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恵みの諸教理の講解

NO. 385

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1861年4月11日、木曜日


編者注:ここに始まる一連の使信は、ロンドンのメトロポリタン・タバナクルが開所した際に、同所で催された発会式の一部である。スポルジョンはすでに、3月25日に最初の説教を同所で行なっており、建物が完成する以前から説教をしていた。しかしながら、これは、公式の開所式であり、スポルジョンは自分を座長として、何人かの同輩牧師たちを選んで、カルヴァン主義の諸教理を講解させたのである。以下の手引きは、TULIPという馴染み深い頭字語に従って読み進めたい人々のためのものである。


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 C・H・スポルジョン師が座長の席に着いたのは午後三時であった。

 本集会は賛美歌21番の合唱によって開始された。――

    われ救われぬ、罪の力と
    律法(のり)のすさまじ 呪いより。
    聖きみうたを 今は歌わん、
    御業のいかに 始まりしかを。

    われら歌わん、広く無窮(はてな)き
    御恵みを。そは 古き日々より
    選ばる子らの 抱きしものなり、
    神に飼わるる 羊とて。

    永遠(とわ)の愛てう 基(もとい)こそ
    あわれみの枠組(はり) たもつべし。
    地も、地獄(よみ)、罪も、そを動(うつ)さんと
    いかに謀(はか)るも ことごと徒(むな)し。

    血にて買われし 罪人、歌え。
    あまつ三一(みいつ)の 神をたたえよ。
    告げよ、契約(ちかい)の いかに堅固(かた)きか、
    その民族(たみ)いまだ ありし以前(まえ)より。

    そも、汝れ罪の 咎をばさとり
    赦せる愛の 甘きを知るは
    汝れが甲斐なき 名ぞただ天上(うえ)の
    いのちの書(ふみ)に 記さるためぞ。

    おゝ、げに甘く 崇高(たか)き御歌(みうた)の
    破るべきかは、天空(そら)の丸天井(やね)をば、
    恵み歌いつ 血に洗わる民
    かしらの石の 上(あ)ぐるを見るらん。

 デットフォードのジョージ・ワイアード師が祈りをささげた。

 C・H・スポルジョン師は、式の開会の辞を以下のように述べた。

私たちはすでにこの屋根の下で何度か集会を開き、この《教会》の特徴をなす諸真理のほとんどを公に示してきた。昨晩の私たちが世に対して明らかにしようと務めたのは、私たちが主イエス・キリストの《教会》の本質的な一致を心から認めているということであった。さて今、きょうの午後と晩に、私たちが兄弟たちの口を通してはっきり示したいと意図しているのは、私たちの間で真実に受け入れられている事がら、特に、しばしば攻撃されてきていながら、なおも奉ぜられ、保たれている偉大な数々の特質――私たちが自分の経験によって、恵みとまことに満ちていると証明してきた諸真理である。今回の私の唯一の務めは、あなたがたに向かって話をする兄弟たちを紹介することである。そして私は、それをできる限り手短に行ないたいと思う。今から私が語ることは、彼らの発言の前置きとしたい。

 カルヴァン主義者とアルミニウス主義者の間で行なわれてきた論争は、この上もなく重要なものではあるが、個人的な敬虔にとって死活に関わる点を含んではいない。どちらの神学体系を奉ずるかで永遠のいのちが左右されるわけではない。プロテスタント教徒とローマカトリック教徒の間で行なわれる論争の性格はそれとは違う。一方の、イエスを信ずる信仰によって救われている者は、自分に反対するもう一方の者が、わが身の行ないにより頼んでいる限り救われることがありうるなどと認めはしない。この場合の論争は死活に関わる。それは主として信仰による義認の教理にかかっているからである。それはルターがいみじくも基準教理と呼んだ教理であり、《教会》が立つも倒れるもこの教理次第なのである。また、キリストを信ずる信仰者とソッツィーニ主義者との間にある論争もまた、1つの死活問題に影響を及ぼすものである。もしソッツィーニ主義者が正しければ、私たちは最も恐ろしいしかたで間違っていることになる。私たちは実際、偶像礼拝者ということになり、いかにして永遠のいのちが私たちに宿っていることがありえようか? また、もし私たちが正しいとしたら、いかに大きな愛をいだいていようと、主イエス・キリストの真の神性を信じてもいない者が天国に入りうるなどということを想像することは決してできない。他にも、問題全体の根幹で切り結び、その本質そのものに触れるいくつかの論争がある。しかし、次のことは私たちがみな、はばかりなく認めることだと思う。すなわち、例えば近代においてはジョン・ウェスレーが熱心にアルミニウス主義を擁護する一方で、ジョージ・ホイットフィールドがそれと等しい熱烈さをもってカルヴァン主義のために戦ったが、私たちは誰ひとりとして――この件でどちらの立場に身を置いていようと――この両人いずれの生きた敬虔さをも否定しようとは思わないであろう。私たちは、自分の反対者たちの不正な誤りだと信ずるものに対して目を閉ざすことはできないし、彼らがあらゆることにおいて正しく、私たち自身もまた正しいなどと認めることができたとしたら、自分を正直な人間の名に値しないと思うべきである。正直な人間の有している知性は、「しかり」と「否」が両方とも同時に存在し、両方とも正しいなどと信ずることを許さない。私が、「甲は乙だ」、と云い、私の兄弟が、「そうではない」、とすっぱり云う場合、私たちの双方がその点で正しいなどということはありえない。私たちは喜んでこう認めたいし、事実、それ以外のことをしようなどとは思いもしないが、この論争に関して異なる見解をいだくからといって、ある人の未来はおろか現在の状態さえ決定されるものではない。だが、それでも、私たちはこのことを重要であると思う。それで私たちは、自分の見解を保持することにおいて勇気と霊の熱心さを尽くして進み、自分が神のみわざを行なっていること、最も重要な真理を掲げていることを信じつつそうするのである。もしかすると、この日の午後は、「カルヴァン主義」という用語がしきりに使われるかもしれない。誤解しないでほしいが、私たちがその用語を使うのは単に時間の節約のためである。「カルヴァン主義」と呼ばれる教理はカルヴァンから生じたのではない。私たちの信ずるところ、それは、かのあらゆる真理の大創始者から生じた。ことによると、カルヴァン自身は、それを主としてアウグスティヌスの諸著作から引き出したのかもしれない。アウグスティヌスは自分の見解を、疑いもなく、神の御霊によって、パウロの著作を勤勉に研究することによって得たに違いない。そして、パウロはその見解を聖霊により、キリスト教の経綸の大創始者であられるイエス・キリストから受けたのである。こういうわけで、私たちがカルヴァン主義という用語を使うのは、こうした諸教理をカルヴァンが教えたことにことさらな重要性を帰しているからではない。もしそれがより良く理解され、全体として事実と一貫しているような他の名前があるとしたら、私たちもその呼び名を用いることに全くやぶさかではないであろう。さらにまた、この日の午後は、非常にしばしばアルミニウス主義者について語ることになるであろう。そして、そのことによって私たちは一瞬たりとも、アルミニウス主義的な団体に属する者がみな、こうした特定の見解を保持しているとほのめかすものではない。カルヴァン主義的な教会に関係している一部のカルヴァン主義者たちは、カルヴァン主義的ではない。名前はそうでも、その信仰の体系は放棄している。それとは逆に、メソジストの諸教会の中の少なからぬ数の人々は、ほとんどの点において完璧に私たちに賛同しており、私の信ずるところ、もしも問題が徹底的にふるい分けられることになるとしたら、私たちは自分の個人的な考えにおいては、公の告白以上に互いに一致しているのである。また、私たちの霊想的なキリスト教信仰は、私たちの神学よりもずっと一様なのである。例えば、ウェスレー氏の賛美歌集は、彼の神学の基準であるとみなされて良いであろうが、その中にあるいくつかの題目においては、私たちによって用いられている多くの賛美歌集よりも、高踏的なカルヴァン主義を含んでいるのである。私は、そこで用いられている非常に強烈な表現にこの上もない感銘を受けてきた。その言葉のいくつかは、私自身、用いるのを躊躇したかもしれないようなものである。そのウェスレー氏の賛美歌集から何節か引用するので、それに注意を向けてほしい。これらは、私たちがみな完全に、また明らかに、恵みの諸教理と調和したものとして裏書きできるものである。それは一部の現代のカルヴァン主義者たちの説教よりも、はるかにまさってカルヴァン主義的である。私がこうするのは、わが国の低踏的な教理のバプテスト派や現代主義者たちに、彼らと《福音主義的な》アルミニウス主義者との間にいかに広大な相違があるかを気づかせるためである。

     《賛美歌131番、1、2、3節》

   「主よ、われ 癒せじ、わが身をば。
    わが罪見ゆれど 感じえず。
    汝れが御霊の われに吹きかけ
    従う潮(うしお) 寄させずば。

    汝れこそ肉の こころ与えん。
    汝が賜物を 我れは受くのみ。
    さらばすべてを いまはゆだねん。
    引き寄せ、贖(すく)い、証印(かた)くす汝れに。

    単純(すぐ)な信仰 もて我れ呼ばん、
    光と、いのち、すべてなる主よ。
    われただ待てり、池水(いけ)の動くを。
    きよくなれとの 汝がみことばを」。

     《賛美歌133番、4節》

   「黄金(こがね)の笏(しゃく)を 上つかたより
    伸ばし給えや、わが魂(たま)伏しぬ。
    語れや、『汝れを 我れは愛して、
    万人(よろず)の中より 選びたりぬ』、と」。

これは、選びの教理そのものと云ってよいではないだろうか。

     《賛美歌136番、8、9、10節》

    「わが憩いはただ、汝が血の中に
    全き贖い 受くるときのみ。
    されど神への 道なる汝れは
    近づく者を 完全(また)く救わん。

    罪、また力、咎、痛みより、
    汝れはわが魂(たま) 贖いうべし。
    主よ、われ信ず。そは徒(あだ)ならじ、
    わが信仰は われを健康(いや)さん。

    主ともにわれも 白く装い、
    汝が聖徒らと ともに証しせん。
    いかな長さと 幅と高さと
    深さあらんや 全き愛に、と」。

兄弟たち。これはどこか最終的堅忍に似てはいないだろうか? また、もし神の民が結局は滅びることがありえるとしたら、次に引用する言葉は何を意味しているだろうか?

     《賛美歌138番、6、7節》

   「誰(た)ぞ、誰(た)ぞ、汝れが 御前に立ちて、
    全能の主と 張り合いうべき。
    誰(た)ぞ、汝が御手の 握るをゆるめ
    そこより罪人 奪い去らんや。

    必滅(ほろび)を誓い 地は寄せ来るも
    近き助けの 汝れはあるなり。
    地獄(よみ)のあらゆる 力にまさり
    わが心より 大きくあらん」。

次の賛美歌は尋常ならないほど力強いもので、特に「強(し)いる」という表現においてそうである。これは、全文を引用しよう。――

       《賛美歌158番》

   「わが神よ、われ 如何にすべきか?
    汝れのみ道を よく示すべし。
    汝れ今われを よく救いえん。
    われには意志も 力もあらじ。

    神よ、もし汝れ すべてにまさり
    わが罪深き 心(たま)にまさらば、
    汝が御力を ことごと示し、
    取り去り給え、石の心を。

    除けや、我れの 最愛(いと)しき罪を、
    与えよ、きよさ 願う思いを。
    我れに願わせ 受けさせ給え、
    汝が慈愛(めぐみ)にて 与うすべてを。

    われをば強(し)いて すべてを断たせ、
    内なる偶像(かみ)を もぎ取り給え。
    汝が全能(たか)き愛 今や示して、
    われすら新(また)く 創造(つく)らせ給え。

    イエスよ、更新(あら)たむ 力の御手で
    志(こころ)と行為(わざ)を わが身に作(な)させ、
    わが急流(たけ)き性質(さが) 向きをば変えて、
    わが高ぶりの 奔流(はやせ)をふさげ。

    止めよ、我意(こころ)の つむじ風をば。
    語り命ぜよ、太陽(ひ)に、とどまれと。
    いま汝が全能(たか)き 愛を示して、
    我れをも新(また)く 造らせ給え。

    神の御腕よ、力をまとえ、
    天を押し曲げ、降(くだ)り給えや。
    わが不信をば ことごと覆(つぶ)し
    野心(あくが)る山を 低め給えや。

    わが内の汝が 怨敵(かたき)を破り、
    おさめ給えや、汝れが勝利(かち)をば。
    いかに卑しき 人間(もの)も恵みて、
    我れをも強(し)いて 救わせ給え」。

     《賛美歌206番、1、2節》

   「われは何ぞや、栄えの神よ!
    わが家は何ぞ 汝れにとりては。
    かくも慈悲(あわれみ) なぜ賜いしや、
    かく厭わしき 爬虫(むし)なるわれに。

    我れは上より 祝福(めぐみ)を受けて、
    ただ驚きぬ、果てなき愛に。
    血染めのわれの 前に歩を留め、
    わが滅びをば、汝れは止めたり。

    わが魂(たま)のため 汝が目は泣きぬ。
    汝れはあわれみ 『生きよ!』と云いぬ。
    死にたる我れは みことば聞きて、
    汝があわれみに 赦しを知りぬ」。

これですべてではない。こうした健全な言葉が、至る所にあふれているからである。こうしたことによって私はこう云わざるをえない。アルミニウス主義を攻撃する際に、私たちが敵意をいだいている相手は、その名を帯びた人々ではなく、むしろ、その過誤の性質なのであり、私たちが反対しているのは、いかなる人々の集団でもなく、そうした人々が信奉している諸概念なのである。

 さて今、このようにして、使われている用語について述べたからには、私たちはこう述べなくてはならない。すなわち、人々が何にもまして教えを受ける必要のあることは、カルヴァン主義とは本当はいかなるものかという問題である。私たちに対しては、この上もなく忌まわしい数々の申し立てがなされてきたし、時としてそれは、残念ながら、それが全くの虚偽であると百も承知している人々によってすらなされてきたのではないかと思わざるをえない。そして、今日に至るまで、私たちの反対者たちの多くは、攻撃の種に窮すると、勝手に一個の藁人形を作り、それをジャン・カルヴァンと呼んでは、それめがけて自分たちの矢を一斉に射かけるのである。私たちがこの場にやって来たのは、あなたの藁人形を擁護するためではない。――好きなようにそれに射かけたり、それを焼いたりするがいい。そして、差し支えなければ、これまで誰ひとり教えたことのなかった教理になおも反対し、あなたの脳の中以外のどこにも決して存在したことのなかった絵空事を痛罵するがいい。私たちがこの場に来たのは、私たちの見解が本当はいかなるものかを述べるためであり、私たちに賛同しないいかなる人も、私たちのことをわざと偽り伝えないという程度には、私たちに正当な扱いをしてくれるものと思いたい。もし私たちの諸教理を論破できるというなら、公正な陳述を行なって、それを打ち倒すがいい。だが、なぜ彼らは、まず私たちの意見に茶化した脚色を施して、それからそれをこき下ろさなくてはならないのだろうか? 本来のカルヴァン主義者たちに対して発されてきた、ねじけた偽りの中には、私たちが幼児の断罪を主張しているというよこしまな中傷がある。これ以上に下劣な嘘はこれまで1つも口にされたことはない。もしかすると地上のどこかの片隅には、地獄にも幼児がいるなどと云っている悪漢がいるかもしれないが、私は一度もそうした人間に会ったことがなく、そうした人間を見たことがあるという人にも会ったことがない。私たちは云うが、幼児について聖書はほとんど何も語っていない。それゆえ、聖書の証言が明白に乏しい所では、いかなる人も独断的に事を決するべきではない。しかし、私は次のように云うとき、全団体を代表して、あるいは、確かにきわめて少数の例外――それも私の知らない人々――を除くすべての者らを代表しているものと思う。すなわち、私の信ずるところ、あらゆる幼児は神に選ばれた者であり、それゆえ、救われている。また、このことは、キリストがご自分のいのちの激しい苦しみのあとを大いに見てとる手段であると私たちはみなすものである。そして、私たちが時として希望するところ、このようにして救われた者たちの大群衆は、失われた者の群衆をしのぐようにさせられるのである。私たちの友人たちがこの点についてどのような見解をいだいていようと、それは必ずしもカルヴァン主義的な教理と結びついたものではない。私の信ずるところ、「天の御国はこのような者たちの国なのです」[マタ19:14]、と云われた主イエスは、生まれ出たかと思うと天へとひったくられていく、こうした幼弱な者らを日ごとに、また、絶えることなく、その愛に満ちた御腕に迎え入れているのである。私たちの賛美歌集は、この点に関する私たちの信仰を立派に証ししており、その1つにはこう記されている。

    「百万(あまた)の幼き 魂(たま)らによりて
    あまつ家族は つくられぬ」。

 筋金入りのカルヴァン主義者のひとりトップレディは、こうした意見をいだく者の数に入っていた。「ノーウェル博士に関する私の言及において」、と彼は云う。「私は自分の堅い信念を証しした。すなわち、世を去ったすべての幼児の魂は、神とともに栄光の中にある。神は、ご自分が幼児期に取り去ると定めたすべての者らを、いのちへの予定という聖定の中に含めておられる。この者らと遺棄の聖定とは何の関係もない」。否、彼はさらに進んで、次のようなもっともな問いかけをしている。すなわち、条件付きの救いと選び、すなわち、予見された良いわざという反カルヴァン主義的な体系は、いかにして幼児の救いと調和するのか、と。明らかにアルミニウス主義者やペラギウス主義者は、何らかの新しい原理としての選びを導入せざるをえず、幼児の救いに関する限りはカルヴァン主義者にならなくてはならない。これはカルヴァン主義にとって有利な議論ではないだろうか? カルヴァン主義の原理はいかなる場合も一様であり、若かろうが老いていようが、誰が救われるかによって変更する必要など全くないのである。クーパーの友人であった、ロンドンのジョン・ニュートンは、そのカルヴァン主義で名を馳せていたが、こう主張している。すなわち、天国にいる子どもたちは、その大群をなすおびただしさによって、天国にいる成人の住民数をしのいでいる、と。カルヴァン主義の闘士そのものであったギルは、幼児期に死ぬ者がみな救われるという教理をいだいていた。現代の聡明なひとりの著述家(ダンディーのラッセル氏)は、カルヴァン主義者でもあるが、同じ見解を主張している。そして、人類のほぼ半数が幼少期に死ぬことを考えると、いかに毎日毎時、ほむべき天の人口に膨大な増加が生じつつあるかは容易に見てとれよう。

 これよりもずっと普通の非難が、ずっとたしなみのある人々から寄せられている。――というのも、いま述べたような非難を持ち出すのは、決まって芳しくない評判の人々だからである。――その、ずっと普通の非難とは、私たちが明白な運命論を奉じているではないかということである。さて、世の中には運命論者のカルヴァン主義者もいるかもしれないが、カルヴァン主義と運命論は、2つの別個のものである。ほとんどのキリスト者は神の摂理の教理を奉じてはいないだろうか? あらゆるキリスト者、神を信ずるあらゆる信仰者たちは、神の予知の教理を奉じているではないだろうか? 予定の教理に反対して持ち出されるあらゆる難点は、それと全く同じ力をもって、神の予知という教理に対しても持ち出すことができる。私たちの信ずるところ、神はあらゆることを初めから予定しておられるが、知性を有し、全知にして、恵み深さに富む神の予定と、単に、「これは、そうならなくてはならないから、そうなるのだ」、と云うしかない盲目の運命論との間には違いがある。聖書の予定と、コーランの運命との間に、分別のある人なら誰でも本質的な性格の違いを感知するに違いない。私たちは、物事がそうならざるをえないように定められていることを否定はしないが、それがそうなるべき唯一の理由は、御父が、神が、その御名が愛であるお方が、それを定められたことにある。決して種々の状況にある何らかの必要のゆえにこれこれのことが起こらざるをえないのではない。摂理の車輪は厳密な正確さで回転しているが、決して無目的に、また、知恵もなく動いてはいない。その車輪には目が一杯ついていて、定められているすべてのことは、あらゆる目当ての中でも最高の目当てである神の栄光へと、また、その次に、神の被造物たちの幸福へと至らされるように定められているのである。しかし、次に私たちが出会う人々が私たちに告げるところ、私たちは、あのよこしまで、ぞっとするような教え、すなわち、主権的かつ値せざる遺棄を説教しているという。「おゝ」、と彼らは云う。「あなたは、こう教えているではないか。人々は、神が彼らを断罪されるべきものとされたから断罪されるのであり、彼らが地獄に行くのは罪のためでも不信仰のためでもなく、神が彼らの命運に刻印された何らかの暗い定めのためである、と」。兄弟たち。これもまた不当な非難である。選びに遺棄は含まれていない。世の中には無条件の遺棄を教えている人々が誰かいるかもしれない。私たちはここにそうした人々の弁護者として立っているのではない。彼らは、せいぜい自分で自分を弁護するがいい。私は神の選びを奉じているが、それと同じくらい明確に証しする。もし誰かが失われるとしたら、その人が失われるのは罪のゆえである、と。そして、このことはカルヴァン主義に立つ教役者たちの一様な言明であった。私はあなたに私たちの種々の信仰基準、例えば、「ウェストミンスター教理問答」や、私たちのあらゆる《信仰告白》を参照させることができる。それらはみな明確にこう言明しているからである。人は罪ゆえに失われるのであって、いかなる人に下る罰もその人が十分に、また、正当に値するものでしかない、と。もしあなたがたの中の誰かが、これまでそうした中傷を私たちに対して投げかけたことがあるとしたら、二度とそうしてはならない。というのも、私たちはそうしたことについて、あなた自身と同じくらい無実だからである。個人的に云わせてもらえば、――そして、私はそうすることにおいて、私の兄弟たちの同意をとりつけることができると思うが、――私は、神の定めがあらゆる事がらに及んでいることを実際に知っている。だが、私がこの講壇に立つとき、また、他のどの講壇に立つときであれ、それは、いかなる場所にいるいかなる人が罪に定められる場合も、それを、その人以外の何物かの責任とするためではない。もしその人が失われるとしたら、断罪はすべてその人から出たことである。だが、もしその人が救われるとしたら、やはり救いはことごとく神によることである。この重要な点をより明確かつ明晰に言明するため、ひとりの長老派の神学者の言葉をまとめて引用しようと思う。

 「敬虔なメソジスト信者が教えられるところ、カルヴァン主義者は、神が人々を滅ぼすために創造したと述べているのだという。彼が教えられるところ、カルヴァン主義者は、人々が失われるのは、彼らが罪を犯すからではなく、彼らが選ばれていないからだと主張しているという。このことを真の言明だと信じているとしたら、そのメソジスト信者が、自分はアルミニウス主義者であるときっぱり言明することまでしなくとも、少なくとも《反-予定論者》であると表明するのも不思議ではない。しかし、これほど言語道断に不真実な言明は他のどこにもない。カルヴァン主義の一様な教理、それは、神がすべてをご自分の栄光のために創造されるということ、また、神が無限に義であり恵み深くあられること、また、人々が滅ぶ場合、それは彼らの罪ゆえでしかないということなのである。

 苦しみについて語れば、現世と来世のいずれかを問わず、また、御使いたちに関するもの人間たちに関するものを問わず、ウェストミンスター信仰基準の諸文書は(近代におけるカルヴァン主義体系の最も権威ある声明と考えられて良いものだが)、いずれも常に変わらず罰を以前に犯された罪と結びつけており、罪だけと結びつけている。『正しい審判者として神が、《今日までの罪のゆえに》盲目にし、かたくなにされたところの悪い不敬けんな人々について言えば、[神は]彼らの理解を明らかにし、彼らの心に働いていたはずの神の恵みを、彼らに賜わらぬばかりか、時には、すでに持っている賜物さえも取りあげ、彼らの腐敗によって罪の機会となるような対象に彼らをさらされる。その上、彼らを自分自身の肉の欲、世の誘惑、サタンの力のなすに任され、それによって、神が他の者らの心を和らげるために用いられる手段によってさえも、彼らは自らをかたくなにすることさえ起こってくる』*1。また、『大教理問答』は、御使いと人間たちの間の救われない者らについてこう語っている。『神は……彼の主権的み力と、(それによってみ心のままに愛顧を施したり、差控えたりなさる)ご自身のみ旨の測り知れない計画に従って、その正義の栄光がたたえられるように、残りの者を見捨て、彼らの罪に対して加えられる恥と怒りにあらかじめ定められた』*2。また、『神がこの日(最後の審判の日)を定められた目的は、選民の永遠の救いにおいて神のあわれみの栄光が表わされ、邪悪で不従順な捨てられた者の永遠の刑罰において神の正義の栄光が表わされるためである』*3。これは、メソジスト派や、他のすべての福音主義的な団体が認める以上のものではない。――すなわち、人々が滅びる場合、それは彼らの罪の結果だということである。もしも誰かが、なぜ滅びをもたらすような罪がこの世に入ることを許されているのかと問うとしたら、その問いは単にカルヴァン主義者のみならず、他の諸団体にも等しくのしかかるべきである。彼らも同じくらいそれに答える関わりがあり義務がある。否、この問いはキリスト者たちだけに限定されてもいない。神の存在を信ずるあらゆる者は、――神の義なる性格と完璧な摂理を信ずる者は、――等しくその問いに答える責務がある。他の人々がいかなる答えを返そうとも、カルヴァン主義者の答えはかの『信仰告白』のこの言明の中に示されているとみなされて良いであろう。それが宣言するところ、神の摂理は最初の堕落や、その他御使いや人間たちの一切の罪にまで及んでいるが、その場合の罪性はただ被造物からだけ出て、神から出るのではない。最もきよく正しくいます神は、罪の作者でも是認者でもないし、またありえない*4。この主題について、これ以上に何が云えるか見てとることは容易ではない。また、もしこれがカルヴァン主義者たちの疑う余地のない意見であるとしたら、カルヴァン主義者は罪人がその罪とは関わりなく滅びると主張しているのだとか、神が罪人たちの罪の作者であると主張しているのだとか表現することほど没義道な誤伝がありえるだろうか? カルヴァンは何と宣言しているだろうか? 『あらゆる魂が(その死のとき)世を去って向かう場所は、この世にいる間にその魂が自ら用意してきた場所なのである』。

 自分では神聖な真理であると掲げ持っていることが、ある人々からぞっとするほど恐ろしい冒涜であると忌み嫌われるものだとして非難されるのは辛いことだが、しかし、それこそ、カルヴァン主義者たちが不断に割り当てられてきた仕打ちなのである。彼らがいかに厳粛かつ怒りを発して否認しようと関係ない。彼らがこの世の何にもまして激しく抗議してきたのは、無限に聖く、義であり、情愛に満ちたエホバが罪の作者であるなどという考えであるが、だがしかし、いかにしばしば競合する体系の支持者たちは、カルヴァン主義者たちがそれを信仰箇条にしていると云って彼らを非難することであろう?」

 さらに私たちに対して向けられる非難は、私たちが未回心の人々に福音を宣べ伝えようとしない、また、事実、私たちの神学があまりにも狭く窮屈なために、私たちが罪人たちに向かって説教できないのだ、ということである。方々。もしあなたがそのようなことを口にできるとしたら、私はあなたを、世のいずれかの書庫に連れて行きたいと思う。古の清教徒の父祖たちの著作がおさめられている書庫である。そして、私はあなたに、そのどれか一冊でも手に取って、私に告げてほしいと思う。これ以上に肺腑をえぐるような、罪人たちに対する勧告と語りかけを、あなたの蔵書のどこで読むことができるだろうかと。バニヤンは罪人たちを相手に切々と訴えたではないだろうか? だが誰が彼をカルヴァン主義者以外の何かに分類しただろうか? チャーノクは、グッドウィンは、ハウは、魂をかちとろうとして必死の努力をしたではないだろうか? だが、彼らがカルヴァン主義者でなかったとしたら何だっただろうか? ジョナサン・エドワーズは罪人に向かって説教したではないだろうか? だが、こうした教理的問題について、彼以上に明確かつ明晰な人物がいただろうか。わが国の無数の神学者たちの著作は、未回心の人々に対する熱烈な訴えで満ちあふれている。おゝ、方々。もし私がその列挙を始めたら、時間が足りなくなるであろう。私たちが、魂の獲得のために彼ら全員よりも多く働いてきたことは議論の余地ない事実である。ホイットフィールドは、少しでもその熾天使のごとき気高さを減じただろうか? 彼は、神の選びの愛を信じていたこと、《いと高き方》の主権を説教したことによって、その目から流す涙を少しでも減らしたり、そのあわれみの情から少しでも同情が減ったりしただろうか? これは根も葉もない中傷である。私たちの魂は石のようではない。私たちのあわれみは、自分の同胞たちに対して感じるべき同情心から遠のいてはいない。私たちは自分の見解を堅く奉じていながら、それでもキリストが確実な滅びの迫っていたエルサレムを見下ろして涙したように泣くことができる。また、こうも云わなくてはならないが、私はカルヴァン主義をゆがめている一部の兄弟たちを弁護しているのではない。私が語っているのは本来のカルヴァン主義であって、極端に走って、その美しさも清新さも振り捨ててしまったしろものではない。私の語っているカルヴァン主義は、私がカルヴァンの『綱要』の中に見いだし、特に彼の数々の《聖書注解》の中に見いだすままのものである。私はそれらを注意深く読んできた。私は、カルヴァン主義に対する自分の見解を、世評からではなく、彼の著作から受け取っているのである。また私は、このように語る際に、カルヴァンの名を惜しんでカルヴァン主義を正当化しようとしているのですらない。むしろ私が意味しているのは、救いが徹頭徹尾、恵みから出ていると教える、この栄光に富む体系のことである。そして再び私は云うが、私たちが罪人たちに説教することができないというのは、全く根も葉もない非難である。

 それからさらに、私はこうした点をきれいに片づけ、これほど下らなくはないものは私の兄弟たちに運び去ってもらうことにするが、私たちは時としてこう聞かされることがある。私たちカルヴァン主義的な見解をいだく者らは、信仰復興の敵である、と。だが、こうした非難を口にする人々は、学校に行って初歩の歴史書を読むべきである。何と、方々。あなたはキリスト教史の中に、ごく少数の例外を除き、正統信仰によって生み出されなかったような信仰復興を全く見いだせないであろう。アウグスティヌスによってなされた、あの偉大な働きは何だっただろうか? そのとき、《教会》は、ペラギウスの教理が投げかけていた有害かつ致命的なまどろみから突如として目覚めさせられたのである。宗教改革そのものでさえ、人々の思いをこうした昔ながらの諸真理へと覚醒させること以外の何であっただろうか? 現代のルーテル派がいかに彼らの古の諸教理から脇へそれてしまっているとしても、また、私は告白せざるをえないが、いかに彼らの中のある人々がいま私の云っていることに同意しようとしないとしても、それでも、いずれにせよルターとカルヴァンは《予定》について何の議論もしなかった。彼らの見解は同一であり、ルターの『奴隷的意志について』は、カルヴァンその人と同じくらい強力に神の無代価の恵みについて書いた本である。その本の中で彼が叫んでいる雷鳴の轟きを聞くがいい。「ならば、キリスト者である読者は知るがいい。神は何事も偶発的なしかたで予知するのではない。神はその永遠の、また変わることなき意志から予知し、計画し、行動されるのである。これこそ《自由意志》を粉砕し、転覆する雷の一撃である」。私はあなたに、フスや、プラハのヒエローニュムスや、ファレルや、ジョン・レノックスや、ウィクリフや、ウィシャートや、ブラッドフォード以上に善良な名に言及する必要があるだろうか? こうした人々が同じ見解をいだいていたこと、また、彼らの時代にはアルミニウス主義的な信仰復興など全く聞かれず、夢にも考えられなかったことを語る以上のことが必要だろうか? それからまた、さらに現代に近い時代に来ると、そこに大いなる例外がある。ウェスレー氏の下で起きた素晴らしい信仰復興であり、そこではウェスレー派メソジスト運動が非常に大きな分を果たしていた。だが、私にこう云わせてほしい。ウェスレー派メソジスト運動の教えの強みは、そのカルヴァン主義に存していたのである。メソジスト派の大部分は、ペラギウス主義の全部また一部を否認していた。彼らは人間の全き堕落や、聖霊の直接的働きの必要性のために戦い、その変化の第一歩は罪人から発するのでなく神から出るということのために戦った。彼らは当時、自分たちがペラギウス主義者であることを否定した。メソジスト派たちは、私たちがするのと同じくらい強固にこう主張しているではないだろうか? 人は聖霊の働きによって救われるのであって、聖霊だけによって救われる、と。また、ウェスレー氏の説教の多くは、聖霊が新生に必要であるとの偉大な真理で満ちていないだろうか? いかなる間違いを彼が犯したにせよ、彼は絶えず聖霊によって新しく生まれる絶対的な必要を説教していたし、他にもいくつかの点で、ほとんど全く私たちと一致している部分がある。例えば、人間の無能力という点においてさえそうである。私たちが、人間は自分では悔い改めることも信ずることもできないと云うとき、一部の人々がいかに私たちの悪口を云おうとも関係ない。古のアルミニウス主義的な信仰基準の数々が同じことを云っているのである。確かに、それらは、神が恵みをあらゆる人に与えると確言してはいるが、それらは次の事実に異論を唱えてはいない。すなわち、その恵みから離れては、人のうちには、自分自身の救いのためになることを行なう能力が全くないという事実である。そしてそれから、あなたが米大陸に目を向けるとしたら、私にこう云わせてほしい。カルヴァン主義的な教理が信仰復興にとって不都合であるなど、いかに出鱈目な虚偽であることか。ジョナサン・エドワーズの下で起こった驚くべき揺り起こしを、また、私たちが引用することのできる他の数々の現象を見るがいい。あるいは、スコットランドに目を向けるがいい。――私たちはマクチェーンについて何と云えば良いだろうか? かの著名なカルヴァン主義者たち、チャーマズ博士や、ウォードロウ博士について、また、彼らに先立つリヴィングストンや、ホールデーンや、アースキンやそういった人々について何と云えば良いだろうか? 彼らの学派の人々については、次のように云う以外にあるだろうか? すなわち、彼らは私たちがきょう解き明かすだろう偉大な諸真理を奉じ、ひるむことなく説教していたが、神は彼らの言葉をご自分のものと認めてくださり、大群衆が救われたのである。そして、神の下にあってなされたわが身の働きについて自慢しすぎるように聞こえないとしたら、私はこう云えるであろう。個人的に私は、こうした諸教理の説教によってこの《教会》が眠りに誘われたのを一度も見たことがない。むしろ、彼らは常にそうした諸真理を保つことを愛し、彼らは人々の魂をかちとろうとして必死に努力してきた。そして、その信仰の告白に基づいて私がバプテスマを授けた千六百人以上の人々は、こうした古からの諸真理が現代においてもキリスト教信仰の復興を引き起こす力を失っていない生きた証しである。

 私はこのように、冒頭において、こうした云いがかりを一掃してきた。これからもう数分を費やして、もう少しカルヴァン主義的な信仰体系に関して語りたいと思う。この体系には、いくつか有利な事がらがあり、むろん私はそれらに比較的大きな重要性を結びつけはしないが、それでもそれらは無視されるべきではない。カルヴァン主義的と呼ばれる諸教理の体系が、この上もなく単純かつ非常に覚えやすいものであることは事実である。1つの神学体系として、これは他のどの体系よりも簡単に教えることができ、無学な人々によっても容易に把握されることができる。貧者に対して福音が宣べ伝えられる様式は、彼らの記憶を助け、彼らの識別力を引きつけるようなものである。この体系は、実際ベーコンや、ライプニッツや、ニュートンといった人々によって、高度な哲学的見地に立って認められはしたが、だがしかし、これは子どもの魂を魅了することができ、農民の知性をも広げることができる。そしてまた、そこには別の美点もある。いま述べたばかりの点は決して小さくないことだが、別の長所もある。――すなわち、それが説教されるとき、その中には何か、思考を興奮させるものがあるのである。人が他の理論に関する説教を聞くとき、それは彼の前を、燕の翼が小川とすれすれに優美に滑空するように通り過ぎるかもしれない。だが、こうした昔からの諸教理は、人をかんかんに怒らせて、家に帰っても憎しみの余り眠ることができないほどにさせるか、さもなければ、人をその思いにおいて徹底的にへりくだらせ、自分の聞いた事がらの途方もなさをありありと実感させるのである。どちらに転んでも、それは人を興奮させ、かき立てる。それは一過性のものではなく、この上もなく永続的なしかたでそうする。こうした諸教理はその人につきまとい、その人はとげのついた突き棒を蹴り、非常にしばしば、みことばが無理矢理にもその人の魂に入ってくる。そして私が思うに、まどろみに引き渡された時代、また、人の心が神の真理に対してこれほど無関心な時代において、こうしたことを何らかの教理が行なうというのは決して小さなことではない。私の知るところ、多くの人々は、説教によって喜ばされるよりも怒らされることによってずっと多くの益を受けてきた。というのも、怒ることによって彼らはその真理を何度も何度もひっくり返して調べ、とうとうその真理が彼らの心に通ずる道を火で焼いて作るからである。彼らは刃物をもてあそんできたが、ついに怪我をしてしまうのである。

 これには次のような異様な美点もある。――これは、そのすべての部分において首尾一貫している。あなたはカルヴァン主義者を打ち破ることはできない。あなたはそうできると思うかもしれないが、それは不可能である。この偉大な諸教理の石は互いに緊密に組み合わされているため、それらを取り除こうと圧力をかければかけるほど、それらはずっと強く固着してしまうのである。そして、よく聞いてほしいが、あなたはこうした教理のどれか1つを受け入れるとしたら、その全部を信じなくてはならない。例えば、人間が全く堕落していることを奉じてみるがいい。するとあなたがその場合に引き出す推論は、確かに、もしも神がそのような者らを扱うことになるとしたら、救いは神だけからやって来ざるをえず、もしも神から、すなわち、罪を犯された側から、罪を犯した側に立つ者へとやって来るとしたら、神にはそのあわれみを自分の好きなように与えたり、差し止めたりする権利があることになるであろう。このようにしてあなたは、いやでも選びへと押しやられてしまい、そこへ達したならば、あなたは一切を得ているのである。他の部分も続かざるをえないのである。ある人々は、自分の識別力を無理矢理ねじ曲げることによって、二、三の点を奉じて残りは奉じないようにやりくりするかもしれないが、私の受け取っているところ、健全な論理に立てば、人はこの全体を奉じるか、この全体を拒絶するかのいずれかしかない。この諸教理は方陣の中に立てこもっている兵士たちのようなもので、どの側面も防御を固めており、攻めるに危険だが、守るに容易である。そして、よく聞くがいい。過誤がこれほどはびこり、合理論に立った新解釈がこれほど猖獗をきわめようとしているこの時代において、ひとりの青年の手にその敵を打ち殺せる武器を握らせることは決して小さなことではない。それは、容易に扱い方が覚えられる武器、堅く握ることのできる武器、たやすく振るうことも、疲労なしに携えることもできる武器である。つけ足して云えば、何の錆によっても腐食することがなく、いかなる打撃でも折れることがなく、切れ味鋭く、よく鍛えられた、真のエルサレム刀で、功業を成し遂げるにふさわしい業物である。部分部分の首尾一貫性は、もちろん他の事がらにくらべれば取るに足らないことにすぎないが、重要でないわけではない。それから、私はこう云い足そう。――とはいえ、これは私の兄弟たちがこれから取り上げる点であろうが、――カルヴァン主義という体系には、このすぐれた点がある。それは聖書的であり、信仰者たちの経験と合致している。一般に、人々は年を重ねるにつれて、よりカルヴァン主義的になっていくものである。人が天国へ向かって円熟していけばいくほど、また、神の民のためにまだ残っている安息[ヘブ4:9]に近づけば近づくほど、魂は極上の穀物で身を養うことを切望するようになり、もみがらや豆の殻など忌み嫌うようになる。そして、それから私はこう云い足そう。――また、そうすることにより、私は時として強く主張される誹謗に反駁することになるであろう。――すなわち、この栄光に富む真理には、それが最も聖い人々を生み出すという素晴らしい美点があるのである。私たちは、わが国の年代記のすべてを振り返って見て、私たちに反対する人々に、こう云うことができる。あなたは決して、私たちが名をあげることのできる人々ほど聖く、献身的で、愛に満ちた、物惜しみしない人々の名をあげることはできない、と。私たちの暦の聖徒たちは、ローマによって聖人に列されてはいなくとも、いのちの書では第一等に立っている。清教徒の名は、ただそれを耳にしただけで、私たちの敬意をいやでも引き出す。彼らの間では、聖潔が実にまれな高みに達していた。それも当然、彼らが真理を愛し、真理を生きていたからである。また、もしあなたが私たちの教理は人間の自由にとって有害であるというなら、私たちはあなたに、オリヴァー・クロムウェルと、ひとり残らずカルヴァン主義者であった彼の勇敢な鉄騎兵を指し示したい。もしあなたが、カルヴァン主義は不活動に至らせるというなら、私たちは巡礼始祖たちを、また彼らが征服した荒野をあなたに指摘するであろう。私たちは、この広大な世界の土地のいかなる場所にも指を突きつけて、こう云うことができる。ここには神の聖定を信ずる人によって行なわれたことがある。そして、彼がこのように行なった限り、それは、この教理が彼を不活動にも怠惰な眠りにも誘わなかった証拠である、と。

 しかしながら、こうした真理を信ずる私たちひとりひとりにとって、この点を証明する、よりすぐれた道は、今までのいかなる時点における自分よりも、ずっと祈り深くなり、ずっと目を覚ましており、ずっと聖くなり、ずっと活動的になることである。そして、そのようにすることによって、私たちは愚かな人々の反論を封じる[Iペテ2:15]ことができるであろう。生きた議論は、あらゆる人の身にこたえる議論である。私たちは、自分の見ること、感じることを否定することはできない。もしそしられたり、悪人呼ばわりされたりするとしたら、それを非の打ち所のない生活で反駁するがいい。そうすれば、やがて来たるべき時には、私たちの《教会》は、また、その意見も、「月のように美しい、太陽のように明るい、旗を掲げた軍勢のように恐ろしいもの」[雅6:10]となるであろう。

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(訳注)

*1 『ウェストミンスター信仰告白』(新教出版社、1964)、p.24。[本文に戻る]

*2 『ウェストミンスター大教理問答』(新教出版社、1963)、p.17。[本文に戻る]

*3 『ウェストミンスター信仰告白』(新教出版社、1964)、p.109-110。[本文に戻る]

*4 前掲書、p.22-23。[本文に戻る]
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