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第1章 着 想

 チャールズ・ハッドン・スポルジョンが、テヴァーシャムという小村の農家の集会所で、いかにその最初の説教を行なったか、また、そこで示された能力の結果、いかに彼がケンブリッジ地区の村落説教者の計画表に載せられることになったかという物語は、あまりにもしばしば語られてきたため、ここで繰り返す必要はないであろう。その後ほどなくして彼は、ウォータービーチ会堂の常任牧会職に招聘され、この若き神の人――年齢においては若かったが、霊的経験および聖書教師かつ講解者としての技量においては老練であった――の名声は、たちまち数里四方に広まった。そのため、彼が講壇に立つときには、辺境の村々から大人数の人々が馬車を駆って押し寄せ、これまで半ば空っぽだったこの会堂は、期待に満ちた敬虔な会衆によってすし詰めになるのだった。

 そして、人々を引きつけ、とりこにしていたのが単なる雄弁でなかったことは、ごく短期間のうちに証明された。というのも、その村のたたずまい全体が――それまでは、近郷の他の村々にまして、その罪と宗教的無関心で名を馳せていたというのに――様変わりしたからである。そして、スポルジョンの働きのそうした結果は、今日に至るまで存続している。彼の説教はまことに「救いを得させる神の力」であったし、ほとんど礼拝式のたびごとに回心する人々が出たと分かるのだった。このような説教者を、そうした片田舎の会堂に閉じ込めておくことはできない相談であり、ケンブリッジのみならず、周辺のずっと小さな村々にある様々な教会からも説教依頼が殺到した。彼の声望は盛んに喧伝されるようになり、ついにロンドンにまで達した。こういうわけで彼は、ニューパーク街会堂で説教してほしいとの招きを受け取ったのである。同会堂は、ベンジャミン・キーチ[1668-1704在任]、ジョン・ギル博士[1720-1771在任]、ジョン・リッポン博士[1773-1836在任]といった錚々たる説教者によって連綿と牧会されてきた重要な教会であった。この若者が――まだ二十歳にもなっておらず、非常に慎み深かった――何かの間違いではないかと考えたのも不思議ではない。だが彼は、自分こそ奉仕するよう求められているチャールズ・ハッドン・スポルジョンであると知ったとき、大きな恐れおののきとともに、その招きを受け入れた。何か重要で責任の重い使命のためにロンドンに上京したことのある地方青年でもない限り、この若き説教者にとってこの訪問が何を意味していたか理解することはできないであろう。野暮ったく、大都市の作法をまるで知らず、教養あるロンドン人士の貫禄や要求を大袈裟に考えていた彼は、1853年12月のどんよりと曇った晩に到着した。そして、ブルームズベリの下宿屋でみじめな夜をまんじりともせずに過ごした後で、大いに怯えながらニューパーク街会堂の講壇に立った。会衆の人数は少なかった。だが神の力を頼り求めたとき彼は、天来の慰めと助けの感覚を感じ、それによって励まされ、次の聖句から力強い説教を語ることができた。「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません」(ヤコ1:17)。この若者が、ただのひよっこ説教者でなかったことは、これが彼の六百七十三番目の説教だった事実からも分かるであろう。それは人々をたちまち魅了した。このような説教が彼らの教会内で聞かれ たことは絶えて久しかったし、この説教者が大物になると察知した聴衆はひとりや二人ではなかった。夜には、会堂がほぼ満杯となった。午前中の礼拝者たちが、自分たちの享受した霊的饗宴について、友人たちの間を嬉々として触れ回ったからである。その結果、その晩の会衆は、午前中の会衆の倍以上になった。C・H・スポルジョンのロンドンにおける二番目の説教の聖句は黙14:5であった。「彼らは神の御座の前において傷のない者である」<英欽定訳>。そして、私たちの知るように、会衆はその礼拝が閉じた際には興奮のあまり会堂を去りもやらず、執事たちを攻め立てては、この若き説教者を空席の牧会職へと招聘する約束を取りつけるほどであった。

 今や語り草になっている物語をここで詳細に繰り返す必要はあるまい。いかにしてこの若き教役者が、六箇月の間、代理牧師を務めるよう要請されたことか。だが、いかにして彼が、その慎み深さのゆえに、一度に三箇月以上の期間とどまることには同意しようとしなかったことか。また、彼がその牧会伝道の働きを開始するや否や、いかにしてその会堂が人々で埋め尽くされ、立錐の余地もないまでになったことか。そして、いかにして彼が、その試用期間の完了を待たずにして、牧会職を受け入れてほしいと執事たちから要請されたことか、また、いかに多くの祈りと自己吟味の後で彼が同意したことか。ロンドンには、たちまち彼の名声が鳴り響くようになった。人々は四方八方から群がった。会堂は狭すぎるようになり、エクセター公会堂を借りて夕拝が行なわれたが、それでも入る余地がないという理由で、話を聞きたいと願う者が数百人も閉め出されるほどであった。文学界、政界、社交界の著名人たちが彼の話を聞きに来た。そして、権威をもって語ることのできる人々はみな、彼の説教の内容についても話しぶりについても、最大級の賛辞を呈した。元俳優で、劇作家をしていたシェリダン・ノールズはステプニー神学校で教鞭を取っていたが、自分の神学生たちにこう云った。――「さっそく行って、あのケンブリッジシアの若者の説教を聞きなさい。まだほんの少年ですが、世界一すばらしい説教家です。彼の雄弁術は完璧です。私からも他の誰からも学ぶべきことはありません。完全そのものです。あらゆることを知っています。……何と、諸君。彼は聴衆を自分の思い通りにあやつる術を心得ています! 五分間のうちに会衆を笑わせ、泣かせ、また笑わせるのです。彼の力に匹敵するような人物はひとりもいませんでした。さあ、よく聞いてください、諸君。この青年はこの時代の、あるいは他のどの時代においても、最も偉大な説教者になるでしょう。これまで福音を宣べ伝えたことのあるいかなる者にもまして多くの魂をキリストに導くでしょう。それは使徒パウロすらしのぐことでしょう。彼の名はあまねく知られるようになり、彼の説教集は世界の多くの言語に翻訳されるに違いありません」。このように驚くべき予言が、1854年、C・H・スポルジョンがニューパーク街の牧師になったばかりの頃になされていたのである。そして、この小さな本がこれから示していくように、それは文字通り成就したのである

 数多くの宗教紙および世俗紙の記者たちが表明した意見によると、この新参の説教者は、バニヤンやウェスレーやホイットフィールドの立派な後継者であり、ウィリアム・ケアリや、ギルや、リッポンや、ロバート・ホールにまさらずとも、比肩する者であった。『モーニング・アドバタイザー』紙上で、ジェームズ・グラントは次のように書いている。――「彼は全く独創的な説教者であり、それゆえ常に大規模な会衆を集めるであろうし、その結果、普通であれば、誠実に解き明かされた福音を耳に入れることなど決してないはずの種々の階層の人々に、大きな善を施す卓越した媒介となるであろう。明らかに彼は、ジョージ・ホイットフィールドを自分の手本としている。そして、かの比類なき説教者、かの講壇上の雄弁家の王者のように、印象的な頓呼法を非常に好んでいる」。後にジェームズ・グラントは、大衆の喝采がこの説教者を損なわなかったことに喜びをもって注目し、こう云い添えている。「説教者としての彼の卓越性が長続きしないのではないかという私たちのさらなる恐れについて云えば、私たちは喜んでこう云うものである。私たちの心配は、その後の事態によって、これ以上ないほど事実無根であったことが証明された、と。衰えたものは何1つない。むしろ逆に彼は、ある意味では、時の推移とともに向上していさえする。私たちは、彼の驚くような独創性が、最初の頃よりも、さらに大きく引き立たされてさえいるように思う」。

 もちろん、この若き説教者を非難し罵倒する者らもいたが、こうした人々は彼の成功をねたむ年長の教役者たちか、「新聞種」を鵜の目鷹の目で探す無知な新聞記者たちであった。前者は、エドウィン・パクストン・フッド師によって辛辣に論難された。同師によると、スポルジョンには、――「ハーヴェイの奔放で、無規律な空想があるが、その優雅さはない。だが、その代わりにベリッジの滑稽さがあり、至る所にロウランド・ヒルの最上の時代の真剣さがある」。彼はこう結論している。「福音主義的な真理を大胆に、確信に満ちて言明すること、種々の確信を忠実に取り扱うこと、愉快で当を得た例話を用いること、真に迫る描写をし、心探られる常識を語ることを私たちは求め、私たちの信ずるところ、そうした求めが満たされないことはまずないだろう。一言で云うと、彼が説教している相手は――形而上学者でも論理学者でもなく――詩人でも碩学でもなく――博識の大家でも修辞法の達人でもない。彼は人々に説教しているのである」。

 しかし、C・H・スポルジョンがロンドンに到着した当時の説教に対する最上かつ最も鋭敏な批評は、ヘア氏によって記されたものかもしれない。彼は云う。――「彼は明瞭で音楽的な声をしている。その言葉遣いは平易で、その様式は流暢だが、きびきびとしている。話の順序は明晰で整理されており、その内容は健全で適切である。彼の口調と精神には心からの温かみがこもっており、その評言は常に簡潔でぴりっと刺激がきいている。時として親しげな話し言葉風になりはしても、決して軽薄になったり、粗野になることはなく、まして卑俗になることはない。この一編の説教だけで判断する限り、彼はカルヴァン主義と呼ばれる形の福音を平易に、忠実に、力強く、また情愛をこめて宣べ伝える説教者になると思う。また、私たちの判断をより好意的なものとした理由は、彼には年齢に似合わぬ堅実さがある一方で、非常に若年の説教者たちにつきものの、ごてごてと装飾過多な文体がほとんど全く見られない点である」

 有能で鑑識眼のある権威筋が、C・H・スポルジョンの説教についていかなる意見を述べたかを、このように相当詳しく示してきたのは、それが、偏見のない、教養ある人々にとっても魅力あるものであったことを示すためである。そして、このことをさらに十二分に証明するのは、この説教者の会衆が多年にわたり、多くの傑出した人士を含んでいたという事実であった。――ラスキンのような著述家たちや、裁判官たち、政治家たち、国会議員たち、貴族や貴族夫人たちである。しかし、もしそれが真実だとしたら、いかにいやましてこの説教は、中流および下層階級の人々にとって魅力あるものだっただろうか? 傑出した説教者があえて身を落とし、単純な《福音》を、平易な英語で、古典文学の引用だの美辞麗句だのを山盛りにせずに説教するようなことは絶えて久しかった。大ぜいの群衆が彼の云うことを喜んで聞いていたのは、彼の説教を理解できたからであった。それで彼らは、ニューパーク街会堂やエクセター公会堂に、そして後にはサリー公園音楽堂やメトロポリタン・タバナクルに押し寄せたのであり、その半数以上が中に入れないという事態になったのである。

 こうした次第で、チャールズ・ハッドン・スポルジョンに対する興味が今や国中に行き渡りつつあった事実とあいまって、彼の最初期の説教集が小冊子の形で出版されることになったのであった。それは、「一銭講壇」の時代であり、その最も成功した連続説教集の1つを刊行していたのがジェームズ・ポール氏である。ロンドンに登場する時点まで、C・H・スポルジョンの説教は1つも出版されたことがなかった。ただし、彼が私たちに告げているところ、「まだ一度も講壇に立ったことがない頃に、いつの日か自分の話した説教が出版されることになるという考えが脳裡をよぎったことはある。愛読書だったジョウゼフ・アイアンズの一銭説教集を読んでいるうちに私は、1つの考えを思いついた。いつか私も、自分の《一銭講壇》を持つことになるとしたらどうだろうか、と」。初めて出版された彼の著作は、1853年、この若き教役者がまだケンブリッジシアの村にいたときに刊行された『ウォータービーチ小冊子』の第1号である。だが、これは特にその折のために書き下ろされたものであった。1854年8月こそ、彼の最初の講話がポール氏によって印刷され、出版された時であった。その説教は、その月の20日にニューパーク街会堂で語られたもので、聖句は第一サムエル12:17、「今は小麦の刈り入れ時ではないか」、である。これは、後に《メトロポリタン・タバナクル講壇》第2896号(第50巻)として再出版された。これは、ポールの《一銭講壇》の第2234号として、『刈り入れ時』という題で刊行され、またたくまに大量の売れ行きを示した。そして他の何編かの講話がポール氏の連続説教集の中に現われた。また、当時発行されたばかりの小さな月刊紙『バプテストの使者』が、各号でこのニューパーク街の教役者による説教を呼び物とするようになった。この小新聞に最初に掲載されたのは、詩篇84:6の聖句を主題とした説教で『涙の谷』と題されていた。それは、1854年の9月号に掲載され、冒頭の頁を飾る栄に浴していた。『バプテストの使者』の発行部数はたちまち跳ね上がり、1つのことを決定的に明らかにした。世間のおびただしい数の人々は、印刷されたC・H・スポルジョンの説教を喉から手が出るほど渇望している、ということである。



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