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喜んで仕える民と不変の指導者

NO. 74

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1856年4月13日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於サザク区、ニューパーク街会堂


「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える。あなたの若者は、あなたにとっては、朝露のようだ」。――詩110:3


 私にとって、聖書のいかなる一節といえども、これほど意味と前後関係を見いだそうとする際に困惑させられるものはない。ぱっと読めば、一見、ごく容易なことと思われるかもしれない。だが、丹念に調べてみると、言葉をつなぎ合わせることも、筋の通った意味を汲み取ることも、至難のわざである。私は手持ちのあらゆる注解書を引っぱり出してみた。すると、それらはみな、言葉の意味は示しているものの、ひとりとして――ギル博士すら例外ではなく――この文章全体について、前後関係から納得できる意味を示している者がいないことがわかった。古い時代の翻訳を眺め、私にできる限りの手を尽くしてその意味を突きとめようと努めた後でも、私は最初と全く同じくらい解決とはほど遠いところにいた。マシュー・ヘンリーは、最も賢明な注解者のひとりであり、確かに家庭で読まれる分には最高の注解書を書いたが、この箇所を、このような意味に読ませている。「あなたの民は、あなたの力の日に、聖なる飾り物を着けて、喜んでやって来る。朝の胎内から、あなたは、あなたの若さの朝露を有する」。彼もこれが適切な翻訳であるとは云っていないが、これが彼の説明である。最後の文章、「あなたは、あなたの若さの朝露を有する」、を彼はこう説明している。年若い頃から――朝の胎内から――、若い人々は自分をイエス・キリストにささげるようになるのだ、と。しかし、そのような意味は全くない。「朝」には節区切り記号がついていて、その後で文章は分かれているのである。それに加えて、これは、「民は喜んで仕える。あなたは、彼らの若さの朝露を有する」、と云ってはいない。講解者たちの理解に従えば、そう読まれるであろう。だが、この聖句はキリストに対して、「あなたは、あなたの若さの朝露を有する」、と云っているのである。私たちがようやく正しい意味に思い当たったと感じたのは、この節の前後関係を徹底的に眺め、この詩篇の目的をとらえようとしたときであった。だが今でさえ、私たちが御霊の思いに達したかどうかは、あなたの判断にゆだねたいと思う。私たちは、達したと思いたいが。

 この詩篇は、即位式の詩篇の一種である。キリストはその王座につくように命ぜられている。「わたしの右の座に着いていよ」[1節]。王笏が主の御手に持たされている。「主は、あなたの力強い杖をシオンから伸ばされる」[2節]。だが、そのときに問いが発せられる。「主の民はどこにいるのか?」 というのも、臣民のいない王など、王ではないからである。王権の最高の称号といえども、それを満ち満ちたものにする臣民がいなくては、うつろなものでしかない。それではキリストは、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ[エペ1:23]をどこに見いだすのだろうか? 私たちの大いなる懸念は、キリストが王であられるかどうかではない。――主が王であられることはわかっている。キリストは創造の主であり、摂理の主であられる。私たちの懸念は、主の臣民についてである。往々にして私たちはこう尋ねる。「おゝ、主よ。私たちはどこにあなたの臣民を見いだせるでしょうか?」 私たちがかたくなな心に向かって説教してきたとき、また、ひからびた骨に向かって預言してきたとき、私たちの不信仰は時としてこう云う。「どこで私たちはキリストのための子らを見いだせるだろうか? どこで私たちは、主の帝国の臣民となる人々を見いだせるだろうか?」 だが、私たちの恐れはことごとく、この箇所によって解消される。「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える」。また、第二の約束もある。「あなたの若さは、あなたにとっては、朝露のようだ」*。こうした思想がここに置かれているのは、神を信ずる人々の懸念を鎮め、彼らに対して、実際にキリストが王であられること、決して大勢の臣民を欠いてはおられないことを見てとらせるためである。

 第一に、ここには主の民についての約束がある。第二に、ここにはキリストご自身についての約束がある。主が常に、いつまでも変わらず強く、清新で、新しく、力強いお方であるとの約束である。

 I. 第一に、《キリストの民に対してなされた約束》を眺めてみよう。「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて、夜明け前から喜んで仕える」 。ここには、についての約束がある。「あなたの力の日に」<英欽定訳>。ここには、についての約束がある。「あなたの民は」。ここには、心ばえについての約束がある。「あなたの民は……喜んで仕える」。ここには、性格に関する約束がある。「あなたの民は、……聖なる飾り物を着けて……仕える」。そしてここには、1つの荘厳な比喩があって、彼らが生み出されるしかたを示している。非常に大胆な隠喩によって、彼らは、朝の胎内から滴る朝露のようにやって来ると云われている。いかにしてかはわからないが、彼らは神によって生み出される。「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて……喜んで仕える」。彼らは、朝の胎内からやって来る。

 1. 最初に、ここにはについての約束がある。キリストはその民を毎日集め入れるのではなく、特別な日、主の力の日 に集め入れなさる。魂が集められるのは、人間が自分の力強さを最も感じる日ではない。というのも、悲しいかな! 熱弁を奮って説教する神のしもべたちは、時として自己満足にかられ、自分がこれほど雄弁で力強かったからには、人々は救われるに違いない、などと思うことがあるからである。だが、私たちの力の日に人々がキリストのもとに集められるというような約束は1つもない。また、時として、人々が神を慕い求める大きな力を有しているように見えるとき、また彼らが聞く力を有しているときもある。だが、興奮が支配し、被造物のうちに力があるように見えるとき、そのような日が、神の取り入れの日となるなどという約束は全くない。それは、「あなたの力の日に」である。――教役者の力の日にでも、聞く者たちの力の日にでもない。

 神の力の日――それは、いかなる時だろうか? 私たちはこれを、神がご自分の力を教役者の上に注がれる日、そのようにして神の子どもたちが、彼の説教によって集められる日であると取るものである。

 愛する方々。生ける神の叙任されたしもべには、説教する際に、ただ口を開いて、言葉が流れ出るにまかせるだけでよい時がある。その人は、ほとんど何も考える必要がない。種々の思想が彼の精神に注入され、彼も説教しながら、ある力が自分の言葉に伴っているのを感じるであろう。その人の聴衆もまた、そのことに気づく。彼らの中のある人々は、自分が大鎚の下に座って、心を打ち叩かれているかのように感じるであろう。他の人々は、さながら真理が自分の心に忍び込み、自分たちの不信仰という不信仰を根絶やしにしているかのように、また、自分がそのほむべき力に抵抗できないかのように感じるであろう。しばしば起こることだが、神の子どもたちは、抵抗不能な影響力と大能が、みことばに伴っているのに気づくことがある。彼らは、その教役者の話を前にも聞いたことがあるし、その話を喜ばしく思った。自分たちの徳が建てられ、益を得たと思った。だが、その日には、格別に心に響くものがある。一語一語が良い土壌に落ち、一撃一撃が的を射抜き、魂の中心から外れる矢は一本もない。――その一言一句が、エホバご自身によってシナイから、あるいはカルバリから語られたことばであるかのように思われる。あなたは、そうしたときを一度も知らないだろうか? 神の家の中で立っているか座っているかしたとき、そうしたときを感じたことがないだろうか? あゝ! そうしたときこそ、神が、ご自身を現わすことによって、その子どもたちの心の目を開き、御民を集め入れ、あわれな罪人たちを喜んで仕える者としてくださるときにほかならない。また、あらゆる罪人の心の中にも、力の日がある。というのも、悲しいかな! 私たちの会衆に起こる普通の力の日は、多くの者を除外しているからである。――その多くの者について私たちは泣かなくてはならない。――何百という人々が悔悟の涙を流している一方で、もう何百人かは何の感情も示さずに、無感動なままである。一部の心が全き喜びに躍り上がっている一方で、他の人々は無知の枷に縛られ、死の眠りについている。神がその御霊を注ぎ出しておられ、ある心は満ちあふれんばかりになり、はち切れそうになっている一方で、ある人々はひからびて、天的な水分を一滴も有していない。しかし、神の力の日は、私たちの魂における個人的な力の日であり、あのザアカイにとって、主から、「急いで降りて来なさい」[ルカ19:5]、と云われた日のようである。それは、人の議論の日ではなく、全能の力の日である。――神が心の中で働いておられるのである。知的啓蒙の日ではなく、単に教えられるだけの日でもなく、神が心に入られる日、また、力ある御手が意志をねじ曲げ、ご自分のみこころのままに変える日である。――識別力には義に従って識別させ、想像力にはしかるべき考えをいだかせ、魂全体をご自分の方向へ導く日である。あなたは、神があらゆる個々人の心の中でいかなる力をふるっておられるか、一度も考えたことがないだろうか? このような力はどこにもない。人は、流れ落ちる大瀑布に向かって、凍りついて、塊のまま立っていよ、と命じるだろうか? たといその滝が彼に従うとしても、それは、神が罪の大水に向かって、流れるのをやめよ、と命じるときに心の中でなされることの半分も強大な奇蹟ではない。たとい私が、火焔と煙を立ち上がらせているエトナ山に向かって、その噴出をやめよと命じることができ、それがたちどころに静かになったとしても、私のしたことなど、神が、火と煙を噴き上げて沸騰している霊に語りかけて、静まれとお命じになるときにくらべれば、何ほどの行ないでもないであろう。永遠の神が罪人をその生き方の過ちから方向転換させるときに示される力は、世界の創造や、宇宙の維持において示されている力以上のものである。神の民は喜んで仕えるようになる。愛する方々。私たちはまた、来たるべきイエス・キリストの統治の時期における力の日をも期待している。私はこれを、やがて来たるべき時には、私たちの間の最もひ弱な者もダビデのようになり、ダビデは主の御使いのようになるという意味に取る。いま近づきつつある時代には、いかにあわれで無知な教役者も力をもって説教し、神の子どもがみな神の知識に満たされることになる。私たちの期待する幸いな日に、キリストは来られて、主の知識を急速に伝播させ、それが海をおおう水のように、地を満たすであろう[イザ11:9]。私たちはしばしばこの主題で自分を励ましている。――よろしい。たとい私たちの労苦がむなしく、さんざん力を費やしたあげく何にもならなかったとしても、常にそうであるわけではない。来たるべき日には、御霊の清新な風が教会の帆という帆をふくらませ、教会は風を切って疾走し、教役者の弱々しい手は、いまだかつて御霊の剣をふるったことのある者の中でも、最も大胆なキリスト者戦士の手のように強大なものとなる。キリストのあらゆることばは、注がれる香油[雅1:3]のようになり、罪深い世に芳香を放つ。私たちは、決して効果を及ぼさないような説教を語ることがない。雨や雪が天から降るように、それは、むなしく戻ることなく、必ず地を潤し、物を生えさせ、芽を出させた上で[イザ55:10-11]、神の栄光を現わす実を生じさせる。――その実とは、偶像の破壊と、あらゆる偽りの宗教の倒壊である。幸いな日、その力の日よ! キリスト者たち! なぜあなたはその日のために祈らないのか? なぜあなたがたは、神が御民に力を与えてくださり、キリストがすみやかに来られて、喜んで仕えるその民を見いだされることを求めないのか?

 しかしながら、この言葉には別の訳がある。カルヴァンはこれをこう翻訳している。「彼らの軍隊が集まる時に」、「au jour des montres」、その閲兵の日に、と。あなたは時としてこう云う。「おゝ! もし何か大きな戦いが起こるとしたら、キリストのために戦う人々はどこに見いだされるだろうか?」 私たちは小心な信仰者たちがこう云うのを聞いたことがある。「おゝ、私は迫害が起こったら、ごく僅かしか真理に立つ勇者がいないのではないか――ごく僅かしかキリストの福音を守るため大胆に前に進み出る教役者がいないのではないかと心配です」。信仰者よ、そのようなことはない! キリストの民は、神の戦いの日に喜んで仕えるであろう。神は、これまで一度も、「わたしには予備の兵力がない」、と云われるような戦いをなさったことがない。神は一度も、軍隊が不足するほど困難な作戦を行なわれたことがない。かつて預言者は云った。「私が目を上げて見ると、なんと、四つの角があった。私が、私と話していた御使いに、『これらは何ですか。』と尋ねると、彼は私に言った。『これらは、ユダとイスラエルとエルサレムとを散らした角だ。』そのとき、主は四人の職人を私に見せてくださった。私が、『この者たちは、何をしに来たのですか。』と尋ねると、主はこう仰せられた。『これらはユダを散らして、だれにも頭をもたげさせなかった角だ。この者たちは、これらの角を恐れさせ、また、ユダの地を散らそうと角をもたげる国々の角を打ち滅ぼすためにやって来たのだ』」(ゼカリヤ1:18-21)。神は、そうした角を切り落とし、ご自分の家を建てる人々を十分有しておられる。そこには四人いた。また、神はご自分のみわざを手早く行なえる、至当な種類の人々を有しておられた。というのも、「職人」はそうしたことに長けているからである。闘争が近づきつつあるとき、神は常にご自分の兵を見いだされるであろう。戦いが始まろうとするとき、神は常に真理に立つ勇者を見いだされるであろう。神がその教会の面倒を見てくださらないのではないかなどと決して心配してはならない。「あなたの民は、神の戦いの日に喜んで仕える」*。あなたは、何か高貴な企てを手がけているだろうか? あなたはこう云っているだろうか? 「ここには、世界に福音を説くための大いなる活動がある。私たちはどこで働き手を見いだしたらよいだろうか?」 答えはこうである。「神の民は、神の軍隊の日に喜んで仕える」。一部の日曜学校教師たちは、自分の教会には、この地区を回り切るだけの人手が見いだせない、と不平を云っている。なぜか? 十分なだけの神の民がいないからである。というのも、神の民ならば神の軍隊の日に喜んで仕えるはずだからである。私たちは、福音を説く教役者たちを得られないと不平を云ってきた。なぜか? 彼らは《主人》の御霊に染まりきっていないからである。というのも、主の民ならば、神の軍隊の日、自分たちが求められているとき、喜んで仕えるはずだからである。彼らは常に喜んで仕える心、いつでも戦いに出て行く心を有している。彼らは、「人と相談しなくては」、などとは云わない。しかり。そこに軍旗があれば、神の兵士らは進み行く! そこに戦いがあれば、彼らの剣は抜かれる! 彼らは、ただちに戦闘に向かう覚悟がある。彼らは常に神の軍隊の日に応ずることができる。愛する方々。いかなる闘争も恐れてはならない。いかなる企てにも恐れおののいてはならない。銀や金が私たちに与えられないだろうとも考えてはならない。「銀や金はわたしのもの、千の丘の家畜らも」*[ハガ2:8; 詩50:10]。いかに大きな大望をいだいていようと、失敗すると考えてはならない。神の民は、神が彼らの助けを求められるとき、喜んで前に進み出るであろう。私たちはこの真理を堅く信じている。だが、私たちは神の日を待たなくてはならない。神の日が来るよう祈らなくてはならない。その日を待ち望まなくてはならない。その日のために労苦しなくてはならない。そして、その日が来るとき、神は、喜んでしかるべく仕えるご自分の民を見いだすはずである。

 2. 次に、ここにはについての約束がある。「あなたの民は、あなたの戦いの日に……喜んで仕える」。――他のだれかが、ではない。ここには、キリストが常に民を有されるという約束がある。そして、たとい今より暗い時代がやって来ようと、主はなおもその教会を有されるであろう。おゝ! エリヤよ。あなたの不信仰は愚かである。あなたは云う。「ただ私だけが残りましたが、彼らは私のいのちをねらっています」*[I列19:10、14]。否。エリヤよ。あの地の洞穴の中に、神はその預言者たちを七十人ずつ隠しておられる。あわれな不信仰のキリスト者よ。あなたも時として、「ただ私だけが残りました」、と云うことがある。おゝ! もしあなたに見る目があるなら、もしあなたがもう少し外を旅できるなら、あなたの心は、神が民を欠いておられないと知って喜ぶであろう。私たちはどこへ行かなくとも、真に熱心な心――祈りに満ちた人々を見いだす。神をほむべきことに、私はこう云える。私が行ったことのあるどの教会にも、数こそ多くはないが、イスラエルの悲しみに嘆息し、嘆いている人々が数人はいるのだ、と。どの教会にも、選ばれた一団の人々、心から熱心な人々、自分の《主人》を見張りながら待ち、いつでも迎え入れようとしている人々、主の御前から回復の時が送られてくる[使3:19]ように神に叫び求めている人々がいる。悲しみすぎてはならない。神は民を有しておられ、彼らはいま喜んで仕えようとしている。そして、神の力の日がやって来るとき、民について恐れることは何もない。キリスト教信仰は退潮を迎えることはあるであろうが、神の船が浜に取り残されるほど潮が引くことは決してない。それは非常な退潮のうちにあるかもしれないが、悪魔は決して靴も濡らさずにキリストの教会の川を渡ることはできない。彼は常にその水路に大量の水があるのを見いだすであろう。願わくは神が私たちに恵みを与え、御民を見張りながら待ち、至る所に何人かは御民がいると信じさせてくださるように。というのも、こう約束されているからである。「あなたの民は、……喜んで仕える」。

 3. 次に話したいのは、心ばえである。神の民は喜んで仕える民である。アダム・クラークは云う。――「この節は、嘆かわしいほどに歪曲されてきた。ある人々の考えによると、これは、選民の魂に及ぼされる神の恵みの不可抗的な働きを指摘しているという。それによって彼らはキリストをその《救い主》として喜んで受け入れるようにされるというのである」。彼が全く放棄する教理である。よろしい。私の親愛なるアダム・クラークよ。私たちは、あなたから意見をいただいて、いたく感謝したい。だが、それと同時に、私たちは、この聖句が「嘆かわしいほどに歪曲されてきた」ことはないと思う。私たちの信ずるところ、この聖句は、神が人々を喜んで仕える者となさることを示すために、非常に適切に用いられてきた。というのも、もし私たちが自分の聖書を正しく読んでいるとしたら、私たちの理解するところ、人々は、生まれながらに喜んで仕えるような者ではないからである。というのも、あなたは、ある聖句をことのほか好んでいるが、私たちはそれが、あなたに有利なものだとは思わないからである。それはこう云っている。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」[ヨハ5:40]。また、もう1つの聖句を私たちはあなたと、あなたの兄弟たちに思い出してほしい。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」[ヨハ6:44]。もしあなたがこれを思い出していたとしたら、たといこの聖句がそれを教えていなかったとしても、この教理に、少なくともある程度の敬意を払っていたであろう。だが、これは、神の民が神の力の日に喜んで仕えるようになる、ということを云っているのである。そして、もしこれを、素朴な英語国民として読むとしたら、私たちはこれを神の約束とみなすであろう。神が、その力の日に十分に喜んで仕える人々を生み出されることになるという約束とみなすであろう。そして、いかなる人も、生まれながらに喜んで仕える者ではない、という事実により、私たちは、この聖句から、神の恵みのみわざがない限り、人々は神の力の日に喜んで仕える者にはならない、と推論する。私たちは、あなたがこれを正当な論理と考えるかどうかわからない。だが私たちは、正当な論理であると思う。私たちは、何の論理もない者であると非難されてきたし、特にそのことを悲しいとも思わない。というのも、私たちは、論理よりは、むしろ人々のいわゆる教条主義を有したいと思うからである。証明するのはキリストである。私たちの務めは宣べ伝えることである。議論はキリストにまかせておく。私たちは、ただ神のことばの中に見いだすものを確言するだけでいい。神の民は、喜んで仕える民であるはずである。私たちは、喜んで仕えているという事実によって、子どもたちを見分けることができる。私たちは、あなたがたの中の多くの人々に向かって、数え切れないほど何度となく説教している。私はあなたに地獄について告げ、それから逃れるように命じる。キリストについて告げ、主のもとに行くように命じる。だが、あなたはそうしたがらない。そこから私は何と結論するだろうか? 神の力の日がまだ来ていないか、あなたが神の民ではないかである。私が力をもって説教し、みことばが油注ぎとともに分かち与えられるとき、もしあなたが無感動で、心定まらず、イエス・キリストに身をゆだねたがらないのを見るとしたら、私は何と云うだろうか? 左様。残念だが、あの人々は神の民ではない。神の民なら、神の力の日には喜んで仕え、喜んで主権の恵みに服し、自分を《仲保者》の御手にゆだね、ただその十字架にすがりついて救いを求めるはずだから、と云うであろう。もう一度問うが、何が彼らを喜んで仕えさせるのだろうか? もし人の意志が純粋に自由に善悪を行なえるとしたら、愛する方々。あなたに折り入って願いたいが、ぜひこの問いに答えてほしい。もしそうだとしたら、なぜあなたは、今この瞬間に、天来の助けなしに神に立ち返らないのだろうか? それは、あなたが喜んで仕えていないからである。そして、神の民が神の力の日に喜んで仕える者となるには、1つの約束が必要なのである。

 この言葉は、単に彼らが喜んで救われたいと思うかどうかだけでなく、救われた後に喜んで働こうと思うかどうかにもあてはまると思う。あなたが知っている教役者の中には、このような人がいなかっただろうか? 日曜には説教をするが、月曜夜の祈祷会では、まるでずっと家にいたがっているかのように見える教役者である。そして、もし火曜に何か講義があると、あわれなこの人は、まるで何か途方もなく困難な義務を果たそうとしているかのように見えなかっただろうか? この人のことを、あなたはどう考えるだろうか? 左様。彼は神の民のひとりではないと思うであろう。さもなければ、彼は喜んで仕えようとしたはずである。ある人々は、神の家に来はするが、まるで黒人奴隷が鞭打ちの場所に来るかのようにやって来る。それを好んでおらず、そこから出て行くとせいせいするのである。しかし、神の民についてあなたは何と云うだろうか。――

   「尽きぬ喜び もてかの宮へ
    聖き氏族(みたみ)は しげく通えり」。

彼らは喜んで仕える民である。そこでは献金がなされる。神の教会が何らかの助けを求めている。ある人は、ほんの僅かな、体裁悪く見えない限度内で、できるだけ少額を施す。あなたはその人がキリスト者精神を表わしているとは思わないであろう。なぜなら、喜んで仕えていないからである。だが、キリストの民は喜んで仕える。自分たちの行なうすべてのことを喜んで行なう。というのも、彼らは、いかなる強制も受けておらず、ただ恵みによってのみ動かされているからである。確かに私たちはみな、強いられているときよりも、喜んで行なうときにこそ、はるかに立派に行なうことができる。神はその民の奉仕を愛される。なぜなら、彼らがそれを自発的に行なうからである。自主性は福音の本質である。喜んで仕える民とは、神がそのしもべとすることをお喜びになる者たちである。神は、奴隷たちによってその御座を飾ろうとはなさらない。むしろ自由な人々、楽しみと喜びとをもって、神の力の日に喜んで仕える人々を望まれる。

 4. この聖句全体を論議している時間はほとんどないが、こうした人々の心ばえと同じく、その性格にも、手短に注目しなくてはならない。「あなたの民は、あなたの力の日に喜んで仕える」*。「彼らは、聖なる飾り物を着けて喜んで仕える」*。これが彼らの装いである。――ただ大胆さだけではなく、聖なる飾り物を着けているのである。というのも、聖さにはその美しさがあり、その宝石があり、その真珠があるからである。では、これらは何だろうか? 彼らが身に着けている聖なる飾り物とは、転嫁された義と、分与された恵みという飾りである。神の民は、彼ら自身では、奇形の民である。それで、彼らの美しさは彼らに与えられたものに違いない。美の基準は聖徒らしさである。もしひとりの御使いが天から下って、自分の見つけた最も美しい被造物を神のもとに持ち帰らなくてはならないとしたら、彼は地上の薔薇を摘みも、その百合を集めもせずに、ひとりの神の子どもの麗しい性格を天国へ持って行くであろう。彼は、自己否定する英雄を見いだしたところ、自分の利を求めないキリスト者――熱烈な信者を発見したところで、彼を連れて行き、こう叫ぶであろう。「大いなる神よ。ここに美があります。これをお取りください。これはあなたの美です」。私たちは、路を歩きながら彫像だの何だのを賞賛し、「ここに美がある」、と云うが、キリスト者は自らの上に真の美をまとっているのである。――聖さという飾り物を着けているのである。おゝ! あなたがた、若者よ。あなたがた、陽気な者よ。あなたがた、高慢な者よ。あなたがたは美を求めている。だが、あなたは、この地上のあらゆる美があなたに何の善も施さないことを知っているだろうか? というのも、あなたは死んで、死装束を着なくてはならないからである。

   「時は汝の 青春(さかり)を盗み
    死こそ汝を 墓に引きずる」。

しかし、もしあなたが聖なる飾り物を着けているとしたら、それらは増し加わり、美しさに美しさを重ね、麗しい御使いたちの間にあって、あなたは彼らと同じくらい麗しい者として、あなたの《救い主》の義をまとって立つであろう。「あなたの民は、喜んで」前に進み出る。そして、彼らは正しい種類の人々であろう。彼らは聖い人々、「聖なる飾り物」という装いを身に着けた人々であろう。

 5. さて最後のこととして、ここには私たちが説明しなくてはならない、大胆な隠喩が1つある。この聖句は云う。「あなたの民は、あなたの戦いの日に、聖なる飾り物を着けて喜んで仕える」*。ここまでのことは、あなたも理解している。だが、次の、「朝の胎内から」 <英欽定訳> という言葉はどういう意味だろうか? 注解者たちは云う。「左様。彼らの人生の最も早い時期から、神の民は喜んで仕える者となるのだ」。否。そういう意味ではない。ここにあるのは、大胆かつ輝かしい比喩なのである。こう尋ねられているのである。彼らはどこから来るのか? いかにして神の民は生じさせられるのか? いかなる手段が用いられるのか? いかにして、それはなされるのか? その単純な答えはこうである。あなたは一度も朝露が地上で光っているのを見たことがないだろうか? そして、一度もこう尋ねたことがないだろうか? 「これらはどこから来たのだろうか? いかにしてこうした無数のものが、これほどふんだんにまき散らされ、これほど純粋な輝きを放っているのだろうか?」 自然がその答えを囁いてくれる。「これらは、朝の胎内からやって来たのだ」。そのように神の民は、さながら「朝の胎内から」、朝露の雫のように、何の騒音もなく、神秘的な、また天来のしかたでやって来るであろう。哲学は、露の起源を発見しようと労苦してきたし、ことによると、それを推察したかもしれない。だが、東方人にとって、この世で最大の謎の1つは、何者の胎から露がやって来るのか、ということであった。この真珠のごとき粒の母親はだれなのか。さて、そのように神の民も神秘的なしかたでやって来るであろう。傍観者はこう云うであろう。「この男の説教には何もない。私は雄弁家を聞くだろうと考えていた。この男は何千人もの救いの手段とされてきた。それで私は、雄弁な人の話を聞けると思っていた。だが私は、彼よりもはるかに知性あふれる知的な説教者の話を何人も聞いたことがある。いかにして、これらの魂が回心したのだろうか?」 左様。彼らは「朝の胎内から」、神秘的なしかたでやって来たのである。さらに、朝露の雫だが――だれがそれを作ったのだろうか? 王侯や君主たちが早起きをして、その王笏を手に取り、雲に向かって涙を流せと命じたり、軍鼓の響きで雲を恐がらせて泣かせたのだろうか? 軍隊が繰り出して戦闘を行ない、空にその宝を手放させ、その金剛石をまき散らさせたのだろうか? 否。神が語っておられるのである。神が自然の耳に囁かれると、それが、朝が来つつあるとの喜ばしい知らせに嬉し涙を流すのである。神がそれをなさる。あからさまな媒介手段は何も用いられていない。何の雷も、何の稲妻もない。神がそれをなさったのである。これこそ、神の民が救われるありかたである。彼らは、「朝の胎内から」出てくる。天来の力で召され、天来の力で生じさせられ、天来の祝福を受け、天来の力で数えられ、天来の力で地球の全面にふりまかれ、天来の清新さを世界にもたらす彼らは、「朝の胎」の中から進んで行く。あなたは朝に、いかに多数の朝露があるか気づいたことがあるであろう。そして、こう問うたことがあるであろう。「これほどの数のものがどこから来たのだろう?」 私たちは答える。自然の胎は、瞬時にして一万もの物を誕生させることができる。そのように、「朝の胎内から」神の子どもたちはやって来る。いかなる身もだえも、いかなる激痛も、いかなる悲鳴も、いかなる苦悶の声も聞こえない。すべてはひそやかである。だが、彼らは「朝の胎内から」新たにやって来る。このたとえは、あまりにも美しく、言葉では説明しつくせない。あなたはただ、早朝に外に立ち、太陽がその光線を空に放射し始めるときに、野の全面が朝露できらめている姿を見て、こう云うだけでいい。「これらはみな、どこから来たのだろうか?」 その答えは、これらは「朝の胎内から」来た、である。そのように、おびただしい数の人々が救われつつあることに気づくとき、また彼らが神秘的なしかたで、穏やかに、天来の力をもって、だがしかし、途方もない数をもってやって来つつあるのを見るとき、あなたはただ彼らを朝露にたとえることしかできない。あなたは、「これらは、どこから来たのか?」、と云う。そして、その答えは、彼らは「朝の胎内から」来た、である。

 II. さて、この聖句の第二の部分はこの上もなく甘やかなものであり、そこに多少とも時間を費やさなくてはならない。そこには、キリストに対してなされた、主の民に関する約束があった。そして、それは《教会》についての私たちの恐れを鎮めた。さて、ここには、《キリストに対してなされた、もう1つの約束》がある。「あなたの若さは、あなたにとっては、朝露のようだ」 <英欽定訳>。あゝ! 信仰者よ。これは、福音の成功にとって、偉大な源泉である。キリストの若さは朝露のようなのである。イエス・キリストは、個人的に、朝露のような若さを有しておられる。ある指導者たちは、その若い時代には軍を率いて戦闘に向かい、その大音声と、強靱な肉体によって、手下の兵たちの勇気を鼓吹してきた。だが、この老戦士の頭にも白いものが混じり始め、老いぼれ始め、もはや兵を率いて戦闘に赴くことはできない。イエス・キリストはそうではない。主は今なお、朝露のような若さを有しておられる。その若年の時代に、軍勢を率いて戦闘に赴かれたのと同じキリストが、今も軍を率いられる。みことばによって罪人を打ちのめした御腕は、今も打ちのめす。それは、以前と変わることなく、麻痺している部分は全くない。ご自分の友たちを眺めて喜んでおられた御目は、また、峻厳きわまりない眼差しで決然と敵兵をご覧になっていた御目は、――その同じ御目は、今もモーセの目と同様かすむことなく、私たちをご覧になっておられる。主には、朝露のような若さがある。おゝ! これは何と喜ばしい考えであろう。キリストは、その若い日々にも、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」[ロマ9:5]であられ、《全能の》力に満たされていたお方であったが、今も全く変わらぬお方なのである。主は、老いたキリストでも、耄碌したキリストでもなく、今なお私たちの指導者であられる。主は常に変わらず若くあられる。同じ朝露、同じ清新さが主にはただよっている。あなたは、ある教役者について聞くであろう。「若い時代には彼も非常な新鮮さをただよわせていたが、今では年老いつつあり、同じことばかり云うようになってきた」、と。キリストは決してそうではない。主は常に朝露のような若さを有しておられる。かつて、「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」[ヨハ7:46]、と云われたお方は、再び来て語られるときも、以前とまさに同じようなしかたでお語りになるであろう。主は、個人的に朝露のような若さを有しておられる。

 教理的にも同じことが云える。キリストには、朝露のような若さがある。通常、ある宗教が創始されるとき、それは非常に活力旺盛だが、後になると減衰していく。イスラム教を見るがいい。百年と少しの間、それは数々の王国を滅亡させ、全世界をくつがえさんばかりの勢いを見せていたが、そのとき輝いた剣の刃はどこにあるだろうか? マホメットの敵たちを喜んで打ち倒そうとする手は、今どこにあるだろうか? 左様。彼の宗教は、古びて、すりきれたものとなってしまった。だれも、それを気にかけてはいない。また、足を組み、煙管をくゆらせながらその長椅子に腰かけているトルコ人は、イスラム教の最上の表象である。――年老いて、体が弱り、活力を失っている。しかし、キリスト教信仰は、――あゝ! それは、エルサレムにあるその揺りかごから発出したときと全く同じように清新で、パウロがそれをアテネで、あるいはペテロがそれをエルサレムで宣べ伝えたときと同じくらい強壮で、頑健で、力強い。それは、古びた宗教ではない。何百年も過ぎ去った今でさえ、その一分子たりとも、古びつつあるものはない。キリストが宣教を初めて以来、いかに多くの宗教が死滅したことか! いかに多くの宗教が雨後の竹の子のように起こり立ったことか! しかし、キリストの宗教は、常に変わらず新しいものではなかっただろうか? 私はあなたに問いたい。あなたがた、頭に白髪をいだく方々。あなたは、若い頃からあなたの《主人》を知っており、その信仰を甘やかで尊いものと思っていた。では、今ではそれが無益なものだと考えているだろうか? 今やキリストは、朝露のような若さを身に帯びていないと思っているだろうか? 否。あなたは、こう云えるであろう。「甘やかなイエスよ。私の婚礼の日、初めてあなたの御手に触れた日に、私はあなたのことを全く麗しいお方と思っていました。そして、あなたは地上の友のようではありません。あなたは年老いることがありませんでした。あなたは、常に変わらず若くあられます。あなたの額に皺は寄っておらず、あなたの目はかすんでいません。あなたの髪の毛は、今なお黒々としており、白髪を交えていません。長年の間あなたを存じておりましたのに、あなたは全く変わることなく、何の変化もこうむっていません」。よろしい。愛する方々。あなたは、私たちの《主人》の御国を伝播させることにおいて、これが、私たちにとっていかなる励ましであるか、見てとっているだろうか? 私たちは時代遅れの古臭いものを宣べ伝えているのではなく、朝露のような若さをまとった信仰を宣べ伝えているのである。ペンテコステの日に三千人を救うことができたのと同じ信仰は、今も三千人を救うことができる。私は昔からの教理を宣べ伝えているが、それは天の造幣局から最初に出て来たときと全く同じように新しい。その像や銘は、あいかわらず鮮明で、その金属は、あいかわらず輝いており、曇りを生じていない。私は古い剣を持っているが、それは赤錆びたものではない。それは多くのラハブを叩き切ってきたが、今なお一点たりとも、なまくらになってはいない。それは、最初に知恵の鉄床の上で鍛えられたときと同じように新しい。福音には、それが若い福音だったときに伴っていたのと同じ精神が伴っている。当時ペテロが立ち上がって宣べ伝えたのと同じように、今もペテロたちが宣べ伝えるであろうし、神は同じ油注ぎを彼らに与えてくださる。当時パウロが宣べ伝えていたのと同じように、今もパウロたちが宣べ伝える。テモテが主のことばを掲げたのと同じように、今もテモテたちがそれを掲げ、同じ聖霊がそれに伴ってくださる。残念ながら、キリストの民はこの文章を――キリストの若さが、キリストにとって朝露のようであることを――信じていないのではないかと思う。彼らは、偉大な信仰復興の時代は過ぎ去ってしまったと観念している。そして彼らは問う。先祖たちは今、どこにいるのか「ゼカ1:5」。私たちは、「イスラエルの騎馬たち、その戦車たち」[II列2:12]、と叫びがちである。エリヤの外套を再び着る者はだれもいないであろう、私たちは二度と大いなる素晴らしい行ないを見ることがないであろう、と。おゝ、愚かな不信仰よ! キリストは、今なお朝露のような若さを有しておられる。主は、最初に有していたのと同じだけの聖霊を今も有しておられる。御霊を無限に有しておられるからである[ヨハ3:34]。そして主は、その御霊を幾千人の人に分かち与えてこられたとはいえ、これからもそれを分かち与えてくださるであろう。しかし、こういう問いがなされる。「もし福音に朝露の若さがあるとしたら、なぜ人々は近頃それに飽き始めているのか?」 左様。愛する方々。それは、福音が彼らのもとに朝露のような形では全然やって来ないからである。私たちはしばしば、全くひからびた、無味乾燥な福音、さながら髄が煮出された後の骨殻のような福音を聞かされていないだろうか? こうした骨殻は、あなたの哲学的神学者たちにとっては非常に素敵なものではある。彼らは、古代の遺物を研究するのを好み、あれこれの骨が、どの汚れた動物に属しているかを見つけ出すことを好んでいる。だが、それらは神の子どもたちにとっては全く何の役にも立たない。というのも、そうした骨殻には食物が何もついていないからである。私たちに必要なのは、油注ぎで覆われた福音、風味に満ちた福音である。そして、神の民がそれを有するとき、彼らは決してそれに飽くことがない。彼らはその福音に朝露と、尽きざる清新さがただよっているのを見いだす。

 さて、もしキリストが、朝露のような若さを身に帯びておられるとしたら、私たちの中でも主に仕える教役者たる者たちは、いかに熱心に主のことばを宣告すべきであろうか。強い信仰にまさって、ある人を力強く説教させるものはない。私は、自分の宣べ伝えているのが、ぐらついて倒れそうな古びた福音だと考えているとしたら、熱をこめてそれを宣告することはできない。だが、もし強固で頑丈な福音、揺らいだことのない骨組みと、常に変わらぬ力を有する福音を宣べ伝えていると思っているとしたら、いかに力強くそれを説教すべきだろうか? あゝ! 神はほむべきかな。何人かの魂は、使徒たちの心と同じくらいに、その《主人》の御国の進展において堅固である。まだ何人かの善良で真実な人々は、十字架の下に結集する。アドラムの洞穴の中にいたダビデの家来たちのように、軍旗の下に結集する何人かの勇士たちがいる。主は、ご自身のことを証ししないでおられるわけではない[使14:17]。主にはなおも朝露のような若さがあり、やがて来たるべき日には、今は暗闇の中に隠されている者たちが日光の照る前の朝露のように現われて、あらゆる灌木の上できらめき、あらゆる木々を飾り、あらゆる村に光を添え、あらゆる牧場を元気づけ、もろもろの丘を喜び歌わせるであろう。行くがいい。キリスト者よ。そして、これを祈りの形で云い表わすがいい。キリストに祈るがいい。主の民が主の力の日に喜んで仕える者となるように。また、主が常にその朝露のような若さを保っておられるように。

   「乗りて進めよ、勝利(かち)得し君主(きみ)よ、
    命じ給えや、世に、『従え』、と」。

進み続けて、ご自分が常に変わらぬお方、ほむべき神、「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」[ロマ9:5]であられることを証明させ給え。立てよ、キリスト者よ。立てよ! あなたの若き《君主》のために戦え! あなたがたとともに立てよ、戦士たち! あなたがたの剣を、その鞘から抜いて閃かせよ! あなたの《王》のために戦え! 立てよ! 立てよ! かの古の幟は、新しい幟でもある! キリストはなおも清新で、なおも若い。あなたがたの若さの熱情にあなたを囲ませよ! もう一度云う。起き上がるがいい。あなたがた、年老いたキリスト者たち。そして、あなたの青春の日々を戻って来させるがいい。というのも、もしキリストが朝露のような若さを身にまとっておられるとしたら、あなたは若々しい活力で主に仕える義務があるからである。立てよ! あなたの眠りからいま起き出し、新しい若さを主にささげ、主の御国のために、あなたが主を知った最初の日であるかのように真剣で、熱心に励むがいい。おゝ! 願わくは神が、多くの罪人たちを喜んで仕える者としてくださるように! 願わくは神が、多くの人々をその足で立たせてくださるように。というのも、神は、彼らがご自分の力の日に喜んで仕える者となると約束されたのだから。

 

喜んで仕える民と不変の指導者[了]

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