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義と認められるとはどういうことですか?
救いの条件は信仰だけなのですか?

 新約聖書で、「義と認める」、と訳されたギリシヤ語は、もともとは、「正しい人にする」、という意味です。しかしこの意味は、ギリシヤ語の使い方としては非常にまれです(全くないとは云えませんが)。そしてこれが新約聖書で使われている意味でないことは確かです。聖書では、「義と認める」、という言葉は、「正しい人にする」、という意味ではなく、「正しい人とみなす、宣言する、示す」、という意味で使われています。人は、神がその人を義人とみなしてくださるとき、神の御前で義と認められます。すなわち、神は、その人の罪を赦すだけでなく、その人を全く罪のない、義に満ちた者とみなしてくださるのです。

 人が神の前で義と認められるための条件はただ1つ、イエス・キリストへの単純な信仰です(ロマ3:26; 4:5; 5:1; 使徒13:39)。キリストの流された血こそ、私たちが義と認められるための根拠であり、彼に対する単純な信仰によって私たちは、その流された血を自分のものとするのです。彼の血が流されたことで、私たちが義と認められるための用意は万端整っています。私たちは、ご自分の血を流してくださったこの方を信じるとき、本当に義と認められるのです。信仰こそ、イエス・キリストの血による贖いの力を私たちのものとする唯一の手段です。信じるのでなければ、他に何をしても義と認められることはできません。

 もし信じるなら、信じた瞬間からすべての点について義と認められます(使徒13:38、39)。数々の罪がみな神の目から消し去られるだけでなく、神のみ思いの中では、イエス・キリストのうちにある神ご自身の義が、ことごとくその人のものとみなされるのです。イエス・キリストは、カルバリの十字架上で死なれたとき私たちの立場をとられました(ガラ3:10、13)。逆に私たちは、イエス・キリストを信じたその瞬間に、イエス・キリストと同じ立場になり、神の目には、イエス・キリストご自身と同じくらい神のみこころにかなう者となるのです。

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