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第12章

《第八の》指針:神の威光の気高さを考えること――私たちがなぜ神を知ること乏しいのかが提示され考察される

 《第八に》、常に自分が卑しく、つまらぬ者であるとの思いに満たされるような黙想を行なう習慣をつけ、日々それを実践するがいい。たとえば、――

 1. 神の威光の気高さと、神とあなたの間にある無限の、測り知れない隔たりについて大いに考えるがいい。これについて多くの考えを積めば、あなたは自分自身のつまらなさを痛烈に感じざるをえず、それが、内側に巣くういかなる罪の根幹にも、深々と切りつけることになる。ヨブは、神の偉大さと気高さを明確に悟ったとき、自分をさげすむ思いに満たされ、へりくだらざるをえなかった(ヨブ42:5、6)。また、預言者ハバククは、神の威光を理解したとき、自分がいかなる状態に陥ったと主張しているだろうか(ハバ3:16)? ヨブは云う。「神の回りには恐るべき尊厳がある」[ヨブ37:22]。こういうわけで古の人々は、神を見たとき自分は死んでしまうと考えたのである。聖書は、このように自分を卑下する思想で満ちており、神にくらべれば、人間など、「いなご」であり、「むなしいもの」であり、「はかりの上のごみ」とされている[イザ40:12-25]。こうした類のことを大いに考え、あなたの心の高慢をたたき落とし、あなたの魂をあなたの内側でへりくだらせるがいい。このような心持ちほど、あなたを、罪の惑わしにつけこまれない性向にするものはない。神の偉大さを大いに考えるがいい。

 2. あなたが神を、いかに知ること乏しいか大いに考えてみるがいい。確かにあなたは、自分を卑しめ、へりくだらせるに足るだけのことは知っている。だが、あなたが神について知っていることは何と僅かな部分でしかないことか! このことについて黙想することにより、かの賢人は、自分について、次に云い表わすような理解に至らされている。「確かに、私は人間の中でも最も愚かで、私には人間の悟りがない。私はまだ知恵も学ばず、聖なる方の知識も知らない。だれが天に上り、また降りて来ただろうか。だれが風をたなごころに集めただろうか。だれが水を衣のうちに包んだだろうか。だれが地のすべての限界を堅く定めただろうか。その名は何か、その子の名は何か。告げられるものなら告げてみよ」(箴30:2-4 <英欽定訳>)。このことをじっくり考え抜き、あなたの心の高慢を引き下げるがいい。あなたは神について何を知っているだろうか? それは何と僅かな部分であることか! そのご性質の何と広大無辺なことか! あなたは永遠の深淵をのぞきこんで恐怖せずにいられるだろうか? あなたは、神の輝かしい本性の発する光芒に耐えられない。

 こうした考察は、イエス・キリストにおいて私たちに与えられた、子としての大胆さ――恵みの御座に大胆に近づける大胆さ――と矛盾しない限り、私たちが神とともに歩む際に、非常に有用であると私は思う。それゆえ、私はさらに、この件について詳しく述べてみたい。それにより、へりくだって神とともに歩みたいと願う人々の魂に、いつまでも残る印象を刻み込みたいと思うからである。

 それでは云うが、あなたの心が、絶えず神の威光に対する畏怖に包まれているように、次のことを考えてみるがいい。すなわち、いかなる人にもまして、いと高く、いとすぐれた境地に達している人々、また、神と最も近しく、最も親密な交わりにあずかっている人々でさえ、この現世においては、神とそのご栄光については、ごく僅かしか知ってはいないのである、と。神はご自分の御名をモーセに啓示してくださった。――それは、神が恵みの契約において明らかに示された、最も輝かしい属性の数々であった(出34:5、6)。だが、そのすべては、神の「うしろ」にすぎない[出33:23]。ここで彼の知りえたすべては、神の栄光の完全なかたちにくらべれば、ほんの小さな、卑しいものでしかない。こういうわけで次のような言葉が、特にモーセへの言及として語られているのである。「いまだかつて神を見た者はいない」(ヨハ1:18)。ヨハネは、キリストに比較してモーセのことを語っている(17節)。そして、ここでは彼について、「だれであれ」、否、人々に抜きんでて傑出した、あのモーセでさえ、「いまだかつて神を見たことはない」、と云われているのである<英欽定訳>。私たちは、神について大いに語り、神について、神の道について、神のみわざについて、神のご計画について、一日中語っていられるが、実のところ、神について私たちはごく僅かしか知らない。神に関する私たちの思想、私たちの瞑想、私たちの表現は卑しく、その多くは神の栄光にとってふさわしくないもの、そのいずれも神の完全さに達していないものにほかならない。

 あなたは、モーセは律法のもとにいたのだと云うであろう。その時代、神はご自分を暗闇で包み隠し、そのみ思いは種々の象徴と、密雲と、謎めいたしきたりの中に隠されていた。――だが、いのちと不滅を明らかに示した福音の栄光ある輝きのもとで、神ご自身の胸中が啓示されている以上、私たちは今や、神をいやまさって明確に、ありのままに知っているはずだ。私たちは神の御顔を拝しており、モーセのように神のうしろしか見ていないわけではない、と。

 答え。私も、神がご自分の御子によって私たちに語られた[ヘブ1:2]後で、私たちが今や有している神知識と、律法のもとにあった聖徒が一般に有していたそれとの間には、広大にして、ほとんど想像も及ばぬほどの違いがあると認めることにやぶさかではない。というのも、確かに彼らの目は私たちの目と同じくらいに良く、鋭く、澄み切っていたし、彼らの信仰と霊的な理解は私たちにひけをとるものではなく、その対象は私たちにとってと同じくらい彼らにとっても輝かしいものではあったが、しかし私たちの時代は、彼らの時代にまして明瞭であり、密雲は散り散りに吹き払われ、夜の影は消え去り[雅4:6]、太陽はのぼり、見るための手段は以前よりもさらにすぐれた、明白なものとなってはいる。だがしかし、――

 2. モーセが神について示された、あの独特の光景(出34)は、福音的な光景であった。それは、神が「情け深い」云々ということを示す光景であった。だがしかし、それは神の「うしろ」と呼ばれているのである。すなわち、神の気高さと完全性にくらべれば、低く卑しいものであるとされているのである。

 3. 使徒は、律法の栄光にくらべられた際の、この光の栄光を口をきわめてほめたたえ、今や暗闇を生じさせている「おおい」は取り除かれた、私たちは「顔のおおいを取りのけられて*1……主の栄光を反映させ」ている、と云っておきながら、それが、「鏡のよう」なものである、と告げている(IIコリ3:18)。「鏡のように」、とはいかなることだろうか? 明瞭に、完全に、ということだろうか? あゝ、否! 彼は、それがいかなるものかをこう告げている。「私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」(Iコリ13:12)。使徒がそこで語っているのは、遠くにある物事を見る助けになる望遠鏡のことではない。むしろそれは、何と貧しい助けであることか! その手助けを得ているにもかかわらず、何と私たちは物事の真実に遠く達さないことか! 彼がほのめかしているのは、姿見のことである(そこには、物事のぼんやりとした影や像だけが移り、物事そのものは映し出されない)。私たちの知識を、彼はそうした光景にたとえているのである。さらに彼は、di esoptrou、「この鏡によって」、あるいは、この鏡「を通して」、私たちが見るものはみな、ainigmati の中にある、――「なぞ」の中、暗闇と朦朧さの中にある、とも告げている。そして、自分自身――現在生きているいかなる人にもはるかにまして鮮明な眼力を持っていたに違いない彼自身――について語る中で、彼は、自分が見たものは ek merous、――「一部分」であると告げている。彼が見たのは、天的な物事の「うしろ」でしかなく(12節)、彼は、神について自分が達したすべての知識を、自分が子どもであったときに知っていたことにたとえている。それは、to teleion に届かない meros であり、しかり、katarghqhsetai されるもの、――「やめられる」べきもの、打ち捨てられるべきものなのである。深遠な思想のこもった物事について、子どもらがいかに愚かで、あやふやで、不確かな概念や理解しか得られないか、私たちはよく知っている。だが彼らが成長し、その才幹や能力が少しでも向上するとき、そうした考え方は消え失せ、彼らはそうした考えを恥ずかしく思うようになる。子どもが自分の父を愛し、敬い、信じ、従うのは立派なことである。だが、その知識や考え方については、父親はその子の幼稚さや愚かさを知っている。私たちが自分の達した境地について、いかに自信満々であろうと、神に関する私たちの概念は、その無限の完全性という点では幼稚なものにすぎない。私たちは、自分では、正確無比の神観念や神概念を語っていると思っていても、ほとんどの場合それは、赤子のようにダアダア、バブバブと、わかりもしないことを口にしているのである。私たちは、私たちの御父を愛し、敬い、信じ、従っているかもしれない。またそのために神は、私たちの幼稚な考えを受けて入れてくださる。それらは幼稚なものでしかないからである。私たちが見ているのは、神の <うしろ> にすぎない。私たちが神について知っていることはごく僅かである。こういうわけで、この約束によって私たちは、苦悩のもとにあるとき、しばしば支えられ、慰められるのである。「私たちはキリストのありのままの姿を見る」。私たちは主を「顔と顔とを合わせて見ることになり」、「今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることにな」る。(Iコリ13:12; Iヨハ3:2)。だが、明確に、今の私たちは主を「見たことはない」。――ここまでのことの結論として云えば、現世で私たちは、神の <うしろ> しか見てはいない。神のありのままの姿を見ているのではなく、暗く、不明瞭な現われでしか神を見てはいない。神の栄光の完全なかたちにおいて見てはいない。

 シェバの女王は、ソロモンについて多くのことを耳にしていたし、彼の荘厳さについて、あれこれと想像の翼をふくらませていた。だが、彼女が実際に来て、彼の栄華を目にしたとき、彼女は自分が、彼については半分も本当のことを聞かされていなかったと告白せざるをえなかった。私たちは、自分が現世で大きな知識に達したと思うかもしれない。神について、明瞭で高次の思想に達したと思うかもしれない。だが、悲しいかな! 神が私たちを御前に引き出してくださるとき、私たちはこう叫ぶであろう。「私たちは一度もありのままの神を知ってはいなかった。そのご栄光と、完全さと、気高さに属する一千もの部分は、一度も私たちの心に入ってきたことがなかった」、と。

 使徒が私たちに告げるところ、私たちは、自分たちの後の状態をわかってはいない。――最終的に、自分たちがどのようになるかは、わからない(Iヨハ3:2)。いわんや、神がいかなるお方であるか、いかなるお方であると知ることになるかなど、私たちの心に、よけいに入ってはこないであろう。知られるべきお方がいかなるお方か、あるいは、私たちがその方を知るようになるしかたが、いかなるものであるかを考えてみるとき、さらに次のことも明らかになるであろう。――

 (1.) 私たちがについてごく僅かしか知らないのは、そのようにして知られることになるのはだからである。――すなわち、ご自分のことを私たちに説明するにあたって、多くの場合、私たちには知ることができない、と云われたお方だからである。それ以外に、いかなる意図で神は、ご自分のことを、目に見えず、私たちに知りえないお方である、などと呼ばれたのだろうか? また、私たちの神知識の進歩は、神がいかなるお方であると知るよりも、いかなるお方でないかを知ることに存している。そのために神は、死なないお方であるとも、無限であるとも説明されているのである。――すなわち、私たちのように死すべきものでも、限りや制限のあるものでもない、とされているのである。それで、あの輝かしい神の説明では、こう述べられているのである。「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」(Iテモ6:16)。神の光は、いかなる被造物にも近づけないほどのものである。私たちが神を見られないのは、神が目に見えないからではなく、神の姿に私たちが耐えられないからである。一切の翳りを持たない神の光は、いかなる被造物が、いかにして近づくことも許さない。燦々と輝く太陽すら見つめられない私たちは、弱すぎて、無限の光輝の光芒には耐えられない。こうしたわけで、かの賢人は、先に述べたように自分のことを、「獣そのもので、人間の悟りなどない」*、と告白しているのである(箴30:2)。――すなわち、神にくらべれば自分など何も知らないにひとしい。それで、神と、そのみわざと、その道についていったん考えを及ぼすならば、自分はまるで悟りがないも同然だ、と云うのである。

 この事がらにおいて、私たちの魂をいくつかの各論にまで踏み入らせよう。――

 [1.]神の本質について。私たちは、その知識からあまりにも遠く離れているため、それを言葉や表現にして教え合うことができない。その概念を自分の精神内で思い描こうとして、他の一般の物事の知識を受け取らせるような心像や印象を用いるならば、自分のために偶像を造ること、また、私たちをお造りになった神をではなく、私たちが造った神を礼拝することになるほどである。神の本質に関する私たちの思想として、そのきわみとなる最上のものは、私たちにはそれに考え及ぼせない、ということである。もしもある存在に関する私たちの知識が、それが何でないかを知っている、ということでしかないとしたら、その知識は、ひどく程度の低いものでしかない。

 [2.]神に関するいくつかのことは、神ご自身が私たちに教えてくださった。それは私たちが、そうした事がらを語れるようになるため、また、私たちが自分の用いる表現を統制するようになるためである。だが、そうするとき私たちは、そうした事がらそのものを見てとっているわけではない。そうした事がらがわかっているわけではない。私たちにできるのは、せいぜい信じることと、あがめることまでである。私たちは、教えられた通りに、神が測りがたく、全能であり、永遠であると告白している。また私たちは、全能や、広大無辺さや、無限や、永遠について、いかなる論議や概念があるかを知っている。ともあれ私たちは、こうした事がらに関する言葉や概念を手にしてはいる。だが、そうした事がらそのものについて、私たちは何を知っているだろうか? それらをいかなるものであると理解しているだろうか? 人間の精神は、無限の深淵の中で、自分が無であると認める以外に何ができるだろうか? 表現するはおろか、想像すらも及ばないことに対して、ただ降参する以外に何ができるだろうか? こうした事がらを黙考するとき、私たちの悟りは「獣」じみたもの、ないにひとしいものではないだろうか? しかり。私たちの究極の悟りは、理解することではなく、そこに安らぐことである。私たちに一瞥できるのは、単に永遠と無限の <うしろ> でしかない。三位一体について私に何が云えるだろうか? 同じ一個の本質の中に、個々に区別された人格が内在していることについて、何が云えるだろうか?――それは、何人も理解できないという理由から、多くの者によって否定されている奥義である。――その一字一句が神秘的な奥義である。あるいは御子の産出について、御霊の発出について、あるいは、それらの違いについて、だれが明らかにできるだろうか? しかし、これ以上詳しい事例はあげまい。神と私たちの間にある、無限の、測り知れない隔たりのために私たちは、神の御顔を見ることや、神の完全なご性質の数々を明確に把握するという点において、暗闇の中にとどまっているのである。

 私たちが神を知るのは、神がどのようなお方であるかによってよりも、むしろ、神が何をしておられるかによってである。――神が本質的に善であるということよりも、神が私たちに善を施しておられることによってである。そして、ヨブが語っているように、ここでも私たちは、いかに僅かな部分しか見いだしていないことか!

 (2.) 私たちが神について僅かしか知らないのは、現世では、信仰によらない限り神を知ることができないからである。私はここで、あらゆる人の心に生まれながらに残存している、神が存在しているとの印象について論述するつもりはない。あるいは、彼らが目の当たりにしている被造世界や摂理のみわざから、その神について、どこまで合理的に導かれうるかを論述するつもりはない。はっきり云えばそれは、あらゆる時代の悲惨な経験によっても、あまりにも貧弱で、粗末で、不明瞭で、混乱したものであり、それをもとに、正しいしかたで神の栄光を現わした者はひとりとしておらず、そのあらゆる神知識にもかかわよず、実際には、「この世にあって……神もない人たち」であった[エペ2:12]。

 私たちが神を知り、神ご自身のご経綸を知るには、もっぱら――また、現在の問題に関しては、ほとんど唯一の道として――信仰によるしかない。「神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(ヘブ11:6)。私たちの神知識、また神が報いを与えるお方であるとの知識は(私たちが神に従い、神に近づく根底にあるものだが)、信ずることなのである。「私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」(IIコリ5:7)。――Dia pistews ou dia eidous 信仰によって、つまり、自分の信ずる対象についての明確な像や、概念や、心像が何もなくとも信ずる信仰によって、である。信仰は、「目に見えないもの」について、私たちが有する唯一の論証である(ヘブ11:1)。私はここで、その性質について詳細に述べてみたい。そして、それに付随し関係するあらゆる事がらによって、私たちが、信仰によって知るものの <うしろ> しか知っていないことを明らかに示したいと思う。信仰というものの発祥について云えば、それはまぎれもなく、私たちが見たことのないお方の証言の上に築かれたものである。使徒が告げるように、「あなたがたは、見たことはないお方を、いかにして愛せるのだろうか?」。――すなわち、信仰によらなければおられることがわからないお方を、いかにして愛せるのか。信仰は、この方の証言に基づいて受け入れるのである。そして、この方ご自身の証言にだけ基づいて、この方を受け入れるのである。また、信仰というものの性質について云えば、それは証言に対する同意であって、実地の証明に基づいた証拠ではない。そしてその対象は、先に云ったように、私たちを越えたものである。こういうわけで私たちの信仰は、前に述べたように、「鏡にぼんやり映るものを見」ることと呼ばれているのである。このようなしかたで私たちが知るすべてのこと(そして、私たちがこのようなしかたで得る、神についてのすべての知識)は、貧弱で、不明瞭で、曖昧なものでしかない。

 しかし、あなたは云うであろう。「こうしたことはみな正しい。だがしかし、それは単に神を知らない人々――ことによると、イエス・キリストにおいて啓示された神を知らない人々――にしか、あてはまらないことだ。イエス・キリストにおいて啓示された神を知っている人々は違う。確かに『神を見た者はいない』。だが、『ひとり子の神が、神を説き明かされたのである』(ヨハ1:18)。また、『神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださった』のである。(Iヨハ5:20)。『神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音』の照明は、信仰者たちの上に輝かされているのである(IIコリ4:4)。しかり。『「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、彼らの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださった』*(6節)。それで私たちは、『以前は暗やみでしたが』、今は『主にあって、光となりました』(エペ5:8)。また、使徒が云うように、『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて……主の栄光を反映させ』ている(IIコリ3:18)。私たちは今や、暗闇や、神から隔たったところからは、遠く離れた立場、すなわち、『私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです』、と云われるほどの立場にあるのである(Iヨハ1:3)。いま神が啓示されている福音の光は、栄光に輝いている。一個の星ではなく太陽が、神の麗しさで私たちを照らしており、私たちの顔からは、おおいが取りのけられている。それで、確かに未信者は、また、ことによると一部の未熟な信仰者たちは、何らかの暗闇の中にあるかもしれないが、少しでも成長した者、あるいは相当の境地に達した者たちは、イエス・キリストにおける神の御顔を明確に眺め、見てとっているのだ」、と。

 これに対して、私はこう答えたい。――

 [1.]真実を云えば、私たちはみな、いま私たちがしている以上に神を愛するに足るだけのことは知っているのである。私たちがこれまでに到達したあらゆる度合を越えて神を喜び、神に仕え、神を信じ、神に従い、神を信頼するに足るだけのことを知っているのである。私たちの暗闇や弱さは、私たちの怠惰さや不従順について、何の云いわけにもならない。神の完全さや、気高さや、みこころについて、自分の有する知識にふさわしいだけの歩みをしてきた者が、どこにいるだろうか? 神が現世で私たちに、ご自分についての何がしかの知識を与えておられる目的は、私たちが、「神に、神としてのご栄光を帰す」ようになるためである。すなわち、神を愛し、神に仕え、神を信じ、神に従い、――貧しく罪深い被造物たちが、罪をお赦しになる神であり造物主であるお方にふさわしい、あらゆる栄誉と栄光をおささげするようになるためである。私たちはみな、自分が決して、自分の有しているそうした知識のかたちに完全には変えられていないことを認めなくてはならない。そして、もし私たちが自分のタラントをよく用いているとしたら、私たちはさらに多くのものをゆだねられていたはずである。

 [2.]比較して見ても、私たちが福音におけるイエス・キリストの啓示によって有している神知識は、途方もなくすぐれた、輝かしいものである。それは、それ以外の手段で得られるいかなる神知識とくらべようが、旧約聖書のもとで律法において伝えられた神知識とくらべようが、そうである。律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はなかった[ヘブ10:1]。このことを使徒が詳細に論じているのがIIコリ3章である。キリストは今や、この終わりの時に、御父ご自身のふところから来て、御父を啓示し、その御名を説き明かし、そのみ思いと、みこころと、ご計画を、以前ご自分の民を律法という教育係のもとに置いていた時代にしていたよりも、はるかに明瞭で、めざましく、明確なしかたで明らかにしておられる。そして、これこそ、上で言及されたほとんどの箇所において、意図されていたことなのである。福音において、神とそのみこころが、明瞭に、また、すっきりわかるかたちで論ぜられ、明示されていることこそ、神ご自身による他のいかなるしかたの自己啓示とくらべても、明白にほめたたえられていることである。

 [3.]信仰者の知識と、不信者の知識との間にある違いは、彼らの知識の内容に関するものというよりは、知識のありかたにある。不信者の中でも、一部の人々は、多くの信仰者たちよりも、神についても、その数々の完全性や、そのみこころについても、より多くのことを知っており、より多くのことを語れるかもしれない。だが彼らは、しかるべきしかたでは何も知っていない。正しい態度によっては何も知らず、霊的で救いに至るようなかたちでは何も知らず、聖なる天的な光によっては何も知っていない。信仰者のすぐれている点は、物事について広大な理解を有していることにではなく、その人の理解していることが、たとえ非常に僅かなものではあっても、それを神の御霊の光によって、救いに至る、魂を変える光のもとで見てとっていることにある。そして、これこそ私たちに神との交わりを与え、せんさく好きな思いや、好奇心から出た概念などは与えないものなのである。

 [4.]イエス・キリストは、そのことばと御霊によって、ご自分のすべての民の心に、神を御父として、契約の神として、報いを与えるお方として、啓示しておられる。それは、あらゆるしかたによって私たちに、現世では神に従うことを教え、私たちを神のふところに導き、そこで永遠に神を得た喜びのうちに憩うことを教えるに足るだけの啓示である。しかし、それでも現世においては、

 [5.]こうしたすべてにもかかわらず、私たちの神知識は、僅かな部分でしかない。私たちは神の <うしろ> しか見ていない。というのも、――

 第一に、福音のあらゆる啓示の目的は、神の本質的な栄光のおおいを取り去ることや、私たちに神のありのままの姿を見せることにではなく、単に、私たちの信仰と、愛と、従順と、神のみもとに来ることとの土台として十分だと神がご存じのものだけを明らかにすることにあるからである。――それは、神が現世で私たちに期待しておられる信仰の土台となるに足るだけのもの、誘惑のただ中にある貧しい被造物にとってふさわしいだけの助けを明らかにすることである。しかし、神が私たちを、何の中断もない、永遠のわざと黙想のもとにお召しになるときには、神は、ご自分について新しいしかたでお知らせになり、いま私たちの前に存在しているような物事のありさまは、その全体が、影のように離れ去ることであろう。

 第二に、私たちの心は、みことばで啓示されている事がらを受け入れるのに鈍く、感度が悪いからである。神は、私たちの欠陥と弱さを鑑みて、常に私たちを、みことばから出た教えとご自分の啓示を理解することにおいて、ご自分により頼ませるとともに、この世にある間は、いかなる魂をも決して、みことばから見いだされ、発見されうる究極の真理へ導くことはなさらない。こういうわけで、確かに福音における啓示の道は、明瞭ではっきりしてはいても、私たちは、啓示されている物事そのものを僅かしか知ることがないのである。

 それでは、この項目で考えたことを生かす目的に話を戻そう。この、神の思いも及ばぬ偉大さをしかるべく理解することによって、また、私たちと神との間にあるかの無限の隔たりによって、魂は、神への聖なる、また畏怖すべき恐れに満たされるのではないだろうか? そして、いかなる種類の情欲も、のさばらせたり、野放しにしたりするのがふさわしくない心持ちを保ち続けるのではないだろうか? 魂には、神の偉大さと遍在性に対する、敬虔な思いを常にいだかせ、いかなる不適切な態度にも染まらないように、大いに用心させるがいい。あなたが申し開きをしなくてはならないお方のことを考えるがいい。――「私たちの神は焼き尽くす火」である[ヘブ12:29]。そして、神の御前と御目の前で、これ以上ないほどに自分をへりくだらせ、知るがいい。あなたの性質そのものが狭すぎるために、それは、神の本質的な栄光をふさわしく理解することには耐えられないのだ、と。

(第13章につづく)


*1 Anakekalummenw proswpw.[本文に戻る]

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