれ、しかるべきときに語られた通りになるものである。先にも述べた通り、神は、まさに罪が犯された瞬間にそうなさることがあり、魂は打ち勝ちがたい力によって、神のそのみ思いを受け取らざるをえない。また神は、それより長く私たちをお待たせになることもある。だが、神がお語りになるときには、遅かれ早かれ、私たちが罪を犯していようと、悔い改めていようと、魂が好き勝手な状態にあろうと、神を受け入れなくてはならない。こう云ってよければ、私たちと神との交わりにおいて、私たちが他の何にもまして神を悩ませるもの、それは、私たちの不信仰な恐れである。そうした恐れによって私たちは、神が喜んで私たちに与えたいと願っておられる強い慰めを受け取れないでしまうのである。

 しかし、あなたは云うであろう。「私たちの状態は全然変わっていません。神がお語りになるときには、私たちはそれを受けとらなくてはなくてはなりません。それは本当です。ですが、いかにすれば私たちは、いつ神が語っておられるかがわかるのでしょうか?」

 (1.) 私は、私たちがみな、神が平安をお語りになっているのだ、また、それを受け取ることは自分の義務なのだ、と確信するときに、その平安を実際に受け取れればどんなによいかと思う。しかし、――

 (2.) こう云ってよければ、信仰にはひそかな本能がある。それによって信仰は、キリストが本当にお語りになっているとき、その御声を聞き分けるのである。ほむべき《処女》がエリサベツのもとにきたとき、胎の中の幼子がおどりあがったように、心の中の信仰は、キリストが本当に身近に来られたときにおどりあがる。「わたしの羊は、わたしの声を知っている」*、とキリストは云われる(ヨハ10:4)。――「彼らは、わたしの声を知っている。その声音になれ親しんでいる」、と。それで彼らは、主のくちびるが彼らに向かって開き、そこに恵みが満ちているとき、それがわかるのである。あの花嫁は悲しい状況にあり、――安逸のうちに眠りこんでいた(雅5:2)。だがしかし、キリストがお語りになるや否や、彼女は叫んでいる。「これは愛する方の声!」、と。彼女は、彼の声を知っており、それまで彼と親密な交わりを持っていたため、たちまち彼がわかったのである。そして、これは、あなたにとっても同じであろう。もしあなたがキリストと親密な交わりを持つように修練すれば、あなたは主の御声と他人の声とをたやすく聞き分けるようになるであろう。では、この krithrion[基準]を常に携えているがいい。主がお語りになるとき、主は他のいかなる人も話すことがないようなしかたでお話しになる。主は力をもって語り、あの弟子たちに対してなさったように、何らかのしかたで、あなたの「心がうちに燃えている」ようになさる(ルカ24)。主はそれを、「戸の穴から手を差し入れ」ることによってなさる(雅5:4)。――主の御霊があなたの心に入れられ、あなたをとらえるのである。

 善悪を識別する感覚を修練してきた者、また、キリストとのやりとりのしかたや、御霊がお働きになるようすを常に観察することで眼力と経験を重ねてきた者こそ、こうした場合に、自分ひとりで最善の判断ができるのである。

 第二に、もし主のことばがあなたの魂に善を施すとしたら、主は平安を語っておられる。もしそれが人をへりくだらせ、きよめ、数々の約束が与えられた様々な目的――すなわち、その人を高価なものとし、きよめ、溶かし、従順へと結びつけ、自分をむなしくさせ、その他のことを行なわせること――に役立つとしたら、主は平安を語っておられる。しかし、これを詳述することは現在の私の務めではないし、これ以上この方向に進んで道をそれたくはない。ただし、この点を守っていないと、罪は実にたやすく心をかたくなにしてしまうであろう。

(第14章につづく)

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