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第3章 第二の一般的原則である、この抑制の手段を確証する----御霊こそこの働きの唯一の創始者----カトリック的抑制のむなしさを明らかにする----彼らの用いる手段の多くは神の定めたものではない----神の定めた手段も濫用されている----この務めに携わる他の人々の誤り----御霊はこの働きのため信者に約束されている(エゼ11:19; 36:26)----私たちがキリストから受けるものはみな御霊を通して来る----いかにして御霊は罪を抑制するか----ガラ5:19-23----この目当てのために御霊が働くいくつかの方法を提示する----御霊の働きであると同時に私たちの義務であるのはなぜか
次の原則として語りたいのは、以上で論じたような抑制を引き起こす、偉大にして至上の動因のことである。それはすでに証明されたように、この論述の骨組みとしてとりあげた言葉によれば御霊----すなわち、聖霊である。
II. 御霊のほか、この働きに十分なお方はなく、御霊を抜きにした方法や手段はみな無にひとしい。御霊こそ、その大いなる作用因である。----御霊は、私たちの内側でみこころのままにお働きになる。
1. 人々が他の治療薬を求めてもそれはむなしい。そうしたものによっては癒されないからである。この罪の抑制のために、どれほどさまざまな方法が処方されてきたかはよく知られている。カトリック教の信仰告白において、その最も宗教めいて見える最大の部分を占めているのが、誤った方法や手段による抑制である。これこそ、彼らの人を欺く荒布の外衣の目的である。彼らの誓願、儀式、断食、告解はみな、この動機からなされている。それらはみな、罪の抑制のためのものである。彼らの説教や法話や祈祷書などもみな、意図することは同じである。このために、あの底知れぬ穴から出てきたいなご(黙9:3)をローマ教会の修道士であると解釈し、「人々は死を求めるが、どうしても見いだせ」ない(6節)ほど人を苦しめる者らとみなす人々は、それが彼らの刺すような説教によって行なわれると考える。ローマ教会は、人にその罪を確信させておきながら、その罪を癒し、抑制する治療薬のありかがわからないため、人々を一生の間、死んだ方がましと思わせるような苦悶と恐怖と良心の呵責にしばりつけておくのである。私の見るところ、これこそ彼らの宗教の実質であり、栄光にほかならない。しかし、彼らがこの務めの性質にも目的にも無知なため、死者の罪を抑制しようと精を出していることやら、彼らがその功徳、しかり、その余徳*1(これが、必要な分を越えてなされた功徳について、彼らが誇らしげに名づけた粗野な名称である)を信ずることで、この務めに毒を混ぜ合わせていることやらを考えると、----彼らの栄光は彼ら自身の恥である。しかし、彼らと彼らの抑制のしかたについては、第7章で詳述したい。
彼らが罪の抑制のため用いる方法や手段として発明したものを、福音の光と知識をより多く有しているはずの者たちの一部が、同じ目当てのために主張し、処方しているという事実はよく知られている。そうした線に沿ってこの目的を進めるやり方が、近年一部の人々によって提唱され、自らプロテスタントと称する他の人々が、あたかも三、四百年前のカトリックの敬虔主義者にでもなったかのように、そうしたものに飛びついている。そうした、キリストにも、キリストの御霊にも全く言及しないような、うわべだけの努力、肉体的苦行、善行、単なる律法的な義務の履行が、罪の抑制のための唯一の手段であり手だてであるとして、大いばりで得々と弁じ立てられている。これは、神の力にも福音の奥義にも通じていない、根の深い無知を示すものである。こうした状況こそ、この平易な論述を発表することにした1つの動機であった。
さて、ローマ・カトリック教徒はなぜ、そのあらゆる努力にもかかわらず、真の意味では決して罪を1つも抑制できないのか。その理由の主だったものをあげてみよう。----
(1.) 彼らがこの目当てのために用い、また主張する方法や手段の多くは、決して神がこの目的のためにお定めになったものではない。(さて、信仰生活において何らかの目当てを達成する効力があるのは、神がその目的のためにお定めになったものだけである)。たとえば彼らの荒布の外衣、誓願、告解、訓練、修道院生活における習練その他のものがそれに当たる。こうしたすべてについて神は云われる。「だれが、こうしたことをせよ、とあなたがたに求めたのか」。また、「彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから」、と。これと同じ性質のものとして、他の人々が主張している、種々雑多な難行苦行がある。
(2.) 彼らは、神が手段として定めておられることも、しかるべき位置づけと序列によって用いてはいない。----たとえば祈り、断食、油断しないこと、瞑想などがこれにあたる。確かにこれらは、ここで考察している務めにとって役に立つものである。だが、これらはみな支流とみなされるべきなのに、彼らは水源とみなすのである。これらは御霊と信仰に従属する手段としてのみ、その目当てを達成できるのに、彼らは、こうしたわざを行ないさえすれば目当てを達成できるとみなすのである。断食を大いに行ない、大いに祈り、種々の時や季節を守りさえすれば事はなる、というわけである。さながら別の箇所で使徒が、「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たち」*[IIテモ3:7]と呼んでいる人々のように彼らは、いつも抑制してはいるが、いつになっても真に抑制することのできない者たちである。一言で云えば彼らは、私たちが地上で営んでいる生まれながらの生活についてなら、生まれながらの人間を抑制する種々雑多な手段を持っているが、情欲や腐敗を抑制するための手段は全く持ち合わせていないのである。
これこそ、この点に関する福音の教えに無知な人々が犯す一般的な過ちであり、世に持ち込まれてきた、ほとんどの迷信と意志崇拝の根底に横たわっているものである。修道院に身を捧げた古代の著述家たちの幾人かは、何とぞっとするような苦行によって自らを苛んだことか! 何という暴力を天性に加えたことか! 何と極端な苦しみを自らに課したことか! 彼らの生き方や理念をつぶさに調べてみると、その根源にあるのは、この過ち以外の何物でもないことが分かる。すなわち、厳格に抑制しようとしているうちに彼らは、腐敗した古い人ではなく、生まれながらの人を攻撃していた----死のからだではなく、自分の生を宿すからだの方を攻撃していた、という過ちである。
その他の人々のうちに宿っている、生来のカトリック主義もまた、真の抑制を行なうものではない。人は自分を圧倒してきた罪の咎目をいらだたしく思う。それでただちに、二度と同じ罪は犯さないと、自分と神に約束する。彼らは、しばらくの間は自分をよく見張り、祈っているが、しだいにこの熱が冷め、罪意識もなくなってくる。それで抑制の方も立ち消えになってしまい、罪は自分の旧領に戻ってくるわけである。種々の義務は、不健全な魂にとっては、きわめてすぐれた食物であるが、病んだ魂を癒す薬にはならない。自分の食べ物を薬の代用にする者は、さしたる効力を期待してはならない。霊的に病んだ人が、種々のわざを行なうことによって自分の病を追い出すことはできない。しかし、後で眺めるように、まさにそれこそ、自分の魂を欺いている人々の生き方なのである。
こうした生き方のいずれも十分ではないことは、なさなくてはならないわざそのものの性質から明らかである。それは、自分の努力では決して間に合わないほど無数のことを同時にいくつも行わなくてはならないということであり、全能の活力によらなくては成し遂げられない種類のわざである。このことについては後段で明示したい。
2. ということは、これは御霊のみわざである。というのは、----
(1.) 御霊は、このわざを行なうために私たちに与えられると神から約束されているからである。石の心を取り除くこと----すなわち、かたくなで、高慢で、反抗的で、不信仰な心を取り除くこと----は、おおむね私たちが今ここで扱っている抑制のわざである。さて、このことは御霊によってなされると約束されたことでもある。「わたしは新しい霊を与えて、石の心を取り除く」*(エゼ11:19, 36:26)。そして、あらゆる手段が失敗するときも、神の御霊によれば、このわざはなされるのである(イザ57:17-18)。
(2.) 私たちの抑制はことごとくキリストの賜物によってもたらされ、キリストの賜物はことごとく御霊によって私たちに伝えられ、与えられる。「キリストを離れては、私たちは何もすることができない」*(ヨハ15:5)。キリストによる力の満たし、そして問題からの解放は、いかなる恵みが始まり、増し加わり、活動していくときも、みな御霊によって伝えられる。御霊によってのみキリストは信仰者のうちにおいて、また信仰者に対して、働かれるのである。そしてこのお方によって私たちには、私たちの抑制がもたらされる。「神は、私たちに悔い改めを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、上げられました」*(使5:31)。そして私たちの悔い改めの中で私たちの抑制は決して小さな部分ではない。どのようにして主はそれをなさるのか? 「約束された聖霊を受けて」主は、そのための御霊を世に送ってくださるのである(使2:33)。あなたがたも、主が御霊を遣わすと告げられた、数多くの約束を覚えているであろう。それは、テルトゥリアヌスが語るように、Vicariam navare operam(代理としての働きをさせるため)であり、私たちのうちで成し遂げなくてはならない働きを行なうために、遣わしてくださるのである。
さて1つか2つの問いに答えることで、私が主に語りたいと思う主題へ話を進めることができよう。
最初の問いは、いかにして御霊は罪を抑制なさるのか、ということである。
私は答える。通常それは、3つの方法によってなされる、と。----[1.] 私たちの心を恵みで満ちあふれさせ、肉および、肉の種々の実、そして肉の種々の原理と正反対の実で満ちあふれさせること。そのように使徒は、肉の実と御霊の実を対立させている。「肉の実はこれこれである」、と彼は云う(ガラ5:19-21)。「しかし、御霊の実は全く正反対であり、全く別の種類のものである」、と(22、23節)。よろしい。しかし、もしこれらが私たちのうちにあって満ちあふれたとしたら、もう一方のものも満ちあふれるのではなかろうか? 否、と彼は云う。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(24節)。しかし、どのようにしてか? 「御霊によって生き、御霊に導かれて進む」*ことによってである(25節)。----すなわち、私たちのうちに御霊のこうした種々の恵みを満ちあふれさせ、そうした恵みに従って歩むことによってである。なぜなら、と使徒は云う。「この二つは互いに対立して」いるからである(17節)。それで両者は、ある程度以上強いかたちでは、同じ対象の中に併存できない。この、いわゆる「聖霊による更新」*(テト3:5)こそ、罪を抑制する王道の1つである。聖霊は私たちを成長させ、活力を旺盛にし、強壮にするとともに、肉のすべての実に逆らい、対立し、それらを破壊するような種々の恵みに満ちあふれさせてくださる。そうした恵みによって、内住の罪そのものの息をひそめた働きが、あるいは活発な働きすらもが、破壊されていくのである。
[2.] 罪の根幹および習慣を弱め、滅ぼし、取り去ることのできる、現実かつ具体的な能力によって。それゆえ御霊は、「さばきの霊と焼き尽くす霊」と呼ばれ(イザ4:4)、私たちの情欲を現実に焼きつくし、滅ぼすのである。御霊は、全能の能力によって石の心を取り除く。なぜなら御霊は、最初にどういう種類の働きを行なうか決するお方であるのと同じく、その働きを最後まで徹底的に続けていくお方だからである。御霊は情欲の根源そのものを焼きつくす火である。
[3.] 御霊は、信仰によって罪人の心の中にキリストの十字架をもたらし、その死におけるキリストとの交わりを私たちに与え、その苦しみにおけるキリストとの交わりを伝えてくださる。そのなさり方の詳細については後述したい。
第二に、もしこれが御霊だけの働きだとすれば、なぜ私たちに対してこの勧告が与えられているのか?----神の御霊だけがこれを行なえるのだというなら、御霊に完全におまかせにしてもよいのではなかろうか。
[1.] これが御霊の働きであるというのは、私たちのうちにある、あらゆる恵みと良き行ないが御霊の働きであるというのと同じ意味にほかならない。御霊は、「みこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださる」*(ピリ2:13)。御霊は、「私たちのなすすべてのわざ」をしてくださる(イザ26:12)。----「御力による信仰の働き」*をなしてくださる(IIテサ1:11; コロ2:12)。御霊は私たちに祈らせるとともに、「哀願の霊」であられる(ロマ8:26; ゼカ12:10)。にもかかわらず私たちは、こうしたすべてのことを行なうよう勧告が与えられており、勧告されるべきなのである。
[2.] 御霊は、私たちの抑制を私たちのうちに作り出してくださるが、それでもそれを、あくまで私たちの従順の行為としておかれる。聖霊が私たちのうちで、また私たちの上に働きかけなさるのは、私たちが、自らのうちにおいて、また上からの働きかけに対して、ふさわしい者になったときである。すなわち御霊は、私たち自身の自由と、自由な従順とを滅ぼしはしないのである。御霊は私たちの理性、意志、良心、感情に対して、それらの性質に合致した形で働きかけなさる。御霊は、私たちのうちで、私たちとともにお働きになるのであって、私たちに反して、私たち抜きに働かれるのではない。それで御霊の助力は、抑制という働きを励まし、助長するものではあるが、私たちがこの働きそのものを怠ってよい理由にはならない。だが実際のところ、ここで私は、無限の愚かしい労苦を続けるあわれな人々のことを痛ましく思わざるをえない。彼らは罪を確信し、自分の確信の力に抗することができず、無数の方法と義務で身を悩まし、罪を押さえつけようとするが、神の御霊について何も知らないため、すべてが無駄骨折りなのである。彼らは戦闘しても勝利なく、戦いだけあって平和なく、一生の間奴隷となっている。食糧にもならない物のために力を費やし、益にならない物のために労するのである。
あわれな被造物が従事する戦いの中でもこれほど悲しいものはない。律法から来る確信の力の下にある魂は、罪との戦いに無理矢理押し出されるが、その戦闘のための力がない。彼らは戦わざるをえないが、決して相手を打ち負かすことができない。敵軍の剣の前にむざむざ屠殺されるために突き出されたのと同じである。律法は彼らを前に押し出すが、罪は彼らを撃退する。時には彼らは、実際に自分たちが罪の攻撃を退けたと思うが、その実彼らは埃を巻き上げて罪を見えなくしたにすぎない。すなわち、彼らは恐れや悲しみや苦悩といった生来の感情を病的に高じさせ、それで罪を打ち負かしたと思い込むが、その実、罪はかすり傷1つ負っていないのである。それで彼らが冷たくなるとき、彼らは再び戦わなくてはならない。そして一度は殺したと思った情欲が無傷で立ち現われるのである。
また、もしもこのように力を尽くして労苦して、それでも天国に入れない者の場合がこれほど悲惨なものだとすると、これらすべてを軽蔑し、四六時中罪の力と支配のもとにあり、それを喜んでそうしている者、悩みといえば今以上に思うさま肉のため心を使えず、今以上に肉の情欲を満たすすべがないことであるような者の状態はどうであろうか?
*1 (訳注)「余徳」(supererogation)または「余徳のわざ」(works of supererogation)とは、カトリックの教えの1つで、傑出した聖徒が魂の救済に必要な分をはるかに越えて行なった善行が、余分の徳として宝蔵され、死後、他の人々の欠陥を補うものとなる、というものである。H・M・カーソン著『夜明けか黄昏か』(1982, いのちのことば社)p.235-236 参照。[本文に戻る]
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