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人間の堕落

NO. 387

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説教者:エヴァン・プロバート師
ブリストル教会牧師

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 愛するキリスト者の方々。あなたがたもよく承知しているように、この日の午後、私たちの注意をさらに引くべき主題は、《人間の堕落》である。――多種多様に意見の分かれている主題だが、今回私はそうした異見を逐一吟味することはせず、むしろ神のことばの教えに限定して考えようと思う。みことばこそ、信仰と実践の唯一無謬の規則であり、みことばによってこそ私たちは、人間が《造り主》の御手から出て来たときいかなる者であったか、また、堕落した者としての人間が今いかなる者となっているかを教えられるのである。聖書の筆者たちが明確に宣言するところ、神は人間を正しい者としてお造りになった。それゆえ、人間は、完璧に純潔で、道徳的に高く卓越した状態にあった。その性質のいかなる部分にも悪への傾向は全くなく、道徳的な清廉さという六弦琴から微塵もはずれたものはなかった。いかなる義務であれ、それは人にとって常に変わらず喜ばしい務めであった。しかし、悲しいかな! 人間が栄誉に包まれていた時期は長くは続かなかった。悪魔のへつらう策略によって、私たちの最初の両親たちは自分の《造り主》の明確な命令を破るように促された。その命令を遵守することが彼らの幸福の条件だった。そこで彼らは、そのそむきの罪への罰としてパラダイスから追い出され、死の宣告によって絶命を免れない者となり、永遠の悲惨へと引き渡された。そして、私たちの連帯的なかしらであり代表者であるアダムと私たちとのつながりによって、私たちは彼の堕落のすさまじい結果の数々を受けることとなった。これは、ローマ人への手紙5章における使徒パウロの証言から明らかである。こう記されている。「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった……それというのも全人類が罪を犯したからです」[12節]。また、「一つの違反によってすべての人が罪に定められた……。……ひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされた」[18-19節]。これらの箇所から明らかなように、神は、わざの契約において、アダムを彼の自然的子孫のかしら、また、代表者とみなしておられた。その結果、彼が堕落したときには私たちも彼にあって堕落し、彼の堕落のすさまじい結果の数々を受けることとなったのである。ここで、彼の堕落の結果とは何か、と問われるかもしれない。その結果は彼にとっていかなるものであったか、また、私たちにとっていかなるものであるのか、と。この問いに答えるには、死や、罪に定めるという言葉によって使徒が何を意味しているかを確かめなくてはならない。思うに彼は、こうした言葉を、神の恵みや、人が義と認められていのちを与えられることや、贖われた者らがイエス・キリストによりいのちにあって支配することと、対立するものとして用いている。これらは、キリストによる神の恵みから生まれる恩恵であり、罪が私たちの世界に導き入れた数々の悪と対立しているのである。そして、こうした恩恵が肉体的ないのちに関係しているとか、からだの復活だけにしか関係していないとは考えられない以上、こうした死や、罪に定めるといった言葉に含まれている悪が、単に肉体的な死にしか関係していないことはありえない。むしろこれらは、肉体的な死、法的な死、霊的な死を含むものとして考えられなくてはならない。

 アダムは、そむきの罪を犯したその時から、定命の者となった。――死の宣告が彼に下され、堕落の種子が彼の組織に蒔かれ、そのようにして、あの麗しく、美しく、栄光に富んでいた被造物はしおれ始め、枯れて、死んで行くこととなった。また彼の全子孫は、彼にあって定命の者となり果て、その日以来今日に至るまで死につつある者としてこの世にやって来るのである。人が罪を犯さなかったとしたら、いかなる者となりえていたか私たちには何とも云えない。しかしながら、これだけは分かる。人が死ぬことはなかったであろう。というのも、死は私たち人類の父祖が犯した連帯的な失敗の結果だからである。「あなたはちりだから」、と神は彼に云われた。「ちりに帰らなければならない」[創3:19]。「ひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはい……った」[ロマ5:12]。「アダムにあってすべての人が死んでいる」[Iコリ15:22]。それで、アダムの息子や娘たちの全員に対して、こう云うことができるのである。「あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない」、と。

 しかし、アダムはそのそむきの罪によって、単に自分と子孫に肉体的な死をもたらしただけでなく、法的な死をももたらした。遵守するようにと与えられた律法を破った彼は、その律法の呪いの下に置かれ、その呪いには肉体的な死やパラダイスからの放逐のみならず、そのそむきの罪のしかるべき罰を受ける運命も含まれていた。そして、私たちの連帯的かしらとしての彼と私たちとの関係の結果、私たちは同じ律法の呪いの下にある。――「ひとりの人の不従順によってすべての人が罪に定められた」*。さらに、「一つの違反によって多くの人が罪人とされた」*。私たちの祖先がそむきの罪を犯したその瞬間に、彼の全子孫はその呪いの下に置かれたのである。神の聖なる性質は、この背教の種族を忌み嫌った。神の聖く義なる律法の呪いは常にこの種族の上に置かれた。天の法廷では、堕落した世としての私たちに審きが下され、刑が宣告されている。この判決が撤回されない限り、その審きはそのすさまじい結果のすべてとともに私たちの上に降りかからざるをえない。

 私たちはまた、アダムのそむきの罪の結果、霊的な死の対象にもなっている。霊的な死とは、単にいのちの原理が奪われるということだけでなく、堕落した者となること、私たちの魂の機能と私たちのからだの器官とのすべてが堕落し果てているということにある。その堕落によって私たちには、あの預言者がユダヤ民族について云っているのと同じことが当てはまる。「頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。足の裏から頭まで、健全なところはない」*[イザ1:5-6]。何と! 健全なところが何もない? いかに大事にはぐくんでも、私たちを神へ、天国へ、幸福へと導くだろうものが何もない? しかり、皆無である。誰も誤解しないでほしい。私は一瞬たりとも、罪が人間の魂の機能のいずれかを破壊してしまったとは云っていない。というのも、そうした機能は残されているからである。そうした機能はみな、それらが生み出されたときにそこにあったのと同じように漏れなく存在している。だが私が云いたいのは、罪が人間から霊的いのちの原理を奪い去っており、人を堕落した卑しい者としているということである。そして私たちの信ずるところ、私たちはこのことを神のことばからも、観察からも証明できる。

 第一に、――小さな子どもたちのふるまいがある。子どもたちは、ごく幼少の頃から罪を犯し始める。もし私たちの中に何か善があったとしたら、それは幼児期に姿を現わすであろう。この世との接触によって、種々の良い習慣が堕落させられ、悪の諸原理が生じさせられる前にそうなるであろう。しかし、小さい子どもたちは善の方を好むだろうか? 彼らは善良なことや気高いことに向かう傾向があるだろうか? 子どもたちがごく幼少の頃から善良なことを切望する姿が見られるだろうか? 私は云うが、それとは正反対である。彼らは、這い回り始めるや否や、その行動によって、自分の内側に堕落した性質があること、その性質に動かされて行動することを明らかにする。かの賢者は、「狂気は子どもの心につながれている」*、と云っている[箴22:15]。彼らは、母の胎を出たときからよこしまな者で、嘘つきである。しかし、反論としてこう云われるであろう。これは、一部の子どもたちが置かれる不都合な環境によるものだ、と。疑いもなく、不都合な環境は子どもたちの精神に悪影響を及ぼすであろう。だが、人類全体についてはそうではない。幼児期から善なるもの、聖なるものを求める傾向があるという子どもをひとりでも指摘してみてほしい。そして、幼児たちの有する傾向がごく幼少の頃から悪に向かうものであるとしたら、それは、そうした傾向が彼らの内側にある悪の性質から生じているという、まぎれもない証拠である。その性質は、彼らが成長するにつれて成長し、彼らが力をつけるにつれて力強くなるのである。

 第二に、――人間の堕落のさらなる証拠となるのは、キリストのもとに来ることを罪人たちが毛嫌いするという事実である。彼らは主のもとに来るようにと招かれ、説得を受ける。そうすれば赦され、受け入れられ、救われるだろうと請け合われる。しかし、いくら説きつけても彼らを主のもとに来させることはできない。では、なぜ彼らは来ようとしないのだろうか? それは、罪人がそうしたものを受けたくないからだろうか? それとも、罪人のうちにそれらを妨げる何かがあるからだろうか? 否、むしろそれは、彼らの心に深く根差した堕落のためである。心は善なるすべてのものを嫌がり、それゆえ《救い主》を拒絶し、背を向けるのである。こういうわけで主は、私たちの世界にいたとき、こう不平を云われた。「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった」*[マタ23:37]。「あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません」[ヨハ5:40]。これ以上何を云い足す必要があるだろうか? 人は高ぶった尊大さによって《福音》のあらゆる祝福に、また、自分の前に提示されている天国の栄光の数々に背を向け、断固たる意志をもって、断罪へと突進しているのである。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行ないが悪かったからである」[ヨハ3:19]。おゝ、この国のいかに多くの人々について、こう云えることであろう。「彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、主の忠告を好まず、主の叱責を、ことごとく侮った」[箴1:29-30]。

 第三に、――生来の堕落の証拠となるのは聖書の証言である。第一のこととして、創世記5章3節にあなたの目を向けさせてほしい。そこには、アダムが百三十年生きた後で、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだと記されている。気をつけるがいい。アダムが造られた際のかたちは、神のかたちであった。だが、そのかたちを彼は、セツを生む前に失っていた。それゆえ、セツが生まれたときのかたちは、失墜し、堕落した者としての彼の直系の父のかたちであったに違いない。第二のこととして、ヨハネの福音書3章にあなたの注意を向けさせてほしい。「肉によって生まれた者は」、と《救い主》はニコデモに云われた。「肉です。御霊によって生まれた者は霊です」[ヨハ3:6]。肉によって生まれるとは、この箇所の最も賢明な解釈者たちによると、堕落した性質によって生まれることであり、御霊によって生まれるとは、神の聖霊によって生まれることである。――その誕生は、《救い主》がニコデモに告げたところ、彼が神の国を見る前に経験しなくてはならないことである。さらにまた、いくつかの箇所がこの点を証明するものとして記されている。ローマ人への手紙7章では、その5節で使徒がこう云っている。「私たちが肉にあったときは、律法による数々の罪の欲情が私たちのからだの中に働いていて、死のために実を結びました」。「私たちが肉にあったとき」とは、私たちが、更新されていない、堕落した状態にあったときには、という意味である。同じ章の14節で彼はこう云っている。「私たちは、律法が霊的なものであることを知っています。しかし、私は肉のうちにある人間であり、売られて罪の下にある者です」<英欽定訳>。あたかも彼はこう云っているかのようである。「私は罪人で、堕落した者のようです」、と。これと符合するしかたで使徒は、同じ章の18節でこう云っている。「私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています」。神への何の愛も、何の聖なる熱望も! しかり、全く何の善もない。同じ書簡の8章の冒頭で、私たちは「肉」と「御霊」が互いに対立するものとして置かれていることに気づく。「肉に従って歩まず」、と使徒はキリスト者について描写している。「御霊に従って歩む」、と[ロマ8:1]。肉の中にあるとは堕落した状態にあることであり、御霊の中にあるとはその恵みにあずかっているということ、肉に従って歩むとは、腐敗した原理や傾向の命ずるままに歩むことであり、御霊に従って歩むとは霊的な原理と神の聖霊によって支配されるということである。そして使徒は、ガラテヤ人への手紙でこう云っている。「御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」[ガラ5:16]。これらの箇所は、失墜した者としての人間が、いかなる善にも欠けた堕落した者であることを、あらゆる反駁を越えて証明していると思う。聖書の他の多くの箇所もこの教理を確証している。例えば次のような箇所である。「だれが、きよい物を汚れた物から出せましょう」[ヨブ14:4]。誰にもできない。きよくあるべきだという人間とはいかなる者だろうか? あるいは、正しくあるべきだという人の子とはいかなる者だろうか? 「ああ」、と詩篇作者は云う。「私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました」[詩51:5]。あの大洪水の前の人間の様子を読んでみるがいい。そこには、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くと書かれている[創6:5]。同じことは洪水の後の人間についても記されている。大洪水は道徳的汚染の汚れを拭い去ることはできなかった。人間の中の、その心に深く根差した堕落を破壊できなかった。「人の心は」、とエレミヤは云う。「何よりも陰険で、それは直らない。だれが、それを知ることができよう」[エレ17:9]。私たちのほむべき主が古のユダヤ人に向かって云われたことは、天の下のあらゆる未回心の人に当てはまると思う。――「ただ、わたしはあなたがたを知っています。あなたがたのうちには、神の愛がありません」[ヨハ5:42]。あなたがたの中のある人々は、他の人々よりも人情があるかもしれない。人間としては、他の人々よりも慈悲深く、他の人々よりも同情深いかもしれない。だが、人が持ち合わせている神の愛は誰しも似たり寄ったりである。「肉の思いは神に対して反抗する」[ロマ8:7]。神の存在に、神の支配に、神の福音に、神の目的に反抗する。人間の心のこの敵意は、いかなる人間的手段によっても克服不可能である。これは不倶戴天の敵であり、神の存在を攻撃してやまない。それゆえ、いみじくも米国のエドワーズ学長が述べているように、「それは、私たちの自然の中、私たちの世界の中に神を見いだしたとき、あの呪うべき木にかけて殺したのである」。私の兄弟たち。人の心の敵意は、また、その深く根差した堕落は、人の中に何の良いものもないと云えるほどのものである。私たちは、罪が私たちに対して行なってきたことをいくら悪く云っても決して足りない。また、私たちは、神が私たちのために、その御子のご人格において、また私たちの中における聖霊のお働きによって行なわれたことについて、どれほど褒めそやしても、また、どれほど称賛しても決して足りない。

 第四に、――人間の堕落の教理を証明できるのは、イエス・キリストによる贖いが万人に必要であると主張する数々の箇所である。「その名をイエスとつけなさい」、と御使いは云った。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」[マタ1:21]。「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです」、と聖パウロは云う。「これは神の豊かな恵みによることです」[エペ1:7]。さて、贖いのみわざは、人間の罪深い性質を前提としており、そうした状態からの解放と、人間のさらされている罰から解放を含意している。こういうわけで、キリストについては、罪人を救うために世に来られ[Iテモ1:15]、失われた人を捜して救うために来られ[ルカ19:10]、死なれた――正しい方が悪い人々の身代わりとなった――それは、私たちを神のみもとに導くためであった[Iペテ3:18]、と云われているのである。さて、もしキリストによる贖いが必要だとしたら、明らかに人間は罪人であり、もし人間が罪人だとしたら、明らかに人間には堕落した性質があるのである。そうとしか考えられない。人間について、また、その卓越性について、いくら好き勝手なことを云おうと、あなたはこの結論に達さざるをえない。すなわち、人間は断罪された、堕落した者であり、さもなければ、人間は私たちの主イエス・キリストの血による贖いを必要としてはいなかったであろう。

 第五に、――新生が万人に必要であると主張する数々の箇所はこの真理を証明している。――「人は」、と《救い主》は云われた。「水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません」[ヨハ3:5、7]。しかし、もし人間が何らかの善を自分のうちに有しているとしたら、また、もしその善がはぐくまれ、増進させられ、徐々に発展させられれば、人間を天国に入るにふさわしいものとするとしたら、新生の必要などどこにあるだろうか? あらゆる恵みに満ちた御霊によって人が心の霊において新しくされる[エペ4:23]必要などどこにあるだろうか? 私の兄弟たち。あなたが人の心を変える御霊を神に乞い求める時には常に、この教理を信じていようといまいと、贖いの蓋の前における自分の嘆願の中で、この教理をほのめかしているのである。人間は、聖書の筆者たちによって、闇の中から光に召された者[Iペテ2:9]、また、知識を得るべく聖なる方からの注ぎの油を受けた者[Iヨハ2:20]と表現されており、すでに召された者であれば、自分がかつては愚かで、かつては人を騙したり騙されたりしていた者で[IIテモ3:13]、かつては堕落していた――非常に堕落していた――ことを容易に認めるであろう。それだけでなく、この世にある最上のキリスト者たちでさえ、へりくだりとともに自分の心の堕落性を告白する。そして私の信ずるところ、自分を最もよく知っている人こそ、最も進んでこう告白し、自分を神の御前でへりくだらせる者である。――「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」[ロマ7:24]。そしてキリスト者たちは、このことを感じている限り、このような言葉遣いをする。「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう」[詩51:10、7]。注ぎかけの血を私の罪ある良心に塗ってください。あらゆる恵みに満ちた御霊を私の汚れた、また堕落した心の中で働かせて、私を主イエス・キリストのかたちにしてください。また、私の不滅の霊を、光の中にある聖徒の、また栄光の中にいる御使いたちの相続分のためにふさわしいものとしてください。私の愛する方々。これ以上云う必要はないであろう。この午後この場にいる人々の中に、ひとりとして私がこう云うことに同意したくないような人はいないと思う。すなわち、人間は失墜した者であり、堕落した者であり、罪に定められた者であり、神の義なる律法の呪いの下にあり、それと同時に、堕落性の支配力の下に置かれ、その性質全体にわたって罪の影響を受けており、罪人として――高き天にこのことを記録しておくがいい。――人間の性質の中には、神から授からない限り何の善もない、と。そして、話をお聞きの愛する方々。あなたが神の前において正しい精神の状態に至らされたければ、自分が何も有していないこと、主イエス・キリストにおいてすべてを有さなくてはならないことを感じさせられなくてはならない。「イスラエルよ。あなたは自分を滅ぼしたのだ」。しかし、ここにほむべき知らせがある。「だが、わたしのうちにあなたの助けがある」[ホセ13:9 <英欽定訳>]。話をお聞きの方々。この主題によって私たちは教えられないだろうか。第一に、私たち人類に対する神の驚くばかりの寛容である。神は、人が罪を犯した瞬間に、人の人格に不正の汚名を着せることなど少しもせずに、すぐさま人を断ち切ることがおできになったであろう。なぜなら、堕落は人の犯罪的な選択の結果であり、その罪を最も重くするような種々の状況さえ伴っていたからである。だが神は私たちを忍ばれ、今も忍んでおられる。これは神が罪人の死を喜ばず、かえって、罪人がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶことを示すものである。「悔い改めよ。立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか」*[エゼ33:11]。また、この主題は罪人としての人間の無力さをも私たちに教えていないだろうか? 人は自分のもろもろの罪を贖うことも、自分の心を新しくすることもできない。人間のそむきの罪を贖い、人間の心をきよめ、浄化するために多くの試みがなされてきたが、それらはみな失敗し、1つも成功しなかった。いかなるいけにえも、無限のものでない限り、《天来の》正義を満足させ、破られた律法を称揚することはできなかった。いかなる力も、《永遠の御霊》の全能の精力でない限り、人間の心を新しくすることはでなきい。しかし人間は、無力な者ではあるが、望みなき者ではない。私たちは人間に対して何の望みもないのだとは云わない。おゝ、否! 私は、まさに今の瞬間、この思いを喜んでいる。神は、私たちが最も低く下った状態にあるとき、私たちを顧みられた。ひとりの勇士に助けを与えられた[詩89:19]。この方は、その積極的かつ消極的な従順によって、律法を称揚し、《天来の》正義の主張を満足させ、そのことによって神は、ご自身が義であり、また、主イエス・キリストを信じる者を義とお認めになる[ロマ3:26]ことができるようになったのである。また主は、私たちのそむきの罪のための贖いを成し遂げる一方で、あらゆる恵みに満ちた御霊を私たちのために獲得し、私たちの性質を新しくし、私たちをご自分と同じかたちに変え、私たちを整えて、光の中にある聖徒たちの相続分にあずかるべき手段を用いることができるようにしてくださった。私たちの中の、聖霊にあずかっている者らは、また、この場のほとんどの者らはそうだと思うが、――私たち全員がそうであると信じることができれば、どんなに良いことかと思うが、――御霊が、より大きな程度において私たちの上に、個々人の上に、また、私たちの回りの世界の上に注がれることを祈り求めようではないか。

 確かに、話をお聞きの方々。この演壇に立って、あなたがたに向かって十字架の旗を広げなくてはならない私の愛する兄弟は、大いに聖霊を必要とするであろう。願わくは御霊が彼の頭の上に、また、心の上にやって来られるように。また、彼がこの演壇に上るときには常に、御霊の力のうちにあり、御霊の導きの下にあり、御霊の光のうちにあるように。願わくは彼が説教を語るときには常に、それが祝されて、魂が回心させられ、《教会》が立て上げられるように。また、願わくはあなたがたが、キリストの《教会》として、御霊の来臨を熱心に祈り続けるように。御霊は私たちを互いに和解させ、御霊はアルミニウス主義者とカルヴァン主義者との間の意見の相違を取り除き、御霊は私たちを次第に同じ考え方のできる者とし、この世は神の栄光で満たされるであろう。願わくは、主がその祝福を、これまで述べた言葉に与えてくださるように。その御名のゆえに。アーメン。


 この集会はその後、六時半まで休会となった。友人たちが再び集まった後で、――

 C・H・スポルジョン師は云った。「私は、今晩の講演者たちを紹介する前に、一言二言述べたいと思う。論争は、決して神の子どもにとって、あまり喜ばしい領分ではない。神の子どもは、交わりをしている方が、信仰の防御や、過誤に対する攻撃に携わるよりも、はるかに好ましく思うものである。しかし、キリストの兵士は、自分の《主人》の命令を選り好みしない。彼は、安楽な寝床で横になっている方が、汗と戦塵にまみれながら立っているよりも良いと感じるかもしれない。だが、兵士として彼は服従することを学んでおり、彼の服従の規則は、自分の個人的な慰安ではなく、自分の主の絶対的な命令である。神のしもべは、自分の《主人》が彼に啓示されたあらゆる真理を保つ。なぜなら、キリスト者の兵士として、これは彼の義務の一部だからである。しかし、そうする一方で彼は、自分が享受している自由を、他の人々にも認める。彼自身の祈りの家においては、彼は自分が真理だと信じていることを保たなくてはならないし、保つであろう。だが他の場所にいるときの彼は、そこにいる一部の人々が、真理がいかなるものであるかについて自分と違う見解をいだき、自分と同じくらい誠実に、また、ことによると、同じくらい力強くその見解を保持しようと努めているとしても、全く怒りを感じたり、癇癪を起こしたりすることはない。私たちが立つのも倒れるのも、私たちの《主人》次第である。今日の地上には、どこにも善悪の絶対的な裁判官など受肉していない。人間の識別力そのものでさえ、私たちにとって無謬の証拠ではない。というのも、堕落以来、いかなる定命の者の力も不完全から免れてはいないからである。私たちの識別力は、必ずしも完全な光を受けたものではなく、それゆえ、私たちは他の人の識別力を、他の人が神へと至るための道案内とさせなくてはならない。だが忘れてならないのは、あらゆる人はその識別力をどう用いるかについて《いと高き方》に責任を負っているということである。神がある人に精神の力をお与えになったのは、それによってその人が双方の云い分を比較考量するためである。私が通例見いだすところ、私たちの宣べ伝える恵みの教理に関しては、非常に多くの反対が唱えられる。世の中で一番簡単な商売の1つは、反対を唱えることである。もしあなたが、そうした類の職業につきたいと願うとしたら、決して何の元手も資本も探す必要はない。いかに貧しく、無一文な人であれ、機知にすら欠けていようと、難点はたやすく作り出すことができる。「ひとりの愚か者は、千人の賢者も答えられない反対を唱えることができる」、と云われる。私はためらいなく云うが、私はあなたの存在について、あなたが反証できないであろうような反対を唱えることができるであろう。私は、極度の詭弁と煙に巻くような屁理屈で、あなたが盲目で、つんぼで、おしであるという結論を引き出せるであろう。そして確実にあなたは、いかなる論理の過程によっても、自分がそのような者ではないと証明することはできないであろう。あなたにとっては、自分が話すことも、見ることも、聞くこともできることは全く自明かもしれない。しかしながら、私が思うに、あなたの提示できる唯一の証拠は、話したり、見たり、聞いたりすることだけであろう。それは、十分に決定的なものかもしれないが、もしそれが、単にスコラ哲学者同士の言葉尻を捕える戦いにだけとどまるとしたら、揚げ足を取る者は最後の審判の日に至るまでけちをつけ続け、あなたが感覚を有しているという証拠に反駁しようとするのではないかと思う。難点を上げることは、この世の中で最も簡単な商売であり、こう云い足させてもらえば、あまり褒められた務めではない。反対を唱えることは、知っての通り、かの古の時代における偽り者の巨魁によって用いられてきた。また、真理に対する疑いを頭からでなく、心から生じさせている人々によって、非常に頻繁になされ続けてきた。しかしながら、いくつかの難点は対処するべきであり、今その1つか2つを取り除かせてほしい。一部の人々はこう云う。「もし恵みの諸教理が正しいとしたら、私たちの説教が何の役に立つのか?」 もちろん私は、この素晴らしい難点を口にするとき、到底微笑まないではいられない。――これは、それほどに大きな難点である。もしこれこれの人数が救われるとしたら、なぜ説教するのか? 人はその数を減らすことも増やすこともできないのに、なぜ《福音》を宣べ伝えるのか? さて、私は愛するブルームフィールド氏がこの難点をよく予想していたと思った。収穫はあるに決まっている。――なぜ種を蒔き、畑を耕すのか? それは単に、その収穫が手段を用いることによって定められているからである。私たちが説教する単純な理由は、神がある人々を救おうと定めておられるからである。もし神がそうしておられないとしたら、私たちは説教が何の役に立つのか全く見てとれないであろう。何と! 私たちは、《主人》の命令を背負ってここにやって来たのでないとしたら、無駄足でしかないであろう。神の選民は救われることになる。――ひとり残らず救われる。――もしそれが、私という器を通してでもなく、この場にいる兄弟たちのいずれの器を通してでもないとしたら、神はじかにその人々をご自分の聖霊により、教役者の声を用いることなくお召しになるであろう。彼らが滅びることはない。しかし、これこそまさに私たちが説教する理由なのである。なぜなら、私たちは誉れを得たいと願っているからである。すなわち、神の御手の中にあって、こうした選ばれた者たちを神ご自身へと招く手段になるという誉れである。結果が確実であればこそ、私たちは勇躍して自分の務めに励むのであり、確かに馬鹿でもなければ、そのことで労働の手を休めはしないであろう。みことばが、むなしく神のところに帰って来ない[イザ55:11]ことを神がお定めになっておられるからこそ、私たちはみことばを宣べ伝えるのである。なぜなら、「雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させるのと全く同じように、主のことばはご目的を成し遂げる」*[イザ55:10]からである。それゆえ私たちは、私たちの教えを雨のように下らせ、露のように、また、若草の上の小雨のようにしたたらせたいと思う[申32:2]。しかし、やはりこう云う人がいるであろう。「結局、神の御霊だけが人々を来させるのだというなら、あなたが誰かを招くことに何の意味があるのか。また、特に、なぜあなたは、堕落しきっていて来ることができず、来ようともしない者らだと、あなた自身信じている人々に向かって説教するのか?」 左様。お説はごもっともであり、これは深刻な難点ではあるが、信仰だけはそう思わない。あなたは向こうにいるエゼキエルが見えるだろうか? 彼は今から1つの説教をしようとしている。彼の許しを得て、その話をちょっと待ってもらおう。「エゼキエルよ。あなたはどこで説教しようというのか?」 「私は」、と彼は云う。「奇妙な会衆を相手に説教しようとしている。――死んで干からびた骨々が、ある谷間で盛大に横たわっている所である」。「しかし、エゼキエルよ。彼らには生きるいのちが全くないではないか」。「それは分かっている」、と彼は云う。「ならば、それらにあなたが説教することに何の意味があるのか? もしそれらに何の力もないとしたら、また、もし息が四方から吹いて来なくてはならず、それら自体の中には何のいのちもないとしたら、あなたの説教に何の意味があるのか?」 「私は説教するように命ぜられたのだ」、と彼は云う。「命令されたのだ」。それで彼は説教するのである。彼は預言する。そして、その後で、もう少し高い信仰の段階に上って彼は叫ぶ。「息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ」[エゼ37:9]。すると息がやって来る。そして、彼の伝道活動の成果は、彼らのいのちのうちに明らかになる。それで私たちは死んだ罪人たちに向かって説教するのである。それで私たちは生きた御霊を求めて祈るのである。それで、信仰によって私たちは、御霊の《天来の》影響を期待し、それがやって来るのである。――人からやって来るのでも、人によってやって来るのでもない。血によってでもなく、肉の欲求によってでもなく、ただ、神の主権的なみこころによってやって来るのである。しかし、それにもかかわらず、それは説教者の信仰を通して、媒介的にやって来る。彼が人に向かって、こう訴えている間にやって来る。「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」、と[IIコリ5:20]。しかし、他に一万もの反対が唱えられるとしても、私の単純な答えはただこのようなものであって良いであろう。「私たちは、あなたが私たちの説に対して唱える反対よりもずっと多くの反対をあなたの説に対して唱えることができる」。私たちは、私たちの体系が難点から免れているとは思わない。免れているなどと云うのは不誠実であろう。しかし、私たちの信ずるところ、私たちのかかえている難点は、この問題で反対の立場に立つ人々が取り組まなくてはならない難点の十分の一もない。私たちにとって最も不利なものに見える聖句の中にも、それを調和することのできる1つの鍵を見いだすことは困難ではないし、私たちの信ずるところ、聖書の意味を歪めるのでない限り、私たちの教理を教えている数々の聖句を、それ以外の何かを教えているものとすることは完全に不可能である。そうした聖句は平明で、明白で、当を得たものである。もしカルヴァン主義的な体系がすべての真理の要諦だとしたら、何と、そのときには確かに、もしもそれが一切のことを5つか6つの教理の中に保持しているようなことになるとしたら、あなたは人間を神であると考え始めて良いであろうし、神の神学はその範囲において無限ではないと思って良いであろう。無限を把握できるなどという、私たちは何者なのだろうか? 私たちは決して永遠の進行を測りきわめることはできないであろう。誰が《永遠の神》を張り綱で囲い込めるだろうか? また、誰がその神の無限の御思いを新たに考え抜けるだろうか? 私たちは、カルヴァン主義がこの海淵の深さを探りきわめる測鉛線だなどと云うつもりはない。だが、私たちはこう云う。カルヴァン主義は、その海面を安全に航海できる一隻の船であって、波という波がその後押しをして迅速に目指す港へと向かわせてくれるのだ、と。その深さを探りきわめたり、把握したりするのは、あなたや私の務めではないが、それを学び、学んだ後でそれを他の人々に教えることは、あらゆるキリスト者の務めである。そして、そのように私たちは、神が私たちの助け手である限り行ないたいのである。ある友人が親切にも1つの難点を私に示唆している。それを語り終えたなら、私は腰を下ろすことにしよう。その驚くばかりの難点は、次の講演者の題材に関連している。それゆえ、私はそれに触れることにしたい。聖書の中には、パウロが私たちに向かって、キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、私たちの食べ物のことで滅ぼさないでほしいと語っている箇所がある[ロマ14:15]。それゆえ、この推論によると、――ちなみに私たちは、この論理が妥当だと云っているのではない。――この推論によると、あなたは、キリストが代わりに死なれた人々を、あなたの食べ物のことで滅ぼすことができるというのである。この推論を、私たちは完全に否定するものである。しかし、そのとき、それをこう云い表わさせてほしい。あなたは知っているだろうか? 人は、自分に犯すことのできない罪について咎を有することがありえるのである。これは、あなたを驚かせるだろうか? あらゆる人は、もし心の中で、「神などいない」、と云うとしたら、神の存在を消し去るという咎が負う。その人は神の存在を消し去ることはできない。だがしかし、その咎は咎である。なぜなら、その人は、もしそうできるものなら、そうしただろうからである。ある人々は神の子をもう一度十字架にかけている[ヘブ6:6]。むろん現実にそうすることはできない。――御子は天におられ、彼らの手には届かないからである。だがしかし、彼の行為は、何か別の力が抑制しなかったとしたら、それをしようとするものであったために、彼らは決して自分にはできないことを行なう咎を負っているのである。なぜなら、彼らの行ないの目的や目当ては、もしキリストが地上におられたとしたら、キリストを滅ぼそうとすることにあるからである。さて、では、いかなる者も、キリストが代わりに死なれた者を滅ぼすことはできないという教理は、ある人が魂の血の咎を負いうると主張することと全く矛盾してはいないのである。その人は、神が妨げない限り――そして、それはその人にとって何の面目にもならないが――神が妨げない限り、イエス・キリストが代わりに死んでくださったほどの魂を滅ぼすようなことを行ないうるのである。しかし、もう一度云うが、私が今晩ここに来たのは、あらゆる反対を予想して、それに答えるためではない。私がそうしてきたのは、何人かの悩める良心が平安を見いだせるようにである。これは、討論集会ではなく、私たち自身の見解を説明し、単純なかたちで信徒の方々に教えるための集会である。さて私は、私の愛する弟に、特定救済という点を取り上げてもらうことにしよう」。

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