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社会事業の盛んな教会についてどう思いますか? 新約聖書に述べられているような、教会の真の働きにとって、社会事業は有害ではないでしょうか?

 社会事業の盛んな教会とは、単に福音を宣べ伝え、聖書の教えによってキリスト者の群れを建て上げるという直接的な働きをするだけでなく、種々の活動によって、教会員や会衆の肉体的、精神的な益をはかっている教会のことだと思います。そのような働きは、必ずしも新約聖書に述べられているような教会の真の働きにとって有害なものではありません。肉体的、知的な事柄が、霊的な事柄をさしおいて優先されたりしない限り、それは有益な助けとなりえます。

 使徒たちの建て上げた教会にも、多少とも社会事業的な部分がありました。初代教会も、群れの信者たちの肉体的な益に配慮し、いっさいの物を共有にしていました(使徒2:44、45; 4:34、35; 6:1-4)。そして神のみことばは、こうした状況のもとで、ますます広まり、信者の数を非常に増していきました(使徒2:47; 4:4; 5:14; 6:7)。もちろんそうした事業は、たいして多くも、大規模なものでもありませんでしたが。同じように今日の教会でも、さまざまな社会事業を用いて教会員の肉体的、知的な益をはかることができます。もしその教会が貧しい人々の住む地区に立っているなら、さまざまな貧民救済のための活動、たとえば安い石炭購入の会や図書館、教育クラスなどを設けるなどして、大きな利益をはかり、そのすべてを福音宣教のための手段とすることができます。これらはみな、大人も子供もとらえ、イエス・キリストによる救いの知識へと導く手段とすることができるでしょう。

 しかし社会事業を重視する教会には常に危険があります。それは、そうした活動と福音が主客転倒してしまい、福音が二の次にされてしまうか、全く忘れさられてしまうことです。わが国で、このような事態におちいった教会は1つや2つではありませんし、この危険は常に存在しています。そうなった場合、その社会事業は、新約聖書に述べられているような教会の真の働きにとって有害なものとなります。

 教会の第一の働きは、失われた人を捜して救うことです(ルカ19:10; マタ5:19)。第二は、その群れを養うことです(使徒20:28; Iペテ5:2)。そして第三は、教会員が自覚的に奉仕できるよう訓練することです(エペ4:11、12)。もし教会関係の種々の活動が、この3つの働きを目につかない所に追いやってしまうとしたら、それは有益というより有害というべきでしょう。しかし、もしそうした活動が祈り心のもとで、キリストのものとして人々を獲得するという目的を決して見失わず、福音の説教と、失われた人の救いと、聖徒の建徳とを第一に優先しつつ行なわれるなら、非常に助けになるでしょう。

 しかし私の経験では、各地の教会と牧会を見れば見るほど、今日求められているのは 社会事業の盛んな教会より福音的な教会だという気がしてなりません。

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