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第4章1―13 荒野でのキリストの誘惑

 私たちの主の生涯において、そのバプテスマの後で最初に記録されている出来事は、悪魔による誘惑である。栄誉と栄光の時から、たちどころに主は、争闘と苦難の時期に移られた。最初に来たのは父なる神の証言であった。「あなたは、わたしの愛する子」。その後に来たのは悪魔のあざけるようなほのめかしであった。「あなたが神の子なら」。キリストがお受けになる分は、しばしばキリスト者たちの受ける分となる。大いなる特権から大いなる試練には、しばしばほんの一歩しかないものである。

 この箇所で最初に注目したいのは、悪魔の力とあくなき悪意である。

 楽園でアダムを罪に誘惑した、あの古き蛇は、第二のアダム、神の御子にも臆することなく襲いかかった。かれが、イエスのことを「肉において現われた神」であると理解していたかどうかは、ことによると疑わしいかもしれない。しかし、イエスが自分の王国を転覆するため世に来たお方であると見抜いていたことだけは確かではっきりしている。かれは、すでに私たちの主のバプテスマにおいて何が起こったかを見ていた。あの天からの驚くべきことばを聞いていた。人間の偉大な《友》が来られたこと、自らの領土が危機にさらされていることを感じていた。《贖い主》が来られたのである。牢獄の扉は今まさに開け放たれようとしていた。正当に虜囚となっていた者たちが自由にされる日は目前に迫っていた。疑いもなく、こうしたすべてのことをサタンは見てとり、わがものを守るために戦う決意を固めたに違いない。この世を支配する者は、死に物狂いの戦いをすることもなく、平和の《君》に屈そうとはしなかった。かれはエデンの園で最初のアダムを打ち負かした。----なぜ荒野で第二のアダムを打ち負かせないことがあろうか? かれはかつて人間から楽園を奪い取った。----なぜ今度は神の国を奪い取れないことがあろうか?

 私たちは、悪魔に誘惑されるとしても決して驚かないようにしよう。むしろ、私たちがキリストの生きた肢体であるなら、それを当然のこととして予期していよう。《師》の受けた定めは、弟子の受けるべき定めであろう。イエスご自身を攻撃することも恐れなかった、かの大いなる霊は、今もほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っている。あのヨブを悩ませ、ダビデやペテロを打ち倒した人殺し、偽り者は、今も生きており、まだ縛られていない。かれは、私たちから天国を奪うことはできないとしても、いずれにせよ私たちの天国までの旅路を難儀なものにするであろう。かれは、私たちの魂を滅ぼすことはできないとしても、少なくとも私たちのかかとにかみつくであろう。かれを蔑んだり、かれの力を軽んじたりしないように用心しよう。むしろ神のすべての武具を身に着け、強いお方に力を叫び求めよう。「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります」(ヤコ4:7)。

 第二に注目したいのは、私たちの主イエス・キリストが、いかに試みを受けている者たちに同情することがおできになるかということである。これこそ、この箇所の中で際立って突出している真理である。イエスは、現実に、文字通り、ご自身、誘惑をお受けになった。

 「悪魔のしわざを打ちこわすため」にやって来られたお方が、サタンとの特別な争闘によって、そのみわざを始めるのはふさわしいことであった。かの《大牧者》にして魂の監督者が、神のことばと祈りだけでなく、激しい誘惑によって、その地上でのお働きのために整えられるのはふさわしいことであった。しかし、何にもまして、かの偉大なる《大祭司》にして、罪人たちの弁護者が、身をもって争闘を体験し、その火の中に身を置くことがいかなることであるかをわきまえているお方であるのは、ふさわしいことであった。そして、それこそイエスについて云えることであった。主は「試みを受けて苦しまれた」、と記されている(ヘブ2:18)。主がどれだけ試みられたか、私たちにはわからない。しかし、主のきよく、しみのないご性質が激しい苦しみを受けたことだけは確かである。

 真のキリスト者はみな、このことを思って慰めを受けるがいい。彼らには、自分たちの弱さに心から同情することのできる、ひとりの《友》が天におられるのである(ヘブ4:15)。彼らが自分の心を恵みの御座の前に注ぎ出すとき、また日々自分たちを悩ませる重荷のもとでうめき声をあげるとき、そこには彼らの悲しみを知った上でとりなしをささげてくださるお方がおられるのである。くじけないようにしよう。主イエスは、「きびしい方」ではない。主は、私たちが誘惑のつらさを訴えるときの気持ちをわかっておられ、そのための助けを与える意欲も力もお持ちである。

 第三に注目したいのは、私たちの大いなる霊的な敵である悪魔の、この上もない陰険さである。私たちは三度、かれが私たちの主に襲いかかり、主を罪に引きずりこもうとしているのを見る。それぞれの襲撃には、誘惑という行ないを知り抜いた手練のわざが示されている。それぞれの襲撃には、長年の経験によって、人間性のあらゆる弱点を知悉した者の働きが示されている。それらはみな、注意深く学ばれるべき価値がある。

 サタンの最初の策略は、私たちの主に、その御父の摂理的なご配慮への不信感をいだかせようとすることであった。かれは、主が四十日間の飢えによって弱り果てたときにやって来て、1つ奇蹟を行なって、肉的な欲望を満足させてはどうかという考えを吹き込んでいる。なぜこれ以上待つべきだろうか? なぜ神の御子が、ただじっと飢えていなくてはならないのか? なぜ「この石に、パンになれと言いつけ」てはならないだろうか?

 サタンの第二の策略は、私たちの主に、不当な手段によって世俗の権力を握らせようとすることであった。かれは主を山の上に連れて行き、「またたくまに世界の国々を全部」見せている。かれは、もし主が単に「ひれ伏して私を拝むなら」、これらすべてを与えようと主に約束している。それは小さな譲歩であった。その見返りは大きかった。なぜ、ほんの一瞬ちょっとした行為を行なうことによって、莫大な利得を得てはならないだろうか?

 サタンの最後の策略は、私たちの主に、増上慢な行為を行なわせようとすることであった。かれは主を神殿の頂に連れて行き、そこから「飛び降り」てはどうかという考えを吹き込んでいる。そのようにすることによって、主はご自分が神に遣わされた者のひとりであることを公然と証明できるであろう。そのことによって主は、害悪から守られると固く信頼していることさえ示すであろう。聖書の中には、そのような立場にある際の神の御子に特にあてはまる聖句があったではないか。「御使いたちがあなたをささえる」*、と書かれてはいなかっただろうか?

 この3つの誘惑1つ1つについて、多くのことを書き連ねることは容易であろう。ひとまずは、私たちはここに、悪魔が特に愛好する3つの武器を見てとれることを思い起こすだけでよしとしよう。不信仰、世俗性、増上慢は、人間の魂に対してかれが常に仕掛けている3つの奸計であって、それらを用いてかれは人間に、神が禁じていることを行なわせ、罪に陥らせようと常に誘いかけているのである。このことを覚えておき、警戒していようではないか。サタンが私たちに行なわせようと吹き込むような行為は、しばしば些細な、取りに足らないようことのように見える。しかし、こうした小さな行為の1つ1つの中に含まれている原則は、まぎれもなく、神に対する反逆にほかならない。私たちはサタンの策略を知らないことがないようにしようではないか。

 最後に注目したいのは、私たちの主がサタンの誘惑に対して抵抗したしかたである。三度、私たちの主は、ご自分に襲いかかった大いなる敵を退け、その目論見をくじいている。主は髪の毛一筋ほども地歩を譲ってはいない。一瞬たりとも相手に上手を取らせてはいない。三度、主は、かれの誘惑に答えるために同じ武器を用いておられる。----すなわち、「御霊の与える剣である、神のことば」である(エペ6:17)。「聖霊に満ち」ておられたにもかかわらず主は、聖書をご自分の守りの武器とし、ご自分の行動指針とすることを恥とはなさらなかった。

 たとえこの驚くべき物語から他に何も学ばなかったとしても、この1つの事実だけは学びとろうではないか。聖書の重大な権威と、その内容を知っておくことの途方もない価値である。私たちは聖書を勤勉に、倦まずたゆまず読み、調べ、そこに書いてあることについて祈ろうではないか。その各ページに通暁し、その聖句が私たちの記憶に留まり、必要とする時は常に手元にあるように努めようではないか。何らかの聖句の意味がいかに歪曲され、いかに誤って解釈されるときも、燦然と輝く光で書き記されたかのように明々白々な、何千もの平明な箇所に注意を喚起できるようになろうではないか。聖書はまことに剣ではあるが、それを効果的に用いたければ、私たちはこの剣のことをよく知っておくよう留意しなくてはならない。

注記. ルカ4:1-13

1節----[御霊に導かれて] 「導かれ」と翻訳された言葉は、ロマ8:14やガラ5:18にあるのと同じ言葉で、信仰者の心に対する聖霊の影響力について用いられている。注意すべきことは、私たちの主が悪魔との争闘を自ら求めたのではなく、その状況へと「導かれた」ということである。

[荒野] この荒野がどこであったのか語られてはいない。ある人々はこれを、イスラエルがかつて旅したシナイ近辺の荒野であったと推測している。見たところ、こうした考えには何の根拠もない。これは、バプテスマのヨハネの伝道活動が始まった、ユダヤの人跡まれな地域と考えた方がよりありえることである。

2節----[四十日間、悪魔の試みに会われた。] 私たちの主の誘惑のこの部分は、精神的、霊的なものであったと考えられる。言及されている期間は、歴史に記録された、モーセやエリヤの断食日数と同じである。

3節----[悪魔は……言った。] 明らかにサタンは今や私たちの主の前に、何らかの可視的な形をとって現われた。いかなる形であったかは語られていない。ある人々は、かれが光の御使いのような形で現われたと考えている。年老いた隠遁者として、あるいは律法学者かパリサイ人の姿でやって来たと考える者もいる。これらはみな憶測でしかない。疑いもなく、エバの前に蛇の形をとって現われた者は、私たちの主の前に現われる際にも、自分の目的に最も合致した形を選んだであろう。

 しばしば疑問視されるのは、果たして私たちの主の誘惑全体は現実のことであったのか、ただの幻だったのか、ということである。それが現実の誘惑であったことは、この物語のあらゆる表現から明らかである。私たちの主が「山の上」や、「神殿の頂」に連れて行かれたしかたについて、数々の奇抜な推測が持ち出されてきた。これらは私たちに説明のつかない事がらである。とりあえず、語られている状況が現実に、文字通り、実際に起こったのだと信ずることでよしとしておこう。

[この石に、パンになれと] 注意すべきことは、最初の誘惑に含まれていたのが、エデンにおける誘惑と同様に、肉体的な欲望に対する訴えだったということである。アダムとエバは許されていないものを食べるように誘惑されたが、私たちの主も同じであった。

4節----[と書いてある。] 注目すべきことに、この聖句、および私たちの主によって、悪魔への答えとして引用された2つの他の聖句はモーセ五書から取られている。この3つの聖句はみな、1つの書物、『申命記』から出ており、----そのうちの2つは1つの章、6章から出ている。

[一つ一つのことばによる] <英欽定訳> ここにおける意味は、厳密に「ありとあらゆる話し言葉および書き言葉による」ということではなく、神が人間の命を維持するために造り出し、命じ、定めたあらゆる物事----さながら、イスラエルの食糧となるためやって来るように命ぜられたうずらや、天から降るように定められたマナのようなもの----による、ということである。「ことば」と翻訳されたギリシャ語は、三箇所で「もの」と翻訳されている(ルカ1:37; 2:15、19)。

5節----[世界の国々を全部] この表現は、「世界」をパレスチナとその周辺諸国という限定された意味に取るのでない限り、おそらく相当大きな限定つきで受け取らなくてはならない。単一のいかなる山からも、文字通りに世界中の国々が一望できるはずがなかった。もし私たちの主が、実際に、現実にそれらを見たとしたら、それは主の目の前を通り過ぎさせられた、1つの幻を用いてであったに違いない。しかしながら、これはほぼありえそうもないと思われる。

[またたくまに] ライトフットはラビたちによる一瞬の定義を引用している。ユダヤの律法博士たちは、それを「一時間の58,888分の一であると考えている」。

[この、国々のいっさいの権力……をあなたに差し上げましょう。] 注意すべきことに、悪魔は、エバに対して法外な約束をしたように----「あなたがたは神のようになります」*----、私たちの主に対しても法外な約束をした。しかし、エバに対するかれの約束が嘘であったように、私たちの主に対するかれの約束も欺きであった。かれは、自分に与える力など全くないものを約束した。疑いもなく彼は「この世を支配する者」と呼ばれているが、神の許しなしにその支配権を与える力など持ち合わせていない。

7節----[私を拝むなら] 欄外の異読の方が、この言葉の意味をより十分示しているように思われる。----「私の前にひれ伏すなら」、すなわち、「ひれ伏して私を拝むなら」。

8節----[引き下がれ、サタン。] <英欽定訳> 注目すべきことに、これはまさしく、シモン・ペテロが私たちの主に対して十字架につくのを思いとどまらせようとしたときに、主がペテロに向かって発したことばである(マタ16:23)。この表現に着目したついでに述べておくと、聖ルカが二番目に物語っている誘惑は、聖マタイによれば最後に起こったものとして物語られている。おそらくは聖マタイの順序が、こうした種々の誘惑の起こった順番であったのであろう。そして、私たちの主がサタンに対して発したこの表現は、そのことに強力な内的証拠であるように思われる。

 聖ルカがなぜ聖マタイによっての゛られた順番から離れているかは、私たちにはわからない。シュパンハイムは、その『福音書の疑問』で、この問題を論じているが、ほとんど何の光も投じていない。

9節----[神殿の頂] これは、神殿の小塔、あるいは高い部分で、深い渓谷の上にそびえ立っていたものと考えられている。ヨセフスはこの場所についてこう述べている。「もしだれかがそこから見下ろすなら、その深みを見通すことができずに、ぼんやりと目がかすむほどであった」。

10-11節----[とも書いてあるからです。] 細心の注意を払うべきことに悪魔は、自分の目的にかなう場合には、聖書を引用できるのである。この世の中のいかなるものであれ、悪用されずにすむものはない。

[あなたを守らせる。] きわめて古い時代から、この言葉に対してなされてきた注釈は、サタンがこれに続く重要な表現、「すべての道で」、を省いたということ、そして、その省略は、この聖句の誤った適用をひそかに助長させるための、意図的なものであった、ということである。ことによると、この省略からは、十分に裏づけられること以上のことが引き出されてきたかもしれない。新約聖書における旧約聖書の引用は、聖く善良な人々によってさなれたものではあっても、必ずしも私たちが予期するほどにあらゆる点で忠実なものではない。いずれにせよ、驚くべき事実は、私たちの主がその誤引用に注目しないで、その答えとして単に別の聖句を引用しておられる、ということである。

 この点に関するレイトンの注釈は一読に値するものである。「私たちの《救い主》は、1つのすぐれた道を私たちに教えておられる。すなわち、私たちは、ひねくれた人々がその過誤を云い立てるときにも、サタンがこじつけの聖句で私たちに襲いかかるときにも、悪用されている箇所やその言葉の細かい詮議をあれこれするべきではない。それは、私たちが的確に誤りを見つけだせないほど、巧緻な論じられ方をしているかもしれない。だが、この全く確実な道は、相手が反対し、私たちが固執している真理を明確に、また平明に伝えている別の箇所によって、相手の詭弁を撃退することにある。たとえあなたが、何か曖昧な一聖句の意味を明確にすることができなくとも、あなたは常にそれよりも明確な別の聖句の中に、十分な受け太刀を見いだすはずである」。

13節----[悪魔はしばらくの間イエスから離れた。] 私たちの主の誘惑の物語を読む際には、常に2つのことを思い起こすべきである。

 1つのこととして、私たちが見てとるのは、サタンの人格性に関する明確な証明である。もしこの箇所の物語全体から判断されてもサタンが一個の人格でないとしたら、言葉には何の意味もないということになる。かれは「語り」、「連れて行き」、「見せ」、「差し上げましょう」と申し出、「立たせ」、「離れた」。こうした表現は、人格についてしか用いることのできないものである。

 もう1つのこととして、私たちが見てとるのは、一部の注解者たちがしているような、私たちの主のご生涯のそれぞれの行為に立ち会って、四福音書の記者たちに、彼らがその記述を書き記す際に用いた資料を与えたのはいかなる人物であったかを突き止めようと散々に苦労するという愚かさである。いかなる出所からマタイとルカは彼らの情報を得たのだろうか?----こうした問いには、たった1つの答えしかない。彼らがそれを得た出所は、彼らの書いた他のあらゆることと同じく、神の霊感であった。彼らが人間の証人たちの記録に依拠していたという理論は、完全に不満足なものであり、私たちの主の誘惑の物語においては、完全に崩れてしまっている。


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第4章14―22 ナザレの会堂におけるキリストの説教

 これらの節が物語っている出来事は、聖ルカの福音書にしか記されていない。ここで述べられているのは、私たちの主がその公生涯に入ってから初めて、ご自分の育ったナザレの町を訪れた次第である。直後に続く2つの節と合わせて考えるとき、これらの節は、「肉の思いは神に対して反抗する」ということを、すさまじいほど驚くべきしかたで証明している(ロマ8:7)。

 これらの節において私たちが目をとめたいのは、私たちの主イエス・キリストが、公の恵みの手段に、いかに著しい敬意を表されたか、ということである。主は、「安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた」、と語られている。私たちの主が地上におられた時代には、律法学者やパリサイ人がユダヤ人たちの主立った教師であった。そうした教えのもとで、ユダヤ教の会堂が御霊の臨在と祝福を大いに享受していたとは、到底考えられない。だが私たちは、そのような時であっても、私たちの主が会堂を訪れ、その中で聖書を朗読し、説教しておられる姿を見るのである。そこは、御父の日と、みことばが公に認められている場所であった。そのような場所として、主はそこに敬意を表することをよしとされたのである。

 疑いもなく私たちの主のふるまいのこの部分には、実際的な教訓がある。主は私たちに知らせようとなさったのである。私たちが、公に神の御名と、神の日と、神の書を尊重している礼拝集会を軽々しく捨て去るべきではない、と。そのような集会には、足りない点が多々あるかもしれない。説教されている教理は、豊かさや、明確さの乏しい、薄ぼんやりとしたものかもしれない。礼拝が執り行われているしかたには、神からの油注ぎや、敬虔さが欠けているかもしれない。しかし、はっきりとした過誤が教えられていない限り、またそのような集会で礼拝を守るか、何の公的な礼拝にも出ないかの二者択一を迫られている場合、キリスト者は、その集会を離れ去る前によくよく考えを巡らすべきである。もし、その会衆の中に、ふたりでも、三人でも、イエスの御名によって集っている人々がいるとしたら、そこには特別な祝福が約束されているのである。しかし、自宅にとどまっている者に、そのような祝福は何も約束されていない。

 これらの節において、別のこととして目にとめたいのは、ナザレの会衆に向かって私たちの主が、ご自分の職務と務めについて、いかに驚くべきことを述べられたか、ということである。主はイザヤ書から1つの箇所を選んだと語られている。それは、この預言者が、世に来られた際のメシヤが行なうはずのみわざの性質を予言している箇所であった。主は、ご自分のみわざについて何と予言されているかを読まれた。ご自分が、いかに「貧しい人々に福音を伝え」ることになるか、----いかに「心の傷ついた者をいやす」ために遣わされたか、----いかに「捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを……告げ……しいたげられている人々を自由に」するか、----いかに「主の恵みの年を告げ知らせる」かを。そして、私たちの主は、この預言を読み終えた後で、耳を傾けていた周囲の聴衆に対して、主ご自身こそ、こうした言葉が書き記しているメシヤであり、ご自分において、またご自分の福音において、この箇所の驚嘆すべき数々の比喩は成就することになるとお告げになった。

 私たちは、主が特にこの箇所をイザヤ書から選ばれたことには、深い意味があると信じてよいであろう。主は、ユダヤ人の聴衆に向かって、メシヤの真の性格を印象づけたいと願ったのである。主は、全イスラエルがメシヤを待ち望んでいることをご存知であった。彼らが、単にローマの支配から彼らを解放し、列国の中で再び首位の座に返り咲かせる、世俗的な王しか期待していないことをよく知っておられた。そのような期待は早まったもの、誤ったものであることを、主は理解させたかったのである。メシヤが最初に来臨した際のその王国は、心の上に築かれる霊的な王国となるはずであった。その勝利は、世俗の敵に対するものではなく、罪に対するものであった。その救いは、ローマの権力からの救いではなく、悪魔と世の力からの救いであった。彼らは、イザヤの言葉の成就をこのように----そして現時点では、このようなしかたでのみ----待ち望むべきであった。

 私たちもまた、自分自身キリストを、もっぱらいかなるお方であるとみなすべきかわきまえておくように注意しよう。キリストを、まことの神としてあがめるのは、正しく、また良いことである。キリストを万物のかしら、----大いなる《預言者》、----万人の《審き主》、----王の《王》として知ることには何の問題もない。しかし私たちは、救われたいと願うなら、そこで安んじてはならない。私たちはイエスを、心の貧しい者にとっての《友》、病んだ心にとっての《医者》、捕えられた魂の《解放者》として知らなくてはならない。これらこそ、イエスが世に来て果たすべきであった主要な職務なのである。私たちは、このようなお方として主を知らなくてはならない。このようなお方であると、耳で聞くだけでなく、内的な経験によって知らなくてはならない。そのような知識がなければ、私たちは自分の罪の中で死ぬのである。

 最後に目をとめたいのは、多くの人々がキリスト教信仰の教えを聞く際にとる態度について、これらの節がいかに教えに富む実例を示しているか、ということである。ここで語られている通り、私たちの主がナザレでの説教を終えられたとき、その聴衆は「みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた」。彼らは、いま聞いたばかりの聖書の解き明かしに何の欠陥も見いだせなかった。彼らは、いま耳にしたばかりの言葉遣いの選び抜かれた美しさを否定できなかった。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません」。しかし、彼らの心は全然動かされも、感動させられもしなかった。彼らの思いには、この《説教者》へのねたみや敵意すら満ちていた。つまり、彼らに及ぼされたと思われる効果は、ほんの一時的な感嘆の念以外の何物でもなかったのである。

 キリスト教会の中には、このナザレにおける私たちの主の聴衆と同程度の精神状態しか有していない人々が幾万もいる。そうではないと思い込もうとしても無駄である。定期的に福音の説教を聞き、また、聞いている間はそれを賞賛している人々は幾万もいる。彼らには、自分の聞いていることの正しさに異論はない。良い組み立ての、力強い説教を聞くことには、一種の知的喜びすら感じる。しかし、彼らのキリスト教信仰は、決してそれ以上のものにはならない。いくら説教を聞いても彼らは、無思慮で、世的な、罪の生活を平然と送り続けるのである。

 この重要な点について、私たちはしばしば自分を吟味しよう。私たちは自分が好むと公言している説教によって、いかなる実際的な効果が心と生き方にもたらされているか考えてみよう。それは私たちを、神に対する真の悔い改めと、私たちの主イエス・キリストに対する生き生きとした信仰へと導いているだろうか? 罪を犯すのをやめ、悪魔に立ち向かおうとする努力へと、週ごとに私たちをかり立てているだろうか? もし私たちが説教によって善を施されているとしたら、こうした実こそ、そこで結ばれているはずである。こうした実もなしに、不毛な賞賛をするだけでは何の役にも立たない。それは恵みの何の証拠でもない。そうしたものよっては、決して魂は救われないであろう。

注記. ルカ4:14-22

14節----[その評判](Fame of him) 他の箇所と同じく、"of" という言葉は、 欽定訳聖書の翻訳者たちによって、「についての」、「に関する」という意味で用いられている。

16節----[ナザレに行き] このナザレ訪問の正確な日取りは分かっていない。それが誘惑の直後に起こったのでないことは、強力な内的証拠によってはっきりしていると思われる。もし誘惑の直後だったとしたら、「いつものとおり」という表現や、カペナウムで行なわれたみわざについての言及などはなかったはずである。単純に説明すれば、聖ルカは、「会堂で教え」るという私たちの主の慣行について一般的に述べた後で、それをきっかけに、主がナザレの会堂で教えられた際に起こったことを叙述しているように見える。----それは、それ自体として興味深い出来事というだけでなく、私たちの主が会堂を訪れたときどのようにふるまわれたかという一実例としても記されている。

17節----[その書を開いて] 「開く」という言葉は、より字義通りに翻訳すると、「広げる」、あるいは、「巻いたものを解く」となるであろう。----私たちの主が地上におられた時代の書物は、羊皮紙を丸めた巻物であり、いかなる点でも現代の書物とは似ても似つかないものであった。

20節----[書を巻き] ここの「巻く」は、より字義通りに訳せば、「巻きつける」、「くるくると巻く」となる。

[係の者] この言葉の意味を、その会堂の説教者であるとか、教師であると考えてはならない。それは聖なる器物を保管するために任命された役人、あるいは係員であった。

21節----[こう言って話し始められた。] 明らかに、このイザヤの箇所について私たちの主が行なった解き明かしの全文が、ここに記載されているわけではない。この節に記録されている言葉は、おそらく私たちの主が語られた内容の最初の一言であり、主の説教の主旨だったのであろう。説教そのものは記録されていない。


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第4章22―32 ナザレの人々の不信仰とよこしまさ

 この箇所からは、3つの大きな教訓がはっきり読みとれる。霊的な知恵を得たいと願うすべての人は、その1つ1つに丹念な注意を払うべきである。

 1つのこととして私たちが学ぶのは、人々は、いかに尊い特権を受けていても、それに慣れ切っていると、しばしばそれを軽蔑しがちである、ということである。このことは、主イエスが説教するのを聞いた際のナザレの人々のふるまいの中に見てとれる。彼らは主の説教に何の欠点も見いだせなかった。主の過去の生き方や生活に、いかなる言行不一致も指摘できなかった。しかし彼らは、この《説教者》が彼らの間で三十年も住んでおり、《彼》の顔も、声も、風采も、なじみのものであったために、《彼》の教えを受け入れようとはしなかった。彼らは云い交わした。「この人は、ヨセフの子ではないか」。これほど見慣れた男がキリストだなどということがあるだろうか?。----そして彼らは、私たちの主の唇からこの厳粛なことばを受けることになったのである。「預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません」。

 私たちは、種々の典礼や、恵みの手段という問題について、この教訓を覚えておくとよい。そうしたものがありふれたものになっている場合、私たちには常に、それらを過小評価する危険がある。私たちは、だれでも聖書を読むことができ、どこでも福音が宣べ伝えられており、自由に公の礼拝のために集まれることを軽く考えがちである。私たちはそうした事がらの中で育ち、何の困難もなくそれらを有することに慣れ切っている。そしてその結果、私たちはそれらをしばしば非常に安っぽいものと考え、自分に与えられているあわれみの大きさを軽んじてしまう。私たちは、自分が聖なる物事をどのような精神で用いているかに留意しよう。どれほど頻繁に聖書を読むとしても、決して深い畏敬の念なしに読むことがないようにしよう。どれほど頻繁にキリストの御名を聞くとしても、決してキリストが《唯一の仲介者》であられること、その中にいのちをお持ちのお方であることを忘れないようにしよう。天から下ったマナでさえ、最後にはイスラエル人から蔑まれ、「このみじめな食物」と呼ばれるほどだったのである(民21:5)。キリストが私たちの真ん中におられるにもかかわらず、私たちがその御名に慣れ切っているがゆえに軽くみなされているとしたら、それは私たちの魂にとって良くないしるしである。

 もう1つのこととして私たちが学ぶのは、人間性がいかに激しく神の主権という教理を忌み嫌うか、ということである。このことは、彼らの間で奇蹟を行なう義理など神には何もない、と主イエスから聞かされたナザレの人々のふるまいの中に見てとれる。エリヤの時代に、イスラエルには多くのやもめがいたではないだろうか? 疑いもなくたくさんいた。だが、預言者はそのだれのところにも遣わされなかった。その全員が見過ごしにされ、サレプタにいた異邦人のやもめ女だけが選ばれた。----預言者エリシャの時代に、イスラエルには多くのらい病人がいたではないだろうか? 疑いもなくたくさんいた。だが、そのうちのだれにも癒しの特権は与えられなかった。きよめられたのは、シリヤ人ナアマンだけであった。----このような教理は、ナザレの人々にとっては耐えがたいものであった。それは彼らの自負心とうぬぼれを傷つけた。それは彼らに、神が何人にも借りを負ってはいないこと、もし彼らが神のあわれみの賜物において見過ごされたとしても、彼らにはそれを非難する何の権利もないことを悟らせた。彼らはそれにがまんできなかった。彼らは「ひどく怒」った。彼らはイエスを自分たちの町の外に追い出し、イエスの方で奇蹟的な力を行使しなければ、疑いもなくイエスに非業の死を遂げさせたに違いない。

 聖書のあらゆる教理の中で、人間性にとって最も腹立たしいのは神の主権という教理である。神が偉大で、義にして、聖で、きよいお方であると告げられるだけなら、人間にも耐えられる。しかし、「神はご自分のあわれむ者をあわれむ」、と告げられること、----神は「人間のことばにいちいち答えてくださらない」、----「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神による」、----と告げられること、これらは生まれながらの人間には耐えがたい真理である。これらによって、生まれながらの人間はしばしば神への敵意を呼び起こされ、ひどく怒らされる。つまり、こうした真理に人間を服させるものは、聖霊の心へりくだらせる教えしかない、ということである。

 私たちは、好むと好まざるとにかかわらず、心に銘記しておこうではないか。神の主権という教理は、聖書の中で明確に啓示されており、世界中で明確に見てとれる事実だということを。これ以外のいかなる原理に立っても私たちは、なぜ一家族の中のある者が回心し、その他の者は罪の中で生き、死んでいくのか、----なぜ地上のある方面はキリスト教によって教化され、他の方面は異教主義の中に埋没しているのかを説明できない。これらすべてについては、ただ1つの説明しか成り立たない。すべては神の主権的な御手によって定められているのである。この深遠な事がらに関しては、謙遜になることを祈り求めよう。私たちは、自分のいのちが霧にすぎず、自分の最良の知識も神のそれとくらべれば完璧な愚劣さであることを思い起こそう。いま私たちが享受している光について感謝し、それを有する限りそれを熱心に用いよう。そして、最後の審判の日には、全世界がこう確信するであろうことを疑わないようにしよう。今は「人間のことばにいちいち答えてくださらない」お方も、すべてを良きにはからってくださっていたのだ、と。

 最後に私たちがこの箇所から学ぶのは、たとえ失望させられることがあっても、いかに勤勉に善をなし続けなくてはならないか、ということである。疑いもなく私たちは、ナザレにおける排斥の後で私たちの主が身を処したしかたにからこの教訓を引き出すべきものとされている。主は、ご自分が受けた扱いによって全く動揺させられることなく、忍耐強くみわざを続けた。ある場所から追い出されれば、別の場所に移られた。ナザレから放逐された主はカペナウムに行かれ、そこで「安息日ごとに……教えられた」。

 このような態度こそ、キリストの民全員のふるまいたるべきである。いかなる働きに召されていようと、忍耐をもってやり抜き、うまく行かないからといって投げ出すべきではない。説教者であれ、教師であれ、訪問者であれ、宣教師であれ、たゆむことなく労し続けなくてはならず、心くじけてはならない。人々の心と良心は、彼らに向かって教え、説教している者らが自覚するよりも、はるかに激しく波立っていることがよくある。神の葡萄園の多くの場所では、準備的な働きが、他のどの働きにも劣らず必要とされているのである。このことは血肉にとってはさほど心地よいものではない。だが、そこには刈る者ばかりでなく、蒔く者がいなくてはならない。収穫を集める者ばかりでなく、地を耕し、石を取り除く者がいなくてはならない。各人が、自分の持ち場で労すべきである。やがて来たるべき日には、おのおの自分の働きに応じて報いを受けるであろう。失望に出会うこと自体によって私たちは、この世に向かって、信仰と忍耐というものがあるのだということを示せるのである。もしも私たちが、イエスがナザレで出会ったような扱いを受けてもなお働き続ける姿を見るならば、人々は考えさせられるのである。それが彼らに悟らせるのである。たとえ何が起ころうと、私たちは、自分が真理の側に立っていると確信しているのだ、と。

注記. ルカ4:22-32

22節----[みなイエスをほめ] この語句の意味は、彼らはイエスの語ったことの真実さと、正しさと、妥当さを否定できなかった、ということであろう。

[ヨセフの子] この表現から私たちは、私たちの主がナザレでいかなる者とみなされていたか、また主の奇蹟的な受胎と誕生がいかに僅かしか一般の知るところとなっていなかったかが見てとれる。

23節----[というたとえ] ここで注意すべきことに、私たちの主は、1つのたとえに答えるために、別のたとえを用いている。格言というものの特異な特徴は、それが通常は、ある問題の両面を弁護できる、ということである。ナザレの人々は、私たちの主がまず自分の故郷で奇蹟を行なうべきだということを、たとえを引用して証明しようとしていた。私たちの主は彼らに、別のたとえがあることを思い起こさせた。すなわち、教師というものは、自分の故郷よりも別の場所において、より重んじられるものだ、と。

25節----[エリヤの時代に] 見落としてならないことだが、私たちの主はエリヤの時代のことを語る際に、その時代に起こった出来事を現実のこととしておられる。主の言葉遣いは、旧約聖書の歴史書が真正のものであること、また、一部の者らが大胆にも主張するような、単なる教訓的寓話の集成ではないことを証明する、多くの強力な議論の中の1つである。

28節----[ひどく怒り] ナザレの人々の激越な怒りを引き起こした理由は2つであろう。1つは、罪人たちを救う神の主権という教理であった。もう1つは、私たちの主が、ユダヤ人でなく異邦人にいつくしみが示されたことを彼らに思い出させ、そこには明らかに、同じことが繰り返されるとの警告の意が込められていたことにあった。

30節----[彼らの真中を通り抜けて] これが1つの奇蹟であったことは明らかである。それがどのようにもたらされたのかは、語られていない。私たちは、ただこう知るだけで十分である。すなわち、主の敵たちは、主のみこころに反して主に手をかけることはできなかった。最後になって主が、十字架にかけられるべく引き渡されたのは、単に主が、ご自分が殺されることを望んで、それをお許しになったからにほかならない。


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第4章33―44 カペナウムの会堂で悪霊が追い出される----シモンのしゅうとめが熱病をいやされる----キリストの退隠の習慣----地上にやって来られたキリストの目的

 この箇所で私たちが注意したいのは、悪魔とその手先が有している信仰的な知識の明晰さである。これらの節では、二度それが証明されている。ある所では、「私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です」、という言葉を汚れた悪霊は発した。----別の所では、「あなたこそ神の子です」、という言葉を多くの悪霊どもが発している。----だがこの知識には、信仰も、希望も、愛も伴っていなかった。この知識を有していたのは、みじめな、堕落した者ども、神と人間への猛烈な憎悪に満ちた者どもであった。

 私たちは、キリスト教に関する、きよめられていない知識に用心しよう。それは危険な持ち物であるが、この終わりの日には恐ろしいほどにありふれたものである。私たちは聖書を知的に知り、その内容の正しさに何の疑いもいだいていないかもしれない。その主要な聖句を暗記し、その主要な教理についてよどみなく喋りまくることができるかもしれない。だが、その間ずっと聖書は、私たちの心と、意志と、良心に、何の影響も及ぼしていないことがありえる。私たちは、実は悪霊どもに全然まさっていないことがありえるのである。

 私たちは、頭でキリスト教信仰を知るだけでは決して満足しないようにしよう。私たちは、「そのことは知っています、そのことも知っています」、と云い云いしながら一生を送り、しまいには、そうしたことを口に上せながら地獄に沈んでいくこともありえる。私たちは、自分の知識が生活に実を結んでいるかどうかを確かめよう。罪に関する私たちの知識によって、私たちは罪を憎むようになっているだろうか? キリストに関する知識によって、キリストを信頼し、愛する者となっているだろうか? 神のみこころに関する知識によって、努めてみこころを行なおうとする者になっているだろうか? 御霊の実に関する知識によって、努めて日々のふるまいの中に、そうした実を示そうとする者になっているだろうか? こうした類の知識こそ真に有益なものである。それ以外の信仰的な知識は、最後の審判の日における私たちの罪状を増し加えるだけであろう。

 この箇所で第二に注意したいのは、私たちの主イエス・キリストの全能の力である。私たちは、幾多の病や悪霊が主の命令1つで追い払われているのを見る。主が汚れた霊をしかりつけると、それらは、それらが取り憑いていた不幸な人々から出て行った。主が熱病をしかりつけ、病んだ人々に手を置くと、たちまち彼らの病は消え去り、病人はいやされた。

 これと似た多くの事例が四福音書の中に記されていることは、いやでも目につく。それらはあまりにも頻繁に記されているので、私たちはそれらをぞんざいに読み流してしまい、それぞれの事例が伝えようとしている大きな教訓を忘れてしまいがちである。それらはみな、1つの大いなる真理を私たちの思いに堅く結びつけるためのものにほかならない。すなわち、キリストは、罪によって世にもたらされたあらゆる悪に対する《癒し主》として任命されている、ということである。キリストこそ、悪魔が人類にもたらした、魂を滅ぼすすべての病害に対する真の解毒剤であり、治療法なのである。キリストは、アダムのあらゆる子らが、健やかになりたければ絶対に赴かなくてはならない、万人の医者である。キリストにこそ、いのちと、健康と、自由がある。これは、福音書中のあらゆるあわれみの奇蹟によって教えられるべく定められ、指定された壮大な教理である。そうした1つ1つの奇蹟は、福音の根底に横たわっている、この大いなる真理をはっきりと証言しているのである。人間性のあらゆる欠けを完全に満たすことのできるキリストの能力こそ、キリスト教の礎石そのものである。一言で云えば、キリストは「すべて」なのである(コロ3:11)。いかなる奇蹟を学ぶ際にも、それによって、この真理が心に深々と刻み込まれるようにしよう。

 これらの節で第三に注意したいのは、私たちの主には、時たま世間の注視を逃れて、人気のない場所に退隠する習慣があった、ということである。ここには、多くの病人をいやし、多くの悪霊どもを追い出した後で、主が「寂しい所に出て行かれた」、と記されている。そのようにした主の目的は、福音書の別の箇所と比較すると明らかである。主はご自分の働きを一時の間わきに置いて、天におられる御父と交わりを保ち、祈っていたのである。主は、聖く、罪のない人間性を有していたが、それは恵みの手段をないがしろにすることによってではなく、定期的に用いることによって罪なく保たれていた性質であった。

 これは、恵みにおいて成長し、神のそば近くを歩きたいと願うすべての人々が従ってよい模範である。私たちは、個人的な瞑想と、ひとり神と過ごすための時間を作らなければならない。毎日祈り、聖書を読むだけ----また定期的に福音を聴き、主の晩餐を受けるだけ----で満足していてはならない。それらはみな良いことである。しかし、それ以上のことが必要である。私たちは、ひとりきりで自己吟味と、神の事がらについて瞑想する特別の時期を取り分けるべきである。一年にどのくらいこの慣行を行なおうとすべきかは、それぞれのキリスト者が自分で判断しなくてはならない。しかし、この慣行が最も望ましいものであることは、聖書からも経験からも明らかであると思われる。私たちの生きているのは、慌ただしくせわしない時代である。毎日の取引と絶え間ない仕事によって、多くの人々は四六時中目の回るような思いにさせられており、魂には大きな危険が伴っている。このような、時折この世の務めから身を退ける習慣をないがしろにすることこそ、おそらくは、キリストの御国の進展に恥辱を招くような、多くの言行不一致や信仰後退の原因であろう。私たちは、行なわなくてはならない働きが多ければ多いほど、自分の《主人》を見習うべきである。もし主が、そのおびただしい数の労苦のただ中で、時折この世から退隠する時間を見いだせたとしたら、私たちなど、いかにいやまさって多くを見いだせるだろうか? もし《師》がこの慣行を必要とされたとしたら、確かにそれは、その弟子たちにとってはその一千倍も必要である違いない。

 これらの節で最後に注意すべきことは、ご自分が世に来られた目的の1つについて、私たちの主がなされた宣言である。主は、「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから」、と云われたと記されている。

 このような表現は、時として宣教に反対してなされる愚かしい評言を永遠に沈黙させるべきである。永遠の神の御子が説教者の職務を引き受けたという事実だけとってみても私たちは、説教が最も価値ある恵みの手段の1つであると確信してしかるべきである。一部の人々がしているように、説教のことを、公の祈祷を読み上げたり、礼典を執行したりすることよりも一段劣ったものであるかのように語るのは、いかに控えめに云っても、聖書に対する無知をさらけ出しているとしか云えない。私たちの主のご生涯の中でも特に瞠目すべきことに、主は、ほとんど絶え間なく説教していたにもかかわらず、一度もだれかにバプテスマを授けたとは記されていないのである。この点におけるヨハネの証言は明確である。「イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく」(ヨハ4:2)。

 私たちは説教を軽蔑しないように用心しよう。教会のいかなる時代においても説教は、罪人を覚醒させ、聖徒たちの徳を建てるために神がお定めになった主要な道具であった。説教がほとんど、あるいは全くなされていなかった時代の教会では、ほとんど、あるいは全く善が施されていなかった。私たちは、祈り心と、畏敬を伴った心持ちで説教を聞くようにし、それが、地上におられた際のキリストご自身のお用いになった手段であったことを思い出すようにしよう。また、これも重要なこととして、神のことばの忠実や説教者が途切れなく与えられるように、日々祈るようにしよう。会衆の状態および教会の状態は、常に講壇の状態に応じて、良くも悪くもなるからである。

注記. ルカ4:22-32

33節----[汚れた悪霊] この表現は、福音書の中にしばしば出てくる。それはおそらく、1つのすさまじい真理を教えようとしてのものである。すなわち、第七戒の違反としての不潔好意は、サタンがことのほか力を注いで鼓舞しつつある行ないだ、ということである。さらにまたそれが私たちに教えているかもしれないのは、サタンに憑依されるよう引き渡されたのしは、しばしば、性的に不純で不潔な罪に特に耽溺してきた人々であった、ということである。

34節----[いったい私たちに何をしようというのです。] このように翻訳された言葉は、私たちの主がガリラヤのカナで結婚式が開かれた際に、ご自分の母に対して用いたと記されているのと同じ表現である(ヨハ2:4)。こうした言葉に叱責の意が込められているという結論を避けるのは不可能であると思われる。

35節----[黙れ。] このように翻訳された言葉は、字義通りには、「くつこを掛ける」、という意味である(Iコリ9:9; Iテモ5:18)。これは、私たちの主が波立つ湖水に向かって語りかけたのと同じ表現であり(マコ4:39)、そこでは、「静まれ」、と訳されている。

[人々の真中で、その人を投げ倒して] こうした表現を初めとする、福音書中の数々の表現を見ると、サタンによって憑依されることが、通常の精神異常や、癲癇(てんかん)や、その他の精神的、あるいは肉体的疾患の形とは性質を異にするものであることは明白である。

36節----[人々はみな驚いて] この言葉をより字義通りに翻訳すると、「驚嘆が全員の上にあった」、となる。この表現は、聖ルカに特有のものの1つであり(ルカ5:9; 使3:10)、超自然的な、あるいは天来の何かを目にすることによって人々の中に生み出される精神状態を特に描写している。

[今のおことばはどうだ。] スコールフィールドによると、これは、「この言葉は何か?」、と翻訳した方がいいという。

37節----[うわさ] こう訳された言葉は、他にはもう二箇所でしか用いられておらず、そこでは「響き」と訳されている。「天から、激しい風が吹いてくるような響きが」(使2:2)。「ラッパの響き」(ヘブ12:19)。

38節----[シモンのしゅうとめが] ここで丹念に注意すべきことは、使徒シモン・ペテロは既婚男性だったということである。聖職者の独身制に関するローマカトリック教の教理は、聖書のどこを見ても支持されていない。

39節----[その枕もとに来て] こう訳された言葉は、より普通には「やって来て」、「そこにいて」、「そばに立って」、と翻訳されている。ルカ2:9, 28; 使22:20; 23:11。この箇所は、このように翻訳された唯一の箇所である。

[彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。] 私たちの主のいやしの完全さはこの表現によって示されている。よく知られているように、熱病にかかった人は、たとえ回復期に入り、危険を脱したとしても、衰弱のあまり、ちょっとした労働にも耐えられないものである。


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