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第2章

この抑制の必要性に関する主要な主張を確認する----抑制は最上の信者も行なうべき義務(コロ3:5; Iコリ9:27)----内側の罪が常にとどまり続けるため、人はこの世では完全になれない(ピリ3:12; Iコリ13:12; IIペテ3:18; ガラ5:17など)----信者のうちにとどまる罪の活動(ロマ7:23; ヤコ4:5; へブ12:1)----罪の実りのおびただしさと、その傾向----あらゆる情欲は同種の最悪の罪を目ざす----内側に巣くう罪と戦うため与えられた御霊と新しい性質(ガラ5:17; IIペテ1:4、5; ロマ7:23)----抑制を怠ることによる恐るべき結果(ロマ3:2; ヘブ3:13)----本論述全体の第一の一般的原則が確証される----この義務の欠如が嘆かれる

 前章でこの論考の土台を据えたので、上で引き出しておいた主要な結論をそれぞれ手短に確認し、私が主として意図している論述に入りたいと思う。----

I. 純粋な信仰者、すなわち、人を罪に定める罪の力から解放されていると保証された人々ですら、なおも内側に巣くう罪の力を抑制することを一生涯続けていかなくてはならない。

 だから使徒は云うのである。「ですから、地上のからだの諸部分……を殺してしまいなさい」、と(コロ3:5)。彼はだれに向けて語っているのか? 「キリストとともによみがえらされた」人々(3:1)、キリストとともに「死んで」いる人々(3:3)、キリストをいのちとし、「キリストとともに、栄光のうちに現われ」る人々(3:4)である。そのあなたがたが、殺さなくてはならない。それを日々の務めとしなくてはならない。生きている限り不断に励まなくてはならない。一日たりともこの務めを休んではならない。罪を殺し続けなくては、罪に殺され続けるほかはない。あなたがたは事実上キリストとともに死んだ者、キリストとともによみがえらされた者ではあるが、だからといってこの務めから免除されるわけではない。私たちの救い主は、ご自分のうちにあって実を結ぶあらゆる枝、あらゆる真の生きている枝を、御父がどのようにお取り扱いになるか告げておられる。「わたしの父は……実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(ヨハ15:2)。御父は刈り込みをなさる。それも一日や二日だけではなく、枝がこの世にある限りそうなさる。そして使徒は、自分が日々いかに身を処しているかをこう語っている。「私は自分のからだを打ちたたいて従わせます」(Iコリ9:27)。「私はそれを毎日行なっている」、と使徒は云うのである。「それは私が一生なすべき働きなのだ。私はそれを怠りはしない。それが私の務めなのだ」、と。さて、もしこれがパウロのなすべき働きであり務めであったとしたら----他の凡百の信者とは比べものにならないほど恵みと啓示と喜びと特権と慰めとに進んでいたパウロがそのようにしていたとしたら----、私たちが地上において、この働きと義務から免除されるような境地に達することなど、どうして望めようか? これが信者の一生の務めである理由については、そのいくつかを簡単に示せると思う。----

 1. 内側に巣くう罪は、私たちがこの世にある限り、常にとどまり続ける。したがって、それは常に抑制されなくてはならない。人が神の戒めを完璧に守れるだの、地上で完全に達しうるだの、罪に対して全く完璧に死ねるだのと主張した人々の、愚かしくも馬鹿げた無知な論議に、私は今かかずらうつもりはない。おおかた、そのような邪論をいだいた人々は、たった1つでも神の戒めを守ろうとすることに、どれほどのことが伴っているか全く知らなかったに違いない。質的な完全さにおいてもはるかに低い状態にあったため、部分的な完全さ、すなわち、すべてにおいて真摯に従順を尽くそうという姿勢にすら決して到達しなかったに違いない。それゆえ、いま現在、完全について吹聴する人々の多くは、多少は知恵がついたか、善悪の区別を全くつけないところにこそ完全はあると断言している。彼らは、私たちが善と呼ぶことにおいて完全なのではなく、何事も同じであるとし、邪悪さの極みを完全と云うのである。他の人々は、もとからある内住の罪を否定し、神の律法の霊的な性格を人間の肉的な心に合わせて適当に加減することによって、完全に達する新しい道を見出したと云う。だが彼らは、キリストのいのちについても、信者のうちにおけるその力についても、まるで無知であることをさらけ出しているにすぎず、福音とは全く無縁の新しい義をこしらえ上げては、その肉的な思いによって、ひとりよがりに心を高ぶらせているのである。しかし私たちは、書かれていることを越えてまで賢くなったり、他人の口車に乗って神が私たちになさらなかったことまで誇ろうなどとは思わない。私たちの見るところ、内側に巣くう罪は、私たちがこの世にある限り、大なり小なり程度の差こそあれ、常に私たちのうちに住み続けるのである。私たちは、到底「すでに得た」とか、「すでに完全にされている」と語ることはできない(ピリ3:12)。私たちのいのちの日の限り、私たちの「内なる人は日々新たにされて」いるのであり(IIコリ4:16)、新しい人が新たにさせられるに従い、古い人は崩れ朽ちていく。地上にいる限り、私たちは「一部分しか」知らず(Iコリ13:12)、残存する暗黒は、私たちが「私たちの主……イエス・キリストの恵みと知識において成長」する(IIペテ3:18)ことによって、徐々に取り除かれていくにすぎない。また、「肉の願うことは御霊に逆らい……、そのため私たちは、自分のしたいと思うことをすることができない」*(ガラ5:17)。したがって私たちは、従順においても理解の程度においても不完全である(Iヨハ1:8)。私たちのからだは「死のからだ」である(ロマ7:24)。そのからだから解放されるには、肉体の死を経るしかない(ピリ3:21)。さて、このように罪が私たちのうちにとどまり続ける限り罪を抑制し殺し続けることが私たちの義務である以上、私たちは務め続けなくてはならない。敵を殺す任務を命ぜられた者が、相手の息の根が絶える前に戦いをやめるなら、仕事を中途半端で放り出したことになる(ガラ6:9; へブ12:1; IIコリ7:1)。

 2. 罪は私たちのうちになおもとどまり続けているだけでなく、なおも活動し続けている。なおも、たゆむことなく肉の行ないを生じさせようとしている。罪が私たちを煩わさなければ、私たちも罪にかかずらわないかもしれない。しかし罪とは、あるかないかわからないほど静かにしているときほど激しく活動していることはなく、深海のように、表面的にはこの上なく穏やかなときほど奥深く流れていることはないのが常であるため、私たちは、いついかなるときも、またどのような状態にあるときも、たとえ全く疑念の起こらないときでさえも、おさおさ怠りなく罪を抑える手立てを講じていなくてはならないのである。罪は私たちのうちにとどまっているだけでなく、「からだの律法がなおも私たちの心の律法に反抗して」*おり(ロマ7:23)、「私たちのうちに住んでいる霊は、欲望にかられてねたみに走る」のである(ヤコ4:5 <英欽定訳>)。罪は常に働き続けている。「肉の願うことは御霊に逆ら」う(ガラ5:17)。情欲はなおも誘惑し続け、罪をはらみ続ける(ヤコ1:14)。あらゆる道徳的行為において、罪は常に悪に傾けようとするか、良きことを妨げようとするか、神との交わりから私たちの心を引き離そうとする。罪は心を悪へと向かわせる。「私は、自分で……したくない悪を行なっています」、と使徒は云う(ロマ7:19)。その理由は何か。「私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいない」からである。それで善をするのが妨げられるのである。「私は、自分でしたいと思う善を行なわない」でいる(19節)。すなわち、「全く同じ理由によって、私はそれを行なわないか、正しいしかたで行なっていない。私の聖い部分はすべてこの罪によって汚されているのだ」。「肉の願うことは御霊に逆らい……、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができない」(ガラ5:17)。肉は私たちの霊のたがをはずし、それゆえ「まつわりつく罪」と呼ばれる(へブ12:1)。こういうわけで使徒は罪について、あれほど深刻な嘆きをもらしているのである(ロマ7)。このように罪は常に活動し、常に悪をはらみ、常にそそのかし誘惑している。神との交わりや神のための奉仕において、一度でも、その行ないが内住の罪によって腐敗させられなかったと云えるような者がどこにいるだろうか? そして、こうした営みは、多かれ少なかれ私たちの一生の間続く。ということは、罪が常に活動している以上、私たちもまた常に抑制するのでなければ、私たちの敗北は決まったも同然である。無抵抗のまま突っ立ち、敵がその打撃を倍加するにまかせているような者は、最後には征服されてしまうに違いない。罪が私たちの魂を殺そうとして狡猾に、また油断なく、力の限りを尽くし、絶えず事に当たっているというのに、私たちの方が怠惰で、ものぐさで、愚かしく、そのため破滅に向かいつつあるとしたら、安らかな結末など期待できるだろうか? 罪と私たちとの関係は、一日の例外もなく、攻撃を退けるか退けられるか、打ち勝つか打ち負かされるかでしかない。そしてこれは、私たちがこの世にある限りそうあり続けるのである。

 もしこの戦いにおいて罪を和解に持ち込み、休戦をもたらせる人がいるとしたら、この義務から免除されてもよいであろう。もし罪が、一日でも、また何か1つの義務についてでも容赦することがあるとしたら、その人は、(むろん従順の霊的性格や、罪の狡猾さについて十分通じているという条件つきでだが)、この義務については自分の魂に向かって、「たましいよ。休むがいい」、と云ってもよかろう。しかし、罪の煩わしい反抗から解放されることを魂であえぎ求めている聖徒たちは、罪を相手に回して手にできる唯一の安全は、絶えざる戦いのうちにしかないと知っているものである。

 3. 罪は単に逆らい立ち、活動し、反抗し、心を悩ませ、乱すだけでなく、常時抑制を加えられることなしに放っておかれると、際だって呪わしく、醜い、魂を滅ぼすもろもろの罪を生み出す。使徒は、そうした罪の行ないと結実とが、いかなるものか告げている。「肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです」(ガラ5:19-21)。罪が、ダビデやその他あまたの人々をどのような目に遭わせたかは周知のことである。罪は常にその限界を極めようとする。罪が人をそそのかし、誘惑しようとして沸き立つとき、そのまま好き勝手にさせておくと、その種の罪のうちで最悪のものへと向かおうとするのが常である。あらゆる汚れた思いや汚れた一瞥は、できるものなら姦淫となろうとする。行き着くところまで行き着けば、あらゆる貪欲な欲望は他者への抑圧となり、あらゆる不信仰な思いは無神論となる。人は、その心に罪が醜い言葉を語りかけていても聞こえない状態に陥るかもしれない。----罪が何か大きな、醜い罪へとそそのかす語りかけをしているのが聞こえない状態に陥るかもしれない。しかし聞こえようが聞こえまいが、心に生じたあらゆる情欲は、放っておけば最悪の罪に至るであろう。それは墓場にも似て、飽くことを知らない。さてここにこそ、罪の惑わしの決して小さくない部分がある。人はこの惑わしによってかたくなにされ、滅びに至るのである(ヘブ3:13)。----最初は罪は、いわば遠慮がちに誘いかけたり申し入れたりしてくるが、いったん心の中に足がかりを得ると、絶えず地歩を固めつつ、同じ種類のさらに悪質な罪へと押し進んでいく。この新しい動きと前進との果てに、いかに神からの離反へと通ずる入り口がぱっくり開いているかを、魂はまず注目することがない。さほど深入りしなければ、どれもみな大したことではないと考えるのである。だが魂は、ある罪に対して無感覚になる分だけ----すなわち、福音が要求する敏感さを失う分だけ----かたくなにされているのである。逆に罪はどんどん前進していく。罪は、人が完全に神を放棄し、神に反抗するようになるまで、しゃにむに突き進むものだからである。このように罪が、すでに得た地歩を確保しつつ、その極みへ向かって次第次第に前進して行くこと、それは罪の性質というより、いかに罪が欺瞞に満ちているかという証左である。さて、これを防げるには抑制するしかない。一瞬ごとに罪の根を枯らし、罪の頭部を叩き潰すこと、そしてそのようにして、罪の狙いがどこにあろうと、その意図を妨げることしかない。この世における最上の聖徒といえども、この義務を怠るなら、他のだれしも陥る呪わしい多くの罪に陥らざるをえないであろう。

 4. これこそ私たちに御霊と新しい性質が与えられている主な理由である。----私たちの内側には罪と情欲に対抗する原理が与えられている。「肉の願うことは御霊に逆ら」う。確かにそれは事実である。だが、「御霊は肉に逆らう」のである(ガラ5:17)。御霊のうちには、あるいは霊的な新しい性質のうちには、肉が御霊に反抗する傾向を有しているのと同様、肉に反抗する傾向がある。IIペテ1:4、5も同じことを云っている。私たちは、神のご性質にあずかる者となることによってこそ、世にある欲のもたらす汚濁を免れるのである。また、からだの中に罪の律法があるのと同じく、心の律法もあるのである(ロマ7:23)。さて、第一に、この世で最も不条理で筋の通らないこと、それは二人の戦闘員が交戦している最中に、一方を縛り上げて全力を出させないようにしておきながら、もう一方を自由にしておき、好き放題に相手を傷つけさせるということである。また、第二に、この世で最も愚かなこと、それは私たちの永遠の状態[救い?]のために戦っている者を縛り上げ、私たちの永遠の滅びを求めて日夜暗躍する者を放置しておくことである。この争いには、私たちのいのちと魂がかかっている。御霊と新しい性質を日々用いて罪を抑制しようとしないこと、それは、私たちの最大の敵に対して、神が私たちに与えてくださった、この上もない援助を無視することである。私たちがすでに受けているものの活用をおろそかにするなら、神がそれ以上のものを与えるのを差し控えなさっても当然であろう。神の種々の恵みは、神の賜物と同じく、私たちがそれを用い、実行し、生かすために与えられているのである。日ごとに罪を抑制しないということは、そうするための原理を私たちに供与してくださった神のいつくしみと親切、知恵と恵み、そして愛に対して罪を犯すことである。

 5. この義務を怠ることによって魂は、使徒が自分の魂について確言したようなものとは全く正反対の状態になってしまう。「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(IIコリ4:16)と使徒は云う。だがこうした人々の場合、内なる人は衰え、外なる人が日々新たにされているのである。罪はダビデの家のようになり、恵みはサウルの家のようになる[IIサム3:1]。実践成功こそ、心のうちで恵みをはぐくむ二大要因である。恵みは、全く動かされないまま放置されておくと、しなびて衰弱し、死にかけたような状態になってしまう(黙3:2)。罪が地歩を固めれば心はかたくなになる(ヘブ3:13)。これが私が云いたいことである。この義務をなおざりにすると、恵みはしおれ、情欲は力を増し、心の大枠は悪化の一途をたどる。そして、それが多くの人々の上にどれほど絶望的で恐るべき結果を生じさせてきたかは、主がご存知である。罪は、人が抑制を怠ったため大々的な勝利をおさめたところでは、恵みの骨々を砕く(詩31:10; 51:8)。人を弱め、病ませ、半死半生の状態にする(詩38:3-5)。そのため人は見ることさえできなくなる(詩60:12; イザ33:24)。そして、このあわれな者らが打たれに打たれ、傷に傷を受け、くじきにくじかれ、自ら奮い立って猛然と反抗するようなことが一度もなければ、罪の惑わしによって心をかたくなにし、魂を出血死に至らせるほか何が期待できるだろうか(IIヨハ8)。実際、私たちの目の前で毎日のように繰り広げられている、こうした怠慢による恐るべき結果を考えると悲しいものがある。かつては確かに心へりくだり、柔和で、心砕かれたキリスト者であり、罪を犯さぬよう細心の注意を払い、神と神にかかわるすべてのことに熱心で、神の安息日と定められた務めとを尊重していた人々が、この義務を怠ることによって俗的で、肉的で、冷たく、怒りっぽく、この世の人やこの世の物事に迎合する者、信仰者の名折れ、そして彼らを知るすべての人々にとって恐ろしい誘惑となり果ててしまう。そのような人を私たちは見ていないだろうか。実を云うと私たちの間には、一方では厳格で融通のきかない、しかもその大部分においては俗的で、律法的で、非難がましく、不公平で、怒りやねたみや悪意や高慢の入り交じった心持ちによって抑制をとらえる人々があるかと思えば、他方では自由だの恵みだのその他もろもろにかこつけて、したい放題の人々があるという具合で、福音的な抑制はほとんど失われているのである。このことについては後述したい。

 6. 「神を恐れかしこんで聖きを全う」することは私たちの義務である(IIコリ7:1)。日々「恵み……において成長」し(Iペテ2:2; IIペテ3:18)、「内なる人」を「日々新たに」する(IIコリ4:16)ことは私たちの義務である。だがそれは、日ごとに罪を抑制することなくしては不可能である。罪は、私たちが何か聖いわざを行ない、何か成長の段階を踏むたびに、全力を傾けて反抗する。したがって自分の情欲の種々の欲望を軽々とねじ伏せられないような人はだれも、聖潔において少しは進歩したなどと思ってはならない。自分の行く手をふさぐ罪を殺しもしない人は、旅路の目標に向かって一歩も踏み出してもいない。罪からの反抗を全く感じない者、罪の抑制をあらゆる詳細にわたって本気で始めていない者は、罪となれあっているのであって、罪に死んではいないのである。

 さて、これが以下に続く私たちの論考の第一の一般原則である。確かにキリストの十字架において、ありとあらゆる罪は、(こう云ってよければ)功徳的に殺され、抑制された。また、確かに私たちの最初の回心において、罪の確信と、罪ゆえのへりくだりと、罪に反抗し罪を打ち滅ぼすべき新しい原理が植えつけられたこととによって、全般的な抑制の土台は現実に据えられている。----にもかかわらず罪は、最上の信仰者のうちにおいてすら、彼らが世に生きている限りは、とどまり続け、活動し続け、働き続けているため、信仰者にとって、絶えず日ごとに罪を抑制することはその一生の義務なのである。しかし次の原則の考察に移る前に、事のついでとして私は、最近の信仰告白者の多くに苦言を呈さざるをえない。彼らは、当然そうあるべきほどに大きな、はっきりとした抑制の実を結んでいない。それどころか、抑制の青葉すらほとんど芽吹かせないのである。実のところ、今の世代の人々の上には、まばゆいばかりの光が降り注がれており、それに加えて多くの霊的賜物が分かち与えられている。そのためばかりではないが、現代はおびただしい数の信仰告白者と入信者がぞくぞくと起こされており、双方とも、きわめて数が増え増大した。これにより、至る所で信仰や信仰的な義務についての議論がかまびすしく交わされており、至る所で説教が聞かされている。----それも、従来のような空疎で、軽薄で、下らぬ、無意味なしかたによってではなく、相当程度に豊かな霊的賜物の発露とともになされている。----それゆえ、もし信者の数を、光や賜物や入信者によって量るとしたら、教会には、「だれが私に、この者たちを生んでくれたのだろう」、と云うべき理由があるかもしれない。しかし今、彼らの内実を量るのに、この、キリスト者の明確な特徴たるべき大いなる恵み[罪の抑制]をもってするなら、彼らの数はさほど増えていないのかもしれない。この光の時代のおかげで回心したという信仰告白者たち、そしていかなる程度であれ前の時代にはほとんど知られていなかったような(といって私は前の世代の信仰者をさばきはしない。むしろ、主が彼らのうちでなしてくださったことを誇りたいと思う)種類の霊性で語り、告白している信仰告白者たちは、その大部分が、みじめなほど抑制の欠けた心の証拠を示しているのではなかろうか? もし時間の浪費や、怠惰さや、それぞれが置かれた状況において用いられることの乏しさや、ねたみ、争い、不和、意地の張り合い、怒り、高慢、俗化、利己心(Iコリ1)などがキリスト者の記章だとしたら、私たちはまわり中がキリスト者であると云ってもよいであろう。さらにもし、多くの光(しかも、望むらくは救いに至る光)を受けている者がこのような状態であるとするなら、信心深いと目されはしていても内心では福音の光を軽蔑している者たちについては何と云うべきだろうか? 彼らが、いま私たちが考察している義務について知っていることといえば、せいぜい、人は時々は外的な楽しみにおいて自分の欲望を殺さなくてはならない、という程度でしかない。しかも、それは確かに罪の抑制において最も低い段階にあたる事柄の1つではあるが、彼らはめったにそれを実行に移さないのである。願わくは、あわれみ深き主が私たちに抑制の霊をお送りくださり、この疾病を治癒してくださるように。これは悲惨な実状である。

 抑制されていない、あらゆる信仰告白者に例外なくつきまとう2つの悪がある。----第一のものは自分自身のうちにあり、もう1つは他の事々の中にある。----

 1. 自分自身のうちにある悪: 彼が自分をどのような者だと云おうと、彼には微々たる罪意識しかない。少なくとも、日常的な弱さである種々の罪についてはそうである。抑制されていない生き方の根源は、心の中に何の苦々しさも感じず罪を消化吸収してしまうことにある。人がその妄想を高じさせ、恵みとあわれみには、自分の日々犯す罪を丸飲みに消化できる力があるのだなどと考えるに至るとき、その人は、まさに神の恵みを好色に変え、罪の惑わしによって心かたくなにされる瀬戸際にあるのである。そんな考えをいだいて平然としていることほど、偽りの腐った心を示す確かな証拠はない。私たちをきよめるために与えられたキリストの血(Iヨハ1:7、テト2:14)、また私たちに悔い改めを与えるためのキリストの高挙(使5:31)、また私たちにあらゆる不敬虔を捨てるよう教えさとすべき恵みの教理(テト2:11、12)----これらを用いて罪を奨励するなどというのは、とどのつまり骨々を砕くことになる反逆である。今の時代に棄教した大多数の信仰告白者は、この扉を通って私たちのもとから出ていった。しばらくの間は、彼らの大部分は罪の確信のもとにあった。その確信ゆえに、種々の義務に励む心を起こされ、信仰の告白へと至らされ、「主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ」た(IIペテ2:20)。しかし彼らは、この福音の教理を知るようになり、義務にも飽き果てたとき(というのも、心から義務を果たしたいと思わせる内なる原理を何も持っていないからだが)、恵みの教理をねじまげて、幾多の怠慢に身をまかせるようになる。そして、いったんこの悪につかまれてしまうと、あっというまに永遠の破滅へと転落していくのである。

 2. 他の事々における悪: これには、2つの点において彼らに悪しき影響がある。----

 (1.) それは人を、自分が最上の信仰者と同じくらい良い状態にあると思い込ませることによって、かたくなにする。抑制の欠けた人々が自分のうちに見るものは、何であれ、あまりにも汚染されているため、彼らにとって何の価値もなくなっている。彼らは信仰熱心ではあるが、そこには自制や全般的な義が欠けている。彼らは放蕩を拒否するが、俗臭ふんぷんである。世から分離はするが、全く自分のためだけに生きており、地で慈愛を行なおうというような気持ちは毛ほどもない。あるいは、話ぶりは霊的だが、生き方は愚かしい。神との交わりを口にはするが、ありとあらゆる点でこの世に迎合している。得々として罪の赦しについて語るが、自分は他人を決して赦さない。こういうわけでこのあわれな者らの心は、新しく生まれもしないまま、かたくなになっていくのである。

 (2.) それは人を、いま程度の状態になれれば何もかも大丈夫だと信じ込ませることによって、欺く。それで、そうした人々は、信仰深い人だとの評判を得たいという大きな誘惑にたやすく捕らえられてしまう。これにより彼らは、現在持っているように見えるものについては、長足の進歩を示すかもしれないが、その実、永遠のいのちすら自分のものとしていないのである。しかし、これらを始めとする、抑制されていない歩みに伴う悪のすべてについては後述することにしたい。

(第3章につづく)

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