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第9章

前述の場合に関する個々の指針が提示される――《第一に》、何らかの情欲に危険な徴候が伴っていないか考えてみること――1. 頑固さ――2. その影響下で平安が得られる:それがなされる、いくつかの手口――3. その誘いがしばしば成功する――4. それに対する魂の戦いが結果による議論によってのみ行なわれる――5. それに裁き的な厳しさが伴う――6. それが神からの個々のお取扱いに抵抗する――こうした事がらが見いだされる人々の状態

 III. ここまで述べてきた一般的な規則を前提として、次に来るのは、何らかの情欲、あるいは霊的疾病によって平静を奪われていると感ずる魂の導きとなる、個々の指針を提示することである。それこそ私の主たる目当てにほかならない。さて、こうした指針のうち、あるものは予備的なもの、準備的なものであり、あるものは、このわざそのものをふくんでいる。その第一の種類のものとして云いたいことは、以下の通りである。――

 《第一に》、あなたの情欲に、何か危険な徴候が伴っていないかどうか、付随していないかどうかを考えてみるがいい。――果たしてそれは、何らかの致命的な目印を帯びているだろうか。もし帯びているとすれば、荒療治が必要である。通常の抑制の方法では役に立たない。

 だが、あなたは云うであろう。「一体あなたの仰る、その危険な目印や徴候とは――人間の内側に巣くう情欲の、その絶望的な付随物とは――何なのですか?」、と。そのうちのいくつかを、ここであげてみよう。――

 1. 頑固さ。――もしその情欲があなたの心の中で、長年、ただれるままに放置されてきたとしたら、また、あなたがそれを大いにはびこるままにまかせてきたとしたら、また、それを殺そうと力を尽くすことも、その情欲によって受けた傷を癒すことも、それなりの長期間にわたって全くなかったとしたら、あなたの霊的疾病は危険なものである。あなたは、世俗的な欲望や、野心や、貪婪な知識欲によって、神とのたゆみない交わりを続けるために必要な種々の義務がむしばまれていくのを、それなりの長期間にわたって許してきただろうか? あるいは、くだらない、愚かで、よこしまな想像によって、不潔な思いが自分の心を汚すのを、長いこと許してきただろうか? だとすると、あなたの情欲には危険な徴候がある。ダビデの場合がそうであった。「私の傷は、悪臭を放ち、ただれました。それは私の愚かしさのためです」(詩38:5)。ある情欲が心の中で、長い間、ただれ、腐り、腐食していくままにまかされてきたとき、それは魂を惨めな状態に至らせる。そのような場合、通常のへりくだらされ方では役に立たない。いかなる情欲であれ、そうした手段をとると、多かれ少なかれ、魂の精神機能のすべてに徐々にしみ込んでいき、種々の感情を手なづけ、自らの仲間、友人に引き入れてしまう。精神も良心も、それになじんでしまい、その現われを異として驚くどころか、平然となれあうほどになる。しかり、このような手段をとると、それは、隠然たる勢力を築き上げては、しばしば大きな力をふるい、圧倒的な影響力を及ぼすようになる。ヨセフもそのような状態にあったらしいことは、彼が、パロのいのちにかけて誓ったことからうかがえる[創42:15]。何らかの非常手段を採らない限り、そのような人が平穏な最期を迎える見込みは全くない。

 というのも、第一に、その人は、いかにすれば、抑制されていない情欲の長逗留と、新生した人に降りかかるはずのない罪の支配との区別をつけることができるだろうか? 第二に、いかにすれば、今までと違う自分になることや、情欲によって平静を奪われたり罪に誘われたりしなくなることが期待できるだろうか? その情欲は、自分の内側に、それもこれほどの長年の間、固着し、住みつき、自分がいかに多種多様な状態に経てきたときも、へこたれなかったのである。それは、いかなるあわれみをも患難をも物ともせず、ことによると、魂が特に銘記せざるをえなかったほど鮮やかなあわれみや患難をもしのいできたものかもしれない。多くの嵐に耐え抜き、みことばをとりつぐ多種多様な賜物のもとでも、もちこたえてきたものかもしれない。では、こうした、永年居住による所有権をたてに抗弁する同居人を、簡単に追い出せるだろうか? 放ったらかしにされてきた古傷は、しばしば致命的なもの、また例外なく危険なものである。内側に巣くう霊的疾病は、安逸と平穏をむさぼることによって、手に負えない頑強なものになってしまう。情欲という同居人は、長年の慣習による居住権を云い立てることができる場合には、簡単に叩き出せるものではない。それは、自然に死に絶えるようなものでない以上、日々殺されていないと、常に力を増し加えるのである。

 2. 何らかの情欲が住みついているにもかかわらず、心が、どうか自分を手ぬるく扱ってほしい、自分の平安を乱さないでほしい、とひそかに訴え、何らそれを抑制しようという福音的な努力をしない場合、それは、心に致命的な霊的疾病がとりついている、もう1つの危険な徴候にほかならない。さて、このようになされる手口はいくつかある。その一部をあげてみよう。――

 (1.) 人が、罪を駆除しようと真剣に取り組むかわりに、考えにおいて、罪についての考えを混乱させ、自分の心を探っては、良い状態を示す証拠が何かないか見てとろうとし、その罪と情欲にもかかわらず、平穏無事にやっていこうとする場合。

 人が自分の神体験を想起し、思い起こし、考えを巡らし、考察し、玩味し、活用するのは、ことのほかすぐれたことである。――それは、あらゆる聖徒たちによって実践され、旧約聖書でも新約聖書でも推賞されている義務である。これこそダビデが、「自分の心と語り合い」、主の以前のいつくしみ深さを思い起こした際に行なったわざであった[詩77:6-9]。これこそ、パウロが私たちに実践するよう求めている義務である(IIコリ13:5)。また、これは、それ自体すぐれたものであるだけでなく、しかるべき時期、すなわち、試練や誘惑に遭う際には、あるいは、罪のため平静を奪われる際には、さらに美しさを増す。――それは、ソロモンが語っているように、この金のりんごをはめこんでいる銀の彫り物である。しかし、間違った目的のためにそれを行なうこと、すなわち、それとは別のことをせよという叫び声、呼び声をあげている良心をなだめるためにそれを行なうことは、罪を愛する心の絶望的なやり口である。ある人の良心が非を鳴らしているとき、また、神が心の罪深い霊的疾病のゆえにその人を叱責しておられるときに、もしその人が、その罪にキリストの血による赦しと、その御霊による抑制とを求めるかわりに、自分が有している――あるいは、有していると思い込んでいる――何か他の証拠によって心を軽くしようとし、キリストが首にかけてくださったくびきから自分をもぎはなそうとするなら、その人の状態は非常に危険なものであり、その人の傷はほとんど治癒不可能である。そのようにして、あのユダヤ人たちは、自分自身の良心の苦悩と、私たちの《救い主》の、首肯せざるをえない説教とに気圧されている自分を支えようとして、われわれは「アブラハムの子孫だ」、だから神に受け入れられているのだ、と云い立てた[ヨハ8:33]。このようにして彼らは、極度に忌むべき邪悪さのうちにある自分自身を手ぬるく扱って、完全な破滅に至ったのである。

 これは、ある面、自分自身を祝福することであり、「たとえ神が潤ったものも渇いたものもひとしく滅ぼす」*にせよ、何らかの理由により自分には平和がある、と云うことにほかならない[申29:19]。このような心持ちを一皮むけば、罪への愛と、神から来る平安と愛の実感への軽視がむき出しになるであろう。そうした人は、あからさまに、こう示しているのである。もしも、「必ず来る御怒り」[マタ3:7]をのがれられる希望が持てさえするなら、自分は、この世でどれほど不毛な歩みをしようが、神とどれだけ疎遠になろうが――それが最終的な分離でない限り――何1つ不満はないのだ、と。このような心持ちから、何が期待できるだろうか?

 (2.) 何らかの抑制されていない罪、あるいは抑制しようという真摯な努力が払われていない罪に、恵みとあわれみをあてはめることによっても、こうした欺瞞は行なわれる。これは、罪への愛にがんじがらめにされた心のしるしである。ある人が、その心の中にひそかな思いをいだいており、それが、あのナアマンがリモンの神殿で礼拝することを願った際の思いと似たようなもの[II列5:18]、「他のどんなことででも神とともに歩みますが、どうかこのことにおいては、神よ。私をあわれんでください」、というようなものであるとき、その人は悲しい状態にある。確かに実際、あわれみをたてに取って、自分を何らかの罪にふけらせておこうとするような決意は、だれが見ても、また事実まぎれもなく、キリスト者的な真摯さとはちぐはぐなものであり、偽善者の徽章であり、「神の恵みを放縦に変え」ることである[ユダ4]。だが、神の子どもたち自身でさえ、サタンの術策と自らに残存する不信仰とによって、時としてこうした罪の欺きに足をすくわれてしまうことがありうることも、私は疑っていない。さもなければ、決してパウロは、このことについて、あれほど強い警告を与えはしなかったであろう(ロマ6:1、2)。しかり。実際、肉的な論法にとって何よりも自然なのは、こうした理由で高ぶり、厚かましくふるまうことである。肉は恵みを、また、あわれみについて語られた一語一語をもとに、甘え放題に甘えたがり、その腐り果てた目当てと目的のために歪曲しようと、それらに飛びつこうとして、虎視眈々待ち受けているのである。ということは、力の限り抑制されていない罪にあわれみをあてはめるのは、福音をねじまげようとする肉の思うつぼということになるであろう。

 これらをはじめとする多くの方法や策略を駆使して、陰険な心は、おのれの忌まわしい状態が手ぬるく扱われるように画策することがある。さて、罪ある人がこのような状態にあるとき、すなわち、自分の心にはびこっているその罪をひそかに愛好しており、たとえ、まっこうから自発的にのめりこもうとはしなくとも、それを行ないたいという、半端で、かすかな意欲を有している場合、その人は、あれこれ引き留める理由がない限り、それを実行してしまうであろう。また、そうなってもすぐに、何だかんだと理屈をつけては、心をなだめようとするであろう。だが、罪の抑制と、キリストの血による罪の赦しという方法だけは用いようとしないはずである。そして、その人の「傷は、悪臭を放ち、ただれ」[詩38:5]、早急に解放されない場合、その人は死の戸口に立つことになるであろう。

 3. 罪の誘いがたび重なる成功をおさめ、その罪に意志が決まって同意することも、もう1つの危険な徴候である。どういうことかというと、そうした罪が、それなりの喜びとともに、意志の同意を得るとき、たとえ現実にその罪が表立って犯されないとしても、それは成功をおさめたのである。人は、種々の外的な理由により、外的な罪の行為という点にかけては、ヤコブが「熟する」と呼ぶ段階[ヤコ1:14、15]までは罪に携わらないかもしれないが、それでも、罪を犯そうと云う意志は、実際に得られていることがありえる。そのとき、それは成功をおさめたのである。さて、もし何らかの情欲が、ある人の魂の中で大きな優位を占めることができ、その人が、へたをすれば非常に悪い状態にあるとか、その人自身、まだ新生していないかもしれない、というような場合、どう考えても、それは良好な状態とはいえない。危険なものである。これは、意志の選択によってなされたものであろうと、疎漏さによってなされたものであろうと、みな同じことである。というのも、その疎漏さそのものが、ある意味、選ばれたものだからである。私たちは、警戒し注意を払わなくてはならない状況下で、疎漏で怠慢を決め込んだ場合、自分が疎漏であったからといって、その疎漏さにより行なわれたことから自発性が失われるわけではない。というのも、たとえ人々は、自分から進んで怠慢で疎漏であろうと決意したわけでなくとも、自分を怠慢で疎漏な者にするだろう物事を選び取っているとすれば、疎漏さそのものを、その原因なるものを通して選び取っているからである。

 そしていかなる人も、自分が、大概の場合、不意をつかれて同意を与えているように思えるからといって、自分の心の悪どさが、少しでも軽くみなされるなどと考えてはならない。というのも彼らは、自分の心を見張るという義務を怠ることによって、そのような不意打ちをくっているからである。

 4. ある人が、事の結果による議論によってのみ、あるいは当然もたらされる罰によってのみ、自分の罪と戦っている場合、それは、罪が意志のあらかたを所有してしまっており、その心の中に多大な邪悪さがあるという、1つのしるしである。人が、自分の心の中の罪と情欲の誘いに対抗して置けるものが、単に、世間における恥であるとか、神からの地獄しかない場合、その人は、それに何も罰が伴っていないとしたら、その罪を行なう決意を十分に固めているのである。それが現実に罪を行ないつつ生きることと、どう違うのか、私にはわからない。キリストのものである人々や、福音の諸原理に力強く服従している人々には、キリストの死と、神への愛と、罪を嫌悪する性質と、神との交わりを尊ぶ思いと、深く根ざした、罪を罪として忌み嫌う感覚と、罪のいかなる誘いにも反抗し、自分の心の中で罪に対して労し、苦闘し、戦おうとするあらゆる思いが備わっている。ヨセフはそのようにしていた。彼は云っている。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」(創39:9)。また、パウロがそうであった。「キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです」(IIコリ5:14)。「私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ……ようではありませんか」(IIコリ7:1)。しかし、ここで、もしある人が、自分の情欲の強大な支配下に置かれ、律法によってしか、それに対抗できないという場合、また、その人が、福音の種々の武器によってはそれと戦うことができず、地獄と審き――律法に特有の兵器――によってしか応対できないという場合、何にもまして明らかなのは、罪がその人の意志と感情を、圧倒的に優勢な度合で所有し、占領している、ということである。

 そのような人は、語られている個々のことに関しては、更新の恵みによる品行を振り捨てているのであって、抑止の恵みによってのみ、破滅から守られているのである。そして、その人は、その分だけ恵みから落ちて、律法の力のもとに立ち返っているのである。そして、考えてみるとこれは、キリストにとって大きな憤慨の種ではないだろうか? そうした人々は、ただ単に、自分の情欲にふけりたいがために、キリストの負いやすく、優しいくびきとご支配を振り捨てて、律法という鉄のくびきのもとに進んではいりたがっているのである。

 別のことでも、自分をためしてみるがいい。あなたが罪に駆り立てられて、追いつめられ、2つに1つの選択、すなわち、罪に仕え、その号令によって、戦場に赴かされる軍馬のように愚行へ突進させられるか、それを抑えて立ち向かうか、そのどちらかを選ばなくてはならない場合、あなたは自分の魂に何と云うだろうか? ただ単に、――「この道筋の最後は地獄だぞ。神に復讐されて、罰を受けるぞ」、と云うだけだろうか? ならば、いいかげんにあなたは、自分の立場を考えてみるべきである。災厄は身近に迫っている。罪が信仰者を支配しないことを証明する、パウロの主たる議論は、彼らが「律法の下にはなく、恵みの下にある」ことである(ロマ6:14)。もし罪に対するあなたの抗争の一切が律法的な根拠に立っており、もろもろの律法的な原則と動機から出たものだとしたら、あなたは、罪があなたを支配することがない、すなわち、あなたの破滅となることがない、といういかなる確証を得られるだろうか?

 しかり。この予備兵力が、長くは持ちこたえられないこともわきまえておくがいい。もしあなたの情欲があなたを、より堅固な福音の城砦から追い立ててしまっているとしたら、それはたちまちこの砦をも押しつぶすであろう。あなたは、こうした数々の理由によって、自分が解放されると考えているだろうか? あなたが、これらよりも一千倍も強大な、自分を守るための助けと手段を、みすみす敵に明け渡しているというのに、そのようなことが考えられるだろうか? このことは確信しておくがいい。こうした状態から早急に回復しない限り、あなたが恐れているものは、じきにあなたに襲いかかるであろう。福音の諸原理が行なっていないことを、律法の諸動機は行なうことができない。

 5. あなたの平静を奪っている情欲の中に、何らかの裁き的な厳しさか、少なくとも懲らしめとなる罰がある場合、あるいは、それらがある可能性がある場合。これも危険な徴候である。時として神が、ご自分の民をすら、少なくとも何らかの情欲あるいは罪の惑乱させる力のもとに放置し、彼らを以前のもろもろの罪や怠慢や愚行について懲らしめなさることを、私はみじんも疑わない。このため教会は、あのような不満を口にしているのである。「なぜあなたは、……私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか」(イザ63:17)。これが、新生していない人々を扱う神のなさり方であることは、だれにも疑問があるまい。しかし、人はいかにすれば、自分が霊的疾病の惑乱の中に放置されていることに、少しでも神の懲らしめの御手があるかどうかがわかるだろうか? 答え。あなたの心と生き方を吟味するがいい。あなたは、今それほど不満を述べているその罪に巻き込まれる前は、いかなる魂の状態と状況にあっただろうか? あなたは種々の義務について怠慢だっただろうか? 無節制に自分のために生きていただろうか? 何か大きな罪の咎が、悔い改めもしないまま放ったらかしにされてはいないだろうか? 古い罪を思い起こさせるために、新しい罪が許されることも、新しい患難が送られることと同じようにありえる。

 あなたは、ことにすぐれたあわれみと、保護と、解放とを何か受け取ったにもかかわらず、それをしかるべきしかたで活用することも、感謝することもしなかっただろうか? あるいは、何らかの患難に悩まされていた際に、それが定められた目的のために、労することがなかっただろうか? あるいは、自分の世代にあって、神の栄光を現わす機会があったのに――神が、その賢明な摂理によって、その機会を恵み深くも与えてくださったのに――、それを十分生かすことがなかっただろうか? あるいは、あなたが生きている時代にあふれている数々の誘惑によって、この世や、世の人々にならって歩んでいただろうか? もしあなたが、このような状態にあったことに気づくとしたら、目を覚まして、神を呼び求めるがいい。あなたは、あなたのまわりに荒れ狂う御怒りの嵐の中で眠りこけているのである。

 6. あなたの情欲が、すでに神のお取り扱いを何度も受けてきたにもかかわらず、それに抵抗してきた場合。こうした状況を物語るのが、イザ57:17である。「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って彼を打ち、顔を隠して怒った。しかし、彼はなおそむいて、自分の思う道を行った」。神は、彼らの間ではびこっていた情欲について、すでに彼らをお取り扱いになっていた。しかも、いくつもの方法によって――患難と、霊的隔絶によって――そうなさっていた。だが彼らは、それらに屈そうとしなかった。これは悲しい状況である。純然たる主権的な恵み(神が、その次の節で表現しておられるような恵み)のほか何物をもってしても、それは救いようのない状況、いかなる人にも何の望みもなく、決して耐え抜けない状況である。神はしばしば、その摂理的なご経綸によって人と向き合い、その心の中にある悪に向かって、個別にお語りになる。それこそ、弟をエジプトに売り飛ばした非について、神がヨセフの兄たちに対して行なったことにほかならない。これにより、その人は、自分の罪を思い巡らし、特にその罪に関して自分を審くことになる。神は特に、その人が陥っているか、くぐらされている危険や、患難や、困難や、病によって、それを伝えようとなさる。時として神は、みことばを読んでいる人が、心を切り裂くような何かから目を離せなくなり、自分の現在の状況について揺り動かされるようになさる。より頻繁にあるのは、みことばの説教――人の罪の確信と、回心と、建徳とのための、神の偉大な定め――を聞いている際に、神が人々とお会いになる場合である。この定めにおいて神はしばしば、ご自分のみことばの剣によって、人々を切り倒し、彼らの最愛の情欲に直接一撃を加え、罪人をはっと驚かせては、その心の悪の抑制と放棄へと携わらせようとなさる。さて、もしその人の情欲が、その人をがっちり捕えており、こうした主のかせをも打ち砕き、こうした綱をも解き捨てようとするとしたら、――もしその情欲がこうした罪の確信を打ち負かし、前と変わらないありさまに舞い戻るとしたら、――もしその情欲がおのれの受けた傷を癒せるとしたら、――その魂は悲しい状況にある。

 このような心持ちには、云い知れないほどの悪が伴っている。このような状態にある人に対する、個々の警告1つ1つは、測り知りがたいあわれみである。では、それを拒否することによってその人は、そうしたあわれみを差し出しておられる神を、いかに蔑んでいることか! また、そのような者を振り落とし、決してわたしの安息にはいらせない、と怒りをもって誓うことをなさらないとは、何という神の無限の忍耐であろう!

 ある情欲が、命取りとまでは云わなくとも、危険なものであることを示す証拠は、他にも数多くある。私たちの救い主が、あの悪霊について、「この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません」[マタ17:21]、と云われたように、私も同じことをこの種の情欲について云おうと思う。通常の抑制の方法では役に立たない。荒療治的な非常手段が供されなくてはならない。

 ここまでが、最初の個別的な指針である。あなたの戦っている情欲あるいは罪に、こうした危険な徴候が伴っていないかどうか考えてみるがいい。

 ついでながら、先に進む前に、ここまで語られたことによって、だれも惑わされないように、1つ注意しておかなくてはならない。確かに私は、上に述べたような事がらや悪が、真の信仰者にもふりかかりうるものだと云ったが、自分のうちにこうした事がらを見受けられるからといって、だれも、それゆえ自分は真の信仰者なのだ、などと結論してはならない。こうした悪は、信仰者も陥ること、足をさらわれることがありえる悪ではあるが、信仰者を信仰者たらしめている要素ではない。上述した種々のしるしから、自分は信仰者だと結論するのは、ダビデが姦淫の罪に陥ったのだから、姦淫者である自分も信仰者に違いない、と結論するのと同じである。否、これらは、信仰者の心の中にある罪の悪およびサタンの悪にほかならない。ロマ書7章には、新生したひとりの人の描写がふくまれている。その人の暗い側面、その人の罪深い部分、その人に残存している罪の激越さについて語られていることを考え、かつ、それと似たものが自分の中に見受けられるからには、自分も新生した者だ、などと結論する人は、見込み違いをするであろう。そうした理屈は結局こういうことになる。すなわち、賢い人も病気になったり、怪我をしたり、何か愚かなことを行なうことがありえる。それゆえ、病気になり、怪我をしていて、物事を愚かに行なう人は、全員、賢い人である、と。あるいは、魯鈍で、奇形的な姿をした者が、どこかの美しい人の噂を耳にし、その人には、その外観を大いに損ねる傷跡、あるいは、瘢痕が1つあると小耳にはさんだ際に、自分にもそうした傷跡や痣やいぼいぼがたくさんあるのだから、自分も美しいに違いない、と結論するのと同じである。もしあなたが、自分が信仰者であるという証拠を手にしたければ、それは、人を信仰者たらしめている事がらから引き出してこなくてはならない。自分の内側にこうしたしるしを有している人が、こう結論しても害はないであろう。「もし私が信仰者だとしたら、私はだれよりもみじめな信仰者だ」、と。しかし、そうだとしても、平安を得たければ、その人は別の証拠を探さなくてはならない。

(第10章につづく)

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