第5章 神への愛を試す
ここで、私たちが神を愛する人々の一員であるかどうかを、公正に試してみよう。この点を解明するにあたり私は、愛の実こそ私たちの愛を最もはっきり示すものであるため、神に対する愛を示す十四のしるし、あるいは実を規定したいと思う。私たちにとって大切なのは、こうした実のいずれかが、私たちの庭に育っているかを丹念に探りきわめることである。
1. 愛の最初の実は、神について思い巡らすことである。
愛している者は、その対象のことを四六時中考えるものである。神を愛する者は、神について黙想することにうっとり夢中になる。「私が目ざめるとき、私はなおも、あなたとともにいます」(詩139:18)。思念は精神中の旅人のようなものである。ダビデの思念は天国への道からそれることがなかった。私はなおも、あなたとともにいます。神は宝であり、宝のあるところに心もある[マタ6:21]。このことによって私たちは、神に対する自分の愛を試すことができよう。私たちの思念は何に最も向けられているだろうか? 私たちは神について考えるとき、自分が喜びでうっとりすると云えるだろうか? 私たちの思念には翼がついているだろうか? それは高みへと飛び去っているだろうか? 私たちは、キリストと栄光について黙考しているだろうか? おゝ、神についてほとんど考えないという人々が、何と神を愛する人々から隔たっていることか! 「そのあらゆる思いに、神はいない」(詩10:4 <英欽定訳>)。罪人は神を自分の思念から締め出す。その人は、恐怖をもってしなくては、決して神について考えない。囚人が日頃は裁判官について考えないのと同じである。
2. 愛の第二の実は交わりを欲することである。
愛は親しく交わることを欲するものである。「私の心も、身も、生ける神を求めて叫んでいます」(詩84:2 <英欽定訳>)。ダビデ王は、神の臨在の見えるしるしである幕屋の置かれた神の家に行くことを妨げられていたため、息も絶え絶えに神を求め、聖なる悲痛さをもって生ける神を慕って叫んでいる。愛する者たちは互いに語り合おうとするものである。私たちは、神を愛しているなら、神がお定めになった手段を尊ぶはずである。そこで神に出会えるからである。神はみことばによって私たちに語りかけてくださり、私たちは祈りによって神に語りかける。このことで神に対する私たちの愛を吟味してみよう。私たちは神との親密な交わりを欲しているだろうか? 愛する者たちを、遠く引き離しておくことはできない。神を愛する者には聖なる情愛があり、どうしても神から離れてはいられないと感ずる。彼らは何を欠いても、神の臨在だけは欠くことができない。彼らは健康や友人なしですますことはできる。食事が粗末でも幸せでいられる。だが、神なしに幸せになることはできない。「どうか、御顔を私に隠さないでください。私が穴に下る者と等しくならないため」(詩143:7)。愛する者たちは、独特の発作を起こして気を失うことがある。ダビデは、神の御顔が見えないとき、今にも気を失って死にそうになった。神を愛する者たちは、神の定めの手段があっても、そこで神を楽しめなければ満足できない。それは杯をなめて、蜂蜜をなめないのと同じである。
一生の間、ずっと神なしに過ごせるという人々について、私たちは何と云うべきだろうか? 彼らは神などなしにすませられれば最高だと考える。健康や取引がなくなると不平を云うが、神を欠くことには不平を云わない! 悪人たちは神と知り合っていない。では、知り合いにもなっていない彼らが、いかにして愛せるだろう! 否。それより悪いことに、彼らは神と知り合いになることを欲しもしない。「彼らは神に向かって言う。『私たちから離れよ。私たちは、あなたの道を知りたくない』」(ヨブ21:14)。罪人たちは神を知ることを避け、神の臨在を重荷とみなす。では、こうした人々が神を愛する者だろうか? 夫を前にすることに耐えられないなどという妻が、夫を愛しているといえるだろうか?
3. もう1つの愛の実は嘆きである。
神に対する愛があるところには、神に無情な自分たちの罪を嘆く思いがある。自分の父を愛している子どもは、父の感情を損なったとき泣かずにはいられない。愛で燃える心は、涙で溶ける。おゝ! これほど愛しい《救い主》の愛に自分がつけこんで、ほしいままにふるまうとは! 私の主は、十字架上で十分お苦しみになったではないか。だのに私が主をさらに苦しめていいだろうか? 主にさらなる苦汁と酢汁を飲ませるべきだろうか? 何と私は不忠実で肚黒い者であることか! 何と私は主の御霊を悲しませ、王なる主のご命令を踏みつけにし、その御血を侮辱してきたことか! これは敬虔な悲しみの静脈を開き、心に鮮血をほとばしらせる。「ペテロは出て行って、激しく泣いた」*(マタ26:75)。ペテロは、キリストがいかに自分を心から愛してくださったか、いかに自分が変貌山に連れて行かれ、幻による天の栄光をキリストから見せていただいたかを思ったとき、これほど著しい愛をキリストから受けた自分がキリストを否定するなどということ、これに心を粉々にされ、嘆かされた。彼は出て行って、激しく泣いた。
これによって私たちは、神に対する自分の愛を試そうではないか。私たちは、敬虔な悲しみによる涙を流しているだろうか? 神に対する自分の無情さを嘆いているだろうか? 自分があわれみにつけこんでいること、タラントを活用していないことを嘆いているだろうか? 日ごとに罪を犯していながら、心を全く打ちのめされもしない者らが、神を愛することからいかに隔たっていることか! 彼らには罪の大海がありながら、涙をひとしずくもこぼさないのである。彼らは、悩みをあまりにも感じないために、自分の罪に浮かれるほどである。「悪を行なうとき、あなたは喜んでいる」(エレ11:15 <英欽定訳>)。おゝ、みじめな者よ! キリストが罪のために血を流されたのに、あなたはそれを笑い飛ばすというのか? こうした者らは神を愛するところから遠く隔たっている。友に向かって喜んで危害を加えているような者が、その友を愛しているだろうか?
4. もう1つの愛の実は剛胆さである。
愛は勇敢であり、臆病さを勇気に変える。愛によって人は、いかに大きな困難や危険も冒すようにさせられるものである。恐がりのめんどりは、自分のひよこたちを守るためなら、犬や蛇にも飛びかかっていく。愛は、キリスト者に勇武と剛勇の精神を吹き込む。神を愛する者は、神の御国の進展のために立ち上がり、神のために弁護する。「私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません」(使4:20)。人前でキリストを認めることを恐れる者は、キリストに対して僅かな愛しか有していない。ニコデモはキリストのもとに、夜、こそこそとやって来た(ヨハ3:2)。彼は、日中キリストとともにいるのを見られることを恐れたのである。愛は恐れを投げ捨てる。太陽が霧や霞を追い払うように、天来の愛は肉的な恐れを非常に大きく追い払う。神のほむべき真理の数々がなじられているのを聞きながら沈黙していられるような者が、神を愛しているだろうか? 友を愛する者は、友が非難されるときには、彼のため立ち上がり、彼を弁護するものである。キリストが天で私たちの弁護人となっていてくださるのに、私たちは地上でキリストの弁護人にならないというのだろうか? 愛はキリスト者を奮い立たせる。それは彼の心を熱心で燃やし、勇気で強固にする。
5. 愛の第五の実は繊細さである。
もし私たちが愛しているなら、悪人たちが神の栄誉が汚すとき、私たちは心を痛めるはずである。キリスト教信仰のみならず道徳の堤防までもが決壊し、悪の洪水が流れ込んでくるのを見るとき、――神の安息日が汚され、神への誓いが冒涜され、神の御名が辱められるとき、――もし私たちのうちに少しでも神に対する愛があるなら、私たちはこうした事がらに身が切られるような思いをするはずである。ロトの義人としての魂は、「無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた」(IIペテ2:7)。ソドムのもろもろの罪は、それと同じ数だけの槍となって彼の魂を刺し貫いていたのである。神の栄誉が汚されても全く平然としていられるような者たちが、いかに神を愛することからはるかに隔たっていることか。こうした人々は、家内安全で、商売繁盛さえしていれば、何も痛切に感じることがないのである。泥酔した人間は、自分のそばでだれかが血を流して死にそうになっていても、決して気にかけたり、心を動かしたりしない。それと全く同じく、繁栄という葡萄酒に酔っている多くの人々は、神の栄誉が傷つけられ、神の数々の真理が血を流しているときも、心を動かすことがないのである。もし人が神を愛しているとしたら、神の栄光が受難に遭い、キリスト教信仰そのものが殉教者となっているのを見るとき、嘆きを覚えるであろう。
6. 愛の第六の実は罪に対する憎しみである。
火は金属からその鉱滓を取り除く。愛の火は私たちの罪を取り除く。「エフライムは云う。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない」(ホセ14:8 <英欽定訳>)。神を愛する者は、一切罪と関わりを持たない。罪にかかずらうとすれば、唯一、それに戦いを挑むためのみである。罪は神の栄誉のみならず、神のご本性を攻撃するものである。君主を愛している者が、国王への反逆者をかくまうなどということがあるだろうか? 神の友だという者が、神のお憎みになる者を愛してなどいられるだろうか? 神に対する愛と、罪に対する愛は、共存できない。感情というものは、相反する2つの物事に対して同時に向けられることはありえない。健康を愛するという人が毒をも愛することはありえない。そのように、神を愛するという者が、罪をも愛することはできない。心に何らかの罪がひそむことを許している者は、天と地が互いに離れているのと同じくらい、神を愛することからかけ離れているのである。
7. 愛の別の実は十字架につけられていることである。
神を愛する者は、世に対して死んでいる。「私も世界に対して十字架につけられたのです」(ガラ6:14)。私は、様々な栄誉や、その栄誉を楽しむことに対して死んでいる。神を愛している者は、神以外の何物をもさほど愛さない。神を愛することと、世を熱烈に愛することは並び立たない。「もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません」(Iヨハ2:15)。神に対する愛は、モーセの杖がエジプト人の杖を呑み込んだように、他のあらゆる愛を呑み込んでしまう。もしもある人が太陽の中で生きられるとしたら、地球のすべては何と小さな点になることであろう。そのように、ある人の心が神を称賛し、神を愛することによって世を越えて引き上げられるとき、下にあるこれらの物事は何と貧しく、僅かなものとなることであろう! それらは、その人の目には無であるように思われる。このように物事を無のように見なす姿勢は、初代キリスト者たちが神を愛していたしるしであった。なぜならその人々は、心のそば近くに財産を置いていなかったからである。むしろ、「金を……使徒たちの足もとに置」いた(使4:35)。
神に対するあなたの愛を、次のような形で試してほしい。この世のものをいくら手に入れても満足しないという人々を、あなたはどう思うだろうか。「彼らは地のちりをあえぎ求め」(アモ2:7 <英欽定訳>)。イグナティオス*1は言う。あなたがこの高価な《真珠》よりも世を好んでいるときに、キリストを愛しているなどと決して話してはならない。だが、世には金を神よりも尊んでいる者が数多くいるではないだろうか。ネゲブの地が得られさえすれば[ヨシ15:19]、いのちの水のことなどどうでも良いのである。そのような人々は、金目当てでキリストときよい良心を売り払ってしまう。神は、そのように卑しい動機によってご自分を軽んじ、栄光に富む《神格》よりも安ピカのちりを好む者らに、天国をお授けになるだろうか。私たちがそれほど心を向けるべきものがこの地上にあるだろうか。それは拡大鏡を私たちに持たせて、地のちりを眺めさせる悪魔のしわざにほかならない。この世は、本物の価値など帯びておらず、単なる写し絵、また欺きである。
8. 愛の次の実は恐れである。
敬虔な者の中で、愛と恐れは口づけを交わし合っている。愛からは二重の恐れが生じる。
(1) 不興を招く恐れ。花嫁は夫を愛しており、それゆえ、夫の不興を招くくらいなら自分の望みを控える。私たちは神を愛すれば愛するほど、神の御霊を悲しませることを恐れるようになる。「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか」(創39:9)。皇妃エウドクシアから国外追放の脅しを受けたときクリュソストモス*2はこう告げた。妃に言うがいい、私は罪のほか何も恐れるものはないと。ほむべき愛によってキリスト者は、熱心という熱い発作を起こし、恐れという冷たい発作を起こし、震えおののく。また、進んで神を怒らせようなどという気を起こさない。
(2) 何かを執拗に守ろうとする思いが入り混じった恐れ。「彼[エリ]の心は、神の箱のために震えていた」(Iサム4:13 <英欽定訳>)。エリの心は、二人の息子、ホフニとピネハスのために震えていたとは言われていない。だが、神の箱のためには震えていた。その箱が奪われるとしたら、栄光が去ってしまうからである。神を愛する者は、教会が不利な状況に陥ってはいけないという恐れで満ちている。俗悪さが(人の皮膚を冒す重い病のように)広がっていきはしないか、教皇制が地歩を占めはしないか、神が御民から離れてお行きにならないかと恐れる。聖礼典における神の臨在は、一国家の美しさであり強さである。神がある民族とともにおられる限り、その民は安全だが、神への愛に燃える魂は、目に見える神のご臨在のしるしが取り除かれてはいけないと恐れる。
この試金石によって、神に対する私たちの愛を試そうではないか。多くの者たちは、平和や取引がなくなるのを恐れるが、神とその福音がなくなることを恐れてはいない。そのような者らが神を愛しているだろうか。神を愛する者は、この世的な祝福を失うよりも、霊的な祝福を失うことを恐れる。義の《太陽》が私たちの地平線から移り去ってしまうとしたら、いったい暗闇のほか何が生じるだろうか。福音がなくなってしまうとしたら、いったいオルガンや頌栄歌が何の慰めになるだろうか。それは、葬式でらっぱを吹き鳴らしたり、長銃を一斉射撃したりするようなものではないだろうか。
9. もし私たちが神を愛しているとしたら、神が愛するものを愛する。
敬虔な者の中で、愛と恐れは口づけを交わし合っている。愛からは二重の恐れが生じる。
(1) 私たちは神のことばを愛する。ダビデは、その甘やかさのために、みことばを蜜よりも尊び(詩119:103)、その価値のために、金よりも尊んだ(詩119:72)。聖書の文脈は、山々の金脈よりも豊かである。私たちがみことばを愛するのも全く不思議はない。それは、天国への道しるべとして私たちを導く星であり、《真珠》が隠されている畑である。みことばを愛さず、それが狭苦しすぎると考え、聖書の何らかの部分が引きちぎられてしまえば良いのにと思うことのできる(例えば、姦淫者が第七戒について願うように思う)者の心には、愛の火花が1つもない。
(2) 私たちは神の日を愛する。私たちは、単に安息日を守るだけでなく、安息日を愛している。「<もし、あなたが……安息日を『喜びの日』と呼(ぶ)……なら>」(イザ58:13)。安息日こそ、私たちの間でキリスト教信仰を公に保ち続ける手段である。この日は、主にとって栄えあるものとして聖別しなくてはならない。神の家は、大いなる《王》の宮殿であり、安息日に神は、その宮殿の格子窓越しにご自分のお姿を現わしてくださる。もし私たちが神を愛しているとしたら、他のどのような日にもまして神の日を大切にするはずである。この日がないとしたら、週日のどの日も暗く翳るであろう。この日にマナは二重に降り注ぐ。今は、天の門が大きく開き、神は黄金の日差しのように地に下っておいでになる。このほむべき日に義の《太陽》は魂の上に上る。恵みを受けた心が、その日をどれほど大切に思うことであろう! その日は、神を喜びとするために作られたのである。
(3) 私たちは神の律法を愛する。恵みを受けた魂が律法を喜ぶのは、律法によって自分の罪深い不行跡が食い止められるからである。もしも神の律法によって一定の抑制が心にかけられていないとしたら、心は喜んで自由気ままにふるまおうとするものである。神を愛する者は神の律法を愛する。----悔い改めの律法、自己否定の律法をである。多くの者らは神を愛していますと言うが、神の律法を憎んでいる。「<さあ、彼らのかせを打ち砕き、彼らの綱を、解き捨てよう>」(詩2:3)。神の戒めは「かせ」にたとえられており、人々を良いふるまいに堅く結びつけている。だが悪人は、そのようなかせがきつすぎると考え、そのため「打ち砕こう」と言うのである。《救い主》としてのキリストのことは愛しているようなふりをしているが、《王》としてのキリストは憎むのである。キリストはご自分のくびきについて告げておられる(マタ11:29)。罪人たちは、キリストから王冠を頭に載せてもらうことは好むが、くびきを首にかけられようとはしない。だが法もなしに支配する王がいるとしたら奇妙な王である。
(4) 私たちは、神の姿を現わすものを愛し、聖徒たちの中で輝いている神のかたちを愛する。「生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します」(Iヨハ5:1)。ある聖徒を愛していながら、その人を聖徒として愛していないことはありえる。私たちは、何か他の理由のために愛することがあるであろう。その誠実さのためか、人好きのする性格や、気前の良さのために愛することはあるであろう。家畜も人を愛するが、人として愛するわけではなく、自分を養い、飼料を与えてくれる存在として愛しているのである。しかし聖徒を、その人が聖徒だからというので愛するのは、神を愛しているしるしである。もしも私たちがひとりの聖徒を、その聖徒としての身分ゆえに、また、神の何ほどかを内側に有しているという理由から愛するとしたら、次のような4つの場合にも愛するはずである。
(a) 私たちは聖徒を、貧しくとも愛する。黄金を愛する人は、ぼろに包まれていようと黄金の一片を愛するものである。同じように、たといある聖徒がぼろを着ていようと、私たちは愛する。その人の中にキリストの何ほどかがあるからである。
(b) 私たちは聖徒を、個人的な欠点が数多くあっても愛する。地上に完全無欠な者はひとりもいない。ある人は、怒りっぽさにすぐ屈する。ある人は、生き方が首尾一貫していない。ある人は、この世を愛しすぎている。いま生きている間の聖徒は、鉱石のままの金のようであり、弱さという金かすを大量に伴っている。だが私たちは、その人の中にある恵みゆえに愛する。聖徒は、傷跡のある美しい顔立ちに似ている。私たちは、そこに傷跡はあっても、聖さという美しい顔立ちを愛する。最高級の翠玉にも傷はついており、どれほど光り輝く星々も瞬くときがあり、最上の聖徒たちにもそれぞれに欠点がある。あなたがた、欠点があるからといって互いに愛し合えない人たち。あなたは神からどのように愛されたいと思っているのか。
(c) 私たちは聖徒たちを、何か二義的な事がらにおいて意見が異なっていても愛する。もしかすると、別のキリスト者はあなたほど多くは正しい知識を得ておらず、そのためいくつかの点で誤りに陥っているかもしれない。あなたは、その人が自分と同じくらい正しい理解に達せないからといって、即刻その人を聖徒失格だと切り捨てるだろうか。根本的な点において一致している場合には、情愛においても一致がなくてはならない。
(d) 私たちは聖徒たちを、たとい相手が迫害されていても愛する。私たちは貴金属を、炉の中に入っていても愛する。使徒パウロはその身に主イエスの焼き印を帯びていた(ガラ6:17)。そのような焼き印は、兵士の刀傷と同じく名誉のしるしである。私たちは、鎖につながれた聖徒をも緋の衣を着た聖徒と同じく愛さなくてはならない。キリストを愛するというなら、迫害されているキリストの器官をも愛するのである。
聖徒たちの中できらめいている神のかたちを愛する思い、それが神への愛だとしたら、その場合、おゝ、神を愛する者たちは、どれほど僅かしか見当たらないことであろう! 神に似た人々を憎んでいる者らが神を愛しているだろうか。キリストの民に対する復讐心に満ちている者らが、キリストのご人格を愛しているだろうか。夫の絵姿を引き裂く妻が、どうして夫を愛していると言えるだろうか。確かにユダとユリアヌス*3はまだ死んでいないに違いない。二人の精神は、今なおこの世に生き残っている。もしも悪魔が大陪審のひとりになっているとしたら、罪のない者のほか誰が有罪になるであろう! 聖潔にまして大きな犯罪があるだろうか! 悪人たちは、世を去った聖徒たちについては大いに崇敬しているように思われ、死んだ聖徒たちを聖人としてあがめている。だが、生きている聖徒たちを迫害する。人は、いくら使徒信条を唱えるときに起立しようと、いくら朗々と「われは神を信ず」と告げようと、その《信条》の条項を1つ忌み嫌っているとしたら、すべてはむなしい。聖徒の交わりという条項をである。確かに、ある人が地獄に落ちる機が熟しているかどうかを何にもまして示すしるしは、この状態に違いない。すなわち、単に恵みに欠けているばかりか、恵みを憎んでいるという状態である。
10. 愛を示す別のほむべきしるしは、神を良いお方であると考えることである。
友を愛する者は、相手の行ないを善意で受けとめる。「愛は……人のした悪を思わず」(Iコリ13:4-5)。悪意をいだく者は、すべてを最悪の意味に解釈する。愛はすべてを最善の意味に解釈する。愛こそ、摂理に関する最も優れた注解者にほかならない。愛は決して摂理を悪とは思わない。神を愛する者は神を良く思う。神によって厳しい患難に遭わされるときも、魂はすべてを善として受けとめる。これこそ恵みに満ちている霊の言葉遣いである。「私の神は、どれほど私が固い心をしているかをご存知です。ですから、次々と患難の刃先を打ち込んでは、私の心を砕いてくださるのです。神は、どれほど私が悪い気質で満ちているかも、どれほど胸を病んでいるかもご存知です。ですから、悪い血を流し出して、私のいのちを救ってくださるのです。この激しいご経綸は、何らかの腐敗を殺すためか、何らかの恵みを行使させるためのものに違いありません。神は何と良いお方でしょう。私を罪の中に放置しておかず、私のからだを打ち叩いても私の魂を救ってくださるとは!」 そのようにして神を愛する者は、一切を善意に受けとる。愛は、神のあらゆる行動を偏見のない目で見ることができる。あなたがた、ともすると神に向かってつぶやき、神から不当な扱いを受けているかのように感じている人たち。その点についてへりくだってほしい。自分に向かってこう言い聞かせてほしい。「もしも私が神をもっと愛しているとしたら、神に対して善意をいだくべきなのだ」と。サタンこそ、私たちに自分たちが良い者だと考えさせ、神をひどいお方だと考えさせる張本人にほかならない。愛は、すべてを最も美しい意味に受け取る。愛は、どのような悪も思わない。
11. 愛が結ぶ別の実は従順である。
「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です」(ヨハ14:21)。人がいくら、キリストのご人格を愛していますと言おうと、キリストの戒めをないがしろにしているとしたら、その言葉はむなしい。父親に従おうとしない子どもが、父親を愛していると言えるだろうか。人が神を愛しているとしたら、血肉に逆らうような事がらにおいても神に従うに違いない。 (a) 困難な事がらにおいても、 (b) 危険な事がらにおいてもである。
(a) 困難な事がらにおいて。これは、罪を殺すという働きにおいて困難な事がらのことである。一部の罪は、単に着衣のように私たちに貼りついているばかりか、目のように私たちにとって愛しいものである。だが神を愛しているとしたら、私たちはそのような罪に、心の意図においても現実行動においても、立ち向かうはずである。またこれは、敵を赦す点で困難な事がらのことである。神は私たちに、いのちにかけても敵を赦せと命じておられる。「互いに赦し合いなさい」(エペ4:32)。それは辛い義務であり、自然の人情に反している。人間というものは、親切は忘れても、受けた危害はいつまでも忘れない。だが神を愛しているとしたら、私たちは自分に対する侮辱や攻撃を水に流すはずである。真剣に考察してみてほしい。神は、どれほどのタラントを私たちに許し、私たちが神に対して行なってきた、どれほど多くの無礼や、怒りを招いて当然の行為を忍耐してくださったことか。それを思えば、私たちは神の生き写しとなり、受けた危害に仕返しするよりも、目をつぶるよう努力するはずである。
(b) 危険な事がらにおいて。神のために苦しむ道に召されるとき私たちは、従うはずである。愛によってキリストは、私たちのために苦しんでくださった。愛こそキリストを十字架に縛りつけた鎖であった。そのように私たちは、神を愛しているとしたら、進んで神のために苦しみを受けようとするはずである。愛は不思議な特質を帯びている。最も辛抱がきかない恵みでありながら、最も辛抱強い恵みにほかならない。愛が、最も辛抱がきかない恵みであるという意味は1つである。愛は、知られている罪が1つでも悔い改められないまま魂の中に存在していることに我慢できない。神に対する不正や不名誉が少しでも行なわれることに我慢がならない。そういうわけで愛は、最も辛抱がきかない恵みなのである。だが愛は、最も辛抱強い恵みである。キリストのためには非難をも、縄目をも、投獄をも辛抱する。「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています」(使21:13)。確かにキリスト者は、必ずしも殉教するとは限らないが、心の中には殉教の精神を秘めている。パウロのように、「縛られること……も覚悟しています」と言う。神に召されれば、苦しみを受けようとする心持ちをしている。テルトゥリアヌス*4は、異教徒がどれほど祖国愛ゆえに苦しみを忍ぶものかを語っている。自然の水源がそれほど高くまで上る以上、確かに恵みはそれよりも高く上るであろう。人が母国愛によって苦しみに甘んじるとしたら、はるかにいやまさってキリストへの愛によって苦しみに甘んじるべきである。愛は「すべてを耐え忍びます」(Iコリ13:7)。バシレイオス*5は、火刑を宣告されたひとりの処女について語っている。この処女は、偶像を伏し拝みさえすれば、いのちと財産を保証するとの申し出に対してこう答えたという。「いのちもお金もなくしてかまいません。キリスト様を喜んでお迎えいたします」。イグナティオスも、気高い熱心な言葉を残している。「私はけだものの牙でひき肉にされましょう、神の汚れなき麦になるためとあらば」。神への愛によってどれほど初期の聖徒たちが、いのちへの愛や、死への恐れを軽々と越えていったことか! ステパノは石打ちに遭い、ルカはオリーブの木につるされ、ペテロはエルサレムで逆さ十字架にかけられた。そのような神々しい英雄たちは、臆病風に吹かれて神の御名を汚すくらいなら、喜んで苦しみを忍ぼうとしていたのである。キリストゆえに自分にかけられた鎖をパウロがどれほど尊んでいたことか! その鎖をパウロは、女性が自分の宝石を自慢するように誇りとしていたとクリュソストモスは言う。そして聖なるイグナティオスは、自分の枷を金剛石の腕輪のように手に掛けていた。「釈放されることを願わないで」である(ヘブ11:35)。この人々は、罪を犯すような条件では牢獄の中から出て来ようとせず、自由よりも無垢の心を保つ方を好んでいた。
この試金石によって、神に対する自分の愛を試そうではないか。私たちには殉教者の精神があるだろうか。多くの人々は神を愛していますと言うが、その愛をどのように現わしているだろうか。キリストのためであっても、慰安なしではこれっぽっちも済まさず、どれほど小さな十字架もがまんしようとしない。かりにイエス・キリストからこう語りかけられたとしよう。「わたしは、あなたを愛している。あなたを大切に思っている。だが、あなたのために苦しみを受けたり、自分のいのちを投げ出したりするのは御免だ」。その場合、私たちはキリストの愛を大いに疑問に思ったはずではないだろうか。ならば、私たちがキリストを愛しているふりをしながら、キリストのために何も辛抱しようとしていないとしたら、キリストから疑われても当然ではないだろうか。
12. 神を愛する者は、他の人々の目の前で、神を栄光に富むお方として現わすために力を尽くすものである。
恋に落ちている者は、愛する相手の愛らしさを絶えず称賛し、口をきわめてほめたたえるであろう。私たちも、神を愛しているとしたら、神がどれほどきわまりなく優れたお方であるかを触れ広め、そうすることによって、神のご名声と神に対する尊敬の念を世でいや高め、他の人々も神に心を奪われるようにしたいと思うはずである。愛は沈黙してはいられない。私たちひとりひとりは、全員がらっぱのようになり、神の恵みがどれほど無代価のものか、神の愛がどれほど人の思いをはるかに越えたものであるか、神の御国がどれほど栄光に富むものであるかを響きわたらせるはずであろう。愛は火に似ている。心の中で燃えるときには、唇から吹き出してくるものである。愛は神への賛美をとめどなく口にするであろう。 愛は、はけ口を求めてやまない。
13. 愛のもう1つの実は、キリストの現われを待ち焦がれることである。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」 *(IIテモ4:8)。愛は結び合わされることを心から願う。アリストテレス*6によれぱ、それは喜びが人々との絆に基づいて発するからだという。キリストと私たちの結婚が栄光の中で完成するとき、私たちの喜びは全きものとなるであろう。キリストを愛する者はキリストが現われることを愛する。キリストの現われは、聖徒たちにとって幸いな現われとなるであろう。いま現在におけるキリストの現われも、きわめて心慰められるものであり、キリストは私たちのために《弁護者》として現われてくださる(ヘブ9:24)。しかし、別の現われは無限に豊かな慰めをもたらすものとなるであろう。そのときキリストは、私たちの《夫》として現われてくださるからである。その日キリストは2つの宝石を授けてくださる。まず、その愛。この上もなく大きく驚くべきものであるため、表現するよりも触れる方がまさっているほどの愛である。それから、その似姿。「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています」(Iヨハ3:2)。そして、その愛と似姿との双方から、無限の喜びが魂の中に流れ込むであろう。ならばキリストを愛する者がキリストの現われを待ち焦がれても不思議はない。「御霊も花嫁も言う。『来てください。』アーメン。主イエスよ、来てください」(黙22:17、20)。このことによって、キリストに対する私たちの愛を試そうではないか。自分で自分を罪に定めるよこしまな者は、キリストの現われを恐れており、キリストが決して現われないでほしいと思う。だがキリストを愛する者は、キリストが雲に乗っておいでになることを思うと喜びに満たされる。そのときには、自分のあらゆる罪と恐れから解放され、人々と御使いの前で無罪であるとの宣言を受け、永遠の神のパラダイスへと移されるのである。
14. 愛によって私たちは、どれほど卑しい職務にも身を屈めることができるであろう。
愛は謙遜な恵みである。威風堂々と歩き回ったりせず、両手をついて地を這うのを常とする。キリストのお役に立つためとあれば、どのような境遇にも身を屈めて従う。アリマタヤのヨセフやニコデモに見られる通り、二人は人の尊敬を集める立場にあったが、ひとりは自らの手でキリストのからだを取り下ろし、もうひとりは甘美な芳香の香料をみからだに塗った。ヨセフらのような身分の者が、そこまで奉仕するのはやりすぎのように思われたかもしれないが、愛によって二人は事を行なわずにはいられなかったのである。私たちも神を愛しているとしたら、どのような働きをも自分にとって卑しすぎるとは思わないであろう。その働きによって、キリストの肢体を助けることになるとしたらそうである。愛は汚れ仕事をいとわない。病人を訪問し、貧しい者を救い出し、聖徒たちの傷を洗う。わが子を愛する母親は、安閑と上品に構えてはいない。子どものためなら、他の人々がさげすむような事がらをも行なう。神を愛する者は、キリストとその肢体への愛ゆえに、どれほど卑しい職務をも身を屈めて行なう。
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*1 紀元2世紀初頭のアンテオケ主教。後にローマに送られ殉教した。[本文に戻る]
*2 紀元4世紀後半から紀元5世紀初頭のコンスタンティノポリスの主教。その説教と手紙の多くが現存している。[本文に戻る]
*3 紀元四世紀のローマ皇帝で、キリスト教を告白していたが後に背教し、異教信仰を復興させようと努力した。[本文に戻る]
*4 キリスト教神学者。紀元二世紀と三世紀初頭の間に、「アフリカにおける初期キリスト教を映し出した貴重な鏡」とされる。(その生地は、アフリカのローマ属州であったカルタゴ近辺であった。)[本文に戻る]
*5 紀元四世紀の神学者にして教師。(カッパドリアの)カイサリア主教となった。大バシレイオスとして知られる。[本文に戻る]
*6 紀元前四世紀のギリシヤ哲学者。倫理、政治、論理、科学に関するその著作によって有名。[本文に戻る]
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