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すべてのことが益と

 
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、すべてのことが働いて益となることを、私たちは知っています」----ロマ8:28[新改訳聖書欄外訳]
 


 

序 説

 アンブロシウス*1が云ったように、もしも全聖書が魂にとって饗宴であるとしたら、ロマ書8章は、その饗宴の一大佳肴であり、その色とりどりの甘美な取り合わせは、神の民の心を大いにさわやかにし、活気づけるものであろう。この節に先立つ箇所で使徒は、義認および子とされることという大いなる教理を踏み渡ってきた。それらは、御霊の助けと導きがなければ、彼でさえたちまちその深みに没しかねないほど、非常に困難かつ深遠な奥義であった。だがこの節で使徒がつまびいているのは、かの喜ばしい慰めの弦、「《神を愛する人々……のためには、すべてのことが働いて益となることを、私たちは知っています》」、にほかならない。この節は、その一言一句に至るまで、重要ならざるものはない。それゆえ私は、この黄金の一粒一粒に至るまで拾い集め、少しも取りこぼしがないようにしよう。

 この聖句は3つの一般的な部分に分かれている。

 第一に、素晴らしい特権。すべてのことが働いて益となる。
 第二に、この特権にあずかっている人々。この人々は二重に特定されている。彼らは神を愛する人々であり、彼らは召された人々である。
 第三に、この有効な召しの起源かつ源泉が規定されている。「神のご計画に従って」。

 第一に、素晴らしい特権である。ここでは2つのことを考察すべきである。I. この特権の確実さ。----「私たちは知っています」。II. この特権のこの上もない素晴らしさ。----「すべてのことが働いて益となる」。

1. この特権の確実さ

 「私たちは知っています」。これは、あやふやなことでも、疑わしいことでもない。使徒は、私たちは期待しています、とも、たぶんそうなるでしょう、とも云わず、さながら信仰箇条の1つでもあるかのように、すべてのことが働いて益となることを、私たちは《知っています》、と云う。ここで注目すべきなのは、福音の示す真理は明白で、絶対確実なものだ、ということである。

 キリスト者は、ただ単に漠然とした意見をいだくだけではなく、自分の信念が確実なものであると知ることができる。格言や警句が理性にとっては明白なものであるように、キリスト教信仰の真理は信仰にとっては明白なのである。「私たちは知っています」、と使徒は云う。キリスト者は、むろん福音の奥義の完璧な知識を得ているわけではないが、それでも確かな知識は得ている。「私たちは鏡にぼんやり映るものを見ています」(Iコリ13:12)、とある以上、私たちの知識が完全であるわけではない。だが、「わたしたちはみな、顔のおおいなしに……見」ているのである(IIコリ3:18 <口語訳>)。それゆえ私たちには確実さがある。神の御霊は天的な真理を、あかたも金剛石の切っ先で刻みつけるように、心に彫り込んでくださる。キリスト者は、罪には悪があること、聖さには美があることを絶対確実なものとして知ることができる。自分が恵みの状態にあることを知ることができる。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています」(Iヨハ3:14)。

 キリスト者は、自分が天国に行くことを知ることができる。「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です」(IIコリ5:1)。主は、救いにかかわる事がらについて、ご自分の民を不確かなままに放ってはおかれない。使徒は、「私たちは知っています」、と云う。私たちは、聖なる自信に達しているのである。私たちのうちにある神の御霊と、自分自身の経験との双方が、そのことに太鼓判を押しているのである。

 だから私たちは、懐疑や疑念をいだいたまま自足するのではなく、キリスト教信仰に関わる事がらを確信するように努力しようではないか。「私はキリストのために議論することはできませんが、キリストのために焼かれることはできます」、と、殉教の死を遂げたあの女性が云ったように。私たちが、神の真理の証しをするために世の前に呼び出されることになるかどうかは、神の他だれも知らない。それゆえ私たちは、その真理の上によく建てられ、確固たるものとなっていることが大切である。もし私たちが疑いに満ちたキリスト者であるなら、私たちはあやふやなキリスト者であろう。背教は、信じようとしない思いから起こらずして、どこから起こるだろうか? 人々は、まず真理に疑念を呈した後で初めて、真理から脱落するのである。おゝ、神の御霊に乞い願うがいい。あなたに油を注ぐだけでなく、あなたに確認の印を押してくださるように、と(IIコリ1:22)。

2. この特権のこの上もない素晴らしさ

 「すべてのことが働いて益となる」。

 この一言は、信仰の手の中にあるとき、さながらヤコブの杖のようになる。それを握ることによって私たちは、神の山へと朗らかに歩んでいけるのである。万が一これが私たちを満足させも、満ち足らせもしないとしたら、果たして何にそうできるだろうか? すべてのことが働いて益となる。「相働き」という表現[英欽定訳、文語訳]は、薬学関係の用語である。それぞれは毒性を有するいくつか成分がより合わせられ、薬剤師によって手際よく調合されると、特別に効き目のある薬となって、患者の益となるように相伴って働く。それと同じく、神のすべての摂理は、天来のしかたで調合され、聖められるとき、聖徒たちにとって最善のこととなるように相伴って働くのである。神を愛する人、また神のご計画に従って召された人は、こう確信していてよい。この世のいかなるものも、自分の益となるように働いている、と。これこそ、その人を温めてくれる強壮剤である。----あたかも、杖の先に浸した蜂蜜を口にして「目が輝いた」ヨナタンのように、その人を変えるものである(Iサム14:27)。もしも、すべてのことが自分の益となるように相まって作用する----しかり、相重なって起こる----というのであれば、キリスト者が自分を駄目にしていてよいだろうか? 心労で身をやつれさせていてよいだろうか? この聖句から引き出される結論、それはこうである。《神がその子らに対してなさる多種多様なお取り扱いはみな、特別なご摂理によって、彼らの益となるようにされている。》「主の小道はみな恵みと、まことである。その契約……を守る者には」(詩25:10)。もしあらゆる小道に恵みがあるとしたら、それは益となるように働いているはずである。

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*1 四世紀のミラノの司教[本文に戻る]

 

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