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異なった教派があることは正しいと思いますか?
分派は、キリスト教のためになるよりも、ためにならないことの方が多いのではありませんか?

 疑いもなく、「分派」は、キリスト教のためになるよりも、ためにならないことの方が多いものです。分派という考えそのものが、何か不和や不一致をもたらすものから出ています。人を分派に向かってつき動かす力が、不和、不一致なのです。

 しかし、「教派」は必ずしも分派とは限りません。教派の違いは、同じ真理を、異なる人々が、異なる角度から見てとり、これらの人々の周囲に他の人々が集まって、真理の特定の聖句を強調したために起こったのです。たとえば、会衆派や長老派がイングランドとスコットランドに起こったのは、信者各個人の自由という真理を守るためでした。この2つの派の発展とともに、この真理に他の多くの真理が結びついていきました。クエーカー教派は、今日の信者各個人に対する聖霊の照明と導きという真理を守るために起こりました。メソジスト派は、新生の明確な個人的体験と、聖潔の生活の必要性という真理を守るために起こりました。後にメソジスト派の教えには、この2つの真理に加えて、自由意志など他の真理が顕著に結びつくようになりました。それぞれの教派は、それまで無視され続けてきたため強調される必要のあった真理を力強く代弁することによって、疑いもなくキリスト教のために良いことをしてきました。現在の人間の不完全な状態にあっては、どんな個人にも、神の真理の全体を展望できるだけの大きさはありません。ある人は、真理の1つの面だけを明確に見てとり、別の人は、真理の別の面だけを見てとります。このような世界にあっては、教派が必要だったのです。しかし現代になって、教派同士の境界線が急速に薄れていきつつあり、各教派が互いを理解しあい、他の教派の固守する真理を受け入れるようになってきたのはよいことです。

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