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第8章

第二の一般的規則が提示される----あらゆる情欲を抑制しようという全面的な真摯さがなくては、いかなる情欲も抑制されない----部分的な抑制は常に腐敗した原理から生ずる----ある情欲の誘惑から来る苦悩は、しばしば別の方面におけるだらしなさへの懲らしめ

 2. 抑制ということにおける第二の一般的規則を私はこのように提示したい。----

 あらゆる点で真摯に、また熱心に服従しようとしない限り、心を悩ませるいかなる情欲を抑制することもできない。

 先の規則は、行なう人についてであったが、この規則は、行なうことそのものについてである。この見解について少し説明したい。

 ある人が、何らかの情欲のために、前述したような状態に陥っていることに気づいたとする。その情欲は強大で、力強く、心を激しくゆさぶり、とりこにし、悩ませ、騒がせ、平安を奪い去っているとする。その人は、それにがまんができない。それでその人は、断固としてそれに立ち向かい、それに反抗して祈り、その重圧の下でうめき、解放を求めてあえいでいるとする。しかしその間、ことによるとその人は、それ以外の義務において、----神との絶えざる交わりにおいて、----聖書を読むこと、祈ること、瞑想することにおいて、----いま悩んでいる情欲とは別の種類の方面において、----たるんだ、だらしないあり方をしているとする。こうした場合その人は、決して自分の悩みの種となっている情欲を抑制できるなどと考えてはならない。これは、少なからぬ数の人々が、その人生行路において陥る状態である。イスラエル人は、自分たちの罪を痛感し、非常な勤勉さと熱心さ、断食と祈りとをもって、神に近づこうとしていた(イザ58)。このわざにおいて、いかに彼らが熱心であったかは、縷々述べられている。「彼らは日ごとにわたしを求め、わたしの道を知ることを望んでいる。……彼らはわたしの正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを望んでいる」(2節)。しかし神は、そのすべてを拒否された。彼らの断食は、彼らを癒す治療薬にはならなかった。ここでその理由として述べられているのは、彼らがその義務において選り好みをすることにあった(5-7節)。彼らは断食には熱心に励んだが、その他の務めはおろそかにし、気を配らなかった。ある人が、からだの悪習慣や、不摂生や、粗悪な食事によって、「うみの出る」傷(これは聖書の表現である)を生じさせた場合、たとえどれほど勤勉に、またどれほど理に適ったしかたでその傷の治療に専念したとしても、もしそうした疾病を患うからだの全般的な習慣の方を放ったらかしにしておいたなら、その労苦や骨折りは無益である。これと同じように、自分の魂が生臭い罪と汚物を垂れ流すのをとめようとしながら、自分の霊的体質や霊的健康には、それほど全面的に気をつかおうしない人の努力は無駄になるであろう。なぜなら、----

 (1.) この種の抑制を行なおうとする努力は、腐敗した原理、根拠、土台から生じており、決して良い実を生じさせないからである。真実で、受け入れられる抑制の原理については後の方で論ずることにしたい。罪を、単に厄介な悩みの種としてだけでなく、罪を罪として憎むこと、十字架のキリストに対して愛を感ずること、これらこそ、いかなる真の霊的抑制の根底にも横たわっているものである。では、私がいま語っているような抑制は、まさしく自己愛から生じたものに違いない。あなたは、精一杯熱心に、また真剣に、そうした情欲あるいは罪を抑制しようと励んでいる。その理由は何だろうか? それは、あなたの心を騒がせ、あなたの平安を取り去り、あなたの心を悲しみと悩みと恐れで満たしてきた。そのためにあなたは安らうことができない。それは事実である。だが、友よ。あなたはこれまで祈ることも、聖書を読むこともないがしろにしてきた。あなたを悩ませる情欲とは別種の方面においては、あなたは愚かしく、だらしない生き方をしている。だが、そうした方面での罪や悪が、今あなたにうめき声をあげさせている情欲よりも軽いということはない。イエス・キリストはそうした罪や悪のためにも血を流されたのである。ではなぜあなたは、そうした罪や悪にも断固立ち向かおうとしないのか? もしあなたが罪を罪として憎み、あらゆる悪の道を憎むのであれば、あなたは、自分の魂を悲しませ騒がせるものに対して警戒するのと同じくらい細心の注意を払って、神の御霊を悲しませ騒がせるあらゆることに対して警戒するであろう。明らかに、あなたがと戦っているのは、それがあなたに厄介をもたらすためにほかならない。その罪の下で良心を安んじていられるとしたら、あなたはそれを放っておくであろう。それが心を騒がせなかったとしたら、あなたがそれを攻めたてることもなかったはずである。さて、あなたは神が、このような偽善的な努力を受け入れてくださると考えられるだろうか?----ご自分の御霊が、やむことなくあなたの霊の不実さと欺瞞を証言しているというのに。あなたは神が、あなたの悩みのもとを取り除いてあなたを楽にしてやり、みすみすあなたが、それと同じくらい神を悲しませる物事を存分に行なえるようにしてくださるなどと思うのか? 否。神は云われる。「この者は今はここにこうしているが、この情欲を取り除くやいなや、二度と私のもとに来て訴えの声をあげるようなことはすまい。では、この者にはこの情欲と格闘させ続けておこう。さもないと、この者は滅びてしまう」、と。神のわざを行なうことのない、自分だけのわざを行なおうなどと、決して考えてはならない。神のわざは全面的な服従のうちに存する。いま現在の悩みから解放されようとするのは、自分だけのわざでしかない。だからこそ使徒は、「いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全う」せよ、と述べるのである。(IIコリ7:1)。私たちは、何か1つを行なうのなら、すべてを行なわなくてはならない。それゆえ、あれやこれやの特定の情欲に向かって決然と反抗するだけでなく、あらゆる悪に向かっておさおさ怠りなく、油断せずにあらゆる義務を果たそうとする全面的にへりくだった心構えと気質こそ、受け入れられるのである。

 (2.) 今あなたを悩ませているような情欲が、あなたの内側で力をつけ、あなたを支配するようなことを神がお許しになったのは、それ以外の方面で、神の御前を歩むあなたの歩みがだらしなく、日常生活がなまぬるいことを懲らしめるためではなかろうか? 少なくとも、あなたを覚醒させ、自分の生き方を考えさせ、神とともに歩むあり方を精密に点検させ、改善させるためではなかろうか?

 ある特定の情欲が猛威をふるい優勢になるのは、大体の場合、不注意でだらしのない生き方全般から生じた結果である。その理由は2つある。----

 [1.] こう云ってよければ、その自然な影響としてそうなるのである。先に一般論として示したように、情欲はあらゆる人の心に、----最良の人々の心にさえも----その人が生きている限りは、ひそんでいる。聖書は、あだやおろそかにそれを狡猾で、人を欺く、悪賢いもの、----人を惑わし、そそのかし、争うものと語っているわけではない。人が力の限りに自分の心と、その根底を見守り、----その、いのちと死との源泉たる心を、いかなる持ち物にもまして厳重に見張っている限り、情欲は、心の中でひからび、衰弱していく。しかしもし情欲が、だらしない生き方のために何か特定の形をとって吹き出し、感情によって思念に渡りをつけ、そこから、それを用いて、生活の中に公然たる罪を突発させることがあるような場合、その情欲は、いったん突破口を見いだした方向に怒涛のような力を加え続け、しまいには、そうした罪が常道となっては心を悩ませ、騒がせ、容易には押しとどめられなくなるのである。このようにして人は、ことによると、全面的な見張りを厳重にしていさえしたら簡単に防げたかもしれないものによって、一生の間、悲しみながら葛藤を続けざるをえなくなることがあるのである。

 [2.] 先に述べたように、神はしばしば情欲がはびこることを許して、他の方面における私たちのだらしなさを懲らしめることをなさる。というのも神は、邪悪な人々に対しては、彼らを1つの罪のさばきとして別の罪に引き渡し、小さな罪の罰として大きな罪へ、あるいは、解放されることもできたはずの罪に引き替えて、より一層彼らを固く縛りつける罪へと引き渡すことをなさる*1が、ご自分の民である者らに対してさえも、時として彼らを、何らかのいらだたしい疾病へとゆだねて、何らかの他の悪を防ぐか癒すかすることがおできになるし、実際にそうなさる。このためサタンの使いはパウロに向かって解き放たれたのである。それは彼が、「霊的啓示のすばらしさのあまり、高ぶることのないように」*するためであった*2。ペテロが自分の師を否定するのを見過ごしにされたのは、彼のひとりよがりな自信を矯正するためではなかったろうか? さて、もしこれが、情欲が力を得て勢いを増す理由であり、説明であるとしたら、----すなわち、神がしばしばそうした情欲をはびこるままにまかせるのが、少なくとも私たちを訓戒し、へりくだらせるため、あるいは、ことによると私たちを、普段のたるんだ、不注意な生き方のために懲らしめ、矯正するためであるとしたら----果たしてその結果だけ取り除いて、その原因は野放しにしておくことなどできるだろうか?----特定の情欲を抑制し、全般的なありかたは改革せずにおくなどということができるだろうか? だとすれば、何らかの心騒がせる情欲を本気で、徹底して、また受け入れられるように抑制したいという人はだれでも、よくよく注意して、あらゆる部分において同じように熱心に服従しなくてはならい。また、自分にとって厄介な情欲は1つしかなくとも、神にとっては、いかなる情欲であれ、いかなる義務における怠慢であれ、すべてが煩わしいものであることをわきまえていなくてはならない*3。心に不実さがでんと腰を据え、あらゆる点において完全に服従しようと励む努力を怠っている限り、魂は弱いままであって、信仰を余すところなく働かせようとはしないであろう。また利己的なままであって、罪の汚らわしさや咎目のことよりも、罪による困難のことの方を考えるであろう。また、絶えず神の怒りを招く生き方を続けるであろう。そのようにして、それは、いかなる霊的義務に携わろうと何の満足いく結果も期待できないであろう。いわんや、いま考察しているようなこと[罪の抑制]においては、はるかに乏しい結果しか期待できまい。これを達成するには、霊のうちに、全く異なる原理と心構えがなくてはならないからである。

(第9章につづく)


*1 ロマ1:26[本文に戻る]
*2 IIコリ12:7[本文に戻る]

*3 イザ43:24

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