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第5章1―11 キリストがいかに進んで良きわざを行なわれたか----奇蹟的な大漁

 これらの節に記されているのは、通例、奇蹟的な大漁と呼ばれている物語である。これは2つの理由から尋常ならざる奇蹟である。----1つのこととして、これは主が動物界に対しても完全な支配権を持っておられたことを示している。エジプトの災厄におけるかえるや、あぶや、ぶよや、いなごと同様、湖の魚も、主のみこころに従順に服従するのである。万物は主のしもべであり、万物は主のご命令に従う。----もう1つのこととして、主の伝道活動の最初に行なわれたこの奇蹟と、復活後の主がその伝道活動の最後に行なわれた、聖ヨハネの記録しているもう1つの奇蹟(ヨハ21:1以降)との間には著しい類似性が見られる。どちらにも、奇蹟的な大漁が記されている。どちらでも、使徒ペテロが物語の目立った位置を占めている。そしてどちらでも、おそらくは、そこに叙述された表面上の事実の下に、深い霊的な教訓が横たわっている。

 この箇所で私たちが目をとめたいのは、私たちの主イエス・キリストが、いかにたゆみなく進んで良きわざを行なおうとしておられたか、ということである。やはりここでも主は、「イエスに押し迫るようにして神のことばを聞」こうとしていた群衆に説教をしておられる。だが、どこで主は説教しておられるだろうか? 神に聖別された何らかの建物の中でも、野外で公の礼拝のために取り分けられた場所でもない。----説教者の便宜をはかるために立てられた講壇の上からではなく、漁師の小舟の中からである。魂は養われることを待ち受けていた。個人的な不便のことなど、主は全く顧慮に入れなかった。神のみわざが停滞することがあってはならなかった。

 キリストのしもべたちは、この場合における自分の《主人》のふるまいから教訓を汲み取るべきである。私たちは、細々とした困難や障害のすべてが取り除かれるのを待って初めて、手をすきにつけたり、みことばの種を蒔くために出て行くようなことがあってはならない。都合の良い建物は、しばしば聴衆がまばらにしか集まっていないことがありえる。都合の良い部屋には、しばしば教えるべき子どもたちが集まっていなことがありえる。では私たちは何をすべきだろうか? ただ手をこまねいて何もしないでいるべきだろうか? 決してそうではない! もし私たちが自分の望むすべてのことを行なえないとしたら、自分にできることを行なおう。自分の手にすることのできる道具で働こう。私たちがぐずぐずと時を引き延ばしている間にも魂は滅びつつあるのである。怠惰な心は、いついかなるときにも、道の途中にいばらの生け垣や獅子を見るものである(箴15:19; 22:13)。私たちは、自分がどこにいようと、いかなる状況にあろうと、時が良くても悪くても、ある手段または別の手段によって、舌によってか筆によって、語ることによってか書くことによって、常に神のために働いているように努めよう。しかし、決して手をこまねいて何もしないでいることがないようにしよう。

 私たちがこの箇所で第二に目をとめたいのは、私たちの主が無条件の服従に対していかなる励ましを与えておられるか、ということである。この箇所によると、説教の後で主はシモンに向かって、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」、と命じられた。主の受け取った答えは、驚くようなしかたで、ひとりの良きしもべの精神を明示している。シモンは云っている。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」。そして、主のご命令に対するこのいさぎよい従順の報いは、いかなるものであっただろうか? たちどころに、「たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった」、と記されている。

 疑いもなく、こうした単純な出来事には、すべてのキリスト者にあてはまる実際的な教訓が含まれている。ここで私たちが学ぶべきなのは、あらゆるキリストの平明な命令に、喜んで、ためらうことなく服従する者には、いかなる祝福が伴うかということである。義務を行なう通り道は、時として苦しく、不愉快なものであることがある。この世の人々にとっては、私たちの従おうとする方針が賢明なものであるとは見受けられないかもしれない。しかし私たちは、こうした事がらによって一切動かされてはならない。私たちは血肉に相談するべきではない。イエスが「行け」と仰るときには真っ直ぐに行くべきであり、イエスが「これを行なえ」と仰るときには、それを大胆に、ひるまず、断固として行なうべきである。私たちは、見えるところによってではなく信仰によって歩むべきであって、今は正しくも理にかなっているとも見えないものも、やがてそのように見えるようになる時が来ると信じるべきである。そのように行動するとき私たちは、長い目で見ると、決して失敗者になるようなことはない。そのように行動するとき私たちは、遅かれ早かれ、自分が大きな報いを刈り取ることに気づくはずである。

 私たちがこの箇所で第三に目をとめたいのは、神の臨在感によって、いかに大きく人間はへりくだらされ、自分の罪深さを感じさせられるか、ということである。このことを著しく例示しているのが、ペテロの言葉である。この奇蹟的な大漁によって、自分の舟に乗っておられるのが人よりも偉大なお方であると確信させられた彼は、「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。』と言った」、と記されている。

 ペテロのこの言葉を評価するにあたり、むろん私たちは、それが語られた時期のことを思い出さなくてはならない。この時のペテロは、よくてせいぜい、恵みにおいて幼子であり、信仰は弱く、経験は浅く、知識は乏しかった。彼の生涯の後の時期であれば、疑いもなく彼は、「私とともにいてください」、と云い、「離れてください」、とは云わなかったであろう。しかしそれでも、こうした斟酌をいくら加えた後でも、ペテロの言葉は正確に、神との密接な接触といったものに至らされた際に人間が最初に感ずる思いを表わしている。天来の偉大さや聖さによって、人は自分自身の卑小さや罪深さを痛感させられる。堕落後のアダムと同じく、その人が最初に考えるのは自分の身を隠すことである。シナイ山の下にいたイスラエルと同じく、その人の心が語るのは、「神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから」、ということである(出20:19)。

 私たちは努めて、いのちの日の限り毎年、自分が、神との間に仲保者を必要としていることをいやまさって知っていくようにしよう。私たちは、いやまさって悟るようにしよう。仲保者を持たない限り私たちは、神のことを思っても決して慰められることなく、神を明確に見てとれば見てとるほど、居心地の悪さを感じるに違いない、と。何にもまして私たちは、まさに自分の魂が必要とする助けを与えることのできる《仲保者》なるイエスがおられることを感謝しよう。このお方によって自分が大胆に神に近づくことができ、恐れを打ち捨てることができることに感謝しよう。キリストのうちにない場合、神は焼き尽くす火である。キリストのうちにある場合、神は和解させられた御父である。キリストから離れている場合、いかに謹厳な道徳家といえども、自分の行く末を見通すとき、身震いを禁じえないであろう。キリストにすがるならば、罪人のかしらといえども、自信をもって神のもとに行き、完全な平安を感じていられるであろう。

 私たちがこの箇所で最後に目をとめたいのは、イエスがペテロに差し出しておられる大きな約束である。イエスはこう云っておられる。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」。

 まず間違いなく、この約束はペテロひとりのためのものではなく、すべての使徒たちのためのものであった。----そして、すべての使徒たちだけのためのものではなく、その使徒たちの足跡にならう、すべての忠実な福音の教役者たちのためのものであった。それが語られたのは、彼らを励まし、慰めるためである。それは、自分の弱さと不適格さを感ずるあまり、時としてほとんど圧倒されそうになるような彼らを支えるためである。確かに彼らは、宝を土の器の中に入れている(IIコリ4:7)。彼らは、他の人々と同じような人間である。彼らは自分の心が弱く、もろいものであること、自分の聴衆の中のいかなる者の心とも変わらないものであることを見いだす。彼らはしばしば、絶望のあまり投げ出したくなり、説教をやめようという思いにかられる。しかし、ここに立っている約束は、教会の偉大な《かしら》が日々彼らをより頼ませているものである。「こわがらなくてもよい。……あなたは人間をとるようになるのです」。

 私たちは日々すべての教役者のために祈ろうではないか。彼らがペテロやその兄弟たちの真の後継者となり、彼らが宣べ伝えたのと同じ完全にして無代価の福音を宣べ伝え、彼らが生きたのと同じ聖い生き方を送ることができるように、と。そのような教役者だけが、成功する漁師となることができるのである。そのうちのある者らに神はより大きな誉れを与え、他の者にはあまり大きな誉れは与えなさらない。しかし、すべての真実で忠実な福音の説教者は、自分たちの労苦が無駄にはならないと信ずべき権利がある。彼らはしばしば多くの涙とともにみことばを宣べ伝え、自分たちの労苦の成果を何1つ見ることがないかもしれない。しかし、神のことばはむなしく帰っては行かない(イザ55:11)。最後の審判の日には、神のためになされたいかなるわざも、無駄になされはしなかったことが示されるであろう。あらゆる忠実な漁師は、自分の《主人》のことばが成就したことを悟るであろう。「あなたは人間をとるようになるのです」。

注記. ルカ5:1-11

4節----[深みに漕ぎ出して] ここで注意したいのは、この命令が、漁師の信仰にとって格別な試練であったに違いない、ということである。湖の深みは、通常は湖水の魚がとれる所ではない。

6節----[網は破れた。]*  英欽定訳で「破れた」と訳された言葉は、より正確に翻訳すると、「破れんばかりだった」、となる。同様の語が、次の節では、「沈みそうになった」、と翻訳されているのと同じである。網が実際には破れなかったことは、文脈から明らかである。それは、「破れるところだった」、あるいは、「まさに破れんとしていた」のである。

10節----[あなたは人間をとるようになるのです。] ここでしばしば、しかもほぼ正当に述べられてきた所見は、「とる」と翻訳されているギリシャ語が、文字通りには、「生けどる」という意味である、ということである。この言葉が用いられているのは、本節と、もう一箇所、IIテモ2:26だけしかない。その箇所は、しばしば大きく誤って解釈されているが、正しく理解されるならば、この箇所における私たちの主のことばとの、卓越した対比を示すものとなる。

 この奇蹟を読むにあたり、私たちが忘れてならないのは、あらゆる時代の聖く善良な人々が、世におけるキリスト教会の歴史の象徴と表象をこの中に見いだしてきた、ということである。彼らの考えによると、舟は教会の表象であり、----漁師たちは教役者の、----網は福音の、----湖は世界の、----岸は永遠の、----奇跡的な大漁は、キリストのことばに厳密に従ってなされた働きに伴う成功の表象である。こうしたすべてには真実が含まれているであろう。しかし、それらを用いるには、用心深く、また細心の注意を払う必要がある。聖書の寓喩的な説明や、聖書の平明な言葉遣いの中に隠れた意味を読みとろうとする習慣は、しばしば多大な害悪をもたらしてきたからである。


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第5章12―16 全身らい病の人がいやされる----キリストがいかに隠れた祈りに励まれたか

 私たちがこの箇所で見てとるのは、不治の病をも制する私たちの主イエス・キリストの力である。「全身らい病の人」が主に救いを願い求めたところ、たちどころにいやされた。人間の肉体を苦しめるありとあらゆる病の中でも、らい病は最も過酷なものと思われる。それは、体のあらゆる部位をたちまち冒してしまう。それは皮膚をただれさせ、腐れさせ、血液を汚濁し、骨々をぼろぼろにする。それは生きながらの死であり、いかなる薬でも抑えることも、くい止めることもできない。だが、ここには、ひとりのらい病人が一瞬にして治ったと記されているのである。神の御子の御手がひと触れしただけで、いやしがもたらされた。その全能の御手のほんのひと触れで! 「すると、すぐに、そのらい病が消えた」。

 この素晴らしい物語の中には、私たちの魂を癒すキリストの力を示す、生き生きとした象徴がある。神の前における私たちは、霊的ならい病人でなくて何であろう。罪は私たち全員がかかっている命取りの病である。それは私たちの体質の中に食い込んでいる。それは私たちの精神機能のすべてを汚染している。心も、良心も、理性も、意志も、すべてが罪に病んでいる。足の裏から頭の天辺に至るまで、私たちに健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷しかない(イザ1:6)。そのような状態に私たちは生まれついている。そのような状態にあって、生来の私たちは生きている。ある意味で私たちは、墓の中に横たえられるはるか以前から死んでいるのである。私たちの肉体は健康で活発かもしれないが、私たちの魂は生まれながらに罪過と罪の中で死んでいる。

 だれがこの死のからだから、私たちを救い出してくれるだろうか? 神に感謝すべきことに、イエス・キリストにはそれがおできになる。この方は天来の《医者》であり、古い物を過ぎ去らせ、すべてを新しくすることができる。この方にはいのちがある。この方は、ご自分の血によって私たちをすべての罪の汚れから完全に洗いきよめることができる。この方は私たちにいのちを与え、ご自分の御霊によって私たちをよみがえらせることができる。この方は私たちの心をきよめ、私たちの心の目を開き、私たちの意志を更新し、私たちを健やかにしてくださる。このことを心に深く刻み込んでおこう。私たちの病をいやす薬があるのである。もし私たちが失われるとしたら、それは私たちが救われえないからではない。いかに私たちの心が腐り果てていようと、いかに私たちの過去の人生が邪悪なものであったにせよ、福音には、私たちのための希望がある。霊的ならい病の中に、キリストの手に負えないほどの症例はない。

 私たちがこの箇所で第二に見てとるのは、私たちの主イエス・キリストが困窮している者をいかに喜んで助けようとしておられるかということである。苦しみの中にあるこのらい病人の嘆願は非常に胸を打つものであった。彼は云っている。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます」。彼が受け取ったお答えは、著しくあわれみに富む、恵み深いものであった。すぐさま私たちの主は答えておられる。「わたしの心だ。きよくなれ」。

 この短いことば、「わたしの心だ」、には、特別に注意を払うべき価値がある。これは、すべての疲れた魂、重荷を負っている魂に対する豊かな慰めと励ましに満ちた、深い鉱脈である。これは私たちに、罪人たちに対するキリストのみ思いを示している。人々の魂に善を施そうとするキリストの無限の意欲と、喜んで同情をお示しになろうとするお心とを現わしている。私たちは常に覚えていよう。人々がもし救われないとしたら、それはイエスが彼らを救いたがっておられないためではない、と。イエスは、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる。----すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられる。----だれが死ぬのも喜ばない。----めんどりがひなを翼の下に集めるように、エルサレムの子らを、彼らが望みさえするなら、集めようとした。イエスはそれを望まれたが、彼らはそれを望まなかった。----罪人が滅びる責任は、その罪人自身の責に帰さなくてはならない。その人が永遠に失われるとしたら、それはその人自身の意志であって、キリストの意志ではない。私たちの主は厳粛にこう云っておられる。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」(IIペテ3:9; Iテモ2:5; エゼ18:32; マタ23:37; ヨハ5:40)。

 私たちがこの箇所で第三に見てとるのは、私たちの主イエス・キリストがモーセの儀式律法にいかなる敬意を払われたかということである。主は、このらい病人に命じておられる。「祭司のところに行って、自分を見せなさい」。レビ記の規定に従い、正式にきよい者であるとの宣言を受けよ、と主は語っておられる。また主は、らい病人がそのようにする際に、「モーセが命じたように」、供え物をするように命じておられる。私たちの主は、モーセ律法の諸儀式が、後に来るすばらしいものの影や表象にすきないこと、それ自体の中には何の力もこもっていないことを百も承知しておられた。レビ記で定められた諸制度の最後が近づいていること、それらがまもなく永遠に打ち捨てられることになることを重々承知しておられた。しかし、それらが廃止されない限り、主はそれらに敬意が払われることを望まれた。それらは、神ご自身によって定められたものであった。それらは、福音のひな形であり、生きた象徴であった。それゆえ、それらは軽んじれられるべきではなかった。

 ここにはキリスト者にとって、覚えておいてよい教訓がある。私たちは儀式律法がその働きを終えたからといって、それを軽蔑しないように留意しよう。福音を信ずる信仰者は、儀式律法と何の関係もないのだ、などと考えて、それらを含んでいる聖書箇所をないがしろにしないように用心しよう。確かに、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いていることは事実である(Iヨハ2:8)。今の私たちは、祭壇や、いけにえや、祭司たちとは何の関係もない。そうしたものを復活させようと願う者は、真昼に蝋燭をつけるような人々も同然である。しかし、確かにこうしたことが正しいとはいえ、私たちは儀式律法が今でも教えに満ちていることを決して忘れてはならない。そこには、今の私たちが開花しきった形で有しているのと同じ福音が、つぼみの形で含まれているのである。正しく理解しさえするなら、私たちはそれらが、キリストの福音に強い光を投じているのを常に見いだすはずである。聖書を読んでいながら、儀式律法について学ぶのを怠るような人は、常に最後には、その怠りによって自分の魂が害をこうむっていたことに気づくであろう。

 私たちがこの箇所で最後に見てとるのは、私たちの主イエス・キリストがいかに隠れた祈りに励んでおられたかということである。「多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た」。にもかかわらず主は、それでも、ひとり静まる時を設けておられた。聖く汚れのないお方であられたにもかかわらず主は、公の務めが切迫しているからといって、規則正しく神と個人的に交わることをやめようとはなさらなかった。「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」、と記されている。

 ここには私たちのための模範が示されている。これは、この終わりの日に、大いに見落とされている模範である。残念なことに、信仰を告白するキリスト者のうち、この個人的な静思の時という件でキリストを見習おうと努めている人々は、ほとんどいないのではないだろうか。おびただしい数の人々が、説教を聞き、信仰書を読み、信仰的な話をし、信仰を告白し、人々を訪問し、施しを行ない、諸団体への募金に応じ、教会学校で教えている。しかしそこには、こうしたことすべてとともに、しかるべき割合で、密室の祈りがなされているだろうか? 信仰を有する人々は、十分に神とふたりきりになることに意を用いているだろうか? これは心へりくだらせ、心探る問いかけである。しかし、この問いに答えを返すのは、有益なことであるはずである。

 キリスト教的な働きがこれほど多くなされているように見受けられるのに、神に対する明確な回心という成果は、なぜこれほど僅かなのだろうか?----これほど多くの説教がなされながら、なぜこれほど僅かな魂しか救われず、----これほど多くの組織がありながら、なぜこれほど僅かな効果しか現われず、----これほど多くの人々が東奔西走しながら、なぜこれほど僅かの人々しかキリストに導かれていないのだろうか? こうしたことすべての理由は何だろうか? 答えは単純明快である。密室の祈りが不足しているのである。キリストの御国の進展のための働きを減らす必要があるというのではないが、その働き手ひとりひとりに、より多く祈る必要があるのである。私たちは、おのおの自らを吟味し、自分のあり方を改めようではないか。主の葡萄畑で最も成功する働き手、最も自分の《主人》に似ている者は、しばしば、そして大いに膝を屈めて祈っている人々にほかならない。

注記. ルカ5:12-16

12節----[全身らい病の人] ギルは、この箇所に関するその注解において、らい病の症状や徴候を長々と列挙している。それらは、ガレノスや、アレタイオスや、ポンターノや、アイジニータや、カルダーノその他の人々による記述を抜き出したものである。この主題について学びたい者には、彼が編集したものを読むように勧めたい。それは、一般読者よりは、医師の興味を引くであろう。
 らい病は、現在も世界のいくつかの地域で見いだされるが、英国では比較的知られていない。喜望峰の近くの南アフリカ沿岸の沖合には小さな島が1つあり、植民地政府により、らい病人の居住地とされているという。このことは、『マクチェーン伝』p.200で言及されている。

13節----[わたしの心だ] バーゴン氏の注釈するところ、これは、「まさに神のことば、神だけに語ることのできることばである。----その全能の意志によって、すべての物事を生起させておられるお方のことばである。神のしもべたちが奇蹟を行なったときには、これとははるかに異なった云い回しが用いられた。ヨセフは云っている。『私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです』、と」(創41:16)。

16節----[退いて] グァルターがこの表現について注釈して云うところ、これにより福音の教役者は、自分の聴衆とあまり慣れ親しみすぎず、あまり頻繁に公の交際をしない用心をするように教えられるべきである。彼の考えによると、教役者と聴衆との間に過度の親しみがある場合は軽侮の思いが生まれ、孤独と退隠の習慣は、教役者の立場にとってあらゆる点から見て絶対に欠かせないものである。

[祈っておられた。] このように、私たちの主の祈りが頻繁に言及されるのは、聖ルカ特有の特徴である。ワーズワースはこう注釈している。「これと同様の例が、ルカの語る私たちの主のバプテスマの記事や、変貌の記事に見られる(ルカ3:21; 9:28、29)。聖ルカの福音書が対象読者としていた異邦人たちは、祈りの義務と益について教えを必要としていた。そのため、この主題は、ルカの福音書では顕著な位置を占めているのである。これは、抜きんでて祈りの福音書である」。ルカ6:12; 9:18、28; 11:1; 18:1; 22:41、46参照。


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第5章17―26 中風の人が、屋根の瓦をはがして、つり降ろされ、いやされる

 これらの節で私たちは、三重の奇蹟に注意すべきである。ここで私たちの主は、罪を赦すと同時に、人々の思いを読みとり、また、中風を癒しておられる。こうしたことを行なう力を有し、また事実これほど易々と権威をもってそれらを行なわれたお方は、実際まぎれもなく神であられるに違いない。このような力を有していた人間は、いまだかつてひとりもいない。

 この箇所で第一に注目したいのは、人々は、真剣に考えている物事のためなら、いかなる労苦もいとわない、ということである。ひとりの中風を病んでいた人の友人たちが、彼をイエスのもとに連れて行き、直してもらいたいと願った。最初彼らは、そうすることができなかった。群衆が私たちの主を取り巻いていたからである。では彼らはどうしただろうか? 「屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真中のイエスの前に、つり降ろした」。たちまち彼らの目的は達せられた。私たちの主は、彼らの病んだ友人に注意をお向けになり、彼は癒された。労苦と、骨折りと、ねばり強さによって、彼の友人たちは、彼のために完全な治癒という大きな祝福を得ることに成功した。

 労苦と勤勉が重要であることは、あらゆる方面で目につく真理である。あらゆる職業、務め、取引において、私たちの目にするところ、刻苦勉励こそ成功するための1つの偉大な秘訣である。人々が富み栄えるのは運によってでも偶然によってでもなく、骨惜しみなく働くことによってである。銀行家や商人が、困難を経ることも心を傾注することもなしに富を築くことはない。弁護士や医者が、勤勉や耐えざる努力なしに事業を安定させることはない。この原則は、この世の子らが完璧になじんでいるものである。彼らの最もお気に入りの格言の1つは、「労苦なくして報いなし」、である。

 ここではっきりと理解しておきたいのは、労苦と勤勉は、私たちの魂の安泰と幸福のためにも、肉体のそれのためと全く同じくらい不可欠だということである。神に近づこうとする私たちのあらゆる努力において、キリストに近づこうとする私たちのあらゆる努力において、そこには、この病人の友人たちによって示されたのと同じ、断固たる真剣さがあるべきである。私たちは、いかなる困難があろうとくじけてはならず、いかなる困難があろうと真に自分の霊的な益のためになるものから押しとどめられてはならない。特に私たちがこのことを念頭に置いておかなくてはならない事がらは、規則正しく聖書を読むこと、福音に耳を傾けること、安息日を聖く守ること、そして、個人的に祈ることである。こうしたすべての点において私たちは、怠惰さや、云い訳しがちな精神に用心しなくてはならない。必要が発明の母でなくてはならない。もしも1つのしかたでこうした習慣を守る手段を見いだせないとしたら、別のしかたでそうしなくてはならない。しかし、私たちが肝に銘じておかなくてはならないのは、何としても事をなさなくてはならない、ということである。ここには私たちの魂の健康がかかっている。困難という困難が群雲のように立ちはだかっていても、それを突き抜けなくてはならない。もしこの世の子らが朽ちゆく冠のためにそれほどの労苦を費やしているというなら、私たちは朽ちることのない冠のために、それよりはるかに大きな労苦を忍ぶべきである。

 なぜかくも多くの人々は、キリスト教信仰において何の労苦もしていないのだろうか? いかにして彼らは、祈ること、聖書を読むこと、福音に耳を傾けることのために時間を決して見いだせないのだろうか? 恵みの手段をないがしろにしていることについて、彼らが際限もなく云い訳を並べ立てる秘密は何だろうか? いかにして金銭や取引や快楽や政治については意欲満々であるのと同じ人が、自分の魂については何の困難も負おうとしないのだろうか?――こうした問いかけに対する答えは単純明快である。こうした人々は、救いについて真剣でないのである。霊的疾病を全く感じていないのである。《霊的な医者》を必要とする自覚が全くないのである。自分の魂が永遠の死に至る危険に陥っていると感じていないのである。彼らはキリスト教信仰にかかずらうことなど何の役にも立たないと考えている。このような暗黒の中で、おびただしい数の人々が生き、死んでいるのである。実に幸いなことよ、自分の危険を見いだして、キリストを得、キリストの中にある者と認められさえすれば、いっさいのことを損とみなしている人々は![ピリ3:7-9]

 第二に注目したいのは、私たちの主イエス・キリストのいつくしみ深さと同情心である。この箇所において私たちは、主が二度、ご自分の前に連れて来られた、あわれな苦しめる者に対して、きわめて恵み深く語りかけておられるのを目にする。最初、主は彼に、この驚嘆すべき、また心励ます言葉を語りかけておられる。「友よ。あなたの罪は赦されました」。その後で主がさらにおかけになった言葉は、慰めという点では、赦しの祝福に次ぐものであったに違いない。主は云っておられる。「起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」。最初、主は彼に、彼の魂が癒されていることを保証しておられる。続いて主は彼に、彼の肉体が治っていることを告げ、彼を喜びながら家に帰らせておられる。

 私たちの主のご性格のこの部分を決して忘れないようにしよう。ご自分の民に対するキリストの愛に満ちたいつくしみ深さは、決して変わらず、決して失われることがない。それは深い泉であって、いかなる者もその底をつきとめたことはない。それは、彼らが生まれる前の、永遠の昔に始まっている。それは、彼らが罪過と罪との中に死んでいたときに、彼らを選び、召し、生かした。それは彼らを神に近づけ、彼らの性格を変化させ、彼らの精神に新しい意志を吹き入れ、彼らの口に新しい歌を授けた。それは、彼らのいかなる逸脱や欠陥にもかかわらず、彼らを堪え忍んできた。それは決して彼らが神から離れ去ることを許さない。それは、永遠に代々限りなく、大河のように常に先へ先へと流れ続ける。キリストの愛とあわれみは、罪人がその旅を最初に始めるときの申し立てでなくてはならない。そしてキリストの愛とあわれみは、彼があの暗い河をわたって故郷に入るときの唯一の申し立てとなるであろう。私たちは、内側の体験によってこの愛を知るように努め、より一層それを尊ぶようにしよう。それが私たちをより取り囲み、私たちがより一層、自分のためにではなく、私たちのために死んでよみがえってくださったお方のために生きるようになるようにしよう[IIコリ5:14-15]。

 第三に注目したいのは、私たちの主イエス・キリストが人々の考えを完全に知っておられる、ということである。ここに記されているところ、律法学者やパリサイ人たちがひそかに自分たちの間で理屈を云い始め、私たちの主が神をけがしていると心の中で非難し出したとき、主は彼らが何をしているかを知って、彼らを公然とはずかしめなさった。主は、「その理屈を見抜いておられた」、と書かれている。

 私たちは、自分が何もキリストに隠し立てできないということを、日々常習的に思い起こすべきである。キリストには、聖パウロのこの言葉があてはまる。「神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです」(ヘブ4:13)。主には詩篇139篇の厳粛な云い回しがふさわしい。――この詩篇をあらゆるキリスト者はしばしば学ぶべきである。私たちの口に上るあらゆる言葉、私たちの心に浮かぶあらゆる想像を、イエスはことごとく知っておられるのである(詩139:4)。

 この大いなる真理は、私たちの心の中で、いかに多くの吟味を呼び覚ますべきであるか! キリストは常に私たちを見ておられる! キリストは日々、私たちの行為と、言葉と、考えを読みとり、観察しておられる!――このことを思い起こすことによって悪人は恐怖させられ、そのもろもろの罪から追い立てられるべきである。彼らのよこしまさは隠されておらず、彼らが悔い改めない限り、いつの日か、恐ろしいしかたで暴露されるであろう!――これは偽善者たちを怖がらせ、その偽善から手を引かせるべきである。彼らは人間を欺いているかもしれないが、キリストを欺いてはいないのである!――これはすべての真摯な信仰者たちを元気づけ、慰めるべきである。彼らは、愛する《主人》が自分たちを眺めていることを思い出し、すべてをそのお方の前であるかのように行なうべきである。何にもまして彼らは、いかにこの世によって嘲られ、誹謗中傷されても、自分たちがその《救い主》の目には正しく公正に評価されていると感じるべきである。彼らはこう云うことができる。「いっさいのことをご存じの主よ。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」*(ヨハ21:17)。

注記. ルカ5:17-26

17節――[彼らを直しておられた]。 <英欽定訳> これは、「パリサイ人たちを直しておられた」と意味すると考えてはならない。バーゴン氏は、こう注釈している。「だれを直しておられたのだろうか? パリサイ人や律法学者たちをだろうか? 明らかにそうではない。実はこの福音書記者がこの箇所を書いていた間、彼の前には、この場面全体がありありと浮かび上がり、彼はその『彼ら』という言葉を、この折に私たちの《救い主》のもとに連れて来られ、癒される機会を待っていた、多くの病人たちに関して用いたのである」。

19節――[屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を……つり降ろした] この箇所を理解するには、私たちの主が説教しておられた地方の家屋の造りを思い出さなくてはならない。当時、そして今も、家屋を建てる際には、平たい屋根と、小さな四角い中庭、あるいは方庭を設けるのが普通であった。屋根に上るには家の外の階段が使えるので、人は家に入らなくても屋根に上ることができた。その方庭の側面の周囲には、家の壁から真ん中に向けてひさしがのばされていた。このひさしは帆布や布で作られることもあれば、軽い瓦屋根で作られることもあった。このひさしの用途は、人々が、その方庭の外気の中で座っていながら、それと同時に雨や日差しから守られるようにすることにあった。

 私たちの前にある場合において私たちの主は、その家の方庭で、一方の側から延ばされた瓦屋根を頭上にして、説教や教えをしていたように思われる。この麻痺患者の友人たちは、群衆のため、その方庭まで入っていくことができなかったので、その建物の外にある階段によって彼をかつぎあげ、平屋根に達した。それから彼らは、私たちの主が説教しておられた場所の上の部分の瓦屋根をはがし、彼らの友を寝床に載せたまま、下の方庭へとつり降ろした。

 英国の家々の構造から類推できるような家の造りをきれいに忘れ去らない限り、この奇蹟が起こった場合の事情は全く理解しがたいに違いない。東洋の家々が当時も今もどのようなものであるかを念頭に置いておけば、それは明快で単純なものとなる。

26節――[人々はみな、ひどく驚き] このように訳された言葉は、より文字通り翻訳すれば、「驚愕が彼らすべてをとらえた」、となるであろう。驚愕という意味で用いられている語は、3つの箇所で「夢ごこち」と翻訳されている語と同じである(使10:10; 11:5; 22:17)。ズイーツァーがエピファニウスを引用して示すところ、この語は「この上もなく高い程度の賞賛あるいは驚異」に関して用いられていたという。

[驚くべきこと] このように翻訳された語は、新約聖書の中でこの箇所でしか使われていない。それは文字通りには、「逆説」、すなわち、あらゆる一般の意見や通常の経験と対立する事がらのことである。


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第5章27―32 レビことマタイの召命と、その際に彼が行なった大ぶるまい

 いま私たちが読んだ節は、不滅の魂の価値を知り、救われたいと願うあらゆる人の深い関心をひくべきものである。それらは、キリストの最古参の弟子たちのひとりの回心と経験を描き出している。私たちもみな、もとより罪のうちに生まれ、回心を必要としている。この大いなる変化について自分が何を知っているか見てみようではないか。私たち自身の経験と、ここでその回心が述べられている人のそれとをくらべ、その比較から知恵を得ようではないか。

 私たちがこの箇所で教えられているのは、キリストの召命の恵みがいかに力強いものか、ということである。ここでは、私たちの主がレビという取税人を召して、その弟子たちのひとりとならせた次第が書かれている。この男の属していた階級は、ユダヤ人の間で、そのよこしまさが語りぐさとなっていた。だが、その彼にさえ私たちの主は、「わたしについて来なさい」、と云っておられる。――さらには、私たちの主のことばに伴い、レビはその心に大きな影響を及ぼされ、召されたときには「収税所にすわって」いたにもかかわらず、たちまち「何もかも捨て、立ち上がってイエスに従」い、弟子となった、と書かれている。

 このような場合について読んだ以上、私たちは、いかなる人の救いについても、その人が生きている限りは決して絶望してはならない。決してだれかについて、あの人はキリスト者になるには悪人すぎるとか、かたくなすぎるとか、世俗的すぎるなどと云ってはならない。いかなる罪も、赦されないほど多すぎたり、悪すぎたりすることはない。いかなる心も、変えられないほど硬すぎたり、世俗的すぎたりすることはない。レビをお召しになったお方は今も生きておられ、千八百年前と同じであられる。キリストにとって不可能なことはない。

 私たち自身についてはどうだろうか? 結局のところ、これこそ重要な問題である。私たちは、十字架が重すぎるとか、自分には決してキリストに仕えることはできないとかいう考えのもとで、のろのろし、ぐずぐすし、しりごみしているだろうか? 今を限りに、そのような考えはすっぱり振り捨てようではないか。キリストはその御霊によって、私たちに何もかも捨て、世から出て行かせることがおできになる、と信じようではないか。レビを召されたお方は決して変わらないことを覚えていよう。大胆に十字架を負って、前進しよう。

 私たちが第二にこの箇所で教えられるのは、回心が真の信仰者にとって喜びのもとである、ということである。ここには、レビが回心したとき、「自分の家で……大ぶるまいをした」、と書かれている。食事をするのは、笑いと、人生を楽しむためである(伝10:19)。レビは、自分の変化を喜ぶべき折とみなし、他の人々にも自分とともに喜んでほしいと願った。

 レビの回心が、彼の世俗的な友人たちにとって嘆きの種となったことは、容易に想像できよう。彼らの見たところ、彼はもうかる商売を打ち捨てて、ナザレからぽっと出の教師に従うのだという! 疑いもなく彼らは、彼のふるまいを嘆かわしい愚行とみなし、喜ぶよりも悲しむべき折とみなしたに違いない。彼らは、彼がキリスト者となることによってこうむる現世的な損失しか見ていなかった。彼の霊的利得については何も知らなかった。そして、彼らのような人々はたくさんいる。おびただしい数の人々は常に、親戚のだれかが回心したと聞くと、随分と不幸なことだと考える。喜ぶかわりに頭をふって嘆く。

 しかしながら私たちは、レビが喜んだのは正しいことであったと心に銘記しよう。そして、もし私たちが回心しているなら、同じように喜ぼうではないか。人間に起こることの中でも、何にもまさって喜ぶべききっかけとなるもの、それはその人の回心にほかならない。それは、結婚したり、成人したり、貴族に列せられたり、莫大な財産を手に入れたりすることよりも、はるかに重要な出来事である。それは不滅の魂の誕生である! ひとりの罪人の地獄からの救出である! 死からいのちへの移り変わりである! 永遠に王とされ、祭司とされることである! 時の間にも永遠においても、必要なすべてが与えられるということである! この世で最も高貴で、最も富裕な家族、神の家族の養子となることである! この件においては、この世の意見など気にかけないようにしよう。彼らは自分の知りもしないことをそしるのである。私たちはレビとともに、人が新しく回心するあらゆる折を、大きな喜びのもととしよう。この世の何にもまして大きな喜びと、楽しみと、祝いとなるのは、私たちの息子や、娘や、兄弟や、姉妹や、友人が新しく生まれ、キリストのもとに至らされたときにほかならない。あの放蕩息子父親の言葉を思い出すべきである。――「おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(ルカ15:32)。

 私たちが第三にこの箇所で教えられるのは、回心した魂は、他の人々の回心のために力を及ぼしたいと願う、ということである。ここにはレビが回心し、それをきっかけに大ぶるまいをしたとき、彼がその場に「取税人たちや、ほかに大ぜいの人たち」を招いたと語られている。まず間違いなくこうした人々は、彼の以前の友人たちであり仲間たちであったに違いない。彼は、彼らの魂が何を必要としているかよく知っていた。彼も彼らのひとりだったからである。彼は、自分にあわれみ深くしてくれた《救い主》を、彼らにも知らせたい願った。あわれみを自分が見いだしたので、彼らにもそれを見いださせたいと思った。恵みによって罪の束縛から解放されたので、他の人々も自由にさせたかったのである。

 こうしたレビの感情は、常に真のキリスト者の感情であろう。こう主張しても間違いはないと思うが、自分の同胞である人々の救いについて全く関心がないような人には何の恵みもないのである。聖霊によって真に教えられている心は、常に愛と博愛と同情に満ちているものである。真に神によって召された魂は、他の人々も同じ召しを経験することを熱心に願うものである。回心した人は、自分ひとりで天国に行くことを願うものではない。

 この件において私たちはどうしているだろうか? 私たちは、回心後のレビのこの精神に似たものを何か知っているだろうか? 私たちの友人や親戚がキリストと知り合うようにあらゆる手を尽くしているだろうか? モーセがホバブに云ったように他の人々に語っているだろうか? 「私たちといっしょに行きましょう。私たちはあなたをしあわせにします」(民10:29)。あのサマリヤの女のように云っているだろうか? 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです」[ヨハ4:29]。アンドレがシモンにしたように自分の兄弟たちに叫んでいるだろうか? 「私たちはキリストに会った」*[ヨハ1:41]。――こうしたことは、非常に深刻な問いかけである。これらは、私たちの魂の本当の状態をさぐる、最も徹底的な試験となる。しりごみせずに、それを自分にあてはめてみよう。キリスト者の間には宣教魂が不足している。私たちは、自分が安全になっただけで満足すべきではない。他の人々にも善を施すよう努めるべきである。すべての人が異教徒のもとに行くことはできないが、あらゆる信仰者は自分の同胞の人々に対して宣教師となろうとすべきである。あわれみを受けた者として、私たちは自分の口をつぐんでいるべきではない。

 私たちが最後にこの箇所で教えられるのは、キリストが世に来られた主たる目的の1つである。それは、このよく知られたことばに見いだされる。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです」。

 これは福音の偉大な教訓であって、見たところ、何らかの形で、新約聖書を通じて絶えず教えられているものである。それは、私たちがいかに強く心に銘記しても足りないことである。キリスト教信仰に関する生まれながらの無知、また自分を義とする思いによって私たちは、常にこのことを見失いつつある。私たちはしばしば思い出させられる必要がある。イエスは単に教師として来られたのではなく、完全に失われていた者の《救い主》として来られたのだ、と。そして、イエスから益を受けることのできる唯一の人々とは、自分が破滅し、破産し、何の望みもない、みじめな罪人であることを告白する者なのである。

 この大いなる真理を、今まで一度も用いたことがないとしたら、いま用いようではないか。私たちは自分の邪悪さ、罪深さを自覚しているだろうか? 自分が神の御怒りと断罪にしか値しない者であると感じているだろうか? ならば、こう理解しよう。自分こそ、イエスがこの世にやって来られた当の目的である者なのだ、と。もし私たちが自分を義であると感じているなら、キリストは何も私たちに語ることはない。しかし、もし私たちが自分を罪人と感じているなら、キリストは私たちを悔い改めに招いておられる。その召しを無駄にしないようにしよう。

 もしも今までこの真理を用いたことがあるとしたら、これを用い続けようではないか。私たちは、自分の心が弱く、欺きに満ちていることを感じているだろうか? 「私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っている」ことをしばしば感ずるだろうか(ロマ7:21)? これはすべて真実かもしれない。だが、だからといって私たちがキリストに安らうことを妨げられてはならない。キリストは、「罪人を救うために来た」のであり、もし私たちが自分をそのような者と感じているとしたら、私たちはキリストに自分の窮状を訴え、人生の最後までキリストに信頼してよい保証があるのである。ただし、1つのことだけは決して忘れないようにしよう。――キリストがやって来られたのは、私たちを悔い改めに招くためであって、私たちが罪にとどまり続けることを是認するためではない。

注記. ルカ5:27-32

27節――[レビという取税人] ここでレビと呼ばれている人物は、聖マタイの福音書ではマタイと呼ばれ、聖マルコの福音書ではレビと呼ばれている。ほぼ何の異論もなく認められている通り、これは全く同一の人物、使徒マタイのことである。聖書の中の他の何人かと同じく、彼には2つの名があったのである。

 ほとんど云うまでもないが、取税人とは、公的な税金の徴収人のことである。

[税を受けていた]<英欽定訳> このように翻訳されたギリシャ語は、必ずしもレビが金銭を受け取っている最中であったことを意味していない。これと同じくらい正確な訳として、「税を受け取る場所にいた」、という訳がありえる。こちらの方が、よりありそうな意味と思われる。

28節――[何もかも捨て、立ち上がって……] 私たちは、レビが、ここに記されているように自分の役職を突如離れるという行動によって、政府に対する自分の義務をおろそかにしたとか、自分の雇い主に損失を与えたとか考えないように注意しなくてはならない。まず間違いなく彼は、多くの取税人や租税徴収人と同じく、私たちの主が彼を見いだした町の租税徴収権を賃借りしており、それを前払いしていたのであろう。こういう事情であれば、もし彼が自分の職を離れることを選んだとしても、それは全く彼の損失となり、政府は何もだまし取られたことにはならなかった。ワトソンはこう注釈している。「もしレビが、わが国の税関の役人のように、月給で雇われて税を集めていた政府官吏であったとしたら、当然彼は、後任者が任命されるまで、とどまっていなくてはならなかった。しかし、一定期間における税徴収権を買い取っていたのであれば、彼が税を取り立てる職務を放棄するのはいつでも自由にできることであった」。

29節――[大ぶるまい] 「大ぶるまい」と翻訳された言葉は、こことルカ14:13でしか使われていない。これは、富裕な人々だけが開けるような大がかりな歓迎祝宴を意味しており、その招待客は大人数なものであった。レビがキリストの弟子になることによって払った世俗的な犠牲は、おそらく使徒たちのだれによって払われた犠牲よりも大きかったであろう。

32節――[招いて、悔い改めさせるために] 他の箇所と同様、ここでも慎重に注意したいのは、私たちの主による罪人たちへの招きは、単にご自分の弟子になるようにとの招きではなく、「悔い改め」への招きだ、ということである。

 スペイン人の注釈者ステラは、この箇所にこう注記している。「ここから、キリストが、多少は正しい人であった者らを見いだしたのだと理解してはならない。『すべての人は、罪を犯した』、とのパウロの宣言は真実だからである。キリストがこうした律法学者やパリサイ人たちを正しい人と呼んでいるのは、彼らが本当にそうだったからではなく、単に、一般の評価と、彼らの見かけに応じてにおいてのみである」。


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第5章33-39 花婿なるキリスト――新しいぶどう酒と新しい皮袋

 これらの節で私たちが注目したいのは、人々はキリスト教信仰の重要な部分については一致していても、あまり重要でない点については意見を異にすることがありえる、ということである。これを明らかにしているのが、バプテスマのヨハネの弟子たちと、キリストの弟子たちとの間に不一致があるのではないかと申し立てられた一件である。私たちの主にこう尋ねる者がいた。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。

 こうした双方の弟子たちによっていだかれていた諸教理に、何か本質的な相違があったとは考えられない。バプテスマのヨハネの教えは、疑いもなく、救いに必要なすべての主要な点について、はっきりとした明確なものであった。イエスについて、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」[ヨハ1:29]、と云えた人物は、自分に従う者たちに向かって、福音に反するようないかなることも教えなかったはずである。もちろん彼の教えは、その天来の《主人》の教えに見られた豊かさと完全さを欠いていたが、それらが矛盾していたなどと考えるのは馬鹿げている。それにもかかわらず、実践面では、彼の弟子たちにはキリストの弟子たちと異なっている点があった。疑いもなく彼らは、悔い改めや、信仰や、聖さが必要であることについては一致していながら、断食や、飲食や、公に祈祷するしかたといった問題については意見を異にしていた。心と、望みと、目当てといった、内なるキリスト教信仰の重要な問題に関わる点では一致していたが、外的な問題については、必ずしも心を1つにしていなかった。

 私たちは、この世の続く限り、こうした相違がキリスト者たちの間に見られるだろうと心に銘記しておかなくてはならない。そうしたことは大いに残念なことかもしれない。それらが、無知で偏見に満ちたこの世に攻撃の口実を与えるからである。しかし、そうしたことは存在し続けるであろうし、私たちが堕落した状態にあるという数ある証拠の1つである。教会政治について、公的礼拝の執り行ない方について、断食や祭礼について、聖人記念日について、式典について、キリスト者たちが完全に1つ心になったことは、使徒たちの時代からこのかた一度もない。こうしたすべての点について、神のしもべたちの中でも最も聖く、最も有能な人々が、異なる結論に到達してきた。議論も、論議も、説得も、迫害も、みな同じように、一致を作り出す力はないことが明らかにされてきた。

 しかしながら、神をほめたたえるべきことに、神のあらゆる真のしもべたちが徹底して一致している点も数多くあるのである。罪と救いについて、悔い改めと、信仰と、聖さについて、いかなる名称、いかなる国家、いかなる民族、いかなる言語の、いかなる信仰者の間にも、強固な一致がある。私たちは、自分の個人的な信仰生活において、こうした点を大いに活用しよう。結局のところこれらは、私たちが死の時を、また審きの日を迎えたときに考えるはずの、主要な事がらだからである。それ以外の問題について私たちは、互いに意見が違うということに同意しなくてはならない。最後の審判の日には、私たちが断食や、飲食や、儀式についてどう考えていたかなど、ほとんど意味を持たないであろう。私たちは悔い改めただろうか? また、悔い改めにふさわしい実を結んでいるだろうか? 私たちは信仰によって《神の小羊》を見つめ、彼を自分の《救い主》として受け入れただろうか? こうした点において正しかったとわかるあらゆる人は、いかなる教会に属していても、救われるであろう。こうした点で間違っていたとわかるあらゆる人は、いかなる教会に属していても、永遠に失われるであろう。

 第二に私たちがこれらの節で注目したいのは、私たちの主イエス・キリストがご自分について語っておられる名前である。主は二度ご自分のことを「花婿」と呼んでおられる。

 「花婿」という名は、聖書で私たちの主にあてはめられているあらゆる名前と同様、教訓に満ちている。それは、あらゆる真のキリスト者を格別に慰め、励ます名である。それはイエスが、人類の中でもご自分を信ずるすべての罪人たちをごらんになるときにいだかれる、深く優しいを教えている。彼ら自身は弱く、無価値で、欠点だらけの者ではあるが、イエスは彼らに対して、夫が自分の妻に対して感ずるの同じ優しい愛情を感じておられるのである。その結びつきは、国王と臣下、主人としもべ、教師と生徒、羊飼いと羊との間にあるものよりも、さらに親密なものである。それは、あらゆる結びつきの中でも最も親密なもの、夫婦の結びつきである。――「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」[マタ19:6]と書かれている結びつきである。――何にもまして、この名前が教えているのは、イエスご自身とイエスがお持ちのすべてのことに完全にあずかることが、あらゆる信仰者の特権だということである。さながら夫が妻に自分の名を与え、彼女を自分の財産や家や地位にあずからせ、彼女の借金と債務のすべてを引き受けるのと同じように、キリストはあらゆる真のキリスト者をそのように扱ってくださる。主は彼らのあらゆる罪をご自分で負ってくださる。彼らがご自分の一部であり、彼らを傷つける者はご自分を傷つけるのだと宣言してくださる。この世においてすら、主は彼らに、人知を越えた良きものを与えてくださる。また、来世においては、彼らがご自分の御座にご自分とともに着座し、もはやご自分の御前からどこにも出て行かなくなると約束しておられる。

 もし私たちが真の、救いに至るキリスト教信仰について何かしら知っているとしたら、私たちはしばしば、自分の魂をこのキリストの名と職務の上に安らわせようではないか。日ごとに覚えていようではないか。キリストの民の中でも最も弱い者も、知識を越えた優しい心遣いでいたわられており、彼らを傷つける者はだれであり、キリストの目のひとみを傷つけているのだ、と。この世において私たちは貧しく、さげすまれ、私たちの信仰ゆえに笑い者にされているかもしれない。しかし、もし私たちに信仰があるなら、私たちはキリストの御前で尊い者なのである。私たちの魂の《花婿》は、いつの日か、全世界の前で私たちの云い分を確かに立ててくださる。

 最後に私たちがこの箇所で注目したいのは、いかにキリストが、穏やかに、優しく、若く未熟なキリスト者たちを扱うことをご自分の民に望んでおられるか、ということである。主はこの教訓を、日常生活の事物から引き出した2つのたとえで教えておられる。主は、「新しい布切れで古い着物に」継ぎをすること、あるいは、「新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる」ことの愚劣さを示しておられる。それと同じように主は私たちに、新しい経綸と古い経綸には調和が欠けていることを知らせようとしておられるのである。ある体系のもとで訓練され、教えられてきた人々に、別の体系にいきなりなじむのを期待しても無駄である。それとは逆に、彼らは、少しずつ導かれ、耐えられる程度に応じて教えられなくてはならない。

 この教訓は、あらゆる真のキリスト者が心に銘記しておくべきものであり、ことによると、だれにもまさってそうすべきなのはキリスト教の教役者や牧師たちかもしれない。このことを忘れがちなために、しばしば真理の進展には大きな害がもたらされる。古参の弟子たちの厳しい判断と、理不尽な期待はしばしば、キリストの学び舎における若き初信者たちの気をくじき、落胆させてきた。

 私たちは心にこう銘記しておこうではないか。あらゆる信仰者の心には恵みがその萌芽を有しているに違いなく、ある人が即座に成熟に達さないからといって、その人に何の恵みもないなどと云う権利はない、と。私たちは子どもが一人前の大人の仕事をするのを期待しはしない。むろん、その子も生きていさえすれば、いつかそうできるようになるかもしれないが。私たちはキリスト教の初学者に、十字架の老兵士のような信仰や愛や知識を期待してはならない。その人も、徐々に真理の大いなる擁護者になっていくかもしれない。しかし最初は、その人を長い目で見てやらなくてはならない。キリスト教信仰の初信者を扱うには、そして、一般的にいって、すべての若い弟子たちを扱うには、非常な知恵が必要である。親切さと、忍耐と、優しさが、何よりも重要である。私たちは新しい葡萄酒をあまりにも早くつぎ込んではならない。さもないと、それはあふれ出すであろう。私たちは彼らの手を取り、優しく導いてやらなくてはならない。彼らを脅えさせたり、せっついたり、あまりにも早くせき立てたりしないように用心しなくてはならない。もし彼らが福音の主要な諸原則をつかんでいさえするなら、私たちは彼らを、多少の重要でない問題のために、不敬虔な者と決めつけないようにしよう。私たちは多くの弱さや欠点を忍ばなくてはならない。未熟な者に老練な態度を期待したり、幼子でしかない者に円熟さを期待したりしてはならない。ヤコブの言葉には深遠な知恵があった。「一日でも、ひどく追い立てると、この群れは全部、死んでしまいます」(創33:13)。

注記. ルカ5:33-39

33節――[あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています] 私たちはこの表現から、私たちの主の弟子たちが祈りを怠っているのを非難されたと考えてはならない。不注意な読者はそのように思い込むかもしれない。だが私たちの主のお答えの調子全体から明らかなように、それが彼らに対して向けられた非難ではなかった。真の非難は、私たちの主の弟子たちが「断食していなかった」ことである。

34節――[花婿につき添う友だち……花婿] 私たちの主がご自分とその民について用いられた、この比喩には、格別に美しいものがある。バプテスマのヨハネそのひとが、自分の弟子たちに主のことを語った際に、この比喩を用いていたことを思い出すにつけそうである(ヨハ3:29)。もしヨハネの弟子たちのだれかが、この件で主を問いただした者らの中にいたとしたら、主の云い回しは疑いもなく彼らに、自分たちの師の教えを思い起こさせたであろう。

35節――[その日には彼らは断食します] この表現によって多くの人々は、私たちの主イエス・キリストが世を去った時以来、特定の時期に文字通り飲食を断つことが、すべてのキリスト者の義務たるべきであると考えるようになった。

 そのような大雑把な結論を導き出すべき根拠は何もないように思われる。私たちの主の昇天以後、信仰者たちによって断食や節制が時折実行されてきたことは明確ではっきりしている。現代も、こうした慣行が自分の魂にとって有益で助けになると知っているすべての人々が、ひけらかしなしに行なうのであれば、断食する権利があることもまたはっきりしている。しかし、キリスト教会の中には、断食を守るべきいかなる戒めや命令も、『使徒の働き』にも書簡の中にも、特にテモテへの手紙やテトスへの手紙の中に、全く欠けていることを見ると、この件が慎重に扱われるべき問題であって、あらゆる人が「それぞれ自分の心の中で確信を持」たなくてはならない問題であることは明白である[ロマ14:5]。

 私たちの前にある言葉は、単なる食物の節制よりも深い意味を有していると思われる。これは、私たちの主の初臨と再臨の間の時期が、あらゆる真の信仰者にとって悲嘆と恥辱の時とならなくてはならないことを予告しているように思われる。これは、あらゆる真のキリスト者が、その主のお戻りになるときまで、いだいて生きなくてはならない精神について述べている。それは日々刻々の自己否定と抑制の時である。満たしと満足の時は、私たちが再び自分たちの間に《花婿》を見るときまで、ありえない。

38節――[イエスはまた一つのたとえを……話された] 新しい布切れと古い着物のたとえ、また、新しい葡萄酒と古い皮袋のたとえには、困難がないわけではない。この箇所の注解者たちによって、いかにこれらが異なったしかたで解釈され、私たちの主とパリサイ人たちとの間で論議された主題に適用されてきたかを見るのは珍奇なことである。

 私にとっては、私たちの主の多くのたとえ話と同じく、私たちの前にあるこの2つのたとえにおいても、私たちは個々の表現を突き詰めすぎないよう注意しなくてはならない。あるいは、全体の中の各部分に霊的な意味を求めないように注意しなくてはならない。

 私たちの主がその聞き手に強く主張したいと願っておられる一般的な真理は、だれにでも知られた、古い物と新しい物との間にある不調和であり、ある体系になじんだ人に向かって、別の体系が現われるや否やそれを採用するように期待する理不尽さである。もし私たちがこの点を越えて進むことに固執し、「布切れ」、「裂く」、などといったことに逐一意味をつけなくてはならないとしたら、私たちは単に摂理を暗くするだけで、骨折り損のくたびれ儲けにしかならないと思う。いずれにせよ、それを試みたいかなる人も、それに失敗しているように思われる。

39節――[古い物は良い] おそらく、このしめくくりの節において私たちの主が特に言及しておられるのは、バプテスマのヨハネの弟子たちであろうと思う。彼らはヨハネの教えという「古い葡萄酒」をすでに飲んでいた。そして、私たちの主の御国という「新しい葡萄酒」に彼らがいきなり心惹かれるようになるのは、まず期待できなかった。

 ワーズワースによると、この文章の冒頭部は、まぎれもない短長格の詩行であって、ことによると、ここで聖ルカは、私たちの主が採用なさった韻文の格言にギリシヤ詩の形式を付けているのかもしれない。彼が私たちに思い出させているように、私たちの主は、ダマスコ途上でサウロに現われなさったときでさえ、異邦人の格言を用いるほどに身をへりくだらせてくださったのである(使9:5)。

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