第2章 最悪の事がらは敬虔な人々の益となるべく働く
誤解しないでほしいが、私は何も、最悪の事がらはそれ自体の性質として良いものだと云っているのではない。それらは呪いの実だからである。だがそれらは、確かに本性上は悪であるとしても、その上手を行く、いとも賢き神の御手によって役に立つものとされ、聖められるとき、道徳的には良いものとなる。あたかも、風火水土の四要素が、相反する性質であるにもかかわらず、神の調合によって、みな宇宙の益となる調和のとれたしかたで働いているように、あるいは、時計の内部に組み込まれた個々の歯車が、反対方向に動いているように見えても、みな時計を作動させているように、敬虔な人々に逆らって起こるように見える事がらも、神の素晴らしい摂理によって、彼らの益となるべく働くのである。こうした最悪の事がらの中には、4つの悲しい悪があるが、それらは、神を愛する人々の益となるべく働いている。
1. 患難という悪は、敬虔な人々の益となるべく働く。
いかなる患難が私たちにふりかかる際にも、神はそこに特別な御手を加えておられる。これは、私たちの心を元気づける考えである。「全能者が私をつらいめに会わせられました」(ルツ1:21)。斧が、人手によらなくては自分では何も切ることができないように、神に命令されない限り、いかなる道具も、何1つ身動きはできない。ヨブは彼の苦しみの中に神を見た。それゆえ、アウグスティヌス*1が述べているように、彼は、「主は与え、悪魔は取り去る」、とは云わず、「主は与え、主は取られる」、と云っているのである。いかなる者が私たちに苦しみをもたらそうと、その送り主は神である。
もう1つ、心を元気づける考えは、患難が益となるべく働く、ということである。「この良いいちじくのように、わたしは、この所からカルデヤ人の地に送ったユダの捕囚の民を良いものにしようと思う」(エレ24:5)。ユダがバビロンに捕え移されたのは、彼らの益となるためであった。「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした」(詩119:71)。この聖句は、苦い泉にモーセが投げ込んだ木のように、患難の苦い水を飲むに甘く、健全なものとすることができる[出15:25]。敬虔な人々の出会う患難には薬効がある。この上もなく有毒な薬の中から、神は私たちの救いを抽出なさる。患難は、種々の典礼と同じくらい必要なものである(Iペテ1:6)。火がなくては、いかなる器も黄金から作り出せないように、私たちも、患難の炉で溶かされて、精錬されない限り、尊い器となることは不可能である。「主の小道はみな恵みと、まことである」(詩25:10)。画家が明るい色に暗い影の縁取りを施すように、いと賢き神も、あわれみと審きを合わせて与えなさる。一見、有害なものに見えるこうした摂理的な患難は、恩恵をもたらしているのである。聖書の中からいくつかの例を見てみよう。
ヨセフの兄たちは、彼を穴の中に投げ入れ、その後で彼を売り飛ばした。その後、彼は投獄の憂き目にあった。だが、これらすべては彼の益となるべく働いた。彼は、卑しめられたからこそ高められ、王国第二の地位を占めるまでになった。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(創50:20)。ヤコブは御使いと格闘して、もものつがいをはずされた。これは悲しいことであった。しかし神はそれを益へと変えられた。というのもそこで彼は神の顔を見て、そこで主は彼を祝福なさったからである。「ヤコブは、その所の名をペヌエルと呼んだ。『私は顔と顔とを合わせて神を見た……』という意味である」(創32:30)。神を一目見られるとあらば、骨の一本くらいはずれることにだれが四の五の云うだろうか?
マナセ王は鎖につながれた。これは見るも痛ましいことであった。----黄金の冠が足鎖によって取って代わられたのである。だが、それは彼の益となった。というのも、「しかし、悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ……た」からである(II歴33;11、12)。彼は、その黄金の王冠よりも、その鉄鎖の方のおかげをこうむった。一方は彼を高ぶらせたが、もう一方は彼をへりくだらせた。
ヨブは見るも無惨な有様に陥った。彼は自分の持ち物をことごとく失い、ふんだんにあるものと云えば、腫れ物やおできしかなかった。これは悲しいことであった。だが、それは彼の益となった。彼の恵みは証明され、増進した。神は天から彼の誠実さを証言し、彼の損失を、かつて彼が所有していた二倍のものを与えることで償ってくださった。
パウロは打たれて盲目にされた。これは不快なことであったが、彼の益となった。その盲目によって神は、彼の魂に恵みの光の輝きが射し込むようにしてくださった。それは幸いな回心の発端であった(使9:6)。
冬の間の厳寒によって、春の花々がもたらされるように、また夜が明けの明星を先導するように、患難という悪は、神を愛する人々にとって、大きな益を生み出すのである。しかし私たちはこのことの正しさに疑念を呈することがあまりにも多く、マリヤが御使いに云ったように、「どうしてそのようなことになりえましょう」、と云いがちである。それゆえ私は今から、いかにして患難が益となるべく働くかを示してみたいと思う。
(1) 私たちの説教者また教師として。----「聞け。杖に」(ミカ6:9 <英欽定訳>)。ルターの言葉によると、彼が詩篇の中の何篇かを初めて正しく理解できるようになったのは、苦しみを受けた後であったという。患難は、罪がいかなるものかを教える。みことばの説教によって私たちは、罪がいかに恐ろしいものか、いかにそれが心を汚すと同時に断罪するものであるかを耳にするが、私たちはそれを絵に描いた獅子ほどにしか恐れようとしない。それゆえ神は、患難を解き放ち、そのとき私たちは、罪がその実において苦いものであることを感じとるのである。病床は、しばしば一編の説教以上によくものを教える。私たちが罪の醜い素顔を最もよく見てとれるのは、それが患難という鏡に映し出されたときである。患難は私たちに、自分自身を知ることを教える。繁栄の中にあるとき私たちは、大概の場合、自分自身のことがほとんどわからない。神は、私たちが身をもって患難を知るようにさせ、自分自身をよりよく知ることができるようになさる。私たちが患難の時に見てとる自分の心の中の腐敗は、私たちがそこにあるとは夢にも思わなかったようなものである。杯の中にある水は澄み切って見えるが、それを火にかけて沸騰させると、かすが浮き上がってくる。繁栄のうちにあるとき、人はへりくだって感謝に満ちたようすで、澄み切って見える。だがその人をちょっとでも患難の火の上にかざすと、かすが浮き上がってくる。----激しい苛立ちや、不信仰が姿を現わす。「おゝ」、とキリスト者は云う。「私は、いま目にしているほど悪い心をしているとは思ってもいなかった。私の腐敗がこれほど強く、私の恵みがこれほど弱いとは思ってもいなかった」。
(2) 患難が益となるべく働くのは、それが心をより直ぐなものとするための手段だからである。繁栄のうちにあるとき、心は2つに分かれがちである(ホセ10:2)。その心は、一方では神にすがりつき、一方では世にすがりつく。それは2つの天然磁石の間に置かれた針のようである。神が引き寄せ、世も引き寄せる。そこで神は世を取り除き、心がより真摯に神にすがりつくようになさるのである。矯正とは、心を正しく、また真っ直ぐにすることである。私たちが時々、曲がった杖を火の上にかざして真っ直ぐにするように、神も私たちを患難の火の上にかざして、私たちをより真っ直ぐに、また、より廉直になさるのである。おゝ、罪が魂を曲げて神から遠ざけたときに、患難がそれをもう一度真っ直ぐにするとは、何と良いことか!
(3) 患難が益となるべく働くのは、それが私たちをキリストに似たものとするからである。神の鞭は、私たちの上にキリストのかたちをより生き生きと描くための鉛筆である。頭と肢体の間で、均整と釣り合いがとれているのは良いことである。もし私たちが、キリストの神秘的なからだの一部となりたければ、キリストのようになるのが当然ではなかろうか? キリストの生涯は、カルヴァンが云うように苦難の連続であり、「悲しみの人で病を知っていた」(イザ53:3)。彼は涙を流し、血を流した。キリストが頭にいばらの冠をかぶせられたというのに、私たちは薔薇の冠をかぶらされると考えているのだろうか? 苦しみにおいてであれ、キリストに似た者となるのは良いことである。イエス・キリストは苦い杯を飲まれた。キリストはそのことを考えるだけで、血の汗を流すほどであった。そして、確かにキリストはその杯の中の毒(神の御怒り)を飲まれたとはいえ、その杯の中にはまだある程度は苦いものが残っていて、それを聖徒は飲まなくてはならない。キリストの苦難と、私たちのそれとの間にある違いはただ1つ、彼の苦難は満足のため*2であったが、私たちの苦難は単に折檻のため*3である。
(4) 患難が敬虔な人々の益となるべく働くのは、それが罪を滅ぼす力を有するからである。罪は母親であり、患難は娘である。娘は母を滅ぼす助けをする。罪は地虫の発生源となる木のようなものであり、患難はその木を食い尽くす地虫のようなものである。いかにすぐれた心の中にも、大きな腐敗がある。患難がそれを徐々に取り除いていくのは、火が金から金滓を取り除いていくのと同じである。「これが、自分の罪を除いて得られる報酬のすべてだ」(イザ27:9)。もし、いま以上に錆がなくなるとしたら、荒々しい火をもう少し受けるとしても、それが何だろうか! 患難が除き去るのは罪という金滓でしかない。たとえば医者が患者にこう云ったとする。「あなたの肉体は病に冒されており、全身に毒が回っています。それをきれいに取り除かなければ、あなたは死ぬしかありません。しかし、私がこれから処方する薬は、あなたの気分を悪くするかもしれませんが、あなたの病をきれいさっぱり追い払い、あなたの命を救うことでしょう」。これは患者にとって益となるではないだろうか? 患難は、神が私たちの霊的病を除去するために用いる薬である。それは高慢の鼓脹*4、情欲の高熱、貪欲の浮腫を癒す。では、それは、益となるべく働くのではないだろうか?
(5) 患難が益となるべく働くのは、それが、私たちの心をこの世から解き放つための手段だからである。人が地面を掘り返して木の根から引き離すのは、その木を地面から引き抜きやすくするためである。そのように神は、私たちの地上的な慰めを掘り返して私たちから引き離し、私たちの心を地上から引き抜きやすくするのである。どんな花からもとげは生え出てくる。神が望んでいるのは、この世が私たちに、ぐらぐらと今にも抜けそうな歯のようにくっついていることである。たとえそれを指でつまんで引き抜いても、大して痛まないような状態にさせることである。そのように世に嫌気がさすのは良いことではないだろうか? このことは、いかに老練な聖徒にも必要である。主が水道管を壊すのは、私たちが主のもとに行くためでなくて何であろう。主こそ、「私の泉はことごとく、あなたにある」、と呼ばれるべきお方である(詩87:7)。
(6) 患難が益となるべく働くのは、それが慰めに至る道となるからである。「アコルの谷を望みの門としよう」(ホセ2:15)。アコルは困難を意味している。神は、外的な痛みを内的な平安によって甘やかなものとなさる。「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(ヨハ16:20)。ここには、葡萄酒に変じられた水がある。苦い丸薬の後で、神は砂糖を与えてくださる。パウロには、その牢獄での歌があった。神の鞭の先には蜜がついている。患難のうちにあった聖徒たちは、あまりにも甘美な喜びに恍惚となったため、自分が天のカナンの境界にいると考えたほどであった。
(7) 患難が益となるべく働くのは、それが私たちを尊んでいるからである。「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは」(ヨブ7:17)。神は患難によって、私たちを三通りのしかたで尊ばれる。(a) それによって神は、私たちに注意を留めてくださるほどに低く身をへりくだらせてくださる。神がちりや灰を心にかけてくださるのは栄誉なことである。神が私たちを打つに値する者であるとみなされること、それは私たちを尊んでいるということである。神が打擲しないのは軽んじていることにほかならない。「あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか」(イザ1:5)。もしあなたがたが罪の中を歩み続けというなら、勝手にするがいい。地獄に落ちるまで罪を犯し続けるがいい。(b) 患難が私たちを尊ぶというのは、それが栄光の標章、私たちが子とされているというしるしだからでもある。「訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです」(ヘブ12:7)。鞭の跡の1つ1つは、栄誉の記章である。(c) 患難が聖徒たちを尊ぶことになるというのは、それが彼らの名前を、世にあって高めるからである。いかなる勝利をおさめた兵士たちも、苦難を受けてきた聖徒たちほど賞賛されたことは決してなかった。その試練に耐え抜いた殉教者たちの熱心と不動の信仰は、世々にわたって彼らの名を高からしめた。ヨブはその忍耐のゆえにいかに名を挙げたことか! 神は彼の名を記録に残しておられる。「あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています」(ヤコ5:11)。受苦者ヨブは、征服者アレクサンドロスよりも名高い。
(8) 患難が益となるべく働くのは、それが私たちを幸福にする手段だからである。「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は」(ヨブ5:17)。いまだかつて、いかなる政治家が、あるいは道徳家が、幸福は苦難の中にあるとしただろうか? ヨブはそうしている。「ああ、幸いなことよ。神に責められるその人は」。
いかにして患難が私たちを幸福にするのか? そう云われるかもしれない。私たちはこう答える。聖なるものとされるとき、それは私たちを神に近づける。満ちたときの月は、太陽から最も遠く離れている。そのように満月のごとき繁栄のうちにある多くの人は神から遠く離れている。その彼らを、患難は神に近づけるのである。あわれみの磁石は、患難の紐ほどには、私たちを神の近くに引き寄せない。アブシャロムがヨアブの麦に火をつけたとき、ヨアブは走って彼のもとにやって来た(IIサム14:30)。神が私たちの世的な慰めに火をつけるとき、そのとき私たちは神のもとに走り行き、神との平安を得ようとするのである。放蕩息子は欠乏のあまり困窮して初めて、自分の家に帰って父のもとに行った(ルカ15:13)。鳩は、その足を休める場所が見あたらなかったとき、箱舟のもとに帰って来た。神が患難の洪水を私たちの上にもたらすとき、私たちはキリストという箱舟のもとに逃げ帰るのである。このようにして患難は、私たちを神に近づけることによって幸福にする。信仰は患難という流れを利用すれば、より早くキリストのもとに泳ぎ着くことができる。
(9) 患難が益となるべく働くのは、それが悪人を沈黙させるからである。いかに彼らは、敬虔な人々をそしり、中傷し、単にご利益のために神に仕えているのだと云い立てることか。それゆえ神は、ご自分の民がキリスト教信仰のために苦しみに耐えるようにし、悪人どもの偽りの唇を南京錠で閉ざされるのである。神には、食べ物が与えられるためではなく、愛ゆえに神に仕える民がいるのだということを世の無神論者たちが目にするとき、それは彼らの口をふさぐことになる。悪魔はヨブを偽善者だと非難し、欲得づくの人間だと云った。彼の信仰の内実は金銀を目当てにしたものでしかない、と。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。あなたは彼……の回りに、垣を巡らしたではありませんか」、云々。そこで神は云っておられるのである。「よろしい。では、お前の手を伸ばして、彼の財産にふれてみるがいい」、と(ヨブ1:9)。悪魔はこう許されるやいなや、ヨブの垣を打ち壊しにかかった。だが、それでもヨブは神を礼拝し(1:20)、神に対するその信仰を告白している。「神が私を殺しても、私は神を待ち望(も)……う」(13:15)。これによって悪魔は黙らされてしまった。敬虔な人々が苦境の中にあっても神から離れることをせず、すべてを失ってもなお、自分の誠実を堅く保つのを目にするとき、それはいかに悪人どもの意気を鈍らせることか。
(10) 患難が益となるべく働くのは、それが栄光への道となるからである(IIコリ4:17)。それは、栄光を受ける功徳となるということではなく、栄光を受ける備えとなる。土を耕すことが作付けの備えであるように、種々の患難は私たちが栄光に出会う備えとなり、私たちをそれにふさわしいものとするのである。画家がその黄金の色を暗い背景色の上に塗るように、神もまず患難という暗い色を塗ってから、栄光の黄金色を塗ってくださるのである。器はまずよく鍛えられてから葡萄酒が注がれる。あわれみの器もまず患難でよく鍛えられてから栄光の葡萄酒が注がれるのである。このように、私たちの見るところ、患難は聖徒たちに有害なものではなく、恩恵をもたらすものである。私たちは患難の悪よりも、その益の方により多く目を留めるべきである。雲の影の側よりも、光輝く側に目を留めるべきである。神がその子どもたちをいかに辛い目に遭わせるとしても、それは彼らを天国にむちで追い立てることでしかない。
2. 誘惑という悪は、転じて敬虔な人々の益となる。
誘惑という悪は、益となるべく働く。サタンは試みる者と呼ばれる(マタ4:3)。彼は常に待ち伏せしており、絶えず聖徒たちに次々と働きかけている。悪魔には、毎日歩く巡回路がある。彼は、まだ完全には獄に入れられておらず、保釈中の被告人のように大手を振って、聖徒たちを誘惑しようとあちこち歩き回っている。これは神の子どもにとって大きな苦悩の種である。さて、サタンの誘惑については3つのことを考えるべきである。(1) 彼が誘惑する手口。(2) 彼の力の範囲。(3) こうした誘惑は転じて益となる。
(1) サタンが誘惑する手口。ここでは2つのことに注意するがいい。彼の誘惑の激しさ。それで彼は赤い竜と呼ばれている[黙12:3]。彼は手を尽くして心の城塞を強襲しようとし、冒涜的な思想を投げつけ、神を否定させようと誘う。これらは、彼が投げかける火の矢であり、それによって種々の情動を燃やさせようとするのである。もう1つは、彼の誘惑の狡猾さ。それで彼は古い蛇と呼ばれている[黙12:9]。悪魔は、主として5つの陰険な手段を用いる。
(a) 彼は、それぞれの人の気質や体質を観察しており、ふさわしい餌で釣って誘惑する。農夫のように彼は、いかなる穀類がその土地に最適か知っている。サタンは生来の性向や気質に逆らって誘惑しはしない。彼の方針は、風と潮とを相ともに進ませることである。生まれながらの心の潮流に沿って、誘惑の風は吹く。悪魔は、人の思いを読むことはできないが、相手の気質はわきまえており、それに従って、その餌をしかける。彼は野心的な人間は王冠で誘惑し、多感な人間は美で誘惑する。
(b) サタンは誘惑すべき最適の時を観察している。老練な釣師は、魚が一番食いつきやすい時間にその釣針を垂らすものである。サタンが誘惑する時は、通常は聖餐式の後である。というのも、そのときには私たちが最も油断しているはずだと考えるからである。私たちは、厳粛な義務を果たし終えた後では、つつがなく万事完了したと考えがちで、不注意になり、以前のような熱心や厳格さをないがしろにしてしまう。さながら戦闘を終えて武具を解いた後の兵士が、軍のことなどきれいに忘れ果ててしまうのと全く同じく、サタンは好機を待ちかまえており、私たちが夢にも思わぬときに、その誘惑を投げ込んでくるのである。
(c) 彼は近親の者たちを利用する。悪魔は代理人によって誘惑する。そのようにして彼はヨブに対しては、その妻を使って誘惑を手渡させた。「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか」(ヨブ2:9)。自分の愛妻が、罪に誘う悪魔の誘惑の道具となることもありえるのである。
(d) サタンは良いものによって悪へと誘惑する。それで、黄金の杯に入れて毒を差し出すのである。彼はキリストをペテロによって誘惑した。ペテロはキリストが苦難を受けないように思いとどまらせようとした。先生、御身を大事になさってください、と。使徒の口に誘惑者が宿るなど、だれに思い及んだであろうか?
(e) サタンは信心深そうなみせかけによって罪に誘惑する。彼が最も恐るべき存在となるのは、自ら光の御使いに変装したときにほかならない。彼はキリストのもとにやって来たとき、その口に聖書の言葉を伴っていた。「と書いてありますから」[マタ4:6]。悪魔はその釣針に信心深げな餌をつける。彼が多くの人々を貪欲さや金品強奪へと誘惑するのは、自分の家族に不自由をさせまいという口実によってである。彼がある人々を自死へと追いやるのは、もはや神への罪を犯しながら生きなくともよいのだと思わせることによってである。それと同じく彼は、人々を罪に引き寄せるのに、罪を避けるという口実のもとでそうする。こうした事がらが、誘惑における彼の狡猾な計略である。
(2) 彼の力の範囲。誘惑におけるサタンの力の限界はどこにあるか。
(a) 彼は何らかの目当てを提示することができる。そのようにして彼は、アカンの前に金の延べ棒を置いた。
(b) 彼は夢想に毒を流し込み、悪い思いを心にしみ込ませることができる。聖霊が良い示唆を吹き込むのと同じように、悪魔は悪い示唆を吹き込んでくる。彼はキリストを裏切る思いをユダの心に入れた(ヨハ13:2)。
(c) サタンは内側の腐敗をかき立て、刺激し、誘惑を受け入れたがるような一種の意向を心に作り出すことができる。確かにサタンは、力づくで意志を同意させることはできないが、熱烈に懇願し、絶えず誘導し続けることによって、人をそそのかして悪に引き込むことができる。このようにして彼はダビデをそそのかして人口調査をさせた(I歴21:1)。悪魔は、その狡猾な議論によって、私たちを論破して罪に誘い込めるのである。
(3) こうした誘惑は、転じて神の子どもたちの益となる。風によって揺さぶられる木は、それだけしっかりと根を張ることになる。そのように、誘惑の強風はキリスト者をより恵みに根づかせずにはおかない。誘惑は、8つのしかたで益となるべく転ぜられる。
(a) 誘惑は魂を祈りに向かわせる。サタンが猛烈に誘惑すればするほど聖徒は、いやまして熱烈に祈ることになる。矢を射かけられている鹿は、それだけ迅速に水辺へと向かう。サタンがその火矢を魂に射かけるとき、その魂はそれだけ素早く恵みの御座にひた走っていく。パウロは、サタンの使いによって打たれたとき、こう云っている。「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」(IIコリ12:8)。誘惑は、油断に対する薬である。私たちをいやまして祈らせるものは、益となるべく働いているのである。
(b) 罪への誘惑は、罪を犯させないように保たせる手段である。神の子どもは、誘惑されればされるほど、その誘惑に対して戦うようになる。サタンが冒涜させようと誘惑すればするほど、聖徒はそのような考えに身震いし、「引き下がれ、サタン」、と云うようになる。ヨセフの女主人が彼を猥褻なふるまいへと誘惑したとき、彼女の誘惑が強くなればなるほど、彼の抵抗も強くなった。神は、罪への拍車として悪魔が用いる誘惑を、キリスト者を罪に寄せつけずにおくための手綱となさるのである。
(c) 誘惑が益となるべく働くのは、それが高慢の膨張を弱めるからである。「私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです」(IIコリ12:7)。その肉体のとげは、高慢がふくれあがるとき穴を開けるためのものであった。私をへりくだらせる誘惑の方が、私を高ぶらせる義務よりもましである。神は、キリスト者が思い上がった者となるよりは、悪魔の手に一時的に陥らせ、その腫瘍を癒されることをお望みになる。
(d) 誘惑が益となるべく働くのは、それが心の中にあるものを試す試金石だからである。悪魔が誘惑するのは欺くためである。だが私たちが誘惑されるのを神がお許しになるのは、私たちを試すためである。誘惑は、私たちの真摯さをはかる試験である。私たちが誘惑に真っ向から立ち向かい、それに背を向けることができるとき、誘惑によって私たちの心はキリストに対して貞潔で忠実であるとわかるのである。またそれは、私たちの勇気をはかる試験でもある。「エフライムは、愚かで勇気のない鳩のようになった」(ホセ7:11 <英欽定訳>)。それと同じことが多くの人について云えよう。彼らは勇気がない。誘惑に抵抗する何の勇気もない。サタンがやって来るや否や、彼らは屈してしまう。盗人の姿を見たとたんに財布を出して与える臆病者と同様である。しかし、サタンに対して御霊の剣をふるい、死んでも降伏しようとしない者こそ勇敢なキリスト者である。ローマ人の勇気が最も明らかになったのは、カルタゴ人による侵攻を受けたときをおいてほかにはない。聖徒の剛勇と胆力が最も明らかになるのは、戦場をおいてほかにはない。彼が赤い竜と戦い、信仰の力によって悪魔を追い散らすときをおいてほかにはない。その恵みは精錬された純金であり、火のように燃える試練にあっても耐え抜き、火の矢にも屈さずにいられる。
(e) 誘惑が益となるべく働くのは、誘惑を受けた者たちが、同じ苦悩を味わう他の人々を慰めるのにふさわしい者と、神からさせられるからである。キリスト者は自分自身がサタンによって打たれて初めて、重荷を負った者に対して時宜にかなった言葉を語れるようになる。聖パウロは種々の誘惑に精通していた。「私たちはサタンの策略を知らないわけではありません」(IIコリ2:11)。それで彼は、他の人々に向かってサタンの呪うべき策略について知らせることができたのである(Iコリ10:13)。泥沼や流砂のある土地を乗り越えたことのある人こそ、その危険な道を越えようとする他の人々の案内人として最適の人である。かのほえたける獅子の鉤爪を肌で感じ、傷を負って倒れて血を流したことのある者こそ、誘惑を受けている人々を扱うのに最適の人物である。サタンの狡猾さ、抜け目なさをだれにもまして見抜くことができるのは、誘惑という剣術学校で長い間鍛えられた者にほかならない。
(f) 誘惑が益となるべく働くのは、それが誘惑されている者たちに対する父としての同情を神のうちにかき立てるからである。病んで傷ついている子どもほど手厚く面倒を見てもらえる者はない。聖徒が誘惑によって傷を負い打ち伏しているとき、キリストは祈り、父なる神はあわれんでいてくださる。サタンが魂を熱病にかからせるとき、神は強壮剤を携えてやって来てくださる。こういうわけでルターは云うのである。誘惑はキリストの抱擁である。なぜなら、そのときキリストは、魂に対してご自分を甘やかに現わしなさるからだ、と。
(g) 誘惑が益となるべく働くのは、それが聖徒たちをしてより天国を慕い求めさせるからである。そこでは彼らは、この戦いの射程外に出る。天国は安息の場所であり、誘惑の弾丸がそこで飛び交うことはない。空高く舞い上がり、木々の高いこずえの上に座す鷲が、蛇の毒牙によって悩まされることのないように、信仰者たちも、天国に上げられたときには、かの古い蛇によって苦しめられることはない。現世にあっては、1つの誘惑が終わると、別の誘惑がやって来る。これは神の民をして死を願わせるためである。それは彼らにとって退却のらっぱの響きであり、四方八方を矢玉が飛び交う戦場を離脱して、勝利の冠を受けるときである。そこでは軍鼓の音も砲声も聞こえず、竪琴と弦楽の音が絶えず鳴り響いているのである。
(h) 誘惑が益となるべく働くのは、それがキリストの力を引き込むからである。キリストは私たちの《友》であり、私たちが誘惑されるとき、キリストはその全力を私たちのために働かせてくださる。「主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです」(ヘブ2:18)。もしもあるあわれな魂が地獄のゴリヤテと独力で戦わなくてはならなかったとしたら、その人は確実に打ち負かされるであろう。だがイエス・キリストがその人の援軍をもたらしてくださり、イエス・キリストが恵みを新鮮に補充してくださる。「私たちは……(この)方によって……圧倒的な勝利者となるのです」(ロマ8:37)。このようにして誘惑という悪は、転じて益となるのである。
問い。しかし、時としてサタンは神の子どもを踏みにじることがある。これがどうして益となるべく働いていることになるのだろうか?
答え。確かに私も、天来の恵みが一時的にやって来なくなることにより、また誘惑の熾烈さにより、聖徒が征服されることがあるとは認める。だが、誘惑によってこのように踏みにじられることもまた、益となるべく転じられるのである。このように踏みにじらせることによって神は、恵みが増強される道を開いてくださる。ペテロは自信過剰という誘惑を受け、自分の力を過信した。そして彼がひとりきりで立たなくてはならなかったとき、キリストは彼が倒れるにまかせられた。しかし、これは彼にとって益となり、彼には大いに涙を振り絞らせた。「彼は出て行って、激しく泣いた」(マタ26:75)。そしていま、彼はより謙虚になった。もはや彼は、他のどの使徒にもまさってキリストを愛しているなどと云うことはなくなった。「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか」(ヨハ21:15)。はい、愛します、とは彼には云えなかった。その転落が彼の高慢の首根をへし折ったのだった。誘惑で踏みにじられることによって、神の子どものうちには、より多くの慎重さや用心深さが引き起こされる。確かに以前のその人はサタンからおびき寄せられて罪に陥らされたが、今後のその人はいやまして用心深くなるであろう。獅子の鎖の圏内に入り込むことがないように注意するであろう。罪のきっかけになることを、以前よりも用心し、恐れるようになるであろう。自分の霊的な武具を持ちもせず、また、その武具を祈りによってまといもせずに外に出歩くことは決してしないであろう。その人は、自分が滑りやすい地面の上に立っていることをわきまえており、それゆえ自分の一歩一歩に抜け目なく目を配るであろう。その人は、自分の魂を見張って目を離さず、悪魔がやって来るのを見つけ出したときには、武具を取って立ち上がり、信仰の手並みを披瀝するであろう(エペ6:16)。これこそ、悪魔がもたらすことのできる害悪のすべてである。悪魔がひとりの聖徒を誘惑によって踏みにじるとき、悪魔はその人の無頓着な怠慢さを癒すことになる。その人を、いやまさって目を覚まして祈っているようにさせる。野の獣が垣根を破って小麦に被害を与えるとき、その人は自分の柵をより頑丈なものとするであろう。同じように、悪魔が誘惑によって垣根を破るとき、キリスト者はその柵を補修するに違いない。その人はより罪を恐れるようになり、義務を注意深く果たすようになるであろう。このようにして、誘惑に負かされることは、益となるべく働くのである。
反論。 しかし、もし踏みにじられることが益となるべく働くとしたら、キリスト者たちは、誘惑に打ち負かされようが打ち負かされまいが、どうでもいいかのように無頓着になりかねない。
答え。 誘惑に陥ることと、自ら誘惑の中に突き進むことは大違いである。誘惑に陥ることは益となるべく働くが、誘惑に突き進むことはそうではない。誤って河に落ちた人は助けと憐れみを乞い求める資格があるが、自暴自棄になって河に飛び込んだ者は自死の罪を犯したことになる。獅子の穴に飛び込むのは狂気の沙汰である。自ら誘惑に突き進む者は、自分の剣の上に身を倒したサウルのようなものである。
ここまで述べられたことすべてから、いかに神がかの古い蛇の裏をかいておられるか見てとるがいい。彼の種々の誘惑を、神は転じて御民の益としておられるのである。確かに悪魔は、誘惑によっていかに多くの恩恵を聖徒たちに与えてしまうかを知っていたとしたら、誘惑をしかけるのを手控えるに違いない。かつてルターは云った。「キリスト者を形作るものが3つある。----祈りと、瞑想と、誘惑である」、と。使徒パウロは、そのローマへの航海において、向かい風に出会った(使27:4)。そのように、誘惑の風は、御霊の風にとっては向かい風である。だが神は、この横風を利用して、聖徒らを天国に吹き流してくださるのである。
3. 神からの隔絶という悪は、敬虔な人々の益となるべく働く。
神から隔絶されるという悪は、益となるべく働く。花嫁は自分が見捨てられたことに不平を云っている。「愛する方は、背を向けて去って行きました」(雅5:6)。神が背を向けて去るとは、2つのことを意味している。1つは、恵みという点で、神がその御霊の影響を差し止め、恵みの活発な動きを引き留めることである。御霊が去ると、恵みは冷たく、無活動の状態に凍りついてしまう。あるいはそれは、慰めという点で、背を向けて去ることである。神がその甘やかないつくしみの現われを引き留めるとき、神はそれほど喜ばしいお姿には見えず、ご自分の御顔におおいをかけて、魂から全く離れ去ってしまったように思われる。
神は、いかに私たちに背を向けて去るときも全く正しい。神が私たちを見捨てる前に、私たちが神を見捨てているからである。私たちが神を見捨てるとは、私たちが神との密接な交わりを打ち切るとき、あるいは神の真理を見捨てて神のために立ち上がろうとしないとき、あるいは神のことばの導きと指針を離れて、自分の腐敗した感情や情動の欺きがちな光に従うときのことである。通常は、私たちの方がまず神を見捨てているのである。それゆえ、責められるべきは自分自身のほか何者でもない。
神からの隔絶は非常に悲痛なものである。というのも、灯火が遠ざけられると、暗闇が生ずるように、神が遠くに行かれると、魂には暗闇と悲しみが満ちるからである。神からの隔絶は良心の苦悶である。神は魂を地獄の上にかざされる。「全能者の矢が私に刺さり、私のたましいがその毒を飲(んで)……いる」(ヨブ6:4)。ペルシャ人には、戦争に赴く際に、自分たちの矢を蛇の毒に浸し、それをより致命的なものにする習慣があった。そのように神は、ご自分からの隔絶という毒矢をヨブに射かけ、その傷によってヨブのたましいは血を流していたのである。神からの隔絶を味わうとき、神の民はしばしば落胆しがちである。彼らは自分に向かって論じ立て、自分は神から完全に見放されたのだと考える。それゆえ私は、そうした隔絶を感じている魂に、いくばくかの慰めを処方したい。船乗りは、方角を示す星が全く見えないときにも、その角灯には明かりがあって、それが羅針盤を見る何らかの助けとなる。そのように私は、船乗りにとっての角灯のような4つの慰めを規定したいと思う。それによって、神からの隔絶という暗闇の中を航海し、暁の明星を欲しているあわれな魂も、何らかの光を得られるであろう。
(1) 敬虔な人々のほか何者も、神からの隔絶を味わうことはない。悪人たちは、神の愛の意味するところをまるで知らず、それに欠けることがいかなることかも知らない。彼らは、健康や、友人や、取引を失うということはいかなることか知っているが、神のいつくしみを失うことがいかなることかは知らない。あなたは、自分が神から見捨てられたように感ずるからといって、神の子どもではないのではないかと恐れている。だが、主がその愛を悪人から引き上げるというようなことはない。悪人たちは決して神の愛を有したことがないからである。もしあなたが一度も神からの微笑みや、神からの愛のしるしを受け取ったことがなかったとしたら、いかにしてあなたは、神が自分を疎外しているなどと不平を云えるだろうか?
(2) 喜びという花が咲いていないところにも、恵みの種はあるかもしれない。作物や小麦の全く見られない土地も、地中には黄金の鉱脈が隠されているかもしれない。あるキリスト者に、喜びという甘やかな果実が育っていないとしても、その内側には恵みが秘められていることがありえる。海上にある船舶は、いくら宝石類や香辛料を満載していても、暗闇に閉ざされ、嵐に翻弄されることがありえる。恵みの富で豊かにされている魂も、神からの隔絶という暗闇に閉ざされ、嵐の中で難破するのではないかと思うほど翻弄されることがありえる。ダビデは、落胆した状態の中から、こう祈っている。「あなたの聖霊を、私から取り去らないでください」(詩51:11)。アウグスティヌスが云うように、彼は、「主よ。あなたの御霊を私に与えてください」、とは祈っておらず、「あなたの御霊を取り去らないでください」、と祈っている。ということは、まだ彼の内側には、神の御霊が残っておられたのである。
(3) こうした神からの隔絶は、ほんの一時的なものにすぎない。キリストは背を向けて去って行き、魂をしばらく放置なさるかもしれないが、やがて戻って来てくださる。「ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ」(イザ54:8)。海が全くの干潮になったときも、やがて潮は戻ってくるものである。「わたしは……いつも怒ってはいない。わたしから出る霊と、わたしが造ったたましいが衰え果てるから」(イザ57:16)。優しい母親は、怒ってわが子を抱くのをやめても、そのうちに再びその子を抱きかかえ、接吻するであろう。神も怒って魂を突き放しても、それを再びその愛しい抱擁の中に取り戻し、その上に愛の旗を掲げるであろう。
(4) こうした神からの隔絶は、敬虔な人々の益となるべく働く。
神からの隔絶は、魂の怠惰さを癒す。あの花嫁は怠惰の寝床にはいっていたと記されている。「私は眠っていました」(雅5:2)。そしてキリストはすぐさま立ち去られた。「愛する方は、背を向けて去って行きました」(雅5:6)。寝ぼけまなこの者などに、だれが語りかけるだろうか?
神からの隔絶は、この世に対する過度の愛着を癒す。「世を……愛してはなりません」(Iヨハ2:15)。私たちは世を、手で握った花束のように持っていることはかまわないが、世を自分の心のあまりにも間近にかかえていてはならない。世を、食事つきの宿屋のように用いることはかまわないが、自分の家としてはならない。ことによると、こうした世俗の事がらが、心のあまりにも大きな部分を、ひそかに盗んでしまうかもしれない。善良な人々も時として暴飲暴食にとりつかれ、繁栄の甘美な喜びに酔いしれることがある。恵みの銀の翼に染みをつけ、神のかたちを地上にこすりつけるあまり、それをあらかた見えなくしてしまうことがある。それで主は、彼らをこうしたことから回復させるために、御顔を雲に隠されるのである。この日食は良い効果をもたらす。それにより、世のあらゆる栄光は暗くなり、消失してしまう。
神からの隔絶が益となるべく働くのは、それが聖徒たちに、神の御顔をいやまさって尊ばせるからである。「あなたの恵みは、いのちにもまさる」(詩63:3)。だが、このあわれみが日常ありふれたものとなってしまうと、私たちはそれを見下すようになる。ローマで真珠がざらに手に入るものになったとき、真珠は軽んぜられるようになっていった。神がその愛を私たちに重んじさせるための最上の道は、それをしばらくの間、差し止めておくことにほかならない。もし太陽が一年のうち一度しか輝かないとしたら、それは何と尊ばれることであろう! 魂が長いこと神からの隔絶によつて暗く包まれていたとき、おゝ、義の《太陽》が戻ってくることは何と喜ばしいことか!
神からの隔絶が益となるべく働くのは、それが私たちに罪を苦いものとする手段だからである。神の不興を身に受けるほど大きな悲惨がありえるだろうか? 地獄を地獄たらしめているものは、神の御顔が隠されているということでなくて何だろうか? そして、神にその御顔を隠させるのは、罪でなくて何だろうか? 「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです」(ヨハ20:13)。そのように、私たちの罪は主を取って行き、主がどこに置かれたのか、私たちにはわからなくなるのである。神のいつくしみは最高の宝石である。それは牢獄をも甘やかなものとし、死の針をも抜き去る。おゝ、だとすると、私たちの最高の宝石を私たちから盗み出す、その罪は何と厭わしいものであることか! 罪によって神はその宮を見捨てることになった(エゼ8:6)。罪によって神は敵のような顔をして、武具を身にまとうことになる。こういうわけで魂は、聖なる悪意をもって罪を追い回し、その復讐を求めることになる。神から見捨てられた魂は、罪に煮え湯を飲ませ、抑制の槍をもって、その心臓に血を流させる。
神からの隔絶が益となるべく働くのは、それによって魂が、神を失ったことを思って泣くからである。太陽が見えなくなると、露がおりてくる。そして、神がいなくなると、目から涙がしたたり落ちる。いかにミカは自分の神々を失ったとき苦悩したことか。「あなたがたは私の造った神々と、それに祭司とを取って行った。私のところには何が残っていますか」(士18:24)。そのように、神が去られたとき、私たちには何が残っているだろうか? 神が去られるとき、それは竪琴や弦楽器で慰めることのできるようなものではない。神の臨在に欠けることは悲しくとも、神がおられないことを嘆くのは良いことである。
神からの隔絶によって魂は、神を求めるようになる。キリストが立ち去ったとき、花嫁はキリストを追いかけ、「町の通りで」*キリストを求めている(雅3:2)。そして見つけることができなかった彼女は、叫び声を上げてキリストを追い求めている。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか」(雅3:3)。神に見捨てられた魂は、立て続けにため息やうめき声をあげる。それは天国の扉を祈りによって叩く。神の御顔の黄金の光が輝くまで、それは何の安らぎも感じられない。
神からの隔絶は、そのキリスト者を自己省察に至らせる。その人は神が離れていった原因を自ら問いただす。神を怒らせた呪われるべきものは何だろうか? それは高慢かもしれず、過度の典礼尊重かもしれず、世俗性かもしれない。「彼のむさぼりの罪のために、わたしは、怒って……顔を隠し……た」(イザ57:17)。ことによると何か隠れた罪が見逃されているのかもしれない。導管の中に詰まった石は水の流れを滞らせる。同じように、罪の中で生きることによって、神の愛の甘やかな流れは滞らされるのである。こうして、良心が獣猟犬のように罪をつきとめ、襲いかかり、このアカンは石で打たれて殺されるのである。
神からの隔絶が益となるべく働くのは、それが私たちに、イエス・キリストが私たちのためいかなる苦しみを受けてくださったかを、多少なりとも示すからである。もしその杯を一口すすることがこれほど苦いとしたら、キリストが十字架上で飲み干されたその杯はいかに苦かっただろうか? キリストは猛毒が入った杯を飲み、それによって、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」、と叫ばされた(マタ27:46)。だれにもまさってキリストのお苦しみを感じとれる者、だれにもまさってキリストへの愛に燃やされることのできる者、それは神からの隔絶によってへりくだらされ、しばしの間、地獄の炎の上にかざされたことのある者にほかならない。
神からの隔絶が益となるべく働くのは、それが聖徒たちを将来の慰めのために整えるからである。凍てつかせる霜によって春の花々は備えをされる。まず落胆させ、次に慰めるのが、神のなさり方である(IIコリ7:6)。私たちの《救い主》が断食なさった後で、御使いたちはやって来て、主に仕えた。主はご自分の民を長い間断食させた後で、《慰め主》をお送りになり、彼らを隠れたマナで養われる。「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている」(詩97:11)。聖徒たちの慰めは種のように地面の下に隠れているかもしれないが、その種は熟しつつあり、やがては芽を出し、作物へと生い茂っていくであろう。
こうした神からの隔絶が益となるべく働くのは、それらが天国を、より私たちにとって甘やかなものとするからである。地上における私たちの慰めは月のようなもので、満ちたかと思うと、欠けていく。神はしばらくご自分を私たちにお示しになったかと思うと、私たちのもとから去って行かれる。このことによって天国はいかに引き立たされ、いかにいやまさって喜ばしく、魅惑的なものとなるであろう。そこで私たちは絶えず神の愛の御顔を拝していられるからである(Iテサ4:17)。
このようにして私たちの見るところ、神からの隔絶は益となるべく働くのである。主が私たちを隔絶の深みに至らせるのは、私たちを断罪の深みへと至らせないためである。神は私たちを一見地獄のようなところに陥らせるが、それは私たちを本物の地獄から遠ざけておくためである。神は、私たちが神の微笑みを永遠に享受できる時のために、私たちをふさわしい者と変えつつあるのである。そのときこそ神の御顔にかかる雲も、日没もなく、そのときこそキリストはその花嫁のもとにやって来て去ることはなく、花嫁はもう二度と、「愛する方は、背を向けて去って行きました」、とは云わなくなるのである。
4. 罪という悪は敬虔な人々の益となるべく働く。
罪はそれ自体の性質としては憎むべきものであるが、神はその無限の知恵によってそれを転じて、到底益などもたらせないように見えるものから益が生ずるようにしてくださる。まことに、この獅子から少しでも蜂蜜が出てくるとは不思議千万なことである。私たちはこれを二重の意味で理解できるであろう。
(1) 他人の罪は、転じて敬虔な人々の益となる。悪人たちの間に住むのは、恵みを受けている心にとって決して小さな悩みではない。「ああ、哀れな私よ。メシェクに寄留(する)……とは」(詩120:5)。だが、このことすらをも主は転じて益としてくださるのである。というのも、
(a) 他人の罪は、聖なる悲しみを生み出すことによって、敬虔な人々の益となるべく働くからである。神の民は、自分たちがただすことのできない悪のために泣く。「私の目から涙が川のように流れます。彼らがあなたのみおしえを守らないからです」(詩119:136)。ダビデは時代の罪のゆえに嘆く者となった。彼の心は泉となり、彼の目は川となった。悪人は罪によって浮かれる。「あなたは、悪を行なう時には、こおどりして喜ぶ」(エレ11:15 <英欽定訳>)。しかし、敬虔な人々は泣き悲しむ鳩である。彼らは時代にあふれる悪態や冒涜のゆえに嘆く。他人の罪は、槍のように彼らの魂に突き刺さる。このように他人の罪ゆえに嘆くのは良いことである。天におられる私たちの御父が侮辱されるのを、悲しみつつ憤慨するのは、子どもとしてふさわしい心を示すことである。それはキリストに似た心の発露でもある。「イエスは彼らの心のかたくななのを嘆いた」*(マコ3:5)。主はこうした涙に特別の関心を払っておられる。主は、ご自分の栄光が傷つけられるときに私たちが泣くことを格別に好まれる。自分の罪よりも他人の罪について嘆くのは、より大きな恵みの証しである。私たちは地獄への恐怖から自分の罪のために嘆くことがあるかもしれないが、他人の罪のために嘆くことは神の愛という原理から出ている。こうした涙は、薔薇から出た露のようにしたたり、甘やかで、かぐわしい。そして神はそれをご自分の皮袋にたくわえてくださる。
(b) 他人の罪が敬虔な人々の益となるべく働くのは、それによって彼らが罪に反する祈りをより積むようになるからである。もしこれほど大きな悪の精神が世に満ちていなかったとしたら、ことによると、これほど大きな祈りの精神はなかったかもしれない。非常な罪は非常な祈りを引き起こす。神の民は時代に満ちる不正について祈りをささげ、神が罪を抑え、神が罪を失墜させるように願い求める。彼らは祈って罪をなくすことはできなくとも、祈って罪に対抗することはする。そしてこれを神は親切に取り上げてくださる。こうした祈りは記録され、報いられる。私たちは祈りがかなえられなくとも、自分の祈りを失いはしない。「私の祈りは私の胸を行き来していた」(詩35:13)。
(c) 他人の罪が敬虔な人々の益となるべく働くのは、それによって私たちがより恵みを愛するようになるからである。他人の罪は、恵みの光沢をいやまして際立たせる金箔の下敷きである。正反対のものは別のものを引き立たせ、奇形は美を引き立たせる。悪人の罪は彼らを大いに醜くする。高慢は人を醜くする罪である。さて、だれかの高慢を眺めることによって、私たちがいやまして愛するようになるのは謙遜さである! 悪意は人を醜くする罪であり、それは悪魔の似姿である。他人のうちに悪意を見れば見るほど、私たちがいやまして愛するようになるのは柔和さと愛である。酩酊は人を醜くする罪であり、それは人々を獣にし、理性の働きを奪い去ってしまう。他人のうちに不節制を見れば見るほど、私たちは節制を愛するようになるに違いない。罪の黒々とした顔は、聖潔の美しさをその分だけ引き立たせる。
(d) 他人の罪が益となるべく働くのは、それによって私たちのうちに罪に対するより強い反感が生み出されるからである。「彼らはあなたのおしえを破りました」(詩119:126、127)。ダビデがあれほど神の律法を愛したのは、悪人たちがあれほどひどくそれに逆らい立ったからにほかならない。他の人々が真理に激しく反抗すればするほど、聖徒たちは真理を守るために勇敢になる。生きた魚は流れに逆らって泳ぐ。潮の流れが強くなればなるほど、敬虔な人々はそれに逆らって泳ぐのである。時代の不信心さによって聖徒たちの聖い熱情はかき起こされる。罪に対する怒りは罪ではない。他人の罪は私たちを鋭利にしておく砥石である。それらは私たちの情熱と、罪に対する憤りとをより研ぎすます。
(e) 他人の罪が益となるべく働くのは、それによって私たちが、自分の救いを達成することにより熱心になるからである。悪人たちが地獄に入るためにこれほどの骨折りをしているのを見るとき私たちは、天国に入るために一層精を出すようになる。悪人は、何1つ励ますものがなくとも罪を犯す。彼らは恥をも不名誉もものともせず、あらゆる反対を押し切る。聖書は彼らに逆らい、良心は彼らに逆らい、行く手には燃える剣が舞っているというのに、彼らは罪を犯す。敬虔な人々の心は、悪人がこれほど禁断の木の実を渇望し、悪魔への奉仕に身を粉にしているのを見て、一層神の道に励むべく勇気づけられ、奮い立たされる。彼らは天国を、いわば強襲して奪い取るであろう。悪人は、罪の中を走り回るすばやい雌のらくだである(エレ2:23)。では、私たちはキリスト教信仰において、かたつむりのようにのろのろと這い回ろうというのだろうか? 汚れた罪人たちが悪魔にささげている奉仕よりも、私たちがキリストにささげている奉仕の方が小さなものであってよいだろうか? 牢獄へ向けて走る彼らの方が、王国へ向けて走る私たちよりも速くてよいだろうか? 彼らが決して倦むことなく罪を犯し続けているというのに、私たちが祈りに倦むことがあってよいだろうか? 私たちには、彼らよりも良い《主人》がいるのではないだろうか? 美徳の通り道は快くないのだろうか? 義務の道を歩んで、天国を目指すことには、喜びがないのだろうか? 罪のうちに沈んだベリアルの子らの所行は、敬虔な人々にとって拍車である。それが彼らの歩調を速め、より速やかに天国へ走らせるのである。
(f) 他人の罪が益となるべく働くのは、それを鏡として私たちは、自分自身の心を見てとることができるからである。私たちは不埒な、神を敬わない罪人を目にしているだろうか? そこに私たちの心が映し出されているのを見るがいい。神が私たちを離れ去るなら、私たちもそのような者となるであろう。他の人々が現実の行動として行なっていることは、私たちの性質の中に存在している。悪人のうちにある罪は、灯台の中に置かれた明かりと同じで、だれの目にも燃えて輝くのが見える。だが敬虔な人々のうちにある罪は、おきの中にある火のようなものである。キリスト者よ。たとえあなたが破廉恥な火炎を吹き上げていなくとも、誇るべき理由など何1つない。あなたの性質中のおきの内側では、多くの罪がかき立てられているからである。あなたの内側には苦い根があり、もし神がその御力によってあなたを抑制してくださらなければ、あるいは、その恵みによってあなたを変えてくださらなければ、その根がいかなる地獄の実にも劣らぬ実を結ぶであろう。
(g) 他人の罪が益となるべく働くのは、それが神の民をより感謝に満ちた者とする手段だからである。他人がこの悪疫にかかっているのを見るとき、いかにあなたは、神が自分を守っていてくださることについて感謝することか! もし私たちがより感謝に満ちた者となるとしたら、それは他人の罪を善用したことになるであろう。なぜ神は私たちを彼らと同じような放蕩三昧にふけるがままになさらなかったのだろうか? キリスト者よ。よく考えてみるがいい。なぜ神は他の人ではなくあなたに好意を示されたのだろうか? なぜ、その人でなくあなたを、野の野生種のオリーブからお取りになったのだろうか? このことによってあなたは、いかに無代価の恵みをあがめるべきであろう! あのパリサイ人が鼻高々に云ったことを、私たちは感謝に満ちて云えるであろう。「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者……ではないことを、感謝します」(ルカ18:11)。そのように私たちは、自分が他の人々のように、酔いどれでも、悪態をつく者でも、安息日を破る者でもないという恵みの豊かさをあがめるべきである。私たちは、人々が罪の中をしゃにむに突き進んでいくのを見るたびに、自分がそのような者でないことについて、神をたたえるのである。もし私たちが凶暴な人間を見るとしたら、自分がそうでないことについて神をたたえるのである。いわんやサタンの意のままにされている人々を見るときには、それが自分の状態ではないことについて心からの感謝をささげるべきである。私たちは、罪を軽く考えないようにしよう。
(h) 他人の罪が益となるべく働くのは、それが神の民をより良くする手段だからである。キリスト者よ。神はあなたを、他人の罪によって得をする者とすることがおできになる。他の人々が聖からざる者であればあるほど、あなたはいやまして聖くなるべきである。悪人が罪に励めば励むほど、敬虔な人は祈りに励むべきである。「私は祈るばかりです」(詩104:4)。
(i) 他人の罪が益となるべく働くのは、それが私たちに善を施す機会を与えるからである。この世に罪人がひとりもいないとしたら、私たちがこれほど多く奉仕の可能性を持つことはありえないであろう。敬虔な人々は、しばしば悪人を回心させる手段となる。彼らの思慮深い忠告と、信心深い模範は、罪人たちを引き寄せて、福音を奉じせる誘い餌となる。患者の病は医者にとって益となるべく働く。患者から有毒な体液を流し出させることによって、医者は自分を富ませる。それと同じように、罪人たちを誤った生き方から立ち返らせることによって、私たちの王冠はより大きなものとなる。「多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる」(ダニ12:3)。ともしびや、ろうそくのようにではなく、世々限りなく、星のようになるのである。このようにして、私たちの見るところ、他の人々の罪は転じて私たちの益となるのである。
(2) 自分自身の罪深さを感ずることは、転じて敬虔な人々の益となる。このように、私たち自身のもろもろの罪も、益となるべく働くのである。ただし軽率な考え方をしないように用心しなくてはならない。私が、敬虔な人々のもろもろの罪は益となるべく働くと云うとき、----それは、いささかも罪に善がある、ということではない。罪は毒のようなもので、血液を腐らせ、心臓に病毒を流し込み、1つの特効解毒剤を与えられない限り、死をもたらす。罪には、そうした毒液を分泌する性質があり、それは致命的なもの、破滅に至らせるものなのである。罪は地獄よりも悪い。だがしかし、神はすべてを制圧するその大能の力によって、罪をも最後にはご自分の民の益となるべく転じなさる。これによって発せられたのが、アウグスティヌスの黄金の名言にほかならない。「神は、悪の中から善をもたらすことができなかったとしたら、決して悪をお許しにはならなかったであろう」。聖徒たちが自分の罪深さを覚えることは、いくつかのしかたで益となるべく働く。
(a) 罪によって彼らは、この世に倦むようになる。敬虔な人々の内側に罪が存在しているのは悲しいことだが、それが重荷となるのは良いことである。聖パウロにとって、自分の受けた災厄(こういう云い方が許されればだが)は、自分の罪にくらべれば、児戯にすぎなかった。彼は、患難にあっても喜んでいた(IIコリ7:4)。しかし、いかにこのパラダイスの小鳥が自分のもろもろの罪の下にあって泣き悲しんでいたことか! 「だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ロマ7:24)。信仰者が自分のもろもろの罪をかかえて生きるのは、囚人がその足枷につながれて生きるようなものである。おゝ、いかに彼が解放の日を待ちわびることか! このような罪意識は良いものである。
(b) このように腐敗が内在していることによって聖徒たちは、一層キリストを尊ぶようになる。自分のわずらいを自覚する病人のように、自分の罪を身にしみて感ずる人にとって、いかに医者なるキリストはありがたいお方であろう! 罪の毒針の刺し傷を感じている人にとって、いかにこの青銅の蛇は貴いものであろう。パウロが死のからだの中から叫びを発したとき、いかに彼はキリストのための感謝にあふれていることか! 「私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します」(ロマ7:25)。キリストの血は人を罪から救い、この聖い軟膏がこの水銀を中和するのである!
(c) この罪意識が益となるべく働くのは、それが魂を6つの格別な義務に携わらせるきっかけとなるからである。
(1) それにより魂は、自己を探るよう仕向けられる。罪を意識する神の子どもは、みことばのともしびと角灯を携えて、自分の心を探りきわめようとする。その人が願いとするのは、自分の最悪の状態を知ることである。それは、肉体を病む人が、自分の病の最悪の状態を知りたがるのと変わらない。私たちの喜びは自分の恵みを知ることに存してはいるが、自分の腐敗を知ることにも何がしかの益はある。それでヨブは祈るのである。「私のそむきの罪……を私に知らせてください」、と(ヨブ13:23)。自分のもろもろの罪をわきまえるのは良いことである。それによって私たちは、うぬぼれることも、自分の状態について実際以上に思い上がることもなくなるからである。いま自分のもろもろの罪を見つけだしておく方が、後からそうした罪の罰を受けるよりもよい。
(2) 罪の内在によって神の子どもは、自分を卑しく思うよう仕向けられる。あたかも胸に巣くった癌のように、また背中に突き出したこぶのように、敬虔な人に残っている罪は、その人を高ぶらせないようにしている。砂礫や廃泥は、船の底荷として船を安定させ、それが転覆しないようにする役に立つ。罪意識も魂を安定させ、それが虚栄によって転覆しないようにする助けとなるのである。聖書には、「神の子らのしみ」のことが書かれている(申32:5 <英欽定訳>)。敬虔な人が聖書の鏡に自分の顔を映して、そこに不信心や偽善のしみを見てとるとき、そのことによって高慢の鼻柱はへし折られてしまう。それらは人をへりくだらせるしみである。もろもろの罪が私たちに自分を卑しく感じさせるとき、それは、私たちの罪さえも善用されえたということにほかならない。私をへりくだらせる罪の方が、私を鼻高々にさせる義務よりもましである。聖なるブラッドフォードは、自分についてこのような言葉を発した。「私は一皮むけば偽善者でしかありません」。また、フーパーはこう云っている*5。「主よ。私は地獄で、あなたは天国です」。
(3) 罪によって神の子どもは、自分をさばくよう仕向けられる。その人は自分自身に宣告を下す。「確かに、私は人間の中でも最も愚かで」(箴30:2)。他の人々をさばくのは危険だが、自分自身をさばくのは良いことである。「もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません」(Iコリ11:31)。人が自分自身をさばくとき、サタンは失業してしまう。彼が、ある聖徒に対して何か非難を持ち出すとき、その人はこう云って反駁することができる。「サタンよ。確かにそれは正しく、私はそうした罪について有罪だ。だが、私はそれらについてすでに自分をさばいているのだ。良心の下級審で私が自らに有罪判決を下している以上、神は私を、天の上級審では無罪放免にしてくださるであろう」、と。
(4) 罪によって神の子どもは、自分と争闘するよう仕向けられる。霊的な自己は、肉的な自己と争闘する。「肉の願うことは御霊に逆らい」(ガラ5:17)。私たちの人生は、旅する人生であるとともに戦う人生でもある。2つの家系の裔が、日々決闘を行ないつつあるのである。信仰者は、罪がほしがるものをやすやすと手に入れることを許しはしない。たとえ罪を追い出すことができなくとも、その人は罪を押さえつけておくであろう。その人は、完全な勝利はおさめられなくとも、勝利をおさめつつあるのである。「勝利を得る者に」(黙2:7)。
(5) 罪によって神の子どもは、自分を見張るよう仕向けられる。その人は罪が胸中の反逆者であることを承知しており、それゆえ注意深く自分自身を見守っている。人は油断なくその狡猾な心を見張っていなくてはならない。心はいつ襲撃されるかわからない城塞のようなものである。それで神の子どもは、常に歩哨となり、自分の心の番をするようになる。信仰者は、自分自身に厳しい眼差しを注ぐことによって、自分が何か破廉恥な大罪に陥ったり、水門を開いて自分のあらゆる慰めを押し流したりしないようにするのである。
(6) 罪によって魂は、自己改善へと仕向けられる。神の子どもは罪を見つけ出すだけでなく、罪を追い出す。その人は、一方の足で自分のもろもろの罪の首根を押さえつけ、もう一方の足を「神のさとしのほうへ向ける」*(詩119:59)。このようにして、敬虔な人々のもろもろの罪は益となるべく働く。神は聖徒たちの疾病を彼らの治療薬となさるのである。
しかし、いかなる人も、この教理を《濫用》してはならない。私は決して、罪が悔い改めていない人間にとって益となるべく働くとは云っていない。否、罪はそうした者を断罪すべく働く。だがそれは、神を愛する人々にとっては、益となるべく働くのである。そして、もしあなたが敬虔な人々のひとりであるとしたら、あなたは《決して》この教理から誤った結論を引き出して、罪を軽くみなしたり、不遜な思いで罪を犯したりはしないであろう。もしあなたがそのようなことをするとしたら、神はあなたを痛い目に遭わせなさるであろう。ダビデのことを思い出すがいい。彼は思い上がりによって罪に手を染めたが、それで何を得ただろうか? 自分の平安を失い、魂には《全能者》への恐怖を感じた。陽気な気分になれるはずの事がらに何1つ欠けはなかったが、全く関係なかった。彼は王であり、音楽のわざにすぐれていたが、何をもってしても慰められることはできなかった。彼は自分の「砕かれた骨」*について嘆いている(詩51:8)。そして彼は、最後にはこの暗雲の中を抜け出したものの、一部の神学者によると、死ぬまで完全な喜びを回復することはなかったという。もし神の民の中に、神は罪をも益に変えてくださるといって罪をもてあそぶような者らがいたとしたら、確かに神は、彼らを永遠に断罪なさることはなくとも、この世で彼らを生き地獄にお送りになるであろう。神は彼らをむごたらしい苦悶と魂の激動に陥らせ、ぞっとするような恐怖で満たし、絶望寸前の状態へと追いやりなさるであろう。このことを炎の剣とし、だれも禁断の木に近づかないようにするがいい。
さて、ここまで示してきたように、最良の事がらと、最悪の事がらとの双方は、大いなる神のすべてを制圧する御手によって、聖徒たちの益となるべく相働くのである。
だが、もう一度私は云う。《罪を軽く考えてはならない。》
_____________________________
*1 初期教父の最大の人物。その自伝的な『告白』で有名。紀元430年没。[本文に戻る]
*2 罪を償う(その代償を支払う)ため。[本文に戻る]
*3 懲らしめによって。[本文に戻る]
*4 腫瘍、はれもの。[本文に戻る]
*5 ジョン・ブラッドフォードとジョン・フーパー(グロスター教区主教)は、ともにチューダー朝のメアリー女王治下で殉教した人物。[本文に戻る]
HOME | TOP | 目次 | BACK | NEXT