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刈り入れ時*

NO. 2896

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1904年8月11日、木曜日発行の説教

説教者:C・H・スポルジョン
於サザク区、ニューパーク街会堂
1854年夏


「今は小麦の刈り入れ時ではないか」。――Iサム12:17


 私は、前後の文脈には触れずに、この言葉だけを1つの格言として取り上げ、刈り入れ時の畑ということをもとに説教しようと思う。私は、ここに見られるいかなる語句にもまして、この刈り入れということを本日の聖句としたい。「今は小麦の刈り入れ時ではないか」。町に住んでいる人々は、田舎に住んでいる人々よりも、季節や時についてあまり考えないと思う。麦畑や、刈り入れや、種蒔きや、収穫期などに囲まれた中で生まれ、育ち、養われ、はぐくまれた人々の方が、年がら年中商いに携わり、田舎の人々よりそうした事がらを考えることの少ないあなたがたよりも、季節や時といったことに注目するとしても当然である。しかし、たといどうしてもあなたが、他の人々より「刈り入れ」に注意することが少なくならざるをえないとしても、そうなりすぎるべきではないと思う。季節と時について忘れがちにならないようにしよう。それらによって学ぶべきことは多い。私は、ある刈り入れ時の畑によってあなたの記憶を新たにしたい。この世界は何と驚嘆すべき神殿であろう。というのも実際、これこそ神がお建てになった神殿であり、この中で人間は神を礼拝すべきだからである。霊的に目を開かれた精神にとって、それは何と驚嘆すべき神殿であることか。それは、神の聖霊の融通無碍な知性と啓示の光をまざまざと示しているのである! その中にある花一輪といえども、私たちに何らかの教訓を教えないものはなく、ただ1つの波頭や雷鳴の轟きといえども、私たち人の子らに教える何がしかの教訓を有していないものはない。この世界は大いなる神殿であり、さながらエジプト人の神殿の中を歩けば、その内側のあらゆるしるしや絵に意味があるとわかるのと同じく、この世界の中をあなたが歩くとき、周囲のあらゆるものには意味がある。「石ころの中にも説教あり」というのは、決して突飛な考えではない。石ころの中には実際いくつも説教が含まれているからである。そして、この世界は、私たちが目にするあらゆるものによって私たちを教えるように仕組まれている。幸いなのは、こうした教訓を自然から得られる精神と霊の持ち主にほかならない。花々、それは何だろうか? それらは、神の思想が凝結したもの――神の美しい思想が具象化されたものにほかならない。嵐、それは何だろうか? それらは神のすさまじい思想が、私たちに読めるように書き記されたものである。雷鳴、それは何だろうか? それらは神の力強い情緒が、まさに人間に聞けるように打ち開かれたものである。世界は、まさに神の思想を物質化させたものにすぎない。世界は神の目には1つの思想だからである。神は世界を最初、ご自分の強大な精神の中から出てきた1つの思想からお造りになり、神がお造りになったこの壮麗な神殿の中にあるあらゆるものには意味があるのである。

 この神殿には、四人の伝道者たちがいる。聖書の中に四人の福音書記者がいるのと同じように、《自然》には四人の伝道者がいるのである。そして、それは、季節という四人の伝道者――春、夏、秋、冬――である。

 最初にやって来るのは、春である。では、これは何と云っているだろうか? 私たちが眺め、見てとるところ、春の魔法の一触れによって、死んでいたように見えた昆虫たちは目覚め出し、土中に埋もれていた種は、その輝くばかりの姿を持ち上げ出す。春は何と云っているだろうか? それは声を上げて人間にこう云っている。「あなたは眠っていても、やがて再び起きるであろう。あなたが、より栄光に輝く状態で存在することになる、そのような世があるのだ。あなたは今は種子でしかなく、土中に埋葬されることになるだろうが、しばらくすれば、よみがえるのだ」、と。春は、その福音のこうした部分を語っている。それから夏がやって来る。夏は人間にこう云っている。「見よ。あわれみ深い《創造主》のいつくしみを。『主は悪い人にも良い人にもその太陽を輝かせ』*[マタ5:45]、地に花々を振りまき、こうした被造物の宝石をまき散らし、それをエデンのように花開かせ、主の園のように実を結ばせる」。夏はそう語っており、それから秋が来る。私たちはその使信を今朝聞くであろう。秋が過ぎると、四番目に冬が来る。氷の宝冠を戴きつつ、それが私たちに告げるのは、人間には困難な時期があるということである。それは私たちが秋に蓄えた収穫を指さしつつ、私たちにこう云う。「人間よ。自分のために何かを蓄えておくよう注意するがいい。御怒りの日のために何かを蓄えておくがいい。自分のために秋の収穫を積み上げ、冬のための食糧になるようにしておくがいい」、と。そして、年老いた一年がその臨終を迎えるとき、その死の弔鐘は私たちに、人が死なくてはならないことを告げる。そして、一年がその伝道の使命を完了したとき、別の一年がやって来て、同じ教訓をもう一度宣べ伝えるのである。

 私たちは、秋に説教させようとしている。この四人の伝道者のひとりがやって来ており、「今は小麦の刈り入れ時ではないか」、と云っているのである。私たちは、この刈り入れ時を考察し、そこから何事かを学びとりたいと思う。願わくは神の最もほむべき御霊が、そのか弱いちりと灰を助け、神の測りがたい富を説教させ、あなたがたの魂の益としてくださるように!

 私たちは、3つの喜ばしい刈り入れについて、また、3つの悲しい刈り入れについて語ろうと思う。

I. 第一に私たちが語りたいのは、これからなされる《3つの喜ばしい刈り入れ》についてである。

 私が言及したい、最初の喜ばしい刈り入れとは、サムエルが、「今は小麦の刈り入れ時ではないか」、と云ったときにほのめかした、畑の刈り入れである。私たちは、畑の刈り入れを忘れることができない。こうした事がらが忘れられてよいはずがない。私たちは、畑を一面の穀物で覆い、その宝を納屋に蓄えておきながら、その間ずっと神のあわれみについて忘れ果てているべきではない。悪の中でも最悪のものたる忘恩は、人間の心に巣くう蝮の1つであって、この毒蛇を殺すには、天来の恵みがやって来て、十字架の血を人の心にふり注ぐしかない。キリストの血をふりかけられるとき、そうした蝮は死ぬ。しばしの間、ある刈り入れ時の畑にあなたを誘わせてほしい。あなたはそこに、この上もなく豊穣な収穫を見るであろう。地面につくほど重々しく垂れた穂が、あたかもこう云っているかのようであろう。「私は地より出て、地のおかげをこうむっており、その地に首を垂れています」。それは年を重ねた良きキリスト者がそうするのと同じである。多くの恵みを積むほどに、人はその頭をより低く垂れる。あなたは、たわわな実りのため首を下にしなわせた茎を見る。そうした光景が見られるのは、ありがたく、結構なことである。

 さて、それとは逆を考えてみるがいい。もし今年そうした穂がしおれたり枯れたりしていたら、また、もしそれがパロの見た二番目の穂のように痩せた貧弱なものであったら、私たちはどうなっていただろうか? 平時であれば、ロシアからの大規模な食糧補給を見越せたかもしれない。だが、今は戦時下であり、クリミアにおける戦争に鑑みれば何も来るはずがない時期であって、私たちはどうなっていただろうか? 推測や想像はできるが、どこまで真実に迫れるかはわからない。ただ私たちはこう云えるだけである。「神はほむべきかな。私たちはまだ、いかなる事態になりえたかを計算することはない。むしろ神は、1つの扉が閉ざされたのを見て、別の扉を開いてくださった」。私たちがロシア南部の沃野からの補給を得られないだろうことを見てとって、神は私たち自身の土地に別の扉を開いてくださった。「お前はわたしのお気に入りの島だ」、と神は云っておられる。「英国よ。わたしはお前を特別の愛で愛してきた。お前はわたしの気に入りのもの、敵がお前を打ち砕くことはない。また、糧食を断たれてお前が飢えることがないように、わたしはお前の国内に満杯の納屋を与え、お前の野を豊作にする。お前は敵をあざけって笑い、こう云うようになる。『お前は私たちを飢えさせ、恐れさせることができると思っていた。だが、烏を養ってくださるお方は、ご自分の民を養われ、ご自分のお気に入りの土地を見捨てなさらなかったのだ』、と」。この件において関わりを有さない人など誰ひとりいない。ある人々は、パンが有り余っていることを貧者は感謝すべきだと云っている。富者もそうすべきである。社会を構成する一部の者に何かが起これば、それが全体に影響しないはずがない。各階級は互いに支え合っている。下層階級の窮乏は、神がそれをお送りになるとき、その上の階級に波及し、さらに上へと波及し、ついには玉座に着いている女王すら、ある程度それを感ずるようになる。それはあらゆる人に影響する。誰も、「穀物価がどうなろうと私は暮らしていられる」、などと云ってはならない。むしろ、有り余るものを与えてくださる神をほめたたえるがいい。あなたは、「われらの日用の糧をきょうも与え給え」、と祈るべきである。そして、思い出すがいい。たといあなたがいかなる富を有していようと、あなたが日々受けているあわれみは、その日暮らしの人と同じように、神のおかげであることを。また折にふれ、神がその子どもたちに手篭分しか与えず、ふんだんにはお送りにならない場合、――それも祝福された生き方であることを。豊かな刈り入れを送ってくださった神はほむべきかな! おゝ、恐れている者よ。あなたの頭を上げるがいい! 不平をいだいている者よ。恥じ入って、もはやあなたの不満を表わさないようにするがいい! ユダヤ人は刈り入れ時が来ると、仮庵の祭りを開くのが常であった。田舎には、常に「刈り入れ祝い」がある。ではなぜ私たちもそうしてならないことがあるだろうか? 私たちはあなたがたがみな、そうしてほしいと思う。喜べ! 喜べ! 喜べ! 刈り入れ時が来たのだから。「今は小麦の刈り入れ時ではないか」。あわれな、意気消沈した魂よ。あなたの疑いと恐れのすべてを過ぎ去らせるがいい。「あなたのパンは与えられ、その水は確保される」*[イザ33:16]。これは喜ばしい刈り入れの1つである。

 さて、次に喜ばしい刈り入れは、あらゆるキリスト者の刈り入れである。ある意味で、キリスト者は種であり、別の意味では、種蒔く者である。ある意味で、キリスト者は神によって蒔かれた種である。それは、育ち、熟し、芽吹き、ついには大いなる刈り入れ時を迎える。別の意味で、あらゆるキリスト者は種蒔く者である。この世に良い種を蒔くため、良い種だけを蒔くために遣わされた者である。私も、キリスト者である人々が、決して良い種のほか何の種も蒔かないとは云わない。用心していない瞬間に、彼らは小麦のかわりに大蒜を手に取ることがある。麦のかわりに毒麦を蒔くことがある。キリスト者は時として誤りを犯すことがあり、神は時としてご自分の民が堕落して罪を蒔くのをお許しになることがある。しかし、キリスト者は決して自分の罪を刈り取らない。キリストが、キリスト者に代わってそれを刈り取ってくださる。キリスト者はしばしば、罪の苦い葉の煎じ汁を飲まなくてはならないが、罪の実を刈り取ることは決してない。キリストがその罰を負ってくださったのである。だが、兄弟たち。心に銘記しておくがいい。もしあなたや私が神に対して罪を犯すなら、神は私たちの罪を取り上げ、その出汁をとっては、私たちに苦味を味わせなさるであろう。神は、罪の実を私たちに食べさせることはなさらないが、それでも私たちに、自分たちの罪悪について嘆かせ、悲しませるであろう。しかし、先に述べたようにキリスト者たちは、良い種を蒔くことに携わるべきであり、そのような者として、栄光に富む刈り入れをすることになる。

 何らかのしかたで、キリスト者は良い種を蒔いていなくてはならない。もし神がその人を牧会伝道職に召されるならば、その人は種蒔く人である。もし神がその人を《日曜学校》に召されるなら、その人は種蒔く人である。何の役目に就いていようと、その人は種を蒔く者である。ここで私は、この広大な畑の全面に種を大きく蒔いている。自分の種がどこに向かうのかはわからない。ある人々は不毛の地に似ており、私の蒔く種を受け入れるのを拒否する。そうしたければ、しかたがない。私は、私の仕える神にしか責任を負っていない。また別の人々もいて、私の種は、彼らの上に落ちると少しは実を結ぶ。だが、太陽が昇ると、しだいにそれらは、迫害のためにしなびては、枯れ果ててしまう。しかし私は、この場にいる多くの人々が、神の整えてくださった良い地であることを希望したい。そして私が種を大きくばら蒔くときに、それが良い地に落ちて、豊穣な刈り入れに至る実を結ぶと希望したい。あゝ! 教役者は、この世においてすら、魂が回心するのを目にするとき、喜ばしい刈り入れをしているのである。私が刈り入れをするのは、羊をバプテスマの洗いに導くため下っていくときであり、この世の集団の中から神の民が出て来て、主が自分たちの魂のために何をしてくださったかを告げるときである。――神の子どもたちが徳を建て上げられ、築き上げられるとしたら、1つの魂を救う手段となるのは、生きる甲斐があり、一万回死んでも死に甲斐があることである。神が私たちに何十人何百人もの回心した人々を与えてくださるとき、また、救われるべき人々をご自分の教会に大量に加えてくださるとき、それは何と喜ばしい刈り入れであろう! さて、私はまさに一年のこの季節の農夫のようである。私はたくさんの小麦を刈ってきた。そして、雨に打たれて駄目にならないうちにそれを納屋に入れたいと思っている。私は大勢の人々を刈り取ったと信ずる。だが、彼らは畑に立ったままでいようとしたがる。私は彼らを納屋に入れたい。彼らは善良な人々であるが、信仰を告白して教会に加入しようとはしない。私は彼らを私の《主人》の穀物倉に入れて、教会にキリスト者たちが加えられるのを見たいと思う。いま私には、「これは私のことを云っているのだ」、と云ってうつむいている人々が見える。そう、私はあなたのことを云っているのである。あなたは、とっくにキリストの教会に加わっているべきであった。そしてあなたは、地上でこのキリストの小さな穀物倉に集められるのにふさわしくなるまで、天にある、かの大いなる穀物倉の中に集められると期待する権利はない。

 =あらゆるキリスト者にはその刈り入れ時がある。日曜学校の教師にはその刈り入れ時がある。その人は、行ってしばしば非常に石ころだらけの地面を鋤いて耕さなくてはならないが、やがてその刈り入れをすることになる。おゝ、あわれな労しつつある日曜学校教師よ。あなたは何の実もまだ見ていないだろうか? あなたは、「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか」[イザ53:1]、と云っているだろうか? 元気を出すがいい。あなたは立派な大義のために労しているのである。あなたのしている働きは、誰かがしなくてはならないのである。あなたは、子どもたちが回心するのを一度も見たことがないだろうか? 恐れてはならない。――

   「種は地中に 長く埋むとも
    汝が望みをば つゆあざむかじ。
    尊き穀粒 失われえじ。
    そは神 収穫(みのり)を約し給わば」。

なおも蒔き続けるがいい。そして、あなたは子どもたちが回心するのを見るとき、刈り入れることになるであろう。私が知っている《日曜学校》の教師たちの中には、数え上げれば十二、三人から二十人、あるいは三十人の子どもたちが次々と教会に加わり、主イエス・キリストを知るようになるのを見てきた人々がいる。しかし、もしあなたがそれを地上で目にすることがなくとも、覚えておくがいい。あなたは、ただあなたの労働に対してのみ責任を負っているのであって、あなたの成功にまで責任はないのである。なおも蒔き続け、骨惜しみせず働くがいい! 「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう」[伝11:1]。神はご自分のことばが無駄になることをお許しにならないであろう。それは、むなしく、神のところに帰っては来ない。必ず、神の望む事を成し遂げる[イザ55:11]。そこには、これまでしばしば悲しい思いをしてきた、あわれな母親がいる。彼女には息子と娘がいて、彼女はずっと、彼らの魂を回心させてくださるように神に祈ってきた。母親よ。あなたの息子は、まだ強情で扱いがたい少年である。彼はあなたの心を嘆かせている。今なお彼のゆえに、熱い涙があなたの頬を焦がしている。そして、父親よ。あなたは彼をしばしば叱責してきた。彼は反抗的な息子で、今なお路を駆け下りつつある。祈りをやめてはならない! おゝ、子どもを持っている兄弟姉妹たち。あなたは刈り入れることになる!

 かつてひとりの少年がいた。非常に罪深い少年で、両親の忠告に耳を貸そうともしなかった。だが、彼の母親は彼のために祈っていた。そして、いま彼は、日曜ごとに立っては、この会衆に向かって説教しているのである。彼の母親は、自分の長男が福音を説教していることを考えるとき、栄光に富む収穫を刈り取っているのであり、それは彼女を喜びに満ちた女性にしている。さて、父親たちよ。母親たちよ。あなたもそうなるかもしれない。いかにあなたの子どもたちが現在は悪い者であっても、それでも恵みの御座に突き進むがいい。そうすれば、あなたは刈り入れることになるであろう。母親よ、あなたはどう考えているのか? あなたは、息子が福音の教役者となった姿を見て喜びたくないだろうか? 娘が神の御国の進展のために、教えと助けをしているのを見て喜びたくないだろうか? 神は、あなたに祈らせておきながら、あなたの祈りをかなえないなどということはなさらないであろう。

 青年よ。あなたの母は長い間あなたのために祈りの格闘をしてきたが、まだあなたの魂をかちとってはいない。あなたはどう考えているのか? あなたは自分の母親からその収穫をだまし取っているのである! もし彼女が自分の小さな家のすぐ近くに猫の額ほどの土地を持っていて、そこに彼女が多少の小麦を植えていたとしたら、あなたは行ってそれを焼き払おうとするだろうか? もし彼女がその花壇にえり抜きの花を植えていたとしたら、あなたは行ってそれを足で踏みにじろうとするだろうか? しかし、あなたは、神に見放された者の道を歩みつつあることによって、自分の父母から収穫をだまし取っているのである。ことによると両親たちの中には、自分のかたくなな未回心の息子や娘たちについて涙を流している人々がいるであろう。おゝ、神よ。彼らの心を変えさせ給え! 母の涙で洗われた道を通って地獄に行き、父の叱責につまずき、神が途中に置いてくださった物事――母の祈りと父の溜息――を踏みつけにする人の破滅は苦いからである。願わくは神が、あえてそのようにする人を神が助けてくださるように! そして、もし神がそのような人をお助けになるとしたら、それは素晴らしい恵みである。

 あなたが何をしていようと刈り入れ時はある。あなたがたはみな、何がしかのことはしていると思う。たとい私が、あなたがたひとりひとりの携わっていることに言及できなくとも、あなたがたはみな、何らかのしかたで神に仕えていることと思う。そして、あなたは確かに、どこであなたの種をばら蒔いているにせよ、刈り入れることになる。しかし最悪のことを考えよう。――もしあなたがこの世では生きてその刈り入れを目にすることがなくとも、天国に行き着いたときには刈り入れることになる。あなたは、失望したまま暮らし、死んでいくとしても、来世で失望することはない。私は、神の民のうちの何人かが、天国に行き着いたときにはいかに驚くだろうかと思う。彼らは自分たちの《主人》を見るであろう。そして《主人》は彼らに王冠を授けてくださるであろう。「主よ。その王冠は何のためですか?」 「その王冠は、お前がわたしの弟子のひとりに差し出した、一杯の水のためだよ」。「何ですと! 一杯の水のために王冠をいただけるのですか?」 「そうだ」、と《主人》は云う。「それこそ、わたしが自分のしもべたちに報いるやり方なのだ。最初わたしは彼らに一杯の水を差し出す恵みを与える。そして彼らに恵みを与えた後で、わたしは彼らに王冠を授けるのだ」。「恵みの驚異は神に属せり」。大いに蒔く者は、大いに刈り取り、少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取ることになる。あゝ、もし天国に嘆きがありえるとしたら、それは、ごく僅かしか蒔いてこなかった一部のキリスト者たちの嘆きであろうと思う。結局のところ、私たちのほとんどは、今まで何とごく僅かしか蒔いてこなかったことか。私は、自分にできたはずのことにくらべれば、ごく僅かしか蒔いていない。あなたがたの中の誰もが、何と僅かしか蒔いていないことか。一年の間に、あなたがどれだけのものを神にささげているか合計してみるがいい。残念ながら、びた一文にもならないのではないかと思う。覚えておくがいい。あなたは、蒔いた分だけを刈り取るのである。おゝ、愛する方々。あなたがたのうちの何人かは、自分が蒔いた一個の穀粒についてすら神が報いてくださるとき、いかなる驚きを感ずることであろう! 天国の土壌ほど肥えているものはない。もしも農夫が天国にあるような土地を持っていたとしたら、「何町歩であれ蒔かずにおくものか」、と云うであろう。そのように私たちも努力しよう。蒔けば蒔くほど、天国で刈り取ることになるからである。だが、そのすべてが恵みによるものであって、当然支払うべきものでないことは覚えておくがいい。

 さて、愛する方々。私はごく急いで、第三の喜ばしい刈り入れに言及しなくてはならない。私たちは、畑の刈り入れと、キリスト者の刈り入れに注目してきた。さてここで、もう1つの刈り入れを取り上げよう。キリストの刈り入れである。

 キリストも、その種蒔きの時を有しておられた。それは何と苦い種蒔きの時であったことか! キリストは、尊い種を背負って出て行かれたお方であった。おゝ、私には、キリストが世に種を蒔いておられる姿が思い浮かぶ! 主はそれを涙とともに蒔かれた。血の汗の粒とともに蒔かれた。溜息とともに蒔かれた。心の苦悶とともに蒔かれた。そして最後に、ご自分を地に蒔いて、栄光に富む収穫の種となられた。主の種蒔きの時がいかなる時であったことか! 主は、涙により、貧しさにより、あわれみにより、嘆きにより、苦悶により、悲哀により、苦しみにより、死により蒔かれた。だが主は刈り入れもなさる。主の御名に祝福あれ、エホバはそれを誓っておられる。《全能者》の永遠の予定により、キリストが刈り入れをなさることは定まっている。主は種を蒔かれた。それで刈り取りをするのである。主は散らした。それで集め入れるのである。「彼は末長く、子孫[ご自分の種]を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる」[イザ53:10]。愛する方々。キリストはその収穫を刈り取り始めておられる。しかり。回心したあらゆる魂は、主の報酬の一部である。主のもとに来るあらゆる人は、その一部である。泥沼から引き上げられ、公道の上に置かれた魂はみな、キリストの収穫の一部である。しかし、主はさらに多くを刈り取ろうとしておられる。この後の日には、別の刈り入れが来ようとしている。それは、主が一度にひとかかえずつ刈り取り、その束々をご自分の穀倉に集めなさるであろうときである。今は人々は、ひとりずつ、ふたりずつ、あるいは三人ずつキリストのもとに来ている。だが、そのとき彼らは群れをなしてやって来ることになり、教会は、「巣に帰る鳩のように飛んでくる者は、だれか」、と云うことになる。[イザ60:8]。

 時がもはやなくなるときには、さらに大いなる刈り入れの時となる。黙示録14章13節に目を向けるがいい。「また私は、天からこう言っている声を聞いた。『書きしるせ。「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。」』御霊も言われる。『しかり。彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである。』」。そうした行ないは、彼らに先立って行きも、彼らに天国をかちとりもしない。「また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。『かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。』そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた」[黙14:14-16]。それはキリストの刈り入れであった。ただ1つの点にだけ注目するがいい。キリストがその畑を刈り取りに来られるときには、冠をかぶって来られるのである。国々は、この冠をかぶった《刈り取り手》の前に1つに集められるのである。

   「来たれり、来たれり。贖われし部族
    いずこに眠り、さすらおうとも。
    彼らは 彼方の御声を聞きて
    そのふるさとに 急ぎ来たらん」。

そこに彼らは、神の御前で1つの大集団となって立つ。そのとき、その冠をかぶった《刈り取り手》は、その王座からやって来る。この方は、その鋭いかまを取って、見よ、束から束へと刈り取っては、天の穀倉にそれらを携え入れる。私たちは自ら問うてみよう。果たして自分は、この刈り取られる者たち――主の小麦――の中にいるだろうか、と。

 また、さらに注目したいのは、最初に刈り入れがあり、それから葡萄の収穫があったことである。刈り入れは義人であり、葡萄の収穫は悪人である。悪人たちが集められるときには、御使いが彼らを集める。だが、キリストは義人の刈り取りには御使いすら信頼しようとなさらない。「王座に座っておられる方が、地にかまを入れる」*。おゝ、わが魂よ。お前がいざ死ぬときには、キリストご自身がお前の後について来られるであろう。お前が切り倒されるときになったら、王座に座っておられるお方が、お前を非常に鋭いかまで、可能な限り手際よく切り倒しなさるであろう。このお方ご自身が《刈り取り手》となられるであろう。キリストの聖徒たちを集めることを許される刈り取り手は、ただひとり、その聖徒たちの《王》なるキリストしかいない。おゝ、選ばれた種族の全員が、ひとり残らず集められるとき、それは喜ばしい刈り入れとなるではないだろうか? 畑には、隅っこの耕してない所で育つ、小さな、しなびた小麦の粒もあるが、それも、そこにいるであろう。畑には、穀粒をぎっしりつめこんだ頭に垂れ下がらせている、非常に多くの者らもいるが、彼らもそこにいるであろう。彼らはみな集め入れられるであろう。

   「わが主の栄誉(ほまれ) かかりたり。
    いかな小羊(ひつじ)の 救いにも。
    天父(ちち)の給いし ものみなを
    主の御手かたく 守り抜かん」。

 II. しかし、いま私たちは、《3つの悲しい刈り入れ》に目を向けざるをえない。悲しいかな! 悲しいかな! 世界はひとたびはアイオロスの竪琴のようであり、そこに吹くあらゆる風は、旋律を奏でていた。だが今その弦はみな弛んでしまい、不協和音に満ちたものとなっている。それで私たちが喜びの曲を奏でても、その後で深い嘆きの低音を聞かざるをえないのである。

 第一の悲しい刈り入れは、死の刈り入れである。私たちはみな生きている。だが何のためだろうか? 墓に入るためである。私は時々ひとり静まって、こう瞑想することがある。私は思う。人間、これは何者なのか? 彼は成長し、成長し、ついにその壮年に至る。神の加護があれば四十五歳になる頃には、人生の盛りを迎えるかもしれない。では、それから彼はどうなるだろうか? 彼は多少の間そのままの状態を続けてから、丘を下り出す。そしてもし彼が生き長らえるとしたら、それは何のためだろうか? 死ぬためである。しかし、世間で云うように、人が七十路まで生きられない見込みは大いにある。人はごく早くに死ぬ。私たちが生きているのはみな死ぬためではないだろうか? しかし、いかなる者も熟さないうちに死ぬことはない。死は決してその穀類を青いまま刈り取りはしない。決してそれが熟す前に切りはしない。悪人は死ぬが、彼らが死ぬときには、常に地獄にとって熟したものとなっている。義人は死ぬが、彼らが死ぬときには、常に天国にとって熟したものとなっている。そこのあわれな強盗は、その死の一時間前にはイエスを信じていなかったかもしれないが、死ぬときには、七十路の聖徒と同じくらい熟していた。死が――この刈り取り手が――いつやって来ようと、聖徒は常に栄光に入る準備ができており、神がいつ悪人らに迎えをお送りになろうと、彼らは常に地獄にとって熟した者となっている。おゝ、その大いなる刈り取り手よ! 彼は地をあまねく薙ぎ払い、何千人何万人を刈り倒す! それは全く静寂のうちになされる。死は何の物音も立てず、地の上を忍び足で歩む。この休みなき薙ぎ払い手には、何者も抵抗できない。彼は不可抗であり、薙ぎ払い、薙ぎ払い、人々を刈り倒す。時として彼は立ち止まり、そのかまの歯を研ぐ。彼はそのかまを血に染め、やおら私たちを戦争でなぎ倒す。それから彼は、虎列剌というその砥石を取り出しては、それまで以上に薙ぎ倒す。それでも彼は叫ぶ。「もっとだ! もっとだ! もっとだ!」 休みなく、そのわざは続けられていく! 驚くべき薙ぎ払い手よ! 驚くべき刈り取り手よ! おゝ、お前が私を刈り取りに来るとき、私はお前に抵抗できない。私は他の人々のように倒れざるをえない。――お前がやって来るとき、私はお前に何も云うことはない。麦の穂のように私はぴくりともせず立ち尽くしているしかなく、お前は私を切り倒すに違いない! しかし、おゝ! 私にお前のかまへの準備ができているように! 願わくは主が私のそばに立ち、私を慰め、力づけてくださるように。そして願わくは私が、死はいのちの御使いであることに気づき、――死は天の表玄関、永遠の入口の間であることに気づくように!

 第二の悲しい刈り入れがある。それは、悪人が刈り取らざるをえない刈り入れである。霊感の声はこう云っている。「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります」[ガラ6:7]。さて、あらゆる悪人がこの世で刈り取らざるをえない収穫がある。いかなる者も、自分のからだに対して罪を犯せば、その報いを刈り取らざるをえない。青年は云う。「私は罪を犯しても痛くも痒くもないぞ」、と。待つがいい。青年よ! あの病院に行って、病に悶え苦しんでいる者らを見てみるがいい。その、よろめき歩く、ぶよぶよになった惨めな人を見るがいい。そして、あなたも同じようにならないよう、手控えるがいい! 知恵があなたに立ち止まるよう命じている。あなたの歩みは地獄への道に下っているからである。もしあなたが、見知らぬ女の家に入っていくとしたら、あなたは報いを刈り取ることになる。あらゆる人は、自分の同胞に対して罪を犯せば、刈り取るべき報いがある。自分の同胞である人間たちに対して罪を犯す人は、報いを刈り取ることになる。ある人々は、踵に拍車をつけた騎士のように世の中を渡って行き、気分次第で誰を踏みつけてもいいのだと考えている。だが彼らは、自分の誤りに気づくことになる。他の人々に対して罪を犯す者は、自分自身に対して罪を犯すのである。それが《自然》の法である。《自然》には、人が自分の同胞を傷つければ、自分自身を傷つけずにはすまないという法則がある。さて、他の人々の思いを嘆かせているあなたは、嘆きがそこで終わると考えている。ここでさえも、あなたは報いを刈り取らざるをえないであろう。さらに、自分の財産に対して罪を犯す人は、その影響を刈り取らずにはすまない。自分の黄金をひそかに溜め込んでいる、惨めなけちん坊は、自分の黄金に対して罪を犯している。それには錆がつき、そうした黄金の貨幣から、その人は報いを刈り取らなくてはならない。しかり。その惨めなけちん坊は――寝る間も惜しんで、目をこすりながら、自分の黄金を勘定しているその人は――、自分の報いを刈り取っている。そして、それと同じことをしているのが、若い浪費家である。彼は、自分の富がことごとく尽き果てたときに、自分の報いを刈り取るであろう。あの放蕩息子について、こう云われている。「だれひとり彼に与えようとはしなかった」[ルカ15:16]。――彼が歓待するのを常としていた者らのうち、誰ひとり与えようとはしなかった。――それと同じことを、放蕩者は気づくことになる。誰も彼には何1つ与えようとしないであろう。あゝ! だが、最悪の刈り入れは、キリストの《教会》に対して罪を犯す者らの刈り入れであろう。私は、人が自分のからだに対して罪を犯してほしくはない。自分の財産に対して罪を犯してほしくはない。自分の同胞に対して罪を犯してほしくはない。だが、何にもまして、キリストの《教会》には触れてほしくない。神の民のひとりに触れる者は、神の目のひとみに触れる者である[ゼカ2:8]。私は、ある人々が主のしもべたちのあら探しをしているのを読むとき、自分の中では、「私はそのようなことはすまい」、と思うのを常としてきた。人にとって、その人の子どもたちの悪口を云うことほど大きな侮辱はない。あなたが神の子どもたちの悪口を云うなら、そのため永遠の罰という報いを受けるであろう。神の家族の中に、神が愛しておられない者はひとりもおらず、もしあなたがそのひとりに触れるなら、神はあなたに復讐なさるであろう。人の子どもたちに触れることほど、その人を激怒させることはない。そして、もしあなたが神の《教会》に触れるなら、あなたはあらゆる報復を真っ向から受けるであろう。地獄の最も灼熱の炎は、神の子どもたちに触れる者らのためのものである。罪人よ。そうしたければキリスト教信仰を笑い飛ばし続けるがいい。だが、知っておくがいい。ありとあらゆる罪悪の一覧の中で、それが最もどす黒い罪だということを。神は他のどの罪を赦してもそれだけはお赦しになるまい。そして、確かにそれは赦されざる罪ではないにせよ、もし悔い改めることがなければ、最大の罰を受けるであろう。神は、ご自分の選民に対する手出しに我慢できない。そして、もしあなたがそうするなら、それはあなたに犯すことのできる最大の罪悪である。

 第三の悲しい刈り入れは、悪人たちがついに集められたときの、全能者の御怒りという刈り入れである。黙示録14章では、神が御使いに命じて葡萄を刈り集めさせ、それらはみな酒ぶねに入れられたとある。その後、その御使いがやって来て、その酒ぶねを都の外で踏み、その血が流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、百二十マイルにも広がったという。――神の御怒りを表現する、何と驚くべき象徴であろう! では、私たちのからだが葡萄のように入れられる大きな酒ぶねがあると考えてみるがいい。そして、そこに強大な巨人がやって来て、私たちを足で踏みにじり、血が流れ出るほどになると考えてみるがいい。それが、この思想である。――悪人たちが一緒くたに投げ入れられて、御使いが彼らを足で踏み砕き、その血が馬のくつわに届くまでになるのである。願わくは、神がその主権的なあわれみを与えてくださり、あなたや私が決してそのような報いを刈り取ることがないように。神が決してその恐ろしい刈り入れ時に私たちを刈り取ることがないように。むしろ私たちが、主の聖徒たちの中に書き記されているように!

 もしもあなたがくじけさえしなければ、しかるべき時期に刈り入れることになるであろう。蒔き続けるがいい、兄弟よ。蒔き続けるがいい、姉妹よ。そうすれば時が来て、豊かな報いを刈り取ることになる。もしもあなたが久しく前に蒔いた種が全く芽を出していないとしたら、この場をあなたが去る前に、私は昔こう教えられたことがある。「花壇に種を蒔くときには、一晩水につけておくことだ。その分だけよく育つのだから」、と。そのように、私の兄弟よ。もしあなたがこれまで種を蒔いてきたとしたら、それを涙でひたすがいい。そうすれば、あなたの種はその分だけよく芽を出すであろう。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」[詩126:5]。あなたの種を涙につけておき、それから地に埋めれば、あなたは喜びながら刈り取ることになる。いかなる鳥もその種をむさぼり食らうことはできず、いかなる鳥もそれを口にくわえることはできない。いかなる虫も、それを食べることはできない。虫どもは決して涙とともに蒔かれた種を食べることはないからである。あなたの道を行くがいい。そしてあなたは、最も涙するときこそ、最もよく種を蒔くのである。最も打ちひしがれているときこそ、最善のことを行なっているのである。もしあなたが祈祷会に来て、一言も語れなくても、祈り続け、あきらめないようにするがいい。あなたはしばしば、自分では最悪の祈りをしたと考えるときに、最上の祈りをしているからである。続けるがいい。そうするとき、失望せずにいれば時期が来て、神の強大な恵みのゆえに、あなた刈り取るをすることになるのである[ガラ6:9]。

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(原注)

* 本説教には、格別の、また独特でさえある興趣が伴っている。それは、これがスポルジョン氏の講話の中で、最初に印刷されたものだからである。すでに別の形で世に出ているものではあるが、発行者たちは、これが正規の週刊出版に含まれるべきであると考えた。それで今やこれは、最初に語られてから、ちょうど五十年後に再版されるわけである。虎列剌がロンドンを寂寥とさせ、クリミアでは厳しい戦争が進行中であったこの時期、この年若い牧師は、当時のキリスト者を慰める言葉を高らかに響かせると同時に、他の人々に対しては、悪事を行ない続ける結果について警告している。半世紀前に語られたこの使信は、今でさえ、決して時代遅れのものとなってはいない。[本文に戻る]

 

刈り入れ時[了]

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