第4章 神への愛について
続いて、この聖句の第二の一般的な部分を扱おう。この特権にあずかっている人々のことである。彼らは神を愛する人々である。「神を愛する人々……のためには、すべてのことが働いて益となる」。
神をさげすみ、神を憎む人々は、この特権については何の関係もないし、それにあずかることもできない。これは子どもたちのパンであり、神を愛する人々にのみ属している。愛こそはキリスト教信仰の心臓であり魂である。それゆえ私は、このことについて、いずれもっと詳細に扱おうと思う。そして、その論議をさらに進めるために、以下の5つの事がらを神への愛に関して注目しておこう。
1. 神への愛の性質
愛は、至高の主権的な善としての神をキリスト者があえぎ求めることによって、魂が広やかにされ、情愛が燃やされることである。魂にとって愛は、時計にとっての重りのようなものであり、私たちが天に翔るための翼として、魂を神に向けて進めさせる。愛によって私たちは、針が磁石に吸いつくように神に張りつくのである。
2. 神への愛の基盤
それは知識である。私たちは知りもしないものを愛することはできない。私たちの愛が神に引き寄せられるようになるには、神のうちにある以下の3つの事がらを知らなくてはならない。
(1) 満ち満ちた豊かさ(コロ1:19)。神には、私たちをきよめる恵みと、私たちに王冠を授ける栄光が満ち満ちている。必要十分なものがあるだけでなく、有り余るほどに満ち満ちている。神は、底もなければ浅瀬もない、いつくしみ深さの海であられる。
(2) 惜しみなさ。神には、あわれみと恵みを分け与えようとする本質的な傾向がある。それは、蜜蜂の巣のしたたりのようである。「いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい」(黙22:17)。神は私たちに代金を携えて来るように求めてはおられない。ただ、欲する心だけ持って来ればいいのである。
(3) 財産、あるいは資産。私たちは、この神にある満ち満ちた豊かさが自分のものであると知らなくてはならない。「この方こそまさしく神。……われらの神であられる」(詩48:14)。ここに愛の基盤がある。――神の神性、そして、その神の益に私たちはあずかる権利がある、ということである。
3. 愛の種類
――これについて私は、次の3つの小項目に分けてみたい。
(1) そこには、真価を認める愛がある。私たちが神を至高にして無限の善として重んずるとき、私たちは、神を有していさえすれば他のいかなるものに事欠いてもかまわないほどに、神を尊んでいるはずである。太陽が現われるとき星々は姿を消す。義の太陽がその完全な壮麗さをもって光輝くとき、あらゆる被造物は私たちの思いの中で消え去ってしまう。
(2) そこには、満足と楽しみを覚える愛がある。――それは、人が自分の愛する友を楽しく思うのと同じである。神を愛する魂は、自分の宝物を喜ぶように神を喜び、自分の中心において安らぐように神のうちで安らぐ。その心は神に堅く据えられていて、それ以上の何も欲さない。「私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」(ヨハ14:8)。
(3) そこには、良いことを願う愛がある。――それは、神の国の進展を心から願う思いである。自分の友人に心からの情愛を感じている者は、相手にあらゆる幸福があるように願う。私たちが神によかれと願う者となるとき、それは神を愛することである。私たちの切なる願いと祈りは、神の御名が栄誉に包まれるようになることである。神の御力の杖たる神の福音が、アロンの杖のように、花開き、実を結ぶことである。
4. 愛の特質
(1) 神に対する私たちの愛は、徹底的なものでなくてはならず、それをいだく者はその全心全霊をかけなくてはならない。「心を尽くし……て、あなたの神である主を愛せよ」(マコ12:30)。古の律法では、大祭司はやもめをも、遊女をもめとってはならなかった。――やもめをめとれば、彼は彼女の最初の愛を得ることにならず、遊女をめとれば、そのすべての愛を得ることにならないからであった。神は心のすべてを得ることを望まれる。「彼らの心は二心だ」(ホセ10:2)。あの本当の母親は、わが子が真っ二つにされることを望まなかった。神も心が2つになっていることをお望みにならない。神は、ご自分が下宿人のようにされて心の中の一部屋しか与えられず、残りの部屋すべてが罪に貸し出されていることなどお望みにならない。それは全き愛でなくてはならない。
(2) それは真摯な愛でなくてはならない。「私たちの主イエス・キリストを真摯な愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように」(エペ6:24 <英欽定訳>)。真摯さ、それは全く純粋な蜂蜜のことを示唆している。神に対する私たちの愛は、それが純粋で、私利私欲のないものであるとき真摯なものとなる。これをスコラ神学者たちは、友誼の愛と呼んである。私たちはキリストを、アウグスティヌスが云うように、キリストご自身のゆえに愛さなくてはならない。それは、私たちが甘やかな葡萄酒をその味わいゆえに愛するのと同じである。神の美と愛こそ、神に対する私たちの愛を引き寄せる2つの磁石でなくてはならない。アレクサンドロス*1には、ヘファイスティオンとクラテロスというふたりの友人があり、彼はこのふたりについてこう云っている。「ヘファイスティオンが余を愛するのは、余がアレクサンドロスなるがゆえだ。クラテロスが余を愛するのは、余がアレクサンドロス王なるがゆえだ」。一方は彼の人格を愛していたが、もう一方は彼の贈り物を愛していたのである。多くの人々が神を愛するのは、神が彼らに穀物や葡萄酒を与えてくださるからであって、神に固有の卓越性のためではない。私たちは、神がお授けになる物事のためよりも、神がいかなるお方であられるかということのために、より神を愛さなくてはならない。真の愛は欲得ずくのものではない。母親にわが子を愛するよう賃金を与える必要などない。神を深く愛している魂に、報酬による賃金を与える必要はない。それは、神のうちで燦然ときらめく美の輝きのゆえに、神を愛さずにはいられないのである。
(3) それは、熱烈な愛でなくてはならない。「愛」という意味のヘブル語は、情愛の熱烈さを意味している。聖徒たちは、聖い愛に燃えるセラフィムでなくてはならない。だれかを冷ややかに愛するというのは、愛していないのと同じことである。太陽は、あらん限りの熱さで輝く。神に対する私たちの愛は、何よりも激しく燃えさかる熱いえにしだの炭のように、強固で激しいものでなくてはならない(詩120:4)。移ろい行く物事に対する私たちの愛は冷淡なものでなくてはならない。私たちは、愛していないかのように愛さなくてはならない(Iコリ7:30)。しかし、神に対する私たちの愛は燃えさからなくてはならない。花嫁は、キリストに対する愛に病んでいた(雅2:5)。私たちは決して真に正当なほどに神を愛することはできない。神の私たちに対する刑罰が私たちの受けるべきものよりも軽いように(エズ9:13)、私たちの神に対する愛も神が受けるべきものよりも軽いのである。
(4) 神に対する愛は活発なものでなくてはならない。それは、もっとも活発な元素である火のようなものである。それは、愛の労苦と呼ばれている(Iテサ1:3)。愛は、怠惰な恵みではない。それは頭をして神のための学びへ進ませ、足をして神の戒めの道を走らせる。「キリストの愛が……取り囲んでいる」(IIコリ5:14)。愛の見かけだけでは十分ではない。真の愛は口先だけに見られるものではなく、指先にも見られる。それは愛の労苦なのである。エゼキエル1:8で言及されている生きものには翼があった。――良きキリスト者の象徴である。キリスト者は、信仰の翼によって飛べるだけでなく、その翼の下から手が出ている。彼は愛によって働き、財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くすのである。
(5) 愛は惜しみがない。そこには、愛のしるしとしての贈り物がある(Iコリ13:4)。愛は親切である。愛はなめらかな舌先だけでなく、親切な心も有している。ダビデの心は神に対する愛に燃えており、彼は費用もかけずに神にいけにえをささげようとはしなかった(IIサム24:24)。愛は、単に良いことを願う思いに満ちているだけでなく、自分から良いものを与える。心を広やかにする愛は、決して手を締めつけたりしない。キリストを愛する者は、キリストの各器官に惜しみなく与えるものである。彼は盲人にとって目となり、足なえにとって足となる。貧しい人々の背と腹とは、彼が「惜しみなさ」という黄金の種を蒔くあぜ溝である。ある人々は、神を愛しているとは云いながら、その愛は手がなえていて、良い働きのためには何1つ与えようとしない。確かに信仰は目に見えないものを扱うが、神は目に見えない愛を憎まれる。愛は新しい葡萄酒に似て、そのはけ口を求めるものである。使徒がマケドニヤの人々の誉れとして語っているのは、彼らが貧しい聖徒たちに、力に応じてどころか、力以上に与えたことである(IIコリ8:3)。愛は王宮育ちの、高貴な、物惜しみしない恵みである。
(6) 神に対する愛は特殊な愛である。神を愛する者となった人は、他のいかなる者にも授けないような愛を神に与える。神がご自分の子らには、決して悪人には授けないような愛を――選びと、子とする愛を――お与えになるように、恵みによる心は、他のいかなる者もあずかれないような、特別で際立った愛を神にささげる。「私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにした」(IIコリ11:2)。ひとりの夫の花嫁に定められた妻は、他のだれにもささげないような愛を彼に与える。彼女は、その夫婦愛を夫以外のだれとも分かち合わない。そのようにキリストの花嫁と定められた聖徒は、キリストに独特の愛をささげる。それは他のだれにも分け与えられない愛、尊崇と結びついた愛である。愛が神にささげられるだけでなく、魂もささげられる。「私の妹、花嫁は、閉じられた庭」(雅4:12)。信仰者の心はキリストの庭である。そこに咲く花は、神への礼拝と混ぜ合わされた愛であり、この花を摘めるのはキリストだけである。花嫁はその庭の鍵を管理しており、そこにはキリストしか入れない。
(7) 神に対する愛は永久の愛である。それはローマでウェスタの処女たち*2が守っていた火のように、消えることがない。真の愛は煮えこぼれるが、静かになることはない。神に対する愛は、真摯で偽善のないものであるのと同じく、絶えることも心変わりもないものである。愛は脈拍のように常に打ち続けている。それは陸地ではなく、春の大水である。悪人たちが絶えずそのもろもろの罪を愛し、恥辱や病や地獄の恐れによっても、彼らにその罪を捨てさせることができないのと同じように、何物をもってしても、神に対するキリスト者の愛を妨げることはできない。いかなるものも、それが困難であれ反対であれ、愛を制圧することはできない。「愛は墓のように強い」(雅8:6 <英欽定訳>)。墓はいかに頑健な肉体も呑み込んでしまう。そのように、愛はいかに強大な困難も呑み込んでしまう。「大水もその愛を消すことができません」(雅8:7)。快楽という甘美な大水も、迫害という苦渋の大水も、愛を消せない! 神に対する愛は、死に至るまで堅くとどまり続ける。「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」(エペ3:17)。軽いものは、もみがらや羽毛のように、たちまち吹き飛ばされるが、根を張った木は嵐をもしのぐ。愛に根ざしている者は持ちこたえる。真の愛は決して絶えることがなく、いのちを保ち続ける。
5. 愛の程度
私たちは、神を他のすべての対象にまさって愛さなくてはならない。「地上では、あなたのほかに私はだれをも望みません」(詩73:25)。神はすべての良きものの精髄であり、無比の善であられる。神が何にもまして卓絶したお方であることを見てとり、神のうちにすべての卓越性がきら星のように輝いているのを賞賛する魂は、何にもまさる程度で神を愛するようにさせられる。ベルナルドゥス*3によると、神に対する私たちの愛の限度は、限度なしに神を愛するということでなくてはならない。私たちの幸福の主たるものである神は、私たちの愛情の主たるものでなくてはならない。被造物には、私たちの愛の乳汁を与えてもよいが、神には乳脂を与えなくてはならない。神に対する愛は、油が水に浮くように、他のあらゆるものの上になくてはならない。
私たちは、神を親族よりも愛さなくてはならない。アブラハムがイサクをささげた場合がそうであった。イサクは彼の年寄り子であり、彼がイサクを心から愛していたこと、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていたことに疑いはない。だが神が、「アブラハムよ。あなたの子をささげなさい」*(創22:2)、と云われたとき、それは彼の理性に真っ向から反するばかりか、彼の信仰にも反するものであった――というのも、メシヤはイサクから出てくることになっており、もしイサクが断ち切られたならば、世界はどこからメシヤを得るというのか!――にもかかわらず、アブラハムの信仰の強さと、神に対するその愛の熱烈さは、彼に、いけにえとしてイサクの血を流させる刀を取らせるほどであった。私たちのほむべき《救い主》は、父や母を憎むことについて語っておられる(ルカ14:26)。キリストは私たちに自然の情を捨てさせようとなさったのではない。だが、もし私たちの最愛の親族が私たちの前に立ちはだかり、私たちをキリストから引き離そうとするなら、私たちは彼らを踏み越えて行くか、彼らを顧みないと云わなくてはならない(申33:9)。私たちは、自分の愛のうち、ほんの数滴を自分の親類や縁戚の方に流すことは許されるが、その豊かな本流はキリストに向けてほとばしらせなくてはならない。親戚は胸の中にいてもよいが、キリストは心の中に位置していなくてはならない。
私たちは、神を自分の財産よりも愛さなくてはならない。「あなたがたは……自分の財産が奪われても、喜んで忍びました」(ヘブ10:34)。彼らは、自分がキリストのために失える物があることを喜んでいた。もしこの世が私たちの秤の一方に乗り、キリストがもう一方に乗ったとしたら、キリストが何にもまして重いに違いない。では、そのようになっているだろうか? 神は、私たちの情愛の中で最高の部屋におられるだろうか? プルタルコス*4によると、「ローマで独裁官の地位が創設されたとき、他のあらゆる権威は一時的に停職にされた」、という。そのように、神に対する愛が心の中を支配するとき、他のすべての愛は停止され、この愛にくらべれば無に等しくなる。
適用。神を愛していない人々に対する厳しい叱責
これは、心の中に神への愛がひとかけらもない者らに対する厳しい叱責となるであろう。――そして、そのような悪漢が生きているだろうか? 神を愛していない者は、人間の頭をした獣である。おゝ、恥知らずな人よ! あなたは毎日神のおかげで生きていながら、それでも神を愛さないというのだろうか? もしもある人が、自分に絶えず金銭を支給し、自分の小遣いの全額を与えてくれる友人を持っていたとして、その友人に敬意も尊敬も払わないとしたら、その人は野蛮人にも劣るではないだろうか? 神は、そうした友人であられる。神はあなたにいのちの息を与え、あなたに生きる糧を授けておられる。だのに、あなたは神を愛そうとしないのだろうか? あなたは、もしも国王からいのちを救われるならば国王を愛するであろう。では、あなたにあなたのいのちを与えておられる神を、あなたが愛するのは自然ではないだろうか? ほむべき《神格》ほど強力に愛を引きつけるものがあるだろうか? 美に心ひかれない者は盲目である。愛の綱によって引き寄せられない者は愚物である。からだが冷え切っていて、何のぬくもりもない場合、それは死のしるしである。自分の魂の中に、神への愛のぬくもりが全くないという者は死んでいるのである。神に対して何の愛も示していない者が、どうして神からの愛を期待できるだろうか? 神は、ご自分に対する悪意と敵意という毒を吐き出すような蝮を、ご自分の胸にお入れになるようなことがあるだろうか?
この叱責は、この時代の不信者たちに重くのしかかるものである。彼らは、神を愛することから遠く、あらん限りの手を尽くして自分が神を憎んでいることを示している。「彼らは罪を、ソドムのように現わし」ている(イザ3:9)。高慢と冒涜によって、「彼らはその口を天に逆らってすえ」、神に対して公然と反抗している(詩73:9 <英欽定訳>)。こうした者らは怪物の性質をし、人間の形をとった悪鬼である。こうした者らはその破滅について読むがいい。「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください」(Iコリ16:22)。すなわち、こうした者は、キリストが審きのため来られるときまで、神からのろわれていよ、というのである。生きている間は、のろいの世継ぎとなっているがいい。そして、かのすさまじい主の日には、あの心引き裂く宣告が自分に云い渡されるのを聞くがいい。「のろわれた者ども。わたしから離れよ」*[マタ25:41]。
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*1 マケドニア王で、ペルシャ帝国を征服した(323B.C.没)。ヘファイスティオンはアレクサンドロスに顔立ちも背丈もそっくりで、しばしばアレクサンドロスの名によって挨拶を受けたほどであった。[本文に戻る]
*2 異教時代のローマに祭られていたウェスタ(竈の女神)神殿にいた女祭司たちのこと。[本文に戻る]
*3 クレルヴォーのベルナルドゥス(1153年没)。彼の作とされている賛美歌は、「主イエスをおもうとき このこころは」と「わがたまのせつに あいしまつる主は」である[聖歌284、283番]。[本文に戻る]
*4 ギリシャの著作家で、数々の著名なギリシャ人とローマ人の伝記を書いた(前120年没)。[本文に戻る]
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