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煉獄の教理は聖書的ですか?

 確かに聖書は、死後に中間的な状態があるとは教えています。しかし、これは煉獄のことではありません。くわしくは、「死後やり直しができますか」、という質問や「死後のいのち」という質問を読んでください。

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ルカ15:4は、生きている間に悔い改めてキリストに立ち返る機会が十分あった者なら、救われずに死んでも、キリストがその人を見つけるまで捜し続け、救ってくださると、はっきり保証しているのではないでしょうか?

 決してそんなことはありません。ここで教えられているのは、羊飼いは、いなくなった羊を見つけるまで捜し歩く、ということだけです。しかし、すべての人が「羊」というわけではありません。この聖句を持ち出して、これこそ、すべての人が最後には見いだされ救われると教えているではないか、という議論の根本には、すべての人は羊であるにちがいない、という仮定があります。しかし、神のみことばは、そうではないとはっきり教えています。世には羊である人々と、山羊である人々がいます(マタ25:31、32)。羊である人々と、豚や犬である人々がいます(IIペテ2:22)。疑いもなくイエス・キリストは、ご自分の羊を、遅かれ早かれ、ひとり残らず見いだされるでしょう。聖書は、キリストが、今の世で彼らを見いだすと教えています。しかし、聖書の別の箇所の教えによれば、ある人々は山羊であり、さばきの日まで山羊であり続けるのです。そして、山羊たちは、こう云われることになります。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ」(マタ25:41)。これはイエスご自身のことばなのです。

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