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バプテスマは救われるために必要でしょうか?

 それは、「救われる」という言葉と、「バプテスマ」という言葉で何を意味しているかによります。確かに、水のバプテスマを受けないまま罪の赦しを受け、永遠のいのちへ入った人もいないわけではありません。たとえば、あの十字架上で悔い改めた強盗がそうです(ルカ23:43)。またフレンド派(クエーカー教徒)と呼ばれる大きな団体では、水のバプテスマを全く行なっていません。にもかかわらずフレンド派の人々の多くは、自分の罪が赦されていることを自覚しており、神も、その人々に聖霊の賜物を与えて、ご自分が彼らを受け入れておられる証印を押してくださっています。

 しかし聖書のいう、「救い」とは、単なる罪の赦しや永遠のいのちだけを示すことばではなく、キリストのうちに見いだされる満ち満ちた祝福のすべてという、より広い意味で使われています。確かに人は、キリストに絶対的に服従しない限り、キリストのうちにある満ち満ちた祝福をことごとく自分のものとすることはできません(使徒5:32)。知っていながら従っていないキリストの命令が1つでもあるなら、確かにキリストとの交わりを楽しむことはできないでしょう。イエス・キリストは水のバプテスマをお命じになりました(マタ28:19、20)。またそれを、弟子たちを通してもお命じになりました(使徒2:38)。にもかかわらず、キリストに従う熱心な人々の中には、このような箇所には、バプテスマ、すなわち水によるバプテスマを授けよ、という命令はないなどと云い、バプテスマを受けないことが意図的にイエス・キリストにそむくことであることに気づかない人がいます。

 ですから、イエス・キリストが水のバプテスマをお命じになったと信ずる人々にとって水のバプテスマを受けることは、キリストに対する服従の行為です。そして実際に、このより広い意味での救いをもたらすものです。バプテスマは、数知れない人々にとって人生最大の転回点となってきました。それは自分から意識的にイエス・キリストに従う行為としてなされ、大きな祝福をもたらすのです。

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