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第4章

最後の原則:抑制の有用性----私たちの霊的生活の活力と慰めは私たちの抑制にかかっている----いかなる意味においてか----必然的に結果を絶対生じさせるものとしてではない。詩88のヘマンの場合----直感的、直接的な原因としてではない----手段として:反対物を除去することにより----抑制されていない情欲の及ぼす甚だしい影響。それは幾多の方法で魂を弱め(詩38:3、8)、暗くする----すべての恵みは罪の抑制によって成長する----真摯さの最良の証拠

 私が強調したい最後の原則は、(ただし、一、いのちに至る抑制の必要性、二、抑制に基づいた生活の確かさ、については割愛するものとしてだが)、----

 III. 私たちの霊的生活のいのちと活力と慰めは、私たちが罪を抑制するかどうかに大きくかかっている、ということである。

 神とともに歩む際の強さと慰め、力と平安こそ、私たちが願い求めるものである。もしだれかが私たちに、「一体何があなたの悩みなのか」、と真剣に問うならば、私たちの答えは、次の2つのどちらかになるに違いない。----すなわち、私たちの従順において、また神との歩みにおいて、私たちに強さや力、活力やいのちが欠けているということ。あるいは、そこで平安、慰め、励ましが欠けているということである。たとえ何が信仰者にふりかかろうと、この2つの項目のいずれにも属さないようなものは、この不平の日々において、あえて言及する価値はない。

 さて、これらすべては抑制を不断にやり抜くことに大きくかかっている。これについては以下のことに注目したい。----

 1. 私は、こうした恵みが、抑制を続ければ必然的に生ずるかのように、抑制と絶対的な結びつきがある、とは云わない。人は、その一生の間ずっと抑制し続けていようと、ことによると一日も平安と慰めを味わうことができないかもしれない。ヘマンはそのような人物であった(詩88)。彼の生涯は間断なき抑制と、神とともなる歩みの生活であったが、恐怖と打ち傷が一生の間、彼の受ける分であった。しかし神は、そのえり抜きの友ヘマンをわざわざ選んで、以後悩みに陥る人々の模範となさったのである。もしあなたが、この傑出した神のしもべヘマンと同じようにされたなら、何の不平を云えるだろうか? それが世の終わりに至るまで、彼の誉れとなって残るというのに。神は平安と慰めを語ることをその大権としておられる(イザ57:18、19)。「わたしがそのわざを行なう」、と神は云っておられる。「わたしが彼を慰めよう」*(18節)。しかし、どのようにしてか? 新しい創造という直接的なみわざによってである。「わたしが創造する」、と神は云われる。平安を得るための手段を用いるのは私たちがなすべきことである。だが、それをお与えになるのは神の大権である。

 2. 私たちにいのちと活力、勇気と慰めを与えるため神がお定めになった方法は数あるが、抑制は、そうしたものの直接の原因の1つではない。そうした祝福を直接私たちに与えるのは、神の子どもとされている自分の特権を心に直感する体験である。「聖霊が、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊とともに、あかししてくださり」*、私たちに新しい名と白い石、子とされることと義と認められること、を与えてくださる----すなわち、そうしたことを感じとらせ、わからせてくださる----ことこそ、こうした事柄の(御霊の御手にある)直接的な原因なのである[ロマ8:16; 黙2:17]。しかし、ここで私が強く云いたいのは、

 3. 私たちの通常の神との歩みにおいては、また私たちに対する神の通常のお取り扱いにおいては、私たちの霊的生活の活力と慰めは、その大きな部分が私たちの抑制にかかっている、ということである。抑制は、そのための「不可欠条件(causa sine qua non)」であるばかりか、こうした祝福をもたらす実効的な影響を及ぼすのである。なぜなら、----

 (1.) 罪がこうした祝福のどちらかを私たちから奪うのを妨げるには、抑制するしかないからである。

 抑制されていないあらゆる罪は確実に2つのことを行なう。----[1.]それはたましいを弱め、その活力を奪う。[2.]それは魂を暗くし、その慰めと平安を奪う。

 [1.]それはたましいを弱め、その力を奪う。ダビデがしばらくの間、ある情欲を抑制しないまま心にいだいていたとき、それは彼の骨々をことごとく砕き、彼の霊的力をひからびさせてしまった。それで彼は、自分が病み、弱り、傷つき、気も絶え入りそうだと嘆くのである。彼は云う。「私には完全なところがありません」*(詩38:3)。「私はしびれ、砕き尽くされ……ています」(8節)。「私は見ることさえできません」(詩40:12)。抑制されていない情欲は霊を飲み干し、魂のあらゆる活力をそぎ、いかなる義務も満足に果たせないほど弱めてしまう。なぜなら、----

 第一に、抑制されていない情欲は、心の情愛をもつれさせることによって、心そのものの調子を乱し、失調させるからである。それは、神との活発な交わりに欠かせない霊的な思いに、気乗りをさせなくする。また心の情愛をとらえて、その対象を愛しいもの、魅力的なものとしてしまう。これによって、御父を愛する愛は追い出されざるをえない(Iヨハ2:15; 3:17)。魂は、愛するものが他にできてしまったため、神に向かって正直な心で真実に、「あなたは私の受ける分です」、とは云えなくなる。恐れや、願いや、希望など、魂の最も基本的な感情は、神で満たされているべきなのに、あれこれの情欲のため、もつれさせられてしまうのである。

 第二に、情欲は、種々の肉的なたくらみで思念を満たすからである。思念は、魂の情愛を満足させるような糧食を仕入れてくる大手の調達業者である。罪が抑制されないまま心にとどまっていると、思念は折りにふれ肉のための備蓄を行ない、それで情欲を満たそうとするに決まっている。それは、肉が目的とする種々の物事をつやめかせ、光沢を出させ、飾り立てて、それらが心底満足を与えるようにさせずにはおかない。そしてこれを思念は、汚れた想像力に奉仕することによって、名状しがたいほど巧みに行なうことができるのである。

 第三に、抑制されていない情欲は、神に仕える思いをくじき、現実に義務の履行を妨げるからである。野心家は克己勉励し、俗物はやりくり算段に精を出し、官能の欲に引き回される無分別な者は無益な事物にふけらずにはいられないものだが、彼らは神への礼拝に捧げるべき時間を削ってそうしているのである。

 抑制されていない情欲が1つあるだけで、いかなる荒廃と破滅と衰弱と悲哀が魂にもたらされるものかを、ここで述べなくてはならないとしたら、この論述は私の意図をはるかに越えて長大なものとなるに違いない。

 [2. ]罪は、魂を弱くするのと同様、魂を暗くするものでもある。罪は、魂の全面を覆って垂れこめる黒雲であり、その密雲が神のあらゆる愛といつくしみの光を遮ってしまう。それは私たちから、自分には子とされた特権があるという実感をことごとくはぎ取ってしまう。たとえ魂が、慰めとなるような思いをかき集めようとし始めても、罪はまたたくまにそれらを追い散らしてしまう。このことについては後述したい。

 さて、こうした点において、私たちの霊的生活の活力と力は、一に私たちの抑制にかかっているのである。この手段によらなければ、決して私たちは、霊的な活力および慰めの双方を阻害するものを除去できない。情欲の力の下で病み、また傷を負っている者たちは、八方手を尽くして助けを得ようとする。思い乱れて惑乱が高ずると彼らは神に向かって叫び声を上げる。しかし、神への叫びによってすら、彼らが解放されることはない。いかに多くの治療法を用いても無駄である。----「彼らは癒されることがない」。それで、「エフライムがおのれの病を見、ユダがおのれのはれものを見たとき」(ホセ5:13)、種々様々な治療法をためしてみたが、何の役にも立たなかったのである。「自分の罪を認め」て初めて、彼らは癒された(15節)。人は自分の病と傷を認めるかもしれない。しかしそれでも、しかるべき薬を用いなければ決して直ることはない。

 (2.) 抑制は神の恵みをすべて剪定し、心の中でそれらが成長していく余地を作り出す。私たちの霊的生活のいのちと活力は、心の中に植えつけられた恵みという植物がどれだけ力強く生い茂るかに存している。さて、ここに1つの庭園があったとして、そこに貴重な香草を植えたとする。しかし土を全く耕さず、雑草を伸び放題にさせておいた場合、その香草は、おそらく枯れはすまいが、貧弱で、しなびた、役に立たないものとなるであろう。よく探さなければどこにあるかもわからず、時には全く見つけることができないかもしれない。見つかったとしても、それが自分の探していた植物かどうか全く見分けがつかないであろう。たとえ、それがその草だったとしても、まるでものの役に立たないかもしれない。逆に、同じ種類の香草を、別の場所に植えたとする。土そのものは、先に述べた場所の土と同じくらい質が悪く、痩せたものだとしても、丹念に雑草を引き抜き、有害なもの、成長の妨げとなるものを何1つ残さず取り除いておくとしたら、----その香草は見る間に青々と生い茂るであろう。それは庭園の方に顔を向けた瞬間に目に飛び込んでくるほど目立って大きく、いかなる用途にも好きなだけ役立てることができるであろう。御霊が私たちの心に植えつけてくださる種々の恵みもこれと同じである。確かに、ある程度抑制を怠ったとしても、そうした恵みはなくなりはしないし、心の中にとどまってはいるであろう。しかし、それらは死にかけたもの(黙3:2)、しなびて、朽ちかけたものとなる。その心は無精者の畑のようである----雑草があまりにも生い茂っているため、まともな穀物はほとんど見あたらない。このような人が心に、信仰、愛、熱心を探し求めても、ほとんど何も見つけられないであろう。たとえそうした恵みがまだ死に絶えず、真摯なものとして残っているのを見つけられたとしても、それらはあまりにも弱く、情欲でがんじがらめにされているため、ほとんど何の役にも立たないであろう。確かにそれらはなくなってはいないが、今にも死にそうである。しかし逆にその心が抑制によってきれいにされ、情欲の雑草が毎日、絶えまなく引き抜かれており(というのも、情欲にとって天性は最適の土壌であり、それらが毎日のように生じてくるからだが)、恵みが繁茂し生い茂るための余地がふんだんにあるとしたら、----いかにあらゆる恵みがその務めを果たし、あらゆる用途と目的にかなうものとして整えられていることか!

 (3.) 私たちの平安にとって。抑制なきところにはいかなる真摯さの証拠もありえない。それで私の知る限り、抑制ほどはっきりした真摯さの証拠はない。----これは、私たちの平安にとって決して小さな根拠ではない。抑制は、自我に対する魂の剛健な抵抗であり、そこにこそ真摯さは何よりも鮮明に示されるのである。

(第5章につづく)


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