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どうして神は、罪もない御子を人間の罪のために罰するようなことができたのですか?

 聖書の教えは決して、実害を受けた聖なる御父が、加害者たる人間の罪を取り去って、何の罪もない第三者である、ご自身の聖なる御子に背負いこませたなどというものではありません。このような誤解が、しばしば贖いの教理についてまかりとおっていますが、実際のところ、大体こういうことを云うのは、身代わりの死という聖書の教理を否定する人々と決まっています。

 聖書が本当に教えているのは、イエス・キリストは無関係な第三者などではなく、まさに、人間から罪を犯された当事者であり、「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ……た」、ということです(IIコリ5:19)。すなわち神は、ご自分の御子が贖いの死をとげられたことにおいて、罪ある人間の罰を無関係な第三者に負わせたのではなく、人間が当然受けるべき恥辱と苦しみを、ご自分で引き受けられたのです。これは不正で残酷な仕打ちどころか、驚くばかりの恵みです!

 さらにイエス・キリストは、罪を犯した加害者の側でもありました。彼は単なる一個人ではなく、「人の子」でした。人間全体の代表でした。人類のかしらでした。普通の人間は、だれも他人の咎を背負うことはできません。しかし、人間全体の代表者である「人の子」には、それができたのです。

 聖書の教えは、断片的に取り上げずに統一された体系として取り上げるなら、この世のどんな哲学にもまさって素晴らしい教えです。その無限の深さは、永遠に思い巡らし、あがめるに値するものです。しかし、その教理を1つでも取り除くなら、その他の教理はばかげたものとなってしまいます。イエス・キリストの神性という教理を放棄する人には、贖いの教理はばかげたものと見えるでしょうし、当然この問いに示されたような困難が起こることでしょう。また、キリストが本当に人間であったという教理を放棄する人には、贖いの教理の深遠な意義はわかりません。しかしもし聖書の教えを1つも取り落とすことなく、すべて受け入れるなら、すなわちイエスが真の神であり、「肉において現われ」た神であられたこと(Iテモ3:16)、また彼が真の人であり、単なる一個人ではない「人の子」、つまり人間全体の代表者であられたことを受け入れるなら、贖いの教理は何の不都合もない、驚くべき深遠な真理であることがわかるのです。

 概して、代償の死という教理に反対する人々は、この点に関する聖書の真の教えについて驚くほど無知です。こうした人々は、聖書が真に教えていることに反発しているのではなく、自分自身の想像の産物に向かって反抗しているのです。

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