第1章 最上の事がらは敬虔な人々の益となるべく働く
私たちが第一に考察したいのは、いかなる事がらが敬虔な人々の益のために働くか、ということである。そしてここで私たちが示したいのは、最上の事がらと、最悪の事がらの双方が働いて彼らの益となる、ということである。まず、最上の事がらから始めよう。
1. 神の種々の属性は、敬虔な人々の益となるべく働く。
(1) 神の力は、益となるべく働く。それは、栄光ある権能(コロ1:11)であり、選ばれた人々の益のために用いられている。
神の力は、困難の中にある私たちを持ちこたえさせることによって、益となるべく働く。「永遠の腕が下に」(申33:27)。獅子の穴の中でダニエルは、いかにして支えられたのだろうか? 鯨の腹中のヨナは? 炉に投げ入れられたあの三人のヘブル人は? ただ神の力によってである! いたんだ葦がすくすくと成長するのは不思議な光景ではないだろうか? ひとりのか弱いキリスト者が、いかにして患難に耐え抜くだけでなく、その中にあって喜べるのだろうか? その人は、《全能者》の腕によって支えられているのである。「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」(IIコリ12:9)。
神の力は、私たちに必要なものを支給することによって、私たちのために働く。神は、目に見えるものが全く役に立たないときも、慰めを創り出してくださる。預言者エリヤに、烏によって食物をもたらされたお方は、その御民のいのちを支えるものを与えてくださる。「そのつぼの油はなくならない」(I列17:14)。主は、アハズの日時計の影を十度あとに戻された[II列20:11]。そのように、私たちの外的な慰めがみな衰えゆくとき、また太陽がほぼ没しつつあるとき、神はしばしば霊的復興を引き起こし、日時計の影を何十度もあとに戻してくださるのである。
神の力は、私たちの様々な腐敗を制圧する。「あなたは……私たちの咎を踏みつけ」(ミカ7:19)。あなたの罪は強大だろうか? 神ははるかに力強くあられ、このレビヤタンの頭を打ち砕くであろう。あなたの心はかたくなだろうか? 神はこの石をキリストの血によって溶かすであろう。「神は私の心を柔らかくされる」(ヨブ23:16 <英欽定訳>)。私たちがヨシャパテのように、「このおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません」、と云うとき、主は私たちとともに立ち上がり、私たちが自分の戦闘を戦うのを助けてくださる。これら、私たちの手には余る無数のゴリヤテのごとき情欲の頭を打ち落としてくださる。
神の力は、私たちのあらゆる敵を征服する。神は敵どもの高慢の鼻をへし折り、その自信をぺしゃんこにされる。「あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕」く(詩2:9)。敵は怒り狂い、悪魔は悪意を燃やすが、神には力がある。いかにたやすく神は、悪い者の軍勢を総崩れにすることがおできになることか! 「力の強い者を助けるのも、力のない者を助けるのも、あなたにあっては変わりはありません」(II歴14:11)。神の力はその教会に味方している。「しあわせなイスラエルよ。……主に救われた民。主はあなたを助ける盾、あなたの勝利の剣」(申33:29)。
(2) 神の知恵は、益となるべく働く。神の知恵は、私たちを教えさとす私たちへの託宣である。主は、力ある神であるばかりでなく、《助言者》でもあられる(イザ9:6)。私たちはしばしば暗闇の中にあり、複雑に入り組んだ疑わしい問題にあっては、どの道をとるべきかわからない。ここで神は光をもってやって来られる。「わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう」(詩32:8)。ここで、「目」というのは、神の知恵のことである。なぜ聖徒たちは、最も目端の利く政治家たちよりも、はるかによく先が見通せるのだろうか? 彼らは悪を予見し、自分の身を隠す。サタンの詭弁を見抜く。神の知恵が彼らに先立ち、彼らを導く火の柱なのである。
(3) 神の慈愛は、敬虔な人々の益となるべく働く。神の慈愛は、私たちを善良な者とする手段である。「神の慈愛があなたを悔い改めに導く」(ロマ2:4)。神の慈愛は、霊的な陽光となって心を溶かし、涙を流させる。魂は云う。おゝ、神はこれほど私にいつくしみ深くあられたのか? これほど長きにわたって神は、私が地獄に落ちることを猶予なさったのか? では、どうしてこれ以上神の御霊を悲しませてよかろうか? この慈愛にそむいて罪を犯してよいだろうか?
神の慈愛は、あらゆる祝福の先導役として、益となるべく働く。私たちが受け取っている種々の恩顧は、神の慈愛という泉から流れ出た幾本もの銀の小川である。この慈愛という神の属性は、二種類の祝福をもたらす。1つは一般的な祝福。あらゆる人が、悪人善人を問わず、この種の祝福にあずかっている。この甘やかな露は、薔薇の上にばかりでなく、あざみの上にも降りる。もう1つは、冠をかぶらせる祝福。これらには、敬虔な人々だけがあずかる。「あなたに、恵み……の冠をかぶらせ」(詩103:4)。このように、神のほむべき種々の属性は、聖徒たちの益となるべく働くのである。
2. 神の約束は、敬虔な人々の益となるべく働く。
種々の約束は、神の御手の中にある手形である。担保があるということは、良いことではなかろうか? 種々の約束は、福音の乳である。そして、乳は幼児にとって良いものではなかろうか? それらは、「尊い約束」と呼ばれている(IIペテ1:4)。それらは、気を失って今にも倒れそうな魂にとって強壮剤のようなものである。種々の約束には、あふれんばかりの効能が満ちている。
私たちは罪の咎のもとにあるだろうか。ここに1つの約束がある。「主、主は、あわれみ深く、情け深い」(出34:6)。ここで神は、あたかもご自分の麗々しい王服を身にまとい、その黄金の王笏を差し出して、あわれな身震いしつつある罪人たちを励ましては、みもとに来させようとしているかのようである。「主、主は、あわれみ深く」。神は、罰よりも赦しを与えることを望んでおられる。私たちの内側で罪が増幅する度合をはるかに越えて、あわれみは、神の内側で増し加わる。あわれみは、神のご性質である。蜜蜂は、生来蜂蜜を作り出すものである。それは、怒らせない限り針で刺すことはない。「しかし」、と罪意識に苦しむ罪人は云う。「私はあわれみを受けるに値しない者です」、と。それでも、神は情け深い。神があわれみをお示しになるのは、私たちがあわれみに値するからでなはく、神があわれみを示すことを喜びとするからである。しかし、それが私にとって何になるのか? 私の名前は恩赦状の中に含まれていないかもしれないではないか。「主は……恵みを千代も保ち」[出34:7]。あわれみの国庫は無尽蔵である。神は、莫大な財宝を保管しておられる。なぜあなたが行って、それをほんの僅かいただいてならないことがあろうか?
私たちは罪の汚れのもとにあるだろうか? ここに、益となるべく働く1つの約束がある。「わたしは彼らの背信をいや」す(ホセ14:4)。神はあわれみを授けるだけでなく、恵みを与えてくださるであろう。そして神は、ご自分の御霊を送ると約束してくださった(イザ44:3)。その御霊は、その聖なるものとするご性質のゆえに、聖書の中では、時として器をきよめる水にたとえられ、時として麦をふるい分けて空気を清浄にする箕にたとえられ、時として金属を精錬する火にたとえられている。このように神の御霊は、魂をきよめて聖別し、それを神にご性質にあずかるものとするであろう。
私たちは大きな苦難の中にあるだろうか? ここに、私たちの益となるべく働くもう1つの約束がある。「苦難のときの彼らのとりでは主である」(詩37:39)。「おゝ」、と魂は云う。「私は苦難の火には気を失ってしまうでしょう」。しかし、神は私たちの心のとりでとなられるであろう。神はその軍勢をもって私たちに加勢してくださる。神はその御手を軽くしてくださるか、私たちの信仰を強めてくださるであろう。
私たちは外的な欠乏を恐れているだろうか? ここに1つの約束がある。「主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない」(詩34:10)。私たちにとって益となるならば、私たちはそれを有するであろう。私たちの益とならないならば、それは私たちから取り上げられるのがよいであろう。「主はあなたのパンと水を祝福してくださる」(出23:25)。この祝福は、葉の上に甘露のように滴り落ちる。それは、私たちの手にあるなけなしのものを甘やかにする。私は猟の獲物を持っていなくとも、祝福を持っている方がよい。しかし、それでも自分の生計が立たないことを恐れている人がいるだろうか? 聖書を丹念に調べてみるがいい。「私が若かったときも、また年老いた今も、正しい者が見捨てられたり、その子孫が食べ物を請うのを見たことがない」(詩37:25)。何と私たちはこれを理解しなくてはならないことか。ダビデはこれを自分自身で観察したことと語っている。彼は決してそのような失墜を見たことがなかった。決して敬虔な人物が一切れのパンをも口にできないほどに落ちぶれ果てるのを見たことはなかった。ダビデは決して正しい人とのその子どもたちが不自由をするのを見たことがなかった。主は、しばらくの間は敬虔な親たちを欠乏によって試みることがあるかもしれないが、その子どもたちまでそうすることはない。敬虔な人々の子らには必要なものが与えられるであろう。ダビデは決して正しい人がパンを乞うようになり、見捨てられるのを見たことがなかった。その人は、たとえ非常な苦境に陥ることがあるとしても、見捨てられることはない。それでもその人は天国の相続人であって、神はその人を愛しておられる。
問い。種々の約束はどのようにして益となるべく働くのか?
答え。それらは、信仰にとっての糧であって、信仰を強めるものは、益となるべく働くのである。種々の約束は信仰の乳であって、信仰は、幼子が乳房に吸いつくように、それらから栄養を吸収するのである。「ヤコブは非常に恐れ……た」(創32:7)。彼は気を失わんばかりであった。そこで彼は約束へと向かった。「あなたはかつて『わたしは必ずあなたをしあわせに……する。』と仰せられました」(創32:12)。この約束が彼の糧であった。彼はこの約束によって非常に力づけられたので、夜を徹して祈りのうちに主と組み打ちすることができ、主から祝福されない限りは主を離そうとしなかった。
種々の約束はまた、喜びの源泉でもある。約束の中にある慰めは、世から来る困惑の種よりもずっと大きい。ウルジーヌス*1を慰めたのはこの約束であった。「だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」(ヨハ10:29)。約束は、漁網にとってのコルクのようなもので、心が苦悩の深海に沈み込んでいかないように支えるものである。
3. 神のあわれみは、敬虔な人々の益となるべく働く。
神のあわれみは私たちをへりくだらせる。「ダビデ王は行って主の前に座し、そして言った。『神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を導いてくださったのですか』」(IIサム7:18)。主よ。なぜこれほどの栄誉が私に授けられるのでしょうか? なぜ私が王となるようなことがあるのでしょうか? 羊を追っていた私が、あなたの民の前で出入りするとは、と。そのように、恵みを受けた心も云う。「主よ。私は何者なのでしょうか。何が私を他の人々よりも恵まれた者としているのでしょうか? なぜ私が葡萄の実で造った物を飲んでいるのに、他の人々は苦よもぎの杯のみならず、血の杯(すなわち、死の苦難)を飲んでいるのでしょうか? 私が何者だからというので、私よりもすぐれた他の人々に欠けている恵みを受け取っていられるのでしょう? 主よ。なぜそうなのですか? 私のあらゆる取るに足らなさにもかかわらず、日ごとに新鮮なあわれみの潮がやってくるのはなぜなのでしょうか?」、と。神のあわれみは、罪人を高ぶらせるが、聖徒をへりくだらせる。
神のあわれみは、魂を溶かす影響力がある。それは魂を溶解して、神への愛に流れ出させる。神の審きによって私たちは神を恐れさせられるが、神のあわれみによって神を愛させられる。慈悲によっていかにサウロは心動かされたことか! ダビデは彼を意のままにすることができ、彼の衣のすそばかりでなく、彼の頭をも切り落とすことができた。だがダビデは彼のいのちを助けた。この慈悲がサウロの心を溶かしたのである。「サウルは、『これはあなたの声なのか。わが子ダビデよ。』と言った。サウルは声をあげて泣いた」(Iサム24:16)。このように心溶かす影響が神のあわれみにはある。それによって目は愛の涙をしたたらせるようになる。
神のあわれみは、心に実を結ばせる。畑に元手をかければかけるほど、それは良い収穫をもたらすようになる。恵みを受けた魂は、自分の財によって主に栄誉を帰す。その人は、イスラエルが自分の宝石や耳飾りで黄金の子牛を造ったようには、受けたあわれみを悪用せず、むしろソロモンが宝物倉に投げ入れられた金銭をそうしたように、主への神殿を建立する。あわれみという黄金の雨が豊饒さをもたらすのである。
神のあわれみは、心を感謝に満ちたものとする。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。私は救いの杯をかかげ……よう」(詩116:12、13)。イスラエル人には、和解のいけにえをささげる際に、杯を手にかかげて、種々の解放について神に感謝する習慣があった。ダビデはそれを暗に語っているのである。あらゆるあわれみは、無代価の恵みの施しである。そして、これが魂を感謝で大きく広げる。良いキリスト者は、神のあわれみが埋葬される墓場ではなく、神への賛美が歌われる神殿なのである。アンブロシウスが云うように、もしもあらゆる鳥がその種に従ってその創造主への感謝をさえずっているのなら、あわれみで豊かにされ、香りをつけられている純真なキリスト者は、いやまして高らかに歌うであろう。
神のあわれみは人を活気づける。それは、愛にとっては天然磁石であるように、従順にとっては砥石なのである。「私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう」(詩116:9)。自分の受けてきた祝福を顧みる人は、自分を神と婚約した者とみなす。その人は、甘やかなあわれみによって、すみやかな義務を説きつける。その人は、自分の財を費やし、また自分自身をさえ使い尽くす。ローマ人の間では、だれかが別の人によって身受けされたとき、その人はそれ以後相手に仕えることになった。あわれみに取り巻かれた魂は、神への奉仕において熱心に活動するのである。
神のあわれみは、他者への同情を生み出す。一個のキリスト者は、現世においては一種の救い主となる。その人は飢えた人々に食物を与え、裸の人々に着物を着せ、困窮しているやもめや孤児を訪れる。そうした人々の間で、その人は愛という黄金の種を蒔く。「しあわせなことよ。情け深く、人には貸(す)……人は」(詩112:5)。愛は、木から没薬が流れ出すように、その人からふんだんに流れ出す。そのように敬虔な人々にとって、神のあわれみは益となるべく働く。それは彼らを天国へ持ち上げる翼なのである。
霊的なあわれみもまた益となるべく働く。
宣べ伝えられたみことばは、益となるべく働く。それは、いのちの香りであり、魂を変革することばであり、心をキリストの似姿にする。「私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです」(Iテサ1:5)。語られたみことばは、救いの戦車である。
祈りは、益となるべく働く。祈りは種々の感情の鳴き声である。それは魂の聖い願望と熱情を鳴り響かせる。祈りは神に力を及ぼす。「わたしに命じ」よ(イザ45:11)。それは神のあわれみの宝物倉の錠をあける鍵である。祈りは心を神に対して開きっぱなしにし、罪に対しては閉ざしておく。不節制な心と情欲の高鳴りを鎮める。ある友人に、ルターはこう助言している。何らかの誘惑がゆらめき上ろうとする兆しを感じたら、祈りに携わるがいい、と。祈りは、キリスト者がその敵を撃つべき銃である。祈りは魂の特効薬である。祈りはあらゆるあわれみを聖なるものとする(Iテモ4:5)。それは悲しみを払い去る。悲嘆の思いを吐き出すことによって、心を軽くする。ハンナは、祈り終えてから、「帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった」(Iサム1:18)。そして、もし祈りがこうした素晴らしい効果をもたらすとしたら、それは益となるべく働くのである。
主の晩餐は益となるべく働く。それは、小羊の婚宴の象徴であり(黙19:9)、私たちが栄光においてキリストとともにあずかる、かの交わりの前金である。それは、あぶらの多い肉の宴会であり、私たちに天からのパンを授けて、いのちを保ち、死を防ぐ。それは、敬虔な人々の心に素晴らしい効果を及ぼす。それは彼らの感情を活気づけ、彼らの恵みを強め、彼らの腐敗を抑制し、彼らの希望をよみがえらせ、彼らの喜びを増し加える。ルターは云う。「落胆した魂をなぐさめるわざは、死者をよみがえらせるにも似た大きなわざである」、と。だが、このことは、このほむべき晩餐において、敬虔な人々の魂に対してなされうること、時として実際になされていることなのである。
4. 御霊の恵みは益となるべく働く。
恵みは魂にとって、目にとっての光のようなもの、体にとっての健康のようなものである。恵みが魂に対して行なうことは、貞淑な妻がその夫に対して行なうようなことである。「彼女は生きながらえている間、夫に良いことをし」(箴31:12)。種々の恵みの何と比類なく有益なことか! 信仰と恐れとは、手に手を取って進む。信仰は心が絶望に沈み込まないように支え、恐れは心が思い上がってのぼせあがらないように抑える。あらゆる恵みは美しい姿をしている。希望は「かぶと」であり(Iテサ5:8)、柔和は「飾り」であり(Iペテ3:4)、愛は「完全な結びの帯」である(コロ3:14)。聖徒たちの恵みは、彼らを守る武器であり、彼らを舞い上がらせる翼であり、彼らを富ませる宝石であり、彼らをかぐわしくする香料であり、彼らを飾る勲章であり、彼らを清新にする強壮剤である。では、こうした働きすべては益となるべく働かないだろうか? 種々の恵みは、私たちが天国へ向かっている証拠である。臨終の時に自分の証拠を有していられることは、益ではないだろうか?
5. 御使いたちは聖徒たちの益となるべく働く。
良き御使いたちは、いつでも神の民へのあらゆる愛の務めを果たそうとして待ち構えている。「御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるため遣わされたのではありませんか」(ヘブ1:14)。教父たちの中には、信仰者ひとりひとりが個別の守護天使を持っていると考えた者たちもいた。この主題について激論を交わす必要はない。私たちが知っておけば十分なのは、御使いたちの全階級が、聖徒たちの益のために動員されている、ということである。
良き御使いたちは、聖徒たちが生きている間、彼らに仕えている。ひとりの御使いは処女マリヤを慰めた(ルカ1:28)。御使いたちが獅子の口をふさぎ、ダニエルが傷つけられないようにした(ダニ6:22)。キリスト者ひとりひとりの周囲には、御使いたちによる目に見えない守りがある。「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる」(詩91:11)。御使いたちは、聖徒たちの護衛なのである。しかり、御使いたちのかしらですら例外ではない。「御使いはみな、仕える霊……ではありませんか」。いかに高位の御使いも、だれよりも卑しい聖徒の気遣いをしているのである。
良き御使いたちは、死の際にも仕えている。御使いたちは、聖徒たちの病床のまわりにいて、彼らを慰めている。神は、ご自分の御霊によって慰めてくださるのと同じく、御使いたちによっても慰めてくださる。キリストは苦しみに遭った際、ひとりの御使いによって力づけられた(ルカ22:43)。信仰者たちも、その死の苦しみにおいて同じようにされる。そして聖徒たちが息を引き取るとき、彼らの魂は、御使いたちの護送隊によって天国へと連れて行かれる(ルカ16:22)。
良き御使いたちは、最後の審判の日にも奉仕することになる。御使いたちは聖徒たちの墓を開き、彼らをキリストの御前に導く。そのとき聖徒たちは、キリストの栄光のからだのようになる。「人の子……御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます」(マタ24:31)。最後の審判の日に御使いたちは、敬虔な人々のあらゆる敵を排除する。今は、聖徒たちは敵たちによって苦しめられている。「(悪い)者どもは、私が善を追い求めるからといって、私をなじっています」(詩38:20)。よろしい。御使いたちはまもなく、安らいでよいとの詔勅を神の民に授け、彼らをそのあらゆる敵から解放するであろう。「毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。……収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます」(マタ13:38-42)。最後の審判の日、神の御使いたちは、毒麦である悪人ども取り集めて、彼らを束にくくり、地獄の炉に投げ込むであろう。そしてそのとき、敬虔な人々はもはや敵どもから悩まされることがなくなるであろう。このように、良き御使いたちは益となるべく働くのである。ここに示された、信仰者の栄誉と尊厳を見るがいい。その人には神の御名が書き記されており(黙3:12)、聖霊が宿っており(IIテモ1:14)、御使いたちの護衛が伴っているのである。
6. 聖徒の交わりは益となるべく働く。
「私たちは、あなたがたの……協力者です」(IIコリ1:24)。ひとりのキリスト者が、他のキリスト者と語り合うのは、その人を確かなものとする1つの手段である。太鼓橋を組み上げている石の一個一個が、互いに互いを支えているように、あるキリスト者が自分の経験を分かち合うことによって、別のキリスト者は燃やされ、元気づけられる。「互いに勧め合って、愛と善行を促すように……し合おうではありませんか」(ヘブ10:24)。聖い語り合いによって、いかに恵みが豊かに生かされることか! キリスト者は、良い会話によって別のキリスト者に油を降り注ぐ。その油によって、相手の信仰のともしびは、より明るく燃やされるのである。
7. キリストのとりなしは益となるべく働く。
天でキリストは、さながら金の札を額につけ、その尊い香を手にしたアロンのようにしておられる。そしてキリストは、使徒たちのために祈ったように、すべての信仰者たちのために祈っておられる。「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします」(ヨハ17:20)。キリスト者が弱く、自分だけでは到底祈れないようなとき、イエス・キリストはその人のために祈っておられる。そして3つのことのために祈ってくださる。第一に、聖徒たちが罪から守られるように(ヨハ17:15)。「彼らを……悪い者から守ってくださるようにお願いします」。私たちの住んでいる世界は、伝染性疾患の隔離病院のようなものである。キリストはご自分の聖徒たちが、時代の伝染的な邪悪さに感染しないように祈っておられる。第二に、ご自分の民が聖さにおいて進歩するように。「彼らを聖め別ってください」(ヨハ17:17)。彼らが常に御霊の補給を受け、常に新鮮な油を注がれるようにしてください、と。第三に、彼らの栄化のために。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください」(ヨハ17:24)。キリストは、聖徒たちがご自分の御腕の中にいるようになるまで満足なさらない。キリストが地上にいる間にささげたこの祈りは、いま天国でキリストがささげておられる祈りの引き写しであり、手本である。これは何という慰めであろう。悪魔が誘惑をしかけているおりにも、キリストは祈っておられるのである! これは益となるべく働く。
キリストの祈りは、私たちの祈りから罪を取り除く。アンブロシウスの云うように、ある子どもが父親に花束を送ろうと思って花壇に行き、そこで花も雑草も一緒くたにかかえてきたとする。だが、その子がまず母親のところに行けば、彼女は雑草をつまみだして花だけを束にしてくれるので、父親に贈れるようになるのである。それと同じく、私たちが自分の祈りを天にささげた後で、キリストはやって来て、私たちの祈りの中から雑草、すなわち罪をつまみだし、御父には、かぐわしい香りがする花々だけがささげられるようにしてくださるのである。
8. 聖徒たちの祈りは、敬虔な人々の益となるべく働く。
聖徒たちは、[キリストの]神秘的なからだのあらゆる肢体のために祈るものであり、彼らの祈りには大きな力がある。それは病からの回復をもたらす。「信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます」(ヤコ5:15)。それは敵に対する勝利をもたらす。「あなたはまだいる残りの者のため、祈りをささげてください」(イザ37:4)。「主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた」(イザ37:36)。それは牢獄からの解放をもたらす。「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし……た。すると、鎖が彼の手から落ちた」(使12:5-7)。ペテロを牢獄から連れ出したのは御使いだったが、御使いを連れて来たのは祈りであった。それは罪の赦しをもたらす。「わたしのしもべヨブはあなたがたのために祈ろう。わたしは彼を受け入れる」(ヨブ42:8)。このようにして聖徒の祈りは、神秘的なからだの益となるべく働くのである。そしてこれは、神の子どもにとって決して小さな特権ではない。自分のためには、常にどこかで祈りがささげられているのである。どこに行こうとその人は、こう云うことができるのである。「ここでも、否、世界中のどこであろうと、何がしかの祈りが私のために積まれているのだ。私が鬱々としているときも、不調に陥ったときも、私よりも活気のある、また生き生きとした人々が私のために祈っていてくれるのだ」、と。このようにして、最良の事がらは、神の民の益となるべく働いているのである。
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*1 16世紀のドイツの宗教改革者[本文に戻る]
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