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第11章

《第三の》指針が提示される:困惑させる霊的疾病の咎で、あなたの良心を嘆かせること――これがなされる方法と手段――《第四の》指針:解放を慕い求めること――《第五の》指針:ある種の霊的疾病は生来の気質に深く根ざしている――そうした霊的疾病の考察と扱い方――《第六の》指針:罪がきっかけと弱みをつかむのを妨げること――《第七の》指針:罪の最初のうごめきに激しく抵抗すること

 私の《第三の》指針は次の通りである。――

 その咎であなたの良心を嘆かせるがいい。情欲に咎があると考えるだけでなく、その情欲が現実に吹き出し、心をかき乱しているという咎で、あなたの良心を嘆かせることである。

 この規則を正しく活用するため、いくつか具体的な指針を示そうと思う。――

 1. このことにおいては神の順序に従い、まず一般論から始めて、各論に踏み入るがいい。――

 (1.) 情欲の中に見られる咎で良心を嘆かせるには、律法の厳正さと聖さによってそうするがいい。神の聖なる律法をあなたの良心の中に持ち込み、あなたの腐敗をそれに当ててみて、それで心が動かされるように祈るがいい。律法の聖さ、霊性、峻厳さ、内面性、絶対性を考え、いかに自分がその前に立ちえない者であるかを見てとるがいい。ともあれ律法において主を恐怖し、それで良心が大きく動かされるようにするがいい。あなたのそむきの罪の1つ1つに当然の報いを与えずにおかないこの律法が、いかなる正義に立っていることか。ことによるとあなたの良心は、こうした考えの力を弱める云いのがれや、はぐらかしをでっちあげるかもしれない。----いわく、罪に定める律法の力は自分にはあてはまらない。自分は律法から自由にされている。確かに律法について考えると居心地は悪いが、それでも、それほど大きな悩みを感ずる必要などないはずだ、と。しかし、――

 [1.]あなたの良心に告げるがいい。それがいかなる証拠をあげつらって、自分は罪の罪に定める力から自由だと云おうとしても、あなたの抑制されていない情欲があなたの心にある限り、そのようなことはできない。ことによると律法は、あなたが全く罪に支配されているとの訴えを立証しおおせるかもしれない。そのときあなたは、地獄に落ちる存在となるのである。それゆえ最善の道は、律法の云い分をあますところなく思い巡らすことである。

 疑いもなく、心の最深奥で、自分は罪に定める律法の力から自由にされているのだ、と申し立て、それを理由に、心ひそかに自分を手ぬるく扱い、ほんの少しでも何らかの罪あるいは情欲を目こぼししようとしている人は、いくら福音をたてにとって、いかなる証拠をもあげつらっても、霊的にほどよく安全であるとか、自分が解放されていると触れ込んでいる当のものから、しかるべきしかたで本当に自由にされていると云うことはできない。

 [2.]その結果はいかにあれ、律法は、神から受けた職権により、そむきの罪を犯す者を見つけ次第とらえては、彼らを神の御座の前に引き出し、彼らは申し開きをすることになる。これが今のあなたの立場である。律法はすでにあなたを見つけ出しており、やがてあなたを神の前に引き出すであろう。もしあなたが赦罪を申し立てることができれば、それはそれでよろしい。できなければ、律法はその職務を遂行するであろう。

 [3.]しかしながら、律法に特有の働き、それは罪をその咎においてあばきだし、そのゆえに魂を覚醒し、へりくだらせ、罪を極彩色で映し出す鏡となることである。もしあなたが、こうしたしかたで律法に相対しようとしないのであれば、あなたは信仰に立ってはおらず、心がかたくなになっており、罪に惑わされているのである。

 これまでも、この扉を通って、あまりにも多くの信仰告白者たちが、公然たる背教に至ってきた。彼らの触れ込む律法からの解放とは、もはや律法の導きや指図を省みないということであった。そしてしだいにこの原理は、考え方にとどまるだけではなく、それと気づかぬうちに、実践的な見解に影響を与え出し、それを手の内におさめた後で、意志と感情のたがをはずしては、ありとあらゆる忌まわしい所行に走らせたのである。

 それでは、ともあれこのような方法によってあなたの良心を説得し、律法が主の御名においてあなたの情欲と腐敗について語ることに、熱心に耳を傾けるがいい。おゝ! あなたの耳が開かれているとしたら、それはあなたを身震いさせるような声で語るであろう。それはあなたを地べたにはいつくばらせ、あなたをおびえで満たすであろう。もしあなたが少しでも自分の種々の腐敗を抑制したいと思うのであれば、あなたは自分の良心を律法に固くくくりつけ、いかなる云いのがれも抗弁も閉め出し、自分の咎を認め、はっきりと心から危惧するようにならなくてはならない。このようにして、ダビデが語っているように、あなたの「不義が、いつもあなたの目の前にある」*ようにしなくてはならない[詩51:3]。

 (2.) あなたの情欲を福音のもとに持ち出すがいい。――それで一安心するためではなく、さらにその咎を確信するためにである。あなたが突き刺したお方を見て、激しく泣くがいい。自分の魂に向かって云うがいい。「私は何をしたのか? 私は何という愛、何というあわれみ、何という血、何という恵みをさげすみ、踏みつけてきたことか! これが御父のに対する私のお返しだろうか? 御子のに対するお返しだろうか? 聖霊の恵みに対するお返しだろうか? 私はこのように主に恩を返すのか? 私は、キリストが死んでまでも洗おうとした心、御霊が住まいに選ばれた心を汚してきたのだろうか? では、そのような私が卑劣漢のそしりを免れることができようか? 愛する主イエスに私は何と云えるだろうか? いかにすれば、主の前で少しでも偉そうに頭を上げていられるだろうか? 私は、主との交わりに、これほどちっぽけな値うちしか認めていないのだろうか? この卑しい情欲のために私は、心の中に、これほど僅かな余地しか主のために割けないのだろうか? 私がこんなにすばらしい救いをないがしろにしたばあい、どうしてのがれることができるだろうか? と同時に、私は何と主に申し上げようか? 愛も、あわれみも、恵みも、いつくしみも、平安も、喜びも、慰めも、――そのすべてを私はさげすみ、それらをどうでもよいことのようにみなし、どうしても心の中に情欲をかくまっておこうとしてきた。私が、神の慈父のような寛大なおはからいを得たのは、その御顔を見つめながら、その面前で怒りを招くような罪を犯すためなのだろうか? 私の魂が洗われたのは、さらなる汚辱をいくつも塗りつけるためなのだろうか? 私はキリストが死なれた目的をむなしくするような努力をしてよいだろうか? 贖いの日のため私に証印を押してくださった御霊を日ごとに悲しませてよいだろうか?」 このような道理を、日ごとにあなたの良心に考えさせるがいい。自分の咎をこれほど重くするものの前で、どこまで良心が持ちこたえられるか見てみるがいい。もしこれが、ある程度まで心にしみ入ることも、心を溶かすこともしないとしたら、あなたは危険な状態にあるのではないかと私は恐れるものである。

 2. 各論に踏み入るがいい。福音という総論のもとで、そのあらゆる恩恵――贖罪、義認、その他のこと――を考察すべきであるのと同じように、そうしたそれぞれの恩恵によって、あなたの魂に注がれている愛が、いかにあしらわれているかを考えて、あなたの腐敗の咎をさらに重いものとするがいい。たとえば、――

 (1.) あなたに対する神の無限の忍耐と寛容を特に考えてみるがいい。いかに神が、あなたに対して居丈高になろうと思えばなれたか、考えてみるがいい。いかにたやすく神はあなたを、現世では恥辱と非難の的とし、永遠では御怒りの的とすることができたことか。いかにあなたは、時として二心や偽りの態度で神に接してきたことか。いかに唇をもってへつらいながら、あらゆる約束と誓約を破ってきたことか。それも、今のあなたが追い求めている罪を手がかりに、そうしてきたことか。だがしかし、時として神は、あなたを見のがしてくださった。たとえあなたが、大胆不敵にも、神が寛容を差し出せる限度をためしているかのように見えたにもかからず、そうしてこられた。だのに、あなたは、それでも神に対して罪を犯そうというのだろうか? あなたはまだ神をわずらわせ、あなたの数々の腐敗の尻拭いをさせようというのだろうか?

 あなたは、これまで何度も、もはや神が自分のことを忍耐してくださるなど絶対ありえない、と結論しそうになることがあったではないだろうか? 神は自分を見捨てた。もはや恵みは与えられない。神の忍耐はすべて尽き果ててしまった。地獄と御怒りが自分を待ち受けているだけだ、と結論しかねないことがあったではないだろうか? だがしかし、あなたのあらゆる期待を越えて神は、愛の訪れをもって報いてくださった。だのに、あなたは、神の栄光の目にとって怒りを招くようなことにとどまり続けようというのだろうか?

 (2.) いかにしばしばあなたは、罪の惑わしによってかたくなにされる寸前になることがあったことだろうか? また、いかに神の無限の恵みの豊かさによって、再び神との交わりに回復させられてきたことだろうか?

 あなたは恵みが衰えるのに気づいたことがなかっただろうか? 種々の義務や、定めの儀式や、祈りや、瞑想に対する喜びが消え失せ、たがのゆるんだ、無頓着な歩みを好む性向が勢いを増すのに気づかなかっただろうか? また、先に信仰に入った人々ががんじがらめにされて、ほとんど回復しようもなくなってしまったことに気づいたことはなかっただろうか? あなた自身も、神が忌み嫌うような生き方や、知り合いや、仲間に入り混じり、それを喜んでいたことに気づいたことはなかっただろうか? だのにあなたは、かたくなさになる瀬戸際まで、まだ向こう見ずな一歩を進めようというのだろうか?

 (3.) ここでは、あなたに対する神のすべての恵み深いお取り扱い――すべての摂理的なおはからい、解放、患難、あわれみ、喜び――が、念頭に置かれるべきである。ともあれこれらを始めとする手段によって、あなたの良心を嘆かせるがいい。そして、あなたの内側に巣くう腐敗の咎によって、それが徹底的に心動かされるまでは、また、それがその傷を感じとって、主の前でちりの中にうずくまるまで、手をゆるめないようにするがいい。このことがしっかりなされるまでは、他のいかなる努力も全く無駄な骨折りである。良心が罪の咎を軽くするような手段を何か手にしている限り、魂は決して力を尽くしてその抑制に取り組もうとはしないものである。

 《第四に》、このように、良心が自分の罪によって心動かされた後で次になすべきこととして、罪の力からの解放を絶えず希求し、切望するがいい。あなたの心は、一瞬たりとも、現在のあなたの心持ちや状況に満足していてはならない。日常生活や市民生活においては、何かを希求する願望や考え方が少しでも値うちのあるものとなるのは、それらが人を刺激し、かき立てて、さまざまな手段を熱心に用いさせ、目指すものを獲得させる場合だけである。だが霊的な物事においては、そうではない。解放を求める希求や、切望や、慕いあえぎは、それそのものが恵みであり、希求されているもの自体に魂を似せていく大きな力を有している。こういうわけで使徒は、コリント人たちの悔い改めと、神のみこころに添った悲しみとについて描写する中で、このことを――「慕う心」を――そのとき働き出した、1つのすぐれた恵みとみなしている(IIコリ7:11)。また、こうした、内側に巣くう罪とその力という場合において彼は、自分自身がいかなる心持ちにあったと表現しているだろうか? 彼の心は、それを希求するあまり、この上もない激しさで、解放されたいとの願いをほとばしらせている(ロマ7:24)。さて、もしこれが、内側に巣くう罪一般を考えた際に聖徒たちが示す心持ちだとすると、何か特定の情欲や腐敗の困惑させられるような猛威や力を考えるとき、それは、いかにいやまさって高められ、増し加えられるべきことか! 請け合ってもいいが、あなたは解放を希求するようにならない限り、決して解放を得ることはない。

 これによって心は、その敵の機先を制するためのあらゆる機会を熱心に見張るようになり、その破壊のために供されるあらゆる手助けを喜んで受け取ろうとするようになるであろう。強い願望をいだくことは、いかなる状況でも私たちに命ぜられている義務であり、これほど必要なものはないという、あの「絶えず祈る」ことのいのちそのものである。こうした願望は、信仰と希望を働き出させ、魂が主を求めて動き出すことそのものにほかならない。

 では、あなたの心が、慕いあえぎ、切望する心持ちになるようにするがいい。希求し、ため息をつき、叫び求めるがいい。あなたはダビデの模範を知っているはずなので、この点でくどくど述べる必要はないであろう。

 《第五の》指針は次の通りである。――

 あなたが困惑させられている霊的疾病があなたの天性に根ざしたものか、また、あなたの体質によってはぐくまれ、助長され、高められているものかを考えてみるがいい。ある種の罪を好む傾向は、疑いもなく、人それぞれの生来の気質や性質に織り込まれている。こうした場合において、考えるべきことは次の通りである。――

 1. このことは、金輪際、あなたの罪の咎を手ぬるく扱ってよい理由にはならない。ある人々は、罰当たりなことに公然と、自分のはなはだしく大それた罪を、気質や性質のせいにしようとする。また、そこまで行かなくとも、ある人々は、自分の霊的疾病の咎に圧倒されるあまり、それと同じ理屈をつけて、その重圧を軽くしようとするかもわからない。だがアダムとエバが堕落したからこそ、また私たちの種々の性質が原初に堕落してしまったからこそ、私たちの生来の気質には、何らかの罪を媒介し、つちかうものが存在しているのである。ダビデは、自分が咎ある者として生まれ、罪ある者としてみごもられたと云っているが[詩51:5]、彼はそれを、自分が罪に携わった非をより重くするものとしてみなしており、自分の非を軽減したり、手ぬるく扱うべき理由とはみなしていない。もしもあなたが、特に何らかの罪深い霊的疾病に陥りやすいとしたら、それは、元々あなたの性質の中にあった情欲が、特定の発症を示しただけであって、それによってあなたは、よけいに下劣な者、へりくだるべき者となっているのである。

 2. 神とともに歩むことに関して、あなたが、この点で注意にとどめなくてはならないこと、それは、あなたのこの気質や性向が、罪やサタンのつけいることのできる大きな弱点となっている以上、並大抵の注意深さや、気遣いや、熱心さでは、それらがあなたの魂の弱みにつけこむのを決してくいとめることはできない、ということである。おびただしい数の人々が、このことのゆえに、まっさかさまに地獄へ突き進んできた。彼らも、こうした事情さえなければ、少なくとも、もっとゆるやかに、それほどあからさまな怒りは招かず、あまり禍々しくない度合で落ちていったはずである。

 3. 人間の天性に根ざしている何らかの霊的疾病を抑制するには、すでに名前をあげてきた、またこれから述べていこうと思う他のあらゆる方法と手段に加えて、1つの緊急手段を特に行なわなくてはならない。これは、使徒がしていることである。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」(Iコリ9:27)。からだそのものを打ちたたいて従わせることは、罪の抑制に役立つものとして神が定められた手段である。これによって、霊的疾病の生来の根には歯止めがかかけられ、その土壌の肥沃さを奪い去ることで、それを枯らしてしまう。ことによると、ローマカトリック教徒、すなわち、キリストの義についても、その御霊の働きについても、いま考察しているこの務めの全体についても無知な人々が、罪と抑制との真の性質について実際には全く知らぬままに、抑制に関する重点と力点のすべてを、肉体の服従につながるような自発的な奉仕と苦行に置いてきたがために、むしろ逆に、ある人々には、神ご自身によって認められ、定められた、肉体を屈服させるための手段のいくつかをないがしろにすることが誘惑となっているかもしれない。だが、いま述べられているような場合に、断食や、徹夜などによって天性の欲望を切り詰めることを通して、からだを打ちたたいて従わせるのは、疑いもなく神に受け入れられることであって、以下のような限定つきでなされるべきである。――

 (1.) 肉体を外的に弱め、そこなうこと自体が良いことであるとか、それが何らかの抑制の本質的要素であるなどとみなすべきではない。――これは、私たちを肉的な儀式のもとに引き戻すこととなる。むしろ、提示されている目的――何らかの霊的疾病を、その生来の根幹および座において弱めること――のための手段とみなすべきである。人は、肉体も魂ももろともに、やせおとろえることがありえる。――

 (2.) このことがなされる手段――すなわち、断食や、徹夜や、その他のこと――が、それ自体で、またそれ自身の効力によって、何らかの罪を真に抑制することがありえる、などとみなされてはならない。というのも、もしそれが可能であれば、御霊の何の助けも受けずに、新生していない、世の人においても、罪は抑制されうるということになるからである。これらは、単に、御霊がご自分のみわざを、特にいま言及されているみわざを成し遂げるために力を発揮できる、また時として実際に発揮してくださる方法にすぎない、とみなすべきである。これらを始めとする事がらを正しく理解することも、しかるべく活用することもなかったために、ローマカトリック教徒の間で発展してきた抑制のしかたは、信仰者を相手にするよりは、馬やその他の野の獣を相手に行なった方がましなものであった。

 ここまで語られてきたことの要点は次の通りである。人が苦情を訴えるような霊的疾病が、もしも天性の気質や体質に根ざしているように見受けられるとしたら、私たちの魂をキリストの血と御霊にあずからせるため、神の方法に従い、努めてそうした霊的疾病の生来の根幹に歯止めをかけるべきである。

 《第六の》指針は次の通りである。――

 これまで、あなたの霊的疾病が、いかなるきっかけ、いかなる好機をつかんで力をふるい、猛威をふるってきたかを考え、そうしたいかなる場合をも警戒するがいい。

 これこそ、私たちのほむべき《救い主》が、ご自分の弟子たちに、目をさましているという名のもとでお勧めになった義務の一部である。「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい」(マコ13:37)。これは、ルカ21:34では、こうなっている。「あなたがたの心が……沈み込んでい……ないように、よく気をつけていなさい」。あなたのいかなる腐敗が吹き出すことについても、目をさましているがいい、と。いま私が云っている義務は、ダビデが、彼自身、実践していたと告白しているものである。彼は云っている。「私は主の前に全く、私の罪から身を守る」[詩18:23]。彼は、自分の罪がやって来る道や働きのすべてに目を配り、それらを妨げ、それらの前に立ちはだかっていた。これこそ、私たちが、「道をよく考える」という名で求められていることである[ハガ1:5 <英欽定訳>]。考えてみるがいい。いかなる生き方、いかなる仲間、いかなる機会、いかなる学び、いかなる仕事、いかなる状況が、過去の何らかの時点で、あるいはいつも常に、あなたの霊的疾病にあなたの弱みを握らせたかを考えて、そうした事がらすべてに対して用心深くなるようにするがいい。人々は、こうしたことを、自分の肉体的な病気や疾病については行なう。からだにさわるとわかっているような季節や、食事や、外気を人は避けるものである。だが魂の事がらは、それより重要でないのだろうか? 罪のきっかけとなるような事がらをあえてもてあそぶ者は、あえて罪を犯すものだと知っておくがいい。よこしまなわざに至らせる誘惑に思い切って手を出す者は、よこしまなわざを思い切って行なうものである。ハザエルは、預言者から自分の将来の姿を告げられたとき、自分がそれほど邪悪な者になるとは考えられなかった。彼を確信させるために、預言者が彼に告げているのは、「あなたはアラムの王になる」、ということだけである[II列8:13]。もし彼が残虐さに通ずる誘惑に思い切って手を出すならば、彼は残虐になるであろう。ある人に、あなたはこれこれの罪を犯すようになると告げてみるがいい。その人はそれに驚くであろう。だがもしあなたがその人に、その人は、これこれのきっかけや誘惑に思い切って手を出すはずだと確信させることができたなら、その人は、ほとんど自信がなくなるであろう。この項目に関連した個々の指針は数多くあるが、今は詳しく述べることができない。しかし、この項目は、ここで扱われている教理全体に何ら劣らず重要なものであるため、私はもう1つの論考で、誘惑に陥るということに関して、詳細に論じておいた。 

 《第七の》指針は次の通りである。――

 あなたの霊的疾病の最初のうごめき、その発端に対して、激しく逆らい立つがいい。いかに小さな地歩も譲ってはならない。「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」、などと云ってはならない。罪は、一歩近寄ることを許されれば、もう一歩さらに近づくであろう。罪の限度を定めるのは不可能である。それは水路の水のようなもので、――いったん決壊したなら、その行く手をとどめることはできない。じっとしている際の罪を封じ込める方が、跳ね回りだした罪を封じ込めるよりもずっとたやすい。それゆえヤコブは、情欲があのように徐々に変化し、変遷していくと語り(ヤコ1:14、15)、私たちがその切っ先を食いとめられるようにしているのである。あなたは、あなたの腐敗が思いにからみつき出すことに気づくだろうか? そのときには、全力をあげて逆らい立つがいい。それが、その目当てを完全に成し遂げた場合と何ら劣りないほどの憤りをもってそうするがいい。汚れた思いが何を望んでいるか考えてみるがいい。それはあなたを愚行と不潔に飛び込ませたがっているのである。ねたみに、何が望みか聞いてみるがいい。――人殺し破壊がその果てにあるものである。それがあなたを完全に下落させ、邪悪さに陥らせた場合に劣らぬほどの渾身の力をもって、それに立ち向かうがいい。このようにしなくては、あなたは勝つことができない。罪は、感情にそれを喜ばせることで地歩を得るのと同じように、理性にそれを軽んじさせることによっても、地歩を得るのである。

(第12章につづく)

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