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第6章 罪の抑制とはいかなることかが具体的に述べられる----そのいくつかの部分と段階----罪の根幹と原理とを常習的に弱体化させること----情欲の誘惑する力----その力には個人差があり時期の違いもある----罪と常に戦う----その諸部分が考察される----罪に対する勝利----この論考の要約が考察される
次になすべきことは、罪を抑制するとはいかなることであるかを、個々の指針の論議に入る前段階として、一般的に考察することである。
2. ある情欲を抑制するとは、3つのことに存している。----
(1.) その情欲を常習的に弱体化させること。情欲とはみな、心を悪に向かわせてやまない堕落した習慣または性向にほかならない。それゆえ、いかなる情欲にも真の抑制が加えられていない人のことを聖書は、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」、と描写しているのである(創6:5)。こうした人は常に、罪へ向かわせる強力な性癖や傾向の下にある。生まれながらの人がなぜ四六時中、特定の情欲だけを夜も日もなく常に追求していないかというと、彼には仕えるべきものが多々あり、そのすべてが満足させられることを求めて呼び立てているからである。それでそうした人の生き方は、その時々で非常に多岐にわたる現われ方をしてはいるものの、概しては、自我を満たそうとする方向へ向かっているのである。
ということは、ここでその抑制のしかたが問われている情欲あるいは霊的疾病とは、私たちの意志と感情に深く根を張り、何らかの実際の罪に向かわせようとする、それ自体強大で習慣的な傾向であり性癖であると思ってよいであろう。それは、形式的な意味では、必ずしも絶え間なく罪深い想念や、思念や、企てをかき立てているわけではないが、実質な意味においては、常に罪へ向かわせようとしている。こういうわけで人は、常にその「心は悪への思いで満ちて」おり、その霊の性癖のおもむくところが悪であり、「肉の欲のために心を用い」ている、と云われるのである*1。また、罪深く堕落した習慣と、ありとあらゆる自然な、すなわち道徳的な習慣との違いは多々あるが、その1つは、後者が魂を優しく無理のないしかたで傾けていくのに対して、罪深い習慣は魂を荒々しく、乱暴に突き動かすことにある。それで情欲は、「たましいに戦いをいどむ」*2、あるいは交戦する、と云われているのである(Iペテ2:11)。----それは反逆し、蜂起し、戦時につきものの敵対行動に及ぶ*3(ロマ7:23)。----すなわち、相手を捕虜にするか、戦闘に勝利することで実質的なとりことし、----すさまじいばかりに猛々しい暴虐の限りを尽くす。
ロマ7章の描写に深く立ち入れば、こうした力がいかに思いを暗くし、罪の確信を消し、理性を引きずりおろし、行く手をはばもうと持ち出されるあらゆる力や影響力を邪魔立てし、いかなるものをも打ち破って業火と燃えさかるかを余すところなく明らかにすることができよう。しかし、それは現在の私の務めではない。さて、抑制における第一のことは、この罪もしくは情欲の習慣を弱体化させることである。そうした悪しき習慣は、放っておけば自然と、上で述べたように激しく、烈々と、休む間もなくふくれあがり、実をはらみ、騒ぎ立て、挑発し、誘いかけ、平静を乱させるものだが(ヤコ1:14、15)、そうさせないように力をそぐことである。
ちなみにここで、1つ注意もしくは規則を述べておきたいと思う。すなわち、確かにあらゆる情欲はその性質からして、一様に、例外なく罪へ向かわせ、駆り立てるものではあるが、ここには2つの制限を認めなくてはならない。
[1.] ある情欲、あるいは、一人の人のうちにある1つの情欲は、多くの偶発的な要因によって増進させられ、高じさせられ、強められることがあり、他の情欲、あるいは他の人のうちにあるそれと同じ(すなわち、同じ種類と性質に属する)情欲をはるかに越えた精気と力と活力を有することがありえる。ある情欲が、たまたまそれと引き合うような天性の体質や気質、絶好の生活環境、機会に恵まれたとき、あるいはサタンがその手練手管で自在に引き回せるような、格好の手がかりをつかんだとき、その情欲は、他の情欲を、あるいは別の人のうちにおける同じ情欲をはるかに越えた激越さと猛烈さで荒れ狂うようになる。そうするとき、その人の思いは情欲の奔流で暗く塗りつぶされ、前からわかっていたことを忘れるわけではないが、それで意志を動かしたり影響したりすることは全くできず、ただ腐敗した情愛と激情だけがほしいままにふるまうことを許されるのである。
しかし特に情欲に力を与えるものは誘惑である。しかるべき誘惑がそれに引き合うような情欲に恵まれたとき、それは、その情欲に宿っていたとは、あるいは可能であったとは思いもよらなかったような新しい精気と活力と力と激しさと猛烈さを現出させる。このような点を証しする事例はおびただしい数にのぼるであろう。しかし、こうした所見を証明するのは本論考とは別の機会に譲りたい。
[2.] ある種の情欲は、その激烈な行為という点で、他の情欲よりもはるかに明確に目につき、判別されうるものである。パウロによれば、性的な不潔行為は、他のどんな罪とも違う点がある。「不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです」(Iコリ6:18)。こういうわけで、性的不潔という罪の動きは、他の罪の動きよりも明らかに目につき、明らかに判別できるのである。人によっては、世を愛する愛やそうした類の罪がそれに劣らぬほど常習的に魂の内側を支配していることもあるだろうが、性的不潔ほど全人的に焼き尽くす猛火はない。
それゆえある人々は、自分自身の思いにおいても世人の目においても、よく抑制された人として通っているかもしれないが、その実、魂の内側は、だれにも劣らず情欲に支配されていることがありうる。自分の情欲に困惑し、魂の擾乱に驚き叫ぶ人々、否、情欲の力に屈して破廉恥な種々の罪に突き進んでいった人々に劣らず情欲の猛威のとりこになっていることがありうる。違いはただ、彼らの種々の情欲の目指す方向と対象が、魂をそれほど騒がせない性質のものであり、その情欲を働かせるときも、別種の情欲よりも心を波立たせずにすみ、肉体的な欲求とはさほど密接な関わりを持たないということでしかない。
そこで私が云いたいのは、抑制における第一のことは、この習慣を弱体化させることにあるということである。それが以前のように人を駆り立てたり騒ぎ立てないようにし、人をいざなったり脇道へそらしたりしないようにし、その精気と活力と機敏さと絶えず浮き立っている部分の息の根をとめようとしてもじたばた暴れないようにすることである。これこそ、いわゆる、「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけて」しまうことである(ガラ5:24)。すなわち、肉の強壮さと力のもとである血と生命力とを取り除くこと、----「日々」(IIコリ4:16)、この死のからだをやせ衰えさせることである。
十字架に釘づけられた人と同じく、彼は最初もがき、あがき、大声でわめき立てるが、血と生命力とが失われていくにつれ、そのあがきようはかすかで間遠になり、その叫び声も小さくかすれたものとなり、ほとんど聞き取れなくなる。----人が何らかの情欲または霊的疾病を断固として扱い出すとき、最初それは非常に激しく暴れ回り、自由になろうとする。頼むから放してくれと熱心に、あくことなく叫び立てる。しかし抑制によってその血と生命力が流出していくと、それはほとんどかすかにしか動かなくなり、その叫びも途絶えがちになり、心の中でほとんど聞き取れなくなる。時として断末魔の苦悶に身をよじり、非常な活力と強さを示すこともあるが、たちまちそれも静まる。特に、それが大した成果をあげないように押さえつけられるときにはそうである。これこそ使徒が、ロマ書6章、特にその6節で叙述していることにほかならない。
彼は云う。「罪は十字架につけられている。十字架に打ちつけられている」。何のためか? 「死のからだが滅びる」*ため、罪の力が少しずつ弱められ、破壊しつくされ、そのことによって「私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためである」。すなわち、その罪がこれまでのように、私たちをそそのかしたり突き動したりすることで、私たちを下僕とするような効力を持てないようにするためである。そしてこれは、単に肉的で官能的な情愛や、世俗的な事柄に関する願望についてだけ語られているのではなく、----肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢についてだけではなく、----肉、すなわち、思いと意志における肉、生まれながら私たちのうちにある神への敵対という点における肉についても語られているのである。私たちを悩ませる霊的疾病がいかなる性質のものであれ、いかなる形で発症するものであれ、悪へと突き動かすものであれ善なるものから遠ざけるものであれ、この法則は同じである。そして、これが効果的になされない限り、後でいかに戦っても目指す目標は達成できない。人はくたくたになるまで悪い木から苦い実を叩き落とすことができるかもしれない。だが、その木の根が強さと活力に満ちている限り、今なっている実をいくら叩き落とそうと、やがてまた実を結ぶのを防ぐことはできない。これこそ一部の人々の愚かしさである。彼らは精魂を傾けて、うまずたゆまず表面に吹き出してくる情欲と戦おうとするが、罪の原理と根幹を手つかずのまま残しておくため、否、ことによるとその存在すら全く察知していないために、ほとんど、あるいは全くこの抑制の務めにおいて進歩しないのである。
(2.) 罪に対して絶えず戦いをいどみ対抗すること。常に罪に重圧を加え続けることができるというのは、決して小さくない段階の抑制である。罪が強く活発であるとき、魂はほとんどそれに立ち向かうことができない。ダビデが自分について語っているように、ため息をついたり、うめいたり、嘆いたり、悩んだりすることはできるが、こちらから罪を追撃することはめったにない。ダビデは、罪が「私に追いついたので、私は見ることさえできません」、と弱音を吐いている(詩40:12)。では、罪と戦うことなど、いかに無理な注文であったことか! さて、この罪に対する戦いにおいては、種々雑多なことが求められ、またふくまれている。----
[1.] 自分には、対抗すべき敵、注意を払わなくてはならない敵がいるのだと知ること。そして、それを不倶戴天の、いかなる手段を用いても滅ぼさなくてはならない仇敵であると考えることが、ここでは求められている。先に述べたように、この抗争は死に物狂いの危険なものである。----事は永遠に関わるのである。したがって、人々が自分の種々の情欲にほとんど気をとめないとき、それは決して、そうした情欲が抑制されているとか、着実に抑制されつつあるとかいうしるしではない。だれでも、「おのおの自分の心の悩みを知」る(I列8:38)ことなくしては、他のいかなるわざも成し遂げることができない。恐ろしいのは、非常の多くの人々が、自らの心中に巣くい、常に彼らと行をともにしている主たる敵についてほとんど無知なことである。このため彼らは簡単に、自分には何の問題もないと決め込み、人から叱責されることや懲戒されることにがまんがならない。自分が危険な状態にあるとわかっていないためである(II歴16:10)。
[2.] 罪が成果をあげた際に用いた方法や、策略や、手口や、好都合な条件や、機会を努めて熟知することこそ、この戦いの手始めである。人々は敵軍に当たろうとするとき、そうするものである。彼らは相手の計画や意図を探り出そうとし、その目的が何か頭をしぼり、相手が以前はいかにして、またいかなる手段によって勝ちを制したのかを考え抜き、二度とそうさせないようにしようとする。これこそ軍略の要諦である。これなしには、人知と精励の限りを尽くしてなすべき戦闘行為もことごとく獣の争い同然となるであろう。真に情欲を抑制する人々も、同じように情欲を扱う。それが実際に自分を悩まし、いざない、誘惑しているときばかりでなく、それが静かに引っ込んでいる際にも、彼らは考えている。「これがわれわれの敵だ。これが奴のたどった経路と進軍速度だ。これらが奴の占めた有利な地点だ。奴はこれこれこういうふうに勝ちを制したのであり、こちらがそれを妨がない限り、また勝つに違いない」、と。そのようにダビデはしていた。「私の罪は、いつも私の目の前にあります」(詩51:3)。そして事実、実際生活における霊的知恵の精髄の1つは、自分の内側に巣くう何らかの罪の狡猾さと抜け目なさと根深さを知ることにある。すなわち、その最大の強みがどこにあるか、----それがいかなる機会やきっかけや誘惑を利用して力を得るか、----いかなる口実や見せかけや屁理屈を用いるか、----その策略や、もっともらしさや、云い抜けはいかなるものか、----こうしたことを考え抜き、突き止めることである。御霊の知恵によって古い人の悪知恵に対抗することである。この蛇がのたくり、くねり進むすべての道筋を追跡することである。その最もひそかな、そして(うかうかしている人には)全く気づかれないような動きにも、面と向かって、「これはお前の古くさい馴染みの手口だ。お前の狙いなど先刻お見通しだぞ」、と云えるようになることである。----そして、そのようにして常に臨戦態勢にあることこそ、私たちの戦いの大きな部分を占めているのである。
[3.] 後述するような、罪を苦しめ、死なせ、破壊する力を秘めたあらゆる手段を尽くして、日々罪に重圧を加えること、これはこの抗争の最高の部分である。そのような人は決して、自分の情欲が静かにしているからといってそれを死んだとは考えない。むしろ絶えずそれに新しい手傷、新しい打ち傷を負わせようと日々努める。使徒はそのように云っている(コロ3:5)。
さて、魂がこのような状態にある限り、またこのようにふるまっている限り、それは間違いなく優位に立っていると云える。罪は剣の下で死につつあるのである。
(3.) 成果をあげること。何らかの情欲に対する抑制において度重なる成果をあげることは、抑制のもう1つの部分であり証拠である。成果ということで私が云いたいのは、単に罪の企図をくじいて、罪の実を生じさせなかったり、その目論見を実現させなかったりすることだけにとどまらず、罪に対して勝利をおさめ、罪を追撃して完全に屈服させることである。たとえば、あるとき心の中で罪が働いているのを見いだしたとする。罪が肉のために心を用いさせようとして誘惑し、想像をふくらまさせ、そのことによって情欲を満足させようとしていたとする。そうした、いついかなるときにも心が即座に罪を逮捕し、神の律法およびキリストの愛のもとに引き出し、有罪宣告を下して、極刑により処刑するということである。
さて、ある人がこのような状態と状況に立ち至り、情欲がその根幹と原理において弱体化させられ、その動きとしわざが以前よりもまれになり弱くなって、その人の義務を妨げることも、その人の平安を妨げることもなくなった場合、----また、その人が静かな落ちついた心持ちで罪を見つけ出し、それと戦うことができ、それに対して成果をあげることができる場合、----そのとき罪は相当大きな程度で抑制されているのであり、それがいかに反抗をくわだてようと、人は神との平和を一生の間持つことができるのである。
そこで私は、ここで目ざす抑制は、以下のような項目によってこそ、なすべきであると云いたい。すなわち私たちは、自分の生来の性質を一様にいろどる堕落と腐敗が、いかなる霊的疾病によって自らを現わし、力を振るい、私たちを悩ませようとしても、次のようにしてこれを抑制すべきである。----
第一に、私たちの内側に巣くう、罪の性向を弱体化させること。そうした性向によって情欲は思いを悪へと傾け、いざない、突き動かし、神に反逆し、反抗し、戦いを挑んでいるが、私たちはこれを、恵みの原理を植えつけ、常習的に住まわせ、はぐくむことによって弱体化させるべきである。恵みの原理こそ、罪の性向と真っ向から対立し、それを破壊するのである。このようにすることが土台である。それで、へりくだりを植えつけて育てることによって高慢は弱められ、忍耐によって激情は弱められ、思いと良心のきよさによって性的汚れは弱められ、天的な考え方によって世を愛する愛は弱められる。これらは御霊の種々の恵みである。あるいは同じ常習的な恵みが、聖霊によって、対抗すべき相手の種類や相違に応じて、多種多様な働きをしているのである。それは相手が種々の情欲であるとも、同じ生来の腐敗がその場その場の都合や機会に応じて多様な動きをしているとも云えるのと軌を一にしている。----御霊による、あるいは新しい人による敏活さ、機敏さ、活発さをもって、これまで語られてきたような情欲と争い、朗らかに戦うこと。そして、そのために定められたあらゆる方法と手段を用いて、こうした情欲の動きやしわざに応じた助けを常に用いていくことが、ここで求められている第二のことである。----大小様々な程度の成果がこれら2つに伴う。さてこれは、その霊的疾病がやむをえない状況のもとで到底打ち勝てないほどの優位を占めているのでない限り、全般的に制圧されることもありえる。そのような制圧がなされる場合、魂はもはや二度とその霊的疾病の反抗を感じとることがなく、恵みの契約の基調に従い、確信に満ち満ちて、しかるべく定められた良心の平安へと達することであろう。
(第7章につづく)
*1 ロマ13:14[本文に戻る]
*2 Strateuontai kata ths yuchs.[本文に戻る]
*3 Antistrateuomenon, aicmalwtizonta.[本文に戻る]
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