HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT

----

第2章 1855年における週刊説教集の開始

 『一銭講壇』によって出版されるC・H・スポルジョンの説教は飛ぶような売れ行きを見せ、その発行部数は他の教職者たちの講話をはるかに凌駕していたため、今後も不定期に刊行しようという決定がなされた。とはいえ、ある程度の期間を区切って毎週一編ずつ発行しようというような考えは、そこには全くなかった。しかし、すでに印刷された数編の説教が収めた成功、また、C・H・スポルジョンから出た物なら何にでも飛びつく大衆の熱烈ぶりを見るとき、彼の友人であったジョウゼフ・パスモア氏には、心中深く思わさせられるものがあった。この大説教者の生涯に通じた人々であれば思い起こすだろうように、この人物こそは、彼にロンドンで最初にできた真の友人であった。パスモア氏は、もうひとりの青年――国教徒の――ジェームズ・アラバスター氏と協同関係にあり、二人はフィンズベリー区のウィルソン街で小さな印刷業を営んでいた。パスモア氏は、非常な先見の明により、C・H・スポルジョンが英国の説教者の間で傑出した立場を占めるに違いないことを見抜き、この若き説教者の説教だけを掲載する『一銭講壇』なら、毎週定期的に発行できる可能性があることに気づいたのである。それで彼は、共同経営者と話し合った上で、チャールズ・ハッドン・スポルジョンに話を持ちかけた。

 後者は、この提案に非常に心をかき乱された。彼は、その慎ましさから、このような冒険の成功について半信半疑であった。それだけでなく、いま以上に重い責任を負い、自分の名前が喧伝されることに尻込みした。しかし、熟慮と祈りを積んだ上で、「私は、大いに恐れおののきながらも、私の現在の尊敬すべき発行者たちに同意を与えた。毎週定期的に一編ずつ説教を刊行し始めて良いと伝えたのである。その皮切りは、1855年1月7日の主日朝にニューパーク街会堂で行なわれた説教であった。主題聖句は――『主であるわたしは変わることがない。ヤコブの子らよ。あなたがたは、滅ぼし尽くされない』である[マラ3:6]」。これが、『ニューパーク街講壇』(第1巻)の第1号となっている「神の不変性」と題された説教である。

 たちまち、『ニューパーク街講壇』は大成功を収め、その発行部数が空前のはね上がりを見せたために、この若き経営者たちは、その矢の催促に応じるのにいささか困難を覚えるほどであった。新聞各紙は、語られた説教と同じく印刷された説教をも俎上に上せた。エクセター公会堂で日曜日の朝に語られた講話を集めた巻――C・H・スポルジョンの最初に出版された説教集――を論評して、『バプテストの使者』はこう語っている。――「これらの説教の中には、反論しようのない健全な教理が非常に数多く含まれている。――福音的な香気、霊的な経験、そして神聖な熱烈さとともに、心に対する熱心で実際的な訴えがある。そのため、イエスのうちにある真理を愛する、信仰を告白するキリストであれば、ほぼいかなる階級の者であろうと、この説教集を心底から歓迎するであろう」。そして、同紙はただちに、びっしり文字が詰まった抜粋を六頁も掲載した。この本は、アラバスターおよびパスモア両氏とジェームズ・ポール氏によって共同出版されたものであり、『講壇の図書館』の第1号として、十編の説教が、明瞭で読みやすい活字で印刷されていた。この、立派に布綴じされた本は、途方もない売れ行きを示した。チャールズ・ハッドン・スポルジョンは、その一冊を自分の未来の妻に贈呈し、その見返し頁にこう記した。「もう数日もすれば、トンプソン嬢に贈り物をすることは不可能になります。ぼくたちの幸せな出会いと甘やかな語らいの思い出として。1855年12月12日。C・H・スポルジョン」

 それから間もなくして、『ニューパーク街講壇』の第1巻が刊行された。その序文に、この説教者は次のように記している。

 「これらの《説教》については、すでにこれ以上ないほどの賛辞が寄せられてもいれば、ありとあらゆる辛辣な批判が語られてもいる。幸いなことに著者は、悪口の種が尽きてしまうのを聞いてきた。その語彙が使い果たされ、その毒の最後の一滴まで完全にしぼり出されたのを見てきた。だがしかし、印刷された講話は、まさにそうした理由によって、より順調な売れ行きを見せ、いやまして多くの人々がそれらを熟読玩味すべく導かれたのである」。

 「本書には、いかなる人にも軽蔑できない点が1つある。――そして、それがあまりにも見事なものであるため、この説教者は人間の意見など歯牙にかけようとは思わない。――すなわち、彼が確実に見聞きしてきたように、これらの《説教》のほとんど1つとして、《全能者》の御手によって、魂の回心という証印を押されなかったものはない、という事実である。ここでその兄弟たちとともに仲良くおさめられている説教の中には、神のもとにあって、それだけで二十人は下らない人々を救う手段となってきた説教が何編かある。1つの《説教》だけで、少なくともそのくらいの人数が説教者の目にとまったのであり、最後の審判の日には、より多くの人数が見いだされるであろう。こうしたことを思うとき――何千何百人もの神の子らが、こうした説教の使信によって踊り上がるほど喜ばされているという事実とあいまって――、その《著者》は、批判にも悪口にも動じはしない」。

 「ことによると、読者は、ここで公にされた意見のいくつかが相当に発展していることに気づくかもしれない。特に、私たちの主の《再臨》の教理の場合がそうである。だが読者も思い出すであろうように、真理を学んでいる者はそれを段々に学んでいくのであり、もしその人が自分の学びと平行して教えているとしたら、その人の教えは日ごとに充実したものとなるはずである」。

 「またここには、微笑みを浮かべさせるような多くの云い回しも含まれている。だが、思い出してほしい。あらゆる人は、明るく陽気な気分に身をまかせれば楽しい時を過ごすものである。説教者も同胞の人々と同じ感情を持つことを許されなくてはならず、説教者が最も生き生きとするのは他ならぬ講壇上である以上、講壇では説教者の人格全体が明らかに示されるのが自然である。それに、この説教者は、微笑みが罪であるとはあまり確信しておらず、いずれにせよ、一瞬の笑いを引き起こす方が、半時間の熟睡を引き起こすよりも罪としては軽いと思う」。

 「いかなる欠点があるにせよ、購入者は本書を買ってしまったのである。そして、これが完璧な本であると保証されてはいなかった以上、この本についてどう悪く思うとしても、その人は、自分の買い物を最善に役立てるようにしなくてはならない。――そのためには、本書を読むことで自分に祝福があるように願い求めるか、自分の友たるこの説教者により大きな光が与えられるように乞い願うことである」。

 最初の七年間は、紙税が施行されていたため、それぞれの説教は小さな活字で印刷されなくてはならなかった。価格的に、一銭では八頁以上印刷できなかったからである。どの説教も常に同じくらいの長さだったが関係ない。こうした初期の頃、説教者はほぼ全く見直しを行なえなかった。この件について、彼はこう書いている。――「不断の習慣によって私は、普通は毎回同じ分量だけの話をするようになった。その変動の少なさには、ほとんど驚きすら覚える。四十分から四十五分の話をすることで、使える紙数が丁度埋まり、そこに追加する苦労も、それ以上に困難な削除を行なう労も省かれるのである。初めの方の説教は、私が常にあちこちを飛び回っていたため、ほとんど何の見直しも行なわれていない。そのため、口語調の文体その他の欠点で満ちている。それらは、即興の講話においてはごく些細なことだが、印刷されるとほとんど耐えがたいものである」。こうした初期の説教は何年も後になってからこの説教者によって改訂され、残りの連続説教の形式に合わせて再出版された。――「そこには綴りの間違いや誤植があり、それは訂正されなくてはならなかった」、とその時の彼は書いている。「だが、幸いなことに私は、そうした初期の牧会伝道で説教していた教理のいずれを変更する必要もないことに気づいた。三十年から三十五年前に用いられた表現については、そこここで多少修正できたかもしれない。だが、種々の真理そのものについて云えば、主がそれらを最初に、その誤りなき御霊によって明らかに示してくださったとき私が立っていたのと全く同じ所に私は立っている」。

 米国では、印刷された説教の売れ行きが、当初はこの国より大きいほどであり、前述の最初の合本については、二万部以上がごく短期間で売り切れてしまった。それから数年の間に、五十万部前後が合衆国で売れたと推定される。あの大規模な南北戦争が起こるまでにはまだ数年あったが、すでに北部と南部は敵対しており、奴隷制は盛んに論じられている問題だった。チャールズ・ハッドン・スポルジョンは、説教していくうちに、この奴隷制という問題全体を酷評する[道徳的に批判する]義務があると感じた。すると、たちまち南部諸州における説教集の売れ行きはがた落ちし、ほとんど無に帰してしまう一方で、おびただしい数の侮辱的な手紙や脅迫状がこの説教者に送られた。

 もちろん、こうした説教の刊行は、より低俗な種類の著述家や弁舌家たちにとって、この若き説教者に中傷や悪口を浴びせかける機会となった。彼が自分の講話を出版したのは金儲けのためだと彼らは云い、彼にもたらされつつある莫大な金額について、また、彼が「地上の宝」を蓄えつつある急速さについて、根も葉もない噂が広まった。『バプテストの使者』はこの件について、ある編集者がこう言及している。「私たちの理解するところ、彼は一巻の説教集を刊行準備する契約を、とある歴とした出版社と取り決めた。噂によれば、その著作権のため彼は非常に途方もない金額を受けとることになっているという。スポルジョン氏には、聖霊の導きの下で彼自身の直観に従ってもらいたい。そうすれば、彼はすみやかに、嫉妬深い、また、偏見をいだいた批評家たちの愛に欠けた予言が偽りであると立証するであろう」。

 確かに、週刊説教集の刊行は彼に多大な金額をもたらしたが、それらは、彼が押し進めていた様々な機関や運動の維持のために用いられた。また、彼は貧しい神学生たちの教育のため、年間、米国での売れ行きによって受けとる六百から八百ポンドを支出していながら、彼自身は比較的つましい暮らしをしていた。合衆国での売れ行きが下落し、その結果この供給源が停止したことは、彼にとって大きな試練だったが、彼は神を信じており、彼の祈りはかなえられた

 今では奇異なことと思われるが、書籍販売業者たちは、この華々しい青年説教者の説教集に非常な偏見をいだいていて、それを売ろうという者はほとんどいなかった。そのため、例えば、ケンブリッジでは(スポルジョンのことが良く知られていた土地だったが)、この説教集を買える唯一の場所は、とある食糧雑貨店でしかなかった。――店主はこの説教者の友人だったのである。もちろん、この説教集が金銭的に大当たりをとったことを見てとると、書籍販売業者たちも、たちまち彼らの尻込みを克服し、偏見をなくした。



HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT