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第6章1―5 弟子たち安息日に麦を摘む――キリストは安息日の主

 私たちがこの箇所で注意したいのは、偽善者たちが、つまらないことにいかに過度の重きを置くか、ということである。ここには、ある安息日に私たちの主が「麦畑を通っておられた」、と記されている。主の弟子たちは、その後につき従いながら、「麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた」。するとたちまち、偽善のパリサイ人たちが難癖をつけ、彼らは罪を犯していると非難した。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか」。彼らは、単に道ばたの麦の穂を摘むことを非難したのではない。それはモーセ律法によって是認されている行為であった(申23:25)。彼らが弟子たちを非難に値すると考えた問題点は、第四戒に対する違反であった。弟子たちは、ひと握りの食物を取って食べることによって、安息日に仕事をしたというのである。

 覚えておかなくてはならないが、この安息日に対するパリサイ人たちの大仰な熱心さは、他の明白な神の戒めの数々には及んでいなかった。福音書の数多くの記述から明らかなように、これほど1つの微細な点に厳密なふりをしていた当の人々こそ、それよりはるかに重要な他の数々の点については、だらしなく、手を抜いていた人々だったのである。彼らは、安息日に関する戒めを正しい意味を越えて拡大解釈していながら、公然と第十戒を踏みにじっており、その貪欲さでは悪名高かった(ルカ16:14)。しかし、これはまさに偽善者の性格にほかならない。私たちの主のたとえを借りれば、彼は、ある種の事がらにおいては、杯からぶよを濾しとることに大騒ぎしながら、他の事がらにおいては、平気でらくだを呑み込むのである(マタ23:24)。

 キリスト教信仰における二義的な事がらを第一とし、第一の事がらを二の次にし始めること、あるいは、人間によって定められたことを神から定められたことよりも持ち上げ始めること、これはいかなる人の魂の状態にとっても悪い徴候である。こうした精神状態に陥らないように用心しようではないか。私たちが他の人々のうちに眺めているものが、その人々の外的なキリスト教でしかない場合、また、私たちの発する第一の問いが、果たして彼らは自分と同じ教派で礼拝しているか、自分と同じ儀式を用いているか、自分と同じやりかたで神に仕えているか、といったものである場合、私たちの霊的状態には悲しいほどに間違ったものがある。――彼らは罪を悔い改めているか? キリストを信じているか? 聖い生活をしているか? こうしたことこそ、私たちが主たる注意を向けるべき点である。こうした事がらにまさって、キリスト教信仰における何かを持ち上げ始めるや否や、私たちはこの、弟子たちを非難した者らと同じくらい徹底したパリサイ人になる危険に陥っているのである。

 私たちがこの箇所で第二に注意したいのは、私たちの主イエス・キリストが、いかに恵み深くご自分の弟子たちの行為を弁護し、非難する者たちから彼らを守ってくださったか、ということである。ここには、主がパリサイ人たちのあら探しに対して、1つの議論で答えられたことが記されている。その議論とは、彼らが、たとい罪を認めさせられることがないにせよ、口をつぐまざるをえないようなものであった。主がやって来られたのは、決して、戦いの最中でご自分の弟子たちを見捨てて、孤立無援のまま戦わせるためではなかった。主は彼らを救うためにやって来られ、彼らに代わって答えてくださった。

 この事実の中には、イエスが今、ご自分の民のため常に行なっておられるみわざについての、心励まされる例示がある。私たちが聖書で読むことろ、世には、「兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と呼ばれている者がいる。サタンがいる。この世を支配する者がいる(黙12:10)。私たちは、自分の弱さによって、いかに多くの告発の種を彼に差し出していることか! いかに多くの非難を彼は、神の御前に正当に持ち出せることか! しかし神に感謝しよう。信仰者には、「御父の御前で弁護してくださる方……義なるイエス・キリスト」があるのである[Iヨハ2:1]。この方は常にご自分の民の云い分を天で保っておられ、絶えず彼らのためにとりなしをしておられる。この心励まされる思いにより慰められようではないか。天におられる私たちの偉大な《友》のことを日々思い起こし、魂を安らわせよう。私たちの朝夕の祈りが絶えずこういうものであるようにしよう。「私にかわって答えてください。私にかわって答えてください。おゝ、主なるわが神よ」。

 私たちがこの箇所で最後に注意したいのは、私たちの主イエス・キリストが、第四戒の真の要求について、いかに明確な光を投じておられるか、ということである。主は、安息日をこれほど厳格に遵守するふりをしていた偽善のパリサイ人たちに向かって、安息日は、決して必要な働きを妨げるためのものではない、と告げておられる。主は彼らに、ダビデそのひとですら、空腹に襲われたときには祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って食べたこと、また、その行為が、必要に迫られたものであったため、明らかに神によって許されたことを思い出させておられる。そして主は、ダビデの場合からこう論じておられるのである。ご自分の宮の規則が、緊急時には破られることをお許しになったお方は、疑いもなく、ご自分の安息日においても、真に必要な働きであれば、それがなされることをお許しになるであろう、と。

 この箇所、および他の箇所において私たちの主イエス・キリストがお与えになった、安息日の遵守に関する教えの性格は、慎重に比較考量すべきである。私たちは、安息日などユダヤ教の典礼にすぎず、キリストによって廃止され廃棄されたのだ、といった、よくある考え方に引きずられてはならない。福音書の中には、そのようなことを証明する箇所は1つもない。私たちの主が安息日について語っているあらゆる場合において、主は、パリサイ人たちによって教えられていた、安息日の偽りの見解には反対しているが、その日自体に反対してはおられない。主は第四戒を、人のこしらえた付け足しからきよめて、浄化なさった。ユダヤ人たちは、そうした付け足しによって第四戒を汚していたからである。だが、それがキリスト者を束縛すべきでないとは決して宣言なさらなかった。主は、七日目の安息が、必要なあわれみのわざを妨げるためのものではない、と示しておられるが、それが儀式律法の一部として過ぎ去るべきものだ、などとは一言も暗示しておられない。

 私たちの生きている時代は、一部の方面では、安息日を厳格に守ろうとするようないかなることも、ユダヤ教の迷信の遺物として声高に糾弾される時代である。私たちが一部の人々によって大胆に告げられるところ、安息日を聖く守ることは律法的であり、第四戒をキリスト者に守らせようとするのは束縛の中に逆戻りすることだという。そうしたことを聞かされるとき私たちは、こう覚えておくだけで十分としよう。云いっぱなしの放言は証明ではなく、このように曖昧な話は、神のことばの中で全く確証されていない、と。私たちは心に銘記しておこう。第四戒は、決してキリストによって無効にされたことがなく、福音のもとにあって私たちは、殺したり盗んだりする権利がないのと同じくらい、安息日を破る権利はない、と。ある建物を修繕し、それをしかるべき用途に回復させる建築家は、その破壊者ではなく、保全者である。ユダヤ教の伝統から安息日を贖い出し、その真の意味をこれほどしばしば説明なさった《救い主》は、決して第四戒の敵とみなされるべきではない。逆に、このお方は、「それを広め、これを輝かすことをなさった」のである。

 私たちは、わが国のキリスト教信仰の最良の保護手段として、今ある安息日を堅く守ろうではないか。無知な、思い違いをした人々の襲撃から、それを守ろうではないか。彼らは、神の日を転じて、取引の日や快楽の日に変えたがっているのである。何にもまして、私たちは互いに、自分自身、努めてこの日を聖なるものとして守ろうではないか。私たちが霊的に力強く生きられるかどうかは、神のもとにあって、自分の安息日をいかに用いるかに、その多くがかかっているのである。

注記. ルカ6:1-5

1節――[第一の後の第二安息日に] この表現[英欽定訳]の意味は、あらゆる注解者たちを全く当惑させてきた。これは、この箇所を除くと、聖書のどこでも用いられていない。そのあらゆる説明は、憶測以上の何物でもない。コルネリウス・ア・ラピーデは、こうした憶測を一覧にしているが、それは、他の何を証明していなくとも、聖書解釈における「全教父たちの一致した意見」などというものがないことだけは明白に証明している。彼が他の多くの事がらとともに言及するところ、あるときヒエローニュムスは、ナジアンゾスのグレゴリウスに向かって、この安息日は何のことかと尋ねたという。彼が受けとった答えは、教会が矛盾したことを云えなくなったときに教えてあげよう、というものであった。

 ある人々の考えによると、この第二・第一安息日(というのも、このギリシヤ語の表現は、より正確にはこう翻訳できるからである[新改訳聖書欄外注参照])は、五旬節の際の安息日であった。彼らの考えるところ、ユダヤ人には一年の間に3つの主要な安息日があった。――第一に、過越の祭りの安息日、第二に五旬節の安息日、第三に仮庵の祭りの安息日である。そして、彼らは、ここで言及されている安息日が「第二の大安息日」、すなわち、五旬節の安息日であると考えるのである。

 ある人々の考えによると、この第二・第一安息日は、ユダヤ教の過越週における、種を入れないパンの祭りの二日目の後の最初の安息日であった。過越週のこの二日目は、最初に実った大麦の束が、祭司によって主の前で揺り動かされ、収穫が聖別される日であった(レビ23:10-12)。この場合、ここで語られている安息日は、その初穂の束が刈り取られた後の最初の安息日ということであったろう。

 私はこの困難に関して何の意見も示すつもりはない。おそらく、これは主が来られるまで決して決着しない困難であろう。もしも弟子たちの摘んだ麦の穂が小麦であったならば、最初の説明が最もありそうなことと思われる。その一方で、もしそれが大麦であったとしたら、二番目の説明が最も正しい見込みがあると思われる。幸いなことにこの問題は、いかなる教理上の問題にも影響を及ぼしておらず、このままにしておいて全く差し障りはない。

3節――[ダビデが……したこと] 他の数々の箇所と同じく、ここでも見落としてならないのは、私たちの主が旧約聖書に記された事がらを、完全に立証済みの、承認された歴史的事実として言及しておられる、ということである。不信者たちの考え、すなわち、旧約聖書の物語は、人を楽しませる寓話や、有益な教訓を伝えるために拵えられた作り話にすぎないといった概念は、新約聖書の中にいかなる足場も、支持も見いだせない。旧約聖書の権威を攻撃する者は、結果的には、意図すると意図せざるとに関わらず、自分が新約聖書の権威をも攻撃していることに気づくであろう。

[ひもじかったときに] これは、いま私たちの前にあるような箇所を考察する際には、慎重に注意すべき表現である。この箇所で私たちの主は、安息日遵守の正しい精神を教えておられる。注目すべきことは、明白に緊急の必要があったことが、注意深く示されている、ということである。それは「空腹」という必要であった。これが――これだけが――神の律法からの逸脱を正当化していた。この精神によって私たちは、キリスト教の日曜日には何を行なってもよいか、何を行なうことが許されないか、という、しばしば討議される問題を考察すべきである。日曜日が意図的に、必ずしも日曜日に行なう必要のないような、また、日曜日の前に容易に行なっておけるような、世俗的な事がらを行なうための日とされるとき、そのとき、第四戒は公然と違反されているのである。ここにおいても他のどの箇所においても、私たちの主イエス・キリストは日曜日のそのような用い方を是認してはおられない。主が是認しておられる働きは、必要のある、あわれみの働きであって、金儲けや、取引や、快楽追求や、娯楽のための働きではない。

5節――[人の子は、安息日の主です] この表現の意味は、聖マルコに対する私の注記ですでに詳細に考察されている。とりあえずは、こう云うだけで十分であろう。私の考察するところ、「人の子」とは、この表現が新約聖書で常に意味しているところのお方、主イエス・キリストご自身を意味している。――「安息日の主」という言葉は、私たちの主が、ご自分の天来の権威のゆえをもって、第四戒の律法を改変したり、廃止したり、取り止めたりしようと暗示なさったという意味ではない。この言葉の意味は、イエスが「安息日の主」であり、それをユダヤ教の伝統から解き放ち、その遵守の迷信的な見解からそれを守り、その真の精神を示し、それが常に守られるように意図されていたしかたを示すことのできるお方である、ということである。


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第6章6―11 手のなえた人がいやされる――安息日に善を行なうことが弁護される

 これらの節に含まれているのは、私たちの主イエス・キリストが安息日問題をいかに扱われたかを示す、もう1つの例である。ここでもやはり主は、第四戒の遵守について、パリサイ人たちの空虚な伝統と衝突しておられる。ここでもやはり主は、神の日を人間的な伝統からきよめて、その要求を正しい土台の上に置いておられる。

 私たちがこれらの節で教えられているのは、安息日にあわれみのわざを行なうことの正当さである。ここには、満座の律法学者やパリサイ人たちの前で、安息日に私たちの主が手のなえた人をいやされた、と記されている。主は、このすべての正義の敵どもが、主の出方を見守っていること、「彼を訴える口実を見つけ」ようとしていることを承知しておられた。主は、こうしたあわれみのわざを行なう権利を大胆に主張しておられる。それは、「どんな仕事もしてはならない」[レビ23:31]、と云われている日においてすら変わらない。主は公然と、そうしたわざが律法に反していることを証明するよう彼らに挑戦しておられる。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか」。この問いに対して、主の敵たちは答えを見いだせなかった。

 ここで規定されているのは、広く適用できる原則の1つである。第四戒は決して、人間の肉体に害を加えるように解釈すべきものではなかった。それは、罪が世界にもたらした物事の状態に適応することを許されてよいものであった。苦しんでいる人々に親切にすることも、病んでいる人々の必要に気を配ることも、安息日には禁じなくてはならない、というようなことはなかった。私たちは、死にかけた人に慰めを与えるために馬車を走らせてよい。医者を呼びに行ったり、病室での用に当たるためとあらば、公の礼拝に出なくてよい。みなしごや、困難の中にあるやもめを訪問してよい。説教し、教え、無知な人々を指導してよい。こうした事がらは、あわれみのわざである。私たちはこうしたことを行なっても、安息日を聖く保っていないことにはならない。それらは神の律法に違反することではない。

 しかしながら、1つのことは注意深く覚えておかなくてはならない。私たちは、キリストから与えられている自由を濫用しないように注意しなくてはならない。これこそ、現代の私たちの主たる危険がある方向である。今の私たちが、パリサイ人たちの過ちを犯し、神が意図された以上に厳格に安息日を守ろうとする危険はほとんどない。恐れるべきことは、安息日をないがしろにし、それが受けてしかるべき栄誉を奪い取るという一般的な気分である。この件において私たちは注意深くしていよう。神の日を、訪問や、宴会や、旅行や、娯楽の集まりのための日としないように用心しよう。それらは、依怙地な、信仰を持たないこの世が何と云おうと、必要なわざでも、あわれみのわざでもない。自分の日曜日をこうした事がらに費やす人は、大きな罪を犯しているのであり、天における大いなる安息への備えが全くできていないことを証明しているのである。

 私たちがこれらの節で第二に教えられているのは、私たちの主イエス・キリストが、いかに人間の考えを完全に知っておられるか、ということである。このことは、主について用いられている言葉遣いから見てとれる。律法学者、パリサイ人たちが主をじっと見ていたとき、「イエスは彼らの考えをよく知っておられた」、と記されている。

 このような云い回しは、私たちの主の神性を示す多くの証拠の中の1つである。心を読むことができるのは神おひとりである。他人のひそかな意図や想像を見分けることのできるお方は、人間を越えたお方に違いない。疑いもなく主は、罪を除くあらゆる事がらにおいて私たちと同じく人間であられた。このことを私たちは、キリストの神性を否定するソッツィーニ主義者に向かって、はばかりなく認めることができる。私たちの主の人性を証明しようとしてソッツィーニ主義者が引用する数々の聖句を、私たちは、彼と同じくらい完全に信じ、主張するものである。しかし、聖書の中には、私たちの主が人間であると同様に神であられたことを証明する、はっきりとした聖句も多々ある。そうした聖句の1つが、私たちの前にある箇所である。それは、イエスが「万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神」であることを示している(ロマ9:5)。

 私たちの主の完全な知識を思い出すことによって私たちは、魂か常にへりくだらされているようにしよう。いかに多くのくだらない思いや、俗的な想像が、人間の目に決してふれることのない私たちの精神を四六時中よぎっていることか! この瞬間の私たちの思いはいかなるものだろうか? きょうのこの日、この聖書箇所を読んでいる、あるいは聞いている間の私たちの思いはいかなるものだったろうか? それは、公の吟味に耐えられるだろうか? 私たちは、自分の内なる人の中をよぎるすべてのことを他の人々に知らせたいと思うだろうか? これらは深刻な問いかけであり、深刻な答えに値するものである。私たちがそれらについてどう考えるにせよ、確実な事実は、イエス・キリストは時々刻々私たちの心を読んでおられる、ということである。まことに私たちは、主の御前で自らをへりくだらせ、日々こう叫ぶべきである。「自分がいかにしばしば罪を犯すか、だれにわかろう?」――「どうか、隠れている私の罪をお赦しください」。――「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」[詩19:12; ルカ18:13]。

 私たちがこの箇所で最後に教えられているのは、魂が神に回心するときの、信仰の最初の行為にいかなる性質があるか、といことである。この教訓は、ここに述べられている癒しの物語によって、驚くべきしかたで私たちに伝えられている。私たちの主は、手のなえた人に、「手を伸ばしなさい」、と云われたと記されている。この命令は、一見すると、理不尽なものに思われる。なぜなら、その人が従うことは明らかに不可能だったからである。しかし、このあわれな病者は、こうした類のいかなる疑いや理屈によっても思いとどまらされなかった。すぐに彼は自分の手を伸ばそうと試み、そうするとき癒されたと記されている。彼には、自分に手を伸ばすように命じたお方は、自分をからかっているのではなく、この方に従うべきだと信ずるだけの信仰があった。そして、まさにこの無言の従順の行為においてこそ、彼は祝福を受けとったのである。「彼の手は元どおりになった」。

 私たちは、この単純な物語の中に、不安にかられた求道者たちが、キリストのもとに来るという件に関して、しばしば悩みを感じる疑いや、ためらいや、疑問に対する最良の答えを見てとろう。――彼らは私たちに尋ねる。「私たちはどうすれば信じることができるのですか?」――「どうすればキリストのもとに行くことができるのですか? どうすれば私たちの前に置かれている望みを捕えることができるのですか?」――こうした質問すべてに対する最良の答えは、この手のなえた人がしたようにせよ、と人々に命ずることである。そうした人々は、手をこまねいて理屈をこねているのではなく、行動するがいい。形而上学的な思弁で自分を苦しめるのではなく、ありのままの自分で、イエス・キリストに身をゆだねるがいい。そのようにするとき、彼らは自分たちの道行きがはっきりしたことに気づくであろう。いかにしてか、あるいは、いかなるしかたでかは、私たちには説明できない。しかし私たちは、こう大胆に主張するものである。神に近づこうと努力する人々は、神が彼らに近づいてくださることに気づくだろうが、故意に何もしないでいる人々は、決して救われることを期待してはならない、と。

注記. ルカ6:6-11

8節――[立って、真中に出なさい] ここには、私たちの主がその奇蹟をいかに公然と行なっておられたかという、驚くべき実例がある。主が病んだ人をほんの一言で癒されたのは、ご自分に敵対する大勢の人々を前に、白日の下でなされた。主はそれを慌ただしくも、性急にも行なわれなかった。何がなされたかに満座の注目が集まらざるをえないようなしかたで行なわれた。

 こうした事がらには、深い注意が払われるべきである。ここにあるのは、キリストおよびその使徒たちによってなされた奇蹟と、マホメットによる胡散臭い奇蹟やローマ教会が云い立てる数々の虚偽の奇蹟との、著しい差異である。この点に関して、より詳細な論議を知りたければ、レスリー著『理神論者に簡潔に答える』を読むべきである。

10節――[手を伸ばしなさい] フォードにより引用された、この箇所に対するフラーの言葉は、読むに値するものである。「神の命令は授与である。神が私たちに、悔い改めよ、あるいは、信ぜよ、と命じるとき、それは私たちから、自分には全然神の命令を行なう力などない、という率直な告白を引き出すためにほかならない。この告白がなされたなら神は、ご自分がお命じになることを私たちが行なえるようにしてくださるであろう。人間が自分の弱さを認めることこそ、神がご自分のご助力の恵みを接木できる唯一の台木なのである」。

11節――[狂気に満たされ]<英欽定訳> このように翻訳された語は、他の箇所ではIIテモ3:9でだけ用いられており、そこでは「愚かさ」と翻訳されている。私たちが今「狂気」という語にこめている意味は、おそらくこのギリシヤ語が有している意味よりも強いであろう。


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