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第7章

いかなる情欲を抑制する際にも不可欠となる一般的規則----信仰者でない者にはいかなる抑制もありえない----未回心の人々が罪の抑制を試みる危険----この抑制という務めに関して未回心の人々がなすべき義務が考察される----ローマカトリック教徒による抑制の試みと、そのために規定された規則のむなしさが暴かれる

 II. 次に考察すべきことは、サタンが特定の情欲や罪を用いてある魂の平静を乱し、弱めている場合、それらを抑制するために取りうる方法手段である。

 さて、このわざに取りかかる際の原則について、いくつか一般的な前提をあらかじめ述べておくべきであろう。それなしには、この世のいかなる人が、どれほど強く罪を確信し、どれほど堅い決意のもとに罪を抑制しようとしても、目的を果たすことはできない。

 いかなる罪を抑制する際にも不可欠となる一般的な規則および原則とは以下の通りである。----

 1. 人は信仰者でない限り----すなわち、キリストに真に継ぎ合わされていない限り----いかなる罪をも決して抑制できない。自分が信仰者であるとの自覚を持たない人には決してできない、とまでは云わないが、人が真に信仰者となっていない限り決してできない。

 抑制は信仰者のわざである。「もし御霊によって……殺すなら」、云々(ロマ8:13)。----これは、もしあなたがた、罪に定められることが決してない(1節)とされる信仰者が殺すなら……、ということである。彼らだけにしかこのことは勧告されていない。「ですから、地上のからだの諸部分……を殺してしまいなさい」(コロ3:5)。だれが殺すべきなのか? あなたがた、「キリストとともによみがえらされた」者である(1節)。その「いのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてある」者である(3節)。「キリストとともに、栄光のうちに現われ」る者である(4節)。未回心の者らもこのわざの真似事は行なえるかもしれない。しかし、神に受け入れられる本物のわざは決して実行できない。衆知のように、何人かの哲学者たち----セネカや、キケロや、エピクテトスら----の著作には、そうした人間像が描かれている。世と自我を蔑視する態度、度はずれた情愛や情動をことごとく規制し克服する生き方を、いかに彼らは切々と説いたことか! だが彼らの大多数の実生活が明らかに示しているのは、彼らの種々の格言と真の抑制とは、道標に描かれた太陽と天空にかかっている太陽ほどにも異なっていた、ということである。彼らと同時代人の風刺作家ルキアノス自身、彼らがみないかなる者であったかを十分明らかにしている。キリストの死なくして罪の死はありえない。衆知のようにローマカトリック教徒は、それを目指して、誓願や苦行や懺悔といった幾多の試みを行なっている。こうした人々(つまり、彼らのいわゆる「教会の諸原則」に基づいて行動しているすべての人々)のことを、あえて私は、パウロが義という点でイスラエルについて語ったのと同じように云いたい(ロマ9:31、32)。----彼らは抑制を追い求めながら、その抑制に到達しなかった。それはなぜか? 「信仰によって追い求めることをしないで、律法の行ないによるかのように追い求めたからです」[32節 <英欽定訳>]。それと同じような状態の、同じような姿をした人々は、私たちの間にもいる。自分の罪の確信と、覚醒した良心とに動かされるまま、罪を捨てようとしている人はみなそうである。----彼らはそれを追い求めるが、それに到達しない。

 確かに、律法あるいは福音が宣べ伝えられるのを聞くすべての人に今も、そして将来も求められているのは、罪を抑制することである。それは、その人の義務である。しかし、それはその人のただちになすべき義務ではない。その人には、それをなすべき義務があるが、それは神の方法によって行なわなくてはならない。もしもあなたが自分のしもべに、これこれの場所に行き、しかじかの金を使ってきなさい、ただしその前に別な場所に行って金を集金してからにしなさい、と命じるとしたら、そのしもべが指定の金額を使うことは彼の義務であって、そうしない場合あなたはそのしもべを責めるであろう。しかし、それは彼がただちに行なわなくてはならない義務ではない。----彼はまず、あなたの指示に従って集金をしなくてはならないのである。事情は、この場合も変わらない。罪は抑制されるべきである。しかし私たちには、そうした抑制を行なえるようになるために、まず最初にしなくてはならないことがあるのである。

 先に証明したように、御霊のほか何者も罪を抑制することはできない。御霊こそ、それを行なうと約束されたお方であり、御霊を抜きにした他のいかなる手段もむなしく、無益である。では御霊を持たない人が、いかにして罪を抑制するというのだろうか? 目を持たない人がものを見、舌を持たない人が口をきくことの方が、御霊を持たない人が罪を1つでも抑制するよりもずっとたやすいであろう。それでは、いかにして御霊を持てるだろうか? これはキリストの御霊である。そして使徒が云うように、「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」(ロマ8:9)。ということは、もし私たちがキリストのものであり、キリストのうちにある祝福にあずかっているなら、私たちは御霊を持っており、私たちだけが抑制の力を有しているのである。これこそ使徒が詳細に論じている点にほかならない。「肉にある者は神を喜ばせることができません」(ロマ8:8)。これは、すでに前段で論じられ たような私たちの生来の状態や、そのありさま、また神およびその律法に対して生来いだいている敵意ということから、彼が引き出した推論であり、結論である。もし私たちが肉のうちにあるなら、もし御霊を持っていないなら、私たちには神を喜ばせるいかなることも行なえない。しかし、この状態から私たちが解放されるにはどうしたらよいのか? 「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです」(9節)。----「あなたがた、キリストの御霊を有する信仰者たちよ。あなたがたは肉のうちにはいないのだ」。キリストの御霊によるしか、肉の中にある状態とありさまから解放される道はない。だが、もしキリストの御霊があなたのうちにおられるとしたらどうであろうか? あなたは抑制されるのである。「からだは罪のゆえに」、あるいは罪に対して、「死んでい」る(10節)。すなわち、抑制がなされつつある。新しい人は義に対して生かされている。その証明として使徒があげているのが、御霊による私たちとキリストとの結合である(11節)。御霊は、キリストのうちでなさったことに通ずる、ふさわしい働きを私たちのうちにも生じさせなさるからである。ということは、キリストにある祝福にあずかっていないまま、情欲を抑制しようとする試みは、ことごとく無駄であるに違いない。罪ゆえに、また罪によって苦悩する多くの人々は、みことばの説教あるいは何らかの苦難によって、切っ先を鋭くとぎすまされた、罪の確信というキリストの矢じりが心をえぐるのを感じるとき、自分の良心を最も波立たせ、最も悩ませている、あれやこれやの特定の情欲に対して断固として立ち向かおうとする。しかし、あわれなことに彼らは火の中で労しており、彼らの働きは燃え尽きてしまうのである。キリストの御霊がこの働きをなさるとき、御霊は「精練する者の火、布をさらす者の灰汁のよう」になられ、人々を金のように、銀のように純粋になさる(マラ3:2、3)。----彼らの金かすと浮きかすを除き、イザ4:4にあるように、彼らの汚れと血とを取り除かれる。しかし人は、その根底において金銀でなければならない。さもないと彼らを精錬しても何にもならない。かの預言者が私たちに伝えているのは、邪悪な人々が自らを抑制しようとして、神から与えられたありったけの手段を用いて極限まで試みた末に迎えた悲しい結末のことである。「ふいごで激しく吹いて、鉛を火で溶かす。鉛は溶けた。溶けたが、むだだった。悪いものは除かれなかった。彼らは廃物の銀と呼ばれている。主が彼らを退けたからだ」(エレ6:29、30)。だがその理由はなぜか。彼らは、炉に入れられたとき、「青銅や鉄」だったのである(28節)。青銅や鉄をいくら精錬しても純銀にはならない。

 そこで私が云いたいのは、抑制は新生していない人々の現在なすべき務めではない、ということである。神はまだ、そうすることに彼らを召してはおられない。回心こそ----魂全体の回心こそ----彼らの務めである。あれこれやの特定の情欲の抑制ではない。大伽藍を建立しつつある人が、その土台に全く何の顧慮も払っていないとしたら、あざ笑われて当然であろう。特にその人が、ある日建てたものが翌日には倒壊しているという経験を何千回も繰り返していながら、そのやり方を全く変えようともしない愚か者であったとしたら、特にそうであろう。罪を確信した人々もそれと同じである。彼らは、ある日いかなる地歩を罪に対して得ても、翌日にはそれを失うということを何度となく目にしていながら、なおも同じ道を進み続け、自分の進み方に何か破滅的な欠陥がひそんではいないだろうかと問うこともしない。あのユダヤ人たちが自らの罪を確信し、心引き裂かれて、「私たちはどうしたらよいでしょうか」、と叫んだとき、ペテロは彼らに何をするよう命じただろうか? 行って、あなたがたの高慢や、憤りや、悪意や、冷酷さといったものを抑制するがいい、と告げただろうか? 否、ペテロは、彼らが現在なすべき務めがそこにはないことを知っていた。そして、キリストに対する回心と信仰という一般的な務めへ彼らを召した(38節)。まず魂を完全に回心させることである。その後で、「彼らは自分たちが突き刺した方を見」て、へりくだりと抑制へと進むであろう。そのようにヨハネも、悔い改めと回心を宣べ伝えに来たとき、「斧もすでに木の根元に置かれています」、と云った(マタ3:10)。パリサイ人たちは人々に重い荷を負わせ、飽き飽きするような義務や、断食や水の洗いといった厳格な抑制の手段を押しつけていたが、それはみな無駄であった。ヨハネは云う。「回心の教えこそあなたがたに必要なことである。私が手にある斧をあてているのは根元なのだ」、と。また私たちの救い主も、この件においてなすべきことを告げておられる。「ぶどうは、いばらからは取れない」(マタ7:16)。しかし、もしいばらが丹念に剪定され、刈り込まれ、入念に手入れされたらどうだろうか? 「それでも、それにいちじくはならない」*。いかなる木も、その性質に従って実を結ぶものである(17、18節)。それで主は、何をなすべきかを告げておられる。「木が良ければ、その実も良い」(マタ12:33)。根元を取り扱い、木の性質を変えなくてはならない。さもないと良い実がなることは全くないであろう、と。

 それこそ私の云いたいことである。人は新生した者となるまで、信仰者となるまで、いかに手を尽くして抑制しようと、またそれがいかに真実めいた有望なものと思われようと----すなわち、用いることのできるあらゆる手段を、その人がこれ以上ないほど勤勉に、熱心に、怠りなく、一意専心して追求しようと----、何の役にも立たない。世界中の治療薬をすべて用いても無駄である。それで癒されることはない。それどころか、罪を確信して切羽詰まった人々が、この務めを果たそうとして行なう努力には、種々雑多なすさまじい悪が伴うのである。----

 (1.) 心と魂が、その人の何よりもしなくてはならない務め以外のことに費やされ、本来の務めからそらされてしまう。神は、みことばや何らかの審きによって、その人のうちにある何らかの罪をとらえ、その人の良心を苛み、心を乱させ、平安を奪う。ここで、他のどのような気分転換を図っても解決にはならない。目の前にあるわざに身を入れなくてはならない。まず行なわなくてはならないのは、全人格を覚醒させて、自分がいかなる状態とありさまに陥っているかを考え、まっしぐらに神のみもとへ赴くことである。ところが、そうするかわりにその人は、自分を痛めつけている罪の抑制にとりかかり----今の悩みから解放されようとするだけで、自分が召されているわざに赴こうとしないこと、それは徹底した自己愛である----、そのようにして気分をそらしてしまう。だから神はエフライムについてこう告げておられる。神が、「彼らの上に網を張り、空の鳥のように彼らを引き落とし、……これを懲らし」*(ホセ7:12)、彼らを捕らえ、がんじがらめにし、逃れようもないほどにその罪を確信させたとき、神は云われる。「彼らは立ち返るが、いと高き方にではない」[7:16 <英欽定訳>]。----彼らは罪を放棄しようとするが、それは神が召しておられるような、心の全面にわたる回心によってではない。このようにして人は、行こうと思えば最も輝かしい道を通って神のみもとへ行けるのに、脇道へそらされてしまうのである。こうした欺きによって自分の魂を滅ぼす人々は非常に多い。惜しむらくは、神の事柄にしっくいで上塗りするのを商売とする者どもが、すでにこの欺きの教えを広めており、無知をいいことに人々を誤らせている。罪によって良心を苛まれ、またその良心を主につかまれて平安を奪われている人々が通常行なおうとすること、またしばしば行なうよう仕向けられることは何であろうか? その罪を捨てようとすることではなかろうか? 行なわないようにすることではなかろうか? 自分を苛むような実をもたらしつつある罪を放り出し、そうした罪に断固立ち向かい、戦う方向へ一心に突き進むことではなかろうか? そして、そもそも彼らに罪を確信させた当の福音的な目的は果たされないでしまうのではなかろうか? 人々はそうした状態どまりで、滅んでいくのである。

 (2.) この義務はそれ自体としては、またしかるべき時点でなされるならば良いものであり、心の誠実さを証しし、良心に深い平安をもたらすものにほかならないため、これに真剣に打ち込む人、特定の罪を心から憎み、それときれいさっぱり縁を切る決意を固めた人は、自分の状態やありさまが良いものであると思い込みやすく、これにより自分の魂を惑わすことになる。なぜなら、----

 [1.] その人は、罪によって良心を乱され、何の安らぎもなくなったときこそ、魂の偉大な医師のみもとに行って彼の血によって癒されるべきだったのに、罪に対するこの戦闘によって自分の良心をなだめ、安んじさせ、全くキリストのもとに行くことなく終わるからである。あゝ! いかに多くの哀れな魂がこのようにして惑わされたまま永遠に至ることか! 「エフライムがおのれの病を見たとき、彼は大王に人を遣わした」*(ホセ5:13)。そしてそれが彼を神から引き離したのである。ローマカトリック教の中身には、キリスト抜きに良心をなだめようとする目論見と小細工がぎっしり詰まっている。すべて使徒が述べている通りである(ロマ10:3)。

 [2.] こうした手だてによって人々は、自分の状態やありさまが良いものであると自己満足してしまう。自分が、それ自体では良いものであるわざを、別に人に見せびらかすためにではなく行なっているのを自覚しているからである。自分がそのわざを心から行なったとわかっているので、自己義認めいた、かたくなな思いになってしまうのである。

 (3.) 人は、このようにして、しばらくは惑わされ、自分の魂を欺いているが、やがて自分の生き方を長い目で見てみたとき、自分の罪が実は全く抑制されていないことに気づくか、1つの罪に引き替えて他の罪にとらわれただけにすぎないことに気づくかして、結局すべては無駄な抵抗だと思い始めるようになる。----自分には決して打ち勝つことなどできないのだ、立つ瀬もない奔流を手でせきとめようとするようなものだ、と考え出すようになる。これにより、その人は、自分には何の見込みもないと自棄的になり、罪の力に身をゆだね、身につけた形式的習慣に流されるだけの者となってしまう。

 そして、これこそ、キリストの恵みにあずかる前から罪の抑制を試みようとする人々が通常たどりつく末路なのである。それは彼らを惑わしかたくなにし、----滅ぼす。それゆえ、いったん罪を確信させられてこの道に足を踏み入れはしたものの、そのむなしさに気づいて、キリストを見いだすことなくその道を見捨てた人々にまさって悪質な、破れかぶれの罪人が通常はいないのも無理はない。これこそ、この世のえり抜きの形式主義者たちや、ローマカトリックの会堂で抑制に導かれるすべての者らが、さながらインディアンにバプテスマを押しつけたり、牛馬を水辺へ追い立てたりするように押し立てている信仰や敬虔さの実体なのである。そこで私が云いたいのは、抑制は信仰者のなすべきわざであって、信仰者以外の何者のなすべきわざでもない、ということである。罪を殺すのは生きている人々のわざである。だが人々が死んでいる場合(すべての未信者は、その最良の者らさえ、死んだ者である)、罪は生きているし、生き続けるであろう。

 2. これは信仰のわざであり、信仰特有のわざである。さて、ここにある仕事があったとして、それを成し遂げるには、ある専用の道具を使うしかないという場合、その道具を持ってもいない者がその仕事を行なおうとするのは愚の骨頂であろう。だが、信仰こそ心をきよめるものなのである(使15:9)。あるいは、ペテロが語るように、私たちは「御霊により真理に従うことによって、たましいを清め」*るのであって、さもなければ、それは不可能なのである(Iペテ1:22 <英欽定訳>)。

 ここまで語ってきたことで、私の第一の一般的規則の正しさは十分証明されると思う。すなわち、----何よりもまずキリストの恵みにあずかることである。それなしに、いかなる罪を抑制しようとしても、決してできない。

 反論。あなたは云うであろう。「それでは、罪のよこしまさを確信させられた未回心の人々には何をさせればいいというのか。彼らは罪に抵抗することをやめなくてはならないのか。放埒な生き方に身をゆだね、自分の情欲を好き放題にさせ、人間のくずのように下落しなくてはならないのか。それは全世界を混乱にたたき込むのと同じではないか。ありとあらゆるものを暗黒に陥れ、情欲の歯止めを解き放ち、軍馬を戦闘に駆り立てるように人々を喜び勇ませ、あらゆる罪へ貪婪に向かわせることになるではないか」、と。

 答え。1. そのようなことは決してない! 神の知恵といつくしみ深さと愛の発露とも云うべき偉大なみわざ、それは、神が多種多様な方法と手段によって、人の子らを過度の不節制と放縦に至らないように引き止め、その性情の下劣さによって無制限に引きずり回されないようにしてくださっているという事実である。これは、いかなる方法によってなされているにせよ、神の配慮と慈愛といつくしみ深さから発したものであり、それがなければ、全地は罪と混乱の地獄となってしまうであろう。

 2. みことばには罪を確信させる特有の力があり、それを神はしばしば発揮し、罪人を回心させはしなくとも、彼らを悩ませ、恐れ惑わせ、一種のへりくだりをもたらしてくださる。だから、たとえ人を回心させることを目指して宣べ伝えられたみことばが人を回心させることがなくとも、みことばは宣べ伝えられるべきなのである。確かにそれは目指された効果ではないが、みことばを宣べ伝えるとき、人々の種々の罪は叱責され、情欲は引き止められ、罪に対して何らかの歯止めがかかるからである。

 3. 抑制は、みことばと御霊の働きであり、それ自体良いものであることは確かだが、人々が本当になさなくてはならないことにとっては、有益なことでも、望ましいことでもない。彼らはまだ苦い胆汁のきずなの中にあり、暗闇の力の下にあるのである。

 4. 人々は、抑制が彼らの義務であることを知るべきだが、それはしかるべき立場においてでなくてはならない。私は人に、抑制などしなくていい、と云っているのではなく、まず回心することだ、と云っているのである。家の壁の穴をふさごうとしている人に向かって、そんなことはやめて家全体を焼き尽くそうとしている火事を消せと呼ばわる者は、その人の敵ではない。あわれな魂よ! あなたが今真剣に考えなくてはならないのは、あなたの痛む指のことではなく、あなたを消耗させつつある熱病のことである。あなたは、ある特定の罪に向かって敵対しているが、あなた自身が罪そのものであることに思い至っていない。

 もう一言だけ、みことばの説教者である方々、および神の良き導きによりその職務につきたいと志願している方々に語らせていただきたい。あなたがたの義務は、人々にそのもろもろの罪について説き聞かせ、個々の特定の罪について重圧をかけることではあるが、常に覚えていなくてはならないのは、それを、律法と福音の本来の目的のためになすべきだということである。----すなわち、いま断罪している罪を梃子にして、その罪人の現在の状態とありさまを直視させることである。さもないと、人を形式主義や偽善に押しやるだけで、福音を宣べ伝える真の目的をほとんど果たせないことにもなりかねない。ある人を打ち叩いて、その酩酊から離れさせても、そのまま素面の形式主義に至らせるのでは何にもならない。練達の説教者は、斧を木の根元にあてながら、その刃は心に向けて打ちつける。この国に氾濫しているような、無知で未回心な人々の個々の特定の罪に対して激しく抗議するのは良い行ないである。しかしそれでも、たとえそれが非常に効果的に、力強くなされ、大きな成果をあげたとしても、それがその結果のすべてだとしたら、すなわち、人々が断罪された罪を抑制することに精を出すようになるだけだったとしたら、なされたすべてのことは、ただ大平原で敵軍を敗退させて、難攻不落の城塞に追い込み、勝利できなくなることに等しい。あなたは、何らかの罪について話すことで、罪人の心をとらえることがあるだろうか? 罪人をゆさぶる手がかりをつかむことがあるだろうか?----では、そこから彼の状態とありさまを描き出し、究極的な問題を悟らせ、その点で彼に迫るがいい。人に特定の罪との縁を切らせるだけで、その心を砕かないのでは、せっかくの好機をどぶに捨てるようなものである。

 そしてここにこそ、ローマカトリック教による抑制の、嘆かわしいほどの過誤があるのである。彼らはありとあらゆる人々を抑制に追いやるが、抑制できる原理が相手にあるかどうかは全く顧慮しない。しかり、彼らは、人々に信仰を求めて、情欲を抑制できる者にさせようとするのでなく、信ずるかわりに抑制することを求めている。実のところ、彼らには、信ずるとはどういうことであるかも、抑制そのものが何を目指すものであるかさえも、わかっていないのである。彼らにとって信仰とは、自分たちの教会で教えられている教理への一般的同意でしかなく、抑制とは、人を誓約によりある種の生き方に従事させること----相当大きな見返りと引き替えに、この世の物事の一部を用いないよう自己否定させること----でしかない。こうした人々は、聖書も神の力も知らないのである。彼らの誇る抑制の栄光は、彼ら自身の恥でしかない。私たち自身の間にも、ある種の決疑論者がいて、新生の必要性を見落としたまま、何らかの罪か情欲に悩む者があると、だれかれの見境なしに、そうした罪や情欲を、少なくとも一定の期間は----たとえば一箇月かそこらは----断つことを誓約するがいい、などという指図を公然と授けているが、こうした者らは福音の奥義の光を、キリストを最初に訪れたときのニコデモ同様、ごくわずかしか持ち合わせていないように思える。彼らは人々に命じて、しばらくの間はその罪を控える誓いを立てさせる。しかし普通これは、彼らの情欲をより熾烈なものとするだけである。もしかすると彼らは誓いを守るかもしれないが、そこには非常に大きな悩みが伴うであろう。誓いを守れない場合は、その罪意識と苦悩を増すことになるであろう。これで彼らの罪は少しでも抑制されただろうか? 彼らは罪を征服したと感じられるだろうか? 彼らの状況は、たとえ目に見える罪の行ないを捨てたとしても、何か変わっているだろうか? 彼らは今なお苦い胆汁のきずなの中にあるのではなかろうか? これは人々に向かって、わらなしにれんがを作れ、とは云わぬまでも、否、一層悪いことに、なしにれんがを作れと云うようなものではなかろうか? 一体、未回心のままの人に向かって、抑制のわざを奨励しているような約束がどこにあるだろうか? このわざを行なうための助けがどこにあるだろうか? キリストの死の恵みにあずかることなしに罪を殺せるだろうか? 御霊なしに罪を抑制できるだろうか? 万が一こうした指図で人々がその生活を変えられたとしても----めったにないことだが----、決してその心やありさまは変わりはしない。彼らは人々を義人気取りの者か偽善者にすることはできるかもしれないが、キリスト者にすることはできない。私をしばしば悲しい思いにさせるのは、神への熱心と永遠の幸福への願いをいだくあわれな魂が、こうした指導者たちとその指図によって、厳しく重い外面だけの礼拝や奉仕を背負わされ、抑制のためといって、まことしやかな多くの努力をさせられながら、キリストの義についても、キリストの御霊についても全く無知なまま一生を過ごす姿である。この種の人々および物事を私はいやになるほど見てきた。もし少しでも神が彼らの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせさえしてくださるなら、たちどころに彼らは自分たちの現在のやりかたの愚を悟るであろう。

(第8章につづく)



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