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第6章 暗い影

 1856年9月20日、ニューケント通りの自宅で、スポルジョン夫人には双子の息子が生まれた。夫婦の喜びはとどまるところを知らなかった。幸運にも、この出来事が起こったのは土曜日であり、C・H・スポルジョンは朝から晩まで屋内にいることができた。彼は、いかに誇らしげに赤ん坊たちを眺めたことであろう。また、いかに優しく妻をいたわり、今やふたりが果たさなくてはならなくなった幸いな責任について語ったことであろう!

 男の子たちはチャールズとトマスと名づけられ、最初から、彼らを神の仕え人としてささげるべきだという暗黙の理解と願いがあった。この家庭の幸福と喜びを損なうことのできる暗雲など全く見えないように思われ、この小さな家族は、聖なる平安によって静かに覆われていた。このことについて夫婦は、何度となくふたりの主に真心からの感謝をささげた。しかし、彼らにとって物事が最も輝かしく思われたとき、突如として、何の警告もなしに、恐ろしい悲嘆の黒い影が、この若く幸福な暮らしの上に投げかけられたのである。この妻であり母であった婦人は、古の預言者たちのような信仰を持っていたに違いない。さもなければ、心を取り乱し、正気を失ってしまったであろう。彼女の男の子たちの誕生からちょうど一箇月が過ぎ去っていた。彼女はまだひどく弱っていたが、自室を離れることはできるようになっており、ある日曜日の晩、彼女の家の小さな居間で、寝椅子に横たわっていた。その晩、1856年10月19日は、夫婦の生活の中で、恐ろしい記憶となることになっていたが、その時には、何の不安もいだかれてはいなかった。少なくとも、スポルジョン夫人の方ではそうであった。そして、どう考えても彼女の夫は、その主人への奉仕において、またもや勝利をおさめるはずであった。そうした勝利を彼は、ロンドンに登場して以来、立て続けにかちとってきたのである。この若き教役者は、サリー・ガーデンズ音楽堂で初めて説教することになっていた。だが、そこでは、その晩遅くに、悪漢たちの策謀によって、死と荒廃が生ずることになったのである。出発前の自宅では祈りの時が持たれ、妻の別れの祝祷に送られて、若き教役者はこの《音楽堂》へと出かけた。彼女は家で横になり、この大きな務めについて考え、主がご自分の使信を、そこに集う何千もの人々にとって祝福としてくださるように祈った。それから彼女の思いは自分の子どもたちのことへと舞い戻った。「私は、ありとあらゆる美しい可能性や楽しみを夢見ていました」、とスポルジョン夫人は云う。「そのとき、門の所で馬車が止まる音が聞こえたのです。夫が帰宅するには早すぎる時間だったので、私はこの予期せぬ訪問者はだれだろうかと思いました。ほどなく執事のひとりが案内されて入ってきました。その様子を一目見るなり、何か普通でないことが起こったことはわかりました。すべてをすぐに話してほしいと云うと、彼はそうしました。親切に、心からの思いやりをこめて告げてくれました。そして、寝椅子のそばに膝まずき、突然ふりかかったこの恐ろしい試練に、私たちが耐え抜ける恵みと力をいただけるように祈りました。しかし、彼が立ち去ったとき、私は何とありがたかったことでしょう! 私はひとりになって、この暗黒と死の時に、神に向かって叫びたかったのです! 私の愛する人が家に連れ帰られたとき、彼は見る影もない哀れな姿になっていました。……精神を苛まれた一時間によって、その相貌も態度も一変していたのです。その後に続いた夜は、涙と、呻きと、云いようのない悲しみの夜でした。彼は慰められるのを拒否しました。私は朝が二度と明けはしないのではないかと思いました。そして、本当に朝がやって来たとき、それは何の救いももたらしませんでした。

 「あわれみ深くも主は、それから続いたこの悲嘆の時のほとんどの詳細を、私の精神から拭い去ってくださいました。私の愛する人の苦悩は、それは深く激しいもので、今にも正気を失わんばかりに思えました。そして私たちは、彼が『二度と説教しようとしなくなる』のでないかと恐れました。そのとき私たちが歩いていたのは、まことに、『死の影の谷』でした。そして、あのあわれな基督者のように、ここで私たちはひどくため息をつきました。その道路が非常に暗かったので、私たちが進もうとして足をあげるとき、次にはどこに、またどんなものの上に足をおくのかわからないことがたびたびあったからです」。

 この《音楽堂》における惨事の物語は、あまりにも有名であるため、ここで述べる必要は全くないであろう。だが、スポルジョン夫人のように虚弱な状態にあった婦人のうちの何人が、彼女のようにこの恐ろしい苦難に耐え、母親としての義務を果たすばかりでなく、精神的苦悶にあえぐ夫の慰めとなり、支えとなることができただろうか? C・H・スポルジョンは、友人たちによってクロイドンへと連れて行かれた。そこで彼は、執事のひとりであるウィンザー氏の家に泊まり、赤ん坊たちを連れたスポルジョン夫人がそこで彼に合流した。静養と転地の助けを借りれば、彼の心の平静を取り戻せるのではないかと期待されたのである。そして、最初、彼の霊は暗黒の中に閉じ込められているかに見えたが、とうとう光は射し込んできた。「私たちは、いつものように『庭』を一緒に散歩していました」、とスポルジョン夫人は云う。「彼は落ち着きがなく、苦悩に満ちていました。私は悲しみにひたりながら、この物事の結末はどうなるのだろうかと思い惑っていました。家へと向かう階段に足をかけようとしたとき、彼は突然立ち止まると、私の方に目を向けました。そして、なつかしい甘い光をその目にたたえながら(あゝ! その光が消えていた間は何と痛ましかったことでしょう!)、彼は云いました。『あゝ君。何てぼくは愚かだったんだろう! 何と! ぼくがどうなろうと、ただ主の栄光さえ現わされれば、どうでもいいじゃないか』――そして、彼は真剣に、熱をこめてピリピ書2:9-11を繰り返しました。『それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです』。『もしキリストが高く上げられるとしたら』、と彼は云いました。――そして彼の顔は聖なる熱情で輝いていました。――『ぼくは、神のみこころによって、どうなろうともかまわない。ぼくは、ただこう祈ることにしよう。自分が自我に死んで、全く神のため、神の誉れのために生きるようになれますように、と。おゝ、君。ぼくには何もかも今わかったよ! ぼくと一緒に神をほめたたえておくれ!』」。

 夫が、その心の平和を取り戻し、妻が体力を回復したために、このクロイドンへの滞在中に、双子の息子を主とその奉仕へと献げることが決定された。何人かの友人たちが招かれ、その時は祈りと賛美に費やされた。そして最後に赤ん坊たちが、だきかかえられて部屋の中を一巡し、その場にいる人々による接吻と祝福を受けた。確かに、こうした祈りは、チャールズ・スポルジョンとトマス・スポルジョンの生涯において、何度となく答えられていった。《音楽堂》の惨事は、報道機関の一部による毒々しい悪口雑言を呼び起こし、この説教者は、そうした新聞の論評や批判を集めては――実際、彼がその生涯を通じて行なっていたように――それを妻に渡した。彼女はそうした切り抜きを、一冊の本に貼りつけ、その表紙にはC・H・スポルジョン自身が、『実話と、作り話と、笑い話』という題名を書いた。晩年になると、この献身的な妻も、夫の敵たちによって書かれた、不正で残酷な言葉を読んで微笑むことができるようになったが、「それらが公表された時には、こうした中傷は私にとって何と過酷な悲嘆の種であったことでしょう」、と彼女は云う。「私の心は、彼のために悲しんだり、彼を誹謗する人たちに怒りを燃やしたりを交互に繰り返していました。というのも、長い間、私は、どのようにしたら自分が彼の目の前にいつも慰めを置いておけるのかと思い惑っていたからです。とうとう私は、ある手段を考えつきました。次のような節を古書体で印刷したものを綺麗な井桁形の額縁に入れておくのです。『わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました』――マタ5:11、12。この聖句は私たちの寝室に吊り下げられ、愛する説教者によって毎朝読み返されました。……それは、その役目を十二分に果たしました。というのも、それは彼の心を強め、目に見えない武具をまとえるようにしたからです。それによって彼は、人々の間を平静に歩いていくことができ、彼らの誹謗中傷に心乱されることなく、彼らの最善にして至上の益だけに関心を持つことができたのです」。

  



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