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神は異教徒をどのようにおさばきになるのですか?
異教徒は、自分の持つ最上の光に従って生きることで救われることができますか?

 神は、異教徒が生きている間持っていた光に応じ、正義によって彼らをさばかれます。モーセに啓示された律法を知ることなしに罪を犯した者は、やはり律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます(ロマ2:12)。

 異教徒は光を持たないわけではありません。彼らが生まれつきのままで律法の命じる行ないをしているという事実は、モーセに啓示された律法はなくとも、彼らが何らかの律法を持っていることを示しています(ロマ2:14)。どんな異教徒でも、自分の持っている光に完全に従って生きるなら、その行ないによって救われることは確かです。しかし、これを実行できた異教徒はいまだかつて一人もいません。ローマ2:12-16を解釈して、異教徒は天性の光によって救われることができると教える人がしばしばいますが、前後関係をふくめてこの箇所を注意深く読めば、ここでパウロが目ざしているのは、異教徒が彼らの心に書かれている律法を守ることで救われると示すことではなく、すべての人が有罪であると示すことです。すなわち、啓示によって与えられた律法に従って生きることのできなかったユダヤ人も、心に書かれている律法に従って生きることのできなかった異邦人も、ともに有罪宣告の下にあるということです。この問題の結論はローマ3:22、23です。「何の差別もありません。すなわち、すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ないのです。この聖句に続いて示されているのが、救われるための唯一の道、すなわち、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる道です。これはキリストが成し遂げられた、なだめの死を土台とする救いであり、私たち一人一人は、キリストを信ずる信仰によって、その救いを自分のものとすることができます。個人的な救い主としてキリストを個人的に受け入れない限り、だれ一人救われる人はいません。イエス・キリストを受け入れずに死んだ人に希望の光を差し出しているような聖句は1つもありません。

 この世でイエス・キリストのことを聞かずに死んだ人は、未来の何らかの状態においてキリストのことを聞き、彼を受け入れるか、拒むかを選択できる機会が与えられるであろうと主張する人々がいます。しかし聖書はそう云っていません。これは単に推測の域を出ないものであり、聖書は一言も支持していない見解です。

 また、生きている間にキリストが示されていたら受け入れていたはずの異教徒たちは、あたかも彼らにキリストが示され、彼らがキリストを受け入れていたかのように取り扱われるであろうと主張する人々もいますが、これもみな憶測にすぎません。

 聖書が教えているのは、個人的にキリストを受け入れない限り、だれひとり救われないということだけです。ですから、分別ある行動をしたいと思う者は、自分にできる限りのあらゆる努力をして、異教徒が今のこの世でキリストを受け入れることができるような機会を与えなくてはなりません。なぜなら、もし私たちが地上での義務をおこたるならば、何らかの未来の時代、または未来の状態において、異教徒にもキリストを受け入れる機会が与えられるというような希望は、聖書のどこを探しても一言も支持されていないからです。

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