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第7章 幸福と奉仕

 1857年にスポルジョン夫妻は、クラパム区ナイチンゲール小路のヘレンズバラ荘に転居した。ニューケント通りにあった最初の家より、はるかに快適に感じられる家である。当時のクラパムは今よりもずっとひなびた土地で、その家には広い庭園が付いていたため、この説教者は、山なす仕事のさなかでも、ひとり静かに心を休めることのできるその場所をいたく気に入った。周囲の田舎道もまた、若夫婦が、その称賛者たちにつきまとわれたり、近づかれて声をかけられたりすることなく、息抜きのために散歩できる喜ばしい場となった。旧居の付近では、なかなかそうもいかなかったものである。その庭園についてスポルジョン夫人はこう語っている。「おゝ、私たちにとって、それは何と喜ばしい場所に思われたことでしょう。もっとも長年の間ほったからしにされていたために、それはそれは荒れ果てていましたが。――クロイチゴの藪が大樹ででもあるかのように我が物顔でのさばり、他の色々な果樹も、刈り込まれないまま放置されていたので、すさまじく伸び放題でした。この素晴らしく混乱しきった野放し状態のために、この庭は、いやがうえにも興味深いものと感じられました。なぜなら、それを自分たちの理想とする庭園の姿へと次第に近づけていくという幸いな務めに励むことができたからです。こうした若い時分の私たちが家でも庭造りでも多くの馬鹿げた間違いを犯したことは認めなくてはなりません。ですが、『それが何でしょう』。梢に巣をかけようとしている、どのような鳥のつがいにもまして無上の喜びを感じていたのは、その小さな田舎家を設計し、位置を決め、造り替え、整え直している最中の私たちでした」。

 この家には折に触れ何人もの著名人がこの教役者とその妻のもとを訪れた。この説教者が病床に伏している間には、多くの愉快な会話がジョン・ラスキンとの間で交わされた。あるときラスキンは、友人夫妻のために何枚かの見事な銅版画と、最高の銘柄の葡萄酒を何本かかかえてきた。スポルジョン夫人は、このクラパム郊外の自宅で過ごした喜ばしい折々について雄弁に物語っている。「私たちは、ナイチンゲール小路のあの懐かしい古い家で何年も幸せに暮らしました。そして、長い歳月をおいて振り返ってみると、それは私たちの結婚生活の中でも最も心労や悲しみの影が薄かった年々だったに違いないと思います。私たちは二人とも若くて、元気一杯でした。それなりに健康で、熱く愛し合っていました。子どもたちも、田舎の爽やかな空気の中ですくすく育ち、私は愛する夫をますます幸福にするために全時間を費やしていました。この人の側にいつもいられることを自分の喜びとも特権とも思っていました。主人が説教旅行に行くときには何度も同伴し、時たま体をこわしたときには看病し、休暇で旅をするときには喜んで一緒に出かけました。愛してやまない夫を見守り、その世話に一心に打ち込んでいました」。夫人は説明して言う。「私がこうしたことに触れているのは、少しでも自分の手柄を言い立てるためではなく、ただ神に対する心からの感謝をここに記しておきたいためです。というのも、十年もの素晴らしい年月のあいだ私は、主人の回りにいて、妻が夫にささげることのできるありったけの甘やかな心遣いと優しい情愛を注ぐことができたからです。その後、神は事が変わるようにお命じになりました。夫と私の立場を逆転されたのです。それからは長い間、仕えるのではなく辛さを忍ぶことが私の日ごとの割り当てとなり、病んだ妻の面倒を見る務めが愛する夫に課されたのです」。

 その庭園は鳴き鳥たちが常に寄り集まる場所であり、回復期にある際のスポルジョン夫人は、窓辺に腰掛けて、こうした小鳥たちに餌をやることを楽しみにしていた。このようにして夫人には羽を生やした多くの友だちができ、そうした鳥たちは夫人の回りをぴょんぴょん跳びはね、その手から食べた。全き愛は恐れを完全に閉め出すのである[Iヨハ4:18]。

 長年のあいだ土曜日の午前中は神学生たちのために費やされた。牧師学校の学生たちは、寄宿先のロジャーズ校長の自宅から列をなしてナイチンゲール小路へとやって来ては、その庭園でC・H・スポルジョンが神学や説教やそれに類する話題について語る演説に耳を傾けるのだった。実は、こうした演説をもとにしてできたのがかの有名な著書『牧会入門』である。

 健康に恵まれているうちは、スポルジョン夫人もニューパーク街会堂、後にはメトロポリタン・タバナクルという夫の教会で活動的な役割を果たしていた。礼拝に出席し、魂の悩みを覚える婦人や若い娘たちを霊的に慰め、バプテスマ式では女性の受洗者たちの補助を行なった。1861年4月12日付けの『ブリティッシュ・バナー』誌に掲載された記事の中で、キャンベル博士は、この巨大な建物の中で最初に行なわれたバプテスマ式についてこう書いている。――「人々は興味津々で見守っていた。あたかも、人がローマカトリック教会で修道女になる折といささかも変わらないかに思われた。水槽の中には会衆の畏敬の的である若き雄弁家が光輝く面差しで立ち、通路側にはスポルジョン夫人がいた。人の心を惹きつけるこの若い婦人は――見る者すべての賛嘆の的であった――優雅な威厳とこよない慎み深さをもって、列をなす、震えおののく姉妹たちを順々に夫のもとへと導いていた。牧師は優しく穏やかにひとりひとりを受け取ると、それぞれに異なる甘やかな一言一言を告げながら浸礼を授けた。その言葉はみな思いやりに満ち、その折にふさわしいもので、心を強め、励まし、力づける目的にかなっていた」。ほぼ一箇月後に、タバナクルで最初の《教会集会》が開かれ、神に対する感謝と感恩の記録が《教会記録》の頁に記されたたとき、スポルジョン夫人は、牧師、執事、長老たちの名前が最後に記された後に書き加えられた教会員名の長い一覧に最初に署名した人物であった。

  



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