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第3章 なぜすべてのことが働いて益となるか

1. すべてのことが働いて益となる最大の理由

は、神がご自分の民に対していだいておられる、親密で切実な関心である。主は彼らと契約を結んでおられる。「彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(エレ32:38)。この盟約のおかげで、すべてのことは実際に、また、必ずや働いて益となる。「わたしは神、あなたの神である」(詩50:7)。この言葉、「あなたの神」は、聖書の中で最も甘やかな言葉であり、そこには人格関係の中でも最高のものが多々含まれている。そして、そうした関係が神と御民の間にある限り、すべてのことは彼らの益となるべく働かざるをえない。「わたしは……あなたの神である」、との表現には、以下のことが暗示されている。

 (1) 医者との関係。「わたしは、あなたの医者である」。神は、練達の《医者》である。神は何が最善であるかを知っておられる。人々の気質の差を認めておられ、それぞれの人にとって何が最も効果的か知っておられる。ある人々は、人よりも優しい性質をしており、あわれみによって引かれていく。他の人々は、人よりもがさつで荒々しい性質をしており、神は彼らを、より力強いしかたで取り扱われる。砂糖漬けにして保存される物もあれば、塩漬けにされる物もある。神はすべての人を同じようには扱わない。強い者には試練を与え、弱い者には強壮剤を与えてくださる。神は誠実な《医者》である。それゆえ、すべてのことを最善に転じてくださる。もし神があなたの好むものをあなたに与えないとしても、あなたに必要なものを与えてくださるであろう。医者が何にもまして考えるのは、患者の趣味を満足させることではなく、その病を癒すことである。私たちは、非常に辛い試練にのしかかられていると愚痴をこぼす。だが、神が私たちの《医者》であること、それゆえ、私たちの機嫌をとろうとするよりも、私たちを癒そうとするために労しておられることを思い出そう。ご自分の子らに対する神のお取り扱いは、痛烈ではあっても、安全であり、治癒に役立つものである。「それは……ついには、あなたをしあわせにするためであった」(申8:16)

 (2) この言葉、「あなたの神」には、《父》との関係が暗示されている。父はわが子を愛するものである。それゆえ、微笑むのも、打ち叩くのも、その子の益のためを思ってである。わたしは、あなたの神、あなたの《父》である。それゆえ、わたしのするすべてのことは、あなたの益のためである。「人がその子を訓練するように、あなたの神、主はあなたを訓練される」*(申8:5)。神の訓練は、すりつぶすためのものではなく、叩き直すためのものである。神はご自分の子らを傷つけることができない。神は優しい心の《父》だからである。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる」(詩103:13)。父親が、わが子を――自分から出てきたわが子を――自分のおもかげの宿すわが子を、破滅させようなどとするだろうか? 否、父は、あれこれと細やかな気遣い、心配りをして、わが子のためをはかるものである。彼が自分の遺産を分与する相手は、わが子でなくてだれだろうか? 神は優しい心の《父》であり、「慈愛の父」(IIコリ1:3)である。神は、すべての慈愛といつくしみを、被造物のうちに注がれる。

 神は永遠の《父》である(イザ9:6)。神は、永遠の昔から私たちの御父であられる。私たちが子どもになる前から、神は私たちの《父》であられ、神は永遠にわたって私たちの《父》となられる。父親は、生きている間はわが子を養い、必要なものを与える。だが、その父もいつかは死んでしまい、その後その子は、辛い目に遭うことがないとはいえない。しかし、神は決して《父》であることをおやめにならない。信仰者であるあなたには、決して死ぬことのない《父》がおられるのである。そして、もし神があなたの《父》であるとしたら、あなたの希望は決して潰えることがない。すべてのことは必ずやあなたの益のために働かざるをえないであろう

 (3) この言葉、「あなたの神」には、《夫》との関係が暗示されている。これは親密で、甘やかな関係である。夫は自分の伴侶の益をはかるのが普通であって、自分の妻を滅ぼそうと画策するような夫は不自然である。「だれも自分の身を憎んだ者はいません」(エペ5:29)。神とその民との間には結婚関係がある。「あなたの夫はあなたを造った者」(イザ54:5)。神は徹底的にその民を愛される。彼らをご自分の手のひらに刻み込んでおられる(イザ49:16)。彼らをご自分の心臓の上に封印のようにつけておられる(雅8:6)。諸王国を彼らの身代金となさる(イザ43:3)。これは、彼らがいかに神のみ胸近くに存在しているかを示している。もし神が、愛に満ちた心をした《夫》であるなら、神はご自分の伴侶の益をはかってくださるであろう。楯となって危害から守るか、それを最善に転じてくださるであろう

 (4) この言葉、「あなたの神」には、《友》との関係が暗示されている。「これが私の友です」(雅5:16 <英欽定訳>)。友とは、アウグスティヌスが云うように、ある人の半身である。人は、いかにすれば自分の友に善を施せるかと心を砕き、それを切望する。相手の幸福を自分のそれのように高めようとする。ヨナタンは、自分の友ダビデのために王の不興を買うことも恐れなかった(Iサム19:4)。神は私たちの《友》である。それゆえ、すべてのことを私たちの善に転じてくださるであろう。世には偽りの友が多い。キリストは友によって裏切られた。だが、神は最上の《友》であられる。

 神は誠実な《友》である。「あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である」(申7:9)。神は、その愛において誠実であられる。神は、そのふところにおられた御子をお与えになったとき、私たちにその心そのものを与えてくださった。ここには、並ぶものなき愛のかたちがあった。神はその約束において誠実であられる。「偽ることのない神が……約束してくださった」(テト1:2)。神は、その約束を変えることはあるかもしれないが、破ることはありえない。神はそのお取扱いにおいて誠実であられる。苦しみを与えるときも誠実であられる。「あなたは誠実をもって私を悩まされた」(詩119:75 <英欽定訳>)。神は私たちをふるいにかけ、銀のように精錬なさる(詩66:10)。

 神は変わらぬ《友》であられる。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(ヘブ13:5)。世間の友は、しばしば急場のときには頼りにならない。多くの人がその友に接するしかたは、婦人が花々に接するようなものである。相手が新鮮なうちは胸にだきしめているが、枯れ始めると打ち捨ててしまう。あるいは、旅人が日時計に接するようなものである。日時計に日差しが照りつけている間は、道をはずれても、その日時計を見に行くが、日が照らさなくなると、さっさと通り過ぎて、全く気をとめようともしなくなる。そのように、繁栄の日差しが人々を照らしていると、友だちは目を向けるものだが、逆境の雲が上にかかると、寄りつこうともしなくなるものである。しかし、神は永遠の《友》であられる。神は、「わたしは決してあなたを離れない」、と云われた。ダビデは、たとい死の影の谷を歩くことがあっても、ひとりの《友》がそばにいることを知っていた。「私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(詩23:4)。神は決してその愛を、完全にご自分の民から引き離すことはなさらない。「彼はその愛を最後まで示された」(ヨハ13:1 <英欽定訳>)。神は、このような《友》であられる以上、すべてのことを私たちの益となるべく働かせてくださるであろう。自分の友のためをはかろうとしないような友はいない

 (5) この言葉、「あなたの神」には、さらに親密な関係が暗示されている。《かしら》とその肢体との関係である。キリストと聖徒たちとの間には、神秘的な結びつきがある。キリストは、「教会のかしら」と呼ばれている(エペ5:23)。かしらは、からだのためになることをはかるものではないだろうか? かしらは、からだを導き、からだをいたわり、その活力の源となり、気力と慰めを送り込む。かしらのあらゆる部分は、からだのためになるように配置されている。目は見張り塔となるようについていて、からだに襲いかかるかもしれない、いかなる危険をも見つけ出し、未然に防ぐ歩哨となっている。舌は味見役としても、弁士としても働く。もしからだが小宇宙であるとするなら、あるいは小世界であるとするなら、かしらはその世界の太陽であり、そこから理性の光が発されている。かしらはからだの益のために立てられているのである。さてキリストと聖徒たちは1つの神秘的なからだをなしている。では、天におられる私たちのかしらは、確かにご自分のからだが傷つくのを許さず、その安全をはかっておられるに違いない。そして、すべてのことを、その神秘的なからだの益となるべく働かせてくださるに違いない

2. すべてのことが聖徒の益となるべく働くという命題から何が推論できるか

 (1) もしすべてのことが益となるべく働くとしたら、ここから学びとれるのは、世には摂理というものがある、ということである。物事はてんでばらばらに働いているのではなく、神がそれらを益となるべく働かせておられるのである。神は、あらゆる出来事や事象の大いなる《配剤者》であられる。神はすべてのことを働かせておられる。「その王国はすべてを統べ治める」(詩103:19)。これは、神の摂理的な王権のことを意味している。世界の物事は、種々の第二原因や、人間たちの計画や、星や惑星の巡り合わせによって支配されているのではなく、神の摂理によって支配されている。摂理こそ、世界の女王であり、切り盛り役である。摂理には3つのことが含まれる。神の予知、神の決定、神がすべてのことをその時期と出来事に従って指図すること、である。世界の中でいかなる物事が働こうと、神がそれらを働かせておられるのである。エゼキエル書1章では、いくつかの輪と、輪の中の目と、輪の動きについて記されている。それらの輪は全宇宙であり、輪の中の目は神の摂理であり、輪の動きは《摂理》の手であって、下界のすべての物事を動かしているのである。一部の人々によって偶然と呼ばれているものは、摂理の結果以外の何物でもない。

 摂理をあがめるようになるがいい。摂理は、下界にあるすべてのことに影響を及ぼしている。これによってこそ、種々の材料は混ぜ合わされ、混ぜもの全体が作られるのである

 (2) 神の子らひとりひとりの幸いな状態を観察するがいい。すべてのことが、最善のことも最悪のことも、その人の益となるべく働いている。「主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす」(詩112:4)。最も暗く、不可解な神の摂理の中にも、そこには、いくばくかの陽光が含まれている。真の信仰者は、何とほむべき状態の中にあることか! その人が死ぬとき、その人は神のもとに行く。また、生きている間は、あらゆることがその人の益となる。患難はその人のためになる。火が黄金に何の害を及ぼすだろうか? 単にそれを純化するだけである。箕は麦に何の害を及ぼすだろうか? 単にそれを殻から分離するだけである。蛭はからだに何の害を及ぼすだろうか? 単にそれから悪い血を吸い出すだけである。神がご自分の杖をお用いになるのは、埃を払い落とすためだけである。患難は、みことばが何度試みてもできないようなことを行なう。それは、「彼らの耳を開いて戒め」る(ヨブ36:10)。神が人々をあおむけに打ち倒すときに、彼らは天を見上げるのである。神が御民を打つのは、音楽家がヴァイオリンを鳴らすのに似て、妙なる調べを発させるためである。患難によって、いかに多くの益が聖徒たちにもたらされることか! そのときに彼らは、つき砕かれ、折りこぼたれ、その最も甘やかな芳香を放つ。患難は苦い根ではあるが、甘美な果実を結ぶ。「平安な義の実を結ばせます」(ヘブ12:11)。患難は、天国への大道である。それは無情で、棘の生い茂る道ではあるが、最善の道なのである。貧困は、私たちの種々の罪を飢えさせる。病は、恵みをより重宝させる(IIコリ4:16)。非難によって、「栄光の御霊、すなわち神の御霊は、私たちの上にとどまってくださる」*(Iペテ4:14)。死は、涙の皮袋に栓をし、パラダイスの門を開くことになる。信仰者の死ぬ日は、その人が栄光へと昇る日である。こういうわけで聖徒たちは、自分の受ける患難を、自分たちの富の目録の中に入れてきたのである(ヘブ11:26)。テミストクレス*1は、自国から追放された後で、エジプトの王に厚遇され、このことについてこう語っている。「私は、破滅していなかったとしたら、破滅していたであろう」。それと同じように、神の子どももこう云えるであろう。「私は、患難に遭っていなかったとしたら、滅ぼされていた。もし私の健康や財産が失われなかったとしたら、私の魂は失われていた」、と

 (3) では、ここには、敬虔な者となるための、何という励ましがあるか見てとるがいい。すべてのことが働いて益となるのである。おゝ、願わくは、このことによって、全世界がキリスト教信仰を愛するようになるように! これほど強く人を敬虔な人生に引きつけるものがあるだろうか? これほど強く私たちを善良な者になるよう説き伏せるものがあるだろうか? すべてのことが私たちの益となるべく働くのである。キリスト教信仰こそは、まさに万物を黄金に変えるという賢者の石である。キリスト教信仰の最も不快な部分、苦しい部分を取り上げてみるがいい。そこにも慰めがあるのである。神は苦しみを喜びによって甘くしてくださる。私たちの苦よもぎに砂糖をまぶしてくださる。おゝ、いかにこのことが私たちを敬虔さへと誘うことか! 「さあ、あなたは神と和らぎ、平和を得よ。そうすればあなたに幸いが来よう」(ヨブ22:21)。いかなる人も、神とやわらぐことによって敗残者となったことはない。このことによって、益があなたのもとにやってくる。あふれるほどの益、恵みの甘やかな粋、隠れたマナがやって来る。しかり、あらゆることが益となるべく働くのである。おゝ、ならば神とやわらぎ、神の恩恵と縁を結ぶがいい

 (4) 悪人たちのみじめな状況を悟るがいい。敬虔な人々には、悪い事がらも益となるべく働くが、邪悪な人々には、良い事がらも害となるべく働くのである。

 (a) 物質的に良い事がらも、悪人にとっては害となるべく働く。富も繁栄も、セネカ*2が語っているように、恩恵ではなく罠である。この世的な事がらが悪人に与えられるのは、ミカルがダビデに与えられたように、罠としてである(Iサム18:21)。はげたかは、芳香の中からも病の臭いをかぎつけるという。そのように悪人も、繁栄という甘やかな芳香の中から病を引き出すのである。彼らの受けるあわれみは、犬に与えられる毒入りパンに似ている。彼らの食卓は豪勢に広げられるが、その餌の下には鉤がひそんでいる。「彼らの前の食卓はわなとなれ」(詩69:22)。彼らの楽しみはみな、イスラエル人が食べたうずらに似て、神の御怒りで味付けされている(民11:33)。高慢と驕りこそ繁栄の生み出す双生児である。「あなたは……肥え太った」(申32:15)。そのとき彼は神を捨てた。富は蜘蛛の巣に似て益をもたらさないばかりでなく、あの、怪物を生むというコカトリスの卵のように、破壊的なものである。「所有者に守られている富が、その人に害を加える」(伝5:13)。悪人たちが有している、一般的なあわれみの数々は、彼らを神に近づくように引きつけはせず、むしろ、彼らを一歩一歩地獄の深みへと引きずり込む(Iテモ6:9)。彼らの珍味佳肴は、ハマンの饗宴のようなものである。その堂々たる祝宴の後で、死がその勘定書を持ってやって来るであろう。そして彼らは、その支払いを地獄で行なわなくてはならないのである

 (b) 霊的に良い事がらも、彼らにとっては害となるべく働く。天的な祝福の花から、彼らは毒を吸い取るのである。

 神のしもべたちは、彼らの害となるべく働く。ある船を停泊地へと吹きやるのと同じ風が、別の船に吹きつけては岩礁へと向かわせる。敬虔な人を天国へと押しやるのと同じ教役者の息が、俗悪な罪人を地獄へと押しやる。その口にいのちのことばを携えてやって来る人々は、実は多くの人々にとっては、死に至らせるかおりである。「この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠く(せよ)」(イザ6:10)。この預言者が遣わされたのは悲しい使信を伝えるため、彼らの葬式の説教をするためであった。悪人たちは説教を聞くことによってますます悪くなる。「彼らは門で戒めを与える者を憎(む)」(アモ5:10)。罪人たちは、しだいに罪に凝り固まっていく。神が何と仰っても、彼らは自分たちの好き勝手を行なおうとする。「あなたが主の御名によって私たちに語ったことばに、私たちは従うわけにはいかない」(エレ44:16)。説教された言葉は、彼らを癒すのではなく、かたくなにしてしまう。そして、人々が、たび重なる説教によって地獄に沈んでいくとは、何と戦慄すべきことか!

 祈りは、彼らの害となるべく働く。「悪者のいけにえは主に忌みきらわれる」(箴15:8)。悪人は非常な苦境に立っている。もし彼が祈らなければ罪を犯すことになる。祈っても罪を犯すことになる。「その祈りが罪となりますように」(詩109:7)。もしも人が口にするあらゆる食物が悪い体液になり、体内で病を引き起こすとしたら、それは悲しい審きである。それと同じことが悪人には起こっているのである。その人に善を施すはずの祈りは、その人の害となるべく働く。罪に反して祈っても、祈りに反して罪を犯すことになる。その人の種々の義務は不敬さにまみれており、偽善で汚されている。神はそれらを忌み嫌われる。

 主の晩餐は、彼らの害となるべく働く。「あなたがたが……主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。それとも、私たちは主のねたみを引き起こそうとするのですか」(Iコリ10:21、22)。一部の信仰告白者は、自分たちの偶像の祝宴を開いたままで、主の食卓にやって来ようとする。使徒は云っている。「私たちは主の怒りを引き起こそうとするのですか」*。俗悪な人々は、自分たちの罪を満喫している。それでいながら、主の食卓も満喫しようとする。これは神を怒らせることである。罪人にとっては、杯の中に死があり、その人は、「その飲み食いが自分をさばくことに」なる(Iコリ11:29)。このようにして、主の晩餐は、悔い改めようとしない罪人たちにとって害となるべく働く。そのパン切れの後には悪魔が入り込むのである。

 キリストご自身が、絶望的な罪人たちを害するためにお働きになる。主は、「つまずきの石、妨げの岩」である(Iペテ2:8)。主がそのようになられるのは、人々の心の堕落さのゆえである。というのも、主を信ずるかわりに、彼らは主に向かっ腹を立てるからである。太陽は、それ自体の性質としては清浄で快適なものであるが、痛む目には有害なものである。イエス・キリストは、多くの人々が立ち上がるためばかりでなく、倒れるためにも定められている(ルカ2:34)。罪人たちは《救い主》につまずき、いのちの木から死をもぎとる。化学油が一部の患者は回復させても、他の患者は死なせるのと同じように、キリストの血は、ある人々にとっては薬であるが、他の人々にとっては罪と定めるものとなる。ここにこそ、罪のうちに生き、罪のうちに死ぬ人々の、たとえようもないみじめさがある。最上の事がらが、彼らを害するために働くのである。強壮剤そのものが命を奪うのである

 (5) ここに神の知恵を見るがいい。神は、想像しうる最悪の事がらをも、聖徒たちの益となるべく転じさせることができるのである。神は、天来の化学作用によって、金滓から黄金を抽出することがおできになる。「ああ、神の知恵……は、何と底知れず深いことでしょう」(ロマ11:33)。神の大目的は、その知恵の驚嘆すべき深みを公にすることである。主は、ヨセフの牢獄を、栄職への階段になさった。ヨナが救われる道は、大魚に呑み込まれることしかなかった。神はエジプト人にイスラエルを憎ませ(詩106:41)、それが彼らの解放の手段となった。使徒パウロは鎖でつながれていたが、彼をつないでいたその鎖こそ、福音の伝播を拡大する手段となった(ピリ1:12)。神は、貧しくすることによって人を富ませ、財産を減少させることによって恵みを増大させてくださる。被造物が私たちから離れ去るとき、キリストが私たちのそば近くに来ておられるのかもしれない。神は、不思議なしかたでお働きになる。混乱から秩序をもたらし、不協和から調和をもたらしてくださる。神はしばしば、不正な人々を用いて正しいことを行なわれる。「神は心に知恵のある方」(ヨブ9:4)。人々の憤りから、ご自分の栄光を刈り取ることがおできになる(詩76:10)。悪人たちは、自分の意図した害を及ぼすことがないか、自分の意図せざる善を行なうしかない。神はしばしば、希望のかけらもないときに助けを与え、ご自分の民にとって破滅としか思えない道によって彼らをお救いになる。神は、大祭司の悪意やユダの裏切りを利用して世を贖われた。無分別な情動によって私たちは、起こり来る物事に難癖をつけることが多い。あたかも、文盲の人間が哲学を批判したり、盲人が絶景の風景にけちをつけるようなものである。「無知な人間も賢くな……る」(ヨブ11:12)。獣のごとき愚かな人々は、《摂理》を非難し、神の知恵を理性の法廷に引き出そうとするであろう。だが、神の道は「測り知りがたい」(ロマ11:33)。その深みを理解しようとするよりは、あがめるべきである。神の摂理のうち、あわれみか驚異を含んでいないものは1つもない。最大の逆境をもご自分の子らの益となるべく働かせるその知恵の、何と途方もなく、何と限りないことであろう

 (6) それでは、学びとるがいい。私たちは、外的な試練や非常事態に対して、いかに僅かな不満しかいだくべき理由がないことか! 何と! 私たちに善を施すものに対して不満をいだくというのか! すべてのことは善となるべく働くのである。神の民が何にもまして陥りやすい罪は、不信仰および不忍耐である。彼らはすぐに、不信仰から心くじかれるか、不忍耐から苛立ちを覚える。人々が不満や不忍耐から神に食ってかかるとき、それは彼らがこの聖句を信じていないしるしである。不満は恩知らずな罪である。なぜなら私たちは、患難よりも多くのあわれみを受けているからである。また、それは、筋の通らない罪である。なぜなら、患難は益となるべく働くからである。不満は私たちを罪に向かわせる。「腹を立てるな。それはただ悪への道だ」(詩37:8)。腹を立てる者が悪を行なうことは多い。腹を立てているヨナは罪を犯しつつあるヨナであった(ヨナ4:9)。悪魔は情動と不満という石炭を吹き起こし、その火で暖を取るのである。おゝ、自分の胸中のこの怒った毒蛇に餌を与えないようにしようではないか。この聖句によって忍耐を生み出そうではないか。「神を愛する人々……のためには、すべてのことが働いて益となる」(ロマ8:28)。私たちは、自分の益となるべく働くものに不満をいだくべきだろうか? もしもどこかの友人が金の詰まった財布を投げつけるとしたら、たとえ投げられた財布によって頭にかすり傷を負わされたとしても、さほど相手は心を波立たせたりしないであろう。それで金の詰まった財布を手に入れられたのである。それと同じように主は、私たちを患難で傷つけるかもしれないが、それは私たちを富ませるためにほかならない。こうした患難の数々は重い栄光を私たちにもたらすのである。それに不満をいだくべきだろうか

  (7) ここに聖書が成就しているのを見てとるがいい。「神は、イスラエルに……いつくしみ深い」(詩73:1)。私たちは、摂理が逆境をもたらすのを眺め、主がご自分の民を灰の中にすくませ、「苦よもぎで彼らを酔わせ」*なさるのを見るとき(哀3:15)、神の愛を疑い、神は御民につらくあたっておられると云いたくなるかもしれない。しかし、おゝ、否! それでも神はイスラエルにいつくしみ深くあられる。なぜなら神は、すべてのことを働かせて益としてくださるからである。すべてを益と転じてくださる神は、いつくしみ深い神ではないだろうか? 神は罪を取り除き、恵みによってお働きになる。これは良いことではないだろうか? 「私たち……は、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです」(Iコリ11:32)。私たちが患難に呑み込まれるのは、断罪に呑み込まれないようにするためにほかならない。私たちは常に、神が正しいと認めようではないか。自分の外的な状況がのべつまくなしに悪化していくとしても、「それでも神はいつくしみ深い」、と云おうではないか

 (8) 聖徒たちがいかにしばしば感謝というわざに携わるべき理由があるか、見てとるがいい。この点でキリスト者たちには欠けがある。彼らは多くの願いを捧げはするが、喜びを表わすことがほとんどない。使徒は、「いつも喜んでいなさい」、と云う(Iテサ5:18)。なぜだろうか? 神が、すべてのことを働かせて私たちの益としてくださるからである。気分の悪くなるような苦い薬を飲まされても私たちが医者に礼を云うのは、それが私たちを良くしてくれるからである。私たちは、自分に親切にしてくれる人にはだれにでも礼を云う。では私たちは、すべてのことを働かせて私たちの益としてくださる神に感謝すべきではないだろうか? 神は、感謝に満ちたキリスト者を愛してくださる。ヨブは、神からすべてを取り上げられたときも神に感謝した。「主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)。多くの人々は、神から何かを与えられるときに、神に感謝するであろう。だがヨブは、神から取り去られたときに、神に感謝した。神がそこから益をもたらしてくださると知っていたからである。聖書には、立琴を手にした聖徒たちのことが記されているが(黙15:2)、それは賛美の象徴である。私たちの出会う多くのキリスト者たちは、目に涙をため、口から愚痴をこぼしているが、立琴を手にして、患難の中にあっても神を賛美している者はほとんどいない。患難の中にあって感謝するのは、聖徒に特有の働きである。どんな鳥も春には鳴くものだが、ある鳥たちは真冬にも鳴く。だれでも順境にあるときには感謝できるのが普通だが、真の聖徒は逆境にあっても感謝できる。善良なキリスト者は、日出のときのみならず、日没のときにも神をほめたたえるであろう。私たちは、最悪のことがふりかかるときにも、感謝の詩篇を口にしてよい。すべてのことは益となるべく働くからである。おゝ、いついかなるときも大いに神をほめたたえるがいい。私たちは、自分の味方となってくださるお方には感謝するはずである。

 (9) 考えてみるがいい。もしも最悪の事がらが信仰者の益となるべく働くとしたら、最善の事がら――キリストと天国――が、いかに働くことか! これらがいかにいやまさって益となるべく働くことか! もし十字架にこれほどの益が含まれているとしたら、栄冠には何があるだろうか? もしゴルゴタでこれほど尊い実がたわわに実るとしたら、カナンで育つ果実はいかに美味であろうか? マラの泉にも何かしら甘いものがあるとしたら、パラダイスの葡萄酒はいかほどの甘さであろうか? もし神の杖がその先に蜂蜜をつけているとしたら、神の金の笏には何がついているだろうか? もし悩みのパンがこれほど風味よいものだとしたら、マナの味はいかほどだろうか? 天の神饌の味はいかほどだろうか? もし神の打擲が益となるべく働くとしたら、神の御顔の微笑みは何をもたらすだろうか? もし誘惑や苦しみが喜びの種を含んでいるとしたら、栄光には何があるだろうか? もしも悪の中からこれほどの善が引き出されるとしたら、いかなる悪もない場所での善はいかほどのものだろうか? もし懲らしめを授ける神のあわれみがこれほど大きなものであるとしたら、栄冠を授ける神のあわれみは、いかなるものとなるだろうか? こういうわけで、このことばをもって互いに慰め合うがいい

 (10) 考えてみるがいい。もし神がすべてのことを働かせて私たちの益としてくださるとしたら、私たちがすべてのことを働かせて神の栄光を押し進めることが、いかに正しいことか! 「何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい」(Iコリ10:31)。御使いたちは神をたたえ、彼らは天来の賛歌を歌っている。それでは、人間がいかに神をたたえるべきであろう! 人間のために神は御使いたちのため以上のことをなしておられる。神は、私たちの性質を《神格》に結び合わせることによって、彼らにまさる尊厳を私たちに与えておられる。キリストは、御使いたちのためではなく、私たちのために死なれた。主は私たちに、単にその満ちあふれる恩恵の貯えの中から、一般的な恵みをお与えになるばかりでなく、契約の祝福によっても私たちを豊かにしてくださった。神は私たちに、ご自分の御霊を授けてくださった。神は私たちの幸福を細心の注意を払って気遣い、私たちのためにすべてのことを益としてくださる。無代価の恵みによって、私たちの救いの計画は据えられている。神が私たちの益を求めておられる以上、私たちも神のご栄光が大ならしめられることを求めるべきではないだろうか?

 問い。私たちが神の栄光を大ならしめるなどと云うのは、ふさわしいことだろうか? 神は、その種々の完全なご性質において無限であられ、私たちがつけ足しをする余地など全くありえないはずである。

 答え。厳密な意味において、確かに私たちは、神の栄光を大ならしめることはできないが、福音的な意味においては、そうすることができる。私たちが自分の有する力によって神の御名を世で高く掲げ、他の人々に、神について高く敬意に満ちた思いをいだくようにさせるとき、これを主は、ご自分の栄光が現わされたものと解してくださる。それは、ある人の行為によって神の御名があしざまに口にされるようになるとき、神の栄誉を汚したと云われるのと同じである。

 私たちは、3つの場合において、神の栄光を押し進めていると云える。(1) 私たちが神の栄光を目当てとするとき。神を私たちの思いの中で真っ先に考え、私たちの目的の中で最終的なものとするとき。あらゆる河川が海に流れ込み、あらゆる線が中心に集束するように、私たちのあらゆる行為も、神に終結し、集中するのである。(2) 私たちは、恵みにおいて実り豊かな者となることによって、神の栄光を押し進める。「あなたがたが多くの実を結(ぶ)……ことによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」(ヨハ15:8)。不毛さは、神に不名誉をもたらす。私たちが神の栄光を現わすのは、私たちが美しさにおいてはゆりの花のように、高さにおいては杉のように、豊穣さにおいては葡萄のように成長するときである。(3) 私たちは、自分のすべての行為の賞賛と栄光を神に帰すとき、神の栄光を現わしている。あるときスウェーデン王は、この上もなくすぐれた、謙遜な言葉を口にした。彼は、当然神に帰されるべき栄誉を民衆が自分に捧げることによって、自分のわざの完成前に取り除かれることを恐れる、と云ったのである。蚕は、その優美な作品を紡ぎ出すとき、自分の姿を絹糸の奥に隠し、見えなくなる。私たちも、自分の最善を尽くした後では、自分自身の思いの中からも全く姿を消し、すべての栄光を神に渡さなくてはならない。使徒パウロはこう云っている。「私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました」(Iコリ15:10)。人は、こうした言葉に高慢の気味があると考えるであろう。だが、使徒はその冠を自らの頭から取り去り、それを無代価の恵みの頭に戴かせるのである。「しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです」。コンスタンティヌス*3は、キリストの御名を扉の上に書いておくが常であった。私たちも、自分の種々の義務について、そうすべきである。

 このように私たちは、神の御名を栄誉あるもの、名高いものとするように努力しようではないか。神が私たちの益を求めてくださる以上、私たちは神の栄光を求めようではないか。神がすべての事がらを私たちの徳を高めることにつながるようにしてくださる以上、私たちはすべての事がらが神への賛美につながるようにしようではないか。さて、この聖句で言及されている特権については、ここまでということにしたい。


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*1 アテネの政治家で、紀元前480年、有名なサラミスの海戦でペルシア軍を撃破した。後に失脚して故国から亡命した。[本文に戻る]

*2 著名なローマの(ストア派)哲学者、著述家。特に皇帝ネロの治世に勢威をふるった(紀元65年没)。[本文に戻る]

*3 キリスト教を告白した最初のローマ皇帝(紀元337年没)。[本文に戻る]

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