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第14章 これまであげた指針の一般的活用――目指す働きを成し遂げるための大指針:キリストに基づいて信仰を働かせること――これを行なういくつかのしかた――キリストにある豊かさに救済を求めることが提示される――キリストに対する大いなる期待――こうした期待の根拠:主のあわれみ深さ、主の真実さ――そのような期待の結果:キリストの側において:信仰者の側において――信仰は特にキリストの死に基づいて働かせるべきこと(ロマ6:3-6)――この務め全体における御霊のみわざ
さて、私がここまで詳しく述べてきたことは、どちらかといえば、目指す働きにとって予備的な事がらであり、その働きをもたらすものではなかった。それらは、この働きそのものに対して、心が当然なすべき準備であって、それなしには、私がここまで目指してきたことは成し遂げられないであろう。
この働きそのものに関わる指針は、ごく僅かである。私が云うのは、この働きに特有の指針のことである。それらは以下のようなものとなる。――
1. あなたの罪を殺すため、キリストに基づいて信仰を働かせるがいい。キリストの血こそ、罪に病む魂にとって大いなる特効薬である。この血潮のうちに生きるなら、あなたは勝利者として死ねるであろう。しかり。神の良き摂理を通して、あなたは、自分の情欲があなたの足元に死んで横たわるのを生きて見られるであろう。
しかし、あなたは云うであろう。「いかにすれば信仰は、キリストに基づいて働き、この目当てと目的を果たせるのでしょうか?」、と。
(1.) 信仰によって、あなたの魂を、この目当てと目的のためにイエス・キリストのうちに蓄えられている貯えで満たし、それによって、あなたのあらゆる情欲が――あなたをがんじがらめにしている当の情欲が――抑制されるようにするがいい。信仰によって、このことを熟考してみるがいい。すなわち、たとえあなたが自分自身ではあなたの霊的疾病を打ち負かすことができず、たとえあなたが戦うことに倦み疲れ、全く心くじけんばかりになっているとしても、それでもイエス・キリストのうちには、あなたを十分に救済するものがあるのだ、と(ピリ4:13)。あの放蕩息子は、まさに心くじけそうになったときに、父の家にはパンがあり余っているはずだ、と云った[ルカ15:17]。彼は、そのパンから遠く離れていたが、それがあるということが彼の救いとなり、彼を持ちこたえさせたのである。あなたの苦悩と苦悶がいかに大きくとも、考えるがいい。あの満ち満ちた恵みが、あの富が、あの力と活力と助けの宝庫が[イザ40:28-31]、私たちを支えるために、キリストのうちに蓄えられているということを(ヨハ1:16; コロ1:19)。こうした思いを精神の中に持ち込んで、そこにとどめておくがいい。キリストが、「イスラエルに悔い改めを与えるために、君として、救い主として、上げられた」*お方であることを考えるがいい(使5:31)。それが悔い改めを与えるためだとしたら、罪の抑制を与えるためでもある。一方がなければ、他方もない。否、ありえない。キリストによれば、私たちはキリストにとどまることによって、きよめの恵みを得るのである(ヨハ15:3)。キリストにある満ち満ちた豊かさに基づいて信仰を働かせ、私たちのための貯えを受け取るのは、キリストにとどまる、この上もないしかたである。私たちがキリストに植え込まれることも宿ることも信仰によっているからである(ロマ11:19、20)。それでは、信仰によってあなたの魂を、次のような思いと理解で働かせるがいい。「私は貧しく、弱い生き物である。水のように奔放なので、他をしのぐことはない。この腐敗は私の手に負えず、今にも私の魂を破滅させる寸前である。私は何をすればいいかわからない。私の魂は焼けた地のようになり、ジャッカルのねぐらとなっている。私は約束しては、それを破る繰り返しだった。誓いや誓約は何にもならなかった。かつて私は何度も、自分は勝利を得た、これで解放される、と確信したが、それは欺きだった。今の私にははっきりわかる。人力をはるかに越えた援助と助力がなければ、私は終わりなのだ。打ち負かされ続けて、ついには全く神を捨てる羽目に陥るしかないのだ。だがしかし、私がこのような状態と状況にあるとはいえ、弱った手を持ち上げ、衰えたひざを強くしよう。見よ。そのみ心に恵みが豊かに満ち、その御手に力が豊かに満ちておられる主キリストは、こうしたご自分の敵どもすべてを根絶することがおできになる[ヨハ1:16; マタ28:18]。主のうちには、私を救済し、支えるに足る十分な貯えがある。主は私の衰え果て、死にかけた魂をも取り上げて、私を圧倒的な勝利者とすることがおできになる[ロマ8:37]。『わが魂よ。なぜ言うのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない』*(イザ40:27-31)。主は、『私の魂という乾いた、焼けた地を沢とし、私の潤いのない、不毛な心を水のわく所と』*することがおできになる。しかり。主は、この『ジャッカルの伏したねぐら』を、この心を、忌まわしい情欲と火のように燃える誘惑とに満ちた場所を、『茂み』とし、ご自分に対する実り豊かな場所とすることがおできになるのだ(イザ35:7)」、と。そのように神は、誘惑のもとに置かれていたパウロに、ご自分の恵みの十分さを考えさせることによって平静を取り戻させた。「わたしの恵みは、あなたに十分である」(IIコリ12:9)。確かに彼は、その誘惑から即座に解放されるほどの恵みにあずかりはしなかったが、それでも神にある恵みの十分さは、その目当てと目的のために、彼の霊を落ちつけるに足るものだったのである。ならば私は云いたい。信仰によって、イエス・キリストのうちにある満ち満ちた恵みが与えられることを大いに考え、いかにキリストが、いつでもあなたに力と解放を与えることがおできになるかを大いに考えるがいい。さて、たとえあなたが、これによって完全な勝利を得るほどの成功をおさめないとしても、それでもあなたは、戦車の中で平静を取り戻し、戦闘が終わるまで、戦場から逃げ出すことはないであろう。あなたは、徹底的な意気消沈に陥ることからも、自分の不信仰に屈することからも守られるであろう。また、偽りの手段や治療法に目移りし、結局何の救済にもならないものへそらされることからも守られるであろう。このことの効力を味わうには、実践するしかない。
(2.) 信仰によって、あなたの心を引き起こし、キリストからの救済を期待するがいい。この場合のキリストからの救済は、あの預言者の幻に似ている。「この幻は、なお、定めの時のためである。それは終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない」(ハバ2:3)。たとえそれが、試練と困惑のもとにあるあなたにとって、もたもたしているように思えても、それは確かに主イエスの定めの時にやって来る。それが最善の時なのである。ならば、もしあなたが自分の心を引き起こし、イエス・キリストから来る救済を落ちついて待ち望むならば、――もしあなたの目が、何かを受けることを期待する「奴隷の目が主人の手に向けられ」ているように主に向けられているならば[詩123:2]、――あなたの魂は満足させられ、主は確実にあなたを解放なさるであろう。主はその情欲を根絶し、あなたの終わりは平安となるであろう。ただ、それをいただけるように主の御手に目を注ぐがいい。主がいつ、また、いかにしてそうなさるのかを期待するがいい。「もし、あなたがたが信じなければ、長く立つことはできない」[イザ7:9]。
しかし、あなたはこう云うだろうか? 「そのような期待をいだいても私が裏切られないという根拠が何かあるでしょうか?」、と。
あなたには、この道筋に自分を立たせる必要がある。この道によらずに救済されることも、救われることもありえない。あなたはだれのところに行くというのか[ヨハ6:68]? それと同じく、主イエスのうちには、あなたを励まし、このように期待させるものが無数にある。
その必要については、先に私は、これが信仰の働きであり、信仰者だけがなすべき働きであることを示した際に、部分的には明かしておいた。キリストは云われる。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハ15:5)。これは特に、心から罪をきよめることとの特別な関連において語られている(2節)。いかなる罪の抑制も、恵みを与えられた上で行なわれなくてはならない。私たちが自分でそれを行なうことはできない。さて、「御父はみこころによって、満ち満ちた豊かさを御子のうちに宿らせた」*(コロ1:19)。それは、「私たちが、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受ける」*ためである(ヨハ1:16)。主というかしらからこそ、新しい人は、いのちと力の作用力を受けていなくてはならず、さもないと日に日に衰弱していくであろう。もし私たちが、「力をもって、内なる人を強くされる」*としたら、それは、「キリストが信仰によって私たちの心のうちに住んでくださる」*ことによってである(エペ3:16、17[コロ1:11])。また私は、このわざが御霊なしに行なわれるべきでないことも、すでに示しておいた。それでは、私たちはどこに御霊を期待するだろうか? どなたに御霊を求めるだろうか? どなたが御霊を私たちのために獲得した上で、私たちに与えると約束されただろうか? この目的に対する私たちの期待はみな、キリストにだけ基づかせるべきではないだろうか? では、こう心に刻み込んでおくがいい。キリストから救済を得られなければ、自分は、いかなる救済も決して得ることはない、と。いかなる方法や、努力や、葛藤も、キリストからしか救済は得られないというこの期待によって動かされていない限り、何の役にも立たず、あなたに何の善も施さないであろう。しかり。もしそれらが、この期待によってあなたの心を支えていなければ、あるいは、主からの助けを受け取らせるために主ご自身によって定められた手段でなければ、それらはむなしい。
さて、この期待をさらに深めるために、――
(1.) 神の右の座に着いておられる、私たちの大祭司としての主のあわれみ深さ、優しさ、いつくしみ深さを考えるがいい。確かに主は、悩みの中にいるあなたを憐れんでくださるに違いない。主は云っておられる。「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め……る」(イザ66:13)。主には、乳飲み子に対する母親の優しさがある。「そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2:17、18)。ご自身が苦しまれたという理由により、キリストには何ができると示されているだろうか? 「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、……がおできになるのです」。キリストの苦しみや試みは、キリストの能力や力に何かつけ足しをしたのだろうか? それ自体として絶対的に考えれば、決してそのようなことはありえない。しかし、ここで言及されている能力とは、それが発揮する際に積極性や、勢いや、意欲が伴うもののことなのである。それは、思いとどまらせようとするあらゆるものに反抗する意志の能力である。主は、ご自身が苦しみ試みを受けたので、あわれな、試みられている魂を救済するのを思いとどまらせようとするあらゆるものを打ち破ることがおできになる。Dunatai bohqhsai ――「助けることがおできになるのです」。これは効果の換喩である。というのも、今や主は、そのように試みられたので、助けたいとの感動を覚えることがおできになるからである。4章15、16節は同じことを云っている。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」。16節の勧告は、私が述べていることと同じ、――すなわち、キリストから救済を与えられることを期待せよ、ということである。その救済のことを、ここで使徒は、caris eis eukairon bohqeian、「おりにかなった助けを受けるための恵み」、と呼んでいる。魂は云う。「もしも、本当に助けがおりにかなうものだとしたら、それは、現在の状況における私にとってもそうであろう。それこそ私が切望するもの――おりにかなった恵みだ。私は死の瀬戸際にある。滅びて、永遠に失われる間際にある。不義が私を圧倒するだろう。もし助けがやって来なければ」。使徒は、「この助けを、この救済を、この恵みをキリストに期待するがいい」、と云っているのである。しかり。だが、何に基づいてだろうか? 彼が15節で規定していることによってである。そして、見るとわかるように、16節にあるその言葉、私たちが「受け」と訳した言葉は、labwmen なのである。Ina labwmen eleon. 「私たちがそれを受けられるように」。おりにかなった適切な助けが来るであろう。私は声を大にして云うが、この1つのこと――信仰によって魂を確立し、イエス・キリストから受ける救済を期待し[マタ11:28]、それを私たちの大祭司なるキリストのあわれみ深さに基づいて行なうこと――、これこそ、情欲や霊的疾病を滅ぼすにあたっては、かつて人の子らが携ってきた、いかに厳格な自己衰弱の手段にもまして、効果あるものなのである。しかり。さらに云えば、いまだかつて、自分の魂を信仰によって引き起こし、イエス・キリストから救済を受けることを期待できた魂が、何らかの情欲や、罪や、腐敗の力によって滅ぼされたことはなく、今後もないのである[イザヤ55:1-3; 黙3:18]。
(2.) 約束されたお方の真実さを考えるがいい。それによってあなたは引き起こされ、このように救済を期待して待つことに確信を持てるであろう。主は、このような場合に救済を約束しておられ、そのおことばを最後まで果たされるであろう。神のお告げによれば、私たちとの神の契約は、天の「定め」のようなもの、――太陽や、月や、星々など、確固たる運行の道筋を持つようなものなのである(エレ31:36)。それでダビデは、神からの救済を「夜回りが夜明けを待つ」ようにして待つ――定められたときに確実に起こることとして待つ――と云っているのである[詩130:6]。キリストから受けるあなたの救済も、それと同じであろう。それは、露や雨が焼けた地に降るように、しかるべきときにやって来るであろう。というのも、約束されたお方は真実なお方だからである。この目的を果たすという個々の約束は数え切れないほどある。各人は、そうした約束のうち、自分の状況に格別に適切と思われるものをいくつか常に携えているがいい。
さて、イエス・キリストからの援助に対するこの期待には、この上もない2つの利点が常に伴っている。――
[1.]この期待によってキリストは、完全にして、すみやかな援助を与えざるをえなくなる。人が、他者に益を施し、助けを与えるという務めに、何にもまして義理を感じるのは、自分の方から救援するという期待をかき立て、黙認しておいた相手が、自分からの助けを受けられるはずだと期待している姿を見るときにほかならない。私たちの主イエスは、そのいつくしみ深さと、心遣いと、種々の約束によって、私たちの心を引き起こし、こうした期待をいだくようにされた。では、私たちが引き起こされ、この期待をいだくとしたら、それによってキリストは、その期待通りに私たちを援助するという大きな義理を感じざるをえないに違いない。このことを詩篇作者は、折紙つきの格言として語っている。「主よ。まことにあなたは、あなたに信頼する者を決してお見捨てになりません」。心がいったん神のうちに安らぎ、神に自分をゆだねて憩うようになるとき、神は確実にその心を満ち足らせてくださるであろう。神は、決して頼りにならない水のようにはならない。また、神は一度も、ヤコブのすえに対して、「わたしの顔を慕い求めても無駄だ」、などと云われたことはない。もしキリストが、私たちへの恵みが貯えられた源として選ばれているとしたら、キリストが私たちを失望させることはないであろう。
[2.]この期待によって心は、キリストがご自分を魂に伝えるのを常となさる様々な道や手段のすべてを熱心に用いるようにならざるをえなくなる。そして、そのようなありとあらゆる恵みと定めの儀式から、真の援助を受け取るようになる。人から何かを与えられることを期待する者は、それが獲得できるような道や手段のもとに自分を置くものである。施しを期待する乞食は、それを期待できる人々の扉や、通り道に座り込む。キリストがご自分をお伝えになる道や手段は、通常、主の様々な定めである。キリストから何かを与えられたいと期待する者は、そこでキリストを待っていなくてはならない。信仰は、その期待によって、心を働かせるものである。私の語っている期待は、怠惰で、しまりのない望みとは違う。もしも今、この罪を抑制するという目当てのための祈りか礼典に何らかの活力や、効力や、力があるとしたら、こうしたキリストからの救済を期待する人は、そのすべてに関心をいだくに違いない。こういうわけで私は、この項目の中に、個々の祈りや瞑想といった、あらゆる種類の活動を含めておき、それらについて、それ以上深くは述べないことにしよう。それらがこの土台に基づき、この根から生じたものであれば十分である。それらは、ほかならぬこの目的のために、ことのほか有用である。
さて、心にはびこる霊的疾病を抑制するための、この指針に関して、あなたには、無数の「probatum est(証明された事がら)」があるかもしれない。こうした誘惑のもとで神とともに歩んだ人々のうち、それが有用であり、上首尾をもたらすことを見いださなかった者がいただろうか? あえて私は、魂をその指針にゆだねるだけにとどめ、何もつけ足すことはすまい。ただ、それに関係したいくつかの点だけを言及しておこう。――
第一に、信仰を働かせる土台を、格別にキリストの死と血と十字架、すなわち、十字架にかけられ、殺されたキリストとするがいい。罪の抑制は、格別にキリストの死から発するからである。それは、キリストの死が目当てとしていた、1つの格別な、しかり、この上もない目的であり、確実にその死に伴うものである。キリストが死なれたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためであった。悪魔の最初の誘惑によって人間の性質にもたらされたものすべて、かつ、悪魔の日々のそそのかしによって私たちの人格の中で強められるものすべてを、打ちこわすためにキリストは死なれた。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした」(テト2:14)。これこそ、キリストがご自身を私たちのためにおささげになった目当てであり、意図であった(そしてキリストは決して失敗なさることがない)。私たちが自分たちの罪の力から自由にされること、また、自分たちを汚すあらゆる情欲からきよめられることこそ、キリストの目指したことであった。「キリストが教会のためにご自身をささげられたのは、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです」*(エペ5:25-27)。そしてこれは、キリストの死のおかげで、様々に異なる段階を踏んで、実現していく。こういうわけで、私たちが洗われること、清い者とされること、きよめられることは、至る所でキリストの血によるものとされているのである(Iヨハ1:7; ヘブ1:3; 黙1:5)。その血が私たちに注がれることは、「私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とする」(ヘブ9:14)。これこそ私たちの目当てであり、これこそ私たちが追い求めることである。――私たちの良心がきよめられて死んだ行ないから離されること、そうした行ないが根こそぎにされ、滅ぼされ、もはや自分の内側に何の足場もなくなること。これは確かに、キリストの死によってもたらされることに違いない。その死から発した効能が、この目的を実現するであろう。実際、御霊のあらゆる満たし、恵みと力のあらゆる伝達が、ここから発していることは、他の所*1で私が示した通りである。そのように使徒は、このことを言明している。ロマ6:2が提示しているのは、私たちがいま扱っている問題にほかならない。「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう」。――「信仰告白によって罪に対して死に、そうすべき義務によって罪に対して死に、罪を殺す効能と力にあずかることによって罪に対して死に、罪を殺すお方たるキリストに結び合わされ、あずかることによって罪に対して死んだ私たちが、どうして、その中で生きていられるだろうか」、と。引き続く節で使徒は、このことを数多くの考察によって強調する。それらはみなキリストの死から引き出された考察である。このようなことがあるはずがない、「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか」(3節)。バプテスマは、私たちがキリストのうちに植えつけられた証拠の1つである。私たちはキリストにつくバプテスマを受けた。だが、キリストのうちにある何にあずかるために、バプテスマを受けたのだろうか? 「その死」にあずかるためだと使徒は云う。実際もし私たちがキリストにつくバプテスマを受けたなら、また、表向きの信仰告白以上のこととしてそうしたのなら、私たちはキリストの死にあずかるバプテスマを受けたのである。このこと、人がキリストの死にあずかるバプテスマを受けるということの解説を、使徒は4節、6節で行なっている。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。……私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています」。彼は云う。「これこそ、私たちがキリストの死にあずかるバプテスマを受けるということ――すなわち、キリストが罪のために死に至らされたように、私たちがその死に相似し、罪に対して死に、自分の種々の腐敗が抑制されること、そして、そのように、キリストがよみがえって栄光に至ったように、私たちもよみがえって、恵みと、いのちにある新しい歩みに至ること――である」。彼は6節で、私たちがこのキリストの死にあずかるバプテスマをどこから得たかを告げている。そして、それは、キリストの死そのものからにほかならない。「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅び……るためである」。sunestaurwqh、「ともに十字架につけられ」、の「ともに」とは、時間的なことを云っているのではなく、因果関係について示している。私たちは、キリストとともに功績を受ける者として十字架につけられた。それによりキリストは、私たちのために、罪を抑制する御霊を獲得なさったのである。また私たちは、キリストとともに作用を受ける者として十字架にかかった。それは、キリストの死から出てきた効力が、私たちを十字架にかけたからである。また私たちは、代表かつ範型を有する点でも、キリストが私たちの罪のために十字架につけられたように、罪に対して十字架につけられたに違いない。これこそ使徒が意図していることである。その死によって悪魔のしわざを打ちこわし、私たちのために御霊を獲得なさったキリストは、そのようにすることで罪を殺してくださった。それは、信仰者のうちで支配していた罪が、その目当てをくじかれ、支配権を奪われるようにするためであった。
第二に、ならばキリストの死を土台として信仰を働かせ、それも、2つのことを念頭に置きつつそうするがいい。――最初のことは、力を期待することにおいてであり、二番目のことは、相似*2への努力においてである。最初のことについては、すでに一般的な指針として述べたことで足りるであろう。後者については、使徒の与えた指針(ガラ3:1)が、私たちの指針に何がしかの光を投げかけてくれるであろう。私たちは、信仰の目によって、福音のうちにおられるキリスト、すなわち、私たちのために死につつあり、十字架にかけられたお方としてのキリストを眺めるようにしよう。私たちのもろもろの罪の重み*3にのしかかられ、祈りつつあり、血を流しつつあり、死につつあったキリストを眺めるようにしよう。そのような状況にあったキリストを、信仰の目によって、自分の心にまざまざと描き出すがいい。そのようにして流されたキリストの血を、あなたのもろもろの腐敗に塗りつけるがいい。これを毎日行なうがいい。私はこの考察を、いくらでも細分化して、事細かに論じ続けることができる。だが今は、手短に結論へと至らなくてはならない。
2. さて、この抑制という務めにおける御霊のみわざと、ここで格別に御霊のものとされている働きについては、いくつかの項目を列記するだけでよいであろう。
一言で云えば、ここまで私たちの義務であると述べてきた働きは、その全体が、そのあらゆる部分と段階において、御霊の力によってもたらされ、営まれ、成し遂げられるものなのである。たとえば、――
(1.) 御霊だけが、抑制されるべき腐敗や情欲や罪に伴う、悪と咎と危険とを、心に明確に、また完全に確信させるのである。この確信がない場合や、それが心の反抗や黙殺を防げないほど微弱な確信でしかない場合は、決して徹底的なわざがなされることはないであろう。不信仰な心(私たちはみな部分的にはそうした心を持っている)が種々の論点をのらりくらりかわすことは、はっきりとした明確な確信によって心が圧倒されるまで続く。さて、これこそ御霊に特有のみわざである。「この方は、罪を確信させる」*(ヨハ16:8)。それは、この方にしかできない。もし人々が、その理性的な考察により、文字の説教を聞くだけで罪を確信できるとしたら、おそらく私たちは、今よりずっと多くの人々が罪を確信している姿を見ているはずである。みことばの説教によって人々は、自分が罪人であり、これこれの事がらが罪であり、自分がそうした罪を犯しているということを理性で理解することはできる。だが、この光には力がない。また、魂の中の実践的な原理をとらえて、精神と意志を従わせることも、そうした理解に応じた効果を生じさせることもできない。それゆえ、いくら賢く、知識豊かな人々であっても、御霊を欠いている場合は、情欲のうごめきや活動の本質的要素であるような事がらを、まるで罪とは考えないのである。このわざを的確に行なうことができ、また、実際にそう行なっているのは御霊しかない。そして、御霊が、いかなる情欲を抑制する際にも、真っ先に行なうこと、――それは、魂に、その情欲がはらんでいるあらゆる悪を確信させ、そのあらゆる口実を切り払い、そのあらゆる欺きをあばき出し、そのあらゆる云い抜けを黙らせ、その云い訳に反論し、その忌まわしさを魂に認めさせ、それを深く痛感させておくことである。こうしたことがなされるまでは、後に何がなされようと無駄である。
(2.) 御霊だけが私たちに、私たちの救済の源であられるキリストの満ち満ちた豊かさを啓示なさる。これこそ、心を偽りの道に向かわせも、絶望的な意気消沈に陥らせもしないように安定させるものである(Iコリ2:8)。
(3.) 御霊だけが、キリストから救済をいただく期待によって心を堅く保たせる。これこそ、先に明らかにされたように、抑制のための大いなる絶大な手段である(IIコリ1:21)。
(4.) 御霊だけが、キリストの十字架を私たちの心に、その罪を殺す力とともに、持ち込むことができる。というのも、御霊によって私たちはキリストの死にあずかるバプテスマを受けるからである。
(5.) 御霊は、私たちの聖化の創始者であり、完成者である。御霊は、聖さと聖化を進ませる恵みを新たに供給し、その影響力を与え、それと同時に、それとは逆の原理を弱め、衰えさせる(エペ3:16-18)。
(6.) こうした状況のもとで魂が神に求めるすべてのことは、御霊によって支持される。祈りの力と、いのちと、活力はどこから来るのだろうか? それが神に対して有する効力はどこから出ているのだろうか? それは、御霊からではないだろうか? このお方は、「自分たちが突き刺した者を仰ぎ見る」*者らに約束された「哀願の霊」であり(ゼカ12:10)、彼らをして「言いようもない深いうめきによって祈る」*ことができるようにさせるお方である(ロマ8:26)。これこそ、信仰が神に対して力を発揮するようになるための大いなる媒介あるいは手段であると告白されている。パウロの受けていた誘惑が何であったにせよ、彼はそれをこのようなしかたで扱っている。「これを私から去らせてくださるようにと……主に願いました」[IIコリ12:8]。もっとも、祈りにおける御霊のみわざがいかなるものであるか、また、御霊がどこから、いかにして私たちを支え、聞きとどけられる祈りをさせるか、また、私たちが何をすればその目的のための御霊の助けを享受できるか、ということは、現在の私が説明したいと考えている範囲を越えているため割愛したい。
*1 『キリストとの交わり』、第2巻、7-8章。[本文に戻る]
*2 ピリ3:10; コロ3:3; Iペテ1:18、19。[本文に戻る]
*3 Iコリ15:3; Iペテ1:18、19; 5:1、2; コロ1:13、14。[本文に戻る]HOME | TOP | 目次 | BACK