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第5章

本論述全体の主たる意図が提示される----良心が決すべき第一の主要問題が述べられる----罪を抑制するとはいかなることか、その否定的な考察----現世で罪を完全に滅ぼし尽くすことではない----罪がないようなふりをすることではない----何らかの天性の原理を向上させることではない----罪の向きを変えることではない----間欠的な克服ではない----間欠的な罪の克服とは何か。いつ行なわれるか。罪が突発的に吹き出した際。危険や苦難に遭う際。

 こうしたことを前置きとした上で、いよいよ本論考の主題へ移ろうと思う。すなわち、信仰者のうちにおける罪の抑制というこの務めにおいて浮かび上がるいくつかの問い、または実際的な問題を論ずることである。

 第一に考察したいのは、以下に続く論述の眼目であり、すべての要となる点であるが、次のように提議できるであろう。----

 真の信仰者である人が、自分のうちに強大な罪が巣くっているのに気づいたとする。そのため自分がその律法のとりことされ、心は悩みで憔悴し、思いは混乱し、魂は神との交わりにおいてなすべき務めを果たせないほど弱められ、うちなる平安は失われ、ことによると良心が汚され、罪の惑わしでかたくなにさせられつつあるとする。----では、その人は何をしなくてはならないだろうか? この罪と情欲と病と腐敗を抑制するとしたら、いかなる手段を講じなくてはならないだろうか? いかなる道筋を歩み通せば、こうした罪との抗争において、たとえ現世ではそれを完全に滅ぼし尽くせなくとも、常に力と強さと神との交わりにおける平安とを保ち続けることができるだろうか?

 この重大な問いかけへの答えとして行ないたいのは以下のようなことである。----

 I. 罪を抑制するとはいかなることか、それを否定的にも肯定的にも明らかにし、土台から誤りに陥らないようにすること。

 II. いかなる罪を抑制する際にも必要とされ、それなしには決して真に霊的な罪の抑制が不可能であるような事柄について、一般的な指針を挙げること。

 III. これをなすべき具体的な務めを詳述すること。こうした考察の全体を通じて私は、抑制の教理一般というよりも、上で提議したような具体的な問題にかかわる面だけを扱うこととする。

 I. 1. (1.) 罪を抑制するとは、決して完全にその息の根をとめること、根こそぎにすること、滅ぼし尽くすこと、私たちの心を二度と支配できないようにし、私たちの心から影も形もなくなるようにすることではない。確かに、それは目標ではある。しかしこれは、この人生では達成されえないのである。何らかの罪を抑制しようと心から努める人で、その完全な破壊を目指さない者、意図しない者、願わない者はいない。自分の心と生き方において、罪の根も実も全く残らないようにしたいと思わない者はいない。そういう人は、罪の息の根を完全にとめ、それが二度とぴくりとも動かず、身じろぎもしないようにしてやりたいと願う。それが叫ぶことも、呼び立てることも、いざなうことも、誘惑することも永遠にないようにしてやりたいと願う。その消滅こそが目標である。だが、確かに御霊により、またキリストの恵みにより、何らかの罪に対して素晴らしい勝利と赫々たる戦果を挙げることは可能であり、その罪に対してほとんど常に勝ちを得られるようになることも可能ではあるが、それでも、その罪の息の根を完全にとめ、その罪を滅ぼし尽くし、跡形もなく消し去ることは、この人生においては期待できないのである。パウロの言葉がその証拠である。「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません」(ピリ3:12)。彼はえり抜きの聖徒であり、信仰者の模範であり、信仰と愛において、またあらゆる御霊の実において、世においては並ぶ者なく、そのゆえをもって、他の人々との比較においては自分を成人と云い表わしてはいる(15節)。それでも彼はなお、「得た」のでも、「完全にされ」たのでもなく、むしろ「追求して」いた。まだ彼には卑しいからだがあった。まだ私たちには卑しいからだがある。それは最後の日に、キリストの大いなる御力によって変えられるまで変わらない(21節)。やがて私たちは、そのように完全にされるであろう。しかし神は私たちにとって何が最善であるか知っておられる。私たちは何事においても自分だけで全き者となるべきではなく、万事において、「キリストにあって満ち満ちて」いなくてはならない。それが私たちにとって最善なのである(コロ2:10)。

 (2.) あえて云う必要もないと思うが、抑制とは、罪がないようなふりをすることではない。ある人が、うわべに表われる罪深い行為を何かやめた場合、ことによると人々はその人が変わったと思うかもしれない。だが神はご存知である。その人は以前の不義の上に、呪わるべき偽善の罪を加えているのであり、従来よりもはるかに着実に、地獄への道をひた走っているのである。確かにその人は、かつて持っていたのとは違う心をしている。ただしそれは新しい心、より聖い心ではなく、より狡猾な心なのである。

 (3.) 罪の抑制の本質は、おとなしく、物静かな性質を向上させることにあるのではない。世の中には、生まれつきの気質として人よりも有利な者がいる。他の多くの人々がさらされているような、荒々しい激情や、感情の激発によって動揺させられることがないからである。さてそうした人々が、自分たちの生来の性格や気質を、訓練や熟慮や分別によって、さらに助長し向上させたとすると、彼らは、自分でも他人からも、非常によく抑制された人々のように思えるかもしれない。しかしその実、ことによると彼らの心は、ありとあらゆる忌まわしいものの生きた巣窟となっていることもありうる。ある種の人は決して、ことによると一生の間、他の人々が毎日のように悩まされているような怒りや激情で悩むことも、他の人を悩ませることもないかもしれない。にもかかわらず、その罪の抑制ということでは、その人よりも、そうしたもので悩む人々の方がずっと多くを成し遂げているのである。そうした人は、自分の抑制の度合いを、生来の気質として全く引かれも、とらわれもしていないような事柄で計ろうとしてはならない。むしろ、自己否定や、不信仰や、ねたみや、そうした霊的な罪のもとに自分を引き出して見るがいい。そうすれば、自分のことがもっとよく見えるようになるであろう。

 (4) 罪は、方向を変えられただけでは抑制されたことにはならない。魔術師シモンはしばらくの間その魔術から離れていた。しかし彼をつき動かしていた貪欲と野心は、なおも残存しており、いつまた他の形で行動し出すかしれなかった。それでペテロは彼に告げたのである。「あなたはまだ苦い胆汁……の中にいることが、私にはよくわかっています」[使8:23]。----すなわち、「あなたが行なった信仰告白にもかかわらず、あなたが魔術を捨てた事実にもかかわらず、あなたの情欲はあなたの内側で今も変わらぬ強大な力をふるっているのだ。同じ情欲が、流れていく方向をそらされただけなのだ。今は別の方面に向かって働きかけてはいるが、やはり昔からある苦い胆汁なのだ」、と。人は、何らかの情欲があることを察知し、その噴出に対して身構え、以前のように吹き出させないように警戒しているかもしれない。しかしその間、同じ腐敗した習慣が何か別の形を吐け口にしているのを放っておくこともありえる。たとえば、膿みただれた傷口が癒えてふさがった人は、完全に直ったと思うかもしれないが、実はその間、彼のからだは同じ体液に侵されつつあり、別の部位に不意に患部を生じさせるようなものである。またこの罪の方向転換は、それに伴う変質とともに、しばしば恵みとは縁もゆかりもないような理由で生ずる。それは、生活環境の変化や、人間関係の変化、興味の変化、目的の変化などによって、もたらされることがありえる。否、生きていればだれしも経験するような体質の変化でさえ、こうした変化を引き起こすことがありえる。年とった人々は、通常、若いころのような種々の情欲の追求にあくせくしないものだが、彼らは決してそうした情欲の1つたりとも抑制したわけではない。同じことが、情欲と情欲の取り替えについても云える。ある情欲に仕えることをやめて、別の情欲に仕えようとするような場合である。高慢に引き替えて世俗化する者、好色に引き替えてパリサイ人になる者、うぬぼれる代わりに他者を軽蔑するようになる者は、自分が捨てたように見える罪を抑制したなどと考えてはならない。そういう人は自分の主人を代えはしたが、しもべであることに代わりはないのである。

 (5) 罪の間欠的な克服をいくら重ねても、罪を抑制したことにはならない。何らかの罪と戦いつつある人が、その罪を抑制できたように感ずる場合や時期には二種類ある。----

 [1. ]その罪が突発的に激しく吹き出し、その人の平安を騒がせ、良心を恐怖に陥れ、醜聞を恐れさせ、明らかに神を怒らせるような場合である。このようなとき人は、内側にあるあらゆるものが覚醒し、総毛立ち、驚愕し、罪への嫌悪、またそうした罪を犯す自分への嫌悪で満たされる。そして神のもとへ走り行き、いのちを求めて叫び、自分の情欲を地獄のように忌み嫌い、その情欲に断固として立ち向かうようになる。その人が、霊的な部分も天性による部分もひとしく、全人的に覚醒させられているため、罪はその頭を縮めて、姿を消し、死んだようになってその人の前に横たわる。それはあたかも、夜陰にまぎれて敵陣に忍び込み、敵将の寝首をかいた間者が、守備兵たちの大騒動で全軍が目を覚まし、血眼で犯人を探し回る索敵行動のかげで、ほとぼりがさめるまでは身を隠すか、死体にまぎれて横たわるかしていながら、機会さえあれば同じような仇をなそうと堅く決意しているのと同じである。コリント人らの間にあった罪について、いかに彼らが激昂し、それを払拭しようとしたか見るがいい(IIコリ7:11)。個人についても、これは同じである。内側にある情欲が静かに、ことによると全く密かに良心に突破口を開いて、現実の罪を吹き出させるとき、----警戒、憤り、願い、恐れ、報復などがことごとく、この罪を契機に、またそれに逆らって働き出すため、情欲はそれらに追いつめられて、しばらくはなりをひそめる。しかし、その騒ぎが静まり、取り調べが一段落すると、賊は再びぴんぴんして姿を現わし、あいも変わらず、せっせと悪行に励むのである。

 [2.] 何らかのさばきや、災難や、切迫した患難に遭うとき。そのとき心は、現在の困難と恐れと危険から逃れる手だてを思い巡らし、算段することしか考えられなくなる。これは罪を捨てて神と和解するしかない、と罪を確信した人は結論する。いかなる患難においても、その中にある神の怒りこそ、罪を確信した人を苦悩させるのである。そのためこうした状況にある人々は、神の怒りを和らげようと、自分の種々の罪を捨てようと決意する。罪など一生犯すまい。身をささげて罪に仕えるようなことはもう二度とすまい、と。このようにして、罪は静かになり、騒ぐことなく、一見抑制されたように見える。しかし、だからといって罪がかすり傷1つでも負ったことにはならない。それは単に、魂が、罪の活動を可能とするような部分を抑え込み、そうした動きとは相容れないような思念で魂を満たしているだけなのである。だが、それらが脇へやられたとき、罪は再び息を吹き返し、活力を取り戻す。それで、詩78:32-37は、ここで語っているような心の動きの実例を余すところなく活写しているのである。「このすべてのことにもかかわらず、彼らはなおも罪を犯し、神の奇しいわざを信じなかった。それで神は、彼らの日をひと息のうちに、彼らの齢を、突然の恐怖のうちに、終わらせた。神が彼らを殺されると、彼らは神を尋ね求め、立ち返って、神を切に求めた。彼らは、神が自分たちの岩であり、いと高き神が自分たちを贖う方であることを思い出した。しかしまた彼らは、その口で神を欺き、その舌で神に偽りを言った。彼らの心は神に誠実でなく、神の契約にも忠実でなかった」。私は決して、彼らが神を尋ね求め、立ち返って、神を切に求めたときには、誠心誠意、自分のもろもろの罪を捨てようと本気で行なっただろうことを疑いはしない。それは、「立ち返って」という言葉で表わされている。主に向き直ること、すなわち主に立ち返ることは、罪を捨てることによってなされる。それを彼らは「切に」行なった。----熱心に、また勤勉に行なった。しかしそれでも彼らの罪は、こうしたすべてにもかかわらず抑制されなかった(36、37節)。そして、これこそ悩みの日のうちにある多くの人々の恥ずべき状態であり、信仰者の心さえ、しばしば同じようにして大きく欺かれるのである。

 こうしたことを初めとする多くの方法によって、あわれな魂は自分を欺き、自分は情欲を抑制したのだと考える。しかしその実、そうした情欲はしぶとく生きており、ことあらば吹き出してきて、心を動揺させ、混乱させるのである。

(第6章につづく)


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