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第10章 《第二の》個別的な指針:次のことについて、明確に感じとること――1. 困惑させている罪の咎――その場合に助けとなる考えが提示される――2. 多くの危険――(1.) かたくなにされる――(2.) 現世における矯正――(3.) 平安と力の喪失――(4.) 永遠の破滅――この問題を扱うための規則――3. その害悪――(1.) 御霊を悲しませる――(2.) 新しい創造を傷つける――[(3.) 用いられなくなる]
《第二の》指針は、次の通りである。あなたを困惑させている罪の咎と、危険と、害悪とを、精神と良心において、明確に、また持続的に感じとるがいい。――
1. その咎について。心にはびこる情欲がもたらす欺きの1つは、その咎を軽くみなそうとすることである。「あんなに小さいではありませんか」[創19:20]。「私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように」[II列5:18]。「確かにこれは悪いことだが、しかじかの悪ほど悪くはない。神の民である他の人々だって、そうした心持ちをしている。事実、その中のある人々は、現実に何とすさまじい罪に陥ったことか!」、と。罪の咎について感じる正しくてもっともな不安を、罪は、数え切れないほどの方法でそらそうとする。それが吐き出す有害な息は、精神を暗くし、物事を正しく判断できなくさせる。詭弁めいた理屈、罪を軽く見せかける約束、支離滅裂な願望、今度こそやめようという頼りにならない決意、あわれみに対する希望、これらすべてが、よってたかって精神を乱し、心にはびこる情欲の咎を考えさせまいとする。預言者の告げるところ、情欲がきわまると、こうしたことが一斉になされるという。「ぶどう酒と新しいぶどう酒は心を失わせる」(ホセ4:11 <英欽定訳>)。――心とは、聖書の多くの用法によれば、思慮のことである。そしてそれらは、新生していない人々の中で思う存分この働きを行なうように、新生した人々の中でも部分的には同じ働きを行なう。ソロモンは、みだらな女に誘惑された男について、こう告げている。その男は、「わきまえのない者たち」の中にいる、「思慮に欠けたひとりの若い者」であった(箴7:7)。では、どこに彼の愚かさは現われていただろうか? これだ、とソロモンは23節で云う。彼は、「自分のいのちがかかっているのを知らない」。彼は、自分が巻き込まれている悪の咎について、考えていなかったのである。また主は、エフライムに対するご自分のお取扱いが、何の良い効果ももたらさなかった理由を次のように説明しておられる。「エフライムは、愚かで思慮のない鳩のようになった」。――自分のみじめな状況について、何も省みようとしなかった、と(ホセ7:11)。ダビデが、あの忌まわしい罪の咎の中で、あれほど長く平然と生きていられたのも、無数の汚れた屁理屈によって、律法の鏡に映し出されたその醜さと咎とを、明瞭に見てとれないようにされていたからでなくて何だろうか? このため、彼の目を覚まさせるために遣わされた預言者は、彼を取り扱うにあたって、あらゆる逃げ口上と云いのがれをそのたとえ話によって封じ込めた上で、彼に、その咎の重みを完全に感じとらせるようにしたのである。情欲は、心の中に独特の成果をもたらす。――すなわち、精神を暗くして、その咎を正しく判断できないようにさせるのである。情欲には、この他にも、おのれの咎を軽くみなさせる多くの方法があるが、今は詳しく立ち入らないことにしよう。
では、罪を抑制しようと思う者は、このことを第一に心がけるがいい。――自分の精神に、罪の咎に対する正しい判断を刻み込んでおくこと。そのための手助けとして、次のようなことを考えておくことである。――
(1.) 罪は、確かに恵みが内在する人々の内側にあっては力が弱められており、他の人々の場合のように彼らを支配してはいないが、今なお内側に住みついており、残存している罪の咎は、その分だけ重く、はなはだしいものとなっている。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」(ロマ6:1、2)。――「死んだ私たちが、どうして?」。ここで強調されているのは、「私たちが」という言葉である。後段でパウロが説明しているように、それと逆の恵みをキリストから受け取っている私たちが、どうしてそのようなことをできるだろうか? 疑いもなく、そのようなことをすれば、私たちは、いかなる者にもまして邪悪な者となるであろう。そうした人々の罪が、いかに並外れて重いか、私はくどくど述べはすまい。――いかに彼らが、他の人々にまさって、愛と、あわれみと、恵みと、支えと、助けと、種々の手段と、解放とに対して罪を犯しているか、今は述べまい。しかし、このことだけは、思いにとどめておくがいい。――あなたの心に今も残存している邪悪さには、何の恵みも持っていなかった頃のあなたが同じ罪を犯した場合にくらべて、云い知れぬほどはるかに多くの悪と咎とがあるのである。さらに、――
(2.) 神は、ご自分のしもべらの心の願いのうちに、他の人々が行なう、いかに輝かしいわざにもはるかにまさる美しさと、すぐれたものとを、あふれるほどに見ておられる――しかり、罪の方が、恵みを慕い求める心の思いよりも多く混ぜ合わされているような外的な善行の多くにはるかにまさるものを見ておられる――が、それと同じように、彼らの心に働いている情欲については、悪人たちの公然たる周知の悪行よりも、はるかに大きな悪をお認めになる。あるいは、聖徒たちが陥りうる多くの外的な罪にもまさる悪をお認めになる。というのも、そうした悪に抵抗するはずのものはより多く、そうした悪がなされた後ではたいてい、より大きな面目が失われるからである。こういうわけでキリストは、堕落したその子らをお取扱いになる際には、彼らの性根までえぐりだし、口先だけの告白は一蹴しておられる。「わたしは、あなたを知っている」*(黙3:15)。――「あなたは、自分でそうと告白している者とは全く違う。そして、それがあなたを忌み嫌うべきものとしているのだ」、と。
ならばあなたは、こうした事がらと、これに類することを考えて、自分の内側に巣くっている情欲の咎を明確に感じとり、それを軽くみなしたり、大目に見たりするような思いが心に一切入り込まないようにするがいい。そうした思いによって罪は、知らぬまに力を得て、はびこるものだからである。
2. その数ある危険を考えてみるがいい。――
(1.) その惑わしによってかたくなにされることについて。このことを使徒は、ヘブル人たちに厳しく命じている。「兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。『きょう。』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」(ヘブ3:12、13)。「気をつけるがいい」、と彼は云う。「あらゆる手段を用いて、あなたに襲いかかる様々な誘惑に目を配り、熱心に見張りをするがいい。罪には欺きがあり、惑わしがある。神への恐れを薄れさせ、あなたの心をかたくなにしがちなものがある」、と。ここで言及されているかたくなさとは、それがきわまったもの、――改悛の余地ない意固地さである。罪にはそうした傾向があり、いかなる霊的疾病と情欲にも、大なり小なりその方向に進ませるものがある。かつては柔らかな心をし、みことばのもとで心溶かされるのを常としていたあなたも、数々の患難のもとにあっては、ある人々が罰当たりにも云うように、「説教きかずの、病きかず」になっていく。今よりもずっと大きな神の愛の確証を得ていたときのあなたは、神の御前と、死と、神の前に立つことを思って震えていたのに、こうした事がらにも感動しない強情さで霊がおおわれてしまう。自分の魂や罪について、何を聞かされても、いくら責められても、まるで心配することなく、種々の義務をないがしろにし、祈ることも、説教を聞くことも、聖書を読むこともせずにいながら、心には何も感じなくなる。罪は、あなたにとってささいなこととなる。あなたは、何でもないことのように、そのそばを通り過ぎるようになる。罪はそのようなものとなるのである。では、そうした状況の末路はどうなるだろうか? これ以上に悲しいことがあるだろうか? 罪をどうでもよいと考えるような状態になることを思えば、いかなる心も震え出すではないだろうか? 恵みと、あわれみと、キリストの血と、律法と、天国と、地獄とをどうでもよいと考えることが、みな同時に生ずるのである。用心するがいい。これこそ、あなたの情欲が引き起こそうとしていることである。――心をかたくなにすること、良心を無感覚にすること、精神の目をふさぐこと、感情を麻痺させること、魂の全体を惑わせることが、それである。
(2.) 聖書が、「報い」、「さばき」、「罰」と呼ぶところの、現世における重い矯正を受ける危険。確かに神は、あなたの心にこの忌むべきものがあるからといって、あなたを完全に打ち捨てることはないが、それでも、杖をもってあなたを罰しなさるであろう(詩89:30-33)。確かに神は、赦罪と赦しをお与えになるが、あなたのしわざに対しては、それに報いなさるであろう[詩99:8]。おゝ、ダビデと彼のなめたすべての苦悩を思い起こすがいい! 荒野に逃亡する彼の姿を見て、彼の上にのしかかっていた神の御手を考えてみるがいい。神が怒りをもってあなたの子どもを殺したり、怒りをもってあなたを破産させたり、怒りをもってあなたの骨を砕いたり、怒りをもってあなたが世間の中傷と批判の的となるのを許したり、怒りをもってあなたを殺し、あなたを滅ぼし、あなたを暗闇の中に横たわらせたりなさるとしても、それは、あなたにとって何でもないのだろうか? あなたのせいで神が他の人々を罰し、破滅させ、零落させるとしても、それは、あなたにとって何でもないのだろうか? 誤解しないでほしい。私は、神が常にこうした事がらを、怒りをもってご自分の民に送られると云っているのではない。絶対にそんなことはない! だが、私はこう云っているのである。神がこのようにあなたをお取扱いになるとき、また、あなたの良心が神とともに、あなたがいかに怒りを招くようなことを行なってきたかを証しするとき、あなたは、神のお取扱いがあなたの魂にとって全く苦渋と悲痛に満ちたものであることに気づくであろう。もしこうした事がらをあなたが恐れないとしたら、あなたがかたくなになっているのではないかと私は恐れるものである。
(3.) 一生の間、平安と力を失うこと。神との平和を持っていること、神の御前を歩める力があることは、恵みの契約が差し出している偉大な約束すべての要約である。これらの中にこそ、私たちの魂のいのちがある。これらが、それなりに備わっていない限り、生きることは死ぬことにほかならない。もし私たちが、全く神の御顔を平安をもって見てとることがないとしたら、また、神とともに歩める力が少しもないとしたら、私たちの生活に何の益があるだろうか? さて、抑制されていない情欲は、この双方を、人々の魂から確実に奪い取るであろう。このことを、他の何にもまして明らかに示しているのが、ダビデの場合である。いかにしばしば彼は、このために自分の骨が砕かれ、自分の魂が思い乱れ、いやしがたい傷を負ったと嘆いていることか! 別の例をあげてみよう。「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って顔を隠した」*(イザ57:17)。一体、神から御顔を隠された魂に、いかなる平安があるだろうか? 神から打たれた魂に、何の力があるだろうか? 「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう」(ホセ5:15)。――「わたしは彼らを離れて、私の顔を隠そう。そうしたら、彼らの平安や力はどうなるというのか」。ということは、もしあなたが、一度でも神との平和を楽しんだことがあるとしたら、一度でも神への恐怖におののいたことがあるとしたら、一度でも神とともに歩む力を得たことがあるとしたら、あるいは、一度でも自分の弱さのため祈りの中で嘆いたり、悩んだことがあるとしたら、あなたの間近に迫るこの危険について考えてみるがいい。ことによると、もうほんのしばらくすると、あなたは二度と神の御顔を平安のうちに見ることができなくなるかもしれない。明日になると、あなたは祈ることにも、聖書を読むことにも、説教を聞くことにも、いかなる義務を行なうことにも、何の嬉しさも、意欲も、力も感じられなくなるかもしれない。そして、もしかするとあなたは、一生の間、決して穏やかな時を過ごせなくなるかもしれない。――砕かれた骨をかかえ、苦痛と恐怖に満ちた人生を送らなくてはならないかもしれない。しかり。ことによると神は、その矢をあなたに射かけ、あなたを激痛と煩悶、恐怖と惑乱で満たすであろう。あなたを、自分にとっても他人にとっても、恐怖と驚きの種にするであろう。神は、あなたに一瞬ごとに地獄と御怒りを指し示すであろう。自分が神に憎悪されているのではないかという悲しい不安でびくつかせ、おびえさせるであろう。あなたは、夜には手を差し伸ばすが、あなたのたましいは慰めを拒むであろう[詩77:2]。それであなたは、いのちよりも死を願うようになるであろう。しかり。あなたの魂は、窒息死を選ぶかもしれない。こうしたことを少し考えてみるがいい。――確かに神は、あなたを完全に滅ぼしはしないが、それでも、あなたをこうした状況に陥れることがおできになる。そのときあなたは、自分が滅びてしまうのではないかという、身に迫る恐れをまざまざと感じるであろう。こうしたことを考える習慣を身につけるがいい。そうした心の状態が、いかなる結果を招くか肝に銘じるがいい。自分の内側で魂が身震いするようになるまで、こうした考えから心をそらしてはならない。
(4.) そこには、永遠の破滅の危険がある。
この問題をしかるべく扱うために、以下のことに注目するがいい。――
[1.]罪にとどまり続けることと永遠の破滅との間には、強い結びつきがある。確かに神は、ある者らが滅びないように、彼らを罪にとどまり続けることから救い出そうと決心しておられるが、罪にとどまり続ける、いかなる者をも救い出すことはなさらない。こういうわけで、人は、罪の持続的な力のもとにある限り、破滅と、神からの永遠の分離という末路が待ち受けているのである。それを述べているのがヘブ3:12であり、合わせて同書10:38も読んでみるがいい。これが神の定めである。もしだれかが神から「離れ」、不信仰によって「恐れ退く」なら、「神のこころは彼を喜ばない」。――すなわち、神の憤りが彼を破滅へと追いやる。ガラ6:8は、それをはっきり教えている。
[2.]先に叙述したようなしかたで、何らかの腐敗の力にがんじがらめにされている人は、自分が恵みの契約にあずかっているという、明確で力強い証拠を、今のところ全く持つことができない。人が滅びの恐れから解放されるには、そうした証拠が必要である。それゆえ当然、主からのわざわいは、その人をおびえさせ、その人はそれを、自分の人生、生き方の結末として予期するであろうし、予期せざるをえない。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」(ロマ8:1)。それは確かである。だが、だれがこうした断言に慰めを感じるだろうか? だれが、これは自分のことだと考えて安心できるだろうか? 「肉に従って歩まず、御霊に従って歩む」者たちである[ロマ8:4]。しかし、あなたは云うであろう。「それは、不信仰を勧めることではありませんか?」、と。答えは否である。人が自分の身に招きうる審きには二種類ある。――第一に、その人自身に対する審きがあり、第二に、その人の生き方に対する審きがある。私が語っているのは、その人自身に対する審きではなく、その人の生き方に対する審きにほかならない。人は、自分自身について、手に入る限り最上の証拠を有していなくてはならない。だがそれでも、邪悪な生き方は滅びに至ると判断するのが、その人の義務である。そうしようとしないのは、神を恐れぬふるまいである。私は決して、そのような状況にある人が、個人的にキリストの恩恵にあずかっている証拠を投げ捨てるべきだと云うものではないが、その人は、そうした証拠を手元にとどめておけない、と云っているのである。人が自分を罪に定めるとき、それには二種類ある。――第一に、神からの隔絶という点で罪に定める場合がある。それは魂が、自分を神の御前から放逐されてしかるべきだと結論するときに起こる。これは、不信仰のなせるわざどころか、信仰の結果にほかならない。第二に、結末と成り行きという点で罪に定める場合がある。それは魂が、自分は神から地獄に落とされるはずだと結論するときに起こる。私は決して、これが人の義務であるとは云わないし、これを行なうように求めるものでもない。だが、1つ云っておきたいのは、こうした生き方の末路を思えば、そこから大慌てで遠ざかろうとするのが当然だということである。こういうわけで、自分をがんじがらめにしている種々の情欲からのがれたいと願う魂は、このことも思いにとどめておかなくてはならない。
3. その害悪を考えてみるがいい。私が意味しているのは、その現時点における害悪のことである。危険は、これからやって来ることに関わり、害悪は、現時点に関わっている。抑制されていない情欲に伴う多くの害悪のうち、そのいくつかをここで言及してみよう。――
(1.) それは、聖なるほむべき御霊を悲しませる。信仰者に与えられた御霊は、彼らのうちに宿り、彼らとともに住んでおられる。それで使徒は、エペ4:25-29において、多くの情欲や罪をやめるように説きつけ、その大きな動機としてこう述べているのである。「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」(30節)。「神の聖霊を悲しませてはならない」、と彼は云う。「このお方によって、あなたがたはこれほど多くの、これほど大きな恩恵の数々を受け取っているのだから」、と。その一例として彼があげているのが、いともすぐれた、大きな広がりをもつ恩恵――「贖いの日のために証印を押されていること」である。御霊は、抑制されていない情欲によって悲しまされる。さながら、優しく愛に満ちた人が、友のいわれなき不親切を悲しむのと同じように、優しく愛に満ちた御霊も感じなさる。御霊は、私たちの心をご自分の宿るべき住まいとしてお選びになり、そこで私たちの魂が願いとするすべてのことを、私たちのためになさっておられる。御霊は、ご自分の敵や、ご自分が滅ぼそうとしておられるものを、私たちが自分の心の中にいだき、ご自分と同居させていることによって悲しまされる。「主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」というのに(哀3:33)、私たちの方では主を日ごとに悩ませる、などということがあってよいだろうか? こういうわけでは主は、時として「痛まされる」とも、「心を痛められた」とも記されているのである[イザ63:10; 創6:6]。それは御怒りを招くような私たちの行為が、いかにはなはだしく大きなものかを表わすためであった。さて、もし魂の中に、恵みによる純真なものが何か残されているとしたら、また、もしそれが罪の惑わしによって完全にはかたくなにされていないとしたら、こうしたことを考えることによって、確実に感化を及ぼされるであろう。あなたが何者で、いかなる立場にあるかを考えてみるがいい。いま悲しまされている御霊は、いかなるお方か。あなたのために何をしてくださっているのか。何をするためにあなたの魂のもとに来てくださったのか。あなたの内側ですでに何をしてくだったのか。こうしたことを考え、恥を知るがいい。神とともに歩む人々の間で、何にもまして自分の生き方全般を聖くし、自分の心と霊を全くきよく汚れないものに保とうと駆り立て、動機づけるもの、それは、ほむべき御霊にほかならない。この御霊は、彼らを神の宮として住み、ご自分をうちに宿す者としてふさわしく彼らを保ち、彼らが心の中で何を歓待するかに絶えず気を配り、ご自分の宮が汚れなく保たれているときお喜びになる。ジムリの罪をひときわ重くしたのは、彼が、民の罪のために泣いていたモーセや他の人々の面前で、姦淫の女を会衆の中に連れ込んだことにあった(民25:6)。それでは、何らかの情欲を手ぬるく扱ったり、それが心に住みつくのを許したりするのは、はなはだしく重い罪ではないだろうか? その心は、(信仰者であれば確実に)聖霊のしらみつぶしの注視のもとにあり、聖霊は、ご自分の幕屋をきよく聖なるものに保とうと心を砕いておられるからである。
(2.) それによって、主イエス・キリストは新たな痛手を受ける。心のうちにある主の新しい創造は痛手を受け、主の愛は踏みつけにされ、主の敵は喜ばされる。罪に惑わされて、主を完全に打ち捨てることが、主を「もう一度十字架にかけて、恥辱を与える」のと同じであるように[ヘブ6:6]、主が滅ぼそうとしてやって来られた罪を心にかくまうたびに、それは主に傷を負わせ、主を悲しませるのである。
(3.) それは、人がその世代にあって用いられる者となる機会を奪い去る。その人の働きも、努力も、労苦も、めったに神からの祝福を受けることはない。もしその人が説教者であるなら、神は通常その牧会の評判を落とし、八方ふさがりの中で働かせ、何の成功も与えず、神のためのいかなるわざも行なわせない。同じことが、他の状況についても云えよう。今日の世の中には、あわれな、ひからびた信仰告白者がたくさんいる。少しでも美しく、栄光に包まれて歩んでいる者の、何と僅かしかいないことか! 信仰者たちのあらかたの、何と不毛で、役立たずなことか! この悲しい状態の原因としてあげられる多くの理由の中で、残念ながらこのことは決して小さくない部分を占めているのではないだろうか。――すなわち、多くの人々は、霊をむさぼり食らう数々の情欲をその胸中にいだいており、それらが彼らの従順の根元に木食い虫のようにもぐりこんでは、日に日にそれをむしばみ、弱めているのである。いかなる恵みも、また何らかの恵みを発揮し用いるべきいかなる方法や手段も、こうしたことにより害を受けている。また、何かが成功しそうに見えても、神はそうした人々の企てをしなびさせてしまう。
こういうわけで、これが私の第二の指針である。これは、魂に常時巣くっている情欲に抗して持ち出すべき考え方に関わるものであった。情欲の咎と、危険と、害悪について、これらを始めとする考えを、常に心に生き生きととどめておくがいい。こうした事がらを、よくよく瞑想するがいい。心でこうした事がらを熟考し、いつまでも忘れないようにするがいい。こうした数々の理由を考え抜くがいい。うむことも、たゆむこともなく、それらがあなたの魂に力強い影響を及ぼし、――魂を身震いさせるようになるまで、考え抜くがいい。
(第11章につづく)
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