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第5章 結婚生活

 スザンナ・トンプソンとチャールズ・ハッドン・スポルジョンの結婚式は、1856年1月8日、ニューパーク街会堂で行なわれ、フィンズベリー会堂のアレグザンダー・フレッチャー博士が司式者であった。容易に想像されるように、その名が巷間の噂となり、その尋常ならざる働きが国中で取り沙汰されている人物の結婚式が、ひっそりとしたものとなることはありえなかった。人々は非常な早朝から《会堂》の回りに集まり出した。最初にやって来たのは婦人たちであったが、8時を過ぎると群衆は急激にふくれあがり、ニューパーク街とその近隣の往来をふさぎ、実質的に交通を麻痺状態に陥れるほどとなった。事故を防ぐために、警察の特別分隊が召集されなくてはならなかったのである。ついに会堂の扉が開いたとき、人々は座席を求めてなだれ込み、三十分もしないうちにその建物は、人で満杯になってしまった。入場券を持っていながらも、遅くやって来た大人数の人々は中に入ることができなかった。多くの人々は、会堂内に入り込める見込みがないのを知って帰っていったが、何千人もの人々がなおも街路に残って、花嫁と花婿が出入りするのを見ようとしていた。それは、慎み深く、引っ込みがちな少女にとって、苦しい試練であったに違いない。彼女は早くに起き出すと、その寝室でただひとり、多くの時間を費やして、祈りをささげていた。

 彼女は、自分がこれから担おうとしている責任を思って畏怖の念に打たれてはいたが、主がこれほどまでに自分をいつくしんでくださったことによって、「云いしれようもないほど幸福」であった。そして、だれひとりそばにいない部屋で膝まずきながら、自分の前に開かれている新しい生活への力と祝福と導きを熱心に乞い求めた。式のための着付けには、一部の乙女たちの場合のように、法外な時間がかからなかった。スザンナ・トンプソンは非常に簡素な装いをしたからである。そして、彼女が父親とともに会堂を目指して馬車に乗っていくとき、彼女の思いを何にもまして占めていたのは、「通行人が結婚式用の馬車に驚きの目を向けるとき、これから彼女が、いかに素晴らしい花婿に会うことになっているか、だれにわかるのかしら」、という考えであった。ニューパーク街の近隣に立っていた群衆は、この花嫁を驚きあわてさせ、彼女は建物の中に入るまで、それ以上何も覚えていなかった。「卓子付会衆席の内側の式関係者は大人数に上り、あの懐かしいアレグザンダー・フレッチャー博士は、自分の前に立つ花嫁と花婿に優しく微笑んでおり、執事たちは、興奮した、また熱心な傍観者たちを静粛にさせたり、満足させたりしようと努力していました」。式は、会衆が賛美歌「み救いのたえなる調べよ」を歌うことによって始まり、その後でフレッチャー博士が詩篇100篇を朗読して、若いふたりの上に天来の祝福を祈り求めた。この尊ぶべき教役者は、それから短い式辞を語り、結婚の儀式は普段通りのしかたで執り行なわれた。別の訓戒が語られ、会衆によって一曲賛美歌が歌われ、しめくくりの祈りがなされて、式の一切が完了した。スポルジョン夫妻は、会堂内で友人たちの祝いの言葉を受けた後、建物の外に集まっていた群衆の大きな、またいつまでも続く歓呼の声の中を馬車で走り去った。

 十日間の短い蜜月はパリで過ごされた。スポルジョン夫人は以前何度もこの町に来たことがあり、フランス語にも堪能だったので、夫のために案内人の役目を務めた。一緒に彼らは様々な教会や宮殿や博物館を訪れ、この淑女はこうしたなじみ深い場所が新たに興味深いものとなったことに気づいた。なぜなら、自分とともに「この愛に満ちた目が今やそれらを見ていた」からである。何年も後になって、C・H・スポルジョンは、このフランスの首都を頻繁に来訪する中で、一度、妻にこういう手紙を書いている。「君の案内によって、この町を最初に訪れたときのことを思い出すと、ぼくの心は君のもとに飛んでいくよ。あのときと同じく今もぼくは君を愛している。ただ、今ではそれが、何倍にも増しているのだ」。

 幸福なふたりは、この休暇を引き延ばしたかっただろうが、この説教者はその働きを離れることができなかった。それで彼らは、ふたりが初めて起居をともにする家へと帰った。……ロンドンはニューケント通りの、慎ましい家である。そこでは、彼らのあらゆる将来の家でそうなったように、最上の部屋が書斎となった。スポルジョン夫人はこう云っている。「私たちは一度も、現代作家の云うところの『応接間の不都合』に苦しめられることがありませんでした。もしかすると、その理由は、私たちがごく素朴な、暇を持て余してなどいない者たちで、そのように無駄な場所を必要としていなかったからかもしれません。――ですが、とりわけ、最上の部屋は常に、『主にあって非常に労苦し』[ロマ16:12]ている者に当然属していると感じられたからです。決して私は、この最初からの決定を悔やんだことはありません。これは、他の家庭にとってはどうあれ、教役者の家にとっては賢明な取り決めです」。家計は、非常にささやかな所から始まった。というのも、C・H・スポルジョンは、説教者たちのための訓練を供したいと切望していたからである。それは、伝道活動のためにふさわしく整えられる教育課程を必要としていた、若い人々のための訓練であって、彼の妻は、彼自身に負けない熱心さをもって、この働きに打ち込んだ。彼女は素晴らしい管財人であり、厳しい節約によって実に多額の資金が貯えられ、それによって最初の学生を支え、教育することができた。この努力の成功を受けて、《牧師学校》の創設がもたらされたのである。スポルジョン夫人は云う。「思い出しても喜ばしいことに私は、彼がこの機関を創設したとき、愛する人と喜びをともにし、彼の愛に満ちた心が目指した目的を実行するために、ふたりで計画して、生活を切り詰めることができました。それによって私は、この《学校》と、『一族の者たち』に対して、全く母親のような関心をいだくようになりました。この時期の金銭問題に関する主たる困難は、『家計の帳尻を合わせる』ことでした。私たちは、絶えず『爪に火を灯す』ようなことをしていなくてはなりませんでした。ですが今では、これが神の道であったことがわかります。神は私たちを、やがて来たるべき年月に、貧しい牧師たちに同情し、助けることができるように整えておられたのです」。この献身的な夫婦は、この働きを促進するために、ほぼ必需品と云ってよいものすら節制したときが何度もあった。この新妻にとって、これはまことに心労の多い時期であったに違いない。「なけなしの貯えはぎりぎりまでふりしぼられ、《学校》のための金庫も、家計のための金庫もほとんど空っぽでした」。しかし、そこには喜びがあった。この種のいかなる心遣いをも償って余りある喜びである。

 日曜の夜、その日一日の奉仕が終わった後のこの小さな家では、いかに幸福な時が過ごされたことであろう。その労苦によって疲れ切って会堂から帰った説教者は、軽い食事を楽しみ、それから炉辺の近くにある安楽椅子に身を投げ出し、その間、彼の妻は床の上の座布団に腰かけ、ジョージ・ハーバートその他のキリスト者詩人の作品を彼のために読み聞かせるのだった。あるいは、もしこの若き教役者が自分の説教において、しかるべきほど熱心でないのを感じていたとしたら、詩人はバクスターの『改革された牧師』に代わられた。そして、その厳粛な言葉の朗読につれて、夫と妻はともにすすり泣き、涙を流した。彼は、「神に対する非常に感じやすい良心を強く打たれることによって」、そして彼女は、「彼を愛し、彼の嘆きを分かち合いたいと願っていた」ことによってである。

 C・H・スポルジョンが、その山のような説教予約を果たすために絶えず自宅を留守にすることは、この若妻にとって非常な試練の種となっていた。深夜まで彼の帰宅を居間で待ちわびて、しばしば彼女は廊下を行ったり来たりしながら、彼が無事に自宅に連れ戻されるように祈るのだった。そして彼の足音が外から聞こえてきたときには、いかなる喜びと感謝の身震いをもって、扉をあけて彼を迎え入れたことであろう。一度――そして一度だけ――彼女は泣き出したことがあった。愛する人が遠方への伝道旅行のために早朝に出かけようとするとき、どうしても涙を抑えることができなかったのである。「ねえ君」、と彼女の夫は云った。「君は、イスラエル人のだれかが、主のための供え物として子羊を主の祭壇に引いてきたとき、それが祭壇の上に横たえられるのを見て、嘆き悲しんだと思うかい?」 彼女がそうは思わないと答えると、彼は優しく云い足した。「よろしい。なら分からないかな。君はぼくを神にささげているのだよ。あわれな罪人たちに向かって福音を宣べ伝えに行かせることによってね。では神は、君が自分のいけにえのことで嘆き悲しむのをお望みになるだろうか?」 スポルジョン夫人は云う。「これほど甘やかに、また物柔らかく語られた叱責があったでしょうか? それは、私の心に深くしみ通り、それとともに慰めをもたらしました。それ以来、私は、彼と別れるときにも、涙を見せることはほとんどなくなりました。あるいは、たまに目がうるむことがあっても、彼は云うのでした。『オヤ! 君は、君の子羊のために嘆き悲しむのかい!』 こう云われると涙はたちまち乾き、代わりに微笑みが浮かんでくるのでした」。

 この時期に、1つの尋常ならざる出来事が起こった。とある土曜日の晩に、C・H・スポルジョンは、翌日の午前中に説教すべきだと信じていた聖句について、全く何の悟りも得ることができないでいた。注解書を何冊調べても埒があかず、彼の妻は彼を助けることができなかった。この物語の残りは、スポルジョン夫人自身の言葉で語ってもらうことにしよう。

 「彼は深夜まで起きていて、疲れ果て、打ちしおれていました。いくら努力しても、その聖句の核心をつかむことができなかったからです。私は彼に、もう休むようにと勧め、少しでも眠るようにしたら、おそらく朝には頭もすっきりして、ずっと効果的に学べるのではないかと云ってなだめました。『じゃあ、今からぼくが眠りに行くとしたら、ねえ君、君はぼくを朝早くに起こして、十分に準備の時間がとれるようにしてくれるかい?』 私が時間を見ていて、ちゃんと間に合うように起こしますと、愛をこめて請け合うのを聞いて彼は満足しました。そして、母親を信じて疑わない、疲れ切った子どものように頭を枕につけるや否や、ぐっすりと安らかに寝ついてしまいました。

 「ほどなくして、驚くべきことが起こりました。安息日の朝が明け初める頃、私には彼が寝言を云っているのが聞こえ、それに耳をそばだてさせられたのです。すぐにわかったのは、彼が、あれほど不明瞭だったあの節の主題を取り上げては、その意味について、すっきりと明解に説明し、力強く、また清新なしかたで解き明かしているということでした。私は、ほとんどおののくような喜びとともに、彼が口にしていることをすべて理解し、聞き取ろうとし始めました。自分がその講話の要点をとらえて覚えておくことができさえすれば、彼がそれを展開して、説教に引き延ばすのはたやすいことだと知っていたからです。これほど真剣で熱心な聴衆を得た説教者は今までひとりもいなかったに違いありません! もし私がその貴重な言葉を一言でも聞き落としたらどうなるでしょう? 私には、手元に『覚え書きを取る』ための道具が何もなかったので、ネヘミヤのように『天の神に祈って』[ネヘ2:4]、神がそのしもべに眠りの中でお与えになった思想――そして、このように異常なかたちで私の保管に託された思想――を、自分がしっかり受けとり、忘れずにおけるようにと願いました。横たわったまま、覚えておきたいと思った主要な点を何度も何度も繰り返しながら、私は目を覚ましたときの彼の驚きと喜びを予想しては非常な幸福を感じました。けれども私は、寝ずの番をずっと長く続けていたために、その嬉しさをいだきながら、自分も眠気に負けてしまっていたに違いありません。というのも、普段起床するはずの時間が来た頃に、彼はぞっとするような驚きとともに目を覚まし、隠しようもない真実を告げる時計を見ては、こう云ったからです。『おゝ、ねえ君。君は朝早くぼくを起こしてくれるって云ったじゃないか。だのに、時間を見てくれよ! おゝ、なぜぼくを寝かせておいたんだい? ぼくはどうしたらいいんだ? どうしたらいいんだい?』 『あなた、聞いて』、と私は答え、自分が耳にしたことをすべて彼に告げました。『何と! それこそぼくが求めていたものだ』、と彼は叫びました。『それこそ、その節全体の本当の説明だ! そして、君はこれをぼくが眠りながら説教したと云うのかい?』 『素晴らしい』、と彼は何度も繰り返しました。そして私たちはふたりで、これほどまでに尋常ならざるしかたで御力と愛とを現わしてくださった主をほめたたえました」*1

  


*1 (訳注)W・H・フラートンによると、このようにして受け取られた説教こそ、『ニューパーク街講壇』のNo.74、「喜んで仕える民と不変の指導者」であった。その中でスポルジョンは、その説教を語るのが、この日二度目であるなどとはおくびにも出していないが。



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