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第3章1―6 私たちの主が地上で伝道活動を開始した際の時代----バプテスマのヨハネの宣教

 これらの節が描写しているのは、キリストの福音の発端である。それはバプテスマのヨハネの説教によって始まった。ユダヤ人は決して、メシヤが来たときには何の前ぶれも備えもなかった、などとは云えなかった。メシヤは、恵み深くも、ご自分の前に先触れを出され、その伝道活動によって、国中の注意がかき立てられたのである。

 この箇所で第一に注意したいのは、キリストの福音が世にもたらされた際の、時代の邪悪さである。この章の冒頭の数節には、バプテスマのヨハネの伝道活動が開始されたとき、地上を治めていた支配者や統治者たちの名前が列挙されている。これは陰鬱な名簿であり、多くの教えに満ちている。この中にある名前のうち、その邪悪さで名を売っていないものはほぼ1つもない。テベリオや、ポンテオ・ピラトや、ヘロデや、その兄弟や、アンナスや、カヤパについて、私たちは悪以外にほとんど、あるいは全く何も知っていない。地は悪者の手にゆだねられていたように思われる(ヨブ9:24)。このような者らが支配者であるとき、民衆はいかなる者たちであっただろうか?----これこそ、キリストの先触れが宣教を開始するように任命されたときの状勢であった。これこそ、キリストの教会の最初の土台が持ち出され、据えられたときの時勢であった。まことに私たちはこう云えるであろう。神の道は私たちの道とは異なる、と。

 私たちは、神の真理の進展にとって、いかに先行きが暗く、不都合なものと思われても、絶望しないようにしよう。物事が全く望みのないように見える、まさにそのときに、神は大いなる解放を備えつつあるかもしれない。サタンの王国が凱歌を挙げているかに見える、まさにそのときに、「小さな石が人手によらずに切り出され」*、それを粉々に打ち砕こうとしているかもしれない。最も暗い時間こそ、しばしば、最も朝が間近に迫っている時なのである。

 私たちは、時代の邪悪さゆえに、あるいは私たちの敵の数や力ゆえに、いかなる神のわざにも手を抜かないように用心しよう。「風を警戒している人は種を蒔かない。雲を見ている者は刈り入れをしない」(伝11:4)。私たちは働き続け、天からの助けが最も必要なときにやって来ると信じていよう。ローマ皇帝と、無知な祭司たちが、その手にすべてを掌握しているように思えた、まさにその時に、神の小羊はナザレから出て来て、その御国の端緒を開こうとしておられた。神は、一度なさったことを、もう一度行なうことがおできになる。またたくまに神は、ご自分の教会の真夜中を、真昼の輝きに転ずることがおできになる。

 この箇所で第二に注意したいのは、バプテスマのヨハネの伝道活動への召しについて、聖ルカが何と述べているかである。ここにはこう記されている。「神のことばが……ザカリヤの子ヨハネに下った」。彼は、神からの特別な召命を受けて、宣教とバプテスマを始めた。彼の心には1つの使信が天から送られ、その使信に駆られて彼は、その驚嘆すべき働きに着手したのである。

 この記述には、福音のすべての教役者の職務に大きな光を投ずるものがある。教役者の職務とは、いかなる人も、人間による外的な召命を受けるだけでなく、神による内的な召命を受けない限り、決して引き受ける権利を持たないものである。むろん私たちには、天からの幻や啓示を期待すべき権利は何もない。自分には御霊の特別な賜物があると狂信的に主張するようなことは、常に押しとどめられ、思いとどまらせなくてはならない。しかし、人が教役者の働きに携わる前には、必ず内的な召しがなくてはならない。神のことばが、バプテスマのヨハネに下ったのと同じくらい現実に、また真実に、その人に「下る」のでなくては、「みことばに携わる」務めに就くことがあってはならない。つまり、その人は、曇りない良心をもって、自分は教役者の職務に就くよう「内的に聖霊に動かされた」、と告白できなくてはならない。叙任を受けるために前に進み出てきた際に、こう云うことができない人は、大きな罪を犯しつつあるのであり、遣わされもしないのに走ろうとしているのである。

 私たちは、私たちの教会に、神から真に召された教役者以外、いかなる教役者もいなくなることを、日々の祈りの一部としよう。回心していない教役者は、教会にとって大きな害であり、重荷である。人は、自分が一度も味わったことのない真理について、いかにして語れようか? 自分が一度も信仰によって見たことのない救い主、自分の魂のために一度もつかんだことのない救い主について、いかにして証言できようか? 神の心にかなう牧師とは、神のことばが下った人にほかならない。その人は確信をもって走る。伝えるべき知らせを有しているからである。その人は大胆に語る。遣わされているからである。

 この箇所で最後に注意したいのは、真の悔い改めと赦しとの間にある密接な関係である。ここにはバプテスマのヨハネが、「罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた」、と記されている。この表現の平易な意味は、ヨハネが、悔い改めのしるしとしてバプテスマを受ける必要があると説いたということ、また彼の聴衆に、罪を悔い改めない限り彼らの罪は赦されないと説いたということである。

 私たちが注意深く心に留めておかなくてはならないのは、いかなる悔い改めも罪を贖うことはできない、ということである。キリストの血潮、それ以外の何物も、人の魂から罪を洗い流すことはできない。どれほど多くの悔い改めを積んでも、神の御目に私たちを義と認めさせることは決してできない。「私たちが神の御前で義とみなされるのは、ただ主イエス・キリストのゆえであって、私たち自身のいかなる行ない、あるいは功績のゆえでもない」。これを明確に理解しておくことは、きわめて重要である。この件について誤解することで、人々が自分の魂に招き寄せる苦難は、到底口で云い表わせるものではない。

 しかし、こうしたことすべてを云いつつも、私たちが注意深く覚えておかなくてはならないのは、悔い改めなくして、いかなる魂も決して救われない、ということである。私たちは自分のもろもろの罪を知り、それらを嘆き、それらを忌み嫌わなくてはならず、さもなければ決して天国に入ることはない。ここに功績に値するものは何もない。それは、私たちの救済の代価のいかなる部分にもならない。私たちの救いは、徹頭徹尾、全く恵みから出ている。しかし、それでも、この大きな事実は残る。すなわち、救われた魂は常に悔い改めた魂であり、救いに至るキリストへの信仰と、神に対する真の悔い改めとは、決して2つに切り離されたものとして見いだされることはない、ということである。これは偉大な真理であり、決して忘れてはならない真理である。

 私たちは自分自身、悔い改めているだろうか? 結局のところ、これこそ私たちに直に関わる問題である。私たちは、必ず来る御怒りから救い出されるため、イエスのもとに逃れてきているだろうか? 私たちは、砕かれた、悔いた心について、また、徹底的な罪への憎しみについて、何か知っているだろうか? 私たちは、「私は信じています」、と云うのと同じように、「私は悔い改めています」、と云えるだろうか? もし云えないとするなら、私たちは、自分の罪がすでに赦されているなどという徒な考えで、自分の思いを欺かないようにしよう。こう書かれている。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(ルカ13:3)。

注記. ルカ3:1-6

1節----[イツリヤ、テラコニテ、アビレネ] これらは、パレスチナの北部と北東部に位置する地方であった。

2節----[アンナスとカヤパが大祭司であった] 聖書から私たちの知るところ、厳密に云えば、同時に二人の大祭司が立つことはありえなかった。この職務は、イスラエルの最良の時期には、一人の人物によって占められる、終身職であった。しかし、私たちの主が地上でその伝道活動を行なわれた時代、大祭司職については非常に変則的なことがなされていたように思われる。また、おそらくローマ人は政治的な理由から、大祭司たちの中のある者らを在位中に退位させたであろう。その結果、現職の大祭司が存命している間から、かつてその職に就いたことのある者たちがしばしば並立していたのである。アンナスは、カヤパにとっては義理の父であった(ヨハ18:13)。

5節----[すべての谷はうずめられ、云々] この箇所のこうした云い回し、および類似の表現は、確かに比喩的に解釈されるべきものに違いない。文字通りに山々を低めたり、谷々をうずめたりすることが、ここで意味されているのではない。この預言の意味は明らかに、王の行進の前に立ちはだかる山々や谷々のように大きな幾多の困難や障害も、キリストの福音の進展の前には屈服させられる、ということである。

6節----[あらゆる人が、云々] これは、いまだ完全には実現していない預言である。これが完成を迎えるのは、再臨の時、キリストの御国が完全に確立し、小さな者から大きな者に至るまで、すべての者が主を知るようになるときのことである。これは、旧約聖書の預言者たちが、キリストの2つの来臨を一気に語っている、多くの事例の1つにすぎない。彼らはしばしば、キリストの二度目の現われにおける完全な勝利のことを語る一方で、その最初の現われにおける部分的な勝利をも、それと同時に予言しているのである。ある者らは、福音が最初に宣べ伝えられるや否や、「大いなる救いを見る」ことを始めた。1つの小さな群れがたちまち取り出された。だが最終的には、すべての者が神の救いを、小さな者から大きな者に至るまで見るようになるのである。


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第3章7―14 バプテスマのヨハネ----彼がその話を聞きに来た者たちにいかに語りかけたか

 これらの節に記されているのは、バプテスマのヨハネが行なっていた伝道活動の実例である。この聖書箇所は、いかなるキリスト者にとっても、特に興趣尽きざるものであろう。ヨハネがユダヤ人たちに対して、一時的にせよ、途方もない影響を及ぼしたことは福音書の数々の記述から明らかに見てとれる。私たちの主がヨハネについて口にされた尋常ならざる証言、すなわち、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません」、とのことばは、聖書を読むあらゆる人々によく知られている。では、ヨハネの伝道活動はいかなる性格をしていたのだろうか? この問いに対して、私たちの目の前にある章は、実質的な答えを返しているのである。

 私たちが第一に注目したいのは、バプテスマを受けるためにやって来た群衆に向かって、ヨハネが語りかけた際の、聖なる大胆さである。彼は彼らに、「まむしのすえたち」、と語りかけている。自分の回りで信仰を告白していた人々の腐敗と偽善を見てとった彼は、彼らの実体を示すような言葉遣いをしている。彼は、自分の人気に酔いしれてはいなかった。自分の言葉がだれを怒らせることになろうと一向に気にかけなかった。自分の前にしていた人々の霊的な病が絶望的な宿痾であり、絶望的な病には強烈な治療法が必要であることを彼は知っていたのである。

 この終わりの時代に、バプテスマのヨハネのように歯に衣着せぬ教職者がもっと多くいたなら、キリストの教会にとって良いことであろう。激しい言葉遣いに対する病的な嫌悪、----人を怒らせることに対する過度の恐れ、----直接的で歯に衣着せない物云いへの徹底的な尻込み、----不幸にしてこれらは、現代のあまりにも多くのキリスト教の講壇が特徴とするところである。むろん、個人攻撃や、冷酷な言葉遣いは常に非難されるべきである。しかし、回心していない人々におもねり、彼らの悪徳を一切口にしなかったり、永遠の断罪に値するような罪を物柔らかにしか形容しないのは、何の愛でもない。キリスト教の説教者たちがあまりにもしばしば忘れている2つの聖句がある。その1つにはこう記されている。「みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です」。もう1つにはこう記されている。「もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません」(ルカ6:26; ガラ1:10)。

 第二に私たちが注目したいのは、聴衆に向かってヨハネが、いかに率直に地獄と危険について語っているか、ということである。彼は彼らに、やがて「必ず来る御怒り」がある、と告げている。彼は神の審きの「斧」について、また、実を結ばない木が「火」に投げ込まれることについて語っている。

 地獄という主題は、常に人間の性質にとって癇に障るものである。この主題について長々と語る教職者は、自分が人から、粗野で、極端で、冷酷で、狭量な人間にみなされることを覚悟しなくてはならない。人々は、自分の「気に入ること」を聞かされ、平安について語られることを好むが、危険については聞きたがらないものである(イザ30:10)。しかしこの主題は、魂に善を施したいと願うのであれば、決して押し隠しておいてはならない主題である。これは、私たちの主イエス・キリストが、その公の教えの中で、幾度となく持ち出した主題である。あの愛に満ちた救い主、天国への道をあれほど優しく語られたお方が、地獄への道についても、率直きわまりない言葉遣いを用いておられるのである。

 私たちは、書かれていることを越えて賢くならないよう用心しよう。聖書そのものを越えて慈悲深くならないよう用心しよう。バプテスマのヨハネの言葉遣いを、私たちの心に深々と刻みつけよう。悔い改めない者には「必ず来る御怒り」があるのだ、人は救われることがありうるのと同じくらい滅びることもありうるのだ、自分はそう堅く信じている。そう公言することを、私たちは決して恥じないようにしよう。この主題について口をつぐむのは、人々の魂を決定的に裏切ることである。それは、彼らをますますよこしまな道に固執させ、彼らの思いに、悪魔の昔ながらの惑わし、「あなたがたは決して死にません」、をはぐくむことにしかならない。私たちにとって最良の友である教職者とは、私たちの危険について正直に語り、バプテスマのヨハネのように、「必ず来る御怒りをのがれよ」、と警告してくれる教職者である。心配すべき理由が本当にあると悟らない限り、人は決して逃れようとはしないであろう。地獄に落ち込む危険があると確信しない限り、決して天国を求めはしないであろう。地獄についての言葉が一切口にされないようなキリスト教信仰は、バプテスマのヨハネや、私たちの主イエスや、その使徒たちが信じていた信仰ではない。

 第三に注目したいのは、いかにヨハネが、生活における実を伴わないような悔い改めのむなしさを暴露しているか、ということである。彼は、バプテスマを受けにやって来た群衆に向かって、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」、と云った。彼は彼らに、「良い実を結ばない木は、みな切り倒される」、と告げている。

 これは、私たちのキリスト教の中で常に目立った位置を占めるべき真理である。このことは、私たちの思いにおいて、いかに強く印象づけられても決して十分ではない。信仰的な語り口や告白は、そこに信仰的な実践と行ないがない限り、全く無価値である。いくら口先で、自分は悔い改めました、と云っていても、それと同時に、生活において悔い改めていなければ、それはむなしい。否、むなしい以下のことである。それは次第に私たちの良心を無感覚にし、私たちの心をかたくなにするであろう。私は自分の罪を遺憾に思っています、と云っていても、本当に遺憾に思っていることを、それを捨てることによって示さない限り、それは偽善でしかない。キリスト教信仰においては、口先だけの言葉に意味などない。実際に何をしているかが問題である。ソロモンは云う。「おしゃべりは欠損を招くだけだ」、と(箴14:23)。

 第四に注目したいのは、敬虔な人々と結びついていれば魂が救われる、というよくある考え方に、ヨハネがいかなる一撃を加えているか、ということである。彼はユダヤ人に告げている。「『われわれの先祖はアブラハムだ。』などと心の中で言い始めてはいけません。よく言っておくが、神は、こんな石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」。

 世界のいかなる場所においても、こうした考え方がいかに強固に人の心を支配していることか。これは、私たちの堕落した、腐敗した状態を痛ましいほど証明するものである。教会のいかなる時代にも、自分は敬虔な人々と結びついているから神に受け入れられるはずだ、と信ずるおびただしい数の人々が常にいた。血のつながりや教会員籍によって聖い人々と結ばれているがゆえに自分も救われるだろうという、この盲目的な迷妄の中で、おびただしい数の人々が生き、死んできた。

 だが救いに至るキリスト教信仰は個人的なものである。それを私たちの大原則としよう。キリスト教信仰は、ひとりひとりの魂とキリストとの間の問題である。最後の審判の日には、私たちがルターの教会に属しているだの、カルヴァンの教会に属しているだの、クランマーの、ノックスの、オーウェンの、ウェスレーの、ホイットフィールドの教会に属しているだのといったことは、何の役にも立たない。私たちは、こうした聖なる人々と同じ信仰を持っていただろうか? 私たちは、彼らが信じていたように信じてきただろうか? また、彼らが生きようと努力したように生き、彼らがキリストに従ったようにキリストに従ってきただろうか? こうしたことこそ、私たちの救いを左右する唯一の点であろう。ある人の血管にアブラハムと同じ血が流れているとしても、もしもその人がアブラハムの信仰を有しておらず、アブラハムのわざを行なっていなければ、決して救われることはない。

 この箇所で最後に注目したいのは、バプテスマを受けるためにやって来た種々の階層の人々の良心に向かって、いかに心探るような基準をヨハネがつきつけ、その真摯さを試しているか、ということである。彼は悔い改めの告白をしたひとりびとりに向かって、その人に特にからみつく罪を断ち切ることを始めるよう命じた。利己的な群衆は、公共のための博愛を示し合わなくてはならない。取税人たちは、「決められたもの以上には、何も取り立てては」ならない。兵士たちは、「だれからも、力ずくで金をゆすったりせず、自分の給料で満足し」なければならない。決して彼は、そのようにすることで、彼らが自分の罪を贖い、神と和解することができるなどと云っているのではない。むしろ彼が意味しているのは、そのようにすることで、彼らは自分の悔い改めが真摯なものであることを証明することになる、ということであった。

 この箇所を後にするにあたり私たちは、このようなしかたで魂を----特に、キリスト教信仰の告白を行ない始めた人々の魂を----取り扱う賢明さについて深く確信しよう。何にもまして私たちがここで見てとりたいのは、自分自身の心を試す正しい方法である。生来の気質により自分が全くそそられないような種々の罪を糾弾するだけで満足していてはならない。そうしていながら私たちが、それとは性格を異にする他の罪について手柔らかに扱っているとしたら無意味である。私たちは、自分に固有の腐敗を見つけ出そう。自分自身にからみついている罪を知るようにしよう。それらに向かって主たる努力を傾けよう。それらと絶えざる戦いを遂行しよう。金持ちは金持ち特有の罪を断ち切り、貧乏人は貧乏人特有の罪を立ち切るがいい。若者は若い時の罪を捨て去り、老人は年齢に特有の罪を捨て去るがいい。これこそ、私たちが最初に自分の魂のことを案じ始めたときに、自分の真剣さを証明する第一歩である。私たちには実質が伴っているだろうか? 私たちは真摯だろうか? ならば、自らのうちを省みて、内側を見つめることによって始めよう。

注記.ルカ3:7-14

8節----[実を結びなさい] 一言述べておく価値があることだが、「結ぶ」と翻訳された言葉は、聖ヨハネが「罪を犯している」こと、「義を行なう」ことについて語る際に用いているのと同じ言葉である(Iヨハ3:4、7)。その箇所とこの箇所のいずれにおいても、暗示されているのは、継続的な習慣のことであって、単独の行為ではない。

[われわれの先祖はアブラハムだ] 聖ルカの福音書の注解書を著したスペイン人ステラがこの表現について記している箇所は、引用に値するものである。----「こうしたユダヤ人たちを模倣している多くの修道僧がいる。そうした者らは、彼らが、『われわれの先祖はアブラハムだ』、と云ったのと全く同じように、『われわれの先祖はベネディクトゥスだ。アウグスティヌスだ。ヒエローニュムスだ。フランチェスコだ。ドミニクスだ』、と云うのである。彼らは他の人々に、自分の修道会の創設者らの驚嘆すべき業績を物語っては、はなばなしい賞賛の言葉でそれをほめたたえる。彼らは云う。『われわれの修道会は、何と多くの聖列に加えられた聖人を輩出したことか。何と多くの教皇、何と多くの枢機卿、何と多くの司教、何と多くの教師たちが出たことか』、と。そうした人々のことを彼らは喜びとし、うぬぼれきって自慢しているが、彼ら自身は、創設者らのまことにすぐれた性格から退化し、不義と放縦な不道徳にふけっているのである。当然こうした者らすべてに対して私たちは、キリストがユダヤ人に向かって云ったのと同じことを云えるであろう。『あなたがたがアブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行ないなさい』」。

[神は、こんな石ころからでも、云々] この表現は単に次のような意味にほかならない。「神は、ご自分を賛美する民をなくすはずがないので、われわれを切り捨てたり、われわれを救わないなどということはない、などと考えてはならない。たとえあなたがたが全員が切り捨てられたとしても、神は、こうした石ころからでさえ、真の信仰者たちからなる、ご自分のための一族を起こすことができるのだ」。ここには、異邦人の召命が明白に暗示されている。

14節----[私たちはどうすればよいのでしょう] 英語訳の聖書は、この箇所のギリシャ語原文の意味を十分に伝えているとは到底云えない。これはむしろ、「それでは私たちは、私たちは何をすればいいのですか?」、ということである。

[力ずくで金をゆすったり] このように翻訳された言葉は、新約聖書中の他のいかなる箇所にも見られない。これは、「暴力的なふるまいによって、恐れさせる、あるいは震えさせる」、という意味である。

[無実の者を責めたり] この言葉が見いだされるのは、他には一箇所しかなく、そこでは、「だまし取った」、と訳されている。それは、ザアカイがその回心の後で行なった驚くべき告白の中に見られる(ルカ19:8)。

 注意深く心に留めておくべきことだが、バプテスマのヨハネは一言も、取税人や兵士という職務が神の御目にとって不法に当たるというようなことを云っていない。


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第3章15―20 バプテスマのヨハネによる伝道活動の成果----キリストについての彼の証言----彼の投獄

 私たちがこれらの節から第一に学びたいのは、忠実な伝道活動の成果の1つは、それが人を考えさせることにある、ということである。ここには、バプテスマのヨハネの聴衆のようすが記されている。「民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかするとこの方がキリストではあるまいか、と考えていた」。

 真のキリスト教信仰が、ある教区で、ある集会で、あるいは、ある家庭内で大いに伸展するのは、人々が考え出すときにほかならない。霊的な事がらに考えを巡らさないことこそ、未回心の人々の1つの大きな特徴である。彼らが福音を好んでいるか嫌っているかは、はっきり云えないことが多い。しかし彼らは、福音を全く考慮に入れようとしない。彼らは決して「考えない」(イザ1:3 <英欽定訳>)。

 信仰的なことを考えてみようという思いが、未回心の人の精神に浮かび上がってくるのを見るときには、私たちは常に神に感謝しよう。考えを巡らすことこそ、回心への大道である。キリストの真理には、真面目な吟味を恐れる理由は何1つない。存分に調べ上げてもらいたい。キリスト教のいかなる主張をも十分つぶさに取り調べてほしい。キリスト教信仰は、人の心と良心のあらゆる求めを満たすのに、最適のものである。このことが認められていない理由は、多くの場合、それが知られていないからにほかならない。疑いもなく、考えるということ自体は、信仰でも悔い改めでもない。しかしそれは、常に明るい徴候である。福音を聴く者らが「心の中で考える」ことを始めるとき、私たちは神の御名をたたえ、励まされてしかるべきである。

 第二にこれらの節から学びたいのは、忠実な教職者は常にキリストを高く掲げる、ということである。ここには、自分の聴衆がいかなる思いをいだいているかを見てとったヨハネが、彼らに、自分自身よりもはるかに偉大な、来たるべきお方について告げたことが記されている。彼は、人々が今にも彼に与えようとしているかに見えた栄誉を拒絶し、「手に箕を持って」おられる方、神の小羊、メシヤへと、彼らを差し向けている。

 このようなふるまいこそ、常に、真の「神の人」の特徴となるものである。その人は、自分の神である主人に属するものが何1つ自分に帰されたり、自分の職務に帰されたりすることを許さないであろう。その人は、聖パウロとともに云うであろう。「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです」、と(IIコリ4:5)。不敬虔な者のために死んでよみがえられたキリストを宣べ伝えること、----罪人を救うキリストの愛と力を告げ知らせること、----これこそ、その人の伝道活動の主眼となっているはずである。「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません」。これこそ、その人のあらゆる説教の支配原理であろう。その人は、自分自身の名前が忘れ去られても、十字架につけられたキリストが高く揚げられる限り満足しているであろう。

 あなたは、ある教職者が信仰的に健全かどうか、また教師として信頼に値するかどうか知りたいだろうか? ならば、1つの単純な問いを投げかけてみるだけでいい。キリストはその人の説教のどこにいるだろうか?----私たちは、自分の出席している集会の説教から益を受けているかどうか知りたいだろうか? ではこう自問してみよう。その説教の結果、私たちはキリストをより偉大なお方として尊重するようになっているだろうか? 私たちに真に善を施す教職者は、私たちの生きる限り、年ごとに、キリストについてより多く私たちに考えさせるはずである。

 第三にこれらの節から学びたいのは、主イエスと、その教役者たちの間には、それがいかにすぐれた聖い教役者であっても、本質的な相違がある、ということである。これは、バプテスマのヨハネの厳粛な言葉のうちに示されている。----「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。……その方は、あなたがたに聖霊……のバプテスマをお授けになります」。

 人間は、叙任されれば、キリスト教の外的な儀式を執行することができる。また神が、ご自身でお定めになった手段を恵み深く祝福してくださることを、祈りのうちに期待することができる。しかし人間は、自分が仕えている相手の人々の心を読むことはできない。その人は、彼らの耳に忠実に福音を宣べ伝えることはできるが、彼らの良心にそれを受け入れさせることはできない。その人は、彼らの額に洗礼の水を滴らせることはできるが、彼らの内なる性質をきよめることはできない。その人は、主の晩餐のパンと葡萄酒を彼らの手に渡すことはできるが、彼らが信仰によってキリストのからだと血を食べるようにさせることはできない。その人も、ある程度のことまではできるが、それには限界がある。人間は、いかなる叙階を、いかに厳粛なしかたで授けられようとも、心を変える力を受けることはできない。それは、教会の偉大なかしらなるキリストだけが、聖霊の力によって行なうことができる。それを行なうのはキリストに特有の職務であり、その職務をキリストはいかなる人の子にも委任することはない。

 私たちは、キリストの恵みの力が自分の魂の上に及ぼされるのを経験によって味わうまで、決して安心しないようにしよう! 私たちは水によるバプテスマは受けている。しかし、聖霊のバプテスマも受けているだろうか?----私たちの名前は受洗者名簿に記載されている。しかし、小羊のいのちの書にも記載されているだろうか?----私たちは目に見える教会の一員である。しかし、キリストだけをかしらとする、あの神秘的なからだの一部でもあるだろうか?----これらはみな、キリストだけがお授けになる特権であり、救われたいと願うすべての者は、個人的にキリストにこうした特権を願い求めなくてはならない。人間がそれらを与えることはできない。これらはキリストの御手の中に貯えられている宝である。私たちは、信仰と祈りによって、キリストにそれらを乞い求めなくてはならない。求めることは無駄ではないと信じつつ求めなくてはならない。

 第四にこれらの節から学びたいのは、キリストが再び現われる際に、目に見えるご自分の教会にもたらされる変化である。キリストの先触れの比喩的な言葉には、こう記されている。「その方は……脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます」。

 目に見える教会は、今は混合体である。信仰者と不信者、聖い者と聖くない者、回心者と未回心者が、今はあらゆる会衆の中に混じり合い、しばしば隣り合わせで座っている。人間の力では決して彼らを分離することはできない。まがいものの告白はしばしば真の告白に酷似して見え、恵みはしばしば非常に微弱になり、多くの場合その性格を正しく見きわめることが不可能になる。麦と殻は、キリストがお戻りになるまで共存するであろう。

 しかし、最後の審判の日には、すさまじい分離がなされるであろう。《王の王》の過たぬ審判によって、ついに麦は殻から分離され、両者は永遠に分かたれることになる。義人は幸福と安全に満ちた場所に集められる。悪人は恥辱と永遠の不面目の中に投げ捨てられる。その大いなるふるい分けの日に、あらゆる者が自分自身の場所に向かうことになる。

 願わくは私たちがしばしばその日を待ち望み、主から審かれないように自分自身を審いておくように。願わくは私たちが、ますます熱心に、自分の召されたことと選ばれたこととを確かなものとし、自分が神の「麦」であることを悟り知るように。脱穀場が「きよめ」られるその日にわかる間違いは、取り返しのつかない間違いとなるであろう。

 最後にこれらの節から学びたいのは、神のしもべたちの報いがしばしばこの世にはない、ということである。聖ルカは、バプテスマのヨハネの伝道活動に関する記述のしめくくりとして、彼のヘロデによる投獄について告げている。その投獄の果てがどうなったかは、新約聖書の他の箇所からわかっている。それは、ついにはヨハネの斬首に終わったのである。

 キリストの真のしもべはみな、自分の報酬が後回しになることに満足しなくてはならない。彼らの良きものはまだ来ていない。彼らは、人から辛い目に遭わされても、何か思いがけないことが起こったかのようにみなしてはならない。キリストを迫害した世は、キリスト者を迫害することをも決してためらわないであろう。「世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません」(Iヨハ3:13)。

 しかし、大いなる《主人》がご自分の民のために天に貯えておられるものは人間の思いを越えたものである。このことを覚えて、私たちは励ましを受けよう。主の聖徒たちが御名のために流した血は、いつの日か、ことごとく数え上げられるであろう。悪人たちの無情さの結果、幾度となく流された涙は、いつの日か、彼らの顔から全く拭い去られるであろう。そしてバプテスマのヨハネが、また真理のために苦しみを受けたすべての者たちが、ついにともに集められるとき、彼らは、天国がすべてを償うということが真実であることを悟るであろう。

注記.ルカ3:15-20

15節----[考えていた] このように翻訳された言葉は、普通は「論じていた」と訳されている。

16節----[私は水であなたがたにバプテスマを授けています] 見落としてならないことだが、ここでバプテスマのヨハネは、決してローマカトリック教徒の著述家たちが云うように、彼のバプテスマとキリスト教のバプテスマとを対比させているのではなく、外的な儀式を執行する単なる人間としての彼の力と、心に影響を及ぼす神の御子なるキリストの力とを対比させているのである。

 私たちは、ヨハネのバプテスマを過小評価しないよう注意しなくてはならない。使徒たちが、ヨハネのバプテスマ以外のバプテスマを受けたという証拠は何1つないのである。キリスト教の教職者によるバプテスマが、「事効的効力(ex opere operato)」をもって恵みを自動的に授けるものであるとか、ヨハネのバプテスマによっては決して恵みが授けられなかったなどと云うのは、聖書からも経験からも証明できないことを云っているにひとしい。ヨハネのバプテスマの価値は、ブレンティウスの説教集のこの章に関する箇所で、きわめて正当に主張されている。シュパンハイムは、この問題全体を見事に論じた上で、ヨハネのバプテスマとキリストのバプテスマの間にある区別は、「本質的なものではなく、付随的なものである」、すなわち、本質に差があるのではなく、偶発的な状況が違っているにすぎない、と結論している。

[火とのバプテスマをお授けになります] この表現の意味ははっきりしておらず、完全に納得のいく説明がなされたことは一度もない。ある人々はこれを、ペンテコステの日における聖霊降臨のことだけに全く限定して考える。その日には、「炎のような分かれた舌が現われて」、その場にいたひとりひとりの上にとどまったからである(使2:3)。他の人々はこれを、人を回心させる聖霊のお働きだけに全く限定して考える。それは火が黄金を純化するように、心をきよめて精錬する働きである。だが、おそらくここには、この双方の見解が含まれているであろう。

19節----[さて国主ヘロデは、云々] 聖ルカが、その福音書のこの部分、すなわち、実際の出来事が起こる前にヨハネの投獄について言及していることは、彼が「順序を立てて書いて」いく流儀の、目立った一例である(ルカ1:3)。この箇所における彼の主題はバプテスマのヨハネとその伝道活動であり、それゆえ彼はこの機会に、その伝道活動がいかにして幕を閉じたかを、別の主題に移る前に説明しているのである。


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第3章21―38 キリストのバプテスマ----処女マリヤ(ヘリの娘)の家系がアダムまで辿られる

 私たちが前にしている箇所から見てとれるのは、主イエスがバプテスマに与えている高い栄誉である。私たちは、バプテスマのヨハネのもとにやって来た他の人々の間に、世の救い主がおられ、「バプテスマをお受けに」なったことを知るのである。

 神の御子がお用いになり、後でご自分の全教会に用いるよう命ぜられたような儀式は、常にその民から格別な敬意を受けてしかるべきである。バプテスマは、キリストが受けられたものである以上、どうでもいいようなものであるはずがない。もしそれが単なる外的な形式でしかなく、何の祝福も伝えないようなものだったとしたら、キリストの教会が、バプテスマを用いるように命ぜられることなど決してなかったであろう。

 ほとんど云うまでもないことだが、バプテスマという主題に関しては、ありとあらゆる種類の過ちがうずたかく積み重ねられてきた。ある人々はそれを偶像視し、それを、聖書の中で割り当てられている地位を越えてあがめている。ある人々はそれをおとしめ、その栄誉を奪い、それがキリストご自身によって定められたことをほとんど忘れ果てたかのように見える。ある人々は、その用途を狭く限定して考え、人が成人して、自分が回心したことを完全に証明できるまでは、だれにもバプテスマを授けようとしない。ある人々は、バプテスマの水に魔術的な力があると考え、宣教師たちが異教国に赴き、だれかれなしにバプテスマを授けることを望ましく思い、いかに無知な異教徒もバプテスマによって善を施されるに違いないと信じている。ことによると、キリスト教信仰において、これほどキリスト者が正しい判断と健全な精神を祈り求める必要のある主題はないかもしれない。

 とりあえずここでは、一般的な原則をはっきり主張するだけでよしとしよう。すなわち、バプテスマとは、私たちの主が、恵み深くもご自分の教会にとって1つの助け、1つの「恵みの手段」となるものとして定められたものであって、正しく、またしかるべく用いられるならば、確かな祝福を与えるとみなせるものである。しかし、決して忘れてならないことだが、神の恵みはいかなる礼典にも縛りつけられておらず、必ずしも水のバプテスマを受けた者が、聖霊のバプテスマを受けるとは限らない。

 この箇所で第二に見てとれるのは、バプテスマの執行と祈りとの間にあるべき密接な関係である。ここで聖ルカが特に告げているように、私たちの主は、バプテスマを受けたとき、「祈って」おられた。

 疑う必要もなく、この事実には大きな教訓がある。それはキリストの教会があまりにもしばしば見過ごしにしてきた教訓である。私たちが教えられるべきこと、それは、神が祝福をお与えになるバプテスマは、祈りの伴ったバプテスマだということである。水を滴らせるだけでは十分ではない。ほむべき三位一体の名を唱えるだけでは足りない。礼典の形式だけでは、いかなる恵みも伝わらない。こうしたことすべての他に、何かがなくてはならない。そこには「信仰による祈り」がなくてはならない。祈りのないバプテスマなど、確かに神の祝福を期待する権利のないバプテスマであると云ってよかろう。

 バプテスマという礼典が、これほど僅かな実しか結んでいないように見受けられるのはなぜだろうか? 毎年おびただしい数の人々がバプテスマを受けていながら、そこから益を受け取ったという毛ほどの証拠も示していないのは、いかなる理由によるのだろうか? こうした問いに対する答えは、単純簡明なものである。圧倒的多数のバプテスマ式において、そこには司式をしている教職者の祈り以外に、何の祈りもない。自分の子どもたちを洗礼盤のところに連れて来る両親は、自分のしていることに何の意味があるか、まるで悟っていない。そこに立ち、子どもに代わって答えている名親たちは、明らかに自分の出席している儀式がいかなる性格のものか全くわかっておらず、それをただの形式的なこととして行なっている。このようなバプテスマが神によって祝福されると期待すべき、いかなる理由があるだろうか? 全くない! 皆無である! そのようなバプテスマは不毛な結果しか生まなくて当然である。それは、キリストの心にかなうバプテスマではない。この重要な主題について、キリスト者たちの目が開かれるように祈ろう。これは、大きな変化が必要とされている主題の1つである。

 これらの節から第三に見てとれるのは、三位一体の教理の尋常ならざる証明である。ここには、神格の3つの位格がみな、一度に協力しあい、行動しているさまが語られている。子なる神は、その地上における伝道活動という大業の着手にあたり、バプテスマを受けておられる。父なる神は、子なる神を、定めの仲保者として厳粛に信任して派遣するにあたり、天から声を発しておられる。聖霊なる神は、「鳩のような形をして」、私たちの主の上に下り、そのようにすることによって、これこそ、「神が御霊を無限に与えられる」お方であることを宣言している(ヨハ3:34)。

 私たちの主が地上で行なわれた伝道活動のこの特定の時点で、このほむべき三位一体の顕現がなされたことには、深い教えと慰めに満ちたものがある。ここで私たちに示されているのは、いかに強大で力強い働き手が、私たちの救済という大いなる務めに携わっているか、ということである。それは、父なる神と、子なる神と、聖霊なる神の共同のみわざなのである。神格の3つの位格すべてが、私たちの魂を地獄から救い出すわざに、等しく関わっておられるのである。そう考えるとき私たちは、いかに心乱れ、失意のうちにあるおりにも、勇気づけられるべきである。そう考えるとき私たちは、いかに世と肉と悪魔との争闘に倦み疲れていても、元気づけられ、励まされるべきである。私たちの魂の敵たちは強大だが、私たちの魂の友はずっと強大である。三一のエホバが総力を傾けて私たちの味方をしておられるのである。「三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝4:12)。

 これらの節から第四に見てとれるのは、神と人の間に仲保者として立つ私たちの主の職務が、いかに素晴らしいしかたで宣言されたか、ということである。主のバプテスマにおいては、天から声が聞こえた。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。これを云うことのできたお方はただひとりである。それは父なる神の御声であった。

 この厳粛なことばには、疑いもなく、深い神秘に満ちたものが多々ある。しかしながら、それに関して1つのことだけは、この上もなく明白である。すなわち、この天来の宣言は、私たちの主イエス・キリストが約束された贖い主、すなわち、神が初めから世に送ると約束しておられたお方であること、また主が人間のために受肉し、犠牲となり、身代わりになったことによって、父なる神が満足し、お喜びになることを確言している、ということである。主において、御父はご自分の聖なる律法の要求が完全に果たされたとみなしておられる。主を通して、御父はあわれな罪深い人間をあわれみのうちに受け入れ、そのもろもろの罪をもはや覚えておられない。

 真のキリスト者はみな、自分の魂をこのことばに基づいて安らがせ、そこから日々の慰めを引き出すようにしよう。私たちの罪や短所は数多く、底が知れない。私たちは自らのうちに何の良きものも見ることができない。しかしもし私たちがイエスを信ずるなら、御父は私たちのうちに、ご自分が豊かにお赦しになれないようなものを何1つ見ることがないのである。御父は私たちを、愛する御子の各器官であるとみなし、御子のゆえに、御父はお喜びになるのである。

 これらの節から最後に見てとれるのは、人間とはいかにはかなく、死に行く被造物か、ということである。私たちがこの章の最後に読むのは、長大な人名の一覧である。そこには、私たちの主がお生まれになった家系が、ダビデやアブラハムを通してアダムまで辿られている。ここにその名が記されている七十五名の人物の多くについて、いかに僅かしかわかっていないことであろう! 彼らはみな私たちと同じく、喜びや悲しみを感じ、希望や恐れをいだき、心労も苦労を味わい、計画を立てたり見込みを探ったりしていた。しかし彼らはみな地上を去り、自分の場所に行ってしまった。そして私たちにも同じことが起こるであろう。私たちもやはり世を去り、すぐにいなくなるであろう。

 神を永遠にほめたたえよう。この死に行く世界にあって私たちは、生きた救い主に頼ることができる。イエスは云っておられる。「わたしは……生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている」。「わたしは、よみがえりです。いのちです」(黙1:18; ヨハ11:25)。私たちの最たる気遣いが、キリストと1つになり、キリストが私たちと1つになることであるようにしよう。主イエスと信仰によって結び合わされた私たちは、やがてよみがえって永遠に生きることになる。第二の死は、私たちの上に何の力も及ぼさない。キリストは云われる。「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」(ヨハ14:19)。

注記.ルカ3:21-38

23節----[およそ三十歳で] 覚えておくべきことだが、この年齢は、レビ人が幕屋で働くことを最初に許される歳であった(民4:3)。

[このヨセフは、ヘリの子、云々] 注意深く聖書を読む人がみなよく知っているように、私たちの主の系図には大きな困難が結びついている。その困難とは、聖ルカが記している系図のダビデとヨセフの間の部分と、聖マタイが記している同じ部分とが、全く食い違っているということにある。アブラハムとダビデの間では、2つの系図は一致している。ダビデとヨセフの間では、2つはほぼ完全に異なっている。この異同は、いかにすれば解消できるだろうか? これは学識者たちが何巻もの書物を著しながら、互いに相手を納得させずにいる問題である。ここでは、手短で簡潔な注釈だけで十分に違いない。この主題について詳しく研究したいという向きは、ゴマールスや、シュパンハイム、サウス、カローヴィウス、A・クラークによる徹底的な論考を参照されたい。

 第一の、しかし最もありそうもない説明は、こうである。ダビデとヨセフの間の系図で言及されている人々はみな、2つの名前を持っていたのである。マタイは彼らの名前の一方を挙げ、ルカはもう一方を挙げているのである。しかし、両者とも同じ人物たちを列挙しており、両者ともヨセフの系図を記しているのである。この説明で満足する人はほとんどいないであろう。ルカによって挙げられている名前の数と、マタイによって挙げられている数を比較すると差が出ること自体、乗り越えがたい難点である。この解決案について長々とかかずらうのは時間の無駄と思われる。

 この困難を説明する、第二の、よりありそうな説明は、こうである。マリヤの夫ヨセフの母には、ふたりの夫がいた。ひとりの夫にとってヨセフは実の子であった。もうひとりの夫にとって彼は継子であった。2つの福音書の2つの系図は、このふたりの夫の系図なのである。福音書記者たちは、それぞれの系図の終端をヨセフにしているが、ルカはそれをヘリ経由で辿り、マタイはヤコブ経由で辿っている。ヨセフは一方の実子であり、もう一方の養子だったのである。この説明は、初期の教父たちを満足させたものであって、通常はユーリウス・アフリカーヌスの説明として知られている。しかしながら、これはその古さにもかかわらず、いくつかの深刻な難点をかかえている。なぜルカが、異邦人回心者たちのために特に書かれた福音書の中で、ヨセフの系図を繰り返さなくてはならなかったのだろうか? また、なぜ私たちの主の実母の系図が、どちらの福音書記者によっても全く省かれてしまったのだろうか?

 この困難を説明する、第三の、そして最もありえそうな説明は、ルカの系図をマリヤの系図とみなし、ヨセフの系図とはみなさいなというやり方である。ヘリはマリヤの父であり、結婚後のヨセフにとっては義父であった。ここには、ヘリがヨセフを「生んだ」とは書かれていない。また、このギリシャ語では、必ずしもヨセフが「彼の子」であると意味されていないことは、新約聖書の他の2つの箇所で、マリヤとユダについて用いられている表現から明らかである(マコ16:1; 使1:15)。それゆえ、聖ルカが記述しているのはマリヤの家系であって、ヨセフの家系ではなく、聖マタイが記述しているのはヨセフの家系であって、マリヤの家系ではないのである。

 疑いもなく、このように説明するしかたにもいくつかの困難が伴っている。しかし、これ以外の説明には、それよりはるかに大きな困難がいくつもあると思われる。この問題を閉じるにあたり、一言述べさせてもらえれば、私があえて主張している見解と同じ意見の持ち主としては、ブレンティウス、ゴマールス、ケムニティウス、シュパンハイム、シュレンフーシウス、プール、ベンゲル、パーレウス、ライトフット、カローヴィウス、ギル、バーキット、ヘンリー、スコット、そしてクラークといったプロテスタント注解者たちがおり、----ヤンセンや、バラディウス、ステラ、その他といったローマカトリック教の注解者たちがいる。これもまた注目すべき事実だが、ライトフットが引用しているラビ文献の著述家たちは、マリヤのことを非常に非難がましい云い方で語っているが、そこでは明確に彼女を「ヘリの娘」と呼んでいるのである。

36節----[カイナンの子] この名前には、深刻な困難が結びついている。この名前は、創11:12に記録されているノアからアブラハムまでの系図の中に、七十人訳のギリシャ語版聖書では見られるが、ヘブル語版では見あたらないのである。たちまち疑問が持ち上がる。----なぜ聖ルカはこの名前をここに挿入したのか? いかにして私たちはモーセと聖ルカを調和させるべきか?

 この困難の解決案は様々であり、この問題が完全に解決されることはおそらく決してないであろう。1つのことだけは確かである。すなわち、モーセと聖ルカのふたりとも霊感を受けていた以上、彼らが本物の間違いを犯したはずはない、ということである。ある人々の考えによると、聖ルカは一般に受け入れられていた系図を筆写する以上のことをしようとはしておらず、その過誤や間違いを裏書きしていると非難されないように、その冒頭で、「と思われていた」、という表現を用いているのだという。彼らはこの表現が、系図全体にかかっているものと考える。----ある人々の考えによると、この名前が創世記のヘブル語文書から削除されたのは、写字生による間違いだという。----ある人々の考えによると、聖ルカは七十人訳の旧約聖書しか知らない人々の感情を顧慮して、故意にこの名前を系図に挿入したのだという。----ある人々の考えによると、この名前が聖ルカの福音書中に入り込んだのは、ヘブル語を全く知らず、七十人訳でしか旧約聖書を知らない写字生の過ちによるものであって、聖ルカはその原典にはカイナンの名前を挿入していなかったのだという。----この最後の解決案は、シュパンハイム、カペルス、グローティウス、カローヴィウス、リヴェー、リー、シュレンフーシウスらによって主張されており、おそらくは最もありそうなことである。これを支持する1つの議論は、この名前がベザ写本では省かれているという事実である。とはいえ、この点に関する限り、ベザ写本がほとんど孤立していることは認めなくてはならない。

 私たちの主の系図に結びついた諸問題という、この困難な主題を離れるにあたり、私たちはバーゴン氏の思慮深い注釈を熟考するのがよいであろう。「卑見によれば、聖書の中に、こうした種別の困難がいくつか入り込むことを許されたのは、人々に信仰を働かせるためではないかと思う。真の信仰を有する人は、こうした知的試練を痛切に感じはしても、ごく一般の人々の救いを危うくしもしないような問題によっては、ほとんど動揺させられることがないのである」。

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