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選び

NO. 386

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説教者:ジョン・ブルームフィールド師
ソーホー区、ミアド小路教会牧師

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 愛するキリスト者の方々。私の気風や牧会伝道のしかたをよくご存知の方であれば、次のように云っても容易に信じていただけると思うが、私としてはむしろ、キリストのご人格の威光や奥義について語る方が、あるいは、キリストの仲保の完全さやその掛け値なしの価値について、あるいは、恵み深くも全能の《救い主》としてのキリストの大いなる魅力について語る方が、今回割り当てられた主題について語るよりも好ましかった。私に与えられた主題とは、永遠の、また、個人的な選びの教理という主題である。私は、この選びの教理が聖書的な真理であることを証明しなくてはならない。そして、この深遠な主題について多少の所見を述べるに当たり、最初に云わせてほしいのは、私が聖書を神からの啓示であると考え、かつ堅く信じているということである。私の信ずるところ、この神のみ思いの啓示は本質的かつ無謬に正しく、その古の歴史的記録は何にもまさる価値があり、その預言の数々は学ばれ、尊ばれるべきであり、聖書の諸教理はその《著者》たるお方の威光と知恵と聖さといつくしみ深さと調和している。さて私たちは、自分がある教理を好きか嫌いか、信ずべきか信じざるべきかということを決して問題とすべきではない。問題は、果たしてそれが敬虔にかなう教え[Iテモ6:3]か、神のことばの教理かどうか、ということである。真理は、この世で人気を博した試しがない。イエス・キリストは地上におられたとき決して人気を博してはいなかった。真理は、人々が罪によって、また、神への敵意によって影響されている限り、決してこの世で人気を博さないであろう。ことによると、他のいかなる教理にもまして熾烈な反対に遭ってきたのは、私が語らなくてはならないこの教理かもしれない。これが恐ろしいほどに誤解されてきたのは、人が祈り深く、自主的に聖書を学んでこなかったためである。あるいはその原因は、どこかの公人が、これを見る影もないようなしかたで誤り伝えてきたことにあるかもしれない。これは苛烈な反対を受けてきた教理である。私たちは、自分のちっぽけな努力では引きずり降ろせない教理に反対するのかもしれない。自分では反駁できない教理について、闇雲な敵意にかられて異論を唱えるのかもしれない。だが私たちの堅く信ずるところ、イエス・キリストにある救いへの選びという教理は聖書の教理である。私たちは主権の愛を信じているが、主権の憎悪は信じていない。行ないによらない、神の恵みによる救いを信じてはいるが、罪によらない断罪は信じていない。私たちは、主イエス・キリストを信ずる信仰による救いへの選びのことは堅く信じるが、罪によらない遺棄という、恥ずべき見下げ果てた教理は自分たちの信条から放棄するものである。選びの教理は聖書的教理だろうか? 私たちはそれを神のことばから証明できるだろうか? それを《天来の》啓示であると信ずることと、その聖める恵みと力とを自分の心の中に有することとは別物である。聖書に記されている選びは、分かちがたく聖潔と結びついており、私たちは主イエス・キリストを信ずる信仰を伴わない救いへの選びなど全く信じていない。救いを目的として定められたお方は、その目的が成し遂げられる手段をも定めておられる。ことによると、推理力を有する人であれば誰であれ、この世界の続く限り神が収穫を予定しておられることに疑問をいだかないかもしれない。しかし、種を蒔くことがなければ、また、農夫がその土地の上で労働することがなければ、何の収穫も得られないはずである。なぜなら、収穫を予定したお方は種蒔きをも予定されたからである[創8:22]。そして、神は私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになった[Iテサ5:9]。これから私は、いくつかの聖句の引用によって、永遠かつ個人的な選びの教理が聖書的で《天来の》真理であることを証明したいと思う。イエス・キリストご自身が、「神に選ばれた、尊いもの」[Iペテ2:4 <英欽定訳>]と云われていた。主は神に選ばれたお方であった。エホバご自身がこう云っておられるからである。「見よ。わたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者」*[イザ42:1]。その堕落せざる尊厳と至福のうちにとどまり続けている御使いたちは、「選ばれた御使いたち」[Iテモ5:21]と呼ばれている。選ばれた御使いたちは、救いの相続者となる人々に仕えるために用いられている[ヘブ1:14]。選ばれた御使いたちは、神の選民たちを天の世界へと集め入れるために用いられるであろう。ユダヤ民族は選ばれた民族であった。そして、そのようなものとして彼らは、神の色々なおことば[ロマ3:2]を特権的に受けていたし、世を代表する民として立っていた。彼らが選ばれたのは、彼らの個人的な価値のゆえではなかった。彼らの善良さのゆえではなかった。だが彼らは、分離された民、神の格別な宝となる民、主の聖なるものとなる民[エレ2:3]となるべく選ばれた。彼らについては、こう云われている。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた」[申7:6]。イエス・キリストご自身、マタイ24章で、ある特定の日数が神に選ばれた者のために少なくされることについて語っておられる[マタ24:22]。詩篇作者は、神が御民を愛されるとき、自分も心に留められることを切望していた。それは彼が、神に選ばれた者たちの幸せを見るためであった[詩106:4-5]。そして、イエス・キリストご自身、弟子たちにこう云われた。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです」*[ヨハ15:16]。そして、使徒パウロはその手紙の中で非常にしばしば、この偉大かつ深遠な教理を持ち出している。彼は云う。「恵みの選びによって残された者がいます」[ロマ11:5]。彼はエペソの教会に向かってこう語っている。「神はあなたがたを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」*[エペ1:4]。神はその主権の行使によって、時が始まる前から、キリストのうちにあって、1つの民を救いへと選ばれた。――それは世界の基の置かれるであった。ここに、その古さがある。――それは、神の恵みの豊かさに従い、キリストのうちにおいてなされ、聖さと救いへと至らせるものである。パウロはテサロニケの教会に向かって、自分は神に感謝しなくてはならないと云った。それは彼らが、「御霊による聖めと、真理による信仰によって」[IIテサ2:13]、初めから救いに選ばれていたからである。ペテロは神の民のことを選ばれた種族、王である祭司[Iペテ2:9]と語っている。彼が手紙を宛てていた相手は、父なる神の予知に従い選ばれた人々[Iペテ1:2]であった。さらに多くの聖句を、この主題については示すことができるが、それは不必要だと思う。もし私たちが、預言者たちや、詩篇作者や、キリストや、使徒たちによる単純な神の御霊の教えに注意を払いさえすれば、私たちは、《天来の》選びという教理が聖書的な真理であることを、一瞬たりとも疑うことはできないだろうからである。

 私が第二に主張したい点はこうである。すなわち、神がその民を選ばれたのは、キリストにおいて彼らを、ご自分との、考えるうる限り最も高い関係に入らせ、最も尊い祝福を享受させるためであったということである。あらゆる霊的な関係はキリストにおいて成り立ち、あらゆる霊的な関係は神の恵みに端を発している。そして、あらゆる霊的な関係は、神のいつくしみの主権と、神の愛の不変性とを永続的に現わすしるしである。もし私たちが神の子どもたちだとしたら、何が私たちを神の子どもたちにしているのだろうか? 私たちが神の子どもたちである理由は、神の主権の愛にある。子としてくださるみわざにより、また、エホバの御意志の働きによってこそ、私たちはその息子たち、また、娘たちとされているのである。子とされることとは、私たちが生来いかなる権利も有していない関係が確立されることである。子とされることと、子としてくださる御霊[ロマ8:15]は別物である。さて、キリストは神の長子であり、その全家族はキリストのうちにあって選ばれている。キリストは、《教会》の栄光に富む《かしら》であり、神の全家族はキリストにあって選ばれた者らなのである。キリストはご自分の《教会》の永遠の《祭司》であり、全家族を代表しておられる。ユダヤ人の祭司がその胸当てによって、また自分の職務の遂行によって、ユダヤ民族全体を代表していたのと全く同じである。ならば、神につらなるあらゆる関係は、キリストにあって成り立ち、エホバの御意志の主権に端を発し、エホバの御心の無限の愛を表わしているのである。私たちは救いへと選ばれている。――それが目的である。その目的が成し遂げられるための手段は、「御霊による聖めと、真理による信仰」[IIテサ2:13]である。私たちが選ばれたのは、用いられる者となるためである。あらゆるキリスト者は用いられる者となることを求めるべきである。あらゆるキリスト者は、正気であるとしたら、神の証しをする者である。あらゆるキリスト者は、キリスト教的な原理の影響を受けている限り、神が確立されたこの関係の尊厳について、また、自分の心に影響を与えている諸原理の聖さについて証しをする者である。あらゆるキリスト者は生きた福音たるべきである。その生き方は、自分が学び、影響されているキリスト教の聖さを証しするものでなくてはならない。私たちは永遠のいのちへと選ばれているが、それは、キリストによる永遠のいのちである。信仰がなくては、キリストにあずかっている何の証拠もない。信仰がなくては、キリストによる救いを決して享受することはない。信仰がなくては、人は《小羊のいのちの書》にあずかっているという何の証拠もない。だが、キリストを信じている人は、いかにその信仰が弱くおののきがちであっても、自分の名前が《小羊のいのちの書》に記されているという証拠を自分の心の中に持っているのである。また、自分のふるまいが福音の聖さに応じたものである場合、その人は自分の生き方の中に、自分が天のあらゆる目的と、主イエス・キリストの卓越した贖いのすべてとにあずかっている証しを有しているのである。選びにあずかっている最大の《証拠》は聖さである。ある人が、自分は選びを信じています、そして、自分は神の選民のひとりなのですから天国に行くはずです、などと語っていながら、罪の中に生き、神への敵意の中に生きているなどということは、決して決してあるはずがない。私たちは救いへと選ばれている。それは、「御霊による聖めと、真理による信仰によって」[IIテサ2:13]、と云われている。そして、この御霊による聖めと、真理による信仰がない限り、いかなる聖さもなく、「聖くなければ、だれも主を見ることができません」[ヘブ12:14]。聖くなければ、誰も天国で神に仕えることはできない。聖くなければ、誰も天国でイエス・キリストのご栄光を見ることができない。聖くなければ、誰も地上で力強く、また、生き生きと神に仕えることはできない。聖くなければ、誰も神との交わりを持てない。というのも、まことに私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わり[Iヨハ1:3]だからである。実生活がキリスト・イエスを信ずる信仰と首尾一貫したものでない限り、私たちには自分が選びにあずかっているという何の証拠もない。私たちが選ばれているのは、私たちが聖いからではなく、むしろ、私たちが聖くなるためである。私たちが選ばれているのは、私たちが善良だからではなく、永遠の《福音》の原理によって、私たちが善良な者となるためである。私たちが選ばれているのは、私たちが救われているためではなく、主イエス・キリストを信ずる信仰を通して私たちが救われるためである。私はこう主張したい。愛する方々。選びというこの偉大な教理は説教されるべきである。それが説教されるべきなのは、これが真理の壮大な体系の一部だからである。真理とは単一の教理ではなく、壮大な体系であって、その一部でも省略すれば、その美しさを損なわずにはいられず、また、この体系の一部でも省略すれば、その力を弱めざるをえない。真理の美しさは、その完璧さのうちにあり、その相互関係の調和の中にある。真理の強さは、その部分部分の統一性のうちにあり、それは黄金の粒子のようである。――ことごとく貴重である。もし《選び》が生ける神の御霊によって霊感された真理でないとしたら、――もしそれが霊感された預言者たちによって宣言された真理でないとしたら、――もしそれが使徒たちによって公にされた真理でないとしたら、――もしそれが神のことばの中に見いだされる教えでないとしたら、私たちはそれについて一言も口にしないようにしよう。だが、もしこれが使徒たちの時代に真理であったとしたら、それは今もその当時と寸分も劣りなく真理である。私は主張する。使徒たちが説教したことを、私たちも愛の霊によって、また、信仰の霊によって、また、柔和の霊によって、また、完全に聖霊の力により頼みつつ説教しなくてはならない。聖霊だけが、不滅の魂を回心させる務めを成功させてくださるのである。しめくくりの前に、もうほんの一瞬云わせてほしい。選びの教理の中にあるいかなるものも、悔悟せる、求道中の罪人を落胆させはしない。《福音》の中には、御父の家に立ち返る放蕩息子を歓迎する一切のものがある。目覚めさせられた良心が必要とする一切のものを満足させるものがある。《福音》の中には、悔悟せる魂の切望に応ずる一切のものがある。私は、ある人がこう云っていることを承知している。「先生。私は、自分が神に選ばれていないので救われないんじゃないかと思うんです」。あなたは罪人だろうか? あなたは悔悟した罪人だろうか? あなたは救いを求めている罪人だろうか? もしあなたが救いを求めている、悔悟した罪人だとしたら、あなたは、自分が無限の愛の供する恵みによっていかに歓迎されるか想像もできないであろう。《福音》の中にあるあらゆる真理はあなたに開かれている。《福音》の中にあるあらゆる約束はあなたに開かれている。聖書のあらゆる招きはあなたに語りかけている。もしあなたがいつくしみを求めている罪人だとしたら、このことによって心励まされるがいい。――すなわち、神はいつくしみを喜ばれる[ミカ7:18]のである。もしあなたが救いを求めているとしたら、イエスはそれをお望みになり、そうする力のある《救い主》であって、こう語っておられる。「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」[ヨハ6:37]。愛する方々。聖書の中にある通りの選びの教理の中には、悔悟した者が、イエス・キリストによるあわれみを求めることを落胆させるようなものは何1つない。この偉大で栄光に富む真理がみじめに誤伝された場合、人々が《救い主》によってあわれみを求める心を挫かれかねないことは、私も承知している。しかし、それを聖書的な文脈の中で見てとるがいい。偉大な使徒たちによって私たちの前に提示されている通りの単純さにおいて見てとるがいい。《救い主》ご自身の教えの中でそれを見てとるがいい。するとその中には、悔悟した罪人を歓迎するもののほか何もないのである。これは、求める《魂》にとって大きな励ましである。自分の種を蒔く農夫は、神によって収穫が予定されているとしたら、その種を蒔く際の期待はより大きくなるだろうか、小さくなるだろうか? むろん自分の種を希望に満ち満ちた心とともに蒔くであろう。なぜなら、神は、世界の続く限り収穫があると約束されたからである。ただ聖書に従って手段を用いるがいい。あわれな、覚醒した、悔悟せる罪人は、ただ十字架につけられたキリストの他すべてを放棄するがいい。そうすれば、あわれみは、その人の悩める心に渦となって流れ込み、その人の霊を平安で満たし、その人は圧倒的な勝利者となって出て来ては、こう叫ぶであろう。《小羊》の血による勝利――イエス・キリストによる勝利、勝利、と。

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