HOME | TOP | 目次

祈り――あわれみの先駆け

NO. 138

----

----

1857年6月28日、安息日朝の説教
説教者:C・H・スポルジョン師
於王立サリー公園、音楽堂


「神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう」。――エゼ36:37


 先ほどこの章を読んだ際に私たちが見てとったのは、この上もなく尊い偉大な約束の数々が、神によって、そのいつくしむイスラエルの民に向かってなされている、ということであった。さて、この節で神はこう宣言しておられる。すなわち、確かにそうした約束はなされたし、確かに神はそれを果たすだろうとはいえ、それでも神がそれを果たされるのは、その民が神にそうするよう願うようになってからなのである。神は彼らに祈りの霊をお与えになり、それによって彼らは祝福を求めて真剣に叫び求めるようになる。そして、彼らが生ける神に向かって声をあげて叫ぶとき、神はそのお住まいである天から彼らに答えてくださるというのである。ここで祈りを表わすために用いられている言葉は、示唆に富んでいる。「わたしはイスラエルの家の尋ね求めを聞き入れて、次のことをしよう」 <英欽定訳>。ならば、祈りとは尋ね求めることなのである。いかなる人も、祈りをそのような光に照らして見るまで、正しく祈ることはできない。私は約束がいかなるものかを尋ね求める。自分の聖書に目を向け、私の求めたいと思うことが、神の喜んで与えてくださるものであることを確かめてくれるような約束を見いだそうとする。そこまで尋ね求めた上で、私はその約束を取り上げ、膝をかがめて神に向かい、果たして神がご自分の約束を果たしてくださるかどうかを問う。私は神のもとへ神ご自身の契約の言葉を持って行き、こう申し上げる。「おゝ、主よ。あなたはこのことを果たしてくださらないのですか、それをいま果たしてくださらないのですか?」 こういうわけで、そこでもやはり、祈りは尋ね求めることなのである。祈りの後で、私はその答えを見張りながら待つ。私は祈りが聞き届けられることを期待し、そうでなければもう一度祈る。そして、繰り返された私の祈りは、新たに尋ね求めることにほかならない。私は祝福が届くのを期待する。私は行って、それがやって来たとの知らせがないかどうか尋ね求める。私は問う。そしてこう云う。「おゝ、主よ。あなたは私にお答えにならないのですか? ご自分の約束を守られないのですか? それとも、あなたがご自分の耳を閉ざしておられるのは、私が私自身の欲することを誤解して、あなたの約束を取り違えているためなのですか?」 兄弟たち。私たちは祈りにおいて尋ね求めなくてはならない。そして、祈りを、一義的には約束を尋ね求めることとみなさなくてはならない。そして、その約束を頼みとして、その成就を尋ね求める砲撃を浴びせかけなくてはならない。私たちは、ひとりの友から何かが贈り物として届くのを期待している。最初に短い手紙が届き、それによって、それが配送途上にあることを知らされる。私たちはその贈り物が何であるかを、その短信を読むことによって尋ね求める。それから、もしそれが届かなければ、その小包が配達されるはずの場所に行き、これこれのものについて問い合わせる、すなわち、尋ね求める。私たちは、その約束のことを尋ね求め、それから行ってもう一度尋ね求め、ついに、約束された賜物が届き、私たちのものになったとの答えを受け取る。祈りもそれと同じである。私たちは尋ね求めることによって約束を得、やはり神の御手に尋ね求めることによってその成就を得る。

 さて、私が今朝、神の御助けによって語りたいと思うのは、まず第一に、祝福の前兆としての祈りについてである。次に私は、なぜ祈りがこのように神によって祝福の先駆けとされているのかを示したい。それから、しめくくりとして、できる限りの真剣さをこめて1つの勧告を行ない、数々の祝福を獲得したければ祈るようにと勧告したい。

 I. 祈りは、《あわれみの先駆け》である。多くの人々は祈りを蔑んでいる。彼らが祈りを蔑むのは、祈りを理解していないからである。祈りというこの神聖なわざをいかに用いるか知っている人は、それによって非常に多くのものを獲得するため、その有益さそのものからして、この上もない畏敬をもって祈りについて語るように導かれるものである。

 祈りは、あらゆるあわれみの前兆であると私たちは主張する。私はあなたに、聖なる歴史を振り返って見るよう命ずる。そうすれば、この世を訪れた大きなあわれみはいずれも、祈りによって先導されたものでしかなかったことに気づくであろう。約束は、孤立してやって来る。その前置きとしては、いかなる功績も先行することはない。だが、約束された祝福は、常にその先触れの後にやって来る。注目して見ると、神が古の時代に行なわれたあらゆる驚異は、何よりも第一に、信仰を有する御民の真剣な祈りによって、御手から求められたものであった。しかし、先日の安息日に私たちはパロが葦の海の深みへと投げ込まれ、彼の全軍勢が海の深みで「石のように黙る」のを眺めた。主の敵どもの、こうした赫々たる覆滅には、祈りが先行していただろうか? 出エジプト記に目を向けるがいい。こう記されているであろう。「イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた」[出2:23]。また、あなたがたの目にはとまらなかっただろうか? あの海が2つに別れ、主の民がその底を通って行ける道が作られた直前に、モーセは主に祈り、主に向かって熱心に叫んでいた。それでエホバは、「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか」[出14:15]、と云われたのである。何週間か前の安息日、エリヤの時代に天から下ってきた火について説教したとき、あなたも覚えているように、私たちはユダヤの国を乾燥した荒野として描き出した。草木の枯れ果てた、ちりの山として描き出した。雨が三年間降っておらず、牧草地は干上がり、小川は流れるのをやめ、貧困と窮乏が国民をまともに睨みつけていた。だが定められていた時期に、激しい大雨の音[I列18:41]がして、天空から急流が注ぎ込まれ、地が幸いな洪水で氾濫するまでとなった。あなたは私に問うであろう。果たして祈りはその前兆だっただろうか? 私はあなたにカルメル山の頂を指し示そう。見よ! ひとりの人が神の前に膝まずき、叫んでいるではないか。「おゝ、私の神よ! 雨を送ってください」。見よ! 彼の信仰の威厳を。――彼は、しもべゲハジを遣わしては、七度、雲を見に行かせた。それは、自分の祈りに答えて雲が現われると信じているからである。ではこの豪雨が、エリヤの信仰と祈りの所産であった事実に注目するがいい。聖書では、祝福が見いだされるいかなる場合にも、その前に祈りが先立っているであろう。私たちの主イエス・キリストは、人々がかつて有したことのある最大の祝福であった。主は、悲しみに沈む世に対する神の最上の施物であった。では、祈りはキリストの到来に先立っていただろうか? 何らかの祈りが主の来臨に――主が神殿に現われる前に――先行していただろうか? おゝ、しかり。幾時代にもわたる聖徒たちの祈りが連綿と続いていた。アブラハムは主の日を見ていたし、彼が死んだときにはイサクがその意思を受け継ぎ、イサクが先祖たちとともに眠ったときには、ヤコブと族長たちとがなおも祈り続けた。しかり。そして、当のキリストの時代においてさえ、祈りはなおもキリストを求めて絶えずささげられていた。女預言者アンナ、また、あの尊ぶべき老シメオンがなおもキリストの来臨を待ち望み、主が突然その神殿に来る[マラ3:1]ようにと、日に日に祈り、神に嘆願していた。

 左様。そして、注意するがいい。聖書において起こったことは、まだ起こっていないさらに大きな事がらという約束の成就についても同じようになる。私は、主イエス・キリストがいつの日か天の雲に乗ってやって来られると信ずる。聖書を正しく読んでいるすべての人々と等しく、私の堅く信ずるところ、いま近づきつつあるその日には、主イエスが地上にもう一度立ち、無制限の支配によって地上の居住可能な全域を統治し、王たちは主の前にひれ伏し、女王たちは主の教会の乳母となるであろう。しかし、いつその時は来るだろうか? 私たちはその前兆によってその到来を知るであろう。祈りがより大きく強くなるとき、嘆願がより広く、また、絶えず行なわれるようになるとき、そのときには私たちも、木がその最初の若葉をつける頃に春の訪れを予期するように、祈りがより心からの熱心なものとなるとき、私たちは目を開いて良いであろう。私たちの贖いが近づいているからである[ルカ21:28]。大いなる祈りは、大いなるあわれみの前置きであり、私たちの祈りに比例して大きな祝福を私たちは期待して良い。

 これは現代の教会史においても同じである。教会が祈りへと奮い起こされるときには常に、神が教会を助けるべく目を覚まされるときである。エルサレムよ。お前がちりを払い落とす[イザ52:2]ときには、お前の主はその剣を鞘から抜き放っておられる。お前が自分の手をだらり垂れ下がらせ、自分の膝をよろめかせているとき、神はお前が敵どもによって追い散らされるがままになさる。お前は不毛になり、お前の子どもたちは断ち切られる。だが、お前が叫び求め出し、祈り始めるとき、神はお前に、お前の救いの喜びを返し[詩51:12]、お前の心を喜ばせ、お前の子どもたちを増やしてくださるのである。この時代に至るまでの《教会》の歴史は、波また波の連続であり、引き潮と満ち潮の繰り返しである。信仰的な繁栄という強大な波が、罪という砂の一粒一粒を洗ったかと思うと、それは再び減退して不道徳が幅をきかせることとなった。英国史を読むと良い。義人はエドワード六世[位1547-53]の時代に繁栄しただろうか? 彼らはメアリーという流血女王[位1553-58]の治下で再び苦められるであろう。清教主義は国中で威を振るい、クロムウェル[護国卿 1653-58]は統治し、聖徒らは勝ち誇っただろうか? チャールズ二世[位1660-85]の放蕩三昧と悪徳が暗黒の引き潮となった。ホイットフィールド[1714-70]やウェスレー[1703-91]は、再び国中にキリスト教信仰の強大な波を注ぎ出し、それは奔流のようにあらゆる物を押し流した。だがそれは再び衰えて行き、ペイン[1737-1809]や、不信心とよこしまに満ちた人々の時代がやって来た。またもや強大な衝撃がやって来て、再び神はご自分の栄光を現わされた。そして、今日に至るまで、またもやそこには減退があった。キリスト教信仰は、かつてよりは世の流行りとなっているが、その活気や力の多くを失っている。古の説教者たちの熱心と真剣さの多くがなくなっている。やはり波は引いてしまっている。しかし、神はほむべきかな。上げ潮は再び始まりつつある。もう一度神はご自分の《教会》を目覚めさせつつある。私たちが近頃目にしているのは、私たちの父たちが決して目にしようとは期待していなかったことである。私たちは、その活動においてはあまり卓越していない1つの《教会》から、ついに偉大な人々が現われつつあるのを目にしている。――彼らの到来のうちに神がともにおられるように! 彼らは、やって来ては人々に向かって神の測りがたい富[エペ3:8]を宣べ伝えている。実際私は、キリスト教信仰の大波が、もう一度この国に押し寄せてくるものと期待している。こうした幾多の波に影響を与えている月が何であると私が考えているか、あなたに告げても良いだろうか? 私の兄弟たち。月が海の干満に影響しているのと全く同じように、祈りも(天の日差しを反映する、空にかかった神の月であって)敬虔さの潮に影響を及ぼしているのである。というのも、私たちの祈りが三日月のようになるとき、また、私たちが太陽と連動して立っていないとき、そのとき敬虔さは浅い潮にしかならないが、その全球が地上を照らすとき、また《全能の神》がご自分の民の祈りを喜びと楽しみで満たしてくださるとき、そのときこそ、恵みの海がその力を盛り返すときだからである。《教会》の究極的な成功はいかなる障害にも決して妨げられないが、現在におけるその成功は、その祈り深さに応じてもたらされるのである。

 さてまた、さらにより身近なこととして、この真理は、主にあって私の愛する方々ひとりひとりの、個人的な経験において真実である。神はあなたが嘆願する前から、多くのいつくしみを与えてくださるが、それでも大いなる祈りは常に、あなたにもたらされる大いなるあわれみの、大いなる前兆である。あなたが最初に十字架の血を通して平安を見いだしたとき、あなたはそれ以前から大いに祈りを積んでいたし、神が自分の疑いを取り除き、自分を苦悩から解放してくださるようにと真剣に願い求めていた。あなたの確信は祈りの結果であった。また、いついかなるときであれ、あなたが、この上もなく有頂天になるような喜びを受けたとき、また、あなたがはなはだしい苦難から大きな解放を受け、非常な危険の中にあって力強い助けたとき、あなたはこう云うことができた。「私が主に呼ばわると、主は私に答えられ、すべての苦難から私を救い出してくださった」[詩120:1; 54:7]。私たちは云うが、その場合の祈りは、《教会》全体の場合と同じく、常に祝福の前置きなのである。

 さて今、ある人は私にこう云うであろう。「ならばあなたは、祈りがどのようにして祝福に影響を及ぼすとみなしているのですか? 聖霊の神は祝福の前に祈りを授けてくださいます。ですが、いかなるしかたで祈りは祝福と結びついているのですか?」 答えよう。祈りはいくつかの意味において祝福に先行している。

 祈りが祝福に先立つのは、祝福の影としてである。神のあわれみの日差しが私たちの種々の必要の上に昇るとき、それは祈りという影をその平野に長く伸ばす。あるいは、別のたとえを用いれば、神があわれみという丘を積み上げるとき、神ご自身がそれらの背後から輝き、私たちの霊に祈りという影を投げかけ、それで私たちは、祈りをささげる場合、自分の祈りがあわれみの影であると安んじて良いのである。祈りは天の施物を私たちのもとに持ち来る途中の御使いたちが立てる羽ばたきの音である。あなたは自分の心の中にある祈りを聞いたことがあるだろうか? あなたは自分の家の中で御使いを見るであろう。私たちに種々の祝福を持ってくる戦車がゴロゴロ通るとき、その車輪は祈りとともに音を立てるのである。私たちは自分の霊の中で祈りを聞く。そして、その祈りは来たるべき種々の祝福のしるしなのである。雲が雨の予兆となるのと全く同じように、祈りは祝福の予兆となる。緑の葉が収穫の初めであるように、祈りはこれから来る祝福の預言なのである。

 また、祈りがあわれみに先立つのは、その代理としてである。しばしば王は、その領土を行幸する際、ある者を先に遣わしては、喇叭を吹かせる。そして、民衆が彼を見るとき、喇叭がそこにあることによって、王の到来を知るのである。しかし、ことによると、彼の前には、ずっと格の高い貴人がいて、こう云っているかもしれない。「私は王の前に遣わされ、そのお出迎えを整えるように命ぜられた。そして私は今日、その方らが王にささげたいものは何でも受け取るであろう。私は王の代理なのだから」。そのように、祈りは、祝福が来る前の祝福の代理である。祈りがやって来る。そしてその祈りを見るとき、私はこう云うのである。「祈りよ。お前は祝福の代理だ。もし祝福が王だとしたら、お前は摂政だ。私がお前を、私が受けようとしてい祝福の代理として見知るのだ」。

 しかし、やはり私は、時として、また一般的にはこう考える。祈りが祝福に先立つのは、原因が結果に先立つのとまさに同じである、と。ある人々は、何かを得ると、自分がそれを得たのは自分がそのため祈ったからだと云う。だが、もし彼らが霊的な思いをした人々でなく、何の信仰も有していないとしたら、そうした人々は知るがいい。彼らが得るだろうものは何であれ、祈りへの答えではない。というのも、私たちはこう知っているからである。神は罪人の云うことはお聞きにならず[ヨハ9:31]、「悪者のいけにえは主に忌みきらわれる」[箴15:8]、と。「よろしい」、とある人は云うであろう。「私はこないだ、神にこれこれのことを願い求めました。私は自分がキリスト者でないと分かっています。ですが、私はそれを得ました。あなたは、私がそれを得たのは私の祈りを通してだとは考えないのですか?」 しかり。考えない。そのように考えるとしたら、ある老人と同じくらい愚かな理屈を立てることになるであろう。その老人は、グッドウィン砂州を生じさせたのは、テンターデン尖塔の建設だと考えていた。なぜなら、その砂州ができて、海がそこまで来たのは、その尖塔が建てられた後だったからである。それゆえ、彼によると、その尖塔がその洪水をもたらしたに違いないというのである。さて、あなたの祈りは、海とその尖塔に関係がないのと同じくらい、あなたの祝福とは関係ない。キリスト者の場合、これとははるかに異なっている。しばしば祝福は実際に祈りによって天から引き下ろされる。反対者はこう答えるであろう。「私の信ずるところ、祈りはあなた自身に大いに影響を及ぼすでしよう。先生。ですが、私は、それが《神聖なる存在》に何らかの効果を及ぼすとは信じません」。よろしい。方々。私はあなたを納得させようとは思わない。あなたに納得させようとしても無駄だからである。あなたが、ただ論じられただけで、ある歴史的事実を納得するかのように、私の持ち出す数々の証言を納得するようにならなければ無駄だからである。私は、この会衆の中からひとりではなく、二十人でもなく、数百人の人々を抜き出すことができる。そうした人々は、理性的で、知的な人々であるが、その誰もが、きっぱりと明言するであろう。彼らは、自分の人生において何百度も、熱心きわまりなく苦難からの解放を求めるように、あるいは、逆境における助けを求めるように導かれて、その祈りに対する答えを受け取ってきたのだ。それはこの上もなく素晴らしい答えであって、彼らとしては、それが自分の叫び求めに対する答えだということを疑うくらいなら、神の存在を疑うものである、と。彼らは確かに、神はその祈りをかなえられたのだと感じたのである。彼らはそれを確信している。おゝ! 祈りの力に対する証言はあまりにも数多く、それらを拒否する人は、そうした健全な証言の数々とまっこうから衝突するのである。私たちは、みながみな熱狂主義者なのではない。私たちの中にも、冷静沈着な者はいる。私たちは、全員が狂信者ではない。私たちは、みながみな敬神の念において常軌を逸してはいない。私たちの中には、他の事がらにおいては、そこそこに常識的なしかたで行動していると思う。

 しかしそれでも、私たちはみなこのことに同意しているのである。すなわち、私たちの祈りは聞き届けられてきた。また、私たちは自分の祈りについて多くを語ることができる。まだ私たちの記憶に新しい話を。私たちが神に叫び求めたところ、神がそれをかなえてくださった話を。しかし、神が祈りをかなえることを信じないと云う人も、実は自分がそれを信じていると知っているのである。私はそうした人の懐疑主義に何の敬意も払わない。それは、神の存在について疑っている人に敬意を払も同然である。その人は神存在を疑っているのではない。自分自身の良心を窒息させておいて初めて、疑っていると云えるのである。そうした人と議論するのは、あまりにも大きすぎる敬意を表することになる。あなたは嘘つきと議論したいだろうか? その人は嘘を確言しており、それが嘘だと知っている。あなたはその人と議論するほど、身を落としたいだろうか? その人が不真実であるのを証明しようとするほど! そうした人に理屈は通用しない。その人は、品位ある人間として扱われるべき埒外にいるのである。もしある人が神の存在を拒否するとしたら、自分の良心に逆らってやけになってそうしているのである。そして、もしその人が自分の良心を絞め殺して、そうしたことを信ずる、あるいは信じているふりをするほど悪人になっているとしたら、私たちは、そのようにいいかげんな人格と議論するのは自分を卑しめることだと考える。その人は厳粛に警告されなくてはならない。というのも、故意の嘘つきの場合、理性が投げ捨てられているからである。しかし、あなたは知っているのである。方々。神は祈りに答えられる。それを知っていないとしたら、いずれにしてもあなたは愚か者であるに違いないからである。あなたはそれを信じていない愚か者であるか、神があなたの祈りを聞いていることを信じずに自分自身に祈っている、格段によこしまな愚か者である。「しかし、私は祈ることをしないのですよ、先生」。祈ることをしない? 私は、あなたが病気だったとき、あなたの看護婦から囁かれなかっただろうか? 彼女は、あなたが熱病にかかっていたときには素晴らしい聖徒でしたと云ったではないか。あなたは祈っていないと! しかり。だが、取引上の物事があまりうまく行かなくなると、あなたはそれらが好転するよう神に求め、時には、神が受け入れられないような種類の祈りを神に叫び求める。だが、それだけでも十分に、人の中にはその人に祈りを教えるだけの本能がある証明である。私の信ずるところ、鳥たちが教えられなくとも自分たちの巣を作るの全く同じように、人々はそうした形での祈りをささげるものである(それが霊的な祈りだとは云わないが)。私は云うが、人々は自然の本能そのものによって祈りをささげる。人の内側には、その人を祈る動物にするものがある。それは他にどうしようもない。そうせざるをえない。その人は、乾いた地面の上にいるときには、自分自身を笑い者にする。だが、海上で嵐に遭っているときには祈る。その人は具合の良いときには何事も自分に求めるが、病を得ると他の誰にも負けないくらい熱を込めて祈る。その人は、金持ちのときは祈ろうとしない。だが貧しくなると、きわめて真剣に祈る。その人は神が祈りをかなえてくださると知っており、人が祈るべきだと知っている。そのような人と云い争うことはない。もしその人が自分自身の良心を否定しようというなら、その人には理屈が通じないのである。道徳的な者の埒外あるのである。それゆえ私たちは、理屈によってその人に影響を及ぼそうなどとはしない。その人には他の手段を用いるべきだし、用いたいと思う。だがそれは、その人に口答えを許すような敬意を表するものではない。おゝ、神の聖徒たち! あなたがたは、何が放棄できようとも、神が祈りを聞かれるというこの真理を打ち捨てることは決してできない。たとい今日それを信じないとしても、明日には再びそれを信じざるをえなくなるからである。あなたがたは、自分の頭の上に押し寄せてくる何か別の苦難を通して、そのことの証明をまたもや得ることになり、たとい口では云わなくとも、こう感じざるをえなくなるからである。「まことに、神は祈りを聞き、答えてくださる」、と。

 ならば、祈りはあわれみの前兆である。というのも、非常にしばしばそれは祝福の原因だからである。すなわち、それは部分的な原因なのである。神のあわれみは大いなる第一原因ではあるが、祈りはしばしば、祝福を引き下ろす第二の作用因にほかならない。

 II. さて今、私が第二のこととしてあなたに示したいのは、このことである。《なぜ、神は祈りをあわれみの喇叭手、あるいは、その先駆けとしておられるのか》

 1. 思うに、第一のこととしてそれは、神は、人がご自分とつながりを有すべき理由を持つのを愛されるからである。神はこう仰せになる。「わたしの被造物たちは、わたしを避けるであろう。わたし自身の民でさえ、わたしを求めることがあまりにも少ないであろう。――彼らはわたしのもとに来る代わりに、わたしから逃げ去るであろう。わたしは何をすれば良いだろうか? わたしは彼らを祝福するつもりである。では、その祝福を彼らの戸口の前に置いておき、朝に扉を開けば、願うことも求めることも全くなしに、それを見いだせるようにするのが良いだろうか?」 「しかり」、と神は仰せになる。「多くのあわれみを、わたしはそのようにしよう。わたしは彼らに、彼らが必要とする多くのものを、彼らが求めなくとも与えよう。だが、彼らが完全にわたしのことを忘れないように、いくつかのあわれみは、彼らの戸口の前に置いてはおくまい。わたしは彼らに、わたしの家にそれらを求めてやって来させよう。わたしは、わたしの子どもたちがわたしのもとを訪れることを愛しているのだ」、と天の御父は云われる。「わたしは、わたしの宮廷で彼らに会うのを愛している。わたしは彼らの声を聞き、彼らの顔を見るのを楽しく思う。彼らは、もしわたしが彼らに必要とするすべてを与えるとしたら、わたしに会いにやって来ないであろう。わたしは時には彼らを乏しくさせよう。そうすれば彼らはわたしのもとに来て、願うであろう。そしてわたしは彼らを見る喜びを味わい、彼らはわたしとの交わりに入る益を得るであろう」。それは、あたかもある父親が、自分に頼り切っている息子にこう云うかのようである。「私は、一気にお前に財産を与えることもできる。お前が二度と私のところに来なくて済むようにすることもできる。だが、息子よ。お前の必要を満たしてやることは私の楽しみであり、私に喜びをもたらすのだ。私は、お前の求めるものが何かを知って、しばしば私がお前に与えてやらなくてはならないようにしたい。そして、そのようにして、幾度もお前の顔を見られるようにしたい。さて、私はお前に、これこれの間だけ役に立つものを与えよう。だが、もしお前に何かほしいものがあるなら、お前は私の家に来てそれを求めなくてはならない。おゝ、息子よ。私がこのようにするのは、お前と何度でも会いたいからなのだ。私は、自分がどれだけお前を愛しているかを形にして見せる機会が何度でもあればいいと思うのだ」。そのように神は、その子どもたちに仰せになるのである。「わたしはあなたに一度にすべては与えない。わたしは約束においてはあなたにすべてを与える。だが、もしあなたがその1つ1つをほしければ、あなたはわたしのもとに来て、それをわたしに求めなくてはならない。それで、あなたはわたしの顔を見て、わたしの足元にしばしばやって来る理由を有することになるのだ」。

 2. しかし、別の理由もある。神が祈りをあわれみの前兆にしたいと望まれるのは、しばしば祈りそのものがあわれみを与えるからである。あなたは恐れと悲しみに満ちている。慰めを欲している。神は、祈るがいい、と仰せになる。すると、あなたはそれを得る。その理由は、祈りがそれ自体、慰めを与える勤めだからである。私たちがみな自覚しているように、精神が重苦しくなるような知らせを受けたときにも、それを友人に話せる場合、心がしばしば軽くなるのである。さて、ある種の苦難は、私たちが他人に告げたくないようなものである。多くの人々は、私たちに同情できないかもしれないからである。それゆえ、神は、悲嘆の流れるべき水路として祈りを供しておられる。「来るがいい」、と神は云っておられる。「あなたの苦難は、ここにはけ口を見いだすであろう。来て、それらをわたしの耳に注ぎ込むがいい。あなたの心をわたしの前に注ぎ出すがいい。そうすればあなたは、それが破裂するのを防げるであろう。もしあなたが泣かなくてはならないのだとしたら、わたしの贖いのふたのもとに来て、泣くがいい。もしあなたが叫ばなくてはならないのだとしたら、密室に来て叫ぶがいい。そうすれば、わたしがあなたの声を聞くであろう」。そして、いかにしばしば、あなたや私はそれを試みてきたことか! 私たちは悲しみに打ちひしがれては膝をかがめてきた。そして立ち上がると、こう云った。「あゝ! 私はもう、それらすべてに立ち向かえる!」

   「主をわがものと 呼びうべきとき、
    われ、捨てえたり、すべての喜び。
    われ世を足で よく踏みえたり、
    いかな地の富 ほまれをも」。

祈りそのものが、時としてあわれみを与えるのである。

 別の場合を取り上げてみるがいい。あなたは困難の中にある。どちらに向かえば良いか、また、どのように行動すべきか分からない。神は、ご自分の民を導くと仰せになっている。あなたは祈りによって出て行き、お導きくださいと神に祈る。あなたは悟っているだろうか? あなたの祈りそのものが、しばしば、それ自体であなたに答えをもたらすということに。というのも精神は、その問題についての考えに没頭し、その問題について祈っている間、適切な道筋を自らに示唆するために、まさにうってつけの状態になるからである。祈りによってあらゆる状況を神の前に広げている間に、私は戦場を見渡している戦士のようになり、立ち上がるときには、物事の状態を把握し、どう行動すべきか分かっているのである。このようにして、見ての通り、しばしば祈りは、私たちが求める事がらをそれ自体によって与えるのである。私には、自分の理解できない聖書箇所があるときには、しばしば聖書を私の前に広げておく習慣があった。そして、あらゆる注解者に当たっても彼らが一致していないように思われるときには、椅子の上に広げた聖書の前で膝まずき、その箇所に自分の指をあてて、神の指示を求めた。そのようにして、その姿勢から立ち上がった時には、以前よりもはるかにすぐれた理解に達しているように思われるのである。私の信ずるところ、祈りという勤めそのものが、それ自体、大きな程度において答えをもたらしたのである。というのも、精神がそれで占められ、心がそれについて活発に働かされているとき、全人は、それを真に理解するために、最も卓越した立場にあるからである。ジョン・バニヤンは云う。「私が最も良く知っている真理は、膝まずいているときに学んだものである」、と。また、彼はこうも云っている。「私は、祈りによって心に焼きつけられるまでは、決してあることを知ってはいないのだ」、と。さて、そうしたことは、大きな度合において神の聖霊の働きによってなされる。だが私が思うに、ある程度においてそれは、祈りがそのことについて精神を働かせたという事実によっても説明されるのだ、と。そのとき、精神は無意識的な過程によって、正しい結果をつかむように導かれるのである。ならば、祈りは祝福にとってふさわしい前兆である。それがしばしば、それ自体のうちに祝福をかかえているからである。

 3. しかし、これも真実であり、正当であり、ふさわしく思われることだが、祈りが祝福に先立つのは、祈りの中には必要を感ずることがあるからである。人として私は、自分が貧困で病んでいる状態にありますと云い表わしもしない人々に向かって、援助を与えることはできない。医者は、必要が明確に述べられもせず、助けが必要な状態だと知らされもしないとしたら、手間暇かけて、わざわざ病人の家に出かけて行きはしないであろう。そのようなことは考えられない。神もまた、ご自分の民がまず自分たちの必要を申し上げ、自分たちの必要を感じて、祝福を叫び求めてみもとに出て行くのでない限り、彼らの面倒を見るとは期待できない。必要を感ずることは天来の賜物である。祈りはそれを涵養する。それゆえ、大きな益をもたらすのである。

 4. だがしかし、やはりまた、祝福の前の祈りは、その価値を私たちに示すのに役立つ。もし私たちが求めもしないのに祝福を得るとしたら、私たちはそれを当たり前のことと考えかねない。だが、祈りは神の与える現世的な豊かさというありきたりの砂利石を、金剛石よりも尊いものとする。そして、霊的な祈りにおいて、その金剛石を切り磨き、一層光り輝かせる。そのことは尊い。だがその尊さを私が知るのは、前々からそれを求めていて、なかなか手に入らなかった場合である。長いこと追いかけた後で得た獲物を狩人は重んじる。それは、自分の心をそれにかけてきたからであり、それを得ようと決心していたからである。だがしかし、それよりも最も真実なこととして、長いこと空腹に耐えた後で食事をする者は、自分の食物がずっと美味であることを見いだす。そのように、祈りはあわれみを甘やかなものとする。祈りは私たちにその尊さを教える。それは、ある地所や財産が譲渡される前に、その証書と、目録と、明細を読み上げることである。私たちは、祈りにおいて、その遺言状を読み上げることによって、譲り受けた財産の価値を知るのであり、私たちが自らの表現によって、その並びなき値打ちを呻き出したときこそ、神は私たちの上にその祝福を授けてくださるのである。それゆえ、祈りが祝福に先立つのは、それがその価値を私たちに示すからである。

 しかし、疑いもなく理性そのものでさえ示唆するように、善に満ちておられる神が、求める者たちにそのいつくしみをお与えになるのは当然のことでしかない。私たちがまず神の御手に乞い求めることを神が期待し、その上で神がお授けになることは、正しいとしか思えない。神の御手がいつでも開こうとしていることは、十分すぎるほどに大きないつくしみである。確かに、神がご自分の民にこう仰せになることは大きなことではないに違いない。「わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう」。

 III. しめくくりに、《祝福を獲得する手段としての祈りという聖なるわざを用いるよう、あなたを奮い立たせたい》。あなたは私に問うだろうか? 自分たちは何を祈り求めれば良いのか、と。その答えは私の口から出かかっている。あなた自身のために祈るがいい。あなたの家族のために祈るがいい。諸教会のために祈るがいい。私たちの主の、地上における1つの大いなる御国のために祈るがいい。

 あなた自身のために祈るがいい。確かにあなたは、決して嘆願すべき主題に欠けることはないに違いない。あなたの欲求はあまりにも幅広く、あなたの必要はあまりにも深いため、あなたは天国に入るまで、常に祈りの余地を見いだすであろう。あなたは何も必要ではないのか? ならば、残念だがあなたは自分のことが分かっていないのだと思う。あなたは神に願うべき何のあわれみもないのか? ならば、残念だがあなたは決して神のあわれみを得たことがなく、まだ「苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」[使8:23]のだと思う。もしあなたが神の子どもだとしたら、あなたの欲求はあなたの一瞬一瞬ほどにも数多く、あなたは刻一刻ほどにも多くの祈りをする必要があるであろう。あなたが聖く、謙遜で、熱心で、忍耐強い者となるように祈るがいい。あなたがキリストとの交わりを有し、主の愛の酒宴の席につけるように祈るがいい。あなた自身のために、あなたが他の人々の模範となること、あなたが現世で神に誉れを帰し、来世で神の御国を受け継ぐ者となるように祈るがいい。

 次のこととして、あなたの家族のために祈るがいい。あなたの子どもたちのために。たとい彼らが敬神の念に富んでいるとしても、なおも彼らのために祈ることはできる。彼らの敬神の念が本当のものとなり、彼らがその信仰告白において支えられるようにと。赦しを受けていない子どもがひとりでもいる限り、そのために祈るがいい。救われている子どもがひとりでも生きている限り、その子のために、その子が守られるように祈るがいい。あなたは、自分の腰から出てきた者たちのために祈るべき十分な理由を有している。しかし、もしあなたにそうすべき理由がないとしたら、あなたの召使いたちのために祈るがいい。あなたは、そのように身をかがめたくないだろうか? ならば、確かにあなたは救われるために身をかがめたことがないに違いない。というのも、救われた者なら、みなのためにいかに祈るべきかを知っているからである。あなたの召使いたちのために、彼らが神に仕え、あなたの家内における彼らの暮らしが彼らにとって有益なものとなるように祈るがいい。召使いたちのために祈られていない家は悪い家である。私は、自分が祈ってやれないような者の手で仕えられたいとは思わない。

 ことによると、この世界が滅亡する日は、一言の祈りもそれを明るくすることがない日かもしれない。また、ことによると、ある人によって大きな悪事がなされた日とは、彼の友人が彼のために祈るのをやめた日だったのかもしれない。あなたの家人のために祈るがいい。

 それから、教会のために祈るがいい。教役者のための場所をあなたの心の中にあけておくがいい。彼の名前をあなたの家庭礼拝の中であげ、密室の祈りで口にするがいい。あなたは彼が日に日にあなたの前に出て、御国の事がらをあなたに教え、あなたに勧告し、あなたの記憶を呼び覚まさせて、あなたの純真な心を奮い立たせる[IIペテ3:1]ものと期待している。もし彼が真の教役者だとしたら、この件においてなすべきわざがある。彼は自分の説教を書いて、それをあなたに読み聞かせることはできない。彼は、キリストがこう云われたとは信じていない。「行って、すべての造られた者に、福音を読み上げなさい」。あなたは、教役者の心労を知っているだろうか? 彼が自分の教会についてかかえている悩みを知っているだろうか?――過ちを犯している者たちがいかに彼を嘆かせていることか、正しい者たちでさえ、その弱さによっていかに彼の霊を悩ませていることか――教会が大きなものであるとき、いかに彼の信徒たちの何人かの心には、常に何らかの大きな問題があることか。そして、彼はすべての貯蔵所なのである。彼らはあらゆる悲嘆をかかえて彼のもとにやって来る。彼は、「泣く者といっしょに泣」くべきである[ロマ12:15]。そして、講壇において彼にはいかなる働きがあるだろうか? 神が私の証人であられるが、私は、自分の講壇のための準備を喜びをもって行なうことがほとんどない。講壇のための学びは私にとって、この世で最もうんざりさせられる働きである。私は勝手知ったるこの建物に一度として微笑みを浮かべながら入ったことはない。出て行くときには微笑んでいることもあったかもしれないが、中に入るときには決して微笑んでいたことがない。説教、説教。一日に二回、私は説教できるし、説教するであろう。だが、それでも、そのための準備には産みの苦しみがあり、実際に説教を口で語ることすら、いつもいつも喜びと嬉しさが伴うわけではない。そして、神もご存じの通り、もしも、みことばの説教によって成し遂げられるものと私たちが信頼している益がなかったとしたら、有名人になることは人生にとって全く何の幸福でもない。それは人から慰めを奪うものである。朝から晩まで労苦して、足の裏をも頭脳をも全く休める暇がないこと――宗教上の大いなる貸し馬となること――重荷という重荷をになうこと――田舎でよくされるように、荷車に乗り込んで来る人々から、「どのくらい乗れるかねえ」と聞かれること――その馬がそれを引っ張って行けるかどうかなど全く考えもされないこと――「これこれの場所で説教するのだそうですが、あなたは二回説教するんでしょう? なら、これこれの場所に行って、何とかもう一回説教するわけにはいきませんかね?」、と聞かれること。他の誰もが、いとうべきからだを持っているが、教役者にはそれがない。働きすぎて死んでしまい、無分別な奴と断罪されるまで、それはない。もし人が、神によって召された持ち場で自分の義務を果たそうと決意しているとしたら、その人は自分の信徒たちの祈りを必要としている。その人がその働きを行なうことができるようにという祈りを。また、その中で支えられるようにという祈りが、あふれるほどに必要であろう。私は神をほめたたえる。私には一団の雄壮な人々がいて、夜昼となく私のために神の御座を攻め立ててくれている。私はもう一度あなたに語りかけたい。私の兄弟姉妹たち。そして、あなたに切に願う。私たちの過ぎ去った愛に満ちた日々にかけて、私たちが肩を並べて戦ってきたあらゆる激しい戦闘にかけて、いま祈ることをやめてはならない。かつて苦難の時に臨んだあなたや私は、神の家でともに膝をかがめ、神の祝福を求めて祈ったものだった。あなたも覚えているであろう。いかに大きく耐えがたいほどの苦難が私たちの頭上に押し寄せてきたかを。――いかに人々が私たちを踏みにじったかを。私たちは火の中、水の中をくぐり抜け、今や神は私たちを広い所に連れ出し、これほどまでに増やしてくださった。祈るのをやめないようにしよう。なおも生ける神に叫び求めよう。神が私たちに祝福を与えてくださるようにと。おゝ! もしあなたが私のために祈るのをやめてしまうとしたら、神よ、私を助け給え! そんな日が来るとしたら、私は説教をやめなくてはならないであろう。あなたが祈りをやめようとしていると知らされたが最後、私は叫ぶであろう。「おゝ、私の神よ。きょう私に私の墓を与え給え。そして、私をちりの中に眠らせ給え」。

 そして最後にあなたに命じたいのは、教会全体のために祈ることである。私たちが生きているのは幸いな時である。満足することを決して知ることのない、ある種のガーガーわめき立てる人種は、常に時勢の悪さを叫び立てている。彼らは、「おゝ! 古き良き時代よ!」、と叫ぶ。何と、今の時代こそ古き良き時代である。時代は今ほど古くなったことはなかった。今こそ最良の時代である。実際私は、多くの古の清教徒が、いま行なわれていることを知ったとしたら、その墓の中から飛び出して来ると思う。もしも彼らが、エクセター公会堂における大きな運動について告げられたとしたら、かつて英国国教会に対して戦いを挑んだ彼らの中の多くの者たちは、手を天に掲げて叫ぶであろう。「私の神よ。あなたをほめたたえます。このような日を見られるとは!」 今の時代には、多くの障壁が倒壊しつつある。偏狭頑迷な人々は恐れている。死の者狂いで叫び立てている。なぜなら、彼らは神の民がすぐに互いを愛しすぎるようになると思っているからである。彼らは、私たちがより結びつきを深め始めるとしたら、じきに迫害という商売があがったりになると思って恐れている。それで彼らは激しい怒号をあげて、「今は良い時代ではない」、と云っているのである。しかし、神を真に愛する人々は云うであろう。自分たちは今ほど良い時代に生きていたことはない、と。そして彼らはみな希望をもって、さらに大いなる事がらを待ち望んでいる。あなたがた、キリスト教信仰を告白する人々は、いま卓越して祈りに熱心にならないとしたら、人が有することのできた最良の機会をないがしろにすることによって、自らに恥辱を招くことであろう。実際、私が思うに、偉大な人々が地上にいた頃に生きていた、あなたがたの父祖たち、大いなる力とともに説教していた人々は、――私が思うに、もし彼らが祈っていなかったとしたら、あなたがたがそうなるのと同じくらい不忠実になっていたことであろう。というのも、今は立派な船が大水の潮の上に浮かんではいるが、いま眠りこけてしまえば、あなたは港口の浅瀬を越えることができないからである。過去百年の中でも、今ほど繁栄という太陽が燦々と教会の上に降り注いでいたときはなかった。今こそあなたの時代である。この種蒔きに最上の時期にあなたの種を蒔くのを怠れば、また、それが熟しているこの良き時代に刈り取りを怠れば、より暗い時代が、また危険な時代がやって来て、神はこう仰せになるであろう。「わたしが彼らを祝福する手を差し伸べたとき、彼らが私に叫ぼうとしなかったので、わたしはわたしの手を引っ込めよう。そして、彼らがわたしを再び求めるまでは、もはや彼らを祝福するまい」、と。

 さて今、しめくくりとして、この場には、最近回心したばかりの若者がいる。彼の両親は、彼に我慢がならない。彼らは、極度に反対しており、祈るのをやめなければ、彼を家から叩き出すと脅している。若者よ! 私はあなたに1つの話をしたいと思う。かつて、あなたと同じような立場にある、ひとりの若者がいた。彼は祈り始めた。そして彼の父親はそれを知った。父親は彼に云った。「ジョン。お前はわしがキリスト教を大嫌いなのを知っているだろう。そして、わしの家の下では、何人たりとも祈ることはまかりならんのだ」。それでも、この若者は熱心に嘆願することを続けた。「よおし」、と父親はある日、癇癪玉を爆発させて云った。「お前は、神とわしのどちらかを取るがいい。天地神明にかけて誓うが、お前が祈るのをやめない限り、二度とこの家の敷居をまたぐことは許さん。明日の朝まで待ってやるから、選ぶがいい」。その夜、この若い弟子は祈りながら一晩中を過ごした。彼は朝になって立ち上がると、自分の愛する人々から捨てられるのを悲しみながら、しかし霊においては、何が起ころうと神に仕えようと決意していた。父親はいきなり彼に言葉をかけた。――「よおし。答えはどうだ?」 「父さん」、と彼は云った。「ぼくは自分の良心を踏みにじれない。ぼくの神を捨てることはできないよ」。「今すぐ出て行け」、と父親は云った。母親もそこに立っていた。父親のかたくなな精神が、彼女の精神をもかたくなにしており、ひそかに涙を流したかもしれない彼女は、今は涙を隠していた。「今すぐ出て行け」、と父親は云った。敷居から外に出たこの若者は云った。「出て行く前に、1つだけお願いがあるんだ。それさえかなえてくれたら、もう父さんたちに二度と迷惑はかけないよ」。「よろしい」、と父親は云った。「その願いは何でもかなえてやろう。だが、いいか。その後ではお前は出て行くんだぞ。それからは二度と聞く耳を持たんからな」。「それはこうなんだ」、と息子は云った。「出て行く前に、父さんと母さんが膝まずいて、ふたりのためにぼくに祈らせてくれないか」。よろしい。彼らは到底これには反対できなかった。若者はたちまち膝まずくと、祈り始めた。それは、途方もない油注ぎと力の伴った、ふたりの魂に対する愛がひしひしと感じとれるような祈りで、この上もないほどの真情と天来の熱心とによってささげられた祈りであったため、彼らは全員床に突っ伏してしまい、息子が立ち上がったときも、ふたりはそこにいた。そして父親は云った。「もう出て行くことはないよ、ジョンや。ここにいておくれ。ここにいておくれ」。それから間もなくして、彼だけではなく彼ら全員が祈り始め、彼らはキリスト教会に加わることになったのである。だから、あきらめてはならない。親切な心をもって、しかし堅くやり抜くがいい。神はあなたが、自分ひとり魂を救われるだけでなく、あなたを迫害している両親をも十字架の足元に導く手段になれるようにしてくださるかもしれない。そのようになることこそ、私たちが真剣に祈るところである。

  

 

祈り――あわれみの先駆け[了]

HOME | TOP | 目次